さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 279-287

2017年07月29日 | 桂園一枝講義口訳
279
何となく袖ぞつゆけきいつのまにことしも秋の夕べなるらん
五一二 なにとなく袖ぞ露けきいつのまにことしも秋のゆふべなるらむ 

□「初秋夕露」と云ふ題詠なりし。
何となく、とはさびしき工合より云ふなり。「古今」に「夜や更けぬらん袖の露けき」とあり。さて「けき」と云ふ詞は「めく」と云ふ程なり。ぬれたと云ふことではなきなり。ぬれるやうな、と云ふ時に「けき」とつかうなり。
いたからぬに「いたし」と云ふ、又は「死ぬるやうにあつた」など云ひ、又「足がすりこぎになりたる」など云ふ形容なり。「露けき」と云ふも同様なり。真淵は「露けき」などをとがめて云ひたり。此れは見そこなひなり。程々に云ふがよきのみ。云ふは却てみそこなひなり。平日ある上には「血の涙」などのことをいうても、ことやうには思はぬなり。歌になるとうそを云ふやうに思ふはあやまりなり。
夢をねがふ人はゆめを忘れて始めて夢あり。道を願ふ人は道を忘れて始めて道あり。夢になりとも見たき見たきと思ふ心の人は、ゆめを見てゆめとは思はぬなり。すべて千歳以来のまちがひを解きたるものは「古今」の序なり。よくよく見るべし。

○「初秋夕露」と言う題詠であった。
「何となく」、とはさびしい具合から言うのである。「古今集」に「夜や更けぬらん袖の露けき」とある。さて「けき」という詞は、「めく」と言う程度である。ぬれたといふことではないのである。ぬれるような、という時に「けき」とつかうのである。
痛くもないのに「痛い」という、又は「死にそうだった」などと言い、また「足がすりこぎになった」などという形容である。「露けき」というのも同様である。真淵は「露けき」などをとがめて言った。これは見そこないである。程々にいうのが良い(という)だけ(のことである)。(それをいちいち)言うのは、かえって見損ないである。平生ある上では「血の涙」などと言っても、別の事とは思わないのである。歌になるとうそを言うように思うのはあやまりである。
夢を願う人はゆめを忘れて始めて夢がある。道を願う人は道を忘れて始めて道がある。夢であろうとも見たい見たいと思う心の人は、ゆめを見てゆめとは思わないのである。すべて千年来のまちがいを解いたものは「古今」の序である。よくよく見るべきである。

※278も279も景樹は和歌の時代の人なので、当時はこういう歌が大事だったのである。しかし、この二首は、景樹を熟読し、中学生の頃に熱心に模倣した長塚節に、無意識のうちに影響を与えているだろう。ただちに連想するのは有名なあの秋の歌である。

280
心なき人はこころやなからまし秋の夕べのなからましかば
五一三 こころなき人は心やなからましあきの夕のなからましかば 享和三年 三句目 なかルラム

□同言を連ねて卅一文字を作るなり。「心なき人」とは初雪に小便するやうな人なり。「秋の夕べ」などに心のとまらぬ人なり。
「心なき」は情なきなり。「心ある」とは風雅なる人のことになるなり。「中将」に、心ある人にて所々にて歌よみなどして、とあり。
秋の夕べになれば老若男女みな物あはれなり。「幼子のひとり飯食ふあきのくれ」といふ句もあり。秋の夕になれば心なき人もこゝろが出来てくるとなり。
秋の夕べがなかつたならば、心なき人は、ないづくめになるべしとなり。

○同言を連ねて三十一文字を作っている。「心なき人」とは、初雪に小便をするような人である。秋の夕べなどに心のとまらない人である。
「心なき」は情がないのである。「心ある」とは、風雅な人のことになるのである。「中将」に「心ある人にて所々にて歌よみなどして」とある。
秋の夕べになれば老若男女みな物あわれ(に感ずるもの)である。「幼子のひとり飯食ふあきのくれ」という句もある。秋の夕になると心なき人もこころが出来てくるというのである。
秋の夕べがなかったならば、心なき人は、ないないづくめになるであろうというのである。

※「中将」は「在五中将物語」の「伊勢物語」にはない。後期物語にありそうだが、わからない。あればどなたかご教示願いたい。

281
秋風になびくを見ればはなすゝき誰が袖よりもなつかしきかな
五一四 秋かぜにまねくを見ればはなすゝきたが袖よりもなつかしき哉 文化三年

□「尾花の袖」、ならの末に袖にみたてたり。「秋の野の草のたもとが」云々、秋の野の草を一人の人としたてゝ其人のたもとが「花すゝき穂に出る」とは、あらはれたることを云ふなり。「仲哀記」に「花薄穂に出づるわれや」とあり。まめなる所には花薄穂に出すべきこともあらず、とあり。
「穂に出づる」とは即ちあらはれて出づることなり。それよりして草の花のあらはるゝを穂と名づけたるが、もとなり。今は「ほに出づる」といへば草木がもとになりたるやうなり。言語の転変なり。
秋草のたもととなるは花すゝきじやそうな、あらはれて招く袖のやうに見ゆるといふうたなり。此れよりして草の袂、花薄の袖などしきりに言ひ出せり。
今秋風のもの哀れなるになびきて招く故に、いよいよあはれになつかしき哉、となり。なつかしきことの限りなり。

