さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中島裕介『polylyricism』

2022年12月18日 | 現代詩 短歌
 今度二冊同時に刊行された中島雄介さんの歌集は、作者が短歌で何をやりたいのかということを明確に示したものである。ここには私詩としての短歌の特性を踏まえたうえで、容赦なく自己を対象化し、さらには戯画化しながら、自意識の酔いを排除しつつ語ろうとする先鋭な構想力を持った哲学の語り手がいる。それは、現代に生きる者の世界観と言い換えてもいい性格のものだ。また、短歌型式を新たな詩の容れ物として展開するための納得のいく方法の提示がある。この二冊の遊びごころに満ちた作品集は、塚本邦雄や土屋文明と同様に短歌を通して文明・社会批評を為していこうとする精神を多分に保持している。作品集全体の底に上等なビター・テイストのクリティカルなチェレスタのような音がトレモロのように響き続けているのだ。第一歌集をみた時に私はこの作者を見誤った。自分が何をしようとしているのかがわからない人ではないかと思ったのだ。しかし、それは完璧にまちがっていた。身内に対しては酷評を話していたので、もしかして作者の耳にも入っていたかもしれない。まったく申し訳ないと言うほかはない。

 私は入手したその日のうちに『polylyricism』の方を読了し、もう一冊は翌日から拾い読みして楽しんでいる。いまはまだその途中である。今日はだから、平仮名で読んで、ぽりりりしずむ、の方の作品に触れる。まず最初の章の作品に触れようと思ったのだけれども、いま見たら、栞で私が現代の若手のなかで最大級に評価している歌人の井上法子がこの連に言及した文章を書いているようだ。それで、次の章の「安全だが安心でない」の章の作品に先に触れることにしたい。三首引く。

  ナポリタンを頼めば食品サンプルのように手元でフォークが浮かぶ

    ロバート・ラウシェンバーグ「消去されたデ・クーニングのドローイング」
  音声だけをYouTubeから抜き出した叫びだきっと描かれたのは

  雪解けのコンクリートにあらわれる砂礫の波と砂礫の波間

 以上でD難度クリアーを認定します、というところ。実にうまい。ただし、この人は寡作だから、短歌ジャーナリズムの編集者は、作者のペースを確認してから依頼するべきであろう。別にあせる必要はないのだ。これは、長年薄味に薄められた連載大作群を読ませられて来た者としての率直な思いである。

 ここで最初の一連について書いた文章を出すことにする。

 十四首目の「九月一四日(金)まずい、この調子では本当に毎日作ってしまう」という詞書を読んだときに、私は「あれっ」と思った。ここでは、毎日トリビアルな日常嘱目の事物をとりあげて短歌作品を作ることについて、作者はどうやら抵抗を感じているらしい。
 そもそも日常の些事を取りあげて毎日のように短歌を作ることは、歌人にとっては当たり前のことではないのか。そのことに抵抗を感じている作者って、いったいどういう短歌の作者なんだろう! ここのところで、作品創作についての意識・在り様というものが、まったく従来と異なっている、もしかしたら真逆なのかもしれないということに気がついて、私はそのことがとても面白かった。そうして、ここには同時に作者の「写実的短歌システム」への批評的なからかいと「照れ」があるということも感じられたのである。

 あとは、この作品集の別の側面に少しだけ触れることにしよう。二首引く。

 あいそぱらめとりっくぱらいそあられとりっくらいそーむおいありがたがれよ

 アクセルが(バーニラバニラバーニラきゅうじんバーニラ)戻らなかった

 これらの歌のきっかけとなった事実的な背景について、ふだん短歌関係のSNSメディアにほとんどアクセスしない私でも思い当たることはあるのだけれども、この歌集についてのコメントでそれを書いても仕方がないと私は考える。端的に言うなら、作者は見事に飛んで来た球を打ち返していると思う。それもなかなか痛烈に、である。それで充分ではないか。私の場合は、何十年も経てのち、成長した自身の娘を含む肉親から自身の過去の不合理かつジェンダー的な言動の数々を糾弾される日々を送っているので、まったく身につまされるようなところがあった。作者が血を流しているぶん、世代的にどうしても年長のところに居る者は皆、腰骨を折られて蹲るほかはないのだけれども、花田清輝がそのむかし言ったように、「私」の「私」などというものは、犬にくれてやればいいのである。もう一冊の方は、そのあたりの覚悟の持ちようというものを問いかけて来る作品集だと言うことができるだろう。

連休中に ヒカシュー を聞いてみた

2020年09月21日 | 現代詩 短歌
 負けている人は、ヒカシューの「生きてこい沈黙」(2015年)でも聞いたらいいと思う。
聞いているうちに、元気になってくる。

