さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

宮本輝『流転の海』

2019年12月21日 | 現代小説
 久しぶりに小説を読む気を起こしたのは、三十五年かけて完成したという宮本輝の『流転の海』を書き終えたあとの感想を、たまたま目にしたからだ。書き終えてしばらくは、何もする気が起きなくなって、ほとんど虚脱状態に陥ったのだという。そのあと、ふと自分が小説を書きはじめた二十七 歳のころに立ち返ってみようと思った時に、また何か始められるような気がした、その時の心のゆらぎを支えに今後の時間を生きてみようと思った、というような文章だった。

 『流転の海』の主人公熊吾は、まさにそのような、一瞬の勘の冴えを信じて、それを世間知と自身の人生経験で固めながら、荒波の人生を漕ぎ抜けようとしている。人生は一瞬一瞬が賭けのようなものなのであり、運不運の風雨と波しぶきにさらされながら、一粒種の息子のために生きてゆく熊吾の姿は、涙ぐましい。宮本輝は、そのような涙ぐましい主人公を造形するうえにおいて、天才的な作家である。

それは田舎を憎みつつ、和辻哲郎によって「人間(じんかん)」の哲学として取り出されたような、抽象化して取り出された日本の共同体的な意識の純粋な部分を文学的な言葉に置き換えたものなのである。それはファンタジーかもしれないが、根っ子に近代化以前の日本的な人間関係の底にある、やるせない感じかた、保田與重郎が「日本の橋」で表現したような、運命に圧伏された人間の悲しみと苦悩を祈りとして結実させた一人の母親の言葉に抒情する精神の震えと同質の、素直な共感する精神の絵なのである。だから、誰もそれに抗うことはできない。宮本輝の書くものはすべて、そのような日本人の感情の深層に根差した物語なのである。

※ 二十七歳が二十歳となっていたので訂正した。















北方謙三『冬こそ獣は走る』

2018年09月30日 | 現代小説
 台風が近づいている。気圧の変化のせいか、人生不如意の感覚が強くなってしまって、久しぶりに北方謙三の小説を引っ張り出した。作者はしばしば、破滅的な傾向のある登場人物の、おさえきれない衝動のようなものを描いてきた。その淵源は、あの学園紛争期に身体の中に飼ってしまったものにある。初期の小説には、エッセイにもそういうようなことを書いていたが、確かにそういう気分の投影があった。それを自慰でなく書き続けるのには、理由が要った。「暴力」が徹底的に締め出されようとしている今の日本社会では、北方の描いてきたことのほとんどは、まじめに受け取られなくなっているのかもしれない。殴り合いの場面を書くことを通して、「暴力」の意味を考え、そこに倫理のようなものを見出だそうとしているところがあった。それは主人公が勝手に作り出す「きまり」のようなものなのだが、そういう「きまり」や「くせ」のようなものがないと、「暴力」には意味がないのだ。それは、やくざものに「義理人情」が必要なのと同じで、北方の現代もののハードボイルドは、そういうセオリーを踏まえているのだということに、いま気がついた。

 話は変わるが、私の父方は、新潟の蒲原の農民で、父は右手が長かった。背広を着た写真を見ると、ワイシャツの袖が片方だけ白く袖口から出ている。それは、中学生の頃から夜学で働きながら成長してきたせいで長いのだろうと私は思っていたが、先日自分の娘が、腕立て伏せをしながら「なんか右手が長いんだよねえ。やりにくい。」と嘆いているのを聞いて、はっとしたのだった。先祖代々、何百年も労働で鍬や鎌を使って仕事をしてきたために、それで腕が長いのではないだろうか。

先週は、三門博の浪曲「沓掛時次郎」のCDがダイソーで買ってあったのを聞いた。常民と流れ者。「暴力」は、人間を常民の生活の圏域から空中に少しだけ浮き上がらせる。だから、たいてい「暴力」は流れ者の専有するものだった。なぜ浮いてしまうのか、そこについた浮力をなだめるには、何が必要なのか。または、なだめる必要があるのか。かつて貧しい庶民の生活は、しばしば報われない悲しいものなのだった。それを切々と嘆き、うたいあげていたのが浪曲というものである。義理のある女のお産の支度金を用意するために、十両で命を張る主人公の純情と真剣さに聞き手は涙をしぼった。

