さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄~を読む』

2017年01月29日 | 現代短歌
 以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子 『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』 の前半の1月から6月の部分である。これはいまから七年前に、その十二年前を回顧した冊子だから、ざっと二十年近くまえの短歌についての文章ということになる。
 
 この中には、すでに故人となられた方の名前もある。いささかの追悼の気持をこめて、ここに再掲する。若い人達、それから未知の読者との出会いを祈念して。後半から先に三回に分けて掲載している。

はじめに 

 この冬に以前の文章を編集し始めたら、とても一冊ではおさまりきらないということがわかった。それで少しずつこうした小冊子にしてゆくというアイデアがうまれて来た。ここには「未来」誌の「ニューアトランティス欄を読む」の一年分と、「月集欄」批評の三カ月分をまとめてある。これによって、ちょうど十年前の「未来」の作品をコンパクトにまとめたかたちで縦覧することができるのではないかと思う。この頃の私は散文を「鈴木篤」という名前で書いていた。今見ると、何だか歴史を感じてしまう。それほどに世の移り行きは激しい。読み返してみると、いろいろな事が思い出されるし、結構楽しい。以下の文章にとりあげている作者の中には、東直子さんや高島裕さんのように、すでに「未来」を離れた方もいる。また、亡くなられた方もある。こうしてみると、後で歌集に収められた諸氏の作品に初出の段階で言及することができたのは、実に幸せなことだった。でも、取り上げられた方は、勝手なことを書かれてさぞ迷惑だったのではないかとも思う。慚愧に耐えないが、私もまだ若かったのだ。こういう文章の性格上あまり直してはいけないと思ったが、文意の変わらない程度に細部を見直しして、無駄を削った。ただし選んだ作品で削ったものはない。豊かな歌の世界が、ここにはある。

◇一九九八年「未来」ニューアトランティス欄を読む◇

                      
○ 一月号  
 さて、今月からこの十ページほどがわが草刈り場となる。踏み入ってみると、「刺客うようよ」というほどでもないが、やはり緊張する。小林秀雄に「真贋」というエッセイがあった。あの文章では、本物の赤絵の皿を素人目に偽物と決めてしまって、「見るのもいやだ」と手放してしまい、後からやはり本物だったということが判明するのだが、自分もそんなことをやらかすかもしれない。もちろん歌の批評は骨董の鑑定ではない。でも、ひらめきに頼る点があるのは似ているような気がする。読みながら、言葉を濾過した「現在」への感度のようなものを、同時に計量しているのである。
 その「現在」への感度という点で、ひところの紀野恵の技法の「超時代性」が、すでに批評的にはたらかなくなりつつあるのではないかということを言いたい。角川「短歌」の十二月号に、

  コンピュータ音声応答システムが干からびてゆくゆめのなか 遇ふ 紀野 恵

という作品があって瞠目させられたのであるが、この歌は索漠とした時代の気分を、無機的なコンピューターの声に象徴させるように取り込んでいるところに見所がある。ここには作者の新たな可能性がひらけていると思う。残念ながら、本誌一月号の一連には、そういう鮮度がやや乏しいのである。たとえば四首めの下句に〈未だわたつみ越えぬイゾルデ〉という句があるのだが、この「イゾルデ」という固有名詞に、なぜか私は、たちどころに疲労感を覚えてしまう。それに比べて「コンピュータ音声応答システム」は響きがいい。呼び込まれている語彙の選択の問題が一番大きいような気がするが、それだけが原因で、この目覚ましい印象の違いが生じているとは思われないのだ。…というような事を悩みつつ書いていると、手元の「短歌研究」二月号の一ノ関忠人の放言が目に留まってしまって、聞き捨てならない。一ノ関は、「現代が、あたかも修辞の時代であるかのように錯覚させる歌壇の先端部」は「くだらぬ意匠の先進を争」っているのにすぎず、彼らは「みずからの狭隘ななれあい世界を清算するほうが先決ではないか」と言うのである。実に、見当ちがいもはなはだしい怒りの爆発ではないか。修辞の中にしか、現在は現れない。そのことを痛切に感ずるところにしか、短歌が詩として生きて行く道はありはしない。話をかえよう。

  父逝きてほうやれほうの我ながらなみだ流れて荒川に来つ    池田はるみ
  やうやくに寝入りたる子の頬のあたりばう、とふくらぐやうに思ひぬ   大辻隆弘

 二首とも、言葉の質感を確かめるようにしてうたわれている。「ほうやれほう」や「ばう、とふくらぐ」といった、平仮名書きの表記と語音との微妙によじれ合った擬古的な言葉遣いが巧みである。池田作品は、境涯詠の荘重さへと短歌的叙情を収斂させることなく、ふっ切れた哀れなおかしみを醸し出していて、先の歌集『大阪』の後半部への批評として、歌集を読む会の中で出されていた問題に、この一連で早くも応えることができたのではないだろうか。問題は挽歌の領域における、近代短歌の超克である。(付記。この一文、気負いすぎですね。)
 大辻作品の方は、新歌集『抱擁韻』の帯に「短歌的文体に殉ず。」とある。この「ばう、とふくらぐ」は「短歌的文体」なのかもしれないが、「ばう、とふくらぐ」と子供の頬が見えたこと、そのような錯覚をおぼえたこと自体は、やはり現実・リアルというものが先立って突出しているのであり、そのことに読み手のぼくは動かされたのである。それはもしかしたら「写実」ということの要諦なのかもしれないが、同じ一連の〈木々の影ページのうへを走りゆく朝の車窓に寄りつつ読めば〉の好ましさに比べて、導入の歌とは言え〈色づける柿のはだへにうつすらと白き粉見ゆ秋のはじめは〉の平淡さが、危険な気がするのだ。むしろ『抱擁韻』の問題作は、「短歌的文体」の準備がととのいようもないところまで現実が迫り出しているような局面で、なおも腰の重い「短歌的文体」を誇りやかにこなしてみせる超絶技巧的アクロバットを示した作品の中にあるのであって、帯文の揚言は、どんな現実をも「短歌的文体」の中に繰り込むべく闘うのだともとれるし、逆にその可能性を信じられるだけの大きな自負の現れというようにもとれるのだが、ぼくとしては大辻さんにそんな単純な信仰告白をしてもらっては困るのだ。短歌はただ音が心地よく流れているだけのものではないし、既知の言葉の構成をなぞりつつ生まれて来るイメージの楽しさにおぼれるためのものでもない。われわれが当面している諸々の物・事の現在性として、歌が(言葉によって、修辞によって)えぐり出し、突き付けて来るものを、貪欲にもとめて行きたいのだ。

  ほどほどにエスプレッソの苦さあれ契約は吾をやわらかく締む      日下 淳
パパのかたいおなかがとてもこわい 巨大な抽象画を前にして     東 直子

 買い手市場の労働現場に働く女性のくっきりと醒めている意識が伝わる一首め。「男性性」としてとらえたものに、やんわりと抗している二首め。はや字数も尽きた。

    《九八年四月号》
○ 二月号

  マルクスと喧嘩したいだなんて(ふふ)ライチの皮を剥きながらきみ   田中 槐

 「マルクスと喧嘩したい」なんていう類の気恥ずかしい台詞を、酒の席で口走ってしまう奴って、いたよなあ…。少しブルジョア感覚のライチを食べながら、というのも皮肉でおかしい。知的でちょっと男を小ばかにしていて、でも厭味がない。何度読んでも吹き出してしまう。

  したり顔する 価値を裏返すことなど簡単さねえ桜井君    中沢圭佐

 一連は、例によって欧文哲学書直訳体的な文体なのだが、それをベースにしながら、不思議な歪みを持ち込もうとしている。これでユーモアが出せるようになったら、このひと本物だ。当月はしかし玉石混淆の一連、どれがよくてどれが悪いかは「〈神〉のみぞ知る」だ。まとめて読んだら飽きが来るという危惧は、むろんある。でも、みるみるうちにこの作者、「事実」の断片の取り入れ方が、さまになってきた。今は突っ走るしかないだろう。若さというのは、こわい。

  夕焼けのきはまる後の音を聞くこの男には妻も子もある     江田浩司

 島木赤彦の有名な一首を下敷きにしている。アララギ的な「正調近代短歌」の遺産を利用しつつ、そういう荘重な短歌的文体を、それ自身の中で異化するように使用すること。調べは近代短歌に拠りながら、盛られているものは仮構された意識と言葉のよじれあった一つの現代的な詩の位相であるような世界を作り出すこと。先の歌集『メランコリック・エンブリオ』の問題作と比べると、ずっと読みやすくなっているが、江田さんのこの行き方、悪くない。別に、これは撤退ではないのだ。

  トンネルに入りて「ひかり」の身ぶるひがわが背後へと伝ふときのま   大辻隆弘

 また大辻さんを引き合いに出してすまないが、こちらは『帰潮』の〈移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ〉の音の向きを反対にしている感じだ。作者の佐太郎摂取は堂に入ったものだから、この調子で作っていれば、むろんそれなりの成果は得られるだろう。でも、惜しむらくは、うますぎる。だから、どうしても後向きに見える。

  褐色の男の子を産みし聖処女に石投げているわたしじゃないか    寒野紗也
  社会主義の禍福知らざる十万人を故郷にあらぬ地に還らしめ      李 正子
  追われたる祖国とふいに言い換えて電話を切りぬ田中ロベルト      但馬哲哉

 この日本という、どこを切ってもぶよぶよの平板さがあふれた全体主義的な社会に住んでいると、つい自分の頭の上の蝿を追うだけになってしまって、いろいろなことに鈍感になりやすい。掲出歌は、この国の外へと弾き飛ばされてしまった人々の複雑な状況にかかわろうとしている。寒野作品は、適当に乱暴なところと、野性的なヒューマニズムの発露がうまく釣り合って作者の持ち味が出た。李作品は、個人崇拝が体制の根幹に据えられている厳寒の共和国に、かつて鳴り物入りで、愛する同胞を向かわせたことについて、その責任はいったい誰が負うのか、と問いを投げかけている。但馬作品は、異国にあって、ナショナルな情念を捨て切れないでいる人物の複雑な心境を詠んでいる。

  マーライオン背にして笑うこの夏の家族写真を火にくべがたし     大谷真紀子
  寝る前に「ちゃがちゃがうまこ」を唱えいる子供の声に浸りて吾は   中川佐和子
  「失楽園」と言へばミルトンと反応する親族ばかりの法事二次会
                                    宮原望子

 人間というものは、親兄弟や家族、肉親のしがらみの中で苦しみつつ生きていく存在なのだという、このごく平凡な事実の重さを認識することが、文学の根幹にはあらねばならないと、かつて文芸評論家の江藤淳がのべていた。短歌も同様だ。若いうちにはわからなかったことである。

 大谷作品には、おのずから生のおののきが一首の歌となったというような、切ない響きがある。中川作品のような慰めも、時にはあっていいだろう。宮原作品の、何という明るいユーモアだろうか。これは、大島史洋氏も取り上げて書いている歌だが。

  母の手は寂しうからの皿ごとに卵料理をすべりこませて     加藤治郎

 短歌が「うから」という語を日本語の中で存続させていることの意味は重い。これは加藤さんの自然体ということになる。

  礼ふかき黒衣の妻のおもざしのわたくしに似て きみは逝きたり    釜田初音

 いつの間にこんな作者に脱皮していたのかという驚きをもって読んだ一連。何年もいっしょに短歌をやっていて、ふと気付いたら、となりのあの人が、何者かに化けている…。「作者」と呼べるような確固とした存在に成長している。そういう経験を、この頃ずいぶんするようになった。集団の文学運動というのは、そういう良さがある。これは別に「未来」だけ持ち上げて言っているわけではない。掲出歌、逝きたる「きみ」は「わたくし」の昔の思い人の男性と解釈した。
                   《九八年五月号》

○ 三月号

  家中の刃物をあつめ研ぎ出だす雪つむ夜つうの鶴にあらなく     飯沼鮎子
風使いの眼をしていた グライダーを片手にたかく掲げた少年

 ものを書き始める前には、家中の刃物を取り出して来て研いだという中野重治のエピソードを一瞬想起した。この作者の中にも、そういう剛直なものがあるだろう。二首めには、対象への恐れに似た敬意が感じられる。いつでもかまえることなく、正面から子供たちに真向かっているのだ。そういう健康な、この作者独特の凛然とした勁さのようなものが、うまく修辞的な着地点を見出すと、いい歌になるように思う。良識によりかかった地点からではなく、自己の感性のまっしぐらな直接性に照らしてものを見ようとした時に、反射的に立ち上がってくるモラルとでも言ってみたい。最新刊の第二歌集『サンセットレッスン』の安定した歌境の良さのようなものは、そこにある。知らないうちに、作者は、平凡な比喩の非凡な使い手としてさらに成長していた。心地よい驚きだった。

  ふるさとに弛緩靴下見るときのさむざむとしてかなしと思ふ     高島 裕
母上は萎みたまひぬ厨着の白おほらかに遠き日はあり

 あっと言う間にこういう歌が作れるところまで来れるのだから、驚く。「さむざむとしてかなしと思ふ」という、強固に近代短歌の様式に支えられている感情の叙べ方がある。そこに、ルーズソックスみたいな俗な素材が放りこまれて一首ができあがる。全部高島さんのいつもの実験的調子だと、短歌として認知されにくいということがある。こういうものもある程度作っておかないといけないだろう。しかし、決まり文句には決まり文句の陥穽がある。あまりにも心地よいために、自分でその表現に何かをつけ加えることができないのである。だから様式的な叙法に対しては、用心するに越したことはない。保守的文芸型式である短歌のつらいところだと思う。ここのところで短歌を信じられる人やグループが歌壇にはたくさんいて、自分の間尺に合わぬものをすべて切って捨てようとしているのである。かと言って、そういう保守的なものがすべて消えたなら、短歌は滅びるのではないかという気がぼくはしている。好悪の感情で問われたら、ぼくだって断然「さむざむとしてかなしと思ふ」が好きである。高島さんは若いから、こんな大きな疑問を出してみるのだが。

  林檎二個 一個はおのがために剥く喜びはかく淡くたしかに      加藤聡明

 いつも通りの禁欲的な作者だから、一連から事実的な背景は極力消されている。読者としては、あと少しだけ、私事を教えてほしいと思うことがある。見せ消ちに描かれている断片だって相当に厳しそうなのに、作者は黙して語らない。聡明さんは羞じらう人だ。林檎をむいている孤独な男の後姿に、誠実な魂の受苦のありようが形象化されている。究極的には空に向かって書いているのだから、ぼくたちはみんな自由だと、この作者なら言えそうな気がする。聡明さんの作品に励まされる読者は、ぼく以外にもきっといるはずだと思う。

他人事と思えぬされど打電する銀行コード0012     日下 淳
  コール市場呼べど応えぬ金曜の午前十時を魔の刻とせり   
   
 北海道拓殖銀行が破綻してから、三月に入って北海道では大型倒産が相次いでいるという新聞記事を読んだ。札幌で金融関係の仕事に従事しているらしい作者ならではの、ひりひりするような臨場感が一連には漂う。一首めの「されど」というのは、自分の事でもあるのだが、今は勤務中の身で、必死の形相をしてせっついて来る誰かに依頼されて、代理で打電しているのだろうととったが、この一首だけだとその情景は見えて来ない。もう一首、序にあたる歌が要るのかもしれないが、日下さんも私事をあまり歌の中に出して来ない作者ではある。一連は、特別に意識しているわけでもないようなのだが、どこかで男どもが作り上げた経済システムの総体に物申しているようなところがあって、空気のように感性そのものに内在化されたフェミニズムとでも言ったらいいか、ほろ苦い戦後システムへの訣別の言葉が、経済を詠みつつも、まるで相聞歌みたいに立ち上がっている様子がおもしろい。「写実」の再興ということが言われるとしたら、こういうところから微かな地殻変動は起き始めているのである。若い日下さんたちの「アルトの会」のようなマイナーな研究会には、今後につながる種子が隠されているかもしれないと思う。自他の作品がどこへ向かってゆくのかということへの真摯な問いを持ち続けながら、同年代の女性のある層の肉声を、自らの経験を媒介にしてつかみ出してくることが必要なのだ。

  カレーニン旅行会社は救ひあるさまに飛行機切符手渡す     紀野 恵

 先々月に書いたことなどどうでも良くなってしまうのは、この人の歌の後頭部に届くような柔らかい言葉の刺激の故である。  《九八年六月号》

○ 四月号

  さりげなく株価終値浚いおりヒエログリフを読み解くように    日下 淳
  振り出しという語の軽さいつの日か廬生の夢はさめねばならぬ

 また北海道の日下さんの作品を取り上げる。二首めは直接日本経済とは関係がないのだろう。しかし、微妙に重ねて読みたい。こんなことを思っている経済人が、日本に今どれだけいるのか。倒産すれすれのところであえいでいる小さな建設関係の会社の人の話などが耳に入ると、何もしなくても赤字は累積して行き、それはもう、暗渠にお金を放り込んでいるようなものだという。経済の痛みは人の痛みだということが、日下さんの歌の中にはある。私的な契機と、職場環境での写生とがだぶっている。それは偶然のものでもあり、必然のものでもある。そのタイミングが重なっている今この時を、歌はつかまえる。「振り出しという語の軽さ…」。損失だって、たいてい男の方が立ち直れないのだ。宇野千代の自伝を読んでいたら、「それにしても私の立ち直りの素早さは目にも止まらぬほどのものであった」と書いてある。あれは、元気が出る本だ。

  えいえんに腐らぬあけびあるようなさみしさきょうもあなたを愛す    大滝和子

 一読して咄嗟に思い浮かべたのが、雨宮雅子の〈いつぽんの木のかなしみにゆきつけば烏瓜垂るる宙の昏しも〉であるが、とりあえずこの連想には何の意味もない。あけびは口を開けているのか、閉ざしているのか。たぶん青い匂いを発しながらかたく口を閉ざしているのだろう。処女性のようなものへ向けて禁圧を強めて行く、作者ならではの不思議な感覚だ。題「秘恋」というところだが、「けふも君おもふ」ではなくて、「きょうもあなたを愛す」とはっきり言うところが現代。

  テノールが「またも孤り」と歌うとき庭に日の差す喜びはあり    佐伯裕子
告げられし一つ言葉のひびかいに伽藍となりてわれは暮れたり    秋山律子
  壁際のグランド・オダリスクの背の見ゆれ昨夜見しままに歪みしままに 松浦郁代
  どこまでも従き来る少女手をのばすもしや前の世われの生みし子 さいとうなおこ

 一首目は調べが通った歌で、子供が自立して行ったあとの母親の感情を底に沈めたものとして読めると思うが、その分やや既視感があるのは、うまくそろった材料のせいもあるかもしれない。二首めもよくわかるし、一連は夫が定年、自分もある年齢にさしかかった女性の感慨が伝わって来るのだが、どこかで事実の取り入れが不足している。岡井さんのように、白鳥を見に行きますか。三首めは結句の「歪みしままに」に作者の感情が出ている。それでいいのであって、その前の歌のように「なお昏き身ぬちに」とか「身奥寂しき」とか自分で言ってしまうと、かえって逆効果になって批判されることになるのである。思いを外部にある事物に託してしまえばいいのだ。やはりここでは素材が問題となるのであって、要は身のめぐりを見るということなのだが、ここでぼくは「写生」説の説教をするつもりなど毛頭ない。

 人間には各々の経験の核になっている原風景のようなものがあるような気がする。それは、心象というようなもののもう一歩先にあるものなのだ。それを、目の前のたまたまそこに在るものを媒介にして出してみせるということが、すぐれた歌人は得意なのではないかと思う。そこのところで、ある風景と言うか情景のようなものに突き当たるような、突き当たろうとするような、そういう作り方、創作・創造の態度というのはあるような気がしている。さいとうなおこさんのインドの歌、一連の一首めの〈屍のにおい街の臭いを吸い込みてガンジス永遠に鈍色の帯〉が、ぼくは不満である。さいとうさんは好きなインドだったらガンジスだけで何十首作ってみてはどうか。掲出歌は、まだ夢のようなものがあふれ出して来ない感じで、これだと文明一党の旅行詠の範疇に入ってしまう。今西久穂さんが亡くなる前に、旅行の歌は昔のなつかしい手法でも結構楽しみながら歌っていけるようだと書いていたけれども、今西さんはそれでよかった。でも、さいとうさんには、体験を無意識の中に浮かべなおすとでも言うか、そういう作業をやってほしい。ぼくは『シドニーの雨』の良さが忘れられない。

