さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

緊急ワークショップ「これからの「国語科」の話をしよう!―紅野謙介『国語教育の危機』(ちくま新書)を手がかりに―」

2018年12月28日 | 緊急拡散依頼
知人より二つの学習会の案内が届きました。私も参加予定です。


(1)緊急ワークショップ「これからの「国語科」の話をしよう!―紅野謙介『国語教育の危機』(ちくま新書)を手がかりに―」

1 内容・開催の狙い
・提題 古田尚行(広島大学附属福山中学・高等学校)
     阿部公彦(東京大学)
 ・リプライ 紅野謙介(日本大学)
 ・コーディネーター・司会 五味淵典嗣(大妻女子大学)

政府・文科省が矢継ぎ早に打ち出してきた「改革」のうねりの中で、高等学校「国語科」は、大きな転機を迎えています。進路選択のために毎年数十万人が受験する共通テストで、なぜ「記述式」の問題を導入しなければならないのか。新設される科目「現代の国語」「論理国語」「文学国語」では、何を・どのように教えるのか。こうした性急な「改革」が進められることで、「国語」の授業はどう変わるのか——。この間、各メディアでも、ようやく「新しい国語科」の問題が報道され始めました。しかし、メディアの言説の中には、いたずらに対立を煽るだけの表層的で単純化された議論や、現在の教育現場に対する理解不足としか思えない発言も見受けられます。
 そこで、このワークショップでは、現在の「新しい国語科」をめぐる議論の流れを作った『国語教育の危機 大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)の著者・紅野謙介氏をお迎えします。提題者(話題提供者)は、これも話題の一冊『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)の著者・古田尚行氏と、英文学者・文芸評論家で、高校国語教科書編集に参加された経験もお持ちの阿部公彦氏にお願いしました。阿部氏はこの間、大学入試英語への民間試験導入の動きに対し、根底的な問題提起もなさっておられます。それぞれの立場から「国語科」や大学入試改革について発言してこられた提題者のお二方とともに、「国語科」のこれからについて、じっくりと考えてみたいと思います。
 危機の瞬間とは、ひとに真剣な思考をうながす局面でもあるはずです。現在の高校「国語科」では何ができていて、何ができていないのか。これまでの授業や実践で培われてきた経験的なノウハウを、新しい「国語科」にどう接続していくのか。グローバル化の進む日本社会の中で、「国語科」はどう変わっていくべきなのか。この問題は、たんに教員・研究者だけの問題ではありません。「新しい国語科」をめぐる議論を、それぞれの現場を踏まえた積極的な批判の契機として読みかえていくためにも、さまざまな立場の方々と議論を深める機会にしたいと考えています。関心をお寄せくださる多くの方々のご参加をお願いいたします。

2 日時
 2019年1月13日(日)15:00~18:30(終了予定)
3 場所
 大妻女子大学 千代田キャンパスF632教室
(JR市ヶ谷駅10分、地下鉄市ヶ谷駅7分、地下鉄半蔵門駅5分、地下鉄九段下駅12分)
4 参加方法
 事前申し込み不要
5 参加費
 無料
6 問い合わせ先
 五味淵典嗣(大妻女子大学)

(2)学習会「これからの国語教育を考える―新学習指導要領と新テストにどう向き合い、「国語科」の授業をつくっていくか―」
1 内容・開催の狙い
・講師 紅野謙介(日本大学)
・司会 小嶋毅(神奈川県立横浜修悠館高等学校)
2022年度から高校に導入される新指導要領、2020年度から始まる新テスト(大学入学共通テスト)を前に話題の近刊『国語教育の危機』(ちくま新書)の著者をお招きし、これから「国語科」の授業をどうつくっていくかを考える会です。新指導要領・新テストへの批判をしつつも、改めてこの機会に私たちが積み上げてきた「国語科」の授業について問いなおしてみましょう。高校国語教育の現場や小論文指導の現場からの実践報告や提案も盛り込んで、建設的・創造的な学びの場にしたいと思います。関心のある方の御参加を心からお待ちしています。

2 日時
 2019年3月23日(土)14:00~16:30(終了予定)

3 場所
 神奈川県高等学校教育会館 
・住所:横浜市西区藤棚2-197(045-231-2479)
・交通:相鉄線西横浜13分、京急線戸部15分、横浜市営バス藤棚5分(横浜駅西口から68系統滝頭行き、または横浜駅東口から102系統滝頭行き)
・藤棚交差点から書店「第七有隣堂」脇の急坂を上がる。途中に、似た名称の「教育会館」がありますが、その先の右手です。)