私も負けずに、こんな歌をつくってみた。

  トータスの首のごときものトースターより出でて燃えゆく 焦げよ焦げよ
                        さいかち真

 「歌壇」10月号に瀬戸夏子の最新作とおぼしいものが載っている。うれしかった。
こんな感じ。
 
  心情に近い仔猫を帰るときみぞれは彼の口内をみたす   瀬戸夏子

 私の知人が詩集を出した。引いてみる。

ごめんなすって              永野佳奈子
       
「生まれてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
まるでどこかの詩人のように
何度も何度も繰り返す娘に
ある日ひとつの提案をする
「ごめんなさい」は聞き飽きたから
今度は
「ごめんなすって」って言い換えてみたら?

              『洗濯機でカナブンを洗ってしまった日』 待望社刊

この詩の「娘」というのは、普遍的な〈娘〉として読む。詩は、私小説ではないので。

このところの私のテーマは〈言い換え〉である。
人生は、実はひとつの言い換えで転換できるものなのかもしれない。「それにしても私の立ち直りは、〇〇(失念)のように、早かった」と書いた宇野千代さんのように。

ヒカシューの歌だと、「あおぞらみえた」とか「てんぐりがえる」とか、再生の瞬間がある筈なので、言い換えによって、音楽的な転移によって、人生を変えるマジックを手に入れることは、きっとできる、はずなのだ。

だから、前衛的芸術表現は、人を活性化するものなのだ。


石井辰彦『石井辰彦歌集』 現代短歌文庫

2020年08月02日 | 現代詩 短歌
あらかじめ石の上に置かれた夜明けの薔薇の花束のために

 朝起きだして、枕元に置いてあった石井辰彦歌集を取り出してめくりはじめたら、おどろくほどするすると読めた。後半の単行本未収録短歌がドリアン・グレイの嘆きのうたみたいで、作者だけではなく読者である私自身も、年齢的に老いと死をより強く意識せざるを得なくなっているから、詩句のいちいちが沁みて感じられたのである。自らに捧げた墓碑銘まで含む本集の後半を一気に読み通してから、前半を丁寧に読む前にいったん本を置いてこれを書きはじめた。

書きはじめる前にキース・ジャレットのアルバム「Facing You」をチョイスしてかけてみたのを途中でうちきって、「The Merody At Night,With You」に切り替えた。石井さんの書いたものを読んでいると、何度か聞いたことがあるご本人の朗読会の声と調子を思い出してしまう時があるが、いつも生の声というのはキースの叫びのようになまなましすぎるものだと思ってきた。肉声だけでは官能の気配や嘆きとかなしみの思いが表面に出すぎるきらいがある。歌いながら弾いていたキース・ジャレットのピアノの音に相当するのが、石井さんの場合は華麗な文字表記ということになるだろうか。しかし通常の短歌型式よりも文字の間隔を詩行式にあけて組まれたものの方が、すっきりしていて風通しがよく感じられる。

短歌は、上から下にぎっしり言葉が詰まっていく分、血が鬱血する感じがして、語りがモノトーンになりがちであるし、石井さんの詩美への探求と探索というものは、それ自体が自己語りのナルシスティックな雰囲気を漂わせてしまうものでもあるから、そこはバランスをとるためにも、常に意識的に断裂の切れ目を作品に入れることが方法的に要請されてくる。その試みの繰り返しが、石井辰彦の前衛希求の詩的道行きというものであったと言ってよい。こだわりにこだわった彫心鏤骨の手業、句読点やルビ打ちの多用や、一字空きや異字変換の多用や、諸々の詩的技法の試みはすべて、詩歌のことばがポリフォニックに立ち顕れるためのてだてというものであった。そうして、西欧の詩、ギリシアや異教の神々への憧憬と関心が、作者の詩劇のように歌を構成してみようとする志向を支えてきたのであろう。徹底した浪漫派である石井さんの短歌の世界における特異な位置は、敬して遠ざけられるようなものではない。かつては鬼面人を驚かすように見えた石井短歌の表記や内容や工夫も、近年ではむしろ平易で読みやすいものと感じられるようになってきた。それだけ時代が移りかわってきているのだ。
以下に縦書きを横書きにして引かなければならないことを作者と愛読者の方にご容赦いただきたい。