自分が生きている動機が見つからない者に「暴力」やスリルは救いになる、ということも北方は描いていた。そこでは、生きる理由を再発見することが課題となる。それが自由や自己解放と似ている、ということが「暴力」の落とし穴で、「暴力」は大義や、自己倫理としての「きまり」や「くせ」がないと空しいものなのである。そうして、その「大義」がたいてい誰かから与えられたもので、「自分」のものではないというところに、近代のたいていの人間の不幸があった。北方の小説では、それはあくまでも主人公が自己倫理として持つものに依拠しているために、状況の変化の中では滑稽なものに転化してしまいそうなところがある。北方の場合は、そこから来る破綻を主人公の過剰な身体性や肉体性の部分でカバーするというところがあった。営々と労働の日々を重ねている常民に対して、担保として自己の命と肉体を持って来るというところが、義理人情のために体を張る博徒の美学の伝統につながっている。アメリカのつまらない映画は、たいてい己の欲望だけを犯罪なり暴力なりの唯一の動機にしているから、つまらないのである。行動しているかぎり、倫理の再建は常に途上である。また、途中で挫折してしまってもかまわない。死んだとしても、少なくとも醜くはない。


菊村到『雨に似ている』

2017年06月04日 | 現代小説
大波のようなコンステレーションの続き。今日はすごい。始めの方のニ十ページほどを読んでから、読みさしにしてあった菊村到の小説『雨に似ている』(昭和三十四年九月雪華社刊)を読み始める。これも主人公の戦場帰りの兄が自死するというストーリーだ。その兄が夢を語る場面がある。

「…ああ、おれは死んだんだな、このおれは死体なんだな、とおもつたらなんともいえない悲哀をおぼえたね。ほんとうに悲しいんだ。それから気がついてみると、ひじように匂うんだ。あの匂いが…(略)。気がついたら、ぼくはふたたび生きているんだ。やつぱりフイリピンの山の中だつた。ぼくはスペイン人のカソリツクの学校にいるんだ。そこは尼さんばかりのところで、男はだれもはいれない。ところが、ぼくだけは連隊長の通訳をやつていたから、とくべつに出入りを許されていた。いや、これは夢じやない。これはほんとうのことなんだ。ぼくは、この学校で日本語を教えたりしていた。戦場ぐらしでぼくにとつていちばん平和なころだつたな。ぼくは『海ゆかば』を英訳して聞かせたりした。どんなふうにほんやくしたのか、いまではすつかり忘れちまつたけどね。」

 菊村到の小説は、成瀬映画の「おとうと」だったか、あれとまちがいなく共鳴している。今でも舞台化できそうな小説である。それに、いまここに書き写していて思ったのだが、この夢語り全体が、シェークスピアの舞台のせりふのような美しさと韻文的な響きを持っている。声に出して読んでみるといいだろう。

 それにしても、前の日に秋谷豊の詩について書いたために引っ張られてここまで来ている。ついでに書いておくと、「文學界」2017年6月号の高澤秀次「夏目漱石から小津安二郎へ」という評論は、最近読んだ文学関係の評論の中ではもっともおもしろいものの一つだった。私は年をとるにつれて『それから』の代助という主人公がどんどん嫌いになって来ていたのだが、この評論の論じ方では、その不快さをまったく思い起こさせなかったので舌を巻いたのである。

