さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

姫街道の歌 追記

2017年09月02日 | 短歌 歴史
 景樹の引佐細江の歌のことを書いてから、しばらくして、宮城谷昌光の『他者が他者であること』(文春文庫)という本をタイトルにひかれて買ったら、はじめの方のいくつかの短文に井伊家のことが書いてあった。こういうのもコンステレーションなのだろう。姫街道ゆかりの引佐市の風光について、現代の小説家の筆で語られるのを目にすることができるのは、うれしいことである。

「夕暮れどきの浜名湖ほど美しいものはない。
 湖西連峰のむこうに落ちてゆく太陽の赤みを帯びた光が、青い湖面にきらめき散って、夜の色に混融するまえの色彩のたゆたいは、観る者を陶然とさせてくれる。」「近水広陽」より 宮城谷昌光

 私のパソコンのデスクトップには、引佐細江の写真を使っている。嵩山(須瀬山)には行ったことがないので、いつか行ってみたいと思っている。歌を一首引く。

ましらなく杉の村立(だち)下(した)に見て幾重(いくへ)のぼりぬすせの大坂  香川景樹

○これはすなわち本坂越である。「すせの大坂」は、ことのほか大きい坂である。幅が広く至って高いのである。深い谷を両方に見おろすのだ。杉の梢を下に見る。猿など大きいのが居るのである。すなわち晴天に通ったのである。段々上にのぼって峠に至ると、(今度は)深く下りになるのである。猿などもはるかに下に飛び居る様子なども見えるのである。「すせの坂」というのだ。大きな坂であるので「大坂」と景樹は言うのである。「くぜの大坂」などを例にして(そう)言うのである。 (「桂園一枝講義」より)

 「ましらなく」の歌は、白居易の詩を踏まえた佳吟である。
 
 宮城谷昌光の文によれば、引佐町の龍胆寺の庭は小堀遠州作だということだ。景樹の歌は、片桐石州の「きれいさび」に通ずるところがあると私は思っている。小堀遠州の庭にもそういう要素はあるだろう。冬は寒い風が吹くそうだが、何にせよ、日本一と言っていいくらい風光明媚な地に住んでいたら、心はさわやかで、くだらぬ名望欲や金銭欲とは縁のない生活ができそうだ。


松村正直『樺太を訪れた歌人たち』

2017年08月24日 | 短歌 歴史
 手にしてちょっとめくってみてから、いつ読もうかと思って置いてあったのだが、やっと読む時間がとれた。まじめに書かれたいい本だなあ、というのが一番の感想だ。特に、連載時の文章のあとに各章ごとに置かれた「追記」という短文が奥行きをもたらしていて、評論集としてあるけれども、自由で随筆的な雰囲気を呼び込んでいるところがとても気に入った。歴史を語る時に一つの座標軸となるような場所でありながら、ほとんど振り返るべき<歴史>として思い出されることがあまりなかった「戦前・戦中」の<樺太>は、<満州>と同様に、記憶と遺物と残された印刷物によって再現されるほかないものなのである。それは、きわめて現実的でありながら、でも現実の外側に外れていきたいという、一種の隠遁志向のような情動を常に胸の底にあたためているとおぼしい著者にぴったりの対象だったのではないかと思われる。

 今回私は終章の「サハリン紀行」から読み始めた。そのあとで第一章から丁寧に読むことにしたのである。そこで先にのべたように「追記」の文章のおもしろさに感心した。たとえば、

「奥鉢山の松村英一の歌碑について、本文では「こうして歌碑の場所は無事に決まった。しかし、はたしてこの歌碑は実際に建てられたのかどうか。時代はこの時期、大きな曲り角に差し掛かっていた」と記した。実際に建てられたのかどうか確認できなかったのである。しかし、その後、新たな資料が見つかり、この歌碑が建てられていたことがわかった。」

 こういうところが、いいと思う。しかし、本書の読みどころは、短歌を読みながら、「北見志保子とオタスの杜」の節でシベリアに連行されて非業の最後を遂げたにちがいない少数民族の人たちに言及するところや、それからガイドとして案内してくれた文さんの父親が、何と日本人が帰国したのちも現地に置き去りにされたサハリン残留韓国・朝鮮人の娘であったという話など、歴史の傷口に期せずして触れてしまうところにあるのだ。それをおおげさにならず、淡々と記述する著者の落ち着いた文章のおもしろさが、今回はよくわかった気がする。

今後も「追記」は書いていってほしいし、著者には同様の場所を手掛かりとした本をこれからも手がけてもらえたらいいと思う。鉄道旅行、山めぐり、温泉めぐり、まだまだ松村さん向きの仕事はありそうな気がするが、台湾などいかがですか、とひとつ提案しておきたい。