さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

東林興会抄・二〇 (旧稿発掘)

2016年10月25日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻を続ける。「砦」に掲載したものである。これは字句をいじらない。

東林興会抄・二〇
振替休日の諸書周遊                  さいかち真
  


  本を読むよりも何かものを書いている方が楽だ。書くことは、まったく苦にならない。しかし、書くためには読まなければならないので、それが難儀である。本は、飽きたら足元に積んでおき、折々取り出して見ているうちに、いつの間にか全部読んでしまっていた、というような読み方をするのが理想である。しかし、実際はなかなかそうもいかない。春から夏にかけての三、四カ月の間に、ざっと見て三百冊ほどの本が、仕事机の前後に乱雑に積み上がってしまった。ただでさえ私の部屋は潜水艦のような状態なのだから、本の過飽和は物の雪崩を引き起こす。それに足場が狭いために、茶碗を持って椅子につくことができない。今もコーヒーをこぼしてしまって、あわてて拭いたところだ。今日は夏休み期間中の木曜日だが、休日出勤の振替で一日空いている。本を片付けようとして書名を見ると、半分はまだ手元に置いておきたい気がするのだが、そこを思い切って運び出すことにする。いったん倉庫に出しておいて、それからまた少しずつ持ってくればいいと自分に言い聞かせる。

 本はサイズごとに紐でしばっていく。紐は、浴衣の帯のように腹のところでぐるぐる巻くだけで、十文字結びにはしない。三周ほど巻いて少したるみを持たせるのが、こつである。蝶結びにして、そのまま紐の真ん中を持ってぶら下げると、本の重みで自然に羊羹型の一塊になる。これは古本屋で教わったやり方だ。ただし両脇の本は押されて紐の跡がつきやすいので、大事な本は、中の方に挟む。紐の当たるところに厚手の紙をあてがってあるのを古書店で見たことがあるが、私はそこまでしない。本の整理をしていると、時々、こんなことばかりやっているうちに俺の一生はおわるのかなあ、などと思ったりすることがある。楽しくて、空しくて、多少めんどうだ。詩歌にかかわることも、これに似ているところがある。

〇穂村弘著『短歌の友人』には、中澤系の作品がたくさん引いてある。どれも初出で見た文章だが、あらためて中澤系の作品が、八十年代から九十年代のはじめにかけての若者の心情を代弁するものだったということを思わせられた。

〇 柴田千晶『セラフィタ氏』。これは藤原龍一郎の短歌と柴田の詩とのコラボレーションである。開いたら最後まで一気に読み終えた。どういうやり方をとったのかが書いていないので、コラボの過程がイメージできないのだが、両者の言葉は、密接な内的結び付きをもって共振している。展開されるイメージは、皆川博子や久世光彦の小説世界に多少似通ったところがあると思ったが、エロス的なものの表現はどれも戦慄的であり、全編がアイロニカルな姿勢をもって統御されている。これは短歌が出て来るテキストでは近年まれなことである。

〇笹公人著『念力短歌トレーニング』。とにかく紹介されている投稿者の作品の技術レベルが高いのに舌を巻いた。本人言うところの「おもしろ短歌」で一つのジャンルを作ってしまった。

  「アンドレ・ザ・純子」とみんなに呼ばれてた少女がぼくの初恋のひと     異能兄弟
  タクシーがすつと止まりてつまらなし洗い髪にて立つ墓地前は        桐生祐狩

〇池本一郎歌集『草立』。鳥取の歌人。「塔」所属。先日、現実の作者も作品同様に諧謔にあふれる人だと知った。すっきりとした写生を基本のところに置いておいて、今生のもののあわれを軽妙に詠んでいる。

  かざかみに風紋はのび砂うごく従うのみに年かさねつつ
  一線に二百もならぶ漁火が散ってゆくなり丘にのぼれば
  底辺につづく兵士ら聞こえよく一等・上等とよびしこの国

