一太郎ファイルの復刻を続ける。「砦」に掲載したものである。これは字句をいじらない。
東林興会抄・二〇
振替休日の諸書周遊 さいかち真
本を読むよりも何かものを書いている方が楽だ。書くことは、まったく苦にならない。しかし、書くためには読まなければならないので、それが難儀である。本は、飽きたら足元に積んでおき、折々取り出して見ているうちに、いつの間にか全部読んでしまっていた、というような読み方をするのが理想である。しかし、実際はなかなかそうもいかない。春から夏にかけての三、四カ月の間に、ざっと見て三百冊ほどの本が、仕事机の前後に乱雑に積み上がってしまった。ただでさえ私の部屋は潜水艦のような状態なのだから、本の過飽和は物の雪崩を引き起こす。それに足場が狭いために、茶碗を持って椅子につくことができない。今もコーヒーをこぼしてしまって、あわてて拭いたところだ。今日は夏休み期間中の木曜日だが、休日出勤の振替で一日空いている。本を片付けようとして書名を見ると、半分はまだ手元に置いておきたい気がするのだが、そこを思い切って運び出すことにする。いったん倉庫に出しておいて、それからまた少しずつ持ってくればいいと自分に言い聞かせる。
本はサイズごとに紐でしばっていく。紐は、浴衣の帯のように腹のところでぐるぐる巻くだけで、十文字結びにはしない。三周ほど巻いて少したるみを持たせるのが、こつである。蝶結びにして、そのまま紐の真ん中を持ってぶら下げると、本の重みで自然に羊羹型の一塊になる。これは古本屋で教わったやり方だ。ただし両脇の本は押されて紐の跡がつきやすいので、大事な本は、中の方に挟む。紐の当たるところに厚手の紙をあてがってあるのを古書店で見たことがあるが、私はそこまでしない。本の整理をしていると、時々、こんなことばかりやっているうちに俺の一生はおわるのかなあ、などと思ったりすることがある。楽しくて、空しくて、多少めんどうだ。詩歌にかかわることも、これに似ているところがある。
〇穂村弘著『短歌の友人』には、中澤系の作品がたくさん引いてある。どれも初出で見た文章だが、あらためて中澤系の作品が、八十年代から九十年代のはじめにかけての若者の心情を代弁するものだったということを思わせられた。
〇 柴田千晶『セラフィタ氏』。これは藤原龍一郎の短歌と柴田の詩とのコラボレーションである。開いたら最後まで一気に読み終えた。どういうやり方をとったのかが書いていないので、コラボの過程がイメージできないのだが、両者の言葉は、密接な内的結び付きをもって共振している。展開されるイメージは、皆川博子や久世光彦の小説世界に多少似通ったところがあると思ったが、エロス的なものの表現はどれも戦慄的であり、全編がアイロニカルな姿勢をもって統御されている。これは短歌が出て来るテキストでは近年まれなことである。
〇笹公人著『念力短歌トレーニング』。とにかく紹介されている投稿者の作品の技術レベルが高いのに舌を巻いた。本人言うところの「おもしろ短歌」で一つのジャンルを作ってしまった。
「アンドレ・ザ・純子」とみんなに呼ばれてた少女がぼくの初恋のひと 異能兄弟
タクシーがすつと止まりてつまらなし洗い髪にて立つ墓地前は 桐生祐狩
〇池本一郎歌集『草立』。鳥取の歌人。「塔」所属。先日、現実の作者も作品同様に諧謔にあふれる人だと知った。すっきりとした写生を基本のところに置いておいて、今生のもののあわれを軽妙に詠んでいる。
かざかみに風紋はのび砂うごく従うのみに年かさねつつ
一線に二百もならぶ漁火が散ってゆくなり丘にのぼれば
底辺につづく兵士ら聞こえよく一等・上等とよびしこの国