○「尾花の袖」は、奈良の末に袖に見立てた。「秋の野の草のたもとが」云々、秋の野の草を一人の人と仕立てて、その人のたもとが「花すゝき穂に出る」と(いうの)は、あらわれたことをいうのである。「仲哀記」に「花薄穂に出づるわれや」とある。「まめなる所(誠実な人の通うところ)」には、花薄を穂に出すようなこともない、とある。
「穂に出づる」とは、すなわち現れて出ることである。そこから草の花があらわれるさまを「穂」と名づけたのが元である。今は「ほに出づる」と言えば草木が元になったようである。言語の(意味の)転変である。
秋草の袂となるのは花すすきじゃそうな、あらわれて招く袖のように見える、という歌である。ここから「草の袂」、「花薄の袖」などと、しきりに言い出すようになった。
今秋風のもの哀れであるのになびいて招く故に、いよいよあわれになつかしき哉、というのである。なつかしきことの限りである。

※二句目、これは改稿したのだろう。
※ 「花すすきほに出ることもなく」は「古今集」仮名序にもある言い方。「秋の野の草のたもとか花すすきほにいでてまねく袖と見ゆらむ」ありはらのむねやな「古今和歌集」二四三。「古今和歌六帖」三七〇一など。
※「仲哀記」とあるが、記紀の該当部分にはないので言い間違いか。天保八年十一月、七十歳ではじめた講義だから、調子のいい時も悪い時もある。

282
いはねどもつゆわすられず東雲のまがきに咲きしあさがほの花
五一五 いはねども露わすられずしのゝめの籬(まがき)に咲(さき)し朝がほのはな 文政七年

□恋をこめて言ふなり。しのゝめに帰る時、朝貌が麗しき事であつたとなり。いつそれを見たぞやと言はれては、どうも言はれぬなり。それが「いはねども」なり。

○恋(の題の気持)をこめて言うのである。しののめに帰る時、朝貌が麗しき事であったというのである。いつそれを見たのかと言われては、どうも(はっきりと)言うことができないのである。それが「いはねども(言わないけれども)」である。

283
出づる日の影にたゝよふ浮ぐもをいのちとたのむ朝がほの花
五一六 いづる日の影にたゞよふうき雲を命とたのむあさがほの花 文政六年

□あまりよきともなきに入れたり。
「出づる日の影にたゝよふ浮雲」は、山の端の雲なり。其浮雲は、はかなき雲なり。それをさへ命とたのむなり。

○あまり良い歌でもないのに集に入れた。
「出づる日の影にただよふ浮雲」は、山の端の雲である。その浮雲は、はかなき雲である。それをさえ命とたのむのだ。

284
夕日さす浅茅が原にみだれけりうすくれなゐのあきのかげろふ
五一七 ゆふ日さすあさぢが原に乱(みだ)れけりうすくれなゐの秋のかげろふ

□「淺茅が原」は野辺なり。高木などのなき浅茅まじりにしてあさぢ多き野原なり。あさぢは、せの短きものなり。
飛去飛来でとんで居るを「みだれけり」と云ふなり。
かげろふ、あかゑ(ん)ばなり。今はやんまと訛れり。かげろふは、八百年程になれり。七百年前、「源氏」かげろふの巻は「蜻蛉」なり。もとは、かげろふは陽炎がはじめなり。うらうらと動くものなり。それよりして糸ゆふにも言ふなり。又虫にも云ふなり。

○「淺茅が原」は野辺である。高木などのない浅茅まじりで、「あさぢ」が多い野原である。「あさぢ」は、背の短いものである。
「飛去飛来」で飛んでいるのを「みだれけり」と言うのである。
「かげろふ」は、「あかゑ(ん)ば」のことだ。今は「やんま」と訛(なま)っている。「かげろふ」(という歌語)は、八百年程になった。七百年前、「源氏」の「かげろふの巻」は、「蜻蛉」である。もとは、「かげろふ」は「陽炎」がはじめである。うらうらと動くもの(のこと)である。そこから「糸ゆふ」にも言ふのである。又虫にも言うのだ。

※繊細溢美の「新古今」調で、写実の味も感じられるこういう叙景歌は、景樹の得意とするところ。要するにどんな歌風もこなせたのである。景樹が「古今」崇拝だから「古今」調だなどというのは、子規の言葉を鵜呑みにした読まず嫌いの弁である。
概して『桂園一枝』では、『桂園遺稿』などで初出が確かめられない、制作年次のはつきりしない歌に秀歌が多い。ということは、文政十一年に『桂園一枝』を編むにあたって別の手控えのなかから付け加えたり、あらたに作りおろしたりした歌に秀歌があるということになる。

285
しきたへの夜床の下のきりぎりすわがさゝめごと人にかたるな
五一八 敷妙(しきたへ)のよどこのしたのきりぎりすわがさゝめ言(ごと)人にかたるな 文化四年

□夫婦かたらふ床下に鳴くきりぎりすなり。
○夫婦が語らう床下に鳴くきりぎりすである。

286
とにかくにつゆけき秋のさがならば野を分けわけてぬるるまされり
五一九 とにかくに露けき秋のさがならば野をわけわけてぬるゝまされり

□秋のならひならばと云ふこと也。その中にもわるならひと云ふことに思ふべし。さがより嵯峨野にかけるなり。
○秋の習いならばということである。その中にも「わる習い」(あまりよろしくない趣味)ということに思うとよい。「さが」から「嵯峨野」に掛けているのである。