信じてはならない    石井辰彦

信じてはならない。     巫女が    ※「巫女」に「フジヨ」
震へつつ占ふ(君の)明日を。事無き    ※「明日」に「あす」
人生を。       疑つてみるべ
きだ。 (肉眼では)確かめる術もない    ※「術」に「すべ」
天文学を。         凶兆は
既に(君の)鼻先にある。臭つては来    ※「臭」に「にほ」
ないか?海が。       腐つた 
油を泛べ、押し寄せる(空紫色の)海    ※「泛」に「うか」、
が。そして風が。        風   ※前行の「空紫」に「うつぶし」
は雷霆を孕み、雷霆は(君の)肝先に     ※「雷霆」に「ライテイ」
落ちる。     ルカヌスは「戦後
生れのぼくたちにも戦中を」と詠つた    ※「詠」に「うた」
が、戦地ではないのか?   逃げ惑
ふ人びとがゐるからには、ここは。音
も無く終るに違ひない。     濁
りゆく大気に、囲繞され、噎せかへる   ※「囲繞」に「ヰゼフ」
この世界は。    (人類の)知識   ※前行の「噎」に「む」
なんて、片秀なものさ。いくつもの星   ※「片穂」に「かたほ」
が(もう)見えなくなつた。 この星
も(さう)長くは(青く)輝かないだ
らう。   天空に向いた(君の)眼
を、大地に向けるのだ。今まさに、終
りの始まりの時。    いやに美し
く見えないか? 無人の都市は。棄て
られた田畑は。    だから予言し
ておくのだ、滅亡を。逃所は(どこに   ※「滅亡」に「メツバウ」、
も)無いのだと。  神が請け合つて    ※前行の「逃所」に「にげど」
も信じてはならない。(君の)未来を
            Da Capo

「単行本未収録連作短歌 Ⅰ」より

この「逃げ惑ふ人びとがゐるからには」という句は、原発事故の避難者や近年の自然災害、の被災者そうしてコロナ禍に倒れている人々にとっては、まさに「信じてはならない」という現実のこととしてあるではないか。なお十行目の「肝先」は「軒先」の誤植の可能性もあるが、作者独特の詩語の使い回しとして疑わず残した。もしもの場合は御批正をまつ。

小林久美子『アンヌのいた部屋』 歌集歌書瞥見 三

2020年04月13日 | 現代詩 短歌
 白い色とか、青い色というのは、いいものだ。キャンバスに白を塗って下にあった色を消していると、それだけで何もしなくても、何とかなるという気がしてくる。何もかけなくてもよい、とさえ思える。そうやって、自分のこころの内側をのぞきこんでいる、と言うか、画面に手先から何ものかが湧き出して来るのを待っていると、不安や怖れが消えて、心がすこしだけ落ち着いてくる。どきどきして、どうしていいのかわからない状態だったのが、収まってくる。そういう時にことばがいるのかどうかは、わからない。必要ないかもしれない。小林さんは絵描きだから、こう言えばわかってくれるだろう。

 読むことも、書くということも、絵をかくことと変わりはなくて、これと同じで、そういうことがわかってくると、表現というものは、みんな地続きで、それは技術や知識の違いというものはあるかもしれないが、まあ絵をかくように詩を作るということは、なかなか難しいことで、それができる人はそんなに多くない。でも、たまにそれができる人もいて、小林さんはそういうことができる人の一人だということが、小林さんの詩集をみるとわかる。

 それで何を言いたいのかというと、小林さんの書いたものは、白い色や青い色の絵の具を、こころを落ち着けるために無言でひとつの下塗りのようなものとして、出来上がりを祈念しつつも自分の意志で完成するまで何かを構築しようとするのではなく、受身で待ちながらとにかく筆を持って色を塗っている、塗り続けている、そういう姿が詩であるというようなテキストだということだ。だから、読み手をあまり拘束して来ない。ことばの衝迫力とか、衝撃的な事実やイメージの提示によって何かを企てようとするようなものではない。画面に姿形らしいものが静かに浮きあがればそれでよし、かたちをとらないならそれもよし、という不定形なものとしての、かすかな不幸と悲劇の遠いこだまが感じ取れる制作物として、にもかかわらず渾身の力をこめて編まれたものとして一冊がある。

 冒頭の「うつくしい書簡をまえに」という息をのむように美しい詩は、リルケの書いた女の手紙の話を下敷きにしているのかもしれないが、そうでなくてもよい。それは同時に自らが書いたかもしれない、また長くこころの中で書き続けて来た書簡でもあるかもしれないのだ。長いが、一篇を書き写してみる。何よりも声を出して読むことが肝要だ。