「すばる」の12月号

2016年11月12日 | 現代小説
 「すばる」の12月号を読んでいる。すばる文学賞受賞第一作という、上村亮平と武村美佳の小説。上村亮平の小説は、読んでいる時は女性作家だと思って読んでいた。いま見ると、男性なのか。いい感じなのだけれども、描写の省いていいところは省いてもらいたいと思った。少しかったるい。武村美佳も、同様に感じた。
 あとは、二人とも掲載の分量が足りないので、まだ才質を見極めがたい。上村亮平の詩に溺れるみたいな感じは悪くないし、なんかこの人は児童文学が書けそうな人だ。武村美佳の小説は、結末がやや予定調和ではないか。それに主人公も周囲の人たちも、頭がいいのだか、わるいのだか、ぜんぜんわからない。カリカチュアになりきっていない気がする。

 喜多ふありの「リーダーの仕事」は、そのまま高校の「現代社会」の授業で使えそうな内容だ。というのは、ほとんどわるい冗談だけれども…。ほんとうに、いまの若い人の労働環境は悪いのだと思った。でも、この作者も、もう少し世界を拡げてほしい気がする。

 先日亡くなった車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』などには、読んでいてカタルシスがあった。カタルシスのあるものが最善だという事は、決してそんなことはないが、でも、やっぱりそれはものを書く人は、目指してほしいと、私は思う。

後記 12日にアップして、いくらなんでもすぐに辛口のコメントでは書き手や本屋さんの迷惑になると思って、一度消して、23日に書き直して再度アップしました。

「群像」2016年11月号 この、被虐的逆ユートピア

2016年10月16日 | 現代小説
 「群像」の2016年11月号を読んでいる。岡本学の小説「再起動」は、オウム事件のことを思い出させた。これが町田康の「ホサナ」と並んでいるのは、編集の妙、と言うか、できすぎなぐらいに絶妙な取合せである。ともに宗教的な思念が、逆ユートピアを語ることとリンクしてしまう日本の特殊な精神状況のようなものを言い当てているからだ。

 それはたぶん、派遣労働者の追い込まれている苦境を源泉として、逸脱する想像力が、自己目的的に運動しようとすると、目標とする着地点がないために、必然的に宗教的な志向を参照項として呼び込んでしまうことを意味しており、それ自体は別にさして珍しいことではないが、超越的なものの在処をめぐって現在世界的に展開されている暗闘のようなものに、日本の小説家の想像力が無縁ではないということを同時に意味してもいるのではないかと思う。

 私自身は、こんなふうに小説を読んだコメントを書いているよりも、今はТPP条約やめろ、というデモでもした方がいいのではないかと考えているのだが、とりあえず、口先だけでも犬の遠吠えはしておいて、町田康の小説では、犬となった視点人物は、結局意識朦朧となったところで「私たちをお救いください」と言って倒れてしまうのだから、まったくもって犬の皮をかぶった駄目人間みたいなのが、いまの日本人なのであろうよ。と、激語。

して、何もしない。のではなく、誰かデモでもしてくださいよ。多国籍企業の奴隷になるのが嫌でなかったら。私は息子の世話をしなくてはならないのだ。くそぅ、と町田語調で…。

 田中 慎弥の「司令官の最期」という小説(『すばる』2016年7月号)について、何か書きたいと思ったままきっかけがなかったのだが、ひとつ言ってみると、要するに逆ユートピアの山登り選手権みたいになっているのが、最近の現代日本文学なのかな。優勝、金メダルは誰か。

 こうなったら岩井志麻子あたりに、瀬戸内寂聴さんの『女徳』みたいな大長編の逆ユートピア小説を書いてもらいたい。



南木佳士『医学生』

2016年07月31日 | 現代小説
 読みおえて、ほのぼのとした気分になった。1993年刊でカバー装画は、舟越桂。それだけでも捜してみる価値はあるかもしれない。本の背の部分に文藝春秋70周年と印刷されている。南木佳士には、岩波新書で若月俊一の伝記を書いたものがある。

私はここ数年、看護医療系の学生の小論文指導をしているのだが、その際には若月のもとで活動していた鎌田實の文章を必ず読ませて、長野県で起きたことの意味を考えさせている。若月俊一に興味を抱いて、わざわざその懐に飛び込んで行ったという事からだけでも、南木佳士は相当の変わり種だろう。あとは、そういう人間に対する好奇心の持ち方がいかにも小説家の資質を感じさせる。

