さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

高田宏臣『土中環境』

2020年11月07日 | 地域活性化のために
 以前農学部受験の生徒のための本を捜しているなかで、これはすごいと思ったのが岩波新書の『日本の美林』だった。これに加えて、ダム建設と治山植林の今後について指針となるような本の決定版が最近になって出た。本書は従来の「水脈」という考え方に加えて、気流の流れを重要な環境形成要素とする「通気浸透水脈」という用語を提示する。

「通気浸透水脈は、菌糸の膜を通して染み出し、周辺土中を涵養し、土中の余剰水分を集めると同時に不足分を補うという、土中環境の適度な湿度を保つ働きをします。」
73ページ

ということで、本書は、河川の川筋の自然・森林環境と地盤・岩盤の関係を一体のものとしてとらえて、土石流によって打ち破られてしまう砂防ダムにかわる河川の保全と補修のあり方について、根本的な提案を行おうとするものである。

「上流域の河川における土砂の堆積や河岸の崩壊は、伏流水の停滞に伴い、土地が流亡しやすい状態となり、さらに豪雨の度に大きく水位変化するが故に生じます。伏流水の停滞や、流域の通気浸透不良が解消されない限り、土壌の安定構造は得られず、増水の度に川底はえぐられて土砂の流亡が続きます。流亡した土砂の堆積は川底の空隙をますます目詰まりさせ、涌き水を停止させています。
 やがて周辺の樹木の幹枝にカビやコケが生じるなど、森の痛みが目に見える形で進行し、土中の滞水による深部根系の枯損や樹勢の後退という症状が、顕著に読み取れるようになります。
 こうした不安定な河川や谷筋を伝ってさかのぼると、多くは防砂ダム(治山ダム)に行き当たります。(略)
 土砂流亡を防ぐ目的でつくられる砂防ダムは、日本では100年ほど前から建設が始まり、災害予防および経済対策として戦後、昭和30年代から本格的につくられてきました。その総数は把握しきれないほどで、現在、日本全国に何十万基と設置されています。もはや自然のままに呼吸する川を探すことは困難な状況です。」
                                 120ページ

本書は単純な「自然保護」の掛け声とはちがった技術的な代替案を考案する基盤を提供するもので、筆者の考え方をベースにした学際的な取り組みによって、今後の日本の河川、林野の土木計画が抜本的に生まれ変わる可能性を秘めている。

そうして山が生まれ変われば、ダムでせき止められていた枯葉の含む金属イオンの栄養分が海に流れ入って、漁獲量も劇的に回復する。沿岸漁業は、六十年前の漁獲量のせめて半分でも回復すれば大したことになるだろう。海と山の再生は密接に連関しているのである。最近の特に九州の山林崩壊を目の当たりにして、ますます著者の提言は意味を持ち始めている。

それに本書の主張する内容は、大手ゼネコンや地方の土木業者の利益を決して損ねるものではなく、長い目でみた時には半永久的な河川改修や林道の補修の仕事を用意するものであるだろう。まずは改善箇所の見極めと不要な砂防ダムの撤去、それから選定された地点の掘削と川底浚い、護岸の手当をするだけでも相当の予算出動が見込まれる。治水行政の根本的な転換は、誰にとっても益となるのである。

 特に地域の活性化と再生を考える人たちは、本書を必読書とすべきである。

国有林野管理経営法「改正」について

2019年05月18日 | 地域活性化のために
今日の新聞をみると、国有林野管理経営法改正のニュースがのっている。これは水道法の改悪や種子法の撤廃などと等しい。どの法改正も外資がはいりやすくする、という点では一貫している。

※ 皆伐した山林の植林が進んでいない現状について、「毎日新聞」の9月15日 日曜日朝版に報道がある。

豪雨災害の時代にこういう法律改悪をする感覚は、まったく理解できない。早々に植林を義務付けるように改正すべきである。

これには国の援助も必要だろう。募金を募るやり方もある。

水道と、名著『日本のリアル』(PHP新書)

2019年02月15日 | 地域活性化のために
 水道法が改正されてから、しばらくたった。 ※ 本文は、翌日に加筆訂正した。

水道に関しては、名著『日本のリアル』(PHP新書)のなかで養老孟司と対談している畠山重篤のような人の意見も私は聞いてみたい。この対談で畠山氏が示唆していることは、ダムと水道をセットにする考え方の変更である。