  学校を丸焼きにせしいがぐりの同級生をこの頃思ふ     池田はるみ

 「十三歳」と題した一連から。いがくり頭の同級生の思い出が、〈切らぬからどうでもよいから育てよと栗には思ふ栗はよきかな〉という発想に行く平俗な味がおもしろく感じられる。何十年も前の子供の「悪さ」というものも、思えばなつかしい話だ。末尾の大国主命に助けられる白兎も、考えてみれば悪童的要素が強かった。秀逸な思いつきだ。さらなる磨きをかけてほしい一首ではある。
《九八年七月号》

○ 五月号

  星と星擦れ違ふごとき酷薄の偶然はかく吾をさびします     奥村和美
群衆する心はいかに手拍子にラデツキー行進曲はづれて聞こゆ

 一首めの三・四句めからは、啄木の〈かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど〉が思い出される。相聞歌なのだろうか。二首め、にぎやかな音曲と調子外れの拍手の響きは、私の孤独をかえって際立たせる。一連の整った調べとよく選ばれた語彙には、戦後短歌のなつかしい残響が聞き取れる。それは若い人の乱暴な歌とは比ぶべくもない修練の産物なのだが、比較して申し訳ないけれど、ちらっと連想したので名前を出してみると、初期の安永蕗子のような独自の心的世界を構築するには、風景を自分の側に引き寄せながら、もっと多彩に、もっと具象的にうたってゆく必要があるのではないか。その時に、おのずから歌語のうちに入ってくる語彙というものがあるはずで、そこに、歌を一個人の孤独な営みから時代の普遍的なものへと解き放つ契機が生じて来るのだと思う。むろん、声低く歌い続ける作者であってもいいのだが。

影、ふかく鋭く襲ひ来よ告げなづむ「民族」といふ一語のために    高島 裕
スリットゆこぼるる肌に灼かれつつナイフのごときものを思へり
苦しき論理つむぎてあれどどつちみち馬の蹄の中なる世界    山田富士郎
 つけもの石みたいにすみに転がつて相克を見むやみと闇との

 思想というのは、きちんと手続きをとって葬っておかないと亡霊が出ると、政治学者の橋川文三が、数十年前に水戸学を扱いながら言ったことがある。高島さんには亡霊が見えるだけではなくて、街頭で新右翼がアジったりしている都内に住んでいると、日々それが肌身で感じられるのだろう。しかし、戦後半世紀を経て「郷土」も「家」も「家族」もすっかり解体しつつあるのが、われわれの現状だ。今後の日本社会では、子供集団も含めた地域や職場の小さな社会単位を再生し活性化してゆくことが課題なのだとは思うが、そこに大文字の「民族」が介入する余地はほとんどないように思える。「影、ふかく鋭く襲ひ来よ」とは危ういことを言ったもので、むろん反語なのだろうが、一連には反語になりきらぬ失敗作が目立つ。もっとグローバルな視野のようなものを持たないといけないのではないか。対照的に山田作品の方は、思想に関する「手続き」について潔癖な作者だけに、わかりきったことは言わないで、思考の上澄みの部分をすくって出してきている。ただ、その分少しわかりにくいかもしれない。

 唐突のようだが、市村弘正と吉増剛造の対談集『この時代の縁で』が今手元にあって、そこにこんな言葉がある。「隠喩が死んじゃったら、じゃあ、われわれはどうやって生きていくんだろう。」…ぼくには現代短歌はたとえて言えばマニエリスムで、一回隠喩が死んでしまっているのにそれを見ないようにして、意識の隅に入れないで儀式を続けているだけのものだという気がしてならないのだが、だからと言って書き続けることは大切だし、その欲求は非常に強いものなのだから、ここでつべこべ言っても始まらないのだが、そこで開き直るのか、それとも、何か理由や根拠のようなものを必死に捜し始めるかでは、大きく態度が異なって来るのではないかと思うのだ。ついでに言うと、肩の力を抜くということは、「自己」であることとか、「独創的」なものへのあくなき意欲を持つということではなくて、事物とことばの「他者性」の前にさらされ続けるということなのだ。それを近代短歌はたまたま「写生」と言ってみた、というのに過ぎないのだと思う。

ばら色のながき放尿なりしかな凍てる地上に放つものあり       佐伯裕子
  物がみな象をうしなう源氏河原うすずみ色に少女はかがむ     飯沼鮎子
わが祖母は「独りを慎み、たのしみて」世を過ぎにけり苦のまされども 中川佐和子
さまざまの声に呼ばれし日の終り無口に寒の夕水にほふ      宮崎茂美
ことばよりまなざしをこそ棕櫚の葉にこごれる雪の透きとおるまで    釜田初音
  この爪も覚えておかむホルマリン浸けのごとかる君が左手の     星河安友子

 われわれは光と影の交錯する世界に生きている。それをとらえる短歌のことばの豊富さには、いつものことながら感動する。事物がことばによって提示されると同時に、まるで魔法のように情緒のかたまりが手渡される。 

  からからの白い林のなかで知る風のやみかた樹のこわれかた    小林久美子
  見つけるわきっとあなたを見つけるわ母をかきわけ姉をすりぬけ    東 直子

 この二人が姉妹なのだということはさして重要な情報ではない。同じ口語でも、二人の目指すものはちがっている。東さんが呪師なのだとしたら、小林さんはそれを描く絵師である。しかし、十数軒しかない村で、池田はるみさんの先祖と二人の先祖が姻戚関係にあったというのは、恐るべき偶然である。  《九八年八月号》

一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄 6月から12月

2017年01月29日 | 現代短歌
以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』の前半の6月から12月の部分である。

○六月号
  じわじわと顔の白さが浮び出るポラロイド写真のような復讐    加藤治郎
  人体の打ちあう音が底ごもる部屋にナイフは清潔である

どこか映画を見ているような物語性が感じられること、それが加藤作品の特徴のひとつではないかと思う。私事の澱みがあるかもしれない作でも、一首めのように、けっこうニヒルで格好いいのだ。

 内腿を撫づるがごとくしてゐたり芽吹きの前の桜木の幹を    大辻隆弘

芽吹く前だから山桜かと思って引いてみたが、この頃は染井吉野を思い浮かべる読者が多いだろう。そうすると、これは咲いたあとになるのか。みだりがわしき落花は風に飛ばされ、雨に洗われた後なのか、その辺がややそぐわない気がする。でも、上句のエロティックな感じがいい。師風の継承と、そこからの逸脱、さらには超脱が、依然として作者の課題かと思う。むろん、他人事ではない。

 雪はみなきのう解けたり黙々と鞭のかたちに道つづきいる   大滝和子
  粘土子という名の女この国にふたりくらいはいないだろうか

自同律の不快と恍惚を歌い続ける大滝ワールドは、時に同語反復の単調さに陥りそうになりながらも、間歇的な修辞の小爆発によって、その鬱血を瞬時に吹き払ってしまうところに特徴がある。

  キューピット風に犬歯のない顔で笑いながら苦しみを言う   東 直子

 何かいろいろと悩みながら試行しているという印象を受けた一連で、端的に言うと、どこかひっかかって来るものが乏しいような気がする。ここからもうひとつ出てゆくには、他者の視線が必要である。二・三人ぐらいで緻密な歌会をやった方がいいのだろうなと、老婆心ながら思う。掲出歌はことばの輪郭がはっきりしていて、「苦しみ」を言う主体の変によじれた意識のありようは伝わる。

  黄昏に毛穴のような目を開く半身不随の都市と俺とが    江田浩司
  血の付いたメスを真水で洗うごと考えており妻への愛を
 戦いの始めは昏くふるえつつ無数の手にて血をぬかれゆく

 どこか悲壮な感じが漂う。「関係」への鋼のごとき意志を感じた一連であった。愚直なまでに闘っている。「生活」の雑事は、そういう本質的な問いかけから人間を救ってくれるものだとぼくは思うものだが、それが生活というものだろうとこれまで思って来たが、作者は「生活」をしつつ、この高度な観念性を手放さない。観念が「生活」であるような「関係」を維持しようとしている。それは大変だろう。だから、しばらく続いたGセンター云々という標題の一連には、ひやひやした。ついに無理がたたって江田さん癌になっちまったのかと思ったからである。どうもそうではなかったらしくてよかった。ちなみにあの一連、「私事」と「観念」の折り合いの付け方が奇矯にすぎてわからないものが多い。だから読みのスタンスがとれない。そういう読みのスタンスを破壊することを意図した作品だと作者は言うかもしれないが、「Gセンター」は生々しすぎる。遊びの入り込む余地がない。何度も言うが、短歌の場合は、今月の一連の方がどうしても読者には伝わりやすい。それはこの詩型が百年がかりで作り上げて来た生理だからである。これは先の江田さんの散文詩集への言及とは別である。「私性」についての問題を典型として、ジャンルは読み方を規定している面がある。それを負性としてとらえるだけではなく、われわれはそれを利用している。利用しながら疑わないのはおかしいと江田さんは言うだろう。それは正論である。ただ、論理的に正しいことがそのまま演繹的に正しい詩の実践(変な表現だが)に直結するとは限らない。「前衛短歌」の問題を、江田さんは考えるべきである。ぼくらは、それを丁寧にやらねばならないと思っている。

  焼け石を踏むはげしさに欲望のカラカラ浴場ありつづけたり    松原未知子

 「欲望」という概念語が歌の均整を破壊しそうになっている。それを百も承知で作者はやっているのだ。この一首が同時代と重なるものを持つように文脈を作り変えることは可能だろうか。小池光の『岡井隆』には、そこのところのヒントが示されていた。もっとも小池はこの歌の「欲望」はあまり支持しないかもしれないが。一連が、イタリアにおける作者の個人的な想念の遊びから時代の文脈へと越境するためには何が必要なのか。そんなことは望まない、と作者は言うだろうか。でも、作者の近刊歌集『戀人(ラバー)のあばら』の〈死に至る病をひとつ下さつていいのよ永遠に生きるのは嫌〉という歌などには、はっきりとそれが感じられた。もっとも個人的な詠嘆であるものが、本質的なところで時代を刺す。松原さんはそういうものを可能にできる作者の一人だと思っている。
 今月は後半から言及しはじめたら、前半まで及ばなかった。申し訳ない。
   《九八年九月号》
○ 七月号
 
  小学校終えしは去年けだるさが子にうっすらと生えはじめたり   中川佐和子
  クローン鮃クローン分葱…はじめから大人の顔の少年少女    桂 保子

 二首とも思い当たるところがある歌だ。学校文化が疲弊の極に達して求心力を失っている一方で、子供社会も小さな単位に解体してしまっている。そのため、柔軟な人間関係を作り上げることが苦手が子供が増えている。いじめもある。いじめられないように気をつかうだけだって大変だ。情報社会の中で、子供たちはみんな変に大人びている。流行に遅れないように。他人のことばに機敏に反応しないといけない。だから、みんなクローンのようにどこか似通って来る。そうやって気をつかって生きて行くのは、実に大変なのだ。「けだるさが子にうっすらと生えはじめたり」黴のような、大人の体毛のような倦怠感。

  オリーブの油煮つめしアレッポの石鹸は母の戦後のにほひ    水沢遙子
  恋を禁ずる父に順う思春期をするどかりけり機関車の笛   釜田初音
  頬に風 老母殺しをうたいいし青森訛りの甦りくる   佐伯裕子

追憶の歌を並べてみた。アレッポはシリアの商業都市。輸入物の石鹸の香が母への追想を誘う。二首めの作者の郷里は山形だった。一九六〇年前後は、まだ現役の機関車が多く走っていた。茶色い貨車の板壁、網棚に乗せられた学生鞄、手にしているのは岩波文庫、というところか。三首めの青森訛りの人物は、たぶん寺山修司だろう。

  かひなにはおほぞらがある春霰散じてゐると瞑りて思ふ     紀野 恵
  ぬるみ来る水を湛うる泥の層の必ずや抱く東京どぜう     柴 善之助

 春の季節が感じられる歌。一首目、両腕をひろげて大空の広さを受け止めている、その時、いまどこかで霰が散っていると感じられた。季節の空気に渾然と一体化したところでよんだ歌、というように解釈してみた。二首め、魚屋の店先にしゃがんで、水面に浮き沈みするドジョウを見ていた幼い頃のことを思い出した。

  さながら引き潮のうみ夕空に残されし星みな透きとおる   さいとうなおこ
  キューピーの背中に走るふたすぢの眉のごときは羽根だと教ふ    大辻隆弘
  なにも映らぬ画面ではない父と母と植木鋏と床のひろがり   加藤聡明

 どれも淡いようでいて、確実に何かをとらえている歌。一首めは、夕空の淡い星の光を、引き潮のあとのきらめきにたとえたところがいい。二首めの「これは何か」と問う子も、それに答える父も無心である。そこがいい。三首めは、消えているテレビのブラウン管に室内の様子が反射しているのだろう。それをことさらに「なにも映らぬ画面ではない」と言ってみせる。思っていることを言わないことから、却って屈従の思いはにじみ出る。そのあたりの引き方が巧みである。言い換えると、抑え込んでしまっている。「父と母と」というのは自分ら夫婦のことではないのか。詳しいことはわからない。けれども、そうだろうと感じさせる。日々をして、あるがままに在らしめよ。加藤さんは現代の修道師であろう。

  逢ふたびに勃起してゐる青年といふ逞しき隠喩をわれに!  松原未知子

 松原さんのセクシーな歌のファンは多い。きっと、もろにエレクトラ・コンプレックスの歌なのだ。『戀人のあばら』の中にあった〈彼らみなホモ・セクシャルでありしことわが感覺の芯を苛む〉という歌が傍証となるだろう。にしても、この凶暴なエッチな雰囲気、好きです。

  胸板に耳を当てればあかねさすアレキサンドリア図書館の見ゆ   大滝和子

 文語で統一すると「当つれば」で、私としてはその方が居心地がいいのだけれども、大滝さんのような口語派の一番苦しいところがここである。胸板と言っているけれども、何に耳を当てているのかは、わからない。現実にこんな男性がいてたまるか。ひょっとして、アレキサンダー大王そのひと。ううむ。

  人から軽く見られているのは背すじが丸いからだ影よワタクシ  岡田智行

 掲出歌は結句がやや難ありなのだが、この歌のかんじだと、岡田さんは「未来」では上野久雄さんの歌などをもっと研究したらどうか。意匠が境涯詠の成立を邪魔しているというか、そんな感じなのだ。

  ドアのノブはいつも冷たし「ヴェネツィアの宿」読み終えて触れたるノブも
                                   東 めぐみ

 一連、どれもムード先行の歌である。これもそうなのだが、かろうじて我慢の範囲内だ。読者も悪いが、こんな甘ったるい詩に安住している作者も悪い。    《九八年十月号》

 付記。当時「美志」という雑誌を一緒に出していたので、この毒舌が可能だった。

○ 八月号

 〈朝が来るからさよならを言えるから〉安っぽい詩のような抱擁      東 直子

 上句はどこかで聞いたようなフレーズである。と同時に、自分の気持を託してしまいたくなるような言葉でもある。作者は、この歌の中の男と女を両方とも許してはいない。でも、受け入れている。朝が来るから、さよならを言えるから。そんなの理由にならないけれど、まるでそういう悲しい抱擁のように、「今」がある。言葉はそれをつかまえている。

  つゆの雨知らぬ間に忘れゐし人は(ふあん)ファゴット吹きでありしよ  紀野 恵
使ひ魔をつね先立ててまつすぐに(きぐ)あゆむかなはららく茨

 今月の一連、どれもいい。作者はことばの音楽を奏でるソリストだから、他人もまた奏者として遇するがごとし。でも、(ふあん)とあるから、何か恋の予感のような、わくわくとした感じと、うまく演奏してくれるのかしら、というコンサート会場に出かけた時のようなスリルを同時に覚えているのだろう。ファゴットが(ふあん)と鳴りそうなおもしろさもある。昔読んだ『トニオ・クレーゲル』の雰囲気をいま思い出した。あの小説の後半に出てくるもう一人の少女、のような、もう一人の男性…。うん、やっぱり恋の思いだ。…それと、アートっていまや郷愁なのかもしれない。音楽の詩としての短歌、というのも残念ながらそうだから、この括弧の技法は、作者が最大限そういう状況にあらがおうとしているものととりたい。

  カピバラはあせた茶色の風合いのセーターみたいな沼を知ってる    小林久美子

今月の一連、南米の風物が感じられて楽しかった。カピバラは、愛らしい目をした巨大なねずみで、水辺に棲息している。南米の事物には、等身大の無限があるようで、現在という時間の底が抜けている。時間のありようが、日本に住むわれわれとどうもちがう。これはただの童画的な世界ではない。ぼくは小林さんには、もっといろいろなことを教えてもらいたいと思っている。

  うちけぶる大和の雨季や経蔵に心経の心滲みゐるらし     黒木三千代

一読して、深い息を吐く。同じ一連の
〈紅葉がそこに散りつむやうに積む千年、まつくろな両界曼荼羅〉にしても、
〈仏龕の扉絵すすけ目に見えぬ菩薩の朱唇ひらめくよ ほら〉
にしても、見つめているのは想念の闇であり、存在の暗がりなのである。作者は雨季の歌の名手だった。

  休日の奴の会社の硝子ドアあかいエックス暗いエックス       岡田智行

 先月は言い足りず、送稿したあとで後悔した。この歌には長い詞書があって、「Xコーポレーション四日市出張所はわが家から歩いて3分の所にある。」とある。「奴」はたぶん友人なのだろう。ぼくは岡田さんのこういうさりげないけれども鋭いところがあるような歌が読みたいと思う。

大きく白い布の嚢がうごめきて苦しむはてに女を産めり     大辻隆弘
生娘のまま衰へむししむらの火照りを嘆き白布を拡ぐ

 一連のはじめの三首(全部で何首めまでかが、わからない)は観劇の歌だろう。いわゆる新劇風の舞台ではなくて、「何もない空間」(ピーター・ブルック)に大きな白い布と役者だけがいるような、前衛的な演劇なのではないかと思う。詞書に場所だけしか書いていないので、その先のことはわからないけれど、手ごたえは充分だ。

  容疑者は早起きである読売をまるめて日比谷線に駆け込む     加藤治郎

 加藤さんが時々作る、「サラリーマン短歌」とでも言うのかな、こういう傾向の作品がぼくは結構好きなのだけれども、あわただしく走るように列車に乗降する自分たちがまるで容疑者で、何かに追われて逃げているみたいだと言っている。何万人もの群衆が行き来する通勤ラッシュの人込みの中には、実際に本物の犯罪容疑者も含まれているにちがいないけれど。

  下着やうファッションをとめ柳々と夕べ都会の面白をとめ    池田はるみ

 今月の一連はあまり賛成でないのだが、「柳々と」がとても生きている言葉遣いなのにひかれた。

  分娩後もなお夜明け前この闇は死ぬ時に還る闇と同じか      大田美和

恐るべき歌を作る人だと思う。この一連を読むと、ぼくは怖くて一キロぐらい走って逃げたくなる。

見たくない認めたくないわたくしが滲みださずや十薬匂う     桂 保子

 自分の発した言葉が後になって何度も頭の中でリピートされてしまって、すごく苦しいという羞恥の感覚。そういうタイプの人に短歌とか歌会とか、時に牢獄のようにつらく感じられることはあるのだろうなあ。桂さんがそうだというのではなくて、この歌からふと思い出した。ほかに、

