さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

原精一、古沢岩美 戦時下の日常

2020年04月27日 | 美術・絵画
 戦時中の日本の国についてのイメージを持つのは、なかなかむずかしいことである。たまたま『出征将兵作品集 戦線点描』という本を手にしたので、少しその本の話をしたい。非常時と言われる時代に、心の余裕を失わずに、確かな平常心を持ちながら、こういう本をさり気なく作って出していた人がいたということに感銘を受けたからである。発行者、日本電報通信社出版部 桝居伍六。昭和十七年四月一日発行。

 私の当初の目的は、原精一のデッサンをみることであった。166 ページに、「木石港の少女」というコンテと鉛筆を用いたらしいデッサンが掲載されており、髪の毛を無造作に頭の後でまとめた中学生ぐらいの年頃の少女が、大きな目を見開いて右側を向いている姿をクロッキーしている。「於木石港2、16」と作品の左隅に書かれてある。原精一の戦中デッサンは、戦後も再評価されてその展覧会が企画され、カタログも出た。原が亡くなった時に洲之内徹は追悼文を書き、それは最後の著書に収録された。原が戦地で描いた戦友たちの姿や、ビルマの人々の表情のスケッチは精彩に富んでいる。

原の絵の左のページには、国分一太郎の「未来亜細亜伝承童話骨書」という片仮名の短文が載っている。おもしろいので、試しに新仮名遣いで引いてみたい。

「よしよし、いま話してあげるから、おとなしくやすむんだよ。
 むかしむかし、おおむかしのことであった。じんむてんのうさまきげん二六〇〇年ごろのことだというから、ちょっと、かんじょうもしきれないとおいむかしのころだよ。
 そのころはなあ、このアジアも、いまのように、ひとつではなくてなあ、たくさんのくにぐにが、ばらばらにわかれていたそうな。一番つよい、くには、この日本だったが、よそのくには、たいてい、イギリスとか、アメリカとかいうくににいじめられていた。うん。アメリカやイギリスは、どこにあるかって。さあ、どこにあるか、いまもあるか、おっかさんも、よくしらないがねえ。むかしは、そんなくにが、このアジアまできて、アジアのひとをふしあわせにしていた。ちょうど、そのころ、しなには、たいへんばかなたいしょうがいてなあ、ニッポンにてむかいした。ニッポンは、このアジアを、りっぱにしようとすすめたが、そのばかなたいしょうはきかなかった。いくさは、はげしくなった。ばかなたいしょうを、イギリスだのアメリカだのいうくにが、たすけた。そのたたかいで、うちのそせんさまも、せんしした。どちらがかったかって。わかるじゃないか、こんなアジアができてるもの……。そのいくさのとき……(未完)。」

 当時の「八紘一宇」のイデオロギーを童話風に仕立てただけの作文にみえるが、末尾の三行は、決してただのハッピーエンドにして書かれておらず、「うちのそせんさまも、せんしした。」という一文がしっかり書かれているところに注意してよいだろう。

 この本は、いさましい戦闘シーンを描いた絵が一枚も収録されておらず、中に収録されている絵は、どれも平和な戦地の日常生活を記録したものばかりである。これは他の陸軍美術協会等がかかわった戦争記録画集の類とは著しく性格を異にしている。むろん日本の国策によるアジア諸国の統治がうまくいっていることを印象づける性格を強く持つ書物ではあるのだけれど、この本をめくってみて感ずることは、戦争の中にも続く日常生活の確かさと大切さへの静かな訴えが本書にはあることである。

 昭和十七年前半までの日本の国民には、まだ精神的な余裕があった。それが右の本からも見て取れる。これよりもう少しあとになって刊行されたものでは、画家の古沢岩美の『破風土』(昭和十七年十一月刊)がある。この本も画家のかかわった本らしく、たくさんのスケッチを収録している。そうして本の最後に載っている文章は、ドゥリットル隊の空母による初の東京空襲後の防空演習のようすを、カリカチュアすれすれの筆致で描いたものである。古沢の本のタイトルと表紙絵の装丁から読み取れるメッセージは、微妙である。当時としては、かなりきわどかったのではないかと私には思われる。古沢は1937年に「地表の生理」というシュールリアリズムの手法で廃墟を描いた絵を発表しているから、よく当局がこの本の刊行を認めたものだ。本の検閲をした担当者は、「地表の生理」を見ていなかったにちがいない。後年古沢はインタヴューに答えて次のように言っている。これは後付けの言葉ではないだろう。

「最初に独立美術展に出した「地表の生理」という絵があるんだが、凄い酷評を受けた。「こんな酷い絵が芸術だとしたら私は生きていたくない、古沢は懊悩過多だ」なんて書かれた。でも、まもなく戦争で日本にもそれ以上に酷い現実が起こった。僕は原爆なんか落ちる何年も前に描いたんだ。そういうことを考えてるから楽天家ではない。こんな馬鹿なことをやってると、今にこんなことになるんじゃないかと描いただけ。ふっと何かの拍子に先が見えることが、僕にはある。」  『一枚の絵』1991年1月号 10ページ

古沢の「地表の生理」は、時代精神への芸術的な抵抗を示したものとして、今日高く評価されるべきものである。

話を『戦線点描』に戻す。戦争中の生活についてのステレオタイプなイメージから自由になるためには、やはり当時のものに直接触れる必要がある。雑誌や本の表紙の絵は歴史の大事な資料と言える。