この本には、衝撃的な記述があった。

「実は、昨年、とんでもないものを見ました。世界遺産の白神山地に行ったのですが、あそこの岩木川をずっと遡っていくと、だんだんブナが多くなって、ああ、きれいだなと思ってさらに進んでいくと、その奥の方で津軽ダムという巨大なダムをつくっているんです。白神山地の喉仏にあたるような場所にです。

 白神山地は世界遺産として守ると言いつつ、その奥ではダムをつくって森の養分を止めてしまう。
この国はそういう国だったのかと思いました。」(132ページ)

 植物は窒素やリンを取り込むために、微量の鉄分を必要としている。山の枯葉は、その腐食する過程でフルボ酸を生み、それが鉄イオンと結びついてフルボ酸鉄となった時に植物が鉄を吸収しやすくなる。それをダムでせきとめてしまうと、そこから下に山の栄養分がいかなくなる。これは海も同じで、ダムが川にあると、海に山の栄養分がいかなくなる。

 上流のダムは、山を栄養不足にし、海も栄養不足にする。小田原では1954 年まで年間60 万匹もとれたブリが、いまは年間に600匹しかとれない。「なぜかというと、丹沢の川から相模湾に流れ込む三本の川がすべてダムで止められてしまったからです。」(127ページ)

 根底的な発想の転換と、都市設計とインフラについての斬新なアイデア、それがもとめられている。水田の活用や、ため池の活用、ビルや家庭における湛水の仕組みの変更その他、やるべきことは山ほどある。

 目標としては全国的に作りっぱなしのダムを撤去したらいいのではないかと思うが、それにかわる方法を編み出して、山の栄養がせきとめられないような水の動かし方を研究して実践したらいいと思う。

 これは素人の思いつきだが、ダム底の土をスクリューで土ごとかき混ぜて粉砕しつつ、汲み上げて下流に流す装置を作れば、この弊害を少なくできるだろう。電力は直下の水力発電がある。または、川からダムへの入水口の水を一定割合、最初から川に誘導しておくとか、俎上する魚用に別途のパイプを設けるとかして、死滅状態のダムを再生するといったプロジェクトを導入すれば、一定割合で地域に恒久的にお金が回ることになり、そのお金は一定の需要を喚起するから、もともとお金が落ちて来ない地域にも周り回っていくはずだ。

 とにかくこれは沿岸漁業が再生するから、一石二鳥である。そうしてたとえば神奈川では相模湾に魚をもどせば、小田原の漁業も復活するということになる。

休耕田に一年中水を張るのもわるくない。養老氏の対談集は、無限の示唆に富んでいる。 

松谷明彦『人口減少時代の大都市経済』 1

2018年08月13日 | 地域活性化のために
 私は以前にも書いたことがあるけれども、今の時代の問題を解決するにはどうしたらいいのか、というようなことについて書いた本は存在するし、きちんとアイデアは出されているのである。賢者の言葉というものはすぐそこにあるのであって、要は、それをまともに受け止めて、どうしたらいいのかということをきちんとプランニングしてゆけばいいだけなのに、それをしていない。手をこまねいている。無為無策である。それではだめだ。

たとえば、松谷明彦の『人口減少時代の大都市経済』をめくっていて、本当にそうだなあ、と思った部分がある。

「歴史的な経緯もあるだろうが、ヨーロッパの都市には、必ずと言っていいほど市街地の中心部にスクェアと呼ばれる空地が存在する。まさに空地というべきであり、周りにあるのはシティーホールや教会といった公共建築物ぐらいのもので、さらには周りはすべて道路といった空地も多く目にする。どこも随分と人で賑わっていて、日がな一日絵を描いている人もいれば、読書をしている人もいる。たいていはパラソルかテント張り程度の仮設のカフェがあり、わずかなお金で昼食までとれる。高齢者も多いが若い人も結構いて、制服を着た若い保母たちが子どもを何人も乗せて乳母車を押しているのも日常的である。そうしたゆっくりとした時間の流れのなかで、都市に住む人々の双方向の「関わり合い」が年齢を超えて進行している。

 およそ日本では見かけぬ風景である。まず日本にはそうした空地がない。探すとすれば公園だが、日本の公園は遊具やモニュメント、通路といった施設が密度高く配置されていて、人々がくつろげる空間はないに等しい。また、使用目的を特定して事細かに作られているため、利用の仕方まで決められている感があり、人々が思い思いに時を過ごすなかで、ごく自然に関わり合うという場からは程遠い。