「以下欠席」
※五三五までとぶので、十五首ほど欠落した。中には、次のような歌がある。

五二〇 さと人はいはほきり落(おと)す白河のおくに聞ゆるさをしかの声 北の山ふみに見ゆ

五二一 おぼつかな塵ばかりなる浮雲にかくれ果(はて)たる三か月の影 文化十三年

五二五 照(てる)月は高くはなれてあらしのみをりをり松にさはる夜半かな 享和二年 一、二句目 月カゲハハルカニナリて

五二七 帰るべく夜は更(ふけ)たれど鴨河(かもがは)のせの音(と)は清(きよ)し月はさやけし 享和三年

五三〇 月てればつらつら椿(つばき)その葉さへみなしらたまと見ゆるよはかな 

287
こともなき野辺をいでゝもみつる哉鵙がなく音のあはたゞしさに
五三五 こともなき野辺をいでゝもみつるかな鵙(もず)が鳴音(なくね)のあわたゞしさに 享和二年

□津の国ゐな野の中に、円通庵に居たる時のうたなり。もずの音は、きらきらとしめころすが如きなり。
○津の国のゐな野の中に、円通庵に居た時の歌である。「もずの音」は、きらきらとしめころすような感じのものだ。

※佳吟。さながら近代短歌。享和二年は、例の「筆のさが」一件で深く傷ついていた頃の歌だから、伝記的にも合うところがあって、尖った神経にふかく突き刺さって来るもずの声に対する感覚には、実感がこもっている。

奈賀美和子の歌のことを

2017年07月28日 | 現代短歌
奈賀美和子の歌のことを。『風を聴く』より。

文楽人形はその手と脚をなげうちて千切れ飛ぶ心のさまを演ずる
   
※「文楽人形」に「にんぎやう」と振り仮名。

これに続くのが、次の歌だ。

口衝きて出でたる歌の一行の文語の息をこゑに味はふ

文楽にはまっている人の話を聞いていると、うらやましい。私にはいろいろな意味でその余裕がない。いつだったか故人となった人間国宝の太夫が演じている姿をNHKでみた。ほとほと打ち込んで見入って、聴き入ってしまったのだが、魂を鷲掴みにされて揺さぶられるというのは、あのことだろう。そう思って見ると、掲出歌の「こゑに味はふ」というのはまだ没入感が足りないようにも思うが、しかし、短歌の場合はここで止めておかないと大げさになってしまうということがある。

次の歌は、これに続く別の章に置かれているから、直接文楽とかかわりがあるようには読まれたくないのだろう。

滲み出づる声のことばの抑揚にわれはわれなる仮面をはづす

これも奥深い歌であって、「声のことばの抑揚に」触れることによって、「われ」は「われ」の「仮面」を外すのだという。人が歌曲をうたっている時が、まさにこれに当たる。歌謡曲をはじめとするもろもろの大衆芸能が原初から体得していた事は、うたった瞬間に自らを失うという機制であり、それは神祭りの「よごと」に始まって、厨仕事の合間に何やら知らぬ歌を鼻歌で歌っていた私自身の母の記憶にもつながるものだが、要するにそのような「心やり」の姿をこの歌はうたっているのだ。これも文楽の歌という気がするが、それだけに当てはめないで作者としては読んでほしいのかもしれない。

そもそも人間の心の使い方、頭の使い方というものがそのようなものなので、これはヘーゲルが言ったことだが、そういう心の態勢の基盤は、他者との共感や、共鳴を通じて体得されるものなのであり、そういう意味では人間の言語というものは、徹頭徹尾弁証法的なものなのだが、その哲理を短歌でふわりと表現できてしまうということが、私にはとってもおもしろい。

 ※タイトルの文字が、数日間誤変換のままでした。失礼しました。

『桂園一枝講義』口訳 273-278

2017年07月23日 | 桂園一枝講義口訳
273
大橋の上わたりゆくかち人のたゞよふなつになりにけるかな
四九六 大橋の上わたり行(ゆく)かち人のたゞよふ夏になりにけるかな 文政六年 一、二句目 鴨河の橋ノ上行ク

□わかりたり。
○(よく)解った(歌)。

※この言い方は、講義の聴講者に歌の内容を言わせて、その通り、と応じた部分を記したものだから「わかりたり」となっているのだろう。掲出歌は、京極為兼の歌などから学んだあとのある佳吟。為兼の歌との比較は『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。