「うつくしい書簡をまえに」

どうして
胸が打たれるのか
小さな夢が破れて
目覚めたあとを

ひとりへのためにのみ
燃えつきる蠟燭
灯のほとりに
ひとを映し

落雷を沖にみていた
運命に
手を貸すことは
できないように

灯の前でおもう
ここにいないひとや
雲のかたちの
つくられ方を

投げ返さなければ
ならなかったのに
達しえないと
分かっていても

画のなかで汝が
ほほえむ
汝からはなれることが
できたかのように

かなたへ
運ばれる問い
遥かな時のむこうで
応えられるために

画のなかで
汝は吾の証人になる
画きまちがいで
あったとしても

覚書の紙片がでてくる
まだ知ることのない
感情を纏い

出会ったことで
存在させてしまう 声を
すがたを見うしなっても

とぎれた季を
現在に溶け合わせられたら
午後のルツーセを塗る

不遇にさえ
うるおされたのを想う
つながって往く二艘の舟に

うつくしい書簡を前に
試される ひとへ
愛を返すということ

稲妻も雨も
夜空のこれまでの
実験の成果をみせて降る

  …引用終了。なんてすばらしい! みなさん、立って拍手を。

江田浩司『重吉』  ※改稿

2019年08月14日 | 現代詩 短歌
この『重吉』の詩的な完成度の高さは、近年まれにみるものである。だから、祈りをもって言葉と意識の底を掘りさげている江田さんのこころのすがた、そこから生まれる詩のことばのうつくしさに、ただただ驚嘆の念を抱く。

 わたしの追ふもの
 すなほなる思ひににがく
 野をゆく詩のこころのまま  ※「詩」に「うた」と振り仮名
 よくはれた日に
 もんもんとことばを生み
 夏のかなしみをめぐる


 すぎし日のあをぞらまぶしいたづらに夏の野をゆくこころのままに

 うすら陽をあびたる傷はひかりたりわか草もゆるこみちをゆけば

 ゆふぐれにけむりあがりしかの原にわらつてゐたよ傘をかたむけ

 いたづらにあるいてあればあしもとを飛蝗はとびぬゆふぞらのもと  ※「飛蝗」に「ばつた」と振り仮名

 その詩はやさしい窓でありましたあぢさゐのさきに見えるゆふなぎ  ※「詩」に「うた」と振り仮名

 おほきな木あかるい月にふれさうでこころのそこはやすらかにあれ

 もうそろそろわたしを透きとほらせてくれをんなの顔があかるくうかぶ

 ほんたうのうつくしさとはみにくさのさきにあるとふ言のしたしき  ※「言」に「げん」と振り仮名

 おもむろにあめをあびたることの葉ののろひは苦くあれにこだます  ※「苦」に「にが」と振り仮名

 まつの木のねもとに露のひかりありしんしんとながれくるきりすと

  以上、Ⅴ章全篇を引用。
 
 八木重吉の詩というのは、読んだ瞬間に虚を衝かれるようなところがある。つまり、まったく自分がふだん考えてもいないような思念や祈念、意識の動き方がある。その断片的な記述のなかにみえる語法や、発語の順序が、異様に新鮮な詩句がある。しかもそれは、作者のふだんからの、常住坐臥の意識のありように根差していると感じられるから、とてもかなわない、というか、別格の存在として感じられる。そこには聖性と同時に、真宗の妙好人のような、ひなむきな愚者性がある。八木重吉の世間は、とても狭い、自分の周囲の限られた人間関係に限定されている。そういう狭い社会のなかで、純一に神を見上げて、神をめがけて感官を研ぎ澄まそうとしている。一瞬のなかの永遠性の顕現を、常にもとめている。そういう詩人の詩から生きる力をもらったお礼として、オマージュとして一冊の詩歌集を編んだのが、江田さんである。

 私は八木重吉の詩の愛読者ではないので、江田さんの歌のどの部分が重吉の詩を踏まえているのか、すぐに思い当たらない。それで確かめようと思いながら、本がみつからないので、つい時間がたってしまった。そのうちに「現代短歌新聞」一面の著者インタヴューに江田さんの談話が出て、それを読んだら近年の江田さんの心境がよくわかった。両親がなくなって、自分もいつ死んでも不思議ではないのだなと思うようになった、という談話のおしまいにある感慨は、私にも同様の感じ方がある。だから、この本のおしまいの方にみえる死を題材にした一連などは、本当によくわかった。そうすると、八木重吉の詩の何を踏まえているかという詮索はどうでもよいように思えてきたので、別に書評をたのまれて書いているわけではないし、八木重吉の詩を知らなくても、作者の想世界の調べはこの本の歌からよく伝わって来るので、重吉が好きな人は、このフランス装のきれいな本を手に取ってみたらいいでしょう。ということで、詩が信じられること、言葉が信じられる想世界というものはいいものだ。