大田美和 思考集 『世界の果てまでも』

2020年04月25日 | 
今朝は目が覚めて時計を見ると四時半である。いつもなら、まだ早いなと思ってそのまま再び目をつむり、浅い眠りのなかで夢を見ながら小一時間ほどをすごすのだが、今朝はこのまま起きてしまおうと思って、服を着て手洗いに立ち、玄関の戸をあけてポストまで新聞を取りにでると、夜明けの空はまだ薄暗く、少しだけ囀り出した鳥の声もかん高く響いてはいない。ゆっくりと伸びをして、靴音を立てないように、そっと自己流のスウェーデン体操風の円運動で体を振ってほぐす。戻ると上着を羽織らずに薄いセーターだけだったせいか、背中が冷たい。寝床の温かさが恋しくなって、結局また毛布をかぶりながら手元の本を適当に手に取って見はじめた。
 
 昨日届いたぱかりの本の包みを開くと、大田さんの新刊である。白い本の表紙に「ひらく、つながる、うまれる」とあって、まさに朝の新鮮な目覚めの気分にぴったりの気がした。真っ先に「両性併記パスポート獲得記 結婚制度を使いこなす」という文章を読む。私は一度読んだことがある文章だ。これは個人としての意識をしっかりと持った一人の人間が、夫婦別姓の表記を公的にかちとるまでの粘り強い取り組みを書いたもので、筆者の現実感覚がいきいきと動いているところが新鮮で、新聞記事のオピニオンの文章などとは別種の趣を持っている。風が通り抜けるような、とでも言ったらいいか、どんな事柄に言及しても筆者の感性がいきいきと躍動している。

本書に収録されている短文に、結婚直前に病気になって急に入院することになった時に、「私はこれまでに感受性をむやみに刺激するというかたちで、自分のからだをいじめすぎたのではないかと不安に思った。」という一文がある。そんな自分を救ってくれたのが、タルコフスキーの日記と韓国出身の亡命作曲家の尹伊桑(ユンイサン)の対話集だった、と続けて書かれているところが、なかなかブッキッシュで英文学の研究者らしい所なのだけれども、そこには何の衒いもなくて、常に自由な精神の動きを追っているうちに、病のなかでもそういう選択をしていったという感受性の必然としての道筋が、そこには語られているのである。

同様なことは、「壬子硯堂訪問記」という海上雅臣氏の住居を訪ねたときの文章や、続く「Ouma 展」という美術家について書いた短文などにも、生き生きと現われていて、筆者の感性の指先が触れるところに、泡立つ美神の息吹が通り抜ける瞬間が活写されている。何ともすがすがしいのである。ちょうど私の今朝の目覚めの空気にぴったりの、汚れていない、もう少し平たく言うと、世俗の塵埃にまみれていない裸身の〈関心〉の姿がここにはある。もっと言うとそれは、「文学」にかかわることの原初的なあらわれの様相を示すもので、感性的なものを形象化するなかで生きはじめ、確かめることができる生の実感というようなものが記録されているのだ。

この本には、偶然にも私がつい最近このブログでとりあげた画家で詩歌人の小林久美子との往復書簡も載っているのだが、筆者が「絵」というものにどういう感じ方を持っているかということをよく示している文章が別にあるので、それをここでは引いてみたい。

「私が一生をかけている、言葉を紡ぎ出す仕事にも、むろん喜びはあるが、絵を描くときの無心の喜びにはとうていかなわない。絵を見るとき、絵に向き合うとき、その無心の喜びがよみがえる。その喜びは、強いて表現するならば、この絵の前で踊りたいとか、この絵を抱きしめたいとか、この絵と同衾したいとかいう生の衝動、エロスに関わる思いである――。こうして文字にすると、絵に較べて、言葉とはなんと不自由なものなのかとため息が出る。」
                         「クラウディアに寄す」

私自身がこの一、二年絵に没頭しているので、こういう文章は特に強く印象づけられるのだが、筆者の芸術全般に対する感性的なありようというものが、よく解る表白である。

現在の世界の「コロナ危機」のなかで「蝸牛のように殻に閉じこもって」(「Epithalamion」)いる多くのひとびとの心のなかに、ぽんと投げこまれた小石のような波紋を本書はひろげることができるのではないか。

大島史洋『どんぐり』

2020年04月23日 | 現代短歌
 大島さんの歌集というと、『四隣』とか『熾火』とか漢字二文字のタイトルのものが思い浮かぶ。『四隣』は対他、『熾火』は対自ということがそれぞれ取り出されて意識されているとでも言おうか。つまり作者は、これまで一貫して自己と他者との関係のなかにあらわれる生の諸相を、思索的、倫理的にとらえるなかで、「うた」というものを考えてきた。ここで他者と言ってみたものを、「社会」という言葉に言い換えるなら、それはただちに大島が師事した近藤芳美の思想に通ずるわけである。