〇浦上規一歌集『点々と点』。大阪の歌人。「未来」所属。自ら最後の老兵、と言う。一九二〇年生まれの作者としては、目の黒いうちにと出した歌集である。闊達自在な歌境であり、歌によって老年の生の輪郭を確かめ、日々のかけがえのなさをかみしめている。

  新しきいくさ爆ぜたり、新しき酸素管つけて妻は生きつつ
  幕煙の九・一一のひと日より青空の奥のもの暗い青
  「主婦の友」「婦人倶楽部」のすくよかの豊頬思う吾は老深く

〇樋口覚著『雑音考』。二〇〇一年刊だが、最近取り出してみて、「『やぽん・まるち』―萩原朔太郎と保田與重郎の行進曲論」という論考に感心した。

〇『室町和歌への招待』。林達也、廣木一人、鈴木健一共著。読みやすかったし、知らない作者がたくさんあった。関連して大谷俊太著『和歌史の「近世」』が近刊として目についた。終章では、最近何かと話題の「実感」がキーワードの一つになっているので、興味のある方はご覧を。

〇一ノ関忠人歌集『帰路』。病気療養の歌は同情なしには読めない。しかし、独吟連句あり、長歌ありと、一冊には文芸の徒の遊びが感じられる。また生命への意志といつくしみのまなざしが感じられる。         
  目盲ひたる春庭翁の坐りけり妻壱岐をまへに歌くちずさみ
  セキレイのしばし憩へる石のうへいまわたくしが疲れて坐る
  いにしへの あづまの王の/墳丘の 草の茂りに/四股ふみて わが彳めば/いつしかに/いのち生きよと 地に響きたり

 療養は、大地の霊力を身につけるための忌みごもりなのだ。

〇源陽子歌集『桜桃の実の朝のために』。夫の経営する会社が親会社の事業整理で一気につぶされたり、自身は交通事故にあったりするという多事多端の年月を詠んだ歌。歌はきりっと引き締まった調子を持つ。

  雑草の波を漕ぐとも何処までも所有の線のきびしく引かる
  胸のこのここの辺りに武士の生きると言えりシャツを掴みて
  一ミリを折り曲げんため一歩を踏み出さんため生き直すため
  これしきの事と言いたり是式はさいさい交わす賄賂の隠語

 知的で力強い、生きんとする意志に満ちた歌集である。

真中朋久歌集『エフライムの岸』

2016年10月25日 | 現代短歌
以下は、昨年「うた新聞」に掲載したものを転載する。

苦悩と調べの試行                 さいかち真 

第四歌集である。転職に伴う葛藤を背景として、一集の随所に他者との緊張したやりとりがあらわれている。そうした生活上の苦悩の中から、くもりのない意識を持って現実を観照し、清潔な倫理感のようなものをにじませる多くの歌が生まれた。

・水槽のちかくの椅子に呆とをれば金魚が小石をねぶり吐き出す
・解雇告げるこゑ隣室にしづかなりしづかなればなほ響きくるなり

沈痛で、うっすらと疲労感をまといながら、あくまでも求心的にあろうとする姿勢が、印象に残る。たとえば右の二首目を分析してみると、「解雇告げる  こゑ  隣室に   しづかなり。しづかなれば  なほ   響きくるなり」と、底にくぐもった五・七調を、句をまたがらせることによって、逆の七・五の外見で包み直すという、異化した調べを見せている。

二〇〇六年から一〇年までの集成のうち、私は〇七年の「焚火」「光」などの一連に読み応えを感じた。そこから引く。

・冬の時雨いくたびか過ぎ傘持たぬままに来たりぬ 火花の苦悩
・合流する川その上流に橋ありき橋ありて橋ありて田野暗し
・手をのばせば届くと思ふくらがりにひとの気配はうつむきてありぬ

一首のなかに幾度も屈折し、屈曲して行く調べをあえて呼び入れながら、重層的な心象表現を追求し、試行している。三首めの初句と、結句の「うつむきてありぬ」の鈍重な字余りは、現実の作者の心身が抱え込んだものを暗示して、哀切極まりない。くらぐらとした時代の空気を呼吸しながら、歌は静かに闘っている。


