さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

加藤英彦『プレシピス precipice』

2021年04月11日 | 現代短歌 文学 文化
 トリチウム水を海洋放出することを政府が決定したというニュースを見て、ここ数日の私は、にがにがしい気分が胸を去らず、低い玄関先の梅の木の若芽を無残にも刈り込んだりして時を過ごしていた。それで、今朝は身の回りを見回してドストエフスキーの小説『死の家の記録』(望月哲男訳 光文社古典新訳文庫2013年刊)が読みさしにしてあったのを見つけて、しばらく読むうちに引き込まれ、気分も少し収まったのだった。

 微量なら流してよいか神よ神、海がしぶきをあげて砕けつ  加藤英彦

 短歌でこういう気分に在っても読むに堪えるものはないかと考えて、寝床の周囲の本の山を引っくり返していたら、加藤英彦の『プレシピス』が出てきた。これだ、と思ってページをめくると、激情を胸底に沈めた、硬質な芯のようなものが感じられる、拳骨のようなごりりとした手応えを感じさせる作品群が、こちらの面白くない気分を平たい鋼の意志のようなものに延べ直してくれるというような気がした。作者はこの世の不正義と道理の通らないスノビズムの蔓延に根深い憤りを抱き続け、それに対して持続的な戦いを挑み続けているのだ。そうして、災害と戦争の記憶を風化させないために、想像力による具象画のような歌を方法的に鍛えあげ、模索しながら一定の成果をここに示し得ている。

  あたらしき慰霊碑立てりこの海に死ななくたってよかったいのち

  十方に忿りの旗の雲わけりこれからはじまる闘いのため

 「父性論」という章では、自身も俎上に上がる。

うらぎりをくり返し来し半生か内耳しびるるまで蟬しぐれ 
 ※「蟬」は正字

愚かにも父となり父に相応ざる川がわたしのからだを流る

先の戦争についての連作は力作である。

危急存亡のときなればこそさやさやと街には個人情報あふる

徴兵令があまねく照らす村はずれに爺婆たちの不動の挙手は
 ※「爺婆」に「じじばば」と振り仮名

炎え上がる官舎のわきをすり抜ける影あり転進、転進という

いずこにも正義はあふれ昏れてゆく路次に監視の目がゆきとどく

ここでは想像上の戦争中の時間と、現在の日本社会に流れる時間がダブってえがかれており、「危急存亡」という言葉や、「官舎」といった語彙が、戦中の時間と現在の時間の密接につながった空気を醸し出すようにはたらいている。ここには、平井弘の戦争の記憶についての歌のことを忘れずに引き継ごうとする作者がいる。

戦時中の隣組が持っていた相互監視のシステムと、現在の監視カメラがあふれた街の空間や、コロナによって醸成された相互監視的な空気までもが、つながってイメージできるものになっている。この歌集が出たのは昨年の夏だが、

いずこにも正義はあふれ昏れてゆく路次に監視の目がゆきとどく

という歌の痛烈さは、依然としてアクチュアルである。しかし、次のような、名付けようのない憧れのようなものについての歌こそが、本来作者の目指してきたものなのかもしれない。

 水は下方にくだれりだれの所有にもあらずかがやく海にむかえり

 走れ、まだ没り日にはやや間があれば 草薙ぎはらう一振りが欲し

この剣はヤマトタケルの持つ剣だろうか。いつとも知れぬ人生の終盤を見据えつつも、まだ六十代や七十代では、枯れたなどと言えない人生百年時代がやって来ようとしている。

走れ、まだ没り日にはやや間があれば

とは言いながら、病気入院の歌も集中には含まれている。つらくて、うめきながら、暑い草蒸す山中を、銃剣を杖にして歩いている作者の影が、黒々と目に浮かぶようだ。でも、何だか激励される歌が多いのだ。