 生身の作者と対してみると、温顔だけれども、冗談口をききながら、よく光る眼がしっかりとこちらを見ている。こちらはその目に見られるのが気恥ずかしいのである。それは土屋文明のリアリズムの精神と近藤芳美の理念主義に接するなかで身につけた、スケッチの修練と自省・反省する意識に支えられた、よく観察する目だから、なめてかかるわけにはいかないのである。しかし、その目の光は、常に自分の背中にも注がれていて、言うならば自分の内側に一度折れ曲がって、そこから出て来た目の光だから、第一に自分に対して厳しいのだ。そういうことが何となくわかるから、一種の誠意のようなもの、人間的な安心感のようなものを感じて、それを現実の場での作者への親しみとしてこちらは感じ取ることができるから、何気ない軽口がとてもありがたい。倫理の切っ先は、日常の局面では矛を収めているわけである。

  生きている憎悪は強くひびくゆえ活字はよけれ休むに似たり
 
 こういう感覚を表現するのに、どういう散文がいるのだろうと思うと、それはなかなかむずかしいだろう。短歌でなければ、ここまで言えない。

  亡き友とかわす会話のつまらなさおのれの思うままに運べば

 これは小高賢のことをうたった一連のなかにある。このあとに「晩年は呆れんばかりにふくれたる自尊心と言われずにすむ」という一首があって、君はほかの老醜をさらした人にくらべたら、よほどそれは良かったのではないか、なんて油断のならないことを続けて思っている。

  俗念に濁りはじめる年齢は四十代半ばくらいにてありしか

 これは、自他へのきびしい目が言わせている言葉で、こういう潔癖な倫理性を大切にした時代が戦後あったのだけれども、今となっては次の歌のような様相が、世を覆っている。

  そうなのだなんでもありの世となりてすべての箍がはずれてしまった

 そういう「箍が外れた世界」を見舞ったのがコロナ危機である。例としては、トランプの言動や、相澤冬樹を記者辞職に追いやるような力のようなものをあげたらいいだろう。インターネット上に展開される、あらゆる抑制のない言葉も同様だ。「倫理的なもの」が無化されてしまう社会的な場の全面化だ。それに対して、ある年齢に達すると、人間は諦念をもって接するほかなくなる。

  最後には歌が残ると言いたれどおのれの歌にあらぬさびしさ

  欲望のかたちさまざま死ぬまでを苦しむならむ凡人なれば

  ぎりぎりと椅子をいじめて過ごしたる若き日と言わむ今から見れば

  年老いて最後に無念を晴らすとぞ小説ならず犯罪にあらず

  価値観の違いであれば黙すのみそんな場面がどんどん増えて

  どこまでも狂わぬ俺と信じてる 蹴破ってゆけ 負け犬でいい

 このほろ苦さが、大島史洋短歌の魅力の一つである。いつもどこかで満足のいかない現実に耐えながら、そういう自分のありようを全否定するのでもなく、何とか肯定できるところまで救いだすことに生きる意味を見出そうとしている。これは、当たり前の生活者がみんな普通にやっていることで、特別のことではない。人間が生きるということはそういうことだから、その「平凡」なありように目を注ぐことが作者の「倫理」であるということだ。そこに大島史洋短歌の持つ普遍性がある、〈ユマニテ〉というものがある。

  真上より陽はふりそそぎ鳩を見る五十年前鳩少年たりしわれ

  かたくりの花の一輪咲きいしを夜半に思えばほのぼのとして

  いくたりの人が抱きし寂しさか朝の目覚めの言いようのなき時

  雪深き日々は知らねどのどかなる上山の五月吾は楽しえ

 こういう淡い感じの歌もいいなあと思って引いてみた。


小浜逸郎氏の文章に同感して転載します

2020年04月21日 | 日記
〇小浜逸郎氏の「コロナに関する素朴な疑問」と題した文章に同感したので、ここにその全文を引かせていただく。同氏のブログには、時事に触れた狂歌がこのところつづけてのっており、注目していた。皆さんのふさいだ気持ちを晴らすのにいいかもしれないということで、以下に紹介したい。

以下引用。

「4月6日に緊急事態宣言が発出されてから10日経ちました。
テレビでは、相変わらず、人通りが途絶えシャッターを下した繁華街の光景を映し出しています。
そして、新たに発生した感染者数、累計感染者総数、死者数、退院者数を報告しています。

ここでまず素朴な疑問が生じます。
毎日報告される感染者数は、どれだけの検査件数に対するものなのか。
PCR検査件数全体に対してどれだけの割合で陽性反応が出ているのか、その割合がまったく分かりません。
つまり分母が提示されないままに、今日はこれだけ発生した、全体でこれだけ増加したという発表だけがなされているわけです。
3月24日に小池都知事がいきなり「非常事態」宣言をしてから、全国でも検査件数を増大させたと想定されますが、検査件数が増えれば、感染者数も増えるのが当然です。
韓国のような検査件数が多い国ほど致死率が低いと言った誤報に影響されたのではないかと推測されます。
https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/4133/
ちなみに東京都における4月6日から8日間における検査実施件数は4,652件(一日平均582件)、うち陽性反応1204件となっており、その割合は、25.9%です(数字にやや不審な部分もあります)。
なお3月23日以前は、一日の検査実施件数が多い時で180件、少ない時で0件で、24日以降激増しているさまが読み取れます。
https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/

次に思うのは、各都道府県は、検査を全域にわたって均等に行なっているのか、それとも受診者がある地域に集中しているのか、その分布状況もわかりません。
また、感染者(陽性反応が出た人)のうち、世代別の分布、無症状者・軽症者・重症者の割合、職業別の割合など、知るべき情報が一般に知らされていません。
各自治体では出しているはずですから、これらは簡単に集計できるし、また発表しても差し支えないはずです。