「群像」2016年11月号 この、被虐的逆ユートピア

2016年10月16日 | 現代小説
 「群像」の2016年11月号を読んでいる。岡本学の小説「再起動」は、オウム事件のことを思い出させた。これが町田康の「ホサナ」と並んでいるのは、編集の妙、と言うか、できすぎなぐらいに絶妙な取合せである。ともに宗教的な思念が、逆ユートピアを語ることとリンクしてしまう日本の特殊な精神状況のようなものを言い当てているからだ。

 それはたぶん、派遣労働者の追い込まれている苦境を源泉として、逸脱する想像力が、自己目的的に運動しようとすると、目標とする着地点がないために、必然的に宗教的な志向を参照項として呼び込んでしまうことを意味しており、それ自体は別にさして珍しいことではないが、超越的なものの在処をめぐって現在世界的に展開されている暗闘のようなものに、日本の小説家の想像力が無縁ではないということを同時に意味してもいるのではないかと思う。

 私自身は、こんなふうに小説を読んだコメントを書いているよりも、今はТPP条約やめろ、というデモでもした方がいいのではないかと考えているのだが、とりあえず、口先だけでも犬の遠吠えはしておいて、町田康の小説では、犬となった視点人物は、結局意識朦朧となったところで「私たちをお救いください」と言って倒れてしまうのだから、まったくもって犬の皮をかぶった駄目人間みたいなのが、いまの日本人なのであろうよ。と、激語。

して、何もしない。のではなく、誰かデモでもしてくださいよ。多国籍企業の奴隷になるのが嫌でなかったら。私は息子の世話をしなくてはならないのだ。くそぅ、と町田語調で…。

 田中 慎弥の「司令官の最期」という小説(『すばる』2016年7月号)について、何か書きたいと思ったままきっかけがなかったのだが、ひとつ言ってみると、要するに逆ユートピアの山登り選手権みたいになっているのが、最近の現代日本文学なのかな。優勝、金メダルは誰か。

 こうなったら岩井志麻子あたりに、瀬戸内寂聴さんの『女徳』みたいな大長編の逆ユートピア小説を書いてもらいたい。



身めぐりの本

2016年10月10日 | 
 以下は、主として買った古書の話なので、興味のない方は、別にお移りください。 ※これは、しばらく消してあったが、本好きの人間にはおもしろいだろうと思うので、復活させる。

 だいたい本など一度に読めるものではないし、また、一冊を全部読まなくてはならないというものではない。そうすると、放ってある本がいつまでも片づかないということにはなるのだけれども、全部読んだら読んだで、そんな本はそう多くはないわけだから、それはむしろ大事な一冊であろう。読み終えたら、その本はすぐに処分できるというものでもない。読みかけの本を読むきっかけは、だいたいが偶然に左右される。 そういう意味では、積んである本が崩れるのは、たいてい一つのきっかけになる。

数年前の引っ越し以来、私の蔵書の整理はめちゃくちゃのままで、その上に新刊が重なっていくので、もうどうにもならない。別にめずらしい本があるわけではないのだが、最近は自分がそれを持っていたこと自体ほとんど忘れているので、「こんな本があったんだ」と新鮮に感ずることが多くなった。坐っている机と椅子のまわりから気になったものを拾いだしてみることにする。

 どれも古書で500円以内のもの。
興津要『落語と江戸っ子』(昭和48年刊)。
木村尚三郎『文化の風景』(1997年刊)。
安東次男『木枕の垢』(1981年刊)。
谷沢永一『机上の劇』(昭和五十八年刊)。
大江健三郎『言い難き嘆きもて』(2001年刊)。
川村二郎『日本廻国記』(昭和六十二年刊)。
平岡正明『スラップステイック 快人伝』(1976年刊)。
田村隆一『新年の手紙』(昭和四八年刊)。
石田周一『耕して育つ』(2005年刊)。
片山洋次郎『整体 楽になる技術』(2001年刊ちくま新書)。