 いま一つは、市街地再開発事業等によって生み出された都市空間だが、たいていは周りがすべて店舗や飲食店で、それらの店に用のある人だけが利用し得る空間、いわば店頭の一角というのが正確なところだろう。なぜならそこでお金を使わずに時間を過ごすことはおよそ不可能だからで、ヨーロッパのスクウェアとの比較では都市空間と呼ぶことすら躊躇される。」(略)

「しかし人口減少社会にあっては、お金をかけずに時間を過ごせるということが飛躍的に重要になる。前節で、これからは生涯を通じた年平均所得が減少する、人々はお金のかからない生き方を探し求めるべきだと述べた。そして、高齢社会だからこそ年金制度は維持し難いのであり、もっと多くの政策手段によって多様な高齢者対策を講ずるべきだとも述べた。だから空地が重要なのである。」

 ポケットにお金がないと、日本の都市には居場所がない。すべてが資本に買われているスペースであり、ぎっしりと利害のからんだ地面しかない。通り過ぎている分には気にならないが、一定時間お金を使わないでそこにいたいと思って見まわしてみると、おどろくほどくつろげる場所がない。そもそもベンチの数が乏しい。スクエアの有無という観点から比較してみるなら、日本の大都市は絶望的なまでに貧しい姿を示しているのが現状である。

「…お金を渡すことで高齢者の生活を支援するのではなく、高齢者の生活コストを引き下げることでその生活を支援する。ここで言えば、年金というフローで対処するのではなく、都市内の空地といストックで対処する。そうした政策の転換であり、多様化である。」

 ここでいう「公園」は、建物の中の部屋などでもかまわない。そういう使われ方をする空間を行政や地域の資本が協力して生み出す構想力が、ここではもとめられている。

 財布に一円もお金を入れないで一日街で快適にすごせるかどうか。市会議員や市役所のメンバーがそうやって一日を過ごしてから議論をする、というような体験方のワークショップが有効だろう。学生さんたちもやるべきだ。もちろん国会の「勉強会」の方々も、この本をテキストにしておやりになったらいいかと思う。

人口減と地方の課題

2018年04月16日 | 地域活性化のために
平成の大合併の後に、役場を失った市町村は、人口が二割近くも減っていた、という事実が総務省の人口調査からわかった。これは少し前の「毎日新聞」の記事だけれども、こういうまとめ方は、事柄の本質をきちんと示したものであると思う。それにしても、今後の日本社会の人口動態は予断を許さない。首都圏への人口集中と地方の過疎化、これをとどめるにはどうしたらいいのか、こういうことを私はその新聞記事をもとにして学生たちにも考えさせようと思っている。

 これに多少関連するが、しばらく情報収集を怠っていたら、いつの間にか滋賀県が長野県を抜いて日本一の長寿県になっていた。長野県は野菜をたくさん摂取するかわりに、世間で言われていたほど塩分の消費が減っていなかったということで、これは長野県では滋賀ショックとか言っているらしい。大勢の人の取り組みというものは、ほんの数年でも大きな差となってあらわれる、という事実がここからわかる。

このことから過疎化の阻止という事についてもヒントを得ることができる。一県単位の人々が集団でひとつの事に取り組めば、その成果は必ず四、五年から十年ほどのうちに目に見えるかたちで現れる、ということだ。だから、地方の政治や行政というもの、地方における自発的な運動や取り組みというものは、大事なのだ。自分の住んでいる地域では何をしたらいいのか?自分の住んでいる地域の二、三十年後をイメージした時に、いまから何をしていかなければならないのか。そういうことを若い人を中心にして真剣に話し合う場を作っていくことが必要だ。発電や、地場産業のあり方、後継者のいない農家の農地や遊休地の利用法、企業や研究所や学校の誘致など、さまざまな事象と絡めて総合的に考えたい。そういうことを中学生や高校生に考えさせたい。

毎日農業賞というのがある。これを見ていると農業高校の生徒が賞を取ったりしている。しかし、自分の住んでいる街の未来の産業を考える、ということは農業だけに限らない。過疎化の現状を憂える、という危機意識が、もっとその地域の心ある人々に共通のものとならなくてはならない。空き家。遊休地。休耕田。孤独な高齢者。介護難民。医師の不足。交通機関の赤字。若い人の都市への流出。こうした負のイメージがある現実について、逆転の発想でそれを変えてゆくようなアイデアを考えたい。本気でコーディネートし、人と人とをつなぐ事業を構想すること。