これらの情報は、後述するように、新型コロナという流行病の特質と適正な対策を考えるうえで極めて重要な情報です。
それなのに、「感染者がついに8000人を超えました」といった視聴者を脅すような情報発信ばかりがなされています。
意識的な隠蔽とまでは思いませんが、こうした情報発信の方法が、視聴者の不安を煽り、結果的に自粛やむなしという方向にただ一方的に誘導する効果を持っていることは明らかです。
これは推測ですが、厚労省がだらしないためにこうした情報整理をやっていないのではないかと思います。

すでによく知られている新型コロナという流行病の特質を簡単に整理すれば、

①人から人への感染力がきわめて強い
②密室、密集、密接によって感染しやすい
③高齢者や基礎疾患のある人は重症化しやすい
④8割は軽症で回復している
⑤潜伏期が長い
⑥無症状感染者の数が多い(知人の医師によれば、報告されている数の15倍はいるだろうとのことでした)

これらの特質について、また別の知人の医師は次のように語っていました。
《コレラやペストはいざしらず、新型コロナは、その8割は軽症で回復している病気です(連日報じられる死者数の陰に隠れがちですが)。潜伏期が長く、さらに感染しても発病しない不顕性感染者がたくさんいます。これが、どこに感染者(保菌者)が潜んでヴィールスをまき散らしているかわからないという強い不安や疑心暗鬼を生んでいます(だから、とにかく集まるなと規制)。しかし、裏返せば、それだけ発病力の低い、ほんらいは軽い感染症だという理解が可能です。感染力の強さと疾患としての重篤さとはちがいます。感染力が強いのは、現時点ではだれも免疫をもっていないことが大きいでしょうね。もちろん、条件次第で致死的な転帰を取り、医療状況によりますが平均すれば2~3%の死亡率を示していますから、決して甘く見てはなりませんけれど。感染力が強くていっぺんに大勢が罹るため、致死率は低くても死亡者数は多くなるのです。》

さてこのコメントで一番気になるのが、「感染力が強いのは、現時点ではだれも免疫をもっていないことが大きい」という部分です。
この事実は、裏を返せば、免疫力をつけるためには、軽く感染して治癒する(または発症しない)なら、そのほうがむしろ望ましいという考え方も無視できないことになります。
天然痘に対する種痘にしても、結核に対するBCGにしても、抗体を作りだすためにごく軽微な感染状態にするという(ワクチンが手に入らない状態では)感染症対策としては伝統的に取られてきた方法です。

ここで、素朴な疑問の第二です。
現在取られているように、人と人との交流を限りなくゼロにすれば、やがてはウィルスは「封じ込められて」終息する、という「自粛要請」(欧米では「強制」)の方法は、果たして唯一の正しい方法なのか。
「封じ込める」という言葉についてですが、正確にはどういう意味なのでしょうか。

人と人との接触を排除する→ウィルスを「封じ込める」。

この論理はそれほど科学的根拠があるでしょうか。
よく知られているように、ウィルスは何かのきっかけであらぬ方向に変異していきます。
他の多様な感染経路(人→モノ→人、人→動植物→人)を見出さないかどうか、誰にも分りません。
仮に人同士の接触を断つことで一時的に減衰が見られたとしても、ネズミが増えてきたのを片端から殺鼠剤で殺していけばよいというふうに原始的な発想ではうまく行かないのが、このウィルスという不思議な存在の厄介なところです。
何か他の発想も必要なのではないでしょうか。

ジョンソン英首相は3月12日の記者会見では、休校や集会禁止、市民同士の接触を制限するなどの措置は取らないと明言し、手洗いの励行を呼び掛けるにとどまっていました。
多くの人が感染することで免疫をつけ、その人たちによって感染の急拡大を防ぐという「集団免疫」の戦略です。
しかし猛烈なバッシングを受けて、16日には一転、厳しい自粛政策を取るようになりました。
さてそれから1か月たったわけですが、この強制自粛の方針は、果たして功を奏しているでしょうか。
前回使用した100万人当たり累計死者数のグラフの現時点(4月14日)までの推移を見てみましょう。
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html

☆グラフ省略。見たい人は小浜氏のブログに行ってください。

上から四番目のオレンジ色がイギリス、茶色が日本です。
念のため、このグラフの縦軸が対数目盛になっていることにご注意ください。
日本が1に達していないのに、イギリスは167で、しかもそのカーブはまだまだ右上がりで急上昇しています。
3月16日以前は0.2以下くらいしか上昇していなかったのが、4月に入ってからは、毎日平均10を超える単位で数値が上がっているのです。
1,2位のスペイン、イタリアが、すでにカーブが緩やかになってピークを過ぎたらしく見えるにもかかわらずです。