と書いておいて、一度アップしたのだが、考え直した。書いてみる。

「罅のあることばが
窓の外から聲をかける
やさしいだけではだめなんですよ……」(12ページ)

だから、江田さんはよくわかっているのだ。「やさしいだけではだめなんですよ」と言う人たちの強固な秩序に抗することの難しさが。

 「文藝」の夏号では、東浩紀が「平成という病」という文章で自分のこれまでの仕事をふり返っている。私は、これからの日本の文化のためには、この『重吉』と、東浩紀の文章を掛け算するというような演算が必要なのではないかと考えている。それは、加減できない世界観を要請する。

 話はかわるが、いま日本では、赤ちゃんの足し算しかできない大滝一登とか新井紀子とかいった愚か者が、今後の日本の知的な高校生たちに迷惑をかけようとしている。しかし、江田さんの詩の世界は、およそそういうところからは遠い。いま思い出したが、三木清に、構想力の論理という言葉があった。実に示唆的である。構想力のない者は、教育に手を出してはいけない。財界と中教審は、本当に自分たちに構想力があると思っているのか。私にはそれが信じられない。世界観の闘いを始めなければいけない時に、八木重吉は、どう読まれるべきだろうか。少しだけ親縁性があるのが、ウィリアム・ブレイクやガンジーの名前かもしれない。しかし、八木重吉は、小さい。小さいので、悲しい。悲しくて、素敵だ。

 それはそれとして、私はパレスチナの若者と、香港の若者たちをこれ以上死なせたくない。ばかを承知で言ってみるが、江田さんは、もう一度、安定した詩に対する反逆の路線に戻って来た方がいいのではないだろうか。

 
 
 





金川宏『揺れる水のカノン』

2018年04月26日 | 現代詩 短歌
 以前編集してあった原稿を二十数年ぶりに取り出して見ているうちに、短歌をふたたびつくり始めたという作者の第三歌集。第二歌集が1988年刊。そうすると、たしかに三十年の間があくわけだが、この数十年というのは、長いようで案外短かったりするものだ。私と作者とでは六歳ほど年がちがうが、日々生活の雑事に追われていればあっという間、という感じもよくわかる。三十年を経て取り出してみたら少しも古びていないように感じられた原稿というのは、きっと作者を励ますものだったろう。

「あとがき」を見ると、それを今回ある程度はそのままで出版したのか、新たに編集し直して、さらにいろいろ書き加えたのかがよく分からないのだが、作者の言葉の使い方が、時事的な要素を排除するものであるために、新旧を見分けがたい。全体は、歌一首に一篇の詩(ソネット形式のもの)が付けられて構成されている。

「夢見る部屋」。

惑星のほろびしのちも幾千の蛇口より夜の沙零れつぐ  

ぴかぴかと光りながら
転生する合金の犬
降り敷いた枯葉が立ち上がって
銀色の階段を降りてくる

貝殻と藻をまとう鍵盤
羽化するマトリョーシカ
本棚に並ぶ黄金色の背文字
めくれあがる曲馬団のポスター

床下から芽吹きはじめる樹樹
青い菊を活けた甕から
泥のような水が溢れ出す

みたこともない廊下だ
雨が 降りしぶき
夏草が 鏡に溺れている
 
※「沙」に「すな」と振り仮名。

 詩行のイメージは、ひとつひとつ鮮明で、その展開してゆくところに曖昧なものはない。こういう技術的に完璧な詩を読むことは実に心安らかで楽しい経験である。それに比べて短歌はひとつのイメージの方向しか示せないものだ。むしろ調べに託すほかない曖昧な部分にこそ、短歌が短歌である理由がある。短歌は(作者の短歌が、という意味ではない。短歌一般が、という意味)調べの腰が重いし、詩のように敏捷ではない。分析してみる。

惑星の ほろびしのちも 
幾千の 蛇口より夜の 沙零れつぐ 

 読んで行くと「幾千の」で一度音が揺れる。そのあと、「蛇口より/夜の」の句割れと、「夜の /沙零れつぐ」という四句目と五句目の間にある句跨りとが、四句目で早口な感じを呼び起こす。これが映像としてのイメージの静かさと若干背馳している。また、現代詩ではまったく問題にならないが、短歌では「惑星の ほろびしのちも」の「も」に歴史性や激しい現在への批評性が不足しているように見えてしまうのである。「惑星のほろび」が安易にロマンチックに感じられるのである。その程度には、短歌は現在の時間を鋭く参照する宿命を背負った文芸である。ほめるつもりが何だかきびしいことを書きはじめてしまった。もうひとつ引いてみよう。