274
水鳥のかもの川原の大すずみこよひよりとやつきもでるらん
四九七 水鳥の鴨の河原の大すゞみこよひよりとや月もでるらむ 文化十二年

□丁度七日頃より月もめだつなり。
○ちょうど七日頃から月も目立つのである。

欠席 

※十首分欠落している。このなかにいくつか秀歌があるだけに残念。引いてみる。

四九八 夏のよの月のかげなる桐の葉を落たるのかなとおもひけるかな 文化二年

五〇〇 根をたえてさゞれの上に咲にけり雨にながれし河原なでしこ 文化十年

五〇二 池水の蓮(はちす)のまき葉けさみれば花とゝもにも開(ひら)けつるかな 享和三年

五〇四 なびくだに涼しきものを夏河の玉藻を見れば花咲きにけり 文化六年 四句目 スガモを見れば

五〇六 布引の瀧のしら浪峯こえて生田(いくた)に落るゆふだちの雨 文政六年

五〇七 近わたりゆふ立しけむこの夕雲吹く風のたゞならぬかな 文政六年

※これらの歌を江戸時代に作っていたなんて、実におどろきではないかと思うのだが、それでも子規の言葉を信じて景樹は駄目だと言い続ける人がいるのだろうか。

275
山風にふきたてらるるならの葉のかへれば晴るゝ夕立のあめ
五〇八 山風に吹(ふき)たてらるゝならの葉のかへればはるゝゆふだちの雨

□「ならの葉」、うら白きものにて尤も風の見ゆるものなり。「夕立早過」を詠みたりし題詠なりしなり。

○「ならの葉」は、葉裏が白いもので、もっとも風(のすがた)が見えるものである。「夕立早過」を詠んだ題詠だった。

276
わが宿にせき入れておとすやり水のながれにまくらすべき頃かな
五〇九 わが宿にせき入(いれ)ておとすやり水のながれにまくらすべき比かな 文政六年

□いせの歌に「音羽川せき入れておとすやり水に人の心の見えもするかな」。「やり水」は引取水なり。後はむかふへやれども、畢竟庭に引こむ水なり。流れに枕すべき頃、あつさのあまり流れのきはにねたき頃といふなり。此れもと枕流の故事をかるなり。併し趣意を取るではなきなり。詞をとりしなり。

○伊勢の歌に、「音羽川せき入れておとすやり水に人の心の見えもするかな」(という歌がある)。「やり水」は引取水である。後は向うへやるけれども、畢竟庭に引こむ水である。「流れに枕すべき頃」は、暑さのあまり流れの際に寝たいような頃だというのである。これはもともと「枕流」の故事を借りているのである。しかし趣意を取るのではないのである。詞を取ったのである。

※伊勢、『拾遺和歌集』所収445 

※この頃は暑いので、この歌の涼味、日本の庭の風情、何とも言えずいいですねえ。

277
朝づく日いまだにほはぬ山のはの松の葉わたる秋のはつかぜ
五一〇 朝附日(あさづくひ)いまだ匂はぬ山端(やまのは)のまつの葉わたる秋のはつかぜ 文政七年

□「早秋朝山」と云ふ題なり。秋の早きあさき時は、朝ならでは秋の見えぬものなり。日が出づると夏めくなり。それを詠むなり。

○「早秋朝山」と言う題である。秋の早く浅い時節は、朝でなくては秋が見えないものである。日が出ると夏めくのだ。それを詠んだのだ。

※これも佳吟。

278
あらはれて世にたてる名も知らねばや猶忍びけるあきのはつ風
五一一 あらはれて世にたてる名もしらねばや猶(なほ)忍(しの)びける秋のはつかぜ
 文政七年

□今日から秋なりと云ふことは、しかと人が知りあらはれたるなり。夏の中より暑き故に秋はまたるゝなり。それ故に水辺にくゝり、松風にまじりする秋などとしたふなり。それが立秋になれば誰しも知りてあるのに、秋風が吹かぬなり。わが秋と云ふ世中になりたるを知らぬさうな(となり)。風が秋にならぬなり。残暑をよみこなしたるうたなり。

○今日から秋だということは、はっきりと人が知り、現れているのである。夏のうちから暑いので秋は待たれていたのである。それだから「水辺にくぐり」、「松風にまじり」もする秋などと言って慕うのである。それが立秋になれば誰もが知っているのに、秋風が吹かないのだ。わが秋という世の中になったのを(当の秋は)知らないそうな。風が秋にならないのである。残暑を詠みこなした歌である。

藤元靖子『はらはら零る』

2017年07月17日 | 現代短歌


作者が着物のデザインと制作の仕事をしている京都在住の人だということで、何となくひとつのイメージができあがるのは、やむを得ないことだけれども、日常のあわいに美しいものを求めようとする心の傾きを、言葉に写(移、映)そうとして歌を試みる時、自ずから視線が固着する対象をとり上げることは、短歌の生理にかなっているので、自然詠も和服の制作・染色家としての感性を磨き上げるための一助となって、共通感覚的な拡がりのなかに溶け込んでゆく。そこがいいと思う。

 「秋冷の水」一連八首をそのまま引く。

秋冷の水を選びてつんつんと秋蜻蛉とぶ夕かげの中

細石踏みてし渡る瀬をはやみ裾濡らしてぞ しばしとどまる

川中にたゆたい立てば瀬をはやみわれたちまちにうろくずとなる

めぐりあいて見し十三夜 ともがらの多くを隔てて過ぎし二年

寝ね際のわれに降りくる声あれば胸にたたみて朝へ渡らん

われもこう尾花りんどう野紺菊 花野に眠る夢見て寝ねん

目つむれば美しき花野のひろがりて雲を渡せる風も吹くなり

覚めていよ目覚めてあれと降る光あらねど眠り際のおぼろは


※二首目の「細石」は「さざれいし」と読む。四首目の「二年」は「ふたとせ」。五首目の「寝ね際」は「い(ね)ぎわ」。

 これは要するに現代の和歌なのだけれども、こんな人が近藤芳美の選を受けていたというのも戦後という時代である。本人は「あとがき」の中で、

「一九七四年の未来合同歌集『翔』のノートに「連帯をむしろ拒み…」と書き記した私は、道浦母都子さん、森直子さんという近藤芳美の愛弟子に混じりながら、社会に目を啓いた歌をうたうことはなく、吐く息を自ら掬うように狭い身辺をうたうことしか出来なかった。一九七〇年も一九九五年も二〇一一年も歌にのこすことはなかった。」

と書く。社会的な事柄にコミットし続けることをもとめた戦後の「未来」の中では傍流となる覚悟のなかで、こういう歌を作り続けてきたのだろう。自分の感性を自分でまもるということである。