強制自粛路線が必ずしも効果を生んでいないことがこれでわかりますが、もう一つ、アイスランドの例を挙げておきましょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200409-00010000-clc_teleg-eurp&fbclid=IwAR333OSqifRMxdDtW7LZTX70yKJUeSWqyEeu_M-W3STM8JHdKrlYfiEheYg
アイスランドでは人口当たりの感染者が世界で最も多いのですが、これは検査件数の多さによるものです。
うち1364人が陽性反応を示し4人が死亡しました。
これは上の図に当てはめると、約11になります。韓国とドイツの間ということですね。
ただ、アイスランドでは、この検査結果を利用して統計学的に感染リスクが高い市民に対し積極的な隔離政策を進めることで、厳格な全国規模の都市封鎖を回避しています。
疫学者チームを率いるソロルフル・グドナソン氏の対策チームは警察官と医療従事者60人で構成され、感染が確認されるとそれぞれが個別に調査を行い、接触者を把握します。
こうして得た詳細なデータに基づいて、対人距離の確保について簡単なガイドラインを作り、これによってウイルスが急速に拡散する前に接触者を把握することができたため、都市封鎖や隔離を免れることができ、また、医療現場にかかる力を緩和できたと言います。
どうして可能だったのかはわかりませんが、アイスランドでは、去年の暮れの時点でパンデミックの可能性に気づいていたそうです。
その結果、医療体制や調査体制について周到な準備ができたというのです。
イタリアやスペインのように通りが静まり返っていたり、店が閉まっていたりする様子はなく、カフェやパブ、店は穏やかに営業を続け、学校は休校せず、移動制限もない。
観光客ですら、歓迎されているということです。

人口わずか36万5千人の小国だからそれだけの結束と素早い連係プレーが可能だったとは言えるでしょう。
しかし、参考にできる部分は大いにあります。
第一に、データの詳細な把握と共有です。
はじめに述べたように、感染者数と検査件数との割合、年代層、居住地域、症状の有無と程度、職業などについて、詳細なデータを(一般国民に全公開はしないまでも関係者の間で)共有することで、この病についての一定の医学的判断が成り立ちます。
第二に、これにもとづいて、どこに重点的に医療関係者や医療体制を配備すればよいかというおおまかな基準(ガイドライン)を作ることができるでしょう。
これは現在問題となっている医療崩壊の危機に対して、均衡ある配分を達成することに寄与するかもしれません。
第三に、このような効率的な対応をすることで、何も一律8割の自粛を要請するなどという杓子定規な判断をしなくても済みます。
たとえば、何人以下、どんな空間、どれくらいの時間なら要請に従わなくてもよいとか、60歳以上の人は極力家を出ないようにする、テレワークのできない会社員でも、この場合は出勤して大丈夫、小中学校は休校にしなくてもよい、といったより具体的な指針を示すことができます。

政府や都は、職業について細かな規制を敷いていますが(しかも両者で食い違っていますが)、この判断はきわめて恣意的です。
同じ職種であっても、複数の条件をインプットすることで、営業してもよい場合と自粛した方がよい場合との区別も可能となるはずです。
そういうきめ細かな指示を与えることは公共機関の責任でもあるでしょう。
政府は、大した理論的根拠もなく自粛7割から8割だ、などと断案を下していますが、経済の恐るべき凋落を考えたら、こんな粗雑な断案で片付く話ではありません。
8割おじさんこと西浦博氏が「専門家」としての力を示していますが、あまり理論的根拠を感じませんし、一律にしなくてはならない理由も明らかではありません。
地域や感染状況によって事情がまったく異なるはずだからです。
それに、仮に医療の立場から説得性があったとしても、一国の経済的運命を握る一大事なのですから、医師といえども政策決定に関与している限りは、この二律背反をどう解決するかについて、「政治判断は専門外だから」では済まされず、少なくとも真剣に悩むべきだと思います。

いずれにしても、この二律背反を克服するために必要なのは、疫病克服としてのコロナ対策と経済崩壊防止のための対策とをどう両立させるかの「さじ加減」です。
しかしいまの安倍政権にはその力はありません。
なにしろ消費税には一指も触れず、休業補償はしないと平然とのたまい、赤字国債はわずか16.8兆円、これでは国民殺しの政権と呼ばれても仕方ないでしょう。
すべてこれ、財務省がPB黒字化目標を崩さないところから出ている政策です。
実を言えば、コロナ危機は、財務省の緊縮路線を崩して、消費税を廃止し、100兆円規模の財政出動に踏み切る絶好のチャンスなのです。
これができれば、安倍首相はヒーローになれるでしょう。
ところが肝心の彼氏、星野源さんと並んでお部屋でワンちゃんと遊んでおります。
やる気のない安倍政権に見切りをつけて、私たち自身で国家存亡の危機に向き合っていきましょう。」

 以上引用おわり。
ところで、娘が世界一下手な「ツァラトゥストラかく語りき 下手」の演奏という動画をユーチューブで見つけてくれた。Portsmouth Sinfonia  よろしかったら爆笑してください。 ※追記 28日 この演奏のレコードは実はブライアン・イーノがかかわったものらしい。



小林久美子『アンヌのいた部屋』 歌集歌書瞥見 三

2020年04月13日 | 現代詩 短歌
 白い色とか、青い色というのは、いいものだ。キャンバスに白を塗って下にあった色を消していると、それだけで何もしなくても、何とかなるという気がしてくる。何もかけなくてもよい、とさえ思える。そうやって、自分のこころの内側をのぞきこんでいる、と言うか、画面に手先から何ものかが湧き出して来るのを待っていると、不安や怖れが消えて、心がすこしだけ落ち着いてくる。どきどきして、どうしていいのかわからない状態だったのが、収まってくる。そういう時にことばがいるのかどうかは、わからない。必要ないかもしれない。小林さんは絵描きだから、こう言えばわかってくれるだろう。

