さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』 1

2016年08月06日 | 現代詩 短歌
 今度の江田さんの歌集は、なかなかおもしろく読めそうだと思ったから、以下に書いてみることにする。まずタイトルがきまじめでコワモテだ。「私のフィギュール」って何だろうか。その「私のフィギュール」に「想像」が「意匠」の傷をつける(ほどこす、変形し、加工し、転用する)のだから、「想像」は、もしかしたら悪いヤツなのかもしれないな。「私のフィギュール」とあって、わざわざ「私の」としてあるところに、短詩型の詩の作者のこだわりがありそうである。そうして、この本では「私のフィギュール」を見てほしいのか、それとも「意匠の傷をつける想像」を見てほしいのか、その両方なのか。こういう直球の題より安井浩司の『氾人』みたいなひねりが私は好きであるけれど。

たとえば「私のフィギュール」が金の玉だとすると、空を飛ぶ金の玉にミサイルを撃ち込んだら、大火花が散って、熱い、熱い。殿様待って。みたいな、こういう突発する言葉の「意匠」の働きが「想像」というものなので、「想像」は、本来暴力的な作用を持つものなのだ。
そういう場所では、私の下半身と上半身は、どうしても分裂してしまい、どんなに大空に火花の華がひらこうが、私の足は暗い大地を踏みしめながら周囲の夜闇に溶け込んでいる。そこで私が見ている光景は、何なのか。「想像」の「意匠」なのか。…やっと頭が動くようになって来た。要するに作者が言いたいのは、次のような問いなのだろう。

遂に詩は、想像は、私のフィギュールに意匠の傷をつけるものでしかない、のか?

これなら、わかる。なんで世界中の詩人が言葉の前で悶え苦しむのかということが、普遍的な問いとして差し出されているのである。と、ここまで書いたところで夏の夕光の反射が、西窓から届いて来た。空の火花よりもこちらの方がうつくしい。

でも、私はわがままな読者にもどることにする。全部で二七篇の詩がおさめられた作品集をめくってみて、私の読み方はこんなふうだ。冒頭の「言葉の内なる旅へ」ちょっと見て、パス。めんどくさい。「兄妹たちの風景」読める。「冬の雲雀」これは、楽しい。「終はることのない祝祭」歌の半分まで読む。悪くない感じだ。「ものはづくし」これ、いいな。ここまで読んで、この文章を書くことを決意。そのまま十日ほどテキストを寝かせた。

「冬の雲雀」とノートに書いてみる
力ない羽ばたきが遠くで聞こえたかと思ふと
たちまちに 雲雀堕つ 柱の傷の水明かり と耳もとで囁く声
「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」
なんども妹に訊ねられ 翼のすれる音が匂いくる 
   
「冬の雲雀」の冒頭部分を引いた。この五行で作者は、伊東静雄から荒川洋治までの現代詩の話法をまとめてたどってみせている。しかも芭蕉の病雁の句まで下敷きにしてしている。
江田さんてこんなに詩が上手だったっけ、と仰天したのだった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