私が「君たちのうちの何人かは、将来市会議員になってもらいたい。」などと言うと、若い人たちはみんなげらげら笑う。現実のこととして思っていないし、自分は関係がない事だと思っている。どうもそのあたりで大きな勘違いがあるような気がしてならない。地域があって今の自分がある、ということを実感していない。へたにネットがあるために、みんなが東京都民のような感性でいられるものだと思っている。首都圏一極集中予備軍というような感性、これでは発明も工夫も育たない。あなた任せのまでは責任の意識が育たないのである。


デジタル時代のダイヴァーシティー

2018年02月09日 | 地域活性化のために
雑誌「WIRED」の最新号のタイトルは、「<わたし>の未来 Identity  デジタル時代のダイヴァーシティー」である。

 巻頭の編集長のエッセイは「最適化されてはならない」である。実に明確なメッセージだ。現下の情報差異消費資本主義に対して、われわれはどう向き合ったらいいのか。各人の心身の消費不可能な<辺境>としてある、脆弱な<趣味>や<美意識>の徹底的な洗練と自覚を梃子にして乗り切ろうとすること自体は、ほとんど不可能なのかもしれないが、そういう不可能への願いとして、この雑誌のコンセプトが提示されている、ということは、稀有な事である。趣味が良くなければ洗脳を解くことはできない。美意識に目覚めなければ、生成し続けるシステムに対して抵抗することはできない。さらには、システムの再生産の中でも置いて行かれるのだ。ということだろうか…。

 第一に、表紙が美しい。これは某週刊誌の表紙とはまさに一線を画している。国分功一郎と熊谷晉一郎との対談という思想のデザインの仕方がいい。その対話を彩るYOUSUKE KOBASHI の絵が、みごとにこれに照応している。

たぶん今は封印されている種々の問題についても、若手のルポルタージュや写真をあくまでも全体の均整を損わないなかで少しずつ載せてゆくというかたちで紹介することは、この雑誌なら可能かもしれない。ほかに気になる記事をあげると、ネットという谷間の話。ロスタム・バトマングリのはなし。ツクルバの提案。おもしろい。こういうクールな雑誌を一部の若者だけのものにしておくのはもったいない。オジサンたちものぞいてみるべきだ。

※2020年12月13日に再度アップする。

道州制についての参考資料

2017年10月14日 | 地域活性化のために
道州制という、一見すると人聞きのいい言葉に、実際の現場からコメントを寄せている団体がある。
「道州制の何が問題か」は、道州制から出て来る問題を指摘したものである。

以下、全国町村会(会長:藤原忠彦長野県町村会長・川上村長)のページより引用する。

 「全国町村会は本日、衆議院予算委員会の審議状況等を踏まえ、「道州制基本法案」の今国会への提出が見込まれることから、 改めて全国町村会の考えを理解いただくため、衆・参国会議員に対し、全国町村会長書簡とともに、「平成24年11月全国町村長大会特別決議」及び「道州制の何が問題か」を 配付しましたので、ご報告いたします。
  
【参考資料】
    
・(資料1)全国町村会長書簡(PDF)   
・(資料2)平成24年11月全国町村長大会特別決議(PDF)   
・(資料3)道州制の何が問題か(PDF) 」

この資料3をぜひごらんなって、道州制を言っている政党に投票することが果たして良いことかどうか、皆様ご検討ください。以下に (資料3)道州制の何が問題か(PDF) の一部を紹介する。

□ 道州制によって、地域間格差は是正されるのか  

◆ 道州制は、税源が豊かで社会基盤が整っている大都市圏への富の集 中を招き、地域間格差は一層拡大する。

道州制推進論は、「道州制を導入すれば、日本の各圏域が経済的に自立し、さらに自らの創意と工夫で発展を追求することが可能な国の統治体制ができる」 と主張している。
しかし、道州間の競争では、税源の豊かな東京や、既にインフラが整っている地域が明らかに有利である。道州制によって、一極集中が是正されるどころか、ますます加速し、地域間格差は拡大する。

◆ 道州内の中心部と周縁部の格差が拡大する。

道州内でも、州都への集権、投資の集中が強まり、州都以外の旧県庁所在地や、周辺の中小都市、農山漁村を多く抱える町村は衰退する。これにより、道州内の中心部と周縁部の格差も拡大する。