南木佳士がどんな医師を理想としているかは、この本を読めばわかる。作者は医師を志望する学生たちにこれを読んでほしいと思って書いたのではないかと思う。小説の前半は、医学部の生活のドキュメントと言えなくもないのである。養老孟の本でしばしば話題になる人体解剖というのものがどういうものか、多少知る事ができた。

また、医師を志望するのでなくても、第一志望に受からなかったり、自分の目標を見出せなかったりして悩んでいる若い人たちに、学生生活というものの持っている意味を考えてほしいと思って、作者はこの小説を書いたのではないかとも思う。そういう意味では、この小説は、南木佳士なりの「ビルドゥングス・ロマン」である。

登場人物のうちの一人が、雪合戦の最中に三階から落下して積もった雪のために命拾いする話は、たまらなくおかしい。それを聞いた助手が黒板に加速度の計算をしてから教授に報告に行くという話も、この小説の語りがカリカチュアライズされたものだということを意識させる。あまり真剣に読みすぎてはいけないのである。

失恋、望まぬ結婚、誰にも聞いてもらえない不遇の感覚。いいではないか。第二志望、大いに結構。そこで自分の道を見つけていけばいいではないか。世間には、医学部系の志願で挫折する人も多い。この小説の等身大の自分の人生の道を見つけなさいよ、という作者の暖かいメッセージは、等しく読者の心に届くことだろうと私は思う。 

篠原勝之『骨風』

2016年07月27日 | 現代小説
 「毎日」の今週の本棚で紹介されているのを見て、読みたいと思いながらそのままになっていたのだが、先日古新聞を整理していたら著者の顔写真が載っている記事が出てきた。

それで、藤沢のジュンク堂に行って、現代文学の棚のサ行のところでこの本を見つけて、すぐに帰りの電車のなかで読み始めた。書かれている内容は、どれも懐かしい。「ゲージツ」に憑かれて生きてきた人間の、自由と引き換えに背負わなければならなかった苦難が、淡々と語られる。読み進めるうちに深沢七郎の名前が出て来た時に、ああそうか、と思った。私は篠原勝之の書いたものを読むのは、これがはじめてである。

 常日頃、神経過敏で流行に敏感な人たちとつきあっていると、こういう作品の存在を無条件に肯定したくなる。私の知人で際限のない疑心暗鬼と被害妄想にとらわれてしまっている不幸な方がいるが、そういう人には、篠原さんや、篠原さんの師である深沢七郎の書いたものを読んでみたらどうですか、と言ってあげたい。よくわからないが、心が休まるのである。たとえば南伸坊が置いて帰った二十三年も生きた黒猫の話。三日間抱き続けた猫の心臓の鼓動が停まって、その体はだんだん冷たくなり、

「前肢は伸びをするように前に、後ろ肢は思いっきり後ろへと伸びた。(略)天翔る格好の厳かなオブジェだった。」

という文章を読んで、無私の充実と無限のやさしさとが感じられたのである。われわれが生きていることの無意味を掬い上げ、また救う言葉の確かな手触りがあるのである。

山川方夫の「海岸公園」

2016年05月03日 | 現代小説
 「毎日新聞」の「今週の本棚」書評欄に、中公文庫の『教科書名短篇 少年時代』が紹介されていた。安岡章太郎の「サアカスの馬」、山川方夫の「夏の葬列」、永井龍男「胡桃割り」などの題があがっている。なんという懐かしさだろう。中学校の教科書に載っていた「サアカスの馬」のおもしろさは、鮮明に覚えている。あの時の国語の先生の声まで浮かんで来るのだ。特に主人公のポケットの中身の描写が、おもしろかった覚えがある。安岡章太郎の主人公の情けない姿は、愚図・のろま・勉強不振といった、自分の駄目な部分についての劣等感や鬱屈を覚えている中学生の心を癒す作用があったのだろうと思う。

