さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山崎聡子『青い舌』

2021年07月10日 | 現代短歌
 キース・ジャレットのアルバム「ジャスミン」を聴きながら、これを書きはじめる。今朝山崎さんの歌集を取り出して、ちょっと見た瞬間に、これについてはなにか書けそうな気がしたのだけれども、午前中に地域でやっている歌の会があるので、そちらに行き、そこでこの歌集の一部を紹介して、戻って来て買い物に出かけたり、食事を作ったりしていたら、もう夜の十時を過ぎている。朝のうち頭の中に浮かんでいた文章の断片も消えてしまった。でも、歌を書き写しているうちに言葉が下りて来るかもしれないので、何か書いてみよう。

  西瓜食べ水瓜を食べわたくしが前世で濡らしてしまつた床よ

 この「前世」というのは、むろん比喩だ。今度の歌集は、子を授かってその子を育てるという営みのなかで、その「前世」から離れることができたひとの蘇生の物語と言ってよいであろう。そこで「死」を言うことには、だから二重の意味がある。

  生き直すという果てのない労働を思うあなたの髪を梳くとき

 この「生き直す」というのは、子の成長とともに生き直す、ということだ。重たいことを言っているのだが、歌は詩だから、ことばのテイストは軽快で、手は動いているし、それは幸せのしるしなのだから、どんどん先を読んでいくことができる。

  舌だしてわらう子供を夕暮れに追いつかれないように隠した

 この歌は帯に引かれているのだが、岸田劉生の麗子像の絵を見るような、不思議な感じがする。平和なのだけれども、危うい、はらはらとするような時間の切迫にかろうじて耐えているといった風情だ。

  菜の花を摘めばこの世にあるほうの腕があなたを抱きたいという

 端的に言いきってしまうならば、これは一種の自罰の歌だ。その理由なんてない。と言うか、ありすぎて、その因って来たる所以を尋ねてみても詮無いことで、どうなるものでもない。もう片方の腕は、べつに死んでいるわけではない。死んだことにしておかないと、こちらの腕が生きられない。その腕を意識するでもなく、しないでもなく意識しているのは、何者かに、やはり罰せられているようなところがあるから、そういう心意を成立させた相手をうらむほかはない。起死回生の一発逆転は、こういうレトリックのなかにある。これはニーチェの言うような血だらけでつかみとったレトリックと言うべきであろう。この歌集には、こういう歌がさりげなく、何気ない身振りでばらまかれている。一歩踏み出すごとに発火する地雷原のような歌歌なのだけれども、そんなことは無邪気な読者には関係がない、と言うか、子育て中の作者が幸せなのはまちがいのないことだから、そこを木道として読んでいくぶんには、湿原に咲く花も愛らしい。

  花鋏にやどるつめたい十月のひかりに燃えろ、燃えろよと言う

 この歌で拮抗させられている当のもの、それは端的にいうならば、生と死の衝動が同時にせり上がってくる時にみえる美しさである。大滝和子の対位法を読み慣れた者には、このあたりを読み解くのは簡単なことだけれども、一作者がこういう歌にたどりとく労苦は、並大抵のものではないのだ。いくら表面的にうまい歌を作ったって、ここの根幹のところは化けられない。山崎聡子がレトリックの真偽を判別する嗅覚は鋭いにちがいない。「未来」にこの人が最近書いている時評は、だから信頼できると私は思った。

  腕に腕すりつけながらナイアガラと呼ばれるさみしい火の玉を見る

 いい音楽を聴くみたいな、こういう歌を読めることは単純にうれしい。本の装丁も前のわけのわからないものとちがって、よくなった。前のはあまりに韜晦がすぎる、という所だろうか。 

雑記  

2021年07月04日 | 大学入試改革
〇 いろいろと読んではいるのだが、私は多くのことに関心があるのと、仕事のための情報入力が必要なのと、単純に休息や気晴らしの時間もとりたいということがあって、そうこうするうちに、また間があいてしまった。その間にも、みなさんの作品集等をいただいたものがあって、そのコメントを書こうと思うのだが、数ヶ月前のものは埋もれて行方不明になっているし、三日前のものから書きだすというのも何か先に届いたものに対してわるい気もするし、ということで気おくれしているうちに、どんどん書かない時間が増えていって、結局何も書かないことになっているという、よくない循環に陥ってしまったのだった。