平編みに時間が編まれゐる真昼向きを変へゆく蕾の百合は      水沢遙子
掌の中に風をすくって耳もとで鳴らす遊びを知っていますか     さいとうなおこ

   《九八年十一月号》
○ 九月号

  浴槽に浸りてをればひるの道に食みしいたどりの酢ゆきがもどる    宮崎茂美
 晴れわたる径をゆくときくたびれてもうはためかぬ旗思ひ出す
  百歳を過ぎにしいのちさみしけれ口許よごし母がもの食む
  身のほとり誰もあらざり夜のテレビ独裁政権の一つが終る

 一連の後半四首を引いた。「もうはためかぬ旗」、百歳の母、隣に誰もいない夜。どれも、たしかな手ごたえが感じられる歌だ。一首め、岩波の『古語辞典』をみると古代には「酸し」に「酢し」の字をあてた例があるようだが、一首めの場合はどうなのか。酢の物を食べたということだろうか。「酸ゆき」は「酸き」と書いて「すゆ・き」と読ませるのではないかと思うが、それでは「す・き」と区別がつかない。小学館の『日本国語大辞典』で「すゆ・し」の項をみると白秋の歌に「酸ゆき」という送り仮名があり、吉井勇に「酸き」という送り仮名の用例がある。

  胸もとに粥こぼしつつこの母の凪の時間の仄明るさは    桂 保子

 宮崎さんの掲出歌の三首めと同じ場面なのだが、こちらは下句に工夫がある。比較してみてどちらに優劣があるということはない。「さみしけれ」と言いたい時は言えばいいし、「仄明るさ」を見出し得る時は、そこに願いを託せばよい。ことばが思いに添ってくれるのは、有り難いことである。

  誕生のその瞬間の鋭さに夏の陽くまなく森をつつめり   大谷真紀子
  念入りに掻きならさるる田の泥の甘からざらんや黒蜜の色   宮原望子
  いま植えしばかりの稲が水面の雲泡立てて戦がんとすも  
  川床の石を朱に染め流れゆく水の心にまぎれざらめや   釜田初音

大谷さんの歌は明るくてすがすがしい。何も考えずに、楽しめばよい歌だと思う。宮原さんの歌も、こういう歌を読んでいると、ぼくはうれしくてしかたがない。田植えの歌がこんなに新鮮なのはなぜだろう。釜田さんの作品は、夕べの光に川床が朱に染まる景色をよんだものか。やり処のない感情を水に託してしまいたいという、沈痛な思いである。

  犀川のさざれ石なる文鎮がひとつ転がり机上は汀    道浦母都子
  書き疲れまどろむ夢にまぎれ入り父の楠の木 母の合歓の木

 二首め、「くすのき」は「くす」とも言うが、「楠の木」は「くすのき」と読むか。仮名がふってあれば問題ないのだろう。父の木、母の木という字面には活気がある。ただ「まぎれ入り」は、連体形にした方が落ち着きがあるような気がする。こちらは受け身で夢に入られる方なのだから、「入り来る」も案としては存在するだろうと思うがどうか。

  格闘する男たちを背に扉閉ずヤマボウシ白く咲きみてる午後   小林成子

 横浜アリーナの競技場で作者は何を見たのだろうか。下句の転換があざやかだ。一連は、どの歌ももう少し突っ込んでみたいところ。

  マリアンナの嘆き「涙」の響きよし遠ざかる頃陣痛きざす    大田美和
  かなしみが声になるまでの数秒を開いたままなり子の目と口は    干場しおり
 自転車に乗る子を押して夜の道の草の香しるきひとところ過ぐ    大辻隆弘
  学校の五月の正門はいり来る柩がこんなに明るいなんて   中川佐和子
  どんよりと性を負いつつ育ちゆく子供の体と心と言いし
  けんくんは学校嫌い いちじくの梢に隠れ見えなくなって   田中 槐
  やみくもに奔り来たれる母に似ず婚に揺れいる娘の細き首   美濃和哥

 今月は子にまつわる歌にいい作品が多いので、まとめてあげてみた。一首めはまだ生まれていないけれど…。誕生から自立まで、思えば長い道程だ。子をうたうことが私状況をこえて時代の課題にそのまま接しているというような角度を、いつも求める必要はないが、やはり求めてゆきたいと思う。

 中川さんの著名な一首、〈なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ〉

を久しぶりに思い出した。こういう中川さんの角度はそう変化していないのではないか。 干場さんの作品はひとつひとつの出来事への新鮮な感覚を感じさせる。母親は子供とともにもう一度生まれ直すのかもしれない。それがだんだん成長するに従って、田中作品のように大人の思う通りには行かなくなり、中川作品のように不可解な生き物となり、おしまいに美濃作品のようにもどかしい他者として立ち上がる。大辻作品は、月光を浴びる幼子の歌以来、ずっと悲劇的な生のドラマを立ち上がらせようとして来た。掲出歌の甘さはいいのではないか。 《九八年十二月号》
  
○ 十月号

  旅行記は放棄(ムール貝)の外殻はこの夕闇におゝうづたかし   紀野 恵

 徒労の末に、ある企図を放棄する。それが何かは知らない。けれども、手作業の結果である無数の貝の殻、これをどうしてくれよう。暮れかかって途方に暮れる。……そんなような物語ができあがる。グラックの『シルトの岸辺』って、紀野さんは読んだことがありますか。

  よくしなる大きな弓の輪のなかを二匹の蝶がくぐっていった  小林久美子

 この人もシュールレアリストだろう。先日、小林さんの歌集『ピラルク』について画家の北川民次を引き合いに出して考えてみたのだが、この作者が芯の部分でどういう社会性を持っているのかが、実は私にはまだよくわからない。それは表現として出て来ていないのではないかと思う。だから、謎の多い作者なのである。

  胸にわく霧のごときをなだめつつ 殺戮は花ティムールの華    さいとうなおこ

世界史は虐殺の歴史と言っても過言ではない。試みに地図帳を拡げて空想旅行をしてみても、出会うのは死者ばかり。絢爛たる遺物はすべて血の代償だ。

  人並みに罪逃れんとする死者のきみと輪ゴムに撃ち合う晨   柚木 新

 前後の歌によると、夢の中で旧知の人物に実は自分は人殺しをしたのだと告白されるのである。しかも、その人はすでに死んでいて、この世にいない。「輪ゴムに撃ち合う」ような遊びをする仲というのは、たぶん親しかった友人だろう。人間の想念というもののうす暗さに触れている歌。

  ひたすらにさまよふ数日、眼なき闇の空間に観音さまが旗ふる   宮崎茂美

 目の手術をしたあとの作品。「眼なき闇の空間に」がまだ推敲の余地ありのようだが、結句はおもしろい。ことばを通してあらわれてくる魂の深さのようなものを思う。

  頽廃に培はれたる無垢ゆゑに傷あまたありあまたくれなゐ        高島 裕
  浮遊する固有名詞のかずかずを輝かしめて始発待ちをり  
 
 この一連は時代の痛みにじかに触れているだろう。高島さんの修辞は、武闘アニメのキャラクターのように装飾過剰のところが微妙にポスト・モダン風でもあるという、かなり危うい面がある。たとえば一連のはじめの歌の「病める天使の面」という表現は通俗だと思う一方で、あえて通俗的な行き方を作者は選んでいるのだろうとも思う。わざと過剰にしてあるものを過剰だから直しなさいという技術批評は滑稽だろう。でも、掲出歌の一首めは結句がくどい。高島さんのねらいだと、一首のバランスについての月並みなコメントが有効な局面と、そうでない局面との直感的な見分けが大事になってくる。作者が全部自分でそこのところの技術的な反省を担いきるというのは至難のわざである。先日「ドアーズ」という映画を見ていて思ったのだが、ある文体を究極的なところで支えるのは時代の波のようなものなのであって、そうなると細部なんて吹っ飛んでしまうものなのだ。最終的には、どんな強い基調音が鳴り響いているのかということに尽きるのかもしれない。

  雲の峰をうすく夕陽が染めている たむろする君等のはるかな上だ   柴 善之助

 こういう若者への視線もある。諧謔の中に仕方ねェな、という気分も感じられる。

  怪談より事実は奇にして男性の子宮内膜症をテレビは映す   宮原望子
  ちかちかと騒ぐ精子の映像はじょじょに身内に響くともなく     佐伯裕子
  戦利品なるわたくしが賭けられているここちせりウィンブルドン    大滝和子
  あるだけの花投げ入れよトゥールーズ競技場てふ棺桶のため    田中 槐

 テレビの映像をきっかけとしている歌を並べてみた。提示されたばかりの映像に対して見る側はとりあえず責任はない。けれども不断に何らかの情緒的な反応を強いられる。強い違和感を覚える映像もある。宮原作品は従来からのひとつの行き方である。作者は事実をのべて余計な感想をさしはさまない。佐伯作品は環境ホルモンに関連するニュース映像に漠然とした不安と居心地の悪さを覚えている。あとの二首は、言わずと知れたテニスとサッカーの観戦の歌。周知の素材にどれだけ修辞が立ち向かうことができるかを楽しんでいる。こちらは、つい風刺の刺のようなものを期待してしまうのだが、短歌が蝋人形の陳列館にならないように、二人とも健闘しているのは、まちがいがないところだ。 

 この月次批評も今月を入れてあと三回になった。私はおなじみの作者のおなじみの作風の歌というのは、あまり取り上げたくない。どこか目新しさがほしい。その一方で、なるたけ出来がいい歌を引くべきではないかとも思うから、悩む。「~してほしい」ということばづかいをしたことがあったが、あれは私の高所からの指導的助言などではなく、衷心からの希望の表明であった。

  歩道の柵の小さな穴を灰皿にして参政権行使した話   東 直子
「矢印はみんな矢じりに見えてくる」フライドポテトをかじりつつ言う   門馬真樹

《九九年一月号》
○ 十一月号

  虚しさを喰らい尽くして口を血で濡らす男の独りのこころ     今井正和

 結句で「男の独りのこころ」などと自分で言ってしまうところが危ういし、くどいようにも思うが、何か切実なものが出ている歌と思って読んだ。

  いしぶみに名を刻むため尋ねたずね韓国の農道を行く洪さんの背中  中原千絵子

沖縄戦の死者の一人として「平和の礎」に名を刻むために、韓国に住む遺族のもとを尋ねる洪さんを追うのは、テレビ・カメラか。一連のおしまいに、

  犯罪の家に生れしごとくにもこの国に生れしことを苦しむ

 という作品が置かれることによって、このドキュメントは自身の問題になった。歴史の中の刺を持った記憶。それを覚えておくことと、思い出すことには、困難がともなう。

  藤堂藩京屋敷虜囚儒者姜沆故国韓国旅宿愍然     李 正子
  四百年超えて沈寿官の「帰郷展」南原の鶴が海に翔つとぞ

 やや様式的な作品ではあるが、これも歴史的な記憶を問題にしている。二首目の沈壽官は明治時代の薩摩焼の陶芸家であり、秀吉に朝鮮から拉致されて来た高麗の陶工の子孫である。それを四百年超えての「帰郷」ととらえることのうちには、強い民族的なこだわりがある。

  大ぶりということだけで存在が憎々しけれ新高梨は      道浦母都子
膝たてて「見せてるんだ」と観客に言いにし大地喜和子のおらぬ     佐伯裕子
二十代の三人率ゐる夫と我は見つめられをり少子のくににて    水沢遙子
田村隆一逝き堀田善衛逝き晩夏は運ぶ言葉の柩    秋山律子
置き去りにされたる者は青衿のセルが似合いき祖母とわが呼びて    大谷真紀子

 いずれも句またがりや字余りに特徴がある作品で、新高梨、大地喜和子、少子のくに(中国)、田村隆一と堀田善衛の訃音と、それぞれに具体的な内容の核があり、一読して納得させられる。(秋山作品は確認できたので誤記を正して引いた。)

  思い出すことならできる俺のいた子宮が蜃気楼だってこと        釜田初音
  少年が青年になれぬ最果ての砂みりみりとスーダン・ミッション     美濃和哥

 これは一連の中で読まないとテーマがつかみにくい歌。成長し、自立しようとして苦闘している息子をはらはらしながら見ている母親の気持を歌ったものだろう。

  右の視野左の視野に重ならず白昼は人の影のみ増えて    さいとうなおこ
八月の立山に来つ悼むとはケルン積むこと鳥語聞くこと     桂 保子

 澄明な空間の把握がある作品で、いずれも作者が資質として持っているものが生かされている。外界の事物の感官への訴えを自意識や自分の想念とバランスすること、そこに短歌の醍醐味はある。

わが産みてわが預れる子らなればやすらぎ近くにあらむを信ずる     旗谷早織
  寸暇なく勤しむ小人気がつけばわれの行く手の整ひゐたり    

 自分の子を自分が「預れる」と表現するところにこの人の意識というものの特異さがあり、それを言葉にするのはいかにも困難なことだろうと思う。そこで「小人」というような奇矯な着想が出てくるのだが、そのあたりの思考の回路に着いていけない読者はここでつまずくだろう。晩年の梶井基次郎に見えたそうだが、小人が見えるというのは心身ともに危険な時だそうである。それを知ってか知らずか、あえて奇想のひとつとして用いる作者の意識のよじれは相当なもので、この人には何かがある、だ。……約半分をコメントしたところで、もう紙数が尽きかけている。

  け し て 走ってはだめ砂と粉わからなくなるからきをつけて    小林久美子

 「消して」と「決して」がダブっている。語と語との間にある境界があいまいに融解した時に、言葉は小さな叫びのようなものをもらしながら発光することがある。一連はこの欄の今月一番の実験作。あとは引くのみ。

  若者の流れのなかにいるわけだタクシーの鼻にズボンこすられ    柴 善之助
  戦犯の汚名に死にし人の無念ありありと顕つ若きまなざし     宮崎茂美
  自滅する星のあること若き日にまして生産的仕事為さず     柚木 新
力づくの死なぬ男がおほ暴れアメリカ映画ありがたきかな    池田はるみ
  公の身はまぶしさに耐へながらふかく見据ゑて言質を取りぬ    高島 裕
  精神は追い身体は追われつつビビアン・スーの朱色の部分      中澤 系
  数字マニアの幼児の家に水こぼれ蜂のいくつか死んでいたりき     東 直子
  傘の骨なほして旅をゆきしひと あくがれはかつてみづみづしくて    大辻隆弘
  フル・バケツ・オブ・キクノハナ盆が来てさはさは道に売られてゐたり 紀野 恵
ひまわりは種をがばりと晒しいつ 母の嘔吐はかなしかりけり      加藤治郎
   《九九年二月号》
○ 十二月号

  三島由紀夫は金槌だつた 白浜に海水パンツ埋もれたまま    松原未知子
セルジュ・ゲンスブールに
  君はあらゆる放尿をしてみせたセクシァリテの出口もとめて

 一連の中でこの二首に丸をつけていたら、池田はるみさんもこれがいいと言っていた。実に高級なウィットがあって、楽しい。口語文体も字余りも、ごく自然で滞るところがない。三島由紀夫は強面のニヒリストでありながら言動の端々に男の稚気を感じさせた。また、育ちの良さもにじみでていた。絶版にされた福島次郎の小説『剣と寒虹』のエピソードも、その一面を物語るものであろう。

    遣らず雨あとから郁乎全句集
  真横から見られてゐしは犬神か菊座か十月のまくらやみ     加藤聡明

 俳句様の詞書をうけて、それと対話するように歌一首が並ぶという構成で、とりあげられている俳人の名がどれも異色である。その俳人の句柄を歌一首でつかみとりながら、同時に自己の生の苦みもどこかに投影させている。掲出歌は、いかにも加藤郁乎好みの衆道系の語彙の選択が楽しい。

  あまだむ軽の道ゆく点鬼簿や魔女の箒になりたる言葉     江田浩司
  あまつたふ入り日に濡れし鉄塔に狐の耳の生えしもの憂さ

 初句に枕詞を据えての一連。一連には「首」や「波」といった作者の好きな語彙が出てくる歌があるが、読者としては、魔女の箒や鉄塔に生える狐の耳の意外さの方をとりたい。一首め、「詩」を書くことは「死」を書くことであるというのは、ブランショなど引っ張ってくるまでもなく現代の文学にとっては自明のことだ。ただ詩的言語は不毛さと背中合わせのところがあって、いささかの自戒をこめて言うなら、使えば使うほど修辞のなかで言葉が死んでゆくということがある。人がことばの後に「実」を求めるのはそのような時である。だから、二首めの寂寥感の方が分かりやすい。

  ゆっくりと時間流れよ紀州には仏の華の降る海がある     道浦母都子

 古代の仏教者たちは普陀洛渡海を夢見て、那智熊野の海において捨身の行をおこなったと伝えられている。豊饒な黄金光に包まれた幻想に身をまかせることが、すなわち死についての想念であったというのは、考えてみれば実に幸福なことだ。

  ソンブレロ星雲探すきみたちへ 星の呼吸に息を合わせよ    さいとうなおこ

 謎めいた一連である。短歌によって祈る、そういう営みを示す一連であるかもしれないと思った。

  告知して刻む時間の透くさえに砂降る遠き街を言うなり     秋山律子
  ふうせんかずらの種とり終えて来年も生きるつもりと母ははじらう   中原千絵子
  ちちははの昏き部分を亨けしこと呟くわれを見ているわれは    小林成子
  等分に子らを愛さず世を過ぎし小柄な祖母をましぐらに想う    中川佐和子
  梅雨の夜の底に無言の一家族追ひつ追はれつワイパーはづむ    旗谷早織

 それぞれが言いにくいところを言葉にかえながら、一歩も退くことができない現実を前に、それをあるがままに受け止めて立っているというおもむきだ。肉親にまつわる事柄を認識する時の角度のようなものが、各人各様である。その認識、思いの切実さとリアルさに胸をうたれる。

  青く透くホースのうちにさゐさゐと夏のをはりの水うごきをり    水沢遙子
  つむじ風の音水の音雷の音冷え冷えと秋は山よりくだる    李 正子
  官能の世界だという勘違いそれでもマウスで海をさまよう     門馬真樹

 さわやかな印象のある歌を引いてみた。一首めは「さいさいと」が何とも言えず味がある。二首めは単純に言っているようでいて、長い時間をかけてつかみとった実感のようなものが歌われているのだと思った。三首めは、パソコンの原色の画面には「官能」的な陶酔感にさそうようなものがあるのかもしれない。ウィンドウズの画面にしても、ブルーが基調だ。

スイッチをぱちんと点けてぼくというオペレーションシステム作動する 中澤 系
げんじつが僕はとても欲しかった一文字ごとに愛が遠いよ      東 直子
  かの人とあなたのあわいの山脈の尾根の芝生を少しいただく     小林久美子

 一首めをみていて思うことは、案外にこの感覚は楽天的なのではないかということだ。二首めは、「ぼく」の前に壁のように透明な膜のように介在している主なものは〈言語〉だと言いたそうだが、果たしてそうか。わかりやすい方に寄ってしまったかもしれない。三首めも、そのあたりの〈捉えがたい何か〉の把握にかかわる歌だ。このひとたちの追究すべき領野は、まだまだ拡がっている。

 以上をもってこの数年間にわたった月旦の重責を離れる。今年は節目として散文集*を出すつもりである。愛読してくださった方々にお礼を申し上げたい。
    *『解読現代短歌』九九年四月刊のこと。

一九九九年の「未来」月集欄(七・八・九月)

2017年01月29日 | 現代短歌
以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』の後半部分である。

◇一九九九年「未来」月集欄(七・八・九)を読む◇

○ 七月集を読む
  病み癒えし夫と籾蒔く苗代に吹かれてあまた葩あそぶ          三石倫子

「葩」は、はなびらと読む。漢和辞典を見ると、『詩経』のことを「葩経」と美称したとある。身近にいる若い世代になると「やみいえし/つまともみまく/なわしろに」と、すらすら読めるかどうかが、もう疑わしい。苗代を見たことがない人もいるだろう。この歌の苗代は、昔ながらの水苗代のようだ。きれいに鋤いた田の泥土の上に、鏡のように空を反射する水が張られている。そこに散り落ちた桜のはなびらが風に吹かれ、水の動くにつれて足もとに浮遊する。生きていることのありがたさをしみじみとかみしめている歌だ。
  削りゆく梨の接穂の肌のいろいきいるものの湿りたしかめ        塚平増男