4 参加方法
 事前申し込み不要

5 参加費
 無料

※ 追記。一月十三日の会に行ってみたら、定員百六十人の会場がすでにいっぱいで廊下まで人が溢れていた。二百人か、それ以上来場者がいたのではないだろうか。この問題への関係者の関心の高さがよくわかった。三月の西横浜の学習会も、こうなると期待できる。

桜木由香『迂回路』

2018年12月23日 | 現代短歌
 本が届いたとき、わくわくした。私は著者が玉城徹の歌について書いた文章に感心した覚えがあって、著者の感覚と知性に深い信頼と敬意を抱いているのである。著者が知人らと出している小冊子「まろにゑ」も好ましい。きちんと生きている人だから、言葉がまっ直ぐで濁りがない。

  重き荷を負ひてし歩むあぶらぜみ天の裂け目ゆ声にじみ出づ

  喜遊曲をききつつ泣いてゐたりしか涌きわく雲ははや秋のいろ
    ※「嬉遊曲」に「モテツト」と振り仮名。

  黄ばみたる亡き人のふみ読みをへて雪の日のやうに翳るわたくし
 
 掲出歌、一首目で「重き荷を負ひてし歩む」のは作者自身であろう。歌はここで一度切れているのだが、そのまま息をつなげて読んでいくと、「あぶらぜみ」もまた、人間同様に苦しんで、じりじり陽に焼かれながら声を絞り出しているように感じられて来る。ありそうで、なかなかこうは歌えない境域の作と思う。
 作者は夫の市原克敏をうしなってのち、桜井登世子の挽歌にこころを打たれて、その選歌欄に参加した。それから今日まで幾年が経ったのか。掲出の二、三首めは、なかなか癒えない気持を詠んでいる。

  抽斗をあければふいに潮騒が私を摑む 夜のこがらし

  つい先刻はたちでありしわたくしが燃え尽きさうな秋の姿見
    ※「先刻」に「さつき」と振り仮名。

一首目の「潮騒」は、思い出の品物が抽斗のなかに実際にあったのだろう。記憶の抽斗という一般的な比喩として読んではつまらない。二首目は、数十年なんて一瞬のことだ、という感慨ととってもいいが、ここは実際に「はたち」の「わたくし」のこころになっていた、と解釈する方がおもしろい。姿見を紅色に染めるのは紅葉の秋の気配である。

 ぽつかりと目覚めたきかな雨やみしアララト山にうちあげられて

 たつたいま書きたるごとく温かきパウロ書簡は遠き日のふみ

 あるときはとほき星より見るごとし幼きもののピアニカ弾くは

 「あとがき」によれば、著者は「聖書百週間」という講座に通ったのだという。集中には何首もの「聖書」に取材した歌がある。強い喪失感から立ち直るのに時間がかかって、苦しみあえいでいるから「ぽつかりと目覚めたきかな」というような歌も出てくる。生前の夫にすすめられたカトリックへの関心であったが、受洗まで時間がかかった。そのことが「聖書」の物語を踏まえつつ「迂回路」というタイトルのもとになっている。生のいきいきとした実相は、茫然としてしまうほどに遠く感じられ、あるときは幼児がピアニカを弾く姿さえも「とほき星より見るごと」く、距離が開いてしまっているように感じられるのである。

歌集全体を見通すと、平易なようでいて、けっこう修辞に工夫を凝らした歌が多くあり、そこに才気のひらめきと蓄積してきた文学的な教養が示されていて読みごたえがある。おしまいに象のはな子への挽歌を引く。

ユーカリの梢をはるか見はるかし象のはな子よ軽がると往け

日高堯子『空目の秋』

2018年12月09日 | 現代短歌 文学 文化
 自然と社会とを鋭くみつめる作者の批評的な精神の震えがまっすぐに伝わってくる歌集である。

  父の樹とおもふ桐の樹七日ほどうすじろく咲きまた万緑に消ゆ

  黄あやめの生ひしげり咲く池のめぐり彼岸のやうに浮きあがり見ゆ

  食卓はこの世の岸辺 心臓があへぐまで食べてゐたい母なり

  しろいごはんの中にいますは阿弥陀さまほほゑみながら母食べをり
   
   ※「食べ」に「たう(べ)」と振り仮名。

 読んでいて切ない歌が多いので、あまり解説めいたことを書きたくはないのだが、一首目を注意して見てみると、初句と二句目は「き」の音が三回出てきて、三句目の「七日ほど」が一、二句の詰まった感じを解放するせいか、「き」音が耳に心地よく働いてくる。そうして四句目の「うすじろく咲き」は、桐の花色として一般的な「紫」色の方を強調する感じ方に対して、あえて「うすじろ」さを強調しているところから、これが死者を意識しているせいなのだということを自然に読者に了解させる。亡父を思う一連の歌である。