◆ 道州間競争によって経済的不利益を受ける地域も生まれる。道州制では、そうした地域へのセーフティネットは考慮されていない。

地域間競争によって、大都市や道州の州都など経済的メリットを受ける地域が出る一方で、不利益を被る地域も必然的に生まれる。しかし、道州制論では、そうした地域に対するセーフティネットは考慮されていない。これまで格差を 是正するセーフティネットを担ってきた国は、道州制によって機能を大きく後 退させる。地域間競争によって経済的不利益を被り、疲弊した地域を誰が救済 するのか。切り捨てよと言うのであろうか。

そもそも、道州制という統治機構の変更を経済政策の一環として捉える議論は、経済問題を統治のかたちの問題にすり替えているのではないか。

□ 道州制によって、税財政はどうなるのか。

◆ 道州制推進論は、税財政をめぐる議論を先送りにしている。道州制の導入後、町村の財源がどこまで保障されるかは不明である。

これまでは、全国レベルで都道府県・市町村の財政調整・財源保障を実施してきたが、道州制導入後の制度設計について、道州制推進論は議論を先送りにしている。道州間の財政調整に関してはいくつかの案が提示されているが、町村の財源を「誰が」「どこまで」「どのように」保障するのかは、明らかでない。

仮に道州内の市町村の財政調整、財源保障が、道州庁の判断に委ねられるとすれば、道州によっては、選択と集中の論理により、都市部に手厚く財源を配分するところもあるだろう。財源の乏しい道州では、市町村に十分な財源保障 ができない恐れがある。こうして、道州や市町村によって社会保障・社会基盤 整備の格差が生じる可能性が大きい。

◆ 税財源が国から地方に移ると同時に、700 兆円を超える従来の国の債務の大部分も、地方に移管される可能性がある。

 赤字国債、不足する交付税財源の 穴埋めとして発行された臨財債を償還するための財源を、誰がどのように確保するのかも、大きな問題である。
また、これまでは国が暗黙の債務保証をすることによって地方債の信用力を担保してきたが、道州制導入後はどうするのか。

◆ 建設国債について、個々の事業単位で道州に移管すれば、開発の遅かった地方に、債務が集中する可能性がある。

 さらに建設国債について言えば、開発の遅かった地方に債務が集中することとなる。なぜなら、早くから社会基盤整備が進んだ地方は、事業に伴って発行された国債の償還が進んでおり、承継する債務も少ないが、社会基盤整備が途 上にある地方は、事業に伴って発行された国債の償還が進んでおらず、承継する債務も多くなるからである。

 これまで国が行ってきた財政調整・財源保障を、誰がどのように承継するのか。国の債務を誰が承継するのか。いずれも道州制 推進論では明らかにされていない。
特に、町村の財源がどこまで保障されるかは、まったく明らかにされておらず、将来的に、道州や市町村によって、社会保障・ 社会基盤整備の格差が生じ、住民生活の混乱を招く可能性が大きい。

□ 道州制は、町村を合併・消滅に追い込み、自治を衰退させる。

◆ 都道府県の事務を承継できない小規模町村は、「基礎自治体」として認められず、「自主的な再編」と称して「合併」を強いられる。

道州制が導入されれば、「基礎自治体」は、従来市町村が行ってきた事務に加えて、都道府県の事務も承継することになる。逆に言えば、都道府県の事務を承継できない市町村は、「基礎自治体」たりえないこととなる。

自民党の道州制基本法案には、「基礎自治体は、住民に身近な地方公共団体として、従来の都道府県及び市町村の権限をおおむね併せ持ち、住民に直接関わる事務について自ら考え、自ら実践できる地域完結性を有する主体として構 築する」と定義している。

 「従来の都道府県及び市町村の権限をおおむね併せ 持つ」ような「基礎自治体」とは、実際には、人口 30 万以上の中核市や人口 20 万以上の特例市をイメージしたものである。「地域完結性」を強調すれば、 「基礎自治体」間で事務の共同処理や広域連携は不要であるという考えにつながり、一定の人口規模と行財政能力を判断基準にして「基礎自治体」が整備さ れることになる。

 合併とは明記されていないが、「基礎自治体」の設置基準が市町村合併を前提としていることは明白である。道州制のスタートまでに市町村合併が先行されるかどうかは定かではないが、事務権限の受け皿を整備するという名目で必 ず合併が進められることになる。表向き強制的な合併とは言いにくいため、「自 主的な再編」を促すのであろうが、「平成の大合併」の経緯と結果を見ても、これまで以上に市町村の自主的合併を推進することは不可能であり、事実上「強制合併」に近い方策がとられるだろう。