 これも春の農作業の歌。生木の切り口の鮮やかな印象と、その若枝に寄せる作者のいつくしむような思いが伝わってくる。
  草引けば久しき南風の畑くまにひたひたと寄る波あたたかし      大石寿満子
  蕗の香をきざめば窓に見はるかす淡むらさきに沖のひろごり

 これも春の到来をよろこぶ気持が伝わってくる一連である。体を包み込むような春の海風。南風(はえ)は関東では使わないことばで、西日本の雰囲気を持ったことばだ。畑のすぐ先に波が寄せ、厨の窓からも日本海が見渡せる。冬は大変だが、それだけに春の喜びはひとしおだろう。

  生き残る寂しさ知らず死にゆきしとまれ耿々と連翹の垣        山口倶生子
  もう沢山明日など来るなと町の音の底ごもる夜へ身を沈めつつ

 「生きながら他界に遊ぶ」という母親の姿を見つめている一連。四句めの激しい語調には、抑えこんでいる思いが迸っているようだ。二首めは、もう沢山、で小休止するのだろう。

  汚れなきゃ汚れてなけりゃ人生は解りはしないとああ若すぎた     太波牟礼男
  進軍の喇叭は若きが吹くだろう〈万軍の父〉遠い言葉だ

 この作者の剽軽な放言の口調には、ある達観と脱俗のユーモアが感じられる。作者の口語文体が醸し出すアイロニーの中にある含羞を感じ取るべきであろう。「汚れる」という感じ方は、藤枝静男の小説にあるような強い倫理的なものがあって出てくる。旧世代は実存主義とか無頼派というような理論的な裏付けに加えて、男性中心社会の中ではぐくまれた「男の美学」みたいな考え方を共有している。二首めは先日の日米ガイドライン法案の国会通過などを踏まえて、日本の戦後思想が事実上形骸化されつつあることへの感慨をのべたものである。引用されている賛美歌の詞章は、進軍ということばの連想で出てきたのだろう。

  川水をゲルに配りゆく給水車ここを発ち今の名もマルクス通り      佐藤正次
  スフバートル広場を囲む庁舎劇場俘虜が建てたり君知らざれど    
  胸にとどろく朝のスコール敗走の兵ら消えにし峽をいろどる    石原きみ子

 佐藤作品はモンゴルに抑留の記憶をたどる旅の一連の歌。一首め、大幅の字余りで読みにくいが事柄は削れまい。五五七の下句はそれなりに雰囲気があってよいと思う。ただ二句めを七音におさめてみてはどうか。石原作品はフィリピンのマニラでの一首。初句七音はこれでいいと思った。

  「辞本涯」と石に刻みて潮路開く唐へと渡る学の憧れ          近藤芳美
   文字持ちて渡来せし人らの書き遺す東歌のこと言ふ人もなし      細川謙三

 古代憧憬の歌二首。一首めは長崎県五島に旅行した際の歌で、これは岐宿の「遣唐使船宿泊の地」の碑文のことか。二首めは畑作をはじめ種々の技術を持って東国に広がった渡来人たちが、当然東歌の作者でもあっただろうという推理をのべた歌。

  ホームレス小父さんと髭を違ヘつつ堂島川を覗きつつぞある       岡井 隆

 一連は結句を「ぞある」でそろえて、肩の力を抜いて作っている。ユーモラスな歌で、思わず頬がゆるんだ。
  また考え幹の樺色の妙を出す彩はもまこと体力のうち          鎌田弘子

 これは作者が木彫り工芸にたずさわっていることを知らないとわかりにくい歌かもしれない。木の色艶を出すのは磨きをかけたりする手間暇のかかる作業なのだろう。

  ひとさまに風に運ばれゆくさくら空のまほらを人渉るなり        水上千沙
  銹しごときこころにおりし幾日なれ歩まむに寒さまつわりやまず

 一首め、「一様に」という語は辞書にあるが、これを訓読みした用例は『日本国語大辞典』にものっていない。二首め、この歌にしろ「こころ峙つ」という一連九首めの歌にしろ、日頃水上作品に親しんでいる者としては、既知の感じ方だ。でも、この冷え冷えとした叙情は、読んで心地よい。

  にんげんの吐くもろもろの塵がむた昼よりあかし夜のさくらは      浦上規一
  花の洞出でてまた入る花の洞はるか戦のほむら立つ夜を
  想像は寂しきかなや夜の花の道もろともに焼きつくされつ

 桜から戦争を連想する歌として、これは型のある発想のしかたではあるけれども、一連はなかなか凡庸ではない。加齢の苦みを滲ませる重厚な歌である。

  基地抜けて出で来し浜に忽然とゆうなの大木黄に輝けり 比嘉美智子

 こちらはいかにも沖縄らしい歌。三句目は、まだ少し動くかもしれない。ほかに、

  ありのまま見つめて樹のように倒れよと昔読みし詩が素直に浮かぶ    金井秋彦
                               (一九九九年十月号)

 付記。金井さんは歌壇では地味な存在であったかもしれないが、温雅な風貌に鋭気を包んで、譲らぬところは決して譲らず、自己の感受性を全うした貴重な存在だった。今後も研究に価する歌人である。

○ 八月集を読む

  来るべき地の飢餓と荒廃ととり分けて人間の崩壊としての戦争      近藤芳美
  しかもなお人間を信じ思想あれ歴史への絶望を重ね重ねて

 ここでの「人間」というのは、十九世紀的な理念型としての人間である。この一連にのべられている「人間」も「歴史」も、これらの概念にかかわる思想も、二十世紀後半に来て相対化し尽くされたかの観がある。二十一世紀は再び戦争の世紀となるかもしれない。

その要因のひとつに過剰な作物増産による世界中の穀倉地帯の土地の荒廃と、それにともなう食糧飢饉の問題がある。私はこれをNHKの特集番組で知った。こういう思考の断片の提示を、思念の叙情として持続しようとする時に、断言の積み重ねは予言のごとき相貌を呈する。その一方で、逆に一人の繰言ともなりかねない危機をはらんでいる。しかし、それを読者に詩性の発露ととらえさせるのは、近藤芳美という作者の放つオーラのせいである。それを支えているのは文語短歌の格調ではないか。こういうアフォリズムを無理
にも短歌として成り立たせようとする試みは、作者の生涯をかけての力技だった。また、それは広義の「アララギ」エコールの短歌史への寄与の内実をなすものでもあったと思う。
問題はそれを模倣し、継承する側にある。そういう意味では、月集欄を読みつつ一抹の寂しさを感じるのは否めない。

 その一方で、月集欄の作者たちが老いの実相と自己の人生のたそがれを冷静に観照し、受容しようとする姿には心を打たれる。それは切なく、読みながら時々絶句させられたのだった。たとえば右の一首目など。私はこれを絶唱だと思う。

  黒き螺旋のぼりつづけて果てなき一生の末のつばくらめ見む       山口智子
  石ころを蹴れば蹴られし石の声長らえてなお父を赦さず         塩崎 昭
  混沌と生き来てひとりの家ぬちは万の青葉にあおく沈める       城東つきよ
  愛宕山放送局と同年の僕とに同じ時代は過ぎた            太波牟礼夫
  朝鮮の匂いのなかに混りゆくうすぎぬまとうごときかなしみ      桜井登世子
  大部屋の窓より五時五分前まさ目に紅団々たぎりて昇れ         吉田 漱

 一首目を読んで脳裏に浮かぶのは、黒曜石の反射するような不思議な光彩を放つ空である。完全な暗闇ではなく、また逆に天上へと導くような光線の軌条でもなく、絶望に満ちていながら安らかであり、目眩をこらえつつ自己の運命を受け入れる静かな意志が感じられる。二首目を含む一連は、自分の心の中の原型的な傷のようなものを見つめている。石は、沈黙と、問いにならない問いの結晶物としてそこにある。三首目は自己の生に悔いなしという感慨のようにも思えるし、また一方で年月とともに失われたものを思い返すかのようでもある。四首目には、ノスタルジーの中に世俗の責務を超越した余裕のようなものが漂っている。五首目を含む一連を読んで、作者の鶏好みは幼少年期の思い出にかかわっているからなのだと心づいた。六首目の歌は、紅団々というレトロな味わいのあることばを見つけた時点で決まった。夏の大会でとりあげられた<腫れし足ふれなば天地震動す子規に及かずもわが足むくむ>とともに、大病のさなかにこれだけの歌を作れるのはさすがである。掲出歌はむしろ余裕すら感じられる。

  日の丸を斜めによぎる光あれあくまで澄める斜陽ぞよけれ        岡井 隆

 私はこの「人々に示したる歌」という一連の中の「君が代・日の丸問題について思ふ」という詞書のついた何首かの歌が個人的には好きではない。「日の丸」という語彙と「澄む」という歌僧西行に因縁の深い語彙との取り合わせは、私などには思いもよらない。こんなうらがれた日の丸は日本国には存在しないわけだから、そういう意味では、この歌には悲哀にも似たアイロニーが盛られていると解釈すべきだろう。ところが、残念ながら多くの読者には私と同様に作品の政治的傾向の方が先に目に入るのではないかと思う。

  夜の浜に産卵終えし亀の跡 地雷を埋めて去る人の影          大島史洋
  この星はさびしかるべし声なくてあら魂にぎ魂つね発たせつつ     柏原千恵子

 一首目は人間存在の後ろ暗さが、海亀の産卵のイメージと重ね合わされることによって逆説的に際だたせられている。二首目はスケールの大きな作品で、生物と人間についての芳醇な思考がやわらかなことばづかいを通して伝わってくる。

  中隊長刀抜きてひとり突撃す従きくる兵のあるを信じて         舛井義郎

七月号には〈ただひとり喊声あげて尾根のみち迫りくる兵を誰が撃つのか〉という作品もある。中隊長もただひとりの兵も孤独で絶体絶命で、どこかであわれなぐらいに滑稽で、中国の伝奇物語の英雄のように純粋な無為に賭けている。戦場には、こういう妄念をあたためているひとりの時間がたくさんあるような気がする。また、作品に象徴されているような不条理に一人一人が日々直面しているのだとも言える。何か妙に想像力を刺激される作品で、ぜひまとめて読みたいものである。

  漆黒のゆたけき身体にハグをするわれは天与の真珠色なる        小池圭子
  わが家の空気が足りなくなる感じ「お母さんお母さん」アフリカの声   本田峰子
  臥すもあり立ちいるもあり種籾が湿れる土へ位置を定めぬ    塚平増男
  見返ればふつくらまろきふたつ山の乳頭ふふむ流雲飛天    川口美根子
なずみつつ織りし紬が夢に来るどれよりも佳き着物となりて       三石倫子

 わくわくするような気持をうたった作品を並べてみた。

  読み続くる私を捜してからからと猫が玄関の戸を開けており     吉松弘彰
個人輸入代行のメール届きたり見本はファイザー社バイアグラ一錠    富永文平

 日常雑詠が生き生きするためには、何が必要なのか。構えとも言えぬほどの構えのようなものだろうか。    (一九九九年十一月号)

○ 九月集を読む

 手を止めぬ朝の厨の空耳にかな一行がほどのひぐらし          米田律子
  若き日にも吾は聞きたり南天の花芽の中ゆ嬰児泣く声     山口智子
  眠剤を服みて収まりゆく我か夜も散り止まぬひな芥子あらむ      柴田タエコ

 月集欄を読んでいると、人間の想念というものの不可思議さにうたれる。そうして人が齢を重ね、老いてさらに生き重ねることの意味というものを教わることができるような気がする。米田作品は耳の底に幻聴のように響くかそかな音を、草書のかな文字の一行にたとえた。山口作品は神秘的な経験をうたった歌で、基底にある感情は悲哀感のようなものだろう。南天の赤い粒実は誰でも知っているが、花は意外に清新な白と黄の色を持つ。この歌も一首めと同じように五十年ほどの時間を一気に跳び越えている。三首めの「ひな芥子」は目をつぶって砂時計を思い浮かべているような印象があり、長い夜の時間と、それから残された生の時間を暗示するようだ。

  疎むともなく見忘れし卯の花の咲きたわむなり庭の隈みに       高橋津志子
  倒れ木を或る日支えしそのままに櫟一樹の歳月がある 糸永知子

 月集欄が退屈だと言う人がいるが、本当にそうだろうか。掲出歌には植物を伴侶として生きる感性が息づいていて、二首とも言葉のつかまえている時間の幅が広い。「アニミズム」などという空疎なかけ声とは無関係なところで、自ずとこういう心優しい歌は生み出されているのだ。 
 
海面に血汐浮くかと見るまでに合歓の花咲く見おろす森に        後藤直二
  揚げ潮と引き潮がいませめぎ合い大き水の花うまれんとする       三宅霧子
  佐陀川のほとりに立ちぬ雪のこる大山はいま崩落のとき         村松和夫

 視界が広くてスケールの大きな叙景歌をあげてみた。こういう歌を読むと爽快な気分になるではないか。

  拓魂は死語になりゆくか峽小田は奥より次々杉を植えられぬ   佐藤昭孝
  圃場整備おわりて広くなりし田の強制休耕割当がくる   伊吹 純
  四十年の出稼ぎ止めたるこの冬を乏しみつつも妻の安らぐ        古沢 登

 農業に携わっている人たちが一様に口にするのが減反の理不尽さである。一首め、過疎地では耕す人もないままに、みすみす先祖が苦労して拓いた田がつぶされてゆく。二首め、測量と面倒な折衝を重ねてやっと圃場整備がおわり、大型機械が使えるようになったと思ったとたんに減反割当がくる。何のための整備なのか、ばからしい話だという憤り。三首め、農業だけでは暮らしが成り立たない現実がある。古沢登さんは、今度歌集『鉾杉』を上梓された。農民として、出稼ぎの季節労働者として働きながら短歌に思いを寄せ続けた人の喜びと苦渋が伝わってくる一冊である。

  五月の風吹き荒れこころ立ち直る帰り来れば手を洗うなり 桜井登世子
  直前にそっとターゲットより外されし都市にてひらく夏歌会あはれ 岡井 隆
  耳ラジオに合せて顎をふる少女ふり変りつつ降りてゆきたり       浦上規一
  ボーイソプラノ曙の空にのびてゆく高層階の朝のおどろき        稲葉峯子

 どれも字余りや句割れと句跨り(一首めの二・三句め、吹き荒れ・こころ/立ち直る、三首めの二・三句め、合せて・顎を/ふる少女、四首めの一・二句め、ボーイソプ/ラノ曙の)のある作品だが、一様に三句めまで読んだところで小休止し、やや気息を整えてから下句に向かうあたりが巧みである。上の句で定型を外れた時、四句めはよほどのことがないかぎり七語音でおさえておいた方がいいということがわかる。
 一首めは、もやもやとした思いを吹き払ってくれるような五月の風に「メイストーム」というふりがなをつけたことによってスピード感が出た。二首め、京都は原爆投下の候補地だった。「そつと」の一語がきいていて、「夏歌会あはれ」まで読んでくると、ひそやかなムードが立ちのぼる。三首め、「ふり変りつつ」というのは、少女の聞いている音楽のリズムが変わったのだろう。四首めの結句の「おどろき」は、「目覚め」の意味だろう。

  国は六つ民族は五つ言語は四つ宗教は三つ入り組むといふ 細川謙三
  死の影に逐わるるのみに過したる戦いの日々を今に引継ぐ 太宰瑠維
  再発にあらず一世を負いゆかむ痛みぞ戦争が置きゆきし傷       赤阪かず子

 先月も先々月も日米ガイドライン、周辺事態法にかかわる歌がいくつもあったが、結局とりあげる気になれなかった。憤る気持は伝わって来るのだが、歌としては平板なつくりのものが多くなってしまっていた。時事に触発された歌は本当に難しい。一首めはコソボ問題。二首めはこれだけは譲れないという自己確認の歌。戦争中の死にまむかう他はなかった時の記憶はいまに新しい。三首めの歌は、どういう傷なのかこの歌だけではわからぬながら(わからなくともよいが)、痛みは心身ともに痛むようなものなのであろうと思う。意志して痛みを負った時に、それは自己の歴史となり、自分の存在の証となる。宗教的な感覚だが、現実の痛みは容赦ないものがあるのだろう。

  河野愛子臥せ居し個室の建て屋無く丈高き樹の枝茂りたり  平松啓二
  いま語るに病歴のすさまじさ上衣のホック外しながらに

 結核の治療法のひとつとして患部を切除するというものがあった。そのためにあばら骨が何本かなかったり、背中一面に手術の縫いあとがあったりする方々が大勢いらした。そういうことを知らないと、二首めの歌はわからないだろう。年配の方には常識でも、一九六〇年以降に生まれた世代には常識ではない。しかし一連の中にいちいち結核という言葉を入れるのもわずらわしい話だ。河野愛子に特別な思いを寄せる人がわかればいい歌ということになるだろうか。先日、自分の父の裸の背中に黒ずんだ部分があるのに気がついて、どうしたのかと問うたら、「肋膜をやったことがあるから」と事もなげに答えたので驚いたことがあった。父は軽くすんだのであろう。今まで気がつかず、特別な話題にしたこともなかった。私はいつからか短歌は「残念」というものを忘れない詩の型式であると思うようになった。さまざまなものに思いを残すから歌うわけなので、この一点を見失ったら、いったい自分が何をやっているかもわからなくなるのではないだろうか。ほかに、

  半地下の窓より見れば街灯は月の如くに渦なす光            大島史洋
  抱擁の歓喜仏語るお庫裏さんはにかむ老いの頬ふくよかに   舛井義郎
  すうるりと咽喉をくだる葛切りにわが母恋の三年過ぎたり       恒成美代子
  真白にぞ梨の花咲く棚下に記憶の父は木に触れ歩む   本間芳子
  われに来し道を再び帰りゆく背のあたたかさ見えずなるまで       新免君子
 (一九九九年十二月号)

【追加】 ○ さいかち真が選んだ痛みの歌 (九九年九月号から)

三十年前の今宵浅草署に子を訪いき畏友島成郎を頼り励まされ   渓 さゆり
明暗の明を思おうモンパリのミスタンゲットの遠い華やぎ   太波牟礼男
プラットホームから落っこちそうと思ったら翔べばいいんだ呆けても鳩は  柴 善之助
毛髪で編まれし灰黄のブランケット包まれている思想がわらう   渡辺 良
型抜きした人参の屑は捨てられる(アポトーシスだ)かかる死もある 竹内万砂子
くちなしがかをるかをれば常ならぬ世の座敷にぞ坐るばかりなる 紀野 恵
九十を前にし花嫁迎へたる先生を不死鳥と信じゐたりき 星河安友子
間近にて撃てば跳ね上がり死ぬという戦闘ならぬ徴発にして 並木 薫
戸谷教授「新型」の新の意味をしも知りゐて我に告げにけらずや 岡井 隆
爆音に涙きざせり空さむくさみだれ暗く地をば流るる 岡田立子
唐突に意識濁りて生徒の前にしどろもどろとなりゆきしとぞ   間鍋三和子
信じましょう自己治癒力を八ミリの傷口持てる幸ちゃんを抱く    町田良子
なだめてもすかしても泣き止まぬ自閉児のすがる転勤の朝 川田芳胡
いいのかと輪唱のやうな問ひかけを持ちつつ洗ふいくまいの皿 北野幸子
追われゆくものは飛びゆくことだけを考えており星から星へ 及川佶   (二〇〇〇年一月号)

○ クロストークより・「未来」七月号をめくってみて

  初恋の少女を夢にまざまざとわれは老いたるままに見つめぬ       中村卯一
  次の世というも添いとぐるひとはなし水晶橋は濡れて浮かべる  三輪佳子
  廃船のキャビンに揺らぐ陽炎のはかな心を君も怖れよ  久瀬昭雄
  演習に緑育たぬという金武の山真夜を轟く春の雷   永吉京子
  家々の燃え落ちる音の絶え間なく追われ追われて夢より覚めぬ  高山淑子