 井辻朱美訳ローズマリー・サトクリフ『トリスタンとイズ―』。
これは800円した。あとは古書展などで買った納得の行く本と、わざわざ注文して買った本。
安藤鶴夫『三木助歳時記』(昭和50年旺文社文庫)800円。
北原白秋『渓流抄』(昭和十八年刊)324円。
島津忠夫『連歌師宗祇』(1991年)700円。
松本健一『戦後の精神』(1985年刊)。

 上にあげた本は、全部読んだものが一冊もない。今書きだしてみて思ったのだが、みごとに一部拾い読みに向いている本ばかり集めてある。頭の調子を調整したり、当面集中している事柄から外したりするための本と言えるかもしれない。これも固定してあるわけではないので、何か月かの間に、別の本と交代してどこかに行ってしまうのである。

 新刊もあげておこう。
五木寛之『日本幻論 漂泊者のこころ 蓮如・熊楠・隠岐共和国』(ちくま文庫2014年)。
木山捷平『氏神さま 春雨 耳学問』(講談社文芸文庫2013年第七刷)。
『日本文学全集20 吉田健一』(2015年河出書房新社)。
文月悠光『屋根よりも深々と』(2013年思潮社)。
斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(2016年刊)。
この本は出たばかりである。評判になるにちがいない。

最後に、岡井隆『詩の点滅』(角川書店2016年刊)。
これは岡井さんの最新刊の本だ。岡井先生がいたから私は路頭に迷わないですんだようなものなので、岡井隆は私の一番の文学的恩人である。 

田村ひさ子の歌  「未来」の短歌採集帖(4)

2016年10月09日 | 現代短歌
 東京タワー虚空の闇に燃え立ちてかすか汗ばみ吾は生きてあり
                         『生れいずるべし』

作者は近藤芳美の門下。私は作者とは中野の歌会で何度もごいっしょしたことがある。今日は休みだったので、終日音楽などを聞きながら手紙を書いたり本をめくったりして過ごしていたのだが、この歌の「東京タワー」が、どうしても頭の隅に残っていて消えないので、やっぱり書いておこうと思った。この歌の「東京タワー虚空の闇に燃え立ちて」という情景は、何となく赤い色のようなイメージなのだが、私は最近の夜の東京タワーの姿がにわかに思い浮かばないので、実際のところはわからない。入所した施設から見えるのだろう。結句は、自分はまだ生きているのだ、という自己確認の言葉である。

悲しみは冴え渡りたる冬天の銀杏きららかに舞い散りやまぬ
夢にきて明るく笑まう娘よ吾は涙を拭きて歌作るべし
これの世をふっと重荷に思う夜を亡き娘の日記繰れば娘の声

一集は、自分よりも先に逝った娘への挽歌が中心となって編まれている。これらの歌は、逆縁となった方々が等しく共有される思いをうたったものであろう。しかし、作者は生きていかなければならない。

桜花どっと吹雪ける春疾風われは己に生きよと命ず
人の手に委ねて朝の身じまいすこれがわたしの今日の始まり

「われは己に生きよと命ず」。この言葉を、多くの人に届けたい。あとは、よけいなことかもしれないが、いまこの文章を書きながら私が聞いていたのは、グレン・グールドの奏するバッハの「ゴールドベルク変奏曲」(1982年)である。この楽章のうちのいくつかは、田村さんの心にもかなうであろう、と思ったことだった。

小暮政次の歌

2016年10月06日 | 現代短歌
以下は、2015年5月に「無人島」に寄せた文章である。

 最近はジャンルによって古書の値下がりが甚だしいので、私のような本好きにとっては、ありがたいような悲しいような事態が起きている。加えて国会図書館蔵書のデジタル化が進んだため、かつての稀覯本が安価に市場に出回るようになった。『桂園遺稿』上・下など、私が買った時は一万五千円したものが、最近「日本の古本屋」サイトを見たら約半分の価格に下がっていた。詩集、歌集は特に有名なもの以外は、たいていのものは千円も出せば買えるのである。なお国会図書館の「近代文学デジタルライブラリー」は必見。影印本まで見ることができる。あとは国際日本文化研究センターの検索データも「国歌大観」が見られない時は便利である。