 読むことも、書くということも、絵をかくことと変わりはなくて、これと同じで、そういうことがわかってくると、表現というものは、みんな地続きで、それは技術や知識の違いというものはあるかもしれないが、まあ絵をかくように詩を作るということは、なかなか難しいことで、それができる人はそんなに多くない。でも、たまにそれができる人もいて、小林さんはそういうことができる人の一人だということが、小林さんの詩集をみるとわかる。

 それで何を言いたいのかというと、小林さんの書いたものは、白い色や青い色の絵の具を、こころを落ち着けるために無言でひとつの下塗りのようなものとして、出来上がりを祈念しつつも自分の意志で完成するまで何かを構築しようとするのではなく、受身で待ちながらとにかく筆を持って色を塗っている、塗り続けている、そういう姿が詩であるというようなテキストだということだ。だから、読み手をあまり拘束して来ない。ことばの衝迫力とか、衝撃的な事実やイメージの提示によって何かを企てようとするようなものではない。画面に姿形らしいものが静かに浮きあがればそれでよし、かたちをとらないならそれもよし、という不定形なものとしての、かすかな不幸と悲劇の遠いこだまが感じ取れる制作物として、にもかかわらず渾身の力をこめて編まれたものとして一冊がある。

 冒頭の「うつくしい書簡をまえに」という息をのむように美しい詩は、リルケの書いた女の手紙の話を下敷きにしているのかもしれないが、そうでなくてもよい。それは同時に自らが書いたかもしれない、また長くこころの中で書き続けて来た書簡でもあるかもしれないのだ。長いが、一篇を書き写してみる。何よりも声を出して読むことが肝要だ。

「うつくしい書簡をまえに」

どうして
胸が打たれるのか
小さな夢が破れて
目覚めたあとを

ひとりへのためにのみ
燃えつきる蠟燭
灯のほとりに
ひとを映し

落雷を沖にみていた
運命に
手を貸すことは
できないように

灯の前でおもう
ここにいないひとや
雲のかたちの
つくられ方を

投げ返さなければ
ならなかったのに
達しえないと
分かっていても

画のなかで汝が
ほほえむ
汝からはなれることが
できたかのように

かなたへ
運ばれる問い
遥かな時のむこうで
応えられるために

画のなかで
汝は吾の証人になる
画きまちがいで
あったとしても

覚書の紙片がでてくる
まだ知ることのない
感情を纏い

出会ったことで
存在させてしまう 声を
すがたを見うしなっても

とぎれた季を
現在に溶け合わせられたら
午後のルツーセを塗る

不遇にさえ
うるおされたのを想う
つながって往く二艘の舟に

うつくしい書簡を前に
試される ひとへ
愛を返すということ

稲妻も雨も
夜空のこれまでの
実験の成果をみせて降る

  …引用終了。なんてすばらしい! みなさん、立って拍手を。

小林幹也『九十九折』 歌集歌書瞥見 二

2020年04月13日 | 現代短歌
 塚本邦雄の弟子筋の人が、師風に染まらないような歌を作ってみせるとき、私はおもしろいと思うことが多い。歌集のなかにこんな歌を見つけた。

  笠要らんかェ~の声にブウと応じたる豚よ 晦日の雪はつらいか
    ※「晦日」に「みそか」と振り仮名。

  地蔵の笠、今朝新品に換はれどもあはれ朱印の企業名あり

 巻末の「笠地蔵異聞」の一連から引いた。ここに出てくる「市場」というような場所の力が、現代の日本では衰弱してしまっており、それにインターネットが拍車をかけている。

  カレー屋の亭主の勘定見守れる真鍮の象レジのうしろに

  断崖の隙間に萩の花が咲く 実朝もまた隙間の花か
    ※「断崖」に「きりぎし」と振り仮名。

 「真鍮の象」みたいなものを見ている歌が、この歌集にはたくさんあって、わるくない。はじめの方の「卒業式次第の行間」の一連では、そういう歌が少しめんどうくさい。要は数の配分の問題だ。 
別の話になるが、現在はコロナ禍から壊滅的な打撃を被っているこの「カレー屋」のような全国の小商いを守ることが急務だ。「V字回復用」の予算分も全部先に注入すべきで、今度の緊急補正の予算は配分を誤っていると私は考える。

 切れかけのこよりか 天橋立を子に見せたがるわがうたごころ

作者は大学やカルチャーで短歌や和歌を教える歌の専門家の一人である。一首先に引いた源実朝という存在が、断崖の隙間に咲く萩の花だというのは、うつくしいイメージだ。天橋立は、言わずと知れた古来の歌枕だが、「切れかけのこより」のようにも見えると、ざっくり言ってみせるのは、自分の甘い感傷を対象化するためである。

 お供への卵ひと呑みしたるのちに背を向けて眠る三輪山
  ※「背」に「そびら」と振り仮名。

三輪の祭神は蛇だから卵をのんで昼寝をする。いい歌だ。司馬遼太郎が「街道をゆく」の旅で常に同道した画家の須田剋太のエピソードをいま思い出した。おもしろいので長くなるが、コロナ禍で出社停止になって退屈しておられる方のために引いてみる。