 それで、今日は倉庫のなかから山川方夫の「夏の葬列」を取り出して読んでみた。1991年刊(1997年第七刷)の集英社文庫版で、この本には昔の旺文社文庫のような年譜と解説がついており、代表的な作品のダイジェストとして、新しい読者を意識して編集されたものだったようだ。いま出ているかどうかは知らない。「夏の葬列」は、いかにも学校の教材向きという気がした。私が感心したのは、同書のいちばん最後に収録されている「海岸公園」という作品である。主人公の「私」は、八十九歳になる祖父を、その世話をしてくれるという祖父の妾の養子の家に預けようとするのだが、そのためには当時のお金で月々一万円を支払わなけれはならず、それに反対して一緒に住もうと主張する自分の母親とその祖父との間で骨肉の争いが起きてしまうのを、何とか収拾しなければならない立場に追い込まれる。この小説については、巻末の山崎行太郎のすぐれた解説がなされていた。「海岸公園」は一種の姥捨物語である、というのである。

「ここではじめて山川は、「家」への愛着を拒絶し、「家」からの解放と自立を決意する。(略)それが家族全員を、「家」という物語から救う唯一の方法だったからである。(略)それは生きるために、悪に手を染めることであった。」   山崎行太郎「解説」

 家族の問題というのは、一人一人が異なった困難な内容を抱えている。家族だから仲がいいとは限らない。家族だから相互に自由を尊重し合うことができるとは限らない。むしろ逆の場合が多いだろう。それに生活の面倒をみて、世話をする、介護するという義務が付随して来ると、さらに事態はのっぴきならないものになって来る。

 山川方夫のこの小説は、学校や読書サークルで家族や介護の問題を考えるための演習にも使えるかもしれない。ただし、こういう内容の小説を我慢して最後まで読める学生が何人いるだろうか、という問題はある。もっと短いもので内海隆一郎の短編などを使用した方がいいのかもしれない。内海の短編は、私は高校の教室で試してみたことがある。おすすめである。


谷崎由依「天蓋歩行」(「すばる」5月号)

2016年04月23日 | 現代小説
 ジュリアン・グラックの小説を、日本語のネイティブの人が書いた文章で読んでみたいと思ったことが何度かある。
その願いが、谷崎由依のこの小説でかなえられたと言ったら、ほめすぎだろうか。

 ひのきの花粉のせいで目が霞むために、時々名詞に添えられているアルファベットのルビが見えないという難点はあったが、通勤の一時を、周囲に立っているひとの手元にちらちらしているスマホの画面の無音の喧騒とは遠く離れたテキストにひたる喜びでみたしてくれた。もっともこの作者の手にかかると、そのスマホの画面も次のようなものになって、木の精のような語り手の世界観に統合されていくのであるけれど。引いてみる。


 石油資本のショッピングモールにはこの世のあらゆる富が集まる。私たちはその富を眺めて楽しみ、リンギッド札一枚であがなえるひと皿のスープで胃を満たす。目をあげれば電波と言う名の胞子は、巨大樹の生まれ変わりであるかのような、彼方に聳える塔へとまっすぐ集められてゆく。
あるいは端末というものも。紙を食い尽くし、紙の書物をなきものにしていく電子は、森の分解者だった菌類そのものだ。
――森は、べつのかたちでここにある。
言うと女は――ベールをかぶった町娘、森とおなじくらいショッピングモールをこよなく愛する女は、首を傾げ、
――そう。
と言って、それから笑った。
ri・ririri・riri・ri・riri・riririr
林床に隠れ棲む蟋蟀が、竪琴の声を響かせる。と思うと女の手元で端末がひかっている。彼女は指を走らせ確認すると、ふん、とちいさく鼻を鳴らした。この都会に溢れる電子音。それもまた森の転生した音色なのだと、説こうとして私は諦める。女は端末を操作してしばらく何か打ち込んでいたが、やがて溜め息をついて鞄に仕舞う。私にはわからないやり取りだ。彼女が勘定を支払って、私たちは店を出る。                 谷崎由依「天蓋歩行」(「すばる」5月号)