そもそも、自民党の道州制基本法案には、「市町村」ではなく「基礎自治体」という名称が用いられている。そこには、町村の存在意義を否定する危険な考え方が潜んでいる。

◆ 道州制に伴う事実上の「強制合併」により、これまで町村で培われてきた自治は衰退する。

以上のように、道州制が想定している「基礎自治体」は、「基礎」という意味合いが曖昧になるほど大規模となり、本当に住民に身近な場所で自治を実現する「基礎的な地方公共団体」になりうるのか、極めて疑わしい。

自民党の道州制基本法案は、合併によって消滅する「従来の市町村の区域において、地域コミュニティが維持、発展できるよう制度的配慮を行う」としている。しかし、町村と異なり、「地域コミュニティ」には国や道州からの財源保 障はなく、「地域コミュニティ」内の住民の判断を終的にどう扱うかは、合併によって新設された「基礎自治体」に委ねられることとなる。失われた町村の 自治を「地域コミュニティ」で代替できるわけがない。 (以下略)

 川柳を一つ。 草々のものがたりなり石の数

 また一つ。  買い支え味噌くそ一緒あべこべこ (モ~ ℧) 


『語る藤田省三 現代の古典を読むということ』を前にして考えたこと

2017年08月19日 | 地域活性化のために
 藤田省三が少人数の自前の寺子屋のようなセミナーで語った言葉を口述筆記として起こして、それに詳しい注と解説をつけたのが本書である。江戸時代の思想家、荻生徂徠について述べた一節が実におもしろいので引いてみる。

「そうすると、統治というのは何なんだい、ということになるわけです。仁とは何だということですね。儒学者ですから。そして仁の解釈が朱子学者なんかと違うわけです。朱子学者や普通の儒者は、仁というと慈悲の心だとか、大体心のことばっかり言うわけです。仁とは心のことじゃないのだ、憐れむ心だとかそんなもんじゃなく、客観的なものだと。即ち、仁とは面倒をみることなんだ、と。食えるようにすることなんだ、と。正業にちゃんと就かせること、それができなければ仁じゃないのだ、というふうに、非常にきっぱりしたところの、社会的行為として仁を定義するわけです。」 (藤田省三)

 〇つまり、現代でいうと、待機児童を百パーセント減らすとか、離婚した母子家庭の養育費を出さない元配偶者のかわりに国が一時立て替えする制度を諸外国並みに作るとか、介護施設で働く人の賃金が上がるように抜本的に制度を見直すとか、大学などの高等教育の奨学金の枠を見てくれだけちょこっと拡大するのではなく、もっと拡大するとか、介護の等級をもう一度見直して、先に軽度の人への給付を削減したこと(これが自民党が負けている原因のひとつ)を反省して、もう一度考え直すとか、新しい貿易協定によって農業者の実情・実態を無視したこと(これは今後自民党が必ず負ける原因のひとつ。だって、現場の話をぜんぜん聞かないでトップダウンで決めてしまったわけでしょう)を反省するとか、庶民が「食える」ようにする政策を、こまめに真摯に徂徠のように「俗情」に徹底的に通じることによって、実現していく必要があるわけである。   (さいかち亭主人補足)

「そういう心の中のことばっかり言っているから、道学者ふうに言っているから、侍が堕落する、つまり、修養主義とか修身主義はかえって堕落の表現だ、と言っています。(略)自分の堕落に対し自覚せず、統治が行われていないということを回避するものである、と。」 (藤田省三)

 〇このあたりは、最近の日本の国の教育者がらみの事件と照らし合わせて読める。 (さいかち亭主人コメント)

 「それでは、統治の回復にはどうすればいいかといったら、とにかく上役のご機嫌をとって、下役を叱り飛ばして、そんな役人世界のことをやっていては駄目なのであって、もっと下情に通じなければならないと言うわけです。」  
(藤田省三)