 二首目の「黄あやめ」は、それが咲いているあたりの地面がぽっかりと浮き上がるように見えるのだろう。それは極楽浄土をイメージさせるわけで、まさしく「彼岸のやうに」とでも言うほかはない。

三、四首目の母はすでに呆けてしまっているのである。だから、すぐ前に食べたことも忘れているから、食べることも自分ではやめられない。切なくかなしい気持にさせる歌だ。他にいい歌がたくさんあるけれども、ここに引くのはこれだけにしておく。同じように介護に苦しんだり、生き難いと感じているひとに届けたい歌である。

  そらにみつ風音葉ずれ鳥こだま 言葉は人間をどこへ連れゆく

   ※「人間」に「ひと」と振り仮名。

  〈人口爆発〉迫ると聞けど夏の朝の蜘蛛の網には千の水滴

 自然の事物に接するよろこびと、人間存在・人類の未来に対する強い危機感とが同時に表現されている。知性的な鋭角のことばをそのまま使ったりしないで、自然の事物に託して溶かしこむように詠んでいく、その練達の技に感興を覚えるとともに、作者の歌境の深まりを思った。私より十歳ほど年齢が上の方なのだが、近くて遠い、遠くて近い十年の差というものを思わせられた力作の集成である。

水道法 感想 

2018年12月08日 | 政治
 4日に水道法の改正案が参院を通過した。入管法の攻防の陰になってしまったが、こちらも大きな問題である。もしも大きな災害があった時に、民間業者は、値段に転嫁しないかたちできちんと元通りに水道というインフラを回復できるのだろうか。

 先の種子法廃止といい、日本の国益の根幹を損う政策を次々と打ち出していっている安部政権というのは、いったい誰の味方なのだろうか。

☆ 2月15日に追記。 その後「毎日新聞」の2月13日のオピニオンで、

宮城県知事 村井義浩、
東洋大教授 根本祐二、
水ジャーナリスト 橋本淳司

の三氏による意見を読んだ。今後水道法について議論する時には、いい叩き台になる紙面構成である。
安部首相に提案・進言したのは村井義浩である、ということだ。「宮城モデル」が実験の先鞭をなすと言っている。

〇 改正水道法が外資の食い物にならなければいいが、と国会で心配していたのは、山本太郎である。
村井氏は楽観的にすぎるのではないか。もしくは自分の現場のことだけしか視野に入っていないので
はないか。私の近所では、社民党の議員が水道法を問題にして活動をはじめている。事後の反対、と
いう感じがしないでもないが、廃止された種子法も含めて、言い続けることは大事だろう。政権がか
われば、元に戻すこともできるかもしれないし。

〇 水道に関しては、名著『日本のリアル』(PHP新書)のなかで養老孟司と対談している畠山重篤のよ
うな人の意見も私は聞いてみたい。この対談で畠山氏が示唆していることは、ダムと水道をセット
にする考え方の変更である。

この本には、衝撃的な記述があった。

「実は、昨年、とんでもないものを見ました。世界遺産の白神山地に行ったのですが、あそこの岩木
川をずっと遡っていくと、だんだんブナが多くなって、ああ、きれいだなと思ってさらに進んでいく
と、その奥の方で津軽ダムという巨大なダムをつくっているんです。白神山地の喉仏にあたるような
場所にです。
 白神山地は世界遺産として守ると言いつつ、その奥ではダムをつくって森の養分を止めてしまう。
この国はそういう国だったのかと思いました。」(132ページ)

 植物は窒素やリンを取り込むために、微量の鉄分を必要としている。山の枯葉は、その腐食する過程でフルボ酸を生み、それが鉄イオンと結びついてフルボ酸鉄となった時に植物が鉄を吸収しやすくなる。
それをダムでせきとめてしまうと、そこから下に山の栄養分がいかなくなる。これは海も同じで、ダム
が川にあると、海に山の栄養分がいかなくなる。

 上流のダムは、山を栄養不足にし、海も栄養不足にする。小田原では1954 年まで年間60 万匹もとれ
たブリが、いまは年間に600匹しかとれない。「なぜかというと、丹沢の川から相模湾に流れ込む三本
の川がすべてダムで止められてしまったからです。」