どのように口をつぐめば死者の目とおなじ水位を流れてゆける

これは、先の戦争と、それからとりわけ十年前の東日本の地震と原発事故による直接・間接的な死者のことを意識してうたわれている。こういう発想に根差した批評というものは、信頼するに足るものだろう。それにしてもこの一年というもの、圧力団体の医師会に文句が言えないために私立病院に手を出さないという無為無策の時間を重ねた結果、小商売の庶民の営みが壊滅的な打撃を被っているこの国の政治無策には、怒りを通り越して絶望すら感じる。加藤さんにはまだまだ静かな忿りのうたを作ってもらわなければならない。

司修の本から 藤田嗣治 宮本三郎 田村孝之介 古沢岩美 原精一 室田豊四郎 まで

2021年04月04日 | 本 美術
戦争と近代日本の画家たちについての断想

 小雨のぱらつく遊歩道を、今朝がた何となく飲み始めてしまった焼酎の水割りのために昼の二時までねていた布団を丸めて起きあがってから、司修の本を少し読んでから、歩こうと思って家から外に出て、買い物がてら舗道を駅の方角にゆっくり歩いていると、咲き出したさつきの植込みの横に五、六本のヒメジョオンがうなだれていて、でもその寄り合って生えているシルエットが実にうつくしく感じられたので、へたに派手な赤や白の色彩を散らかしているさつきの木よりも、自分はこっちの方が好きだなと考えて、昔から、それこそ子供の頃から雑草を敵視して来たことに思い至り、何なんだこの価値観は、というようなことを漠然と考えながら、道路わきの別の花も何もない草が生えている所まで歩いてきて、みると、やっぱり美しくないな、と思いながら道路を渡り、胡瓜と茄子とちくわとオレンジ・ジュースを買った。何だかよくわからない思いつきのような買い物だが、一応冷蔵庫の中に残っているものとの取り合わせは考えていないわけではないのだけれども、梶井基次郎の小説みたいな適当で趣味的な感じがして、最近の買い物のなかでは梶井のいわゆる「好きな」部類の買い物だった。それで、司修は、

「開放の日」とは、フランスがドイツから解放された日である。末松はそのような日の感慨を書くことはない。これは末松だけの問題ではないだろう。この時代の日本人がもっていた幻影が支配していたのではないか。藤田嗣治も、高田博厚も、ヨーロッパの近代思想を取り入れながら、けっして自分が破れた、国家が破れたという思いには至らなかった。当然の感情であろうかとも思う。しかし、事実を把握できないということは悲しい。
              『戦争と美術と人間』2009年12月白水社刊

と書く。どうなのかなあ、司が取り扱っている末松正樹と藤田嗣治と高田博厚は同列に扱えるものなのだろうか、というのが、まっ先に頭に浮かんだ疑問である。

 この一年ほど私は二紀会系の画家の戦後の画業を調べていたのだが、藤田を筆頭にして、宮本三郎も田村孝之介も、フランス人だったら戦後は銃殺ものだろうという気がしないではない。このなかで藤田だけは美術市場における市価が異様に高く、また人気もあるのだが、藤田嗣治が陸軍美術協会の出した戦争画集に日本の画家の代表格で書いた文章の現物を見てしまうと、その鉄面皮ぶりに言葉を失うところがあるので、どうも好きになれない。戦後幾年間の宮本三郎の裸婦の(安い茶色の絵の具しか手に入らなかったせいもあるが)きたならしい茶色の肌の色と、すぐにまた白い肌の裸婦を描くことができた藤田とでは、無神経の度合がちがうと思う。宮本がその後展開する華麗な色彩と装飾的な画風には、戦争によって一度崩壊した精神を何とかして立て直そうとし、戦後の時代を生き直そうとする意欲がみえるけれども、その分その華やかな色彩には、画家の受けた痛手と苦しみが滲んでいるように見えないではない。だから私には宮本の絵の色というものがうつくしく見えない時がある。藤田には、そういう悩みが少しも感じられない。