 〇これはいま潰れかけている東芝とか、実質的に一度つぶれた東電などの日本の大企業が、だいたいここでいうような「役人」社会になってしまった結果駄目になったのをみれば、よくわかる。みんなで朝礼をして、同じ標語を唱えて、という一体感を演出するというような、日本の会社によく見られる習慣が、事業がうまくいっている場合はいいのだけれども、悪くすると同調できないやつはだめな奴だという風潮を生んでしまって、結果的に異質な反対意見や疑問を言う者を排除する雰囲気を醸成してしまう。その結果、悪しき「役人」社会的な会社風土を強化する方向にそれが作用してしまって、会社が「役人」社会化したために滅びかけてしまう、というような望ましくない事態が生じてしまう。そこで必要だったのは、現実を正確に曇りのない目で見ることだったのだ。 (さいかち亭主人コメント)

「(略)中国の禹というのは治水事業をやった昔の伝説上の王様ですね、禹ほどの名人だって、治水するのに川筋を知らなければ、川筋がなければ治水なんか出来やしないわけで、碁盤に目があるように治水するためには川筋が必要だ、と、それと同じことだと言う。制度を根本的に立て替えなければ、統治、即ちこの社会状態を、社会問題を解決することは出来ないのであると言うわけです。統治というのは、別に内閣を取りまとめて、総務会や内閣を作ったりすることなんかではなくて、統治とは社会問題を解決することだという観点が、徂徠にはあるということがわかりますよね。」 (藤田省三)

 〇現代の「川筋」はどこにあるか。以下は、私の考えだが、徂徠の言うような、根本的な制度の「立て替え」のためには、要するに地方に財政の主導権を手渡し、地方の経済的な裁量権を拡大して、中央の自由にできる金の額を減らすこと、見てくれの、実はけっこう紐付きの「地方交付税」などのあり方を抜本的に見直すというような、大胆な政策の改編を行わなければ、もう日本全体が立ちゆかなくなっている。
 そうやって根本的な「内需」拡大策をとらなければ、どの道ジリ貧になって首都集中、地方の衰退・縮減ということは避けられない。
 若い人の地方移住を促すとかなんとかいう小手先の手法を弄しているだけではだめなのであって、根本的に地方に資財の動かし方の主導権を預けなさい、ということだ。それができないから、財務省をはじめとして、中央の「役人」は、これこそ最大の「抵抗勢力」となってしまっている。
 しかし、ここは中央も地方もニコニコできるシステムを作るのに越したことはない。「天下り役人」が左うちわではなくて、一心不乱になって働けるような現場を作る事、そういう「制度」をうまく立ち上げることができれば、かえって国全体の知恵の血液がうまくめぐるようになるのではないかと私は思う。 (さいかち亭主人コメント)

無限の示唆に富んだ本書を、ぜひみなさんも手に取ってみたらよろしいかと存じます。

※ 追記。 今日8月24日の新聞を見ていたら、今後地方の高齢者の持っている金融資産が、相続者の多くが大都市に住むために東京などに移動してしまい、ますます地方の金融資産が減って行くという予測が出ていた。いま『トリノの奇跡』という本を読んでいるのだが、フィアットが撤退したトリノが魅力ある都市として再生する条件のひとつとして、EUが投下した大量の資金がもとになっているということが書かれていた。地方都市を生かしもし、殺しもするのは、やはり資金なのであり、それが減っていくようでは地域経済の活性化なんておぼつかない。

地域活性化のために

2017年07月16日 | 地域活性化のために
平井茂彦『雨森芳洲』2004年刊
 巻末に「芳洲詠草」を収める。対馬藩の通訳として韓国語の先進的な学習書などがある芳洲は、和歌を晩学で学び、古今集を千回読んで和歌の調べと詞をものにした。対馬に行ったことはないが、橋川文三の文章を読んでから、一度行ってみたいと思うようになった。

思いついたので、地域で顕彰してほしい人の本を何冊かあげてみよう。

佐藤鬼房『蕗の薹』昭和五十六年刊 ☆釜石
 詩の守備範囲が広い。狭量な詩歌人には薬。文章には、一種異様なまでの前衛的な詩精神が感じられる。この人、釜石は塩釜の人だから、地域で顕彰して大事にしたらいいと思う。