 座談会〈「写実」は甦るか〉のすぐあとの近藤欄のページに見いだした作品である。こういう歌を読むと、年齢というものへの恐れを、もっと自分は持たねばならないと思う。
                        (一九九八年十一月号)

○ 工房月旦 二〇〇三年十月号

指折りて「かんたん短歌」を作り居る児等の額に汗浮きそめつ    服部伊智子
「かんたん」と言へど求むるもの深く取り組む児等の面輪しまり来

 子供たちの顔のいきいきとした描写が印象的な歌だ。

  はるばると訪ねて祖母の部屋に寝る頰にゆらめく楓の影あり 本間みゆき
  身じろげばふたたび見ることの無きような細き残月が浮かぶ宵空 高橋二美子

 それぞれ下句と上句が多少長いような感じは受けるのだが、それが一首をひどく損ねているというのでもない。微細なものに感応する作者の心のありように触れた気がする。

車止めを通り人影なき径に最も親しきものなり雨は    三木佳子
左右を打つ暗きひびきよ立ち止まり雨を聴くべく傘持ち替える

 私の母は、よく雨の日が好きだと言っていた。心は持ちよう、ということだろうか。

  父の友とながく思ひき幼き日親しみ聞きし日天さん月天さん   倉谷耀艸

 日を重ねるごとに大切になる思い出だ。

  走り根が怒りてつづく桜並木の蘖のみどりに癒されており    林 幸子

 ひこばえは何月だろう。一、二句に納得。  

くれないを帯びしメールに会いたくてノートパソコン再び開く 馬渕美奈子
  葉隠れにみどりの花を見つけしとメールに入れて心安らぐ 

 馬渕さんがパソコンやメールの歌を作る時代になったか、と思う。とても自然な感じがしたのだった。

「人体は家屋のようなものである」外科医渡邊房吉書きぬ   渡辺 良

 たぶんこれは一連の父親の残したノートに取材した歌のひとつだろう。手法としては古いのだが、端的にとらえた医師の言葉が、一気に読み手の方に届く。

  枯れ果てて色失いし鶏頭をつぶさに描く絵の前に立つ        小松 昶
  ウォーキングマシンの動きに歩かされ歩いて何処にも辿りつけない   縄岡千代子

現状を追認するほかはないという受動的な心の構えの中で、押されてゆく自分を見ている目があり、その目があるということに救いがある。

  梅雨寒が続きて胸の傷痛むパウロの棘を吾もいただく        長谷川純江

なかなかこうは歌えない。思いついて本多峰子さんの歌集を取り出した。『ミカエルの秤』二〇〇一年五月刊に、

  嘆き嘆きてついに感謝にいたる詩篇夜の御堂出でて涙はあふる 本多峰子

というような歌があった。人が苦難に耐える姿は一様に気高い。金井さんの後記も美しいと思って私は読んでいる。

  人は皆おのれに耐えて生きいると安らげど深きふかき寂寥      本多峰子

 短歌は生老病死の従者であろうか。そうかもしれず、そうでないかもしれない。
 (二〇〇四年一月号)
 
注記 「剥、頬、葛」は、略字で印字した。渓作品の国字の「三十」は、書き改めて引いた。

『山西省』の歌と宮柊二  

2017年01月28日 | 現代短歌 文学 文化
以下は、「美志」十八号(2016.5)に掲載したものである。
            
 今回は、宮柊二の歌集『山西省』の昭和十七年の部分を見てみたいと思います。この歌集は、昭和十五年一月から昭和十八年十二月までの作品を中心として、戦後の昭和二四年四月に刊行されたものです。最初に次の歌を取り上げます。歌集『山西省』の昭和十七年の章の最後に掲載されているものです。

耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

 この歌は、戦後間もない昭和二一年一二月刊の「多摩」に掲載されたもので、そちらを見ると、すぐあとにニューギニヤで自決した米川稔を思う歌が続いて出て来ます。それは「ニューギニヤに妻恋の歌なしけむは如何なる折ぞ亡き君よ哀し」というものです。だから、これは自分が戦地にいる時に米川稔から本を送ってもらったりした思い出と結びついている歌なのでしょう。昭和二一年の初出では、四句めが「個人と戦争をおもひて」となっています(『宮柊二集5』)。確かに「戦争と個人をおもひて」の方が、力が感じられます。 

 ここで右の歌の背後にあった宮柊二の個人的なドラマを紹介したいと思います。それを知ることによって、右の歌の「個人と戦争」という言葉の持っている意味が、明らかになって来るのではないかと思うからです。「宮柊二集」の別巻に「戦中書簡」が収められています。

 その中から後の宮英子さん、当時は滝口英子さん宛の手紙を何通か読んでみたいと思います。四月七日付の手紙をみると、当時の滝口さんは、前年に師範学校を卒業して、新しく教職についていたことがわかります。この人は大正六年(一九一七年)生まれ。東京女高師(現お茶の水女子大)卒。昭和十二年「多摩」入会。そこで作者と知り合いました。宮柊二は、軍隊に召集される少し前まで北原白秋の秘書をしていて、昭和一〇年から毎日白秋の家に通っていました。

 「4月7日の手紙より」 ※引用にあたり、旧仮名を新仮名にあらためた。

 「(略)一生懸命で自分の周囲を見たいと思います。只今私の居りますここらは何度もお手許に書いても差上げたかと思いますが、荒涼な、地味やせ、物産少く、そしてかたよった地域で、支那という言葉によって統合される一つの国の歴史からも文学からも経済からも文化からも遠く切り離されて、そして参与もしなかった地域です。だからと言って迂(う)かつには見たくないと思うのです。矢張り土を愛し、家を守り、親をいとおしみ、日本人の想像を絶つにたる低い生活の中にあるとはいえ、その生活に拠る支那の民衆達が居り、そして私自身が国家の感情と個人の個(ママ)情につながりながら、只今居りますところです。自分の生き方の上に、――大衆から孤立した存在ではない大衆の中の一人である宮という人間の生き方の上に矢張り何かまずしくとも付け加えてゆきたいと思います。

 どう考えたらいいのでしょうか。考える範囲を自分が兵隊であるという中にとどめたらいいか、あるいは御奉公の微力叶って生還を許され社会人となるであろう日までも加えていいか。ごく自然にあり得る戦死ということを考えますといつもそこにつまずきますけけれど。只今は兵隊も人間であり、そしてひとしく日本という国家の国民であるという考えで居ります。こうした考えは実は正直申上げるとたどりついたという感じです。お笑いになるでしょうが、私としてはたどりついたという感深いものがあります。もっともっと「兵隊」であるということと「出征しているのだ」ということを意味つよく、考えつめて見ようと思っています。たどりついた考え方の上に立って更に初めからあゆみ直して。(略)」

 戦地から自分が愛する人にむけて、たぶん、ほとんどいつ遺書になってもいいようなつもりで、手紙を書いています。決死の戦いとなった〈中原作戦〉の直前の手紙です。むろん下級の兵士である宮柊二にこのあと日本軍の大きい作戦があるだろうなどということは、直前まで知らされません。でも、このあとの4月10日の手紙は、明確に作戦のことも知ったうえで、遺書のつもりで書かれています。

 「4月10日の手紙より」
「いよいよに日が近く、兵隊というものの最後の美しく勇しくそして人間としても立派だったという自らの安心を追憶として持ちたいと希うこころを瞬間であるとは云え持たれるであろう日に向って出発つ日が近くなって居ります。何かしらにものさびしく又かすめるように悲しみがきざす時もありますがそれは過去が立派でなかったという自分への例えば罪を洗うようなさみしいこころでありましょうか。それでも只今の私は夜夜を熟睡してそして激しく外面に現わさないでは居られないというようの種類の喜びではありませんが、こころ知ってくれる人達へだけは必ず告げたいと思うほどの喜びをずっと涵(たた)えて居ります。」

 宮柊二はこの戦争で立派に戦って死にたかったのだろうと思います。「喜び」をまで感ずるという、死に向かって澄み切った心境で、ここには嘘はないと思います。

 戦地にあって、死に直面しながら、自分は何のためにここで戦っているのか、ということは、当時徴兵された日本人が等しく考えたところだろうと思います。先に引いた歌とかかわらせて言うなら、「耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ」という、芸術家としての絶対的な追究の果ての孤独というものが、彼方の理想として一方にある。芸術の高み、芸術のための崇高なまでの自己犠牲的な生き方。それに比して、今ここで日本国家の意志のもとに兵隊として、死に向かって運命づけられている自分にも、孤独なもの思いというものはある。死の意味というものは、いずれにせよ一人で考えなくてはならないものです。同じ孤独にしても、その境遇は、彼我の間でかけ離れたものだと言えます。

 この歌は、宮柊二の代表歌の一つで、島田修二の『宮柊二の歌』にも取り上げられています。一読して、よく意味はわからないのだけれども、何か強烈に印象づけられるものがあります。それは現代のわれわれが読むと、国家というものの持つ理不尽さへの全身からの抗議の気持ちのようなものとして感受されます。そういうところに自分が追い込まれていることへの叫びのような思いとして感じ取れます。でも、そういう一種の抵抗のニュアンスを感じ取って読むことは、もしかしたら誤読なのではないかという気が、私はします。この歌は、右の手紙の言葉にあるような、理不尽な現実を理不尽なまま受容して、国家のために個人である宮柊二が死ぬことを受け入れる覚悟、そのための眠れない思考の堂々巡りを歌にしていると読むべきです。己の絶望的な状況を、あるがままに観照するという精神的な姿勢。でも、その死を決して無駄だとは思っていない作者がいます。戦争と国家の目的自体を疑っているわけではありません。さらには国家そのものを否定する思想に立脚して、この歌を歌ったわけではありません。そうだったら右に引いたような手紙の言葉は書けません。

 ただ、読者である私たち、戦後の読者は、否定すべきものとしての戦前の軍事国家、帝国主義国家というものの真相が明らかになったあとでこれを読んでいます。この作品が手帳に書きつけられた時と、発表された時、さらにその後の時代との間には、大きな社会情勢の変化がありました。作者はそこに気がついていなかっでしょうか。むろん気がついていたと思います。だから、やはりこの歌集は、戦後の歌集なのです。昭和二一年一二月刊「多摩」掲載、昭和二四年四月刊行の『山西省』に編集して発表。製作当時は、そのまま発表することにはばかりがありました。「個人」という言葉は、自由主義的なニュアンスの強い言葉で、そういう誤解を受ける可能性が大きかったわけです。それで戦後になって発表されたということがあるでしょう。でも、それだけではなくて、歌集にまとめられる際には、時代の状況の変化によって、結果的にこの後作者が生きていく上での意思表明に近い意味も付与されることになった、ということではないでしょうか。この歌が昭和十七年の戦闘の歌の章の末尾に置かれた意味は、そういうことだろうと思います。

 歌集『山西省』の昭和十七年の章には、昭和十六年の五月から六月にかけて行われた〈中原作戦〉に参加した折の経験を詠んだ一連が含まれています。〈中原作戦〉は、華北平原の向こうに広がる広大な黄土地帯で戦われたもので、大行山脈南部に拠点を置いている国民党軍を包囲して、その真ん中に一気に日本軍の部隊を投入して、内側と外側から攻撃をかけて敵軍を殲滅することをねらった作戦で、結果は日本軍の大勝利となったものです。でも、国民党軍が出て行ったあとにゲリラ戦を行う共産党軍が入って来て、長い目で見た時には、あまり得策ではなかったと言われています。

 この〈中原作戦〉に従軍した折の経験をもとにして、「北陲」という著名な一連が作られました。この一連には、詞書が付いています。「部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命にあり。」この一連の中に、宮柊二の歌としては、あまりにも有名になってしまった、敵兵を刺殺する歌が出て来ます。

身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪(たに)下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)までを抑へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづをれて伏す

 この歌は歴史家の鹿野政直をはじめとして(『兵士であること 動員と従軍の精神史』朝日新聞社)、近年の歴史関係の本にも繰り返し引かれるようになっていて(笠原十九司『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』岩波書店など)、あたかもこれが史実であるかのような扱いを受けています。中にはあまりにも疑いなしの素朴な引用(太田治子『石の花―林芙美子の真実』など )も見受けられるので、私はその点について危惧しています。この歌が事実であるか、フィクションであるか、ということについては、同じ中国の戦線に行っていた中山礼治が、指揮班の兵隊が直接敵を刺さなければならないほど現場は混乱して居なかったはずだ、だからそれはあり得ないことだろうと書いています(『山西省の世界』)。あとは、弟子の島田修二がずっと疑義を呈して来ていたという経緯があります。

 これとは逆の意見として、「短歌研究」二〇一二年八月号で篠弘が、梯久美子との対談の中で、宮柊二のお弟子さんたちは、自分の先生が人を殺したということは認めたくないんだ、というように意見を述べています。島田修二の見解については、私も同様な印象を持っていますが、中山礼二の著書については、どう考えたらいいのでしょうか。宮柊二が、戦争中を通じて人を殺したか、殺さなかったか、それは私にもわかりません。しかし、問題の右の一連の作品を根拠として、作者は敵を刺したのだと言うことはできないと、私は思います。

 私はこの歌に関しては、以前「短歌往来」掲載の評論に書いたことがありますが、三人の敵兵を銃剣で殺したのは、その時いっしょにいた軍の兵隊たちだと思います。一人の兵士が一晩のうちに三人の敵を暗闇にまぎれて次々と刺すなどということは、ハリウッド映画でもなければとうていあり得ない状況だと考えるからです。

 問題は、三人のうちの一人を刺したのがやっぱり作者ではないだろうか、ということです。しかし、これについて私は別の見解を用意しています。先行の『支那事変歌集』に、この歌と非常によく似たシチュエーションの歌があり、その歌では人間でなくて軍馬が「声も立てなく」倒れるのです。この高名な一首は、その歌の表現を摂取して作られたものではないか、というのが私の意見です。両方をよく見比べてみてください。

銃弾のつらぬく音し暗闇(くらやみ)に軍馬斃るるは聲もたてなく    中支 藤原哲夫
           『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』(昭和十五年十月刊)

 この件は以前書いたのでここまでにします。この問題の一連の作品は、昭和十七年の五月二日付の滝口英子への書簡に書きつけられています。その日付から、前年の十二月末から翌年の五月二一日まで一時入院加療していた期間に戦闘の経験を思い起こして創作されたものだということがわかります。だから、この一連は、いっしょにいた仲間たちの勇戦をたたえるために完全に事後に書かれたものなのです。その場にいた、という意味での戦場における兵士としての共同意識・戦友意識に立脚して、いかに困難な戦いを自分たちは戦ったか、ということを、当時の言い方で言えば、銃後の読者に向かって訴えたという性格のものです。そういう意味では、まさしく作者も一緒に「刺した」のであろうし、戦友とともに「殺した」のでもあるわけです。そうしなければ自分たちが死ぬからです。そのリアリティ(真実性)は揺るぎのないものがあります。そうしてこの一連は、柳田新太郎編『大東亜戰争歌集 将兵篇』(天理時報社刊)に発表されました。それは、この歌を作った時の作者の意図・意思に適うものであったと私は思います。

 「宮柊二集5」を見ると、初出が昭和十七年七月「日本文芸」となっています。右の一連は、「日本文芸」に最初に発表されたものということになります。そうしてこの一連は、『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中に、昭和十七年中の他の作家の作品といっしょに収録されているのですが、この事について作品の初出を丁寧に収録している『宮柊二集5 短歌初出』に特に言及はなく、また別巻の相当に詳細な著作年表からもこの記録は抜け落ちています。二次的な利用だから初出ではない、と言われればそれまでですが、『山西省』の作品の初出との異同については、小高賢の『宮柊二とその時代』に丁寧な論考がありますが、小高はなぜかこの合同歌集については参照していません。しかし、同時代の多くの読者は、この本によって宮柊二の作品をはじめて知っただろうと思います。

 私はこう考えます。いかにも戦争協力的な色彩の濃いアンソロジーへの参加ですから、これは編者が意識的に排除したのです。明確な戦争協力の印象を与える情報をひとつ消してしまったわけです。そこに「戦後」という時代のひとつの性格が刻印されていると私は思います。見落としは考えられません。こういう微妙な情報操作が、これだけ資料のそろった著作集のある宮柊二の場合でもあるのだということに、私は驚きを覚えます。それは、「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば」という歌を、事実かどうかも判明ではないままに作者の実体験として神話化してしまった歴史意識と裏表の関係にあります。反戦、または厭戦の気持におもねるような、見えない記憶の改変の操作、そこに戦後の公的な思想が持つ人間的な弱さと虚偽が、端的にあらわれている例の一つであると私は思います。ただし私は全集にかかわった人たち、特に宮英子の意思をここで難じているわけではありません。アンソロジーにあるものは載せないという編集方針だったかもしれませんし、あるいは本当に失念したのかもしれません。しかし、単独の著書がある小高賢すら触れない、それほどに『大東亜戦争歌集 将兵篇』は研究されていないということを、この一事が証明していると思います。以下に『大東亜戦争歌集 将兵篇』の一連をすべて示します。 

※このほかにも宮柊二の歌を収録している合同の聖戦歌集は存在するが、収録歌数はこの本ほど多くない。

『大東亜戦争歌集 将兵篇』(天理時報社刊 別に同『愛国篇』昭和十八年二月刊も存在する)は、昭和十八年二月刊行で、その作品募集と編集の時間は、ちょうど昭和十七年の宮柊二作品が発表された時期に重なっている。一連の下に『宮柊二集5』短歌初出の誌名を示した。一部の旧活字は、新活字に改めた。資料なので誤植はそのままにしてある。

机一つの距離ある壁に貼られある戰歿者氏名の分(わ)き難(がた)き夕べ  
                             昭和十七年一月「多磨」
晝ながら灯(とも)せる蠟に降りしきり春荒るるなる黄塵暗し     
必ずは死なむこころを誌(しる)したる手紙書き了へぬ亢奮(たかぶり)もなし   
彌生三日に未だ日のあり雪おける山西の地に届きしひひな   
戰ひゆ生きて歸れりあな羞(やさ)し言葉少なにわれは居りつつ
静かなる悲しみ盈ちぬ石庭(いしには)に冷(ひ)やき五月の光射しつつ
亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎せたりと互に語る思ひ出でてあはれ

     晉察冀邊區。八月二日出動、十月十五日に至る。
滹沱(こ×じ)河(がは)の水の響の空を打ち秋は來にけり大き石(いは)の影
一萬尺の山の頂に堀りなして掩蔽壕と防空壕とがあり
ふとして息深く衝くあはれさを繰返すかな重傷兵君が
左(ひだり)前頸部左顳顬部(ひだりせつじゅぶ)穿(せん)透性(とうせい)貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す
石多き畑匍ひをれば身に添ひて跳弾の音しきりにすがふ
省境を幾たび越ゆる棉の實の白さをあはれつくづく法師鳴けり
山西省五臺縣砲泉廠の高地に戰ひて激しかりき雨中(うちう)に三日(みつか)
夏(なつ)衣(い)袴(こ)も靴も帽子も形なし簓(ささら)となりて阜平へ迫る
稲靑き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ傳ふ
母よりの便り貰ふと兵隊がいたく優しき眼差(まなざ)しを見す
目の下の磧右岸に林あり或る時は雨降り或る時は沒陽射す
胡麻畑を踏みゆく若き戰(と)友(も)が云ふあはれ白胡麻は内地にて高しと
敵襲のあらぬ夜はなし斥けつつ五日に及べ月繊(ほそ)くなりぬ
手榴弾戰を演じし夜(よる)の朝(あした)にて青葦叢(むら)に向ひ佇(た)ちゐつ
護送途次ややによろしと傳へきて死亡を伝ふ二時間の後(のち)
女(め)童(わらは)を幸枝と言ふと羞(やさ)しみて告げけり若き父親にして
岩の面(も)に秋そよぐなる草の影おもほえば遠く来てぞ戰ふ
落ち方の素(す)赤(あか)き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者殘さじ
棗の葉しみみに照れば雨過ぎて驢馬と庭鳥と一所(ひとつど)に遊ぶ
柿の葉のここだく騒ぐ雨もよひ機関銃小隊は眠りをるらし