「蝸牛の休符」。

あしたより蝸牛のごと事務執りて消なば消ぬべしひと日の果ては

とおく灯る日日は バス停留所
ワイシャツの群れが空を流れる
わたしが追い越してゆくと
あとから後からビルが倒壊してゆく

黄泉の雲が流れる
デスクトップの草原
開かれる窓、窓、まどの緑閃光
飛びたとうとする始祖鳥

廃棄された計算ソフトの
暗い箱の中で つぎつぎと
昇天してゆく おまえたち

電話の網を逃れて憩う昼休みの
地下茶房 らんちゅうがびろびろと
時を食みながら こちらを見る

 こちらは、短歌の方は、職業生活に取材した実感のあるものとして読めるし、説得力があると感ずる。詩の方は、一つ目に引いた詩とちがって、逆に「つくりもの」の感じがしてしまう。よく知っている詩のことばの材料を巧みに構成して作り上げた「擬詩」のような感じがしてしまうのである。これは私の読書経験と好みの反映された判断だから、なぜそうは思うかは説明しづらい。要するにうますぎるのである。であるがゆえに、短歌は信用できそうだが、詩の方は信用ならないという気がする。現代詩は、どこかが内破していないと、つまり不完全でないとかえって疑わしいものになるのである。緑閃光という語は、平出隆の詩を思い出させた。あとは昭和時代の近代詩の言葉の使い方も少し入っているか。ほめるつもりで書いているのに、これも文句をつけているのかな。そういうことではないのだが、読者の方が意図をくみ取ってもらえたらありがたい。もうひとつ面白そうな一連を引く。

「十月の角砂糖」。

ぼろぼろと木の葉こぼしてジャケットの内ポケットで弦が震へる

十月の朝のオフィスに
ひそむもの
すっぱい乳房
柘榴の裂け目

複写機の光源から
太古の風が吹き通る
このわななきは
誰にも渡したくない

空にも窓にも拒絶された椅子
業務日誌に立つ水煙
網状に広がる回線

角砂糖がほろり 指先から
暗黒に身を投げ
渦状に泡をふいている

 これは短歌と詩のバランスがいい。短歌は、下句のシュールレアリズム的な語の斡旋も素晴らしいうえに、先に引いたものと同じく、職業生活に取材したものとして読める。詩は、中井久夫が訳したギリシア詩のような感じがして、楽しい。それは全体に好ましい。両方を実作するというのは、なかなかむずかしいものである。私はこれを一冊にしてみせた作者の勇気に拍手を送りたい。こういう本をジェラシーから評価しようとしないというのは、よくないことだ。それとも、「わからない」とでもいうのだろうか。少なくとも「わからない」ような明晰さを欠いた言葉をこの作者は書いていない。二つ目の詩のところで「擬詩」だとかなんだとか私はへんなことを書いてしまったが、誤解のないように書いておくと、言葉のひとつひとつの意味とイメージの明晰な提示のしかたというところでは、この作者は信用できる。これを「歌集」扱いしないという取り扱い方があるが、私はそれにはまったく反対である。さらに私がこういう文章を書いているのは、歌壇ジャーナリズムのいわゆる「書評」の枠から外れる可能性があると思うから、書いているのである。

 ※30日の朝に起きだして拙文に手を入れた。5月4日に二度目の手を入れた。

江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』 2

2016年08月09日 | 現代詩 短歌


 (承前)続いて、太字の俳句が出て来る。前回の引用にあたって、「雲雀堕つ 柱の傷の水明かり」が太字で印刷されていたのを見落としていた。これは、詩のなかに織り込まれた俳句なのだった。

「冬の雲雀」とノートに書いてみる
力ない羽ばたきが遠くで聞こえたかと思ふと
たちまちに 雲雀堕つ 柱の傷の水明かり と耳もとで囁く声
「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」
なんども妹に訊ねられ 翼のすれる音が匂いくる 

「柱の傷」というのは、背比べをして、兄弟が柱に印をつけるという五月の節句の歌を
想起してみればわかるだろう。そこから「妹」が出て来るというのも、わかりやすい連想ではないだろうか。しかし、その思い出のようなイメージと、「雲雀堕つ」の初五とは、どうつながるのか。「水明かり」だから、川が流れているのだ。「雲雀堕つ」という悲劇的な言葉と幼年期の思い出のようなイメージがぶつかっている。このあとに、一行あけて次の句が来る。

