さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑記

2021年08月30日 | 本 美術
〇水上勉という作家がいて、ずいぶん人気が高かった。晩年の料理や焼き物についてのエッセイが、私などはリアルタイムで読んで楽しかった覚えがあるが、このひとの美術や画家についての文章もなかなかなものであることに最近気がついた。特に幼い頃京都に住んで、身近な等持院のなかの一室に画室を設けていた小野竹喬についての文章や、永瀬義郎の版画について美術の雑誌に二ページ見開きで書いた短文などが最近調べ物をしていて目に付いた。同様に井上靖にも、この人の場合は学芸部の美術担当の記者だったから本格的だが、その記事と取り上げた絵を合わせた目録のような本があるのは、井上靖ファンならご存知かもしれないが、私は井上の『天平の甍』と『しろばんば』が中学校の推薦図書だった世代である。ちなみに『しろばんば』は三部作で続編があって、『夏草冬濤』までは読んだが、旧制高校で柔道に打ちこんだ時代のことを書いた三冊目を読んでいない人はけっこう大勢いるのではないかと思う。これは、すでに御退職された皆様、読まないで死んだら損ですよ。

 現代美術の場合も、そういう本が作れるはずなのだが、本というよりも今は電子出版の方が現実的だと思うが、そういうかたちの美術評論なりエッセイ集なりというものを、読んでみたい気がする。これは本の方は活字だけで、絵の方はウェッブに飛べるようにリンクができている本なら可能な気がするが、どうだろうか。建築についても、同じことが言える気がする。
 ファッション雑誌にしても、コンパクトな薄い冊子が毎月か毎週手元にとどいて、画像の方はスマホで見る、みたいな、そういう雑誌がこれからはあっていいと思うが、どうだろう。全部が電子データというのはつまらないし、紙の上に定着して印刷してあるからこそ良さがわかるという性質のものも、世の中にはある。活字のおいしいところはきちんと残して、両者を上手に組み合わせていくことが「エコ」につながる、というような、そういう雑誌がほしい。

 ついでに書いてしまうと、電車のなかでスマホをつかって漫画を読んでいるひとを見ると、私のような旧世代の者は同情を禁じ得ないのである。漫画の絵の細部や紙の感触を味わって読まないで、いったい何がおもしろいのか、というのが最大の疑問である。むかしの『少年マガジン』『少年サンデー』のような大判の漫画雑誌で漫画を読む時と、スマホで漫画を読む時の漫画の絵や、ストーリーの理解のしかた、興味の働き方にはちがいがあるのではないかと私は思っている。線や面のテイストについての感覚が、微妙にちがって来ているはずである。たとえとして適切かどうかはわからないが、それはジブリとキメツの絵の違いのような感じなのかもしれないとは思う。

 私がウェブにつないだ瞬間にあらわれる美しい画面を常々目にしつつ危惧することは、ああした美麗なピカピカの画像に日常的に馴れてしまうと、実際の事物のくすんだ、すすけた現実の在り様についての感受性が鈍るのではないかということである。絵でいうとマチエールということだが、そこのところでの身体性からの剥離と言うか、身体性からの離脱、養老先生ふうに言うと、極端な脳化の進行は、あまりいいことではないような気がするのである。ウェブのピカピカの画像と親和的なコンセプチュアル・アートはだから駄目なのであると、私は主張したい。

 ついでに日頃の憤懣をぶちまけると、多くの現代アートに較べたら、マチエールについての原始的な感覚という点では、二十世紀初頭のフォーブと「洋画」の方が、まだしも表現としてまっとうだし人間的である。また伝統的な和紙に描いた日本画の方がはるかに高級である。つるつるのプラスチックな創作物を私は嫌悪する。大半の現代アートに対しては、王様は裸だ、と言えばそれで済むと思っている。

 こういったもろもろのつるつるピカピカ傾向に対する治療薬としては、江戸時代の俳諧を読んだり、明治時代の本を読んだりすることが、文系人間としてはいいのではないかと思うが、そのほかに趣味として仮名の手習い、盆栽、生け花、お茶、パッチワーク、編み物、手話の勉強など、総じて身体性の高い分野に、動物としての人間にとって必要な生きるためのビタミンを分泌する力があるように私は思う。

 

室田豊四郎について

2021年08月14日 | 本 美術
〇室田豊四郎画集 『MUROTA』(昭和60年刊)発行者 北川耕二 印刷所 採光堂
撮影 長谷川洋治 200冊刊
跋文
猪熊弦一郎 「室田君の画業を思ひて」於ホノルル 1985  
 「… 室田君が画業半世紀展を開くことをきかされた。」
田近憲三  (無題)
植村鷹千代 「自選回顧展に際して」
 「… 昭和16年に新制作展に出品することになった発端については、作者の述懐によると、当時彼は応召によって中支で軍務についていたが、そこへ従軍画家として来合わせた猪熊弦一郎、故佐藤敬両画伯と識り合い、その時の猪熊弦一郎のすすめが契機になったということである。」

後記「私の絵」
「… 帝国美術学校に入学して学校騒動で杉浦非水先生を擁立して多摩美を創立し4年生の3学期に徴兵猶予がなくなって大阪の8連隊へ入隊して満州へ行った。昭和12年の春である。北満国境を転々と楽しかった。」
「2年満州にいて陥落直後の中支の漢口へ移った。4年間現役を勤めて現地に高級軍属として残った。絵は満州時代から外出の時に良く描いた、漢口へ移ってからは報道部勤務だったのでよく絵を描くことが出来た。司令官たちに贈るためのものもあった。1年古兵に那須良輔さんがいた。除隊した後は日中文化交流の為に絵を描くことが仕事だったので良く描いた。当時漢口には岡本太郎、古沢岩美さんらが兵隊で居た。英米撃滅絵画展を開いて最終日後片付けをしていると空襲があって家が焼けてしまった。」
「焼ける前漢口の私の家は文化人のたまり場になって居て、良く集った。覚えているのは高見順、檀一雄、百田宗治、石黒敬七、萩原賢一さんだった。」
「馬の絵を描き始めたのは、1972年新制作に出品した5点の中4点が馬で各新聞で取り上げてくれた。特に田近憲三先生から激励された、抽象を始めてから鳴かず飛ばずにくさっていた時だったので大変嬉しかった。」