 たびら雪一片一片数えつつ ひすがら在りて少し明るむ

 雪踏みて濯ぐべきものありやなし小雀のあとを従いてゆくのみ

 ああ雨と傘をさすとき明るめば守られて在るわたしと思う

 受身であるということを、ことさら女性性と結び付けて読むつもりはない。「ひすがら雪を」(むろん手作業をしながらだろうが)見つめているうちに直って来る心とか、「小雀のあとを従いてゆく」意志のかたちとか、笠の下の明るさに「守られて在る」と感じる感覚とか、どれもその一瞬に流れている時間の豊かさを感じさせてくれる作品であり、こういう言葉を虐使しない行き方が、依然としてまだ日本の詩の中にあり続けていることに感動する。

地域活性化のために

2017年07月16日 | 地域活性化のために
平井茂彦『雨森芳洲』2004年刊
 巻末に「芳洲詠草」を収める。対馬藩の通訳として韓国語の先進的な学習書などがある芳洲は、和歌を晩学で学び、古今集を千回読んで和歌の調べと詞をものにした。対馬に行ったことはないが、橋川文三の文章を読んでから、一度行ってみたいと思うようになった。

思いついたので、地域で顕彰してほしい人の本を何冊かあげてみよう。

佐藤鬼房『蕗の薹』昭和五十六年刊 ☆釜石
 詩の守備範囲が広い。狭量な詩歌人には薬。文章には、一種異様なまでの前衛的な詩精神が感じられる。この人、釜石は塩釜の人だから、地域で顕彰して大事にしたらいいと思う。

『玉城徹全歌集』2017年刊 ☆沼津
 これは買わなくちゃ、と思って買ったのだけれども、読むひまがない。でも高価で買えなかった歌集が入っているのがうれしい。

うつせみは常なきものと知れれども汲みてわが飲むは不二の涌き水 玉城徹

 この歌は、三島市の柿田川公園に石碑を作るとしたらちょうどいいかもしれない。沼津市は、玉城徹を顕彰する気はないのだろうか。

新村出『朝霞随筆』昭和十八年刊 
 竹柏会関係の短文多く、貴重。若い人は茂吉の研究はもういい。こういう本をしっかり掘り下げるべきだ。

話題は変わって、新村出賞の本を検索して私の興味のある本を抄出してみた。

山口佳紀:『古代日本語文法の成立の研究』
秋永一枝:『古今和歌集声点本の研究』
添田建治郎:『日本語アクセント史の諸問題』
沼本克明:『日本漢字音の歴史的研究: 体系と表記をめぐって』
山口康子:『今昔物語集の文章研究: 書きとめられた「ものがたり」』
加藤重広:『日本語修飾構造の語用論的研究』
由本陽子:『複合動詞・派生動詞の意味と統語』
金水敏:『日本語存在表現の歴史』
佐々木勇:『平安鎌倉時代における日本漢音の研究』
上野和昭:『平曲譜本による近世京都アクセントの史的研究』
工藤真由美:『現代日本語ムード・テンス・アスペクト論』

このへんは、ざっとでいいから、めくってみたいと思ったことである。日文系の学部のある大学で、こういう本が図書館にほとんど置いていなかったら、やばいかも。







三田村正彦『無韻を生きる』

2017年07月16日 | 現代短歌
 サラリーマンの日々の自己激励の歌、何か書いてみようかと思いながら日を経てしまった。

 夏の日のモータープール沈黙が似合ふあなたの背景である  三田村正彦

この歌の「あなた」は自分自身でもいいし、一緒に出掛けようとしている営業マンの職場の同僚、または配偶者。いずれにもとれ、いずれの場合でもハードボイルドなドラマが感じられる。そこがおもしろい。

自らの力に暮れてゆく空よ肉屋に残るコロッケひとつ

パソコンと指が言ふには「仕事には君は不要だ我々がする」

二首目、作者の自意識まで読み取るべきなのだが、この歌は独り歩きするかもしれないと思って引いてみた。昨今のAI技術の進展事情、楽観ばかりもしていられない。その昔エルンスト・トラーがとりあげた二十世紀初頭のラッダイトの機械破壊運動の現代版は、ハリウッド映画みたいな展開になるかもしれないが。

横たはる黒き鞄に中指を入れて吊り上ぐ 朝の目覚めに

マスクからきッとはみ出す眼と眉毛それが僕だとまづは言ひ切る

仕事の歌は、このほかに何がある、という説得力を持つ。日常、無韻。狭く限られた世界のなかで必死で生きている。生活者というのは、そういうものだ。詩人、歌人とか言ったって、仕方がない。誰が認めてくれるわけでもない。

虫の音のかすかな雨の音に消ゆ 無言に生きる 無韻を生きる

こういう覚悟というものは、誰しもあるはずだ。結局は、ここなんだ、と私も思う。この人は会社では人事にかかわるポストにいるらしい。そうすると、やっぱり「無韻」というのは願望にすぎないのだ。諦念にも似た気分が漂う仕事の歌が次々と作られるゆえんである。

否はまた人事考課に響くだらう 去年の案が良いとは言えず

 ※「否」に「いな」と振り仮名。

この歌は自分の事。評価し、評価される。きびしい世界だ。


残業は一人遊びかパソコンの脱力感が冴えてせまり来

自動販売機はものを言はないロボットと言へず 深夜のつり銭の音

※「自動販売機」に「じはんき」と振り仮名。

機械を相手にしている歌を二首並べてみた。こういう歌を見ていると、作者に気持ちがすっと寄っていくのを感じる。短歌が芸術か芸能か、そんな事はどうでもいいが、短歌が一生活者を生かしむるに足るものだということは、依然として真実である。これが三冊目の歌集だという。