「浦和時代、町に道具屋さんがあって、骨董などをならべていました。そこの主人が変な言葉をつかうので、須田さんは気味わるく思っていました。それが京都弁であることに気づかなかったのです。江戸時代なら須田さんのような人もいたでしょうが、昭和ヒトケタのころですから、この世に京都弁が存在することに気づかないほうが希少価値だったでしょう。    
(略)
……軍需景気で大もうけしている社長さんが、戦時下の須田さんの孤立(?)をあわれみ、会社の寮の番人にしてくれたのです。その寮が京都の八瀬にありました。
 そんなわけで、使いの人が浦和から須田さんをつれて京都に降りたのです。そのとき須田さんは、フォームで京都の人が話しているのをきいて、「ああ、あの道具屋さんのことばは京都のことばだったのか」と気づいたそうで、まことに好もしい迂遠さでした。

 京都からやがて奈良へうつりました。大和の国中の盆地にある天香具山や畝傍山、耳成山といった大和三山を須田さんはみて、「あれは造った山ですか」と人にきいたといいますから、なにやらきわだったのどかさでありました。そのような時期、名古屋の杉本健吉画伯が奈良に仮寓していて、仮寓者同士、終生の友人になりました。」
              司馬遼太郎『須田剋太「街道をゆく」とその周辺』より

ついでに書くと、コロナ禍で私が最近注目しているその須田剋太の大阪での回顧展が中止になった。残念である。私はまた注文していないが、そのカタログは売るようだから、零細な美術館を助けるために、みなさんもぜひ注文しましょう。絵は、ヤフーのオークションだと福井県のcircledis さんが安く売っている。すこし脱線しすぎてしまった。話をもどして、

  浜辺にて弁当蓋を閉ぢる手の動き浦島太郎を模して

  玄米をカレーの沼に沈ませて旧王朝の地層を崩す

  マシュマロを焼けばどろりと初恋を秘めたる杜の樹液のねばり

さり気ないが、気のきいた歌が多い。食べ物の歌もしゃれている。三首目は、だいたいマシュマロって焼くもんだろうか、というところも含めて、なんか変な歌だけれど、おもしろい。

  園児らが山猫さんと呼ぶ人は山根さんだと知る夕まぐれ

  「パパの欲しい物はなあに♡」と聞かるれば鸚鵡返しに「干し芋」といふ
 
平和な生活というのは、他愛ないものなのであって、それが大事。短歌はそういうものを守るためにある。

大橋弘『既視感製造機械』 近刊歌集瞥見 一 

2020年04月11日 | 現代短歌
 第二土曜日はだいたい短歌関係のことをやっている。ところが、このコロナ騒ぎで会はなくなるし、職場関係の用事も消滅した。それで八時頃に起き出して風呂に入り、手元に積んである歌集をめくってみた。全部読むいとまもないので、以下はざっとめくった感想にすぎないが、思ったことが消えないうちに書き留めておくことにする。作者にとっては、それでも何も言われないよりはいいはずなのだ。
 たったいま午前十時に、藤沢市長が防災放送で不要不急の外出自粛を呼びかける声が拡声スピーカーから流れた。それで、書くのを一時中断した。

さて、最初は大橋弘の新刊歌集『既視感製造機械』である。タイトルを見た時は、なんだかあまりいい感じを受けなかった。けれども、ぱっとまん中を拡げて「おれもまた荒廃をつくりだすことができるのだ」の一連十二首を読んだら、よくわかる気がするのだ。短歌の世界では、リアリズム系の人がこういう歌集をわからないと言って片付けてしまう時代があったが、今は完全に逆転した。大橋さんのような歌でないともう今の若い人は読まないだろう。

私はこの作者をずいぶん前から知っている。時折「桜狩」にのっている作品を見ては、個性的な作者だと思ってきた。二十年近く前だと思うが、何か不満を言って手紙で書き送ったこともあったような気がする。今度の歌集は、その時の歯がゆい感じがない。私が変わったのか、作者が変わったのか、たぶんその両方だと思うが、いい歌集に思えた。私はこのいまの「感じ」を信じることにする。

 そのかみのみやこを守る大鴉いま紅に焼かれつつあり

 真夜中は汝を電車にしてしまふはやくゆるめて抱かれてしまへ

 いづくとも知られず汝の去りしのち海に漂ふ桃の実の影

 桃のなだらかな、善悪のさかひめに沿つて舌は這ひゆく

古代中国の神話や、『古事記』の黄泉平坂で投げた桃の実のことを連想しながら読む。二首目や四首目は、何やら性愛の場面につながるエロティックな感じをにじませる。続きを読む。

 ふみつきの屋根ことごとく崩えゆくは雨に打たれしわたつみのいろ

 たましひをもてるわれらはたましひをゆらゆらさせて汁粉など食す

二首目の「電車」と、三首目の「海」の両方を受けて、この五首目の「わたつみ」が出てくるということが、イメージの論理として、私にはよくわかる気がする。それを、さらに現実の汁粉を食べる「われら」にまでひっぱって来てきちんと落着させる一連の運びなど、実にいい感じだ。

 おつと死者も生きてゐるのだ見えるだらう夜を運んでくる消防車

 朝な朝なクスリがきれて笑ひだすカニはかうしてヒトになつたよ

この「おつと死者も生きてゐるのだ」というおどけた口調には、それなりに年をとった人間でなければわからないような、生と死にたいするある感じ方というものがある。親しい死者がそこにいるという感じ、死者とともに自分は生きているのだという感じ方である。また「朝な朝なクスリがきれて笑ひだす」という歌には、現実の作者自身の実感も反映されているのだろう。 ※念のため、ここで言っている薬は、向精神薬系のものであろう。