眼裏に虹 麦の神から届けられ

「眼裏」には、「まなうら」と振り仮名がある。「麦の神」は季節の神と考えていいだろう。「麦」は夏の季語だ。ちなみに「雲雀」は春の季語である。引用を続ける。

温かき時間の間 一筋の 水が逝く

やっぱり水だ。五七五、と来て「水が逝く」で座五が一句多い詩行だ。「間」には、「あはい」と振り仮名がある。続いて太字の俳句。

牛乳の膜 キルケゴールの奈落かな

「牛乳」に「ちち」と振り仮名。悪くない。キルケゴールというのが気障な感じがするけれど。キルケゴールの「絶望」という言葉は、印象的なものであるが、これを「奈落」とひねってある。朝の安寧な一時。それを「温かき時間」と言えないことはない。そこで、牛乳をあたためて飲んでいる。キルケゴールのような厭世的な気分にとらわれることのある自分も。続いて四行の詩句のあとに短歌一首。

嘯きながら抱く 冬の雲雀の血はうす青く   
朝のスープに沈む針……
レマン湖の畔に住む老詩人の遠き声音に疼く 股間   
冬の雲雀は一羽ずつ死の様式を自らに課し
      ※「嘯」に「うそぶ」と仮名。「畔・ほとり」「声音・こわね」。

憎しみは玻璃の中で育ちゆきさみどりの夜にしづめむ怒り
      ※「玻璃」に「ガラス」と仮名。

水は時間につながっている。どうして「嘯きながら抱く」のだろう。ここでは「冬の
雲雀」を抱いているとしか、読めない。生きる力が衰えると、それは冬の雲雀のようなものかもしれない。血もうす青い。スープに針があるというのは、食べ物に刺すような痛みが伴っているということの喩である。そうして、ここで書き手は「レマン湖の畔に住む老詩人」に自分を投影しはじめる。レマン湖はバイロンの詩に関係があるが、若くして亡くなったバイロンは「老詩人」ではない。これも少しずらしてあるのだろう。「レマン湖の畔に住む老詩人の遠き声音に疼く 股間」というのは、やっぱり加齢に関係しているのだ。股間が疼くというのは、若者の股間ではなくて、ある年齢に達して残存する性欲なのだ。「冬の雲雀は一羽ずつ死の様式を自らに課し」というのは、正直なわかりやすい句で、作者は死について考えている。しかし、そのあとの歌において急に「憎しみ」が出てくるのはどういうわけか。
短歌の技術批評は私は得意だ。「玻璃の中」はあまり丁寧ではない(と書いたが、この「中」を「うち」と読めば問題はないと、後になって気がついた。訂正8月15日)。ガラス窓がある部屋の中、ぐらいの意味だろうか。たぶん、これは幼少年期の記憶なのだ。そこに戻っているととると、少し「憎しみ」がわかる。作者に現実の妹がいたかどうか、私はそんなことは知らない。別解では、塚本邦雄の歌に、ヘロデの幼児虐殺を題材にした歌がある。その歌でも作者はガラスの内側から五月の緑を見ていた。続けて三行の詩。

「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」と何度も訊ねる妹……
滅びの美しさだけが夕波に揺れつつあらむ一日に
君は月影あをき霧の階段をのぼる

「一日」に「ひとひ」、「階段」に「きだはし」と振り仮名。「滅びの美しさだけが夕波に揺れつつあらむ一日に 君は月影あをき霧の階段をのぼる」というロマンチックな二行は、むろん肯定的な描写ではない。「滅びの美しさ」を作者は好意的に見ていない。死に引かれる「君」に対して作者は、いらだっている。たぶん、これが正解だろう。誰だか知らないが、たぶん自死に近いかたちで死んでしまった誰かについて、書いたのがこの詩なのだ。一応答を出してしまったから、この後は全部引かない。一行だけ。
冬の雲雀は初霜を置き 歓喜の果てに裂ける臓器か

なかなか美しい詩句である。この詩は、「冬の雲雀」のような、か弱い存在、そういう生き方をする誰かを悼む詩なのだ。

江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』 1

2016年08月06日 | 現代詩 短歌
 今度の江田さんの歌集は、なかなかおもしろく読めそうだと思ったから、以下に書いてみることにする。まずタイトルがきまじめでコワモテだ。「私のフィギュール」って何だろうか。その「私のフィギュール」に「想像」が「意匠」の傷をつける(ほどこす、変形し、加工し、転用する)のだから、「想像」は、もしかしたら悪いヤツなのかもしれないな。「私のフィギュール」とあって、わざわざ「私の」としてあるところに、短詩型の詩の作者のこだわりがありそうである。そうして、この本では「私のフィギュール」を見てほしいのか、それとも「意匠の傷をつける想像」を見てほしいのか、その両方なのか。こういう直球の題より安井浩司の『氾人』みたいなひねりが私は好きであるけれど。