〇 深沢一郎の『ちょっと一服、冥途の道草。』という昭和五十八年刊の本があって、これをめくっていると、私のこういう文章自体がどうでもいいようなものだということに気づかされるのだけれども、残念なことに私は深沢一郎ではないし、六十歳まで生きて好きなこともやったし、うまいものも食ったから、そろそろ死んでもいいなどと言うことは到底できない。しかし、そんなことを言いながら心臓病を患って十年生きのびて七十歳になって書いた文章がこの本には載っていて、それを読むとほのぼのとした気持にさせられる。それは、日本の庶民がもともと持っている自他を突き放した、けんもほろろの明るい虚無感のようなものに触れる心地よさである。

〇 司馬遼太郎が須田剋太の没後の画集に寄せた一文があって、昭和十年代の後半に奈良に移住した画家が、大和三山を見て、あれは造った山ですか、と地元の人に訊ねた、という大らかなエピソードが紹介されている。文展の特選を二度もとりながら、戦後はその経歴を擲って抽象画に邁進するという画業の進め方も型破りである。それが「街道を行く」の挿絵で独特の具象的なモノの姿を描いて好評を博すようになるという運の廻り方が、なかなか愉快である。そういうことがなかったら、私はこの画家のことを知らなかっただろう。

〇 最近の歌誌「未来」を見ていると、伊吹純さんの歌境の深まりが切実である。老いの日々に向き合う姿が伝統的な「アララギ」の手法でとらえられているのだが、ひとつひとつの歌の言葉に、何かはっとさせられるものがあるのである。しずかな内観の歌である。

花の名を人の名をまた忘れたりこころの園にあわくたちくる  

窓外の景はいつもと変らねど水の澄みゆくごとき夕暮れ
                       2021年7月号

〇 伊吹さんと同じ名古屋方面の歌人と言えば、「未来」の水上千沙さんの夫の水上令夫の歌集が実におもしろかった記憶がある。お二人ともすでに故人だが、こんなにおもしろい歌を作る人なのに、短歌ジャーナリズムではとりあげられていないなあ、と当時思ったことだった。

〇 ついでに思い出したので書いておくと、最近「地中海」の椎名恒治さんが亡くなったが、この人の片山貞美の歌について書いた文章がすばらしい。以前「地中海」のホームページで読んで感心した覚えがある。前代の漢文の教養を持った歌人たちの持っている独特の言葉の感触のようなものは、水上令夫とか椎名恒治のような人々が立ち去ったあとは、味読する人もなくなって、消えてしまうものなのかもしれない。

〇 改訂された高校国語の一年生必修「現代の国語」の各社見本が出そろったが、多くは評論文の分野に傾斜している。そうして「言語文化」週二時間の中に古典「古文・漢文」と近代小説が押し込められた。どうしても「古典」を一定程度やらなくては入試その他に差し支えるから、その犠牲になるのは近代小説である。漢文も扱いが微妙になるだろう。短歌・俳句などを取り扱う時間は、一・二時間しかとれない。結果的に学校間格差が拡大する。文化的な格差のようなものの拡大も予想される。
これは、事前に声明を出した文芸家協会をはじめとする二十の学会、文芸関連団体の予想通りの展開となっている。こうして高校生が「文学」を学ぶ機会は大幅に失われた。今後お仕着せの「現代の国語」の授業を強制される現場の先生たちの苦労がしのばれる。と言うより、心の栄養となるような「文学」に触れる機会を奪われる若者たちの精神的な損失はどうしてくれるのだ、と私は思う。

二年生で「論理国語」を選択した場合、近代小説や文芸・芸術関連の随筆をほとんど読まないで高校を卒業する生徒たちが出て来る。二年生から理系と文系で選択を分ける学校が多いので、「理系」選択者ほどそうなる可能性が高いが、これは「理系」選択者の文学的教養の低下を招きかねない。一部の私立高校のエリートを除いて、「荘子」を読んで知的な糧とした湯川秀樹のような精神は出て来にくくなるわけである。

新科目「現代の国語」は、本来「総合学習」で取り扱うような内容のものを「国語」に押し付けている。統計やグラフの読み取りは、本来「数学」で教えるべき内容である。また「現代社会」や「情報」でも取り扱った方がいい要素がある。この新科目を「国語」科の教員だけに「丸投げ」しているのは、いかにも具合がわるい。
ここのところをきちんと整理していかないと、この編成の教科書で学んだ世代が「羅生門」も「山月記」も「こころ」も知らない、文化的教養に一部欠損のあるグループとして、先の「ゆとり世代」の二の舞になってしまう可能性はある。