ワイパーに潰れた雨が水となる大衆といふものになりたる

テレビから多数派の声ただ聞こゆ聞く側も又多数派である

ワイパーにつぶされる水滴のような存在として、私もあなたもあるということだ。自分だって「大衆」の一人なのだ。そういう自己認識の向こうに、ビル群や、青空や、雑木林が見える。そういう風景を含めて詠んで行こうとする意志を感じた。つまりは、それが短歌にかかわるということなのだ。












広葉樹の植林と橋・堤防の作り直し

2017年07月15日 | 地域活性化のために
今度の九州の水害から考えたことを書く。これは何日か前に書いたものの書き直しである。

 温暖化の進行のなかで今後も豪雨が予想されるため、堤防や橋の作り方を根本的に変える必要のあることがわかった。また、山林の広葉樹林化、または混合樹林としての植林・利用法の研究が必要なことがよくわかった。

広葉樹林の保水性はばかにならない。今度の水害は、戦後の政府主導の植林事業の失敗と位置付けるべきだろう。今後十年以内に、広葉樹林への転換を大急ぎで進める必要がある。ダムなど作っている暇はない。予算や時間がなけれは、森の博士の提唱したポット式植林がいい。とにかく行政が支援して、荒れた植林地と竹林を伐採して、早急に混合林の育成を急がないといけない。これには企業メセナやボランティアもかかわるべきた。

それから、日本全国の河川で、堤防の改修と、橋の高さの変更をすすめていくといいだろう。発想の転換として、歩行者用と自動車用の橋は分離したりして、あらゆる技術的な可能性を追求するべきだ。上流の森の改善がおわるまでは、流木のひっかかりそうな橋は、撤去する。または、あえて流されるような形のものに架け替える必要がある。部分的に近代以前の日本に戻す。

堤防は自然堤防化をすすめる。これにもうひとつ防災のためのアイデアの付加がほしい。とんでもない天災・地災の時代がやってきていることに対して、国家的な危機感を持つ必要がある。

また、山くずれの防止のためには、土木や、営林や、地下水脈の研究者が共同で早急にシンポジウムなど話し合いの場を企画する必要がある。

新聞で農業用水路が発電に使えるという記事を読んだ。山地では、かつて湿地の水抜きのために使った技術を活用することはできないか。これは低コストでできるし、うまくいけば発電とも組み合わせることができる。地中に土管を埋めたり、筧のパイプを何本も地上に浮かせて設置するだけなので比較的楽だ。筧は水がない時にはスプリンクラーとして使って、下に何かを栽培してもいいし、一石二鳥だと思うがどうだろうか。これは大規模な雨樋計画のようなものである。水は、場所によっては下流の水害の起きないところまでパイプで直接運んでしまうようにする。

 そこでは、川ひとつひとつに対して、場所によって、増水した時の水の吸い上げ口を設け、別途に海に排水する設備のようなものも欲しい。大型モーターとホースでできる簡略なものなら何とかなるし、モーターは新たな需要をもたらして、つぶれそうな電気メーカーも助かるだろう。こういうグリーン・ニューディール政策のようなかたちで、公共事業を大手ゼネコン以外の零細な会社に収入が入るかたちで活用したい。

とりあえず水抜きと排水の仕組みを作って、まずは自分の家の裏山が崩れないようにする自衛対策の実施をすることは、山間部の人たちにとっては死活問題であろう。そういう啓蒙活動なり、技術指導というものを、これまで政府や自治体、土木関係の研究者たちはやって来たのか?

※素人意見だが、多少は参考になるかと思って、いったん消してあった文章をもう一度公開する。一部おかしなところを削除し、またアイデアを加筆した。     (2018.1.20)

※恥ずかしくなって消したが、2018年の四月二十日にまたアップする。



















『桂園一枝講義』口訳 261-272

2017年07月09日 | 桂園一枝講義口訳
261
けふみれば花のにほひもなかりけり若葉にかゝるみねの白雲
四八三 けふ見れば花の匂ひもなかりけりわか葉にかゝる峯のしら雲

□よくわかりたり。
○よくわかる歌だ。

※佳吟。


262
いつよりか夏のさかひに入間川さしくるしほのほ(誤植)とのすゞしさ
四八五 いつよりか夏の境(さかひ)に入間川さし来るしほのおとのすゞしさ 文化十四年 初句 今朝ヨリヤ

□江戸のすみだ川の水上でよみたるなり。
○江戸のすみだ川の水上でよんだ。

※これも相当の佳吟。

263
わか葉のみしげりそひけりうぐひすのなきつる竹はいづれなるらん
四八六 若葉のみ茂りそひけりうぐひすの鳴(なき)つる竹はいづれ成覧(なるらん)

□「のみ」、きびしくいふ詞なり。七分通りは若竹のやうにみゆるなり。
黒髪に白髪のまじりたる如く多くみゆるなり。
鶯の鳴たは、若葉の出でぬさきであつたなり。「鳴つる竹は」といふ所おもしろきなり。不調法なるやうにいふ所おもしろきなり。