〇浦上規一歌集『点々と点』。大阪の歌人。「未来」所属。自ら最後の老兵、と言う。一九二〇年生まれの作者としては、目の黒いうちにと出した歌集である。闊達自在な歌境であり、歌によって老年の生の輪郭を確かめ、日々のかけがえのなさをかみしめている。
新しきいくさ爆ぜたり、新しき酸素管つけて妻は生きつつ
幕煙の九・一一のひと日より青空の奥のもの暗い青
「主婦の友」「婦人倶楽部」のすくよかの豊頬思う吾は老深く
〇樋口覚著『雑音考』。二〇〇一年刊だが、最近取り出してみて、「『やぽん・まるち』―萩原朔太郎と保田與重郎の行進曲論」という論考に感心した。
〇『室町和歌への招待』。林達也、廣木一人、鈴木健一共著。読みやすかったし、知らない作者がたくさんあった。関連して大谷俊太著『和歌史の「近世」』が近刊として目についた。終章では、最近何かと話題の「実感」がキーワードの一つになっているので、興味のある方はご覧を。
〇一ノ関忠人歌集『帰路』。病気療養の歌は同情なしには読めない。しかし、独吟連句あり、長歌ありと、一冊には文芸の徒の遊びが感じられる。また生命への意志といつくしみのまなざしが感じられる。
目盲ひたる春庭翁の坐りけり妻壱岐をまへに歌くちずさみ
セキレイのしばし憩へる石のうへいまわたくしが疲れて坐る
いにしへの あづまの王の/墳丘の 草の茂りに/四股ふみて わが彳めば/いつしかに/いのち生きよと 地に響きたり
療養は、大地の霊力を身につけるための忌みごもりなのだ。
〇源陽子歌集『桜桃の実の朝のために』。夫の経営する会社が親会社の事業整理で一気につぶされたり、自身は交通事故にあったりするという多事多端の年月を詠んだ歌。歌はきりっと引き締まった調子を持つ。
雑草の波を漕ぐとも何処までも所有の線のきびしく引かる
胸のこのここの辺りに武士の生きると言えりシャツを掴みて
一ミリを折り曲げんため一歩を踏み出さんため生き直すため
これしきの事と言いたり是式はさいさい交わす賄賂の隠語
知的で力強い、生きんとする意志に満ちた歌集である。
東林興会抄・二〇
振替休日の諸書周遊 さいかち真
本を読むよりも何かものを書いている方が楽だ。書くことは、まったく苦にならない。しかし、書くためには読まなければならないので、それが難儀である。本は、飽きたら足元に積んでおき、折々取り出して見ているうちに、いつの間にか全部読んでしまっていた、というような読み方をするのが理想である。しかし、実際はなかなかそうもいかない。春から夏にかけての三、四カ月の間に、ざっと見て三百冊ほどの本が、仕事机の前後に乱雑に積み上がってしまった。ただでさえ私の部屋は潜水艦のような状態なのだから、本の過飽和は物の雪崩を引き起こす。それに足場が狭いために、茶碗を持って椅子につくことができない。今もコーヒーをこぼしてしまって、あわてて拭いたところだ。今日は夏休み期間中の木曜日だが、休日出勤の振替で一日空いている。本を片付けようとして書名を見ると、半分はまだ手元に置いておきたい気がするのだが、そこを思い切って運び出すことにする。いったん倉庫に出しておいて、それからまた少しずつ持ってくればいいと自分に言い聞かせる。
本はサイズごとに紐でしばっていく。紐は、浴衣の帯のように腹のところでぐるぐる巻くだけで、十文字結びにはしない。三周ほど巻いて少したるみを持たせるのが、こつである。蝶結びにして、そのまま紐の真ん中を持ってぶら下げると、本の重みで自然に羊羹型の一塊になる。これは古本屋で教わったやり方だ。ただし両脇の本は押されて紐の跡がつきやすいので、大事な本は、中の方に挟む。紐の当たるところに厚手の紙をあてがってあるのを古書店で見たことがあるが、私はそこまでしない。本の整理をしていると、時々、こんなことばかりやっているうちに俺の一生はおわるのかなあ、などと思ったりすることがある。楽しくて、空しくて、多少めんどうだ。詩歌にかかわることも、これに似ているところがある。