     十二月二十六日入院
虔(つつし)みて吾等あれこそみんなみにいくさ戰ふときを病みつつ
                             昭和十七年三月「多磨」
病床(やみどこ)に臥(ふ)しつつ読むにあな羨(とも)しマニラへ迫る皇軍(みいくさ)のさま
再びをいくさにたたむ希(ねが)ひをばこもごも語る夜々集(よよつど)ひては

     牀上小歌
もの悲しく小鼓(せうこ)と鉦を打つきこゆ病院よりいづれの方角ならむ
                            昭和十七年四月「短歌研究」
あかつきの検温了へて又寝(い)につくならはしを定めて日々過(すご)すかな
山西省の土にならむといふ言葉たひらぎのこころに繰返しをり
右頰を貫きし弾丸(たま)鋭くて口よりいでて行方(ゆくへ)わかずとふ
宵よりぞ二重の窻をしむるゆゑさむききさらぎの月も仰がず
みんなみの空に陸地(くがち)に猛(たけ)靡く炎なしつつたたかふ戰友(とも)よ
貫かむ国の雄ごころ一つにてジョホールバハルに突き入りし兵よ

     中原會戰
死(しに)すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも
                            昭和十七年四月「多磨」
敵中に楔を入れて三日二夜戰ひ疾(はし)りて朱家庄に迫る
泥濘に小休止する一隊がすでに生きものの感じにあらず
この一線抜き取れとこそ命下る第一線中隊第二中隊永久隊
麥の秀(ほ)を射ち薙ぎて弾丸(たま)の来るがゆゑ汗ながしつつ我等匐ひゆく
麥の秀の照りかがやかしおもむろに息衝きて腹に笑(ゑま)ひこみあぐ
次々に銃さし上げて敵前を渡河するが見ゆ生も死もなし
死角より走り入りつつ河渉る一隊に集る敵の弾丸(たま)はや
強行渡河成功したる一隊が赤崕に沿ひつつ右に移動す

     中條山脈
登攀路が落下しつづくる砲弾に幾分ならずして跡形もなし 昭和十七年五月「多磨」
あなやといふ間さへなし兵を斃し掃射音が鋭く右に過ぎたり
啼きゐたる仏法僧が聲やめて山鳩が啼くしづけきかな
銃剣が月のひかりに照らるるを土に伏しつつ兵叱るこゑ

信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵 昭和十七年六月「多磨」
あけがたのひかりは風をおくり来て敵の喇叭の音をし傳ふ
チヤルメラに似たりとおもふ支那軍の悲しき喇叭の音起りつつ
数知れぬ弾丸(たま)をし裹(つつ)む空間が火を呼ぶごとくひきしまり来つ
汗あへてわれら瞻りをり向ひ峯トーチカに迫る友軍あるを
三萬の敵追ひつめぬ直接に七千は山に我と対峙す
伝令のわれ追ひかくる戰友(とも)のこゑ熱田(にぎた)も神(じん)もこときれしとふ

今日一日(ひとひ)暇(いとま)賜ひて麥畑に戰友(とも)らの屍(かばね)焼くと土掘る
                    昭和十七年七月「多磨」
限りなき悲しみといふも戰ひに起き伏し経れば次第にうすし
はつはつに棘(とげ)の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠(みは)る
とらへたる牛喰ひつきてひもじさよ笑ひを言ひて慰むとすも

 北陲。部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つな、と命にあり。 昭和十七年七月「日本文芸」
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か
馬家圪朶(ばか×きだ)鞍部(あんぶ)に狂ひうばたまの峪に堕ちゆきし馬五六頭
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧より夜(よ)をまぎれ来る敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 
息つめて闇に伏すとき雨あとの峪踏む敵の跫音(あおと)を傳ふ
闇の中に火を吹きやまぬ敵壘を衝くべしと決まり手を握りあふ
一角の壘奪(と)りしとき夜放(よるはな)れ薬莢と血汐と朝かげのなか
俯伏して塹に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵
銃剣が陽に光るのみ朝かげの中なる友軍白兵を望む
一齊に進入せり弾雨下を後続衛生輜重通信部隊
戰死馬の髪(かみ)を秘めつつ戰ひに面變(おもがは)りせる若き汝(なれ)はや
陣中日誌に不便すべしと失ひし時計を捜す屍体の間(あひだ)に

     秋
いさましくかへり見ざりし亡骸(なきがら)を秋草花にまもりし二夜(ふたよ)
山くだるこころさびしさ肩寒く互(かたみ)に二丁の銃かつぐなり
見返れば風に揺れつつ吾木香(われもこう)ある莖は折れて空を刺したり
戰死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり

     この頃。一室の療友十人なり。
鉢薔薇に夕べの青き光差し癒えねばならぬ體ぞわれは
夕ぐれの光抑へて降る沙に懸聲ひびく體操すらし
戰ひを語るもせなく白き衣(い)に病(やみ)いたはりて睦ぶはさびし
かがなべて寂しさ深し戰ひにおのれらあるを劬りあひて

 右の一連の初出の「多磨」「短歌研究」「日本文芸」などの歌数は、計一二四首である。それに対して合同歌集掲載歌は八二首。全体が勇壮な兵の歌で占められているとは言いながら、「死すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも」というような厭戦的ともとられかねない歌が、よく発表できたものだと私は思う。見ての通り、歌集『山西省』の中の重要な作品は、ほぼここに出ている。こうして書き写しながら、私はしーんとした厳粛な気持ちに満たされた。『山西省』の一首をめぐる問題は、「事実」と作品の真実性、「歴史」的認識と作品の真実性の問題とが微妙に絡み合いながら、戦争の記憶の継承をめぐる問題を提起し続けているのである。

『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』の歌を読む

2017年01月28日 | 現代短歌
以下は、「美志」復刊六号(2015.7)より。        
               
  前回話題にした土屋文明の『山谷集』の方法が、どれだけ便利で応用のきくものだったのかということを、昭和十五年十二月刊行のアララギ年刊歌集別篇『支那事変歌集』の歌を見ながら確認してみようと思います。この歌集は、「アララギ」に掲載された昭和十二年から十四年十二月号までの作品の中から、斎藤茂吉と土屋文明の二人が選出して編集したものです。ここに収録されているのは、前篇の作者一一六名、二六一〇首、後篇の作者四三八名、一〇二六首です。一ページに十二首組みで、計三六三六首。前篇のおわりの方には、よく引かれる渡辺直己の名前も見えます。この人の作品はしばしば論じられるのでここでは取り上げません。私は以前、この本の中から青山星三の歌を取り上げて文章を書いたことがありますが(『生まれては死んでゆけ』Ⅰ章・13青山星三」)、ほかにも取り上げてみたい作者はたくさんいます。
まず『山谷集』の特徴的な作品を思い起こしてみることにします。

木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車
左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし
                      (城東区)
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹(から)にふる春の雨
石炭を仕分くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
                      (鶴見臨港鉄道)
 一首め。「荒き道路は」「踏み切りゆく」と、それぞれ一音字余りで重たくなった上の句に、さらに字余りの重たい下句を持って来て、これでもか、これでもかと無理押しに押して来る。「貨物専用線」九音、「又城東電車」九音。定型には収まっていないけれども、読んでみると響きはわるくない。「カモツセンヨウセン、マタジョウトウデンシャ」。むしろきびきびしたところさえ感じられる、独自のリズムがあります。
 二首目は、「左千夫先生の」八音、「大島牛舎に」八音。字余りになっても「左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きし」という事実は外せないということでしょう。そこの事実は残しておきたいわけです。直すのは簡単ですが、あえてそうしないという作り方です。三首目、特段おもしろいところはない風景です。葦原の中に枯れて立っている犬蓼の幹(から)に、春雨が降っている。無味乾燥な、絵にならない情景ですが、あえてそこに風情のない風情のようなものを発見しようとしています。

 掲出歌の七首め、「横須賀に/戦争機械化を/見しよりも」と、二句めが字余りですが、実際に読む時は、これを「ヨコスカニ・センソウ・キカイカヲ・ミシヨリモ」と続けて、二、三句めを句またがりのような感じにして、即席の五音のリズムを三回作って読むと、調子良く読める。でも、基本の考え方は、音数律を守ることよりも、「横須賀に戦争機械化を見し」という事実の確認と、「ここに個人を思ふは陰惨にすぐ」という思想的な表白を為すことの方に、重きが置かれています。この「鶴見臨港鉄道」の、字余り句をごつごつ重ねて行く句法の癖のようなものを、頭にとどめておいて次の歌を見ます。
 土屋文明風というのでしょうか。「貨物専用線又城東電車」とか、「吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながら」というような叙法は、『支那事変歌集』の随所に見出すことができます。

北方高地に野戦激しく照明弾あがり手榴弾擲弾筒の炸裂の音
                      北支 板垣家子夫

 この人はあとで山形に疎開した斎藤茂吉の世話をして、その言動を記録した面白い本を書いた人です。作品は、初句字余り、三句め以下で名詞を連続させて大破調になっています。それでも下句で「シュリュウダン・テキダントウノ・サクレツノオト」と、五・七・七の即席のリズムを生みだして定型感を持たせるあたり、まったく文明と同じ言葉についての嗜好を持っていることがわかるでしょう。

日本インテリの薄志弱行と利己心とを敵地深く楔入してなほ嘆くかな                      北支 上 稲吉
憎むべき或る種の文化を思へば戦争の破壊性も亦いさぎよし
                       北満 永井 隆
市街戦の如何に難きかは広東街の家並に築くトーチカを見よ
                      中支 上原吉之助

 あまりうまい歌ではないのですが、文明の影響が顕著な例として引いてみました。これは短歌で意見を言っているわけです。初句字余りになっても、「日本インテリの薄志弱行」、「市街戦の如何に難きか」という内容が言いたいわけです。文明が、大破調で「ここに個人を思ふは陰惨にすぐ」と、言い放ってみたかったというのと、まったく同じ構造(句の構成の仕方)を持っています。
 一首めは、わかりにくい歌で、「日本インテリの薄志弱行と利己心」というのは、ここでは自分自身のことを指しているというように、とりたいと思います。二首目の「憎むべき或る種の文化を思」うとは、どういうことでしょうか。英米文化敵視がひどくなったのは、対米戦争開始以後、特に戦況が悪化してからで、この歌は日中戦争の時点の歌です。ここで「憎むべき」文化と言っているのは、たぶん乗り越えられるべきものとしての「ブルジョア文化」、昭和初期の退廃的な都市文化のことではないかと思います。これは当時の知識青年の常識です。同じ作者の次の歌を見ると、戦争に連れ出された中国人に対して同情的です。

畑より鍬もちしまま召されたる四川生れの兵捕はれぬ
敵兵の死体おほむね少年なり龍膽の花さける山野に  永井 隆

 ここには当時の中国の腐敗した支配層への怒り、さらにはそういう現実を生み出す戦争そのものへの抗議の気持ちが感じられます。先に引いた同じ作者の歌は、一見すると「戦争の破壊性」を肯定し、快哉を叫んでいる歌のようにも見えますが、こちらを見るとそんなに単純なものではないことがわかると思います。

鳥毛もてみ仏ぬぐひ僧居れど何か苦力(クリー)の如き感じなり
村焼くる煙の映る沼の上に何ぞもしづけき鶴のあそべる
                        上原吉之助

 お坊さんが仏像をぬぐっている姿を「何か苦力(クリー)の如き感じなり」というような、どこか容赦ない視線でとらえているところ。それからこれは両軍どちらの仕業かわかりませんが、村の家が煙を上げて焼けている戦場で、場違いな鶴の姿を見て取ってしまうというアイロニカルな観察の示し方。ここにも土屋文明の影響が浸透していると思います。前回触れたように、古代憧憬の地、吉野の宮瀧に旅をして、貝殻加工工場のごみ捨て場を見ている精神と同じものが、ここにはあります。同じ作者で、

わが留守の収入減と消費節約比をときに思ひみる戦の暇に
冬亭樹(とうていじゆ)は梓に似しと思ひつつ春より夏も見つづけて来し
                      上原吉之助

 土屋文明には、こういう貧乏たらしいお金の歌がたくさんありますね。それから植物好きのところは、ほとんどフェティシズムに近いと言っていいほどです。そういう感じ方の癖のようなところまで作者は土屋文明に感化されていると言ってもいいかもしれません。

 前回「アララギ」の「ドキュメンタリズム」(岡井隆の批評言※『戦後アララギ』)ということを言いました。確かにこの合同歌集には、そういう特性があるのだけれども、ここで私はもう一歩踏み込んで、短歌というもの、詩歌の表現に固有の深度が表現されている作品が、『支那事変歌集』にはたくさんあるということを言いたいと思います。そういう意味で、この歌集はすぐれた戦争文学になっているのだということを確認しておきたいのです。

射撃はじめし敵の機関銃は二銃なりしばらく畠に伏してうかがふ
どの兵もはげしき息をととのへをり伏したる額より汗をたらして
水筒よりあくまで飲みて吾が心ゆるみし如く畠にうち伏す
相似たる森がつづきて霧のなかに錯覚ならずやと我は恐れき
いちはやく我等をみとめし機関銃は霧のなかより火を吐きはじむ
                       中支 瓜生鐵雄

 この歌は大日本歌人協会が編集した先行の『支那事変歌集 将兵篇』(昭和十三年十二月刊)にも出ているので、たぶん評判が良かった歌でしょう。連作として読めます。三首めまでは、この歌集にほかにもたくさん載っている戦場の場景を描出した作品です。でも右の四首めは、やや質が異なっていると私は思います。激しい戦闘が続いている。霧の中を行軍中に同じような森が次々と見えて来る。これはもしかしたら錯覚ではないかと、その時に一瞬思った。そういう自分の意識への注意の向け方、そこにわずかな個人性が保証されています。次の瞬間に撃たれて死ぬかもしれない戦場にあって、追いつめられたぎりぎりのところで、醒めた意識が、ありありと戦争の現実から離れたところに存在していることが自覚されます。そうして五首めで、まぎれもない戦場の現実が、火を吐きだした機関銃によって再び現われてきます。これは、何という表現意識のレベルの高さでしょうか。さらに、次のような歌からは、「アララギ」の歌人としての編者の意地のようなものを私は感じます。

水溜る壕に浮びし湯たんぽの野面を渡る風に動きつ  上海 海野隆次

 ここにも土屋文明の影響は深く浸透していると言うことができるでしょう。文明の歌の「葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹(から)」のような素っ気ない事物、「湯たんぽ」の動く様子に目をとめて、そこに「春の雨」ならぬ「野面を渡る風」が吹くところを歌にしているわけです。そこに何か物寂しい情感を発見しようとしています。こういったおよそ浪漫的でない場面に、わびしいけれども確かな現実の手触りのようなものを感じ取ろうとする感覚が、「アララギ」のリアリズムのもっとも先鋭な部分だろうと思います。こういう要素は、戦後の近藤芳美の『埃吹く街』で全面開花して、その方法の強みを遺憾なく発揮します。

 この歌の「湯たんぽ」は、敵か味方か知らないが、すでに持ち主のないものなのかもしれません。いや、味方のわけがない。壕を放棄して逃げた敵兵の持ち物だったはずです。だから、荒涼とした風景でありながら、同時に或る哀れな感じも漂っています。そういう目の向け方には、ヒューマニズムがあると思います。単に非情なだけではない。ここには血の通った人間らしい心が表白されているのです。

 土屋文明のリアリズムが持っている徹底して反語的(アイロニカルな)性格を、この作品は実現してしまっています。これらの「アララギ」会員たちは、期せずして土屋文明の目を持って、土屋文明の目の代わりに戦場の現実を記録し、そこに詩を発見していたとも言うことができます。その目の後には、大勢の「アララギ」会員が読者としてひかえているわけです。こんな不思議な文学というのは、古来存在しなかったのです。一つの共有された美意識と、現実感受の仕方についての統一的な規範意識を共同性として組織的に維持しながら、彼らは戦争の現実に立ち向かって、それを仲間に語りかけていたのです。

 右のような歌が採られているということは、この本の全体的な印象が好戦的であるとかないとか言う以前の問題です。これは「アララギ」の趣味と美学が濃厚に投影された選歌集なのであって、こんな歌は、この後に作られた『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中には一首もありません。だから、似たようなタイトルの本だからと言って、この他の戦争歌集と、これはいっしょくたにして論じていい性格のものではないのです。瓜生鐵雄の作品をもう少し引いてみます。

月きよき夜空を渡る何鳥か近く羽音のすさまじく聞こゆ
血に染みし戦友かへりたれひとりとして声たつるものはなかりき
廬山より流るる水の清くして杏の花の咲く春に遇ふ
敵も吾もしばらく雲に包まれて心しづかになるに気づきぬ

 先ほども触れましたが、何か良質な映画でも見せられているかのような印象を受ける作品群です。戦場で見聞きするあらゆるものが、空を飛ぶ雲のように、次々と作者の傍を飛び過ぎて行くなかで、出来事や思考の断片を懸命に記述している作者の姿がここにはあります。不断の生命の危機にさらされる中で、生の一回性を燃焼し尽くしながら、とても丁寧に、注意深く生きている作者がここにはいます。これが事実であったということが、まるで夢のようです。凄惨な戦場の現実と、作者の浪漫的な感受性をもってとらえられた自然の交錯する情景は、不思議なほどに幻想的です。方法はリアリズムなのですが、ハイネの詩とか、ベルトリッチの映画とか、そういうものを、つい思わせられます。こんなふうに享受して読んでしまってはいけないのかもしれませんが、悲劇の中で事象を観照する目を持ち続けるということは、こういうことなのだろうと思います。昭和の「アララギ」恐るべし、と思います。

戦場の歌の虚構性について

2017年01月28日 | 現代短歌
以下は、2008年の「短歌往来」に掲載した論文である。

 〇はじめに
 奥村晃作著『戦争の歌 渡辺直己と宮柊二』(北冬舎刊)が出版された。前半が渡辺直己について、後半が宮柊二についての論である。もとは佐藤道雅の個人誌「路上」に連載されたものだ。ここで奥村の近年の仕事について少し書いておくと、先に刊行された『ただごと歌の系譜』では、遅まきながら私も近世歌人の歌のおもしろさに目をひらかされた。そうして玉城徹が一九八八年に出した『近世歌人の思想』の存在を知った。玉城の著書は、正岡子規によって全否定された香川景樹の業績から、人間性についての日本人の自前の思想を掘り起こし、子規以来の近代短歌的な短歌史観の修正をもとめていた。奥村の本は、私がそういうことに目を向けるきっかけとなった。今度の著書も、私にとっては刺激的な文言を含んでいた。以下の話題に触れるのは苦しいことなのだけれども、戦争の表現の継承にかかわることだから、何とか書いてみたい。本文のねらいは、奥村の著書を起点として、改めて歌の読み方について考えることである。

  〇鹿野政直の宮柊二論

 数年前に一ノ関忠人が、評論で歴史学者の鹿野政直の著書
『兵士であること 動員と従軍の精神史』(二〇〇五年朝日新聞社刊)をとりあげた文章を書いていた。私はその一文に刺激されて、すぐに鹿野の本を買い求めたのだった。するとそこには、宮柊二の『山西省』の中の著名な歌がとりあげられており、次のようなことが述べられていたのだ。

  だが兵士としての宮は、もとよりこれらの情景への単なる参加者、その哀悼者には留まらなかった。逆に惨劇の遂行者以外の何者でもなかった。戦場詠の絶唱とされる「ひきよせて」の一首は、そのように兵士であることを追い求めていったとき、避けがたくぶつからざるを得なかった事態を、みずからの責任として引き受ける覚悟を踏まえて詠まれた。