○「のみ」は、きびしくいう詞だ。七分通りは若竹のように見えるのである。
黒髪に白髪のまじったように多く見えるのである。
鶯が鳴いたのは、若葉が出ない先であったのだ。「鳴きつる竹は」という所がおもしろいのである。不調法なように言う所に興趣があるのだ。

264 
夜半の風むぎの穂だちにおとづれてほたるとぶべく野はなりにけり
四八七 夜半(よは)の風麦の穂だちに音信(おとづれ)て蛍とぶべく野はなりにけり 享和三年

□ゐなに逗留して猪名川のほとりにてよみたるなり。
実はどこでもこの景気あるなり。「ほだち」、穂のりんと立(※つ)て居る貌なり。もう蛍が出さうなものじやとなり。

○ゐなに逗留して猪名川のほとりで詠んだのである。
実はどこでもこの景色があるのである。「ほだち」は、穂がりんと立って居る様子である。もう蛍が出そうなものじゃ、というのである。

265
わがまどの内をばてらすかひなしと光けちてもゆくほたるかな
四八八 わがまどのうちをば照すかひなしと光けちてもゆく蛍かな 文化十四年 二句目 アタリハ照す

□車胤のやうな風流もなき此の方どもの窓には、となり。
○車胤のような風流もない我々のような者の窓には(蛍も「光けちてゆく」)というのである。

※ 車胤。東晋末期の政治家。「蛍雪の功」の故事で有名。

266 
夜をてらす光しなくはなかなかにほたるも籠にはこもらざらまし
四八九 夜をてらす光しなくは中々に蛍も籠(こ)にはこもらざらまし 文政七年

□此れは少し述懐の心なり。大なることのありしとき、自負したる歌なり。「夜をてらす」、世をてらすといふに心底をこめていふなり。世に知らるゝやうな才量といふ程の所なり。
「中々に」、こゝは古へのつかひぶりなり。なまなかに照らす故じやとなり。真のつかひかたで云へば、いつでも前後にひつくりかへつてしまふなり。反て蛍といふ所へはつかはぬなり。喬木折風、の類をいふなり。

○これは少し述懐の心である。大きな出来事のあったとき、自負して詠んだ歌である。「夜をてらす」は、世をてらすという言葉に心底(しんてい、衷心)をこめて言うのである。世に知られるような才量という程の所である。
「中々に」、ここはいにしえの言葉の使いぶりである。なまなかに照らす故じゃ、というのである。真の使い方で言えば、いつでも前後に引っくり返ってしまうのである。かえって蛍という所へは使わないのである。喬木風ニ折ラル、の類をいうのである。

※「喬木折風」は、高い木が強い風によって折られるように、人も地位が高くなると批判や攻撃を受けて、身にわざわいが及びやすいという意味。

267
ほとゝぎすしばしばなきしあけがたの山かき曇り小雨ふりきぬ
四九〇 郭公しばしば鳴(なき)しあけがたの山かきくもり小さめふり来(き)ぬ 文政七年

□中岡崎に門人をさけてこもりたる時のうたなり。粟田山に雨降りしことなり。「しばしば」は、今いふさいさい(※再々)。間せまく、せはしなくといふ所につかふ也。「しばしば鳴きし」、せはしなく鳴きし、といふ意なり。

○中岡崎に門人をさけてこもっていた時の歌である。粟田山に雨が降って来たのである。「しばしば」は、今いう「再々」だ。間がせまく、せわしなく、という所に使ったのである。「しばしば鳴きし」は、せわしなく鳴いた、という意味である。

※多く引用されることのある歌。「実景」を基本に据えた歌の作り方は、近代短歌の百年前に景樹(ら)が方法的な自意識を持って実践していたのである。

268
ほととぎすふるき軒端を過ぎがてにむかししのぶの音をのみぞ鳴
四九一 ほととぎすふるき軒端(のきば)を過(すぎ)がてにむかししのぶのねをのみぞ鳴(なく) 文政三年

□「寄子規懐旧」の題なり。仏光寺の御台の三回忌によみたり。「またぬ青葉」に詞書をかきたり。

○「寄子規懐旧」の題である。仏光寺の御台所の三回忌に詠んだ。(この人は)「またぬ青葉」に詞書をかいた人だ。

※やや古めかしい歌。 

269
採りはてぬ澤田のさなへはるばると末こそみえね(※誤記)水の白なみ
四九二 採(とり)はてぬ澤田のさなへはるばるとすゑこそみゆれ水の白浪 文化十四年

□「澤田」、水田なり。かねて水ある所に田を作るなり。反て水をはかしてうゑる位の處なり。「採りはてぬ」、つくさぬほどの「末こそ見ゆれ」、となり。青き苗に水の白波がうつり合ふなり。

○「澤田」は、水田である。かねて水のある所に田を作るのである。かえって水をはかして植える位の所である。「採りはてぬ」は、取り尽くさないほどの「末こそ見ゆれ」というのである。青い苗に水の白波がうつり合うのである。

※四句目、「桂園一枝 月」でも「見ゆれ」。

270
五月雨のくもふきすさむ(※誤記)朝風に桑の実おつる小野はらのさと
四九三 さみだれの雲吹(ふき)すさぶ朝かぜに桑の実落(おつ)る小野原のさと

□城崎の湯に行きたる時に小野原といふ處にてよめり。尤もかひこを多くかへり。桑斗の里なり。実景をしる人はよく合点ゆくなり。「吹きすさぶ」、小あらく吹風なり。

○城崎の湯に行った時に小野原という所で詠んだ。蚕をもっとも多く飼っていた。桑ばかりの里である。実景を知る人はよく合点がゆくのだ。「吹きすさぶ」は、小荒く吹く風である。