たとえば「私のフィギュール」が金の玉だとすると、空を飛ぶ金の玉にミサイルを撃ち込んだら、大火花が散って、熱い、熱い。殿様待って。みたいな、こういう突発する言葉の「意匠」の働きが「想像」というものなので、「想像」は、本来暴力的な作用を持つものなのだ。
そういう場所では、私の下半身と上半身は、どうしても分裂してしまい、どんなに大空に火花の華がひらこうが、私の足は暗い大地を踏みしめながら周囲の夜闇に溶け込んでいる。そこで私が見ている光景は、何なのか。「想像」の「意匠」なのか。…やっと頭が動くようになって来た。要するに作者が言いたいのは、次のような問いなのだろう。

遂に詩は、想像は、私のフィギュールに意匠の傷をつけるものでしかない、のか?

これなら、わかる。なんで世界中の詩人が言葉の前で悶え苦しむのかということが、普遍的な問いとして差し出されているのである。と、ここまで書いたところで夏の夕光の反射が、西窓から届いて来た。空の火花よりもこちらの方がうつくしい。

でも、私はわがままな読者にもどることにする。全部で二七篇の詩がおさめられた作品集をめくってみて、私の読み方はこんなふうだ。冒頭の「言葉の内なる旅へ」ちょっと見て、パス。めんどくさい。「兄妹たちの風景」読める。「冬の雲雀」これは、楽しい。「終はることのない祝祭」歌の半分まで読む。悪くない感じだ。「ものはづくし」これ、いいな。ここまで読んで、この文章を書くことを決意。そのまま十日ほどテキストを寝かせた。

「冬の雲雀」とノートに書いてみる
力ない羽ばたきが遠くで聞こえたかと思ふと
たちまちに 雲雀堕つ 柱の傷の水明かり と耳もとで囁く声
「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」
なんども妹に訊ねられ 翼のすれる音が匂いくる 
   
「冬の雲雀」の冒頭部分を引いた。この五行で作者は、伊東静雄から荒川洋治までの現代詩の話法をまとめてたどってみせている。しかも芭蕉の病雁の句まで下敷きにしてしている。
江田さんてこんなに詩が上手だったっけ、と仰天したのだった。

高橋睦郎歌集『待たな終末』

2016年07月03日 | 現代詩 短歌
 跋文のおわりに著者自らも言うように、終末感の濃い作品集である。日常についての詩が、そのまま「形而上」詩であるような詩をこころざした、と同じ文章にある。洋の東西の神話に出てくる語彙をふんだんに呼び込みながら、のびのびと平明にうたっている。その円熟した豊かな詩想の湧出には、畏敬の念を覚えるほどだ。 

 冒頭の一連には、早く父に死に別れ、母も家を出てしまって親族の家を転々とした幼年期が語られる。言葉を友として育ち、そこから詩人となる下地を作っていった著者のさびしい生い立ちを起点として、一巻は必然的に作者がこれまでに経めぐった読書と、思索と、旅の記憶を辿り直すものとなるのである。同時にそれと重ね合わせるように、宇宙全体、人類と生き物の総体を思う壮大な詩の屏風絵を、作者は我々の前に展開してみせる。

旅のむたうたひ捨てこし詩くさのさもあらばあれ旅は続けり  85  ※振り仮名。詩(うた)、「うたくさ」は名詞。引用にあたり、「詩」が脱字になっていました。訂正してお詫び申しあげます。

フロオラやファウナやいづれ慕はしき蔭細やけきフロオラをわれは 106  ※細(こま) 
あな世界終んぬとこそ立ちつくす身はすでにして鹽の柱か  138
世の終り見ゆる時代に盛年生きむ若き君らをわがいかにせむ  176 ※時代(ときよ)、盛年(さだ)

 これは誰も容易には真似できない独特の擬古的文体である。生あるものを愛してやまない詩人の晩年の思念を占めるものは暗い。けれども、その詩想を根底から支えている数々の神話や、ギリシアの詩、それから「聖書」の物語などの諸々のテキスト自体が、無限の明るさを持っていて、それらの光源に照らされるとき、詩は人智の持つあかるさに輝きながら、残されたこの一時を燃え続けようとするのである。

 詩の言葉が光を発することにより、漆黒の闇のなかに浮き上がる扉がある。著者自装とおぼしい一巻の装丁自体に、その思い・願いがこめられている。書物のかたちをとった詩碑が、『待たな終末』であるのだ。