  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す    宮 柊二

  そこには、わたくしは人を殺した=殺人者だとの心の絶叫がある。同時に、義務として遂行した、せざるを得なかった、しかしやはり殺したとの反芻がある。武勲=手柄をたてたと触れまわるのとは対極の気持がある。ひきよせて寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして、心の葛藤を表現している。声もなくという切りとられた静寂性が、叫喚を連想しやすい戦闘場面の対極に、行為のなまなましさと容赦のなさをより強く印象づける。余分の修飾語や感想がなく、ただ行為とその結果のみが、”表情をなくした顔の秘むる感情“をこめて、もっとも短く表現されている。
  (鹿野政直「『一兵』の覚悟 宮柊二の戦場詠序説」)

 「ひきよせて」の歌の感受のしかたとして、右の鹿野の論には無理のない読み解き方が示されている。思い入れを排して読むならば、「寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして」いるという評釈が、もっとも一般的で妥当な線であろう。そうして、そこに「心の絶叫」を聞き取り、義務として「せざるを得なかった」者の声を聞こうとするのも、当然予想できる感受のしかただと思われる。

 鹿野が右のように読んだのは、(全部は引用しないが)この一連を最初から読んでいくと、このテキストの持っている〈指向性〉が、「ここで刺したのは語り手自身なのだな」という了解を読者に与えるようにできているからである。私もこの歌の真実性を疑わないが、現実の宮柊二が、この歌の敵兵を刺した兵士と同一人物であったかどうかは、わからないと思っている。むしろ私は、この歌を含む一連に、戦場の兵士としての意識の共同性に基づく創作意図を読み取りたいと考えている。端的に言うと、この歌を含む「北陲」の一連十五首が、一部に虚構性を含み持ったものであってもよいと思っている。

 〇誰が刺したのか

この時の敵兵刺殺が、作者自身の行為なのか、隊の仲間の行為なのか、行為者については分からないということは、すでに中山礼二が述べていたことだった。やや長くなるが、以下に中山礼二著『戦場の鶏 『山西省』作品鑑賞』(昭和五一年刊)の「昭和十七年」の章から、その評釈部分を引く。

  いたく静かに歌われている。実際に静かに事は行われたのだし、そのように静かに人間の生命が消えることに、この歌の伝える厳粛さがある。
 人を刺す瞬間を考えれば、そこに粒ほどの介在物があっても、生死がたちまち所を変える緊張関係は、死の恐怖を交えた本能的な興奮を伴なうだろう。(略)しかし、事柄自体は、ここに客観に近く叙述されたとおりに運んだのである。それに〈人を刺す〉と言っても、戦場で兵隊の身である。恐怖心を混えた興奮も、その極点においては、かえ って、兵隊を平素反復訓練したとおりに確実に行為させる。
その場合兵自身の計量選択の加わる余地は少ない。それは〈遂げた〉という感情を伴うはずで、〈人間と人間〉の間のこととしての感情がおこるのは危機が去ってからである。
  この歌は、そういう危機の中における行為を、むしろ正確に表現し得ていると思う。                                  (中山礼二)
中山がここで懸命に説いていることは、兵士として人が人を殺すことの意味である。兵隊となった人間が、「静かに」そのような非情な行動を為す、という表現の持つ真実性を徹底的に検証しようとしている。その透視するようなまなざしをもって『山西省』の作品を検討していると、自ずから見えてきたものがあったようなのだ。中山は、次のような一文を括弧にくくったかたちで、書き加えた。(この歌、必ずしも柊二が直接手を下して刺したととらなくてもよいが、それはどちらでも同じことである。)と。
 さらに中山は、この前後の叙述において、次のように書いていた。

  柊二の個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうとする意欲が際立って見える。つまり、柊二が兵隊一般の中に埋没する態度が強い。
そこで戦闘の、或いは戦場の、むしろ些事に属する一片をつかみとって、そこから全体を暗示的に浮かばせようとするよりも、戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法をとる。それは歌として必ずしも成功を期待できないやり方であるが、どうしてもこれは伝えておきたい、知って欲しいという戦闘の事実が、柊二にそういう方法をとらしめる。戦場の語部であることも歌人冥利であるとの気持が、柊二に動かなかったとは言えない。誰のために語るか。よく戦って死んだ友人のために、またいまも戦場に生きつづけている兵隊たちのためにであり、そしてまた明日は吾を見舞うかもしれぬ運命のためにも。
                    (中山礼二)

 宮柊二の戦場の歌のあるものが、想像力によって再構成されたうえで作られたということの可能性を、私は中山の右の文章から読み取れるのではないかと私は思う。繰り返すが、それは「ひきよせて」という作品の価値を何ら損なうものではない。戦場における一兵士としての意識の共同性に立って、「戦場の語部」として「個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうと」した時に、歌集『山西省』所収の歌に虚構の要素があったということを、認めるほかはないと思う。

 今度の奥村の書物は、宮柊二が所属していた中隊の隊長永久清の「陣中日記」のコピーに拠りながら、部隊の動きと戦闘の模様を確認しつつ作品を読もうとしている。これを見ると、「北陲」の一連の宮柊二の作品と実際の作戦行動の記録との間には、相当に符合するところがあることがわかる。そうして、部隊の行軍の記録に沿って宮柊二の歌を検証すれば、当然「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする」連作の意図が、再度確認されるということにもなるのである。「北陲」の連作に限って言えば、これは戦地で入院療養中に回想して作った歌であり、なおさらそうした側面が強くなったことは否めない。言い換えるなら、資料と突き合わせて『山西省』の作品を読んでみても、作品の〈事実性〉が保証されるとは限らないのである。皮肉な言い方になるかもしれないが、そこでは、「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法」(中山礼二)の意図を再確認することになるだけなのだ。むろんそれは大切な作業であり、検証によって渡辺直己の実戦参加前の作品のような、完璧な虚構との違いが際立って来てしまうということはある。しかし、繰り返すが、〈事実性〉そのものとしては、結局のところ、人を刺したのが本人であろうが、同じ部隊の戦友であろうが、「それはどちらでも同じこと」(中山礼二)になるわけなのだ。そうして、なぜそう言えるのかというと、それは宮柊二の従事した戦闘が、真に苛酷なものだったからである。今回の奥村の著書にありありと描き出されているのは、私が今ここに書いていることなど吹き飛ばしてしまうような、実際の戦争の厳しさであり、その中で生き残るということの凄みである。

 右の歌について奥村の本では、あまり詳しく触れられていない。それは、これが著名な一連で、すでにたくさん注解があるからだと思う。ちなみに中山は、その後刊行された増訂版『山西省の世界』(一九九八年)で更に一歩踏み込んで、「『三人迄を抑へて』『寄り添ふごとく刺』したのが、宮柊二御本人とは、私は思わない。指揮班の一人がそれを為すほど事態は混乱していない。」と書いている。

 話を元に戻すと、一般の読者はほとんど鹿野政直と同じように読むはずなのである。文学作品においては、作品・テキストの持つ〈指向性〉が第一に尊重されるべきであり、その意味で鹿野は間違っていない。ただし、心情の歴史の資料として考えるか、〈事実性〉についての資料として考えるかによって、問題の一首のとらえ方は異なるものとなるということだ。この点に最後までこだわっていたのが島田修二であった。これについては、ここでは触れない
*。
 *島田修二著『宮柊二』及び拙著『生まれては死んでゆけ』参照

 〇「声も立てなく」の句について

 私が右のようなことを考えるようになったのは、斎藤茂吉・土屋文明編集の岩波版『支那事変歌集』に次の歌を見つけたからである。

  銃弾のつらぬく音し暗闇に軍馬斃るるは声も立てなく 藤原哲夫

 こちらは昭和十五年十月刊で、宮作品の初出「日本文芸」は十七年の七月号である。問題の一首は、右の藤原作品に摂取して作られたものではないかと私は思う。それは暗夜の不意打ちという両者の場面が単に似通っているからだけではなく、右の歌の結句の「声もたてなく」という万葉調の語法が、「アララギ」由来のなかなか特殊なものだからである。周知のごとく、宮柊二には、卓抜した詩的言語の吸収力があった。白秋は、主に「~なくに」と言うので、「~なく」は数例しかない。斎藤茂吉の選歌集『朝の螢』には、『あらたま』から〈むらぎものゆらぎ怺へてあたたかき飯食みにけりものもいはなく〉という歌が選ばれている。「ものも」と「言はなく」を結んだ言い方は、「物を言う」という散文口調を文語的に変換した茂吉の創意であろう。

 〇渡辺直己の作品

 『戦争の歌』のはじめの方で、奥村は「渡辺直己ひとり、戦意高揚の、国策に沿うスローガン短歌を、制服短歌を、ただの一首も詠まなかった、という事実はもっと知られてよいだろう。」と書いている。筆者が渡辺直己を取り上げた意図は、それでよくわかる。
 しかし、奥村は、戦地に移動して間もない頃の渡辺作品の虚構について、米田利昭の論に拠りながら、歌人としての態度に問題があったと書いている。その内容は、映画『西部戦線異常なし』を見て作った戦争の歌を、あたかも実体験のごとく発表したのはまちがいだったというものである。
 奥村は、渡辺直己作品の虚構が、「結果的に読者を躓かせ、読者を騙したのであった。これはいけないことである。少なくとも、配慮が足りなかった。」と書く。師の土屋文明までが、実戦の歌と思い込んで渡辺のところに葉書を寄せた。また中野重治も『斎藤茂吉ノート』の中で、渡辺の虚構の歌をとりあげてしまったのである、と。問題の渡辺直己の歌を示す。

幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
                   渡辺直己
  頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

 私も右の作品に感銘を受けた覚えがある。これが〈実体験〉に基づいたものではなく、想像上のものであったとしても、これらの作品の価値は消えないと思う。また中野重治の論自体が、「無効になってしまった」とも思わない。奥村自身、「自己の体験をもとに作ろうと、他人の話をもとに作ろうと、できあがった作品の価値はそれに左右されるものではない。」と書いているのに、その一方で、読者を「騙した」とまで言うのは、少し言い過ぎではないか。表現の真実性の前では、実際に言葉どおりに刺したか刺さなかったかということ〈事実性〉は、どちらでもいいことだ。そういう認識をもし本当に持ち得たなら、奥村は渡辺についてこのようには書かなかったはずだ。奥村は宮作品には虚構はないと考えているから、このように渡辺の方をきびしく論評できるのではないだろうか。しかし、私はそうは思わないので、対照するために先に『山西省』の一部の作品の虚構性ということについて触れた。

 要するに渡辺直己には想像力と才能があった。凡庸な作者ではなかった。渡辺は、実戦に参加する前、戦地に行くとほぼ同時期に戦闘の歌を作ってしまった。そうして実際に血みどろの戦いも経験し、少なからぬ戦争の歌を残して、昭和十四年、駐屯地における石灰爆発の事故で爆死した。
 では、渡辺直己の虚構と、宮柊二の虚構的な作品との間にどれだけの差があるのか。虚構だったら、その歌の真実性は減少するのだろうか。宮柊二のようなぎりぎりの経験を経たうえでの虚構には、「うそ」の要素が少なく、渡辺の昭和十二年末からしばらくの頃の作品は、ドキュメントを装ったかたちになっていたために、「騙した」とまで言われなくてはならないのか。渡辺も宮も虚構性を含み持った作品を作っていた点では同じではないか、というのが私の意見である。そのことは、彼らの戦場経験と表現の真実性を損なうものではないと私は思っている。

 〇米田利昭の論について

 ここで奥村が依拠している米田の著書に触れると、その研究姿勢は、江藤淳によって戦時中の平野謙の処世が問題にされたことと同質の問題意識に貫かれており、一種のリアリズムの精神の発露したものである。米田は、渡辺直己のことを書いたがために、一部の人々、特に土屋文明の不興を買って、いろいろと難しいことになってしまったそうである。米田はこう述べた。

  渡辺の戦いの歌が実際の体験から生まれたものではないことは呉アララギの仲間にはうすうす分っていて、そこからニュースとして流れてはいた。が、一方それを渡辺の名誉のためにかくすという風潮もあった。事実にあらざれば尊からずという考えで、歌は事実ありのままをよめという土屋文明の教えを金科玉条としたところから来ており、文明自身がありのままを歌っていないこと、どだいありのままなどということが歌においてあり得ないこと、ありのままを写生せよとは大衆を歌にひきこむための方便にすぎぬことを理解できぬ人々の驚きであった。しかし自分の経験からでなくとも、渡辺があのようなイメージを作り出した
ことに十分の意味があると思う。
   米田利昭『渡辺直己の生涯と芸術』第五「動員」


 右のような考え方は、今日多くの歌人に受け入れられているのではないのだろうか。それとも奥村は、前衛短歌以前の狭隘なリアリズム観に再び戻ろうとしているのだろうか。米田が右の書において、中野重治の『斎藤茂吉ノート』から、写生と詩的構想力という二つの問題を取り出して、後者の「構想力」ということについて考えることの重要性を説いていたことを、私はここで思い出しておきたい。

〇歴史に対する複眼

 問題はわれわれが戦争の死者の声を聞く耳を持つことなのである。そうして短歌を読むことと歴史認識を結合することなのである。その意味で、私は奥村が今も戦争の歌を問題にしようとしていることに賛成であるし、今回の著書を後続世代にバトンを渡すための仕事としてみたい。奥村は書いている。

渡辺・宮にかぎらず、そのように平常心(良心・理性・人間性)を失わなかった兵や部隊は他にもたくさんあったはずだ。中国で戦った日本の軍隊はすべてが虐殺行為を行なったのだとする一部著作およびその作者の考え方には大いに疑問を感ずる。
  二つのケースをはっきりと分けて、天津・済南では起こらなかった、あるいは部隊によっては起こらなかった行為が、なぜ南京では起こってしまったのか。そこを考えていくことが大事なポイントなのである。 (奥村晃作)

奥村は、歴史に対する「複眼」を持つことの重要性を説いている。短歌を読みながら、論者は歴史や世界観の問題にわたって行かざるを得ない。それを常に心がけていないと、歌人は短歌だけのことに終始してしまいがちだ。奥村の行き方は正攻法と言ってよいものだ。ただその際に、短歌にあらわれているような微細な心情の表現を、どうやって歴史や事件と媒介させてゆくのかということについて、読みの問題を抜きにしては語れない。そこで私性の部分だけを軸に語ってしまうのは危険だろう、というのが急いで本稿を書くことにした理由である。




恩田陸 「モーツァルトの上澄み」と「オグネ」

2017年01月23日 | 日記
 恩田陸さんが直木賞を受賞した。この人ぐらい豊富なイメージ記憶を駆使して物語を書ける人は稀である。たしか無類の短歌好きでもあったはずだ。
何か恩田さんにふれたものがないかと、探してみた。以下は「美志」3号(2012.3)の「雑感」全文。

1・聞こえてくる声
 古書を引っ繰り返してめくっていると、時々思わぬ美しい文言を見いだして驚くことがある。加藤楸邨の『奥の細道吟行・上』(昭和四九年二月刊)より。

 「…ひそかに思いかえしてみると、その歩きまわった中学生の頃のいろいろの印象の中に、ずっと私の中を伏流のように流れつづけている思いがあったように思う。一つは、はるかな遠くから一本のまがりくねった細い径が私の足許につづいているという思いである。(略)もう一つは、その頃の印象の中で暗い闇の中から、かならずといってよいくらいゆらめくようにきらきらするものが目に見えてくるということである。これは今でも古美術を見たり、古硯を見たり、書画を見たりするとき、かならず私の中に起ってくる心のうごきであって、目を細めたり、息を深くしたり、何かの障礙を乗り越えたりしないと、何も見えてこないという性癖のようなものがある。」

 人は、自分が青春の頃に培った生の感覚、美についての感受性のようなものを、手放さないで生きてゆくものなのだ、と言っているようにも思えるし、また、中学生の頃に感じた幽遠な寂しさと、何物か、遠い無限なものとのつながりの感じを体の中に残していて、その感覚を蘇らせるために古美術などに接することを必要とするのだと言っているようでもある。

 これと同じような心の動きについて、もっとわかりやすく書いている文章を見つけた。恩田陸の小説で、『六月の夜と昼のあわいに』(二〇〇九年)所収の「恋はみずいろ」という短編だ。
 語り手が幼い頃から、美しいものや、心をひかれものに接すると、かならずある声が聞こえて来たのだった。それを語り手は、「あの人の声」と呼んでいた。

 「モーツァルトの上澄み。
 東京駅で演奏を聴いた瞬間から、私はそのことについて考えていました。
 明快なメロディが高い天井をさざなみのように駆け抜けた時、私は確かにあの人の声を聞いたのですから。」

 老境に入って故郷に戻った語り手が、山里と田園の地を歩いていると、しばらく聞こえなかったその声が、再び聞こえて来るのである。
 私は知人と恩田陸のことを話題にしたことがない。たぶん主な読者たちと私とでは、世代がずれているのだ。つづけてこの小説には次のような一節がある。

 「オグネというのは、東北の平野にある屋敷林のことをそう称しています。」

 「稲穂の海は多島海です。黄金色の波に沢山のオグネが浮かんでいます。」

「教科書で西脇順三郎の詩を読んだ時、私はこのひともオグネの浮かぶ海に立ったことがあるに違いないと思いました。」

 オグネのように陽が当たり、風のそよぐ場所。人生においても、さまざまな移動や、旅のさなかにおいても、われわれはそれに出会う。それは、移ろいやすいわれわれの経験の核のようなものとして、われわれの注意と関心のまととなり、時には哀惜の対象ともなるものだ。
 それらはいつも超越的なものである必要はない。生の感覚の愉楽と結びつきながら、すぐには見えたり聞こえたりしないけれども、同時に案外なつかしくて近しいものなのだ。そうしたもの、「あの人の声」について語る能力を、われわれは取り戻さなくてはならない。それが、詩歌の仕事であったはずである。

  あくがるる心は野べのいとゆふのつなぎもとめぬ花にみだれて 
                      三条西実隆『雪玉集』

 2・後期の西脇順三郎

 このごろ西脇順三郎という名前は、ある種の詩歌人の間でひそかに符牒のように流通している。何年か前に、全歌集を出した岡井隆のために催された会で、パネラーをしていた穂村弘が、西脇順三郎の名を口にするのを聞いたことがあるし、岡井隆自身も頻繁に西脇の名を口にしている。

 私なりに整理してみると、大岡信に代表される戦後詩人の幾人かが、中期以降の西脇詩を厳しく否定したことが、長い間西脇詩の評価をにぶらせて来た。でも西脇の愛読者は、そんなことを気にしないで、中期以降の作品を愛読して来た。その評価の高まりと、新編の岩波文庫詩集に中期以降の作品が多く収録されていることは関係があるかもしれない。

 何年か前に、私は西脇の詩について歌誌「未来」に連載した「読みへの通路」というエッセイに書いたことがある。私はそこで近年著作集の第一巻が出た言語学の奥田靖雄の論文を利用して、西脇詩における説明の「のだ文」の使用と、「私性」の関係について書いた。その後同じテーマで西脇詩の研究者が、著書にまとめたものを発見したので、ここに取り上げることにしたい。

芋生裕信著『西脇順三郎の研究』(新典社二〇〇〇年刊)から紹介してみよう。
 「例えば、『近代の寓話』以降の西脇詩の文体を決定づけている大きな要素に、「だ」「のだ」を伴った文末表現があるが、この「だ」「のだ」体が、(改作詩集)『あむばるわりあ』の中ですでに試用されているからである。」(同書一五一ページ)

 この「だ」「のだ」表現は、「(昭和)二六年に至って「僕はようやく詩の方法がわかってきたような気がする…これをどんどん進めていこう」と作者自身が語ったと言われるように、文末表現として定着することになる。」(同書一五三ページ)

 同書によれば、西脇は『近代の寓話』では、十一行に一回のペースでこの「だ」「のだ」表現を用いている。それ以後の詩集では十行から二十行に一回のペースを保って行く。
 次に私が以前書いた文章を引用したい。
 
岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈解説〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
  ※   ※
     雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。

    天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。

 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。
本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。

それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。

    無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)