※※四句目、「桂園一枝 月」でも「吹すさぶ」。
※なかなかいい感じの歌である。私は正岡子規の「百中十首」の頃の歌に影響していると考えている。これは『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。

271
苅りあげし畑の大むぎこきたれてふる五月雨にほしやわぶらん
四九四 苅あげし畑のおほ麦こきたれて降(ふる)さみだれにほしや侘(わぶ)らん 文化二年 一、二句目 かり入シ畑の青麦

□大麦とある故一首の上ととなふなり。
○大麦とあるために一首の上が調うのである。

※これも正岡子規の「百中十首」の歌に趣が似ている。

272
五月雨に加茂の川ばしひきつらんたえてみやこのおとづれもなし
四九五 五月雨に加茂の川ばし引(ひき)つらむたえてみやこの音信(おとづれ)もなし 文化二年

□実景なり。
○実景である。

※岡﨑あたりの在住だと「みやこ」の意識がなかったということがわかる。

一首評 大原葉子、津波古勝子、鈴木晴香

2017年07月07日 | 現代短歌
 いただいた歌書に何の返事もせず、申し訳ないと思いながら暮らしている。
まずは、一首引く。

  よべの雨蛇紋のさまにはなびらを丘の平らに押し流したる  

     大原葉子『だいだらぼふ』

 この一首を見るだけでも、この作者がどれだけ歌の修練を積んでいるかがわかるだろう。大きな水害のニュースをみながら、こういう美しい雨というものが一方ではあるということに思い当たり、同情を禁じ得ない。

  傍証のたぐいことごとく始末して森はあかあかと百草の老ゆ

     津波古勝子『大嶺岬』

「百草」に「ももくさ」と振り仮名がある。2014年刊の歌集だから、いま話題の卑賤な森友学園関係のニュースとは関係がない。「傍証のたぐいことごとく始末して」という句が持つ、底に沈めた怒りの深さが思われる。樹々は憤怒に染まっているのである。作者は沖縄出身。それだから集中には「イザイホー回想」というような一連もある。

  忘れないって言い合いながら渡りたいまだ湯気の立つ横断歩道

     鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

たとえは悪いかもしれないが、イギリスの『嵐が丘』の作者っぽい、というか、処女なのに情交の歌を作っているみたいな、高度に仮構された感じが漂っていて、私みたいに他者の屈折した感性の谷間をさぐるのが癖になっている人間には、逆に痛ましくてコメントしづらい本だったので、これまで書かなかった。むろん、今後が期待できる才気のある作者である。





中村草田男『蕪村集』

2017年07月05日 | 俳句
 何日か前に岩波文庫の『蕪村句集』をめくっていたら、

  述懐
椎の花人もすさめぬにほひ哉   与謝蕪村

という句が目に入った。この句については、中村草田男が『蕪村集』(大修館書店1980年刊)で注釈をつけているのを、一月ぐらい前に買った古書の中にみつけてあった。今日は初蝉の声を聞いたから、すでに椎やら柘植やらの花の時期は過ぎているのだが、椎の花に我が身を重ねるというのは、相当に鬱屈した自意識なのであって、草田男のような大自意識家がこれをどう説いているかという事に興味がわく。

[訳] 仮に花に身をたとえるならば、自分はまさに椎の花。世の人に賞美されるような派手な魅力を持ち合わしていない。しかし、好ましいにおいでなくとも椎は椎独特のにおいを格段に強く発しているように、自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである。 
                     (『蕪村』211ページ)

 訳の最後の「自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである」という言葉が、いかにも草田男である。謙遜してはいるが、相当な自負がなければ、「天賦」などという言葉は使えない。

認められたくて、自分を人に認めさせたくて焼けつくような若い頃の野心や功名心というものは、人生のスパイスである。その願いは、多くの場合叶えられない。文学というのは、また、そこから始まりもするのだということが、年を重ねてからようやくわかる。わかる前に、やめたり、死んでしまったりする人もいる。

年をとっても、何の悟りもない事を「徒に馬齢を重ねる」と昔の人は言った。現代の日本人がこの言葉を言うと、何だか動物に対して失礼ではないか、と私などは思うものだが、こんなことを言うと怒る人もいるかもしれない。

草田男の文章に話を戻すと、この句に対してはなかなか辛口である。引いてみる。

「「椎の花」を持ってきたのは、芭蕉の、

  先づたのむ椎の木もあり夏木立

の句と、同じく芭蕉の、

  世の人の見つけぬ花や軒の栗

の意味するものを一つにして、その上へ自己の想念を通わし託そうとしたのでのであろうが、宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に立ち上る真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されないようである。この句は「述懐」より「感想」に近い。 」 (以下略) 

といった具合で、酷評である。しかし、私はこの句は、梅雨前後のおもしろくもない気分と、人生不遇の感じを、うまく重ねて詠んでいると思うのである。でも、「人もすさめぬ」というのが、ゆるいし、弱い。他に迎合している気息まで感じられてしまうのかもしれない。続くページには、次の句がある。これまた、今にぴったりの句だ。

 秋立つや何におどろく陰陽師   蕪村

※七月十五日に文章を手直しした。帰宅してシャワーを浴びてから、昼間の猛暑のせいかすぐに寝てしまって、夜中に起きだした。七月のつごもりにまた手直しをした。