 ビル風の真下に咲けば向日葵こそ冷酷なれとさとりは言へり

 まだ生きてゐたのか夜明けこれからも生きていくのか夜明けのやうに

「ビル風」の歌は一首だけみると難解にみえるが、続く「まだ生きてゐたのか」という歌を参照すればわかるだろう。根深く厭世的な作者、生き難いと感ずる作者がここには居て、朝起きた自分が「カニ」のように思える瞬間があって、そこから「人間」にもどって社会生活をするのだと思い決める、というような手続きを必要とする毎朝がある、なんてよくわかるではないか。

 あなたには聞こえない薔薇のこの薔薇の芯を朽ちてゆく幼児期

 引き波にさらはれおもちやは水底へからつぽのまま沈みてゆくなり

断じて表面的に言葉をいじくって遊んでいる歌ではない。「薔薇の芯」への言及には、個々の人間の抱える幼児期の記憶の淵源に対して、人は互いになかなか触れ得ないのだ、という深い認識がある。それは妻子や友人といった身近な他者と接しつつ日々感じる断絶感、わかり得ないという思いを言い留めるとするとこうなる、という歌なのだ。日本語の韻文表現のなかで完全に自前のものとなったシュルレアリスムと、一般化したもろもろの心理学的な知見の集積の上にこの一首はある。そうして、かすかに津波の記憶を揺曳している「からつぽのおもちや」の一首は、一連の「海」のイメージの展開をしめくくる秀逸な仕上がりとなっている。

 

高田博厚『人間の風景』

2020年04月07日 | 
 何やら世の中が騒然としていて、目に見えない感染症に対する不安が、そこいらじゅうに漂っている。誰が重症化するかわからない、というところに、このウイルス感染の深刻な点がある。
 それで、ここでは最近手元に取り出した本の話をしよう。彫刻家の高田博厚の『人間の風景』には、彼が交流した人々の思い出がつづられている。フランスに行く前の詩人中原中也との交友についての文章は、中原に関心のある人なら必読のものであろう。私は青山二郎の回想記の上にこの高田の文章をのっけてみたら、だいたいのところの中原中也の実像に近づけるのではないかと思う。点描されている長谷川泰子の姿も印象的である。高田がフランスに行くとき、見送りには二人がそろって来ていたという。
 それに何と言っても、実際のロマン・ロランやルオーとのやりとりが圧巻である。ロマン・ロランが弾いてくれたベートーヴェンの演奏のなかに、彼のすべてが表現されていた、という一文などはことに印象に残る。

 「私はよく『ジャン・クリストフ』の中のある箇所を思い出す。灰色の霧のこもった冬のパリで、クリストフは一文なしで、安宿の部屋は寒く、かぜをひいてしまう。やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。あそこだけが光っている。魂が温められて、熱病にかかったように、ふらふら外へ出て、リュ・ド・リヴォリ通りの通りへ来ると、向う側を昔会った女が歩いている。追いかけて通りを横切ろうとすると、雑踏する馬車にさえぎられてしまい、姿を見失う。夜中うなされていると、隣の部屋の見知らぬ女が、額にぬれた布を当てて介抱してくれているのがぼんやり眼に写る……。
 これは非常に美しい描写である。そしてこの幻は何人にとっても真実事実なのである。なぜならレムブラントの絵がそういうものを持っているのである。ただこの「変らないもの」に対して、一に「自分」がどうあるかにかかっている。別にかぜを引かなくても、一文なしでなくても宜いのではあるが、これはこちらの精神の素朴な状態を示す一つの条件にすぎない。批評家、鑑定家が一点の絵を見ている姿ではなくて、人間が美に触れている時の状態である。そしてこれが自分に現せ、自分に書けるのは大変なことだろう。時間がかかって、こういうことが段々解ってくると、もうフランスでもパリでもなくなってしまう。「変らないもの」の全量に自分が立ち向っていることに気づく。」 
   高田博厚「古いものと新しいもの」より

 「「変らないもの」の全量」に向かっていると、古いも新しいもないのだ、ということを高田は言う。これが、なかなか簡単ではない。人は流行に左右され、世間の評判に一喜一憂するものだ。
 そもそも「変らないもの」とは何だろう。感じつつ考える、ということをしなくてはならない。それは謙虚でないとできないことでもある。
絵や音楽、詩歌、芸術全般において、その最上のものに触れると、人は自然に謙虚にならざるを得なくなる。そのうえで、自分に何ができるのだろうかと考えてみる時、無謀な挑戦に向けて、恐れげもなく立ちあがり、一歩だけでも歩いてみるということは、何もしないでいるよりはましかもしれない。また、それは無理に「表現」である必用はなくて、「やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。」ということだけでもいいのだろう。その時の心の位相を「観じ」ようとするところが、高田と小林秀雄の共通するところだ。フランス文化の持つ厳然とした精神性と「神」に突き当たった人の証言として高田の言葉は傾聴に値する。
  とは言いながら、私などそういう智とははなから縁遠いのである。それでも、「「変らないもの」の全量」を思うことが、安易な死への誘惑と、死からの遁走との両方から人を救い出すものであることは、わかる。