 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈解説〉文なのである。」
   ※   ※

 ここで、もう少し芋生裕信の「のだ」についての説明を引いてみよう。

 「「のだ」の語りかけは、作者から読者への一方的なものではなく、表現主体の中に話し手と聞き手の関係があり、その関係全体を読者が受け止めるという構造で理解すべきではないだろうか。」(略)対話の関係として生きて動く詩人の内面が「のだ」によって露わになるということは、文法論で説明される「二重判断」に関わっていると考えられる。」

 「「『のだ』はいわゆる文相当の表現に付いてそれを素材化」(鈴木英夫)すると言われる。このことを敷延すれば、第一次判断の主体を旧主体として素材化して、新主体が現れ、そこに自己素材化による自己更新的な動性をとらえることができる。」 これ続けて著者は、昭和三十年前後に連詩をやっている知人に対して、西脇が「自分が一人でやっていることを、君達は二人でやっている。」と語ったという証言を紹介している。

 私は、この考え方を岡井隆の連作の解釈などにも応用できるのではないかと思う。つまり岡井の短歌は、一首一首が「のだ」文のような形で成立している詩の型式であると言うことができるだろう。つまり、短歌の連作を自己内対話の展開する動的なものとしてとらえるわけである。むろんその場合には、対話を促す積極的な詩的な契機が、作者自身によって模索され、とらえられているものでなければならないということは言えるのだけれども。

 3・永田耕衣の俳句について

 朝日文庫の「現代俳句の世界」全十六巻が出そろったのは、昭和六十年。これは若いころ本屋に注文して全部そろえた覚えがあるが、書架のあちこちに散ってしまっていて、それを私は時々掘り出す。カバー挿画は、宇佐美圭司で、シャボン玉のような球体のなかを歩く人の形が、簡潔にスケッチされている。一時代のスタイルを作った絵柄だから、見覚えのある人が多いのではないだろうか。第十三巻は、永田耕衣、秋元不死男、平畑静塔の選集である。いま目に入ったのは、

 生涯を独活まで来たる思いかな  
               ※「独活」に「うど」と振り仮名。

 昭和五三年作 永田耕衣『殺祖』より

 年譜を見ると耕衣七十八歳の時の句。独活は、禅で言う大愚だろう。これは語感から受ける感じが強い句だ。でも、独活を食べる時には、土の持っているみずみずしい力を季節からそのままいただくような気がする。一句の含みとして、作者には老いても独活のような質朴ないのちがある、ということなのか。独活の収穫は、テレビで見たことがあるが、地下の穴蔵のようなところにもぐってするのである。この句そのものは、冷えていて、熱くない。〈生涯〉は、ここでは認識としてあるのだろう。だから、独活に比せられるものは、別に生涯である必要はないとも言える。書いてみてわかったが、あまり好きになれない句だ。有名な

 近海に鯛睦み居る涅槃像

にしても、右に私が指摘したような冷えたところがある。エロティックだが、つまり生の根源に触れていながら、同時に生に向かう正のエネルギーを滅却している。この句が共感を呼ぶとしたら、人は(生きているものは)必ず老いるという事実があるからだ。そのかなしみに触れるように、鯛はお互いの体を寄せ合っている。そこだけ周囲の水があたたかい。この句は涅槃会を連想して、春の季感を先に受け取って読むと印象がやわらぐけれども、ここでは句に内在する観念の刃の方に注意をむけてみた。

 死螢に照らしをかける螢かな  
墓の意のままに動きて墓参人
   昭和三〇年
 母の忌に亡父讃めらる梅の花       ※「讃」に「ほ」と振り仮名。
               昭和三一年  

 われわれの生というもののなかで、死は常に一定の地歩を占めている。それを作者は句のかたちにして突き出してみせる。ただ、死と死者のたしかな実在感は、もっとあたたかくうたうこともできるはずだ。でもこの作者はそうしない。

 老人やみみず両断されともに跳ね
          昭和三五年『悪霊』

こんな残忍な句は、そうあるものではない。年譜を見ると六〇歳の時の句である。この詩精神は若々しいとも言える。どうしてこんな句を作るのか。少し謎解きをしたくなって来た。

 白桃やニヒリズム即ヒュウマニズム
         昭和四七年『冷位』

 こういう哲学に突き当たるのか、と思う。まさか、サルトルではなかろうと思う。これが俳句でなかったら、「ニヒリズム即ヒュウマニズム」ということは、あり得ない。両者は別物である。その程度には、思想というのは厳密なものである。でなければ、ただの感傷的な思想にすぎない。何なら「白桃やテロリズム即ヒュウマニズム 」とでも言い換えてみたらわかる。絶対矛盾だ。もう少しまともな解はないのか。ヒュウマニズム批判とすると、「白桃やニヒリズム即アメリカ式ヒュウマニズム」というようなことになるが、これだと随分浅く感じられる。この場合は、ベトナム戦争、最近ではイラク戦争をしたアメリカ批判だ。

 しかし、やはりこの句は、作者の作句上の覚悟を語るものなのだろう。詩型の生理というのは、それを長年続けていると、体に染み入って来る。俳句が生きているのか、本人が生きているのか、区別がつかなくなってくる。そういうところで作者はこの白桃の句を吐き出したのだろう。根底にニヒリズムがあって、そこでようやく成立するヒュウマニズム。そのような俳句、俳句的認識。先程から私が指摘している、なまなましい生の現実を言葉でつかみながら、同時に冷えているという作者の特徴は、これに由来するのだ。

 ここで作者の散文集『陸沈絛絛』を取り出してみる。私は同じ著者の『名句入門』を以前愛読したことがあるので、いつか読もうと思って買って持っていた。めくってみると、禅と俳句の詩法に関するとてつもないことがたくさん書いてあって、かえってこちらが落ち着いて作品に向き合うことを邪魔する。私は自分の頭を動かしたいので、永田耕衣の作品をよりよく理解するために、いまここで『陸沈絛絛』の自注の文章などを引く必要はないだろうとは思ったのだが、一カ所だけ、やはり引いておきたいと思う。禅へ傾斜する精神的な傾向は、この人の初期からのものだが、それを加速したのが、特高警察による新興俳句弾圧と戦争だったというのである。

 「さて話は私が「鶴」同人に推された昭和十五年十月直後頃のことに戻る。某日をきつかけに小野蕪子から「仮面を脱ぎ給へ」「弾圧の手が伸びている、庇護すべきや否や」といつた苛酷な文面のハガキが、二日置き位に数回にわたつて舞ひ込んできた。全く突如とした悪魔的なわけの分からぬ文面であつた。小心者の私は事の容易ならぬ状態に戦慄し、何が何だか分らぬまま「ヒゴタノム」の電報を打つた。時恰も新興俳句陣の面々が次々と検挙された十五年二月から十六年二月に至る期間の後期に当つてゐた。」
 「私は昭和十六年四月以降ぷつりと俳句をやめてしまつた。然し、何のイワレで好きな俳句を止めなければならぬのかといふ反問が直ぐ湧いてきた。」それで十二月には復活したが、「強制さるる感のままに戦争への迎合的態度を、半ば保身の術と心得て露呈しないわけにはゆかなかつた。一方私は益々禅に凝り、人間存在の根源に触れようと努力した。それは権力への屈従感に自ら反抗し、自主性を挽回するの心理操作に大いに役立つた。」
  
 この人は戦争中の自分について、自分の弱さと妥協した面について、それから弾圧された経験と、それでも抵抗しようと試みた部分について、正直に語っている。こういう人物は、ほとんど稀であり、たとえば平野謙の戦時中の履歴隠しなどとくらべたら、本当にさわやかである。これは山中恒が言っていたが、児童文学者の浜田裕介などは、戦後古書店を虱潰しに回って、戦時中に自分が戦意高揚のために書いた著書の隠滅につとめたそうだ。

 4・河野愛子の歌について

 細川布久子著『わたしの開高健』という本を書店で手にとって、あとがきを見ると、「旅立ちの時が近づいている。」という言葉が目に飛び込んで来て、ああ、これは買わないといけない本だ、と思ったのだった。著者は、開高健担当の編集者の一人だった。その本がおしまいに近づいて、東京からフランスの著者に作家の訃報を知らせる電話が届く。そこのくだりに、河野愛子の歌が一首差し挟まれていたのを見て、私ははっとしたのだった。

  ししむらゆ沁みいづる如き悲しみを黙りて人に見せをりにけり  河野愛子
 
 この「人」が誰なのか、なくなった人は作者とどういう関係にあった人なのか、この一首からだけではわからない。

私は斎藤茂吉の

「オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや」

という歌をなぜかここで連想する。河野は「アララギ」育ちで、むろんこの歌を熟知していた。本歌と思って読んでいいのではないかと思う。「ししむらゆ沁みいづる如き悲しみ」という句からは、皮膚に流れる汗のように、じわじわと体に湧いて来る「あぶら」のイメージが、私には喚起される。皮膚の表面を流れるあぶらである。悲しみのあまり身をよじり、体のなかの「あぶら」が皮膚にしぼり出されて来る。この連想には、生々しく触覚的な感じが伴っていて、それは「ししむらゆ沁みいづる如き」という言葉の持っている喚起力と不可分ではない。茂吉にあっては想念の飛翔であったものが、女性の現実の肉体の位置に引き戻されているところに、河野の歌の衝撃はある。

 そうして、河野の最後まで残ってしまう自意識というものが、下句には感じられる。子細に見ていると、「黙りて人に見せをりにけり」の「黙りて」が、少し気になって来る。「人」は誰なのか。もしかしたら夫ではないか、と私は疑う。この歌の失われた人は、男だろうか、女だろうか。もしや作者がひそかに思いを寄せていた異性ではないか、と疑う。もとの歌集のどこにこの歌があったかを、私はすでに忘れている。 最近、鈴木竹志が『孤独なる歌人』という評論集を出して、その中で河野愛子に多くのページを割いていたのを思い出して、取り出してみる。右の歌は引かれていないが、次の歌が引かれていた。

  みづからの脂に燃ゆる魚ひとつ寂しさや或ひは柩のなかも

 かなり直接的な歌で、思い切ったところのある歌だ。これは、焼かれるのが自分の肉体である、ということを押さえて読む必要がある。河野愛子は、時に残酷な観察もよくするリアリズムの徒でもあった。そう言えば正岡子規には、「死後」という随筆があった。あの文章では、棺桶の上に土がかぶせられて重いだろうし、苦しくていかん、というような口調に漫文の要素があった。この歌には、そういうユーモアはない。しかし、右の歌の存在からも河野がいかに「脂」にこだわっていたかは、理解できるのである。

 次に中川佐和子の『河野愛子論』を取り出してみる。花の歌をとりあげた章では、「死というのは、河野愛子にとって一貫した主題であって(略)本質的に、死と結びつく花の把握もかなり固有な視点である。」と書かれている。まったくその通りで、そこに河野の癖のようなものがあったと言えるし、今だから言えることだが、それはまた河野の歌の世界の狭さでもあったかもしれない。「河野」は「アララギ」のあとは近藤芳美の「未来」に活動の中心を移した人で、初期「未来」の歌人は、生真面目なピューリタン的な人々という印象が私にはある。河野はいつも真剣で悲劇的である。いま渡辺良さんが遺歌集に取り組んでいるが、金井秋彦のことが、私はずっと気になっている。彼も同じような雰囲気を持っている歌人だ。

 5・雑記
〇 『折り折りの人』Ⅰ、Ⅱ(昭和四二年朝日新聞社)。Ⅰ巻に土屋文明の人物をめぐる回想記が入っている。永井龍男の中原中也回想の小文もある。中川一政が岸田劉生のことを書いた文章もいい。

〇 飯島耕一・加藤郁乎共著『江戸俳諧にしひがし』(二〇〇二年みすず書房)。この本は秀句がたくさん引かれていて目移りがしてしまう。買ってから十年も放ってあったが、いい本だ。二人して、我らは芭蕉ではなくて其角を推す、というのである。

  から鮭の口はむすばぬをならひかな   加舎白雄

〇 ふだん微温的な作品が多い近世和歌を読んでいると、比較して「七部集」の味わいが実に鮮烈に感じられたりするのだが、この縁で岩波新書の堀切直人著『芭蕉の門人たち』も読み出したが、読みやすく有益な本だった。

  くろみ立沖の時雨や幾所   丈艸

 先日は岩波文庫の『七部集』の後半を切り離して持ち歩いた。これは、おしまいの方を見ていて目にとまった句。

〇続けて柴田宵曲著『蕉門の人々』(岩波文庫)を毎日の通勤電車のなかの楽しみとしたが、これは名著。一粒食べて百倍おいしいキャラメルのような本。

  重なるや雪のある山たヾの山      加生

  石も木も眼に光るあつさかな      去来

  山がらは花見もどりかまくらもと  丈艸

〇 依田仁美著『正十七角形な長城のわたくし』(二〇一〇年北冬舎)。同歌集『異端陣』(二〇〇五年文芸社)。会えば武道を行き方の根幹に据えている人らしく、痛快な人柄だった。第一歌集『骨一式』の

  個人史を溯るため水を飲む水が耳よりあふれ出るまで

が私はいいと思う。

〇 中井正義著『短歌と小説の周辺』(平成八年沖積社)。千代國一や村松英一をはじめ「国民文学」の未知の歌人のよい歌を紹介している。

  穏やかにこの健太郎がうかびつつ流れゆく見ゆ南無阿弥陀仏
  
            井上健太郎歌集『烏そして街』より。  

権力と富とが奪ひ去りしあとの塵のごときをわづかに食へり

            大塚泰治歌集『恵我野』より。

〇 菊池孝彦歌集『星霜』。高瀬一誌を師と仰いだ人らしい作品が見える。

  非常口開けて出づればなんとせう「外界」がそらつとぼけてゐたり
                              菊池孝彦

 ラカン派の精神科医だということは、「短歌人」の記念会に出なければ知らないままだっただろう。顔を見に行ってよかった。

〇 池澤夏樹『バビロンに行きて歌え』(新潮文庫平成五年刊)。以前読んだらしいのだが、まったく記憶がない。たしかに自分のものらしい栞がはさんでるページがあった。

「誰も人がいない世界で歌われる歌に共感できる者とできない者がいる。大波の中に身を隠してでも、その声を避けたいと思う者がいる。人のいない世界から聞こえてくる声に陶酔する者と、その声の聞こえないところまでひたすら走る者がいる。」

 この歌を歌っている小説の主人公は、レバノンから国外脱出して来たアラブ人の元コマンドだ。それに対して、私が日々接している文学、俳諧や和歌は、人恋しい世界だ。

『大野一雄 稽古の言葉』

2017年01月22日 | 舞踏
『大野一雄 稽古の言葉』という本がある。

大野一雄の言葉を読んでいると、そもそも価値観の基準というようなものを置いている場所が、ぜんぜん凡百の人間とはちがっているのだ。こんなふうに生きられたら、われわれはもっとしあわせなのだと思う。ラスコーの壁画のえがかれた先史時代、それから縄文時代などは、大野一雄みたいな人がたくさんいて、この本に書いてあるような言葉を、みんなに話しかけていたのだと思う。

そこでは詩が現実で、人間の生は、詩や舞踏と不可分だったのだ。

最近思うのは、クリアな映像、画像、写真が、人間をしあわせにするとは限らないということだ。特にハリウッドの特撮映画を見ていて、そう思う。繊細緻密にして非情だから、敵はあっという間に死に、主役は最後まで生きのびる。

「目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできてて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすいようにしてありますか。」
                 『大野一雄 稽古のことば』より

ずいぶん前にアトリエのレッスンに一度だけ参加して、大野一雄のことを歌に作ったけれども、歌人からはほとんど反応がなかった。

百萬年タンポポの絮は舞つてゐた大野一雄の額につきて
                『東林日録』(1998年2月刊)

いま読むと、楷書の歌だ。当時はこれがせいいっぱい。


原田喬『曳馬野雑記』より 短歌採集帖(4)

2017年01月20日 | 
 これは大正二年生まれの静岡県の俳人の随筆である。購入した理由は、次の齋藤瀏の歌が引かれていたからと、阿波野青畝のことを「せいほさん」と呼んでいる文章が目に入ったからだ。

戦は人間のことか大明湖の青蘆原になけるよしきり   齋藤瀏

 当時筆者が愛読していた改造社版の『現代短歌集』の中の歌だという。いまの大明湖(だいめいこ)は済南地方の観光名所だが、戦争と長く続く政治的な混乱によって荒れていたのだろう。これは、斎藤瀏の歌を当時の読者が、どのように読んでいたかがわかる資料として貴重である。筆者は書く。

「茫々たる青蘆原。「戦いは人間のことか」と自らと神に問う。兵もたくさん死んだろう。この青蘆原は実に凄まじい。真っ青に燃えている。」

 これに続けて筆者は、手元の「歳時記」では、青蘆原の景色が「涼しさを誘う」ものだと記してあるが、自分は青蘆原を「見て涼しいと感じたことは一度もない」と書いている。ここには、ただ審美的に自然に向かう態度を疑う感性がある。季題の持っている本意と、その本意からの外れゆきへの鋭敏な感覚が感じられる。

 筆者はもう一首斎藤瀏の歌を引いていた。

否と言はば火蓋きるべく整へて言やはらかに我が告げにけり       斉藤瀏

 この歌は、実にきな臭い。「否」というのは、こちらの勧告に従わない敵軍の事であろう。相手に軍事的な威圧をかけているさなかの指揮官の心中をのべた歌である。こういう歌が戦後読まれなくなったのは、無理もない。しかし、それをなつかしく思い出すのは、大正二年生まれの人の感覚ではある。

 とは言え「戦は人間のことか」という言葉を発するのは、軍人としては異例のことだろう。超越的な視点から自分たちの従事している戦争というものを俯瞰している。そうして人間の空しい戦いに無関係な「よしきり」に心を寄せる。二・二六事件を契機に軍の中央から外に出されたという経歴を持つ軍人の、脱俗の気風を見せた歌でもある。「否と言はば火蓋きるべく」というような具体的な事実に立脚して歌う手法は、戦時下の「アララギ」の戦争詠とも共通する。と言うより、こんなふうに戦地での心情をのべるかたちを斉藤瀏の歌は先行的に示すものだったのかもしれない。





ブルース・チャトウィン『パタゴニア』

2017年01月17日 | 
 年末からずっと頭痛がひどくて、脳を検査してもらった。別に異常なし。昨年は腰の椎間板ヘルニアになり、それは痛みも消えて一応直ったのだけれども、今度は首の骨が変形していることが、その時のレントゲンで判明した。それが痛みの原因らしい。あーあ。それで、本の話でも書いてみようかと、思った理由は、このつながりが自分でもよくわからないのだけれども、いたた、いたた、と言いながら年末に読んでいたのは、

池澤夏樹編集の世界文学全集に入っている『パタゴニア』ブルース・チャトウィン著。芹沢真理子訳。

私はたまにケーブル・テレビでやっている西部劇を見る事があるのだが、この本には、そういう西部劇の何十本分の内容が、ぎゅっと一冊に詰め込まれている。南米に渡ったヨーロッパからの移住者たちの話と、彼らがかかわったインディオたちとの交渉史をベースにして、筆者が次々と生き残っている人々を取材しながら訪ねてゆく紀行文は飽きない。年末年始は、本はほとんどこれしか読めなかったのだが、十分に埋め合わせとなる一冊だった。そもそも私がパタゴニアに興味を持ったのは、椎名誠の『パタゴニア』という本を読んだからだったのを今思い出した。

しかし、現代は地図にあるパタゴニアの地名を検索で打ち込むと、すぐにペンギンの写真やら、人の気配があまりしない家屋や、港の船の写真などをすぐに見る事ができるのだから、世の中も変わったものだ。日本では、私は行ったことはないが、たぶん十三湖とか、そんな感じの人の気配の乏しい土地なのだろう。それでもしっかり文化の伝統と言えるようなものがパタゴニアにはあるのだ、ということを著者は熱っぽく語っている。パタゴニアは人間の希望や夢と、失意や幻滅とが交錯する土地なのだ。そこに人間の感傷とは無関係な自然が、あかるい虚無のすがたで佇立している、これはそういうパタゴニアを愛してやまない人のつづった旅行記である。