 ついでに書くと、宮本と共に二紀回の領袖となった田村孝之介は、その職人気質において藤田と共通するところがある。田村が戦後ピカソに熱中したあたりに、彼なりの遅い人間精神への目覚めがあったと言えないことはない。しかし、藤田と等しく、田村にはすぐれた自分の素描の腕への酔いがある。それが両者の限界で、マティスに「デッサンが上手すぎる」と言われて、その言葉を脳裏に刻んで帰って来た猪熊弦一郎の方が、同じ戦争画をものした罪は免れないとは言いながら、一日の長があるだろう。戦後アメリカに渡って抽象画で新境地を開いた猪熊は、一度自分の過去を清算する必要に迫られていたと言えないことはない。猪熊の抽象画はなかなか魅力的であり、また現在の市価も高いが、彼の作品はアメリカで売れれば日本でも売れるという美術品評価・流通機構のなかで引き回されている日本の美術界の象徴のような存在ではある。

 彼らの残した絵がなかなか美しくて魅力的であるだけに、第二次世界大戦と日中戦争、それから大東亜戦争をはさんだ近代日本美術を人間精神の営みの問題としてとらえ返してみると、もやもやとしたやりきれない思いが湧いて来る。

 多くの応召した画家のなかには、原精一や古沢岩美がいる。両者とも戦場の弾雨の下をかいくぐった古強者で、困難な戦争の時代を生き抜いた生き証人である。戦争による廃墟の姿を1938年の時点で描いてみせ、祖国の将来を予言した古沢の作品は、今日高く評価されてよい。戦後の古沢岩美はエロティシズムを追究して権力に抵抗し、日中戦争を描いた画集を出してゴヤの向こうを張ったが、古沢には、洋画版岩田専太郎のようなところがあり、戦後の風俗画家のイメージが強すぎるので、そこはもう少し丁寧に見てやりたいと私は思う。何しろ生きて帰って来て戦争の惨禍を描いたのだから。

 原精一は戦後、裸婦画と飲酒の世界に耽溺していったが、師の萬鉄五郎譲りの、大正時代に発した逞しい生命主義のようなものを戦後まで持ち伝えた。原は中国戦線のスケッチを戦争画集として出版したりして時流に乗っていた面があるけれども、兵隊の階級は伍長とは言いながら一兵卒の立場に近く、天皇に見せるための天覧画を描くために特別機を仕立ててもらって戦場を回ることができた宮本や田村や猪熊らとは立場を異にしていた。そうして原が餓死とマラリアのビルマ戦線からしぶとく生きて戻れたのは、画家としてビルマのひとたちと親しく交際できた人間の魅力によるところが大きい。戦争協力と戦争中の地位や待遇の関係は、そんなに小さな問題ではない。

 高田博厚については、森有正との共通点と違う点などを比較しながら論じてみたらいいとは思うが、私の手に余る。「藤田嗣治も、高田博厚も、ヨーロッパの近代思想を取り入れながら、けっして自分が破れた、国家が破れたという思いには至らなかった。当然の感情であろうかとも思う。しかし、事実を把握できないということは悲しい。」という司修の批評について、違和感を残しつつも、今は書くべき言葉が見当たらない。美術のことを調べはじめると宿題ばかりが増えて来る。

 私が最近発見した画家としては、「猪熊弦一郎に師事した」とヤフー・オークションで売られていた室田豊四郎(氏名が一字ちがいの日本画家のことではない)が、日中戦争中に中国で陸軍美術からうまく離反した稀な例であると思う。彼の絵は、陸軍美術協会の出版物の中に入っていない。この人の人間性については、戦後何十年もたってから「人民日報」に載った室田を慕う中国人の文章が検索で見られるから、関心のある人はそちらを参照してほしい。日本の美術市場では値がつかないけれども、室田豊四郎の絵を持っている人は、その絵を大切にしてほしいと思う。自己の良心に則って戦争画の世界から離れた画家がいたのだということを、我々は覚えておく必要があるし、室田の心優しい童画風の世界の持つ意味を考えてみなければならない。