さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

連休中に ヒカシュー を聞いてみた

2020年09月21日 | 現代詩 短歌
 負けている人は、ヒカシューの「生きてこい沈黙」(2015年)でも聞いたらいいと思う。
聞いているうちに、元気になってくる。

私も負けずに、こんな歌をつくってみた。

  トータスの首のごときものトースターより出でて燃えゆく 焦げよ焦げよ
                        さいかち真

 「歌壇」10月号に瀬戸夏子の最新作とおぼしいものが載っている。うれしかった。
こんな感じ。
 
  心情に近い仔猫を帰るときみぞれは彼の口内をみたす   瀬戸夏子

 私の知人が詩集を出した。引いてみる。

ごめんなすって              永野佳奈子
       
「生まれてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
まるでどこかの詩人のように
何度も何度も繰り返す娘に
ある日ひとつの提案をする
「ごめんなさい」は聞き飽きたから
今度は
「ごめんなすって」って言い換えてみたら?

              『洗濯機でカナブンを洗ってしまった日』 待望社刊

この詩の「娘」というのは、普遍的な〈娘〉として読む。詩は、私小説ではないので。

このところの私のテーマは〈言い換え〉である。
人生は、実はひとつの言い換えで転換できるものなのかもしれない。「それにしても私の立ち直りは、〇〇(失念)のように、早かった」と書いた宇野千代さんのように。

ヒカシューの歌だと、「あおぞらみえた」とか「てんぐりがえる」とか、再生の瞬間がある筈なので、言い換えによって、音楽的な転移によって、人生を変えるマジックを手に入れることは、きっとできる、はずなのだ。

だから、前衛的芸術表現は、人を活性化するものなのだ。


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