 リンギッド札というのは、マレーシアの通貨だから、この小説の語り手は、かの地で切り倒された熱帯雨林の巨樹であるらしいことが、わかる。

 この小説の魅力は、滅んでしまったマレーシアの巨樹に仮託した生命の共生の記憶への遡行を、エクリチュールの網の目によって明滅させながら、読み手の耳に樹液の響きを伝えるよろこびが、感じられることである。




荻世いをら「私のような体」(「すばる」3月号)

2016年03月01日 | 現代小説
 この小説は、電車の中で読みはじめて、読みさすのがいやで電車を降りたくなくなった。先日の早助よう子の小説がおもしろかったのに味をしめて、文芸誌の小説をまともに読むことにしたのである。日本の現代小説って、こんなにおもしろいんだ。と、再び思った。この小説から学生の頃に読んだアルフレッド・ジャリの『超男性』のことをなぜかいま思い出した。先にことわっておくと、本文のタイトルの「体」は「躰(からだ)」の正字だが、文字化けするのでやむなくこの活字とした。

本作の主人公Aは、場の文脈の読めないところがあるボディビルダーで、「自分の命より自分の肉体を大切にしている」種族の一人である。この号で小説は一応短編として終わっているものの、主人公のAがそののち詩を書くようになったといういきさつまでストーリーをたどりきっていないのが少々残念だった。だから、連作の短編の一部のような気配もしないではない。

ともにボディビルダーの主人公AとそのライバルBは、エッシャーのだまし絵のように前景が後景に入れ替わるかたちで、交換可能な人物である。しかも二人はスカイプでつながっている。Aは筋肉増強剤否定派、Bは肯定派で、二人の議論は妙によじれた平行線をたどる。AはBの紹介で入って来た後輩がBのスパイなのではないかと疑心暗鬼になったりする。Aはストーカー事件を解決する会社の会長の傍らで働くことになり、そこでAは無類の活躍をするのだが、物語の最後には、その会長自らが、最悪のストーカーと化してしまう。これも入れ子細工のように相似形の人間の欲望を描いている。AとBの姿は、まるで現代の日本の国会の戯画のようでもあり、このシンボリックな自己愛物語の真の主人公は、現代の日本人であるのかもしれない。などと私も日頃の鬱憤をこんなところでぶちまけてみるのだが、この小説に出て来る人々の被害妄想的な思考のいちいちが常軌を逸しているのにもかかわらず、そのリアルさは、さもありなん、と思わせられるところがあって、要するにこの小説の登場人物たちは自己愛以外のモラルがない。これはほとんど現存の政治家の竹中平蔵などの姿と重なる。とまた鬱憤をぶちまけても許されるぐらいのカリカチュアライズする精神が旺盛な小説なのだ。この調子でピカレスク・ロマンをデフォルメしていけば何だって書けるだろう。

小説の場面のどれもが、微妙に既成のジャンル小説の場面を型として取り出しながらパロディ化しているところがあると感じる。集中にばらまかれる映画名や音楽についての蘊蓄は、そういう趣味の持ち主へのサービスともなるものだが、一方でそういうスタイルの著名な書き手の癖を取り込んだパロディーでもあってほしいので、単に筆者がそこでオタク的であるだけでは広がりをもたない気がする。

小説のラストの姿見が出てくるあたりは、出来すぎという気もしないではないが、心憎いほどの写像関係へのこだわりではある。ひとつだけ気になるのは、Aがアナボリック・ステロイドを使用していたことが途中で突然明らかになるのだが、その理由や動機がいま一つわからない点である。ホルモン・バランスが崩れてオフに体が女性化してしまう(ビッチ化と言っているが)という逆転の悲喜劇は、このカリカチュア小説のもっとも愉快なシーンであると思うが、そこに至るまでのきっかけや経緯が丁寧に書き込まれてない。これは既定の枚数以内にまとめるために作者がネグってしまったとしか思われないので単行本にする時は丁寧に詰めておいてもらいたいと思う。