〇穂村弘著『短歌の友人』には、中澤系の作品がたくさん引いてある。どれも初出で見た文章だが、あらためて中澤系の作品が、八十年代から九十年代のはじめにかけての若者の心情を代弁するものだったということを思わせられた。
〇 柴田千晶『セラフィタ氏』。これは藤原龍一郎の短歌と柴田の詩とのコラボレーションである。開いたら最後まで一気に読み終えた。どういうやり方をとったのかが書いていないので、コラボの過程がイメージできないのだが、両者の言葉は、密接な内的結び付きをもって共振している。展開されるイメージは、皆川博子や久世光彦の小説世界に多少似通ったところがあると思ったが、エロス的なものの表現はどれも戦慄的であり、全編がアイロニカルな姿勢をもって統御されている。これは短歌が出て来るテキストでは近年まれなことである。
〇笹公人著『念力短歌トレーニング』。とにかく紹介されている投稿者の作品の技術レベルが高いのに舌を巻いた。本人言うところの「おもしろ短歌」で一つのジャンルを作ってしまった。
「アンドレ・ザ・純子」とみんなに呼ばれてた少女がぼくの初恋のひと 異能兄弟
タクシーがすつと止まりてつまらなし洗い髪にて立つ墓地前は 桐生祐狩
〇池本一郎歌集『草立』。鳥取の歌人。「塔」所属。先日、現実の作者も作品同様に諧謔にあふれる人だと知った。すっきりとした写生を基本のところに置いておいて、今生のもののあわれを軽妙に詠んでいる。
かざかみに風紋はのび砂うごく従うのみに年かさねつつ
一線に二百もならぶ漁火が散ってゆくなり丘にのぼれば
底辺につづく兵士ら聞こえよく一等・上等とよびしこの国
〇浦上規一歌集『点々と点』。大阪の歌人。「未来」所属。自ら最後の老兵、と言う。一九二〇年生まれの作者としては、目の黒いうちにと出した歌集である。闊達自在な歌境であり、歌によって老年の生の輪郭を確かめ、日々のかけがえのなさをかみしめている。
新しきいくさ爆ぜたり、新しき酸素管つけて妻は生きつつ
幕煙の九・一一のひと日より青空の奥のもの暗い青
「主婦の友」「婦人倶楽部」のすくよかの豊頬思う吾は老深く
〇樋口覚著『雑音考』。二〇〇一年刊だが、最近取り出してみて、「『やぽん・まるち』―萩原朔太郎と保田與重郎の行進曲論」という論考に感心した。
〇『室町和歌への招待』。林達也、廣木一人、鈴木健一共著。読みやすかったし、知らない作者がたくさんあった。関連して大谷俊太著『和歌史の「近世」』が近刊として目についた。終章では、最近何かと話題の「実感」がキーワードの一つになっているので、興味のある方はご覧を。
〇一ノ関忠人歌集『帰路』。病気療養の歌は同情なしには読めない。しかし、独吟連句あり、長歌ありと、一冊には文芸の徒の遊びが感じられる。また生命への意志といつくしみのまなざしが感じられる。
目盲ひたる春庭翁の坐りけり妻壱岐をまへに歌くちずさみ
セキレイのしばし憩へる石のうへいまわたくしが疲れて坐る
いにしへの あづまの王の/墳丘の 草の茂りに/四股ふみて わが彳めば/いつしかに/いのち生きよと 地に響きたり
療養は、大地の霊力を身につけるための忌みごもりなのだ。
〇源陽子歌集『桜桃の実の朝のために』。夫の経営する会社が親会社の事業整理で一気につぶされたり、自身は交通事故にあったりするという多事多端の年月を詠んだ歌。歌はきりっと引き締まった調子を持つ。
雑草の波を漕ぐとも何処までも所有の線のきびしく引かる
胸のこのここの辺りに武士の生きると言えりシャツを掴みて
一ミリを折り曲げんため一歩を踏み出さんため生き直すため
これしきの事と言いたり是式はさいさい交わす賄賂の隠語
知的で力強い、生きんとする意志に満ちた歌集である。