『玉城徹全歌集』2017年刊 ☆沼津
 これは買わなくちゃ、と思って買ったのだけれども、読むひまがない。でも高価で買えなかった歌集が入っているのがうれしい。

うつせみは常なきものと知れれども汲みてわが飲むは不二の涌き水 玉城徹

 この歌は、三島市の柿田川公園に石碑を作るとしたらちょうどいいかもしれない。沼津市は、玉城徹を顕彰する気はないのだろうか。

新村出『朝霞随筆』昭和十八年刊 
 竹柏会関係の短文多く、貴重。若い人は茂吉の研究はもういい。こういう本をしっかり掘り下げるべきだ。

話題は変わって、新村出賞の本を検索して私の興味のある本を抄出してみた。

山口佳紀:『古代日本語文法の成立の研究』
秋永一枝:『古今和歌集声点本の研究』
添田建治郎:『日本語アクセント史の諸問題』
沼本克明:『日本漢字音の歴史的研究: 体系と表記をめぐって』
山口康子:『今昔物語集の文章研究: 書きとめられた「ものがたり」』
加藤重広:『日本語修飾構造の語用論的研究』
由本陽子:『複合動詞・派生動詞の意味と統語』
金水敏:『日本語存在表現の歴史』
佐々木勇:『平安鎌倉時代における日本漢音の研究』
上野和昭:『平曲譜本による近世京都アクセントの史的研究』
工藤真由美:『現代日本語ムード・テンス・アスペクト論』

このへんは、ざっとでいいから、めくってみたいと思ったことである。日文系の学部のある大学で、こういう本が図書館にほとんど置いていなかったら、やばいかも。







広葉樹の植林と橋・堤防の作り直し

2017年07月15日 | 地域活性化のために
今度の九州の水害から考えたことを書く。これは何日か前に書いたものの書き直しである。

 温暖化の進行のなかで今後も豪雨が予想されるため、堤防や橋の作り方を根本的に変える必要のあることがわかった。また、山林の広葉樹林化、または混合樹林としての植林・利用法の研究が必要なことがよくわかった。

広葉樹林の保水性はばかにならない。今度の水害は、戦後の政府主導の植林事業の失敗と位置付けるべきだろう。今後十年以内に、広葉樹林への転換を大急ぎで進める必要がある。ダムなど作っている暇はない。予算や時間がなけれは、森の博士の提唱したポット式植林がいい。とにかく行政が支援して、荒れた植林地と竹林を伐採して、早急に混合林の育成を急がないといけない。これには企業メセナやボランティアもかかわるべきた。

それから、日本全国の河川で、堤防の改修と、橋の高さの変更をすすめていくといいだろう。発想の転換として、歩行者用と自動車用の橋は分離したりして、あらゆる技術的な可能性を追求するべきだ。上流の森の改善がおわるまでは、流木のひっかかりそうな橋は、撤去する。または、あえて流されるような形のものに架け替える必要がある。部分的に近代以前の日本に戻す。

堤防は自然堤防化をすすめる。これにもうひとつ防災のためのアイデアの付加がほしい。とんでもない天災・地災の時代がやってきていることに対して、国家的な危機感を持つ必要がある。

また、山くずれの防止のためには、土木や、営林や、地下水脈の研究者が共同で早急にシンポジウムなど話し合いの場を企画する必要がある。

新聞で農業用水路が発電に使えるという記事を読んだ。山地では、かつて湿地の水抜きのために使った技術を活用することはできないか。これは低コストでできるし、うまくいけば発電とも組み合わせることができる。地中に土管を埋めたり、筧のパイプを何本も地上に浮かせて設置するだけなので比較的楽だ。筧は水がない時にはスプリンクラーとして使って、下に何かを栽培してもいいし、一石二鳥だと思うがどうだろうか。これは大規模な雨樋計画のようなものである。水は、場所によっては下流の水害の起きないところまでパイプで直接運んでしまうようにする。

 そこでは、川ひとつひとつに対して、場所によって、増水した時の水の吸い上げ口を設け、別途に海に排水する設備のようなものも欲しい。大型モーターとホースでできる簡略なものなら何とかなるし、モーターは新たな需要をもたらして、つぶれそうな電気メーカーも助かるだろう。こういうグリーン・ニューディール政策のようなかたちで、公共事業を大手ゼネコン以外の零細な会社に収入が入るかたちで活用したい。

とりあえず水抜きと排水の仕組みを作って、まずは自分の家の裏山が崩れないようにする自衛対策の実施をすることは、山間部の人たちにとっては死活問題であろう。そういう啓蒙活動なり、技術指導というものを、これまで政府や自治体、土木関係の研究者たちはやって来たのか?

※素人意見だが、多少は参考になるかと思って、いったん消してあった文章をもう一度公開する。一部おかしなところを削除し、またアイデアを加筆した。     (2018.1.20)

※恥ずかしくなって消したが、2018年の四月二十日にまたアップする。