さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と水沢遥子さんの新刊

2018年05月02日 | 日記
 今日はきちんと出勤。朝の電車の中は、普通の会社は多くが休みらしく、学校の先生と高校生と市役所その他の職員らしき人ばかりだ。空いていて心地よい。

 私は連休前半の中日に知人とカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)を読んだ。何とも残酷な恋愛小説で、作品はわれわれの生きている世界の鏡になっている。人身売買によって臓器を抜かれている貧しい子供たちのいるこの世界に向かって、作品は静かな抗議を示しているのだ。読んでいる間は、おろし金で気持をおろされるようなところがあった。ひりひりと痛い物語である。私は随所に提示されている廃墟や終末のイメージに心をひかれた。映画のはなしも出たが、やはり映画と小説では、大きなちがいがある。私は映画の方は半分だけ見た。議論になったのが、クローンである子供たちに対するへールシャムのマダムやルーシー先生が抱く激しい嫌悪や恐怖が、われわれ日本人には理解できない、というものだった。それは宗教の違いに由来するのか、イギリスが階級社会であることによるのか。作家がイギリス社会やキリスト教そのものに対してやはり何か問いかけをしようとしているのではないか、ということが話し合われた。

 その前日には、新聞の地方版に出ていたので、茅ヶ崎の成就院というお寺に咲いている「なんじゃもんじゃ」の木を見に行ったのだが、それは私が小学校の頃に歩き遠足で行った「なんじゃもんじゃ」の木ではなかった。フタツバタゴという名の木だそうだが、オスとメスがあって、白い花が初夏の風に揺れていた。

鳥かげのつぶてたちまちよぎりゆく大樹の秀つ枝しづまりをれば     水沢遥子『光の莢』

 ※「秀つ枝」に「ほ」つ「え」と振り仮名。

 私に水沢さんほどの詩嚢があれば、「なんじゃもんじゃ」の木の白花も歌につくれるのだけれども、どうも今日はまだ無理なようである。もっとも成就院の「なんじゃもんじゃ」は「大樹」ではなくて、中ぐらいの大きさの木だった。文化人として名望があった茅誠司が、青少年の頃に明治神宮で種を拾ってきてその庭で育てた木だという。

光の莢のうちにいつかはしづまらむ現の外へ去りにしものも       水沢遥子

 詩や文学が人生の光源であるように生きるということは、水沢さんのような歌人には可能なことであっても、なかなか難しいことである。しかし、連休中にカズオ・イシグロの小説をレポートしてくださった英語の先生もそういう人の一人であるにちがいないと、いま思った。

 翌日、イシグロの小説をもっと読んでみようと思って同じ本屋に行ったら、その棚だけが五、六冊空いて隙間ができていた。平積みの本も二種類だけになっていた。帰省や旅行の途中に読んでみようかと思って買っていく人が幾人もいたということだろう。


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