さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

奥田亡羊『男歌男』について

2017年04月30日 | 現代短歌
護岸ブロックにずどんと広き道は尽き無人の電話ボックス灯る 奥田亡羊

 私のイメージだと、椎名誠のようなアウトドア好きでやんちゃで、よく飲み食いし、多少マッチョな感じが漂うのが「男」を自称する人の通例なのだが、奥田氏の歌集に現れて来る人物は、そのどれにも該当しなさそうだ。妻や子供のことを衒いなく真っ直ぐに歌うのが「男歌」なのだとしても、それをあえて「男」にかぶせて「男歌男」に独り歩きさせるまでもないではないか?などと首をひねりながら読んできて、この歌に出会った。

 無骨でがらが大きい。あんまり細かいことは気にしない。護岸ブロックにずどんと広き道は尽きるのだ。夕暮れの電話ボックスは、無人なのだ。これでいい。ほかには何もない。孤独だ。妻子がいても、「男歌男」は絶対に孤独だ。歌集をみると、妻子とは三ヶ月に一度しか会えないらしい。もうひとつ引く。

    長歌 雲はあれども

煙突に 上りたるまま 降りて来ぬ 男ありけり 風船で
上りたるまま 降りて来ぬ 男ありけり 見上ぐれば 空
はあれども その空に 雲はあれども おじさんと 呼ば
れし男 みな逝きて 遙けくなりぬ 広きその空

 少しユーモラスでもの哀しい。茫洋とした空無へのあこがれだ。浪漫的な自己滅却へのあこがれだ。だから、「男歌男」は、少なからず浮世ばなれしているのだ。

黒き傘さして運河を下りゆく 娘よ、父は雨に降る雪

 この「雨に降る雪」って、何だろう。自己を主張しようとしても、すぐに周囲に溶かされてしまうような存在ということか。そうではなくて、あえて雨に自己を投企する雪、必敗の存在であることを引き受けようとする者だ、という意味だろう。

穴を掘る青空高く土を放る心を放る気持ちよくなる

無造作に書き殴りたる下書きのような時間を父として生く

 ここで「男歌男」というのは、あまり神経質にならないでこういう歌を「無造作に」作る男のことだろう、と私なりに答を出してみた。無造作に作って成功すれば、右の二首のように愛唱性のあるものになる。

男歌男が空を飛ぶわけは飴をくれたら説明しよう

きょう畳に突っ伏しているこの俺は蘇鉄かがやく切り口に過ぎぬ

 これは仕事にまつわる歌らしいのだが、現実の苦悩を作者は押し隠して直接に表現しようとしない。二首目の「蘇鉄かがやく切り口」には、するどい具象性と象徴性があるが、苦悩の表明はここどまりだ。己の苦しみを語ることに作者は寡黙である。

「あとがき」に、<「男歌」には、様々な意味があるが、つきつめれば信頼と肯定の歌なのだと思う。閉塞感の増す現代に、今なお「男歌」は可能なのか。>とある。少なくとも家族の存在する意味を作者は疑っていない。「父」であり、「子」であることの意味も信じている。子供と一緒にいられることは幸福だ。それ以外の場所では、「男歌男」はちょっと滑稽で、へんてこな存在なのだ。

植林のような仕事か映像は五十年後に意味あらばよし

器の水こぼさぬように歩みおり解雇のぞみしのち三日ほど

宇田川とかつて呼ばれし道の上に川風と会う 川よおやすみ


 


 


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