 閑話休題。淺川氏より近藤芳美について何か書けないかということなのだけれども、これは私の書くものよりも大島史洋の近著『近藤芳美論』などを見た方が時間の節約になる。ここでは近藤の五歳年上の先輩に当たる小暮政次の歌について書いてみたい。晩年より十年ほど前の近藤芳美に私は歌会の後の席で親しく接したことがある。その時に近藤は小暮政次の歌を読めと私に言った。これについては、砂小屋のホームページの「今日のクオリア」の五月十四日のところに書いた。

 小暮政次の歌は、ある年齢をこえた者には、きわめて価値の高い生の指針となるようなものではないだろうか。私の手元には『小暮政次全歌集』と十冊ほどの歌集があるのだが、特に晩年に近い頃のものは、「全歌集」が便利である。どこを開いてもいいのである。たちどころに小暮の生きていた老年の思念の時間と、見聞きしていた周囲の事物の姿に触れることができるのである。これを見ると、歌がうまいとかへたとか、いい歌とかよくない歌とか、そういう所を完全に踏み越えたところを独歩する歌人の自在な境地に新鮮な驚きを覚えるのである。『閑賦集』(未刊歌集)の「来るべきもの」より。

 束の間に息は定まるかなしさを告げがたきかなこれの世のこと
 側になほ在るごとし思ふさへ自から疑へど致し方なし
 ひつたりと寄り添ひてくる影なるかひとりはなれてゆく影なるか
 眠らむとして安からぬ心なり暁となり樹々遠くゆらぐ
 哀しみを試みとして受け入れむと思ひ至りし時暁は近し
 眠りがたし思ひていよいよ眠り難しひとりのこころひとり思ひて   『閑賦集』  

 これは作者が平成七年に妻を見送ってのちの歌である。私は同じような境遇の方と接する機会があるので、こういう歌も歌会にしばしば出てくる。父母や子、兄弟をうたった歌とともに、普遍的な人間の心情を表現しているのではないかと思うのである。全体に心内語をつづった作品が多いのだけれども、「暁となり樹々遠くゆらぐ」というような、簡略でおおまかな自然の描写が、かえってわれわれの日常の感覚を思い起こさせるところがある。そうして、小暮の話法は、繰り返し自己の思考の跡をたどってゆくものである。言い直し、思い返ししながら、思考の流れを定着してゆく。
 「ひつたりと寄り添ひてくる影なるか」。もう一度。「ひとりはなれてゆく影なるか」。寄り添う影は、はなれてゆく影である。
「眠りがたし」。思ひていよいよ「眠り難し」。「ひとり」のこころを「ひとり」思ひて。上句と下句に二度、繰り返しがある。こうすると、歌はいくらでも、後からあとから湧くように作ることができるのだろう。それが格調を持って、だらだらしないのは、文語と定型の功徳というものである。

 解題の文章にも触れられているが、平成二年の土屋文明の没後の歌は、明らかに歌風がそれ以前と異なる。『暫紅集』『暫紅新集』『閑賦集』と続くなかで、『暫紅新集』は少しうるさい感じのする歌がある。それが『閑賦集』ではいたく鎮まっているのだが、『暫紅集』『暫紅新集』には、その分生気があるとも言える。もとより拾い読みの感触で、熟読したわけではないが、だいたい当たりをつけるとそんな感じだ。

  噴飯、絶倒、大笑の例を集めたり人々我を笑止と見たまへ
  「酔望」の二字拾ひ得たり愉し愉し恰も青葉は光り狂へる     『暫紅新集』

 自己プレゼンテーション全盛の昨今は謙遜の辞がほぼ絶滅しているので、年輩の方は、若い人の前で「笑止と見たまへ」などとはあまり言わない方がいいようである。