白い色とか、青い色というのは、いいものだ。キャンバスに白を塗って下にあった色を消していると、それだけで何もしなくても、何とかなるという気がしてくる。何もかけなくてもよい、とさえ思える。そうやって、自分のこころの内側をのぞきこんでいる、と言うか、画面に手先から何ものかが湧き出して来るのを待っていると、不安や怖れが消えて、心がすこしだけ落ち着いてくる。どきどきして、どうしていいのかわからない状態だったのが、収まってくる。そういう時にことばがいるのかどうかは、わからない。必要ないかもしれない。小林さんは絵描きだから、こう言えばわかってくれるだろう。
読むことも、書くということも、絵をかくことと変わりはなくて、これと同じで、そういうことがわかってくると、表現というものは、みんな地続きで、それは技術や知識の違いというものはあるかもしれないが、まあ絵をかくように詩を作るということは、なかなか難しいことで、それができる人はそんなに多くない。でも、たまにそれができる人もいて、小林さんはそういうことができる人の一人だということが、小林さんの詩集をみるとわかる。
それで何を言いたいのかというと、小林さんの書いたものは、白い色や青い色の絵の具を、こころを落ち着けるために無言でひとつの下塗りのようなものとして、出来上がりを祈念しつつも自分の意志で完成するまで何かを構築しようとするのではなく、受身で待ちながらとにかく筆を持って色を塗っている、塗り続けている、そういう姿が詩であるというようなテキストだということだ。だから、読み手をあまり拘束して来ない。ことばの衝迫力とか、衝撃的な事実やイメージの提示によって何かを企てようとするようなものではない。画面に姿形らしいものが静かに浮きあがればそれでよし、かたちをとらないならそれもよし、という不定形なものとしての、かすかな不幸と悲劇の遠いこだまが感じ取れる制作物として、にもかかわらず渾身の力をこめて編まれたものとして一冊がある。
冒頭の「うつくしい書簡をまえに」という息をのむように美しい詩は、リルケの書いた女の手紙の話を下敷きにしているのかもしれないが、そうでなくてもよい。それは同時に自らが書いたかもしれない、また長くこころの中で書き続けて来た書簡でもあるかもしれないのだ。長いが、一篇を書き写してみる。何よりも声を出して読むことが肝要だ。
「うつくしい書簡をまえに」
どうして
胸が打たれるのか
小さな夢が破れて
目覚めたあとを
ひとりへのためにのみ
燃えつきる蠟燭
灯のほとりに
ひとを映し
落雷を沖にみていた
運命に
手を貸すことは
できないように
灯の前でおもう
ここにいないひとや
雲のかたちの
つくられ方を
投げ返さなければ
ならなかったのに
達しえないと
分かっていても
画のなかで汝が
ほほえむ
汝からはなれることが
できたかのように
かなたへ
運ばれる問い
遥かな時のむこうで
応えられるために
画のなかで
汝は吾の証人になる
画きまちがいで
あったとしても
覚書の紙片がでてくる
まだ知ることのない
感情を纏い
出会ったことで
存在させてしまう 声を
すがたを見うしなっても
とぎれた季を
現在に溶け合わせられたら
午後のルツーセを塗る
不遇にさえ
うるおされたのを想う
つながって往く二艘の舟に
うつくしい書簡を前に
試される ひとへ
愛を返すということ
稲妻も雨も
夜空のこれまでの
実験の成果をみせて降る
…引用終了。なんてすばらしい! みなさん、立って拍手を。
読むことも、書くということも、絵をかくことと変わりはなくて、これと同じで、そういうことがわかってくると、表現というものは、みんな地続きで、それは技術や知識の違いというものはあるかもしれないが、まあ絵をかくように詩を作るということは、なかなか難しいことで、それができる人はそんなに多くない。でも、たまにそれができる人もいて、小林さんはそういうことができる人の一人だということが、小林さんの詩集をみるとわかる。
それで何を言いたいのかというと、小林さんの書いたものは、白い色や青い色の絵の具を、こころを落ち着けるために無言でひとつの下塗りのようなものとして、出来上がりを祈念しつつも自分の意志で完成するまで何かを構築しようとするのではなく、受身で待ちながらとにかく筆を持って色を塗っている、塗り続けている、そういう姿が詩であるというようなテキストだということだ。だから、読み手をあまり拘束して来ない。ことばの衝迫力とか、衝撃的な事実やイメージの提示によって何かを企てようとするようなものではない。画面に姿形らしいものが静かに浮きあがればそれでよし、かたちをとらないならそれもよし、という不定形なものとしての、かすかな不幸と悲劇の遠いこだまが感じ取れる制作物として、にもかかわらず渾身の力をこめて編まれたものとして一冊がある。
冒頭の「うつくしい書簡をまえに」という息をのむように美しい詩は、リルケの書いた女の手紙の話を下敷きにしているのかもしれないが、そうでなくてもよい。それは同時に自らが書いたかもしれない、また長くこころの中で書き続けて来た書簡でもあるかもしれないのだ。長いが、一篇を書き写してみる。何よりも声を出して読むことが肝要だ。
「うつくしい書簡をまえに」
どうして
胸が打たれるのか
小さな夢が破れて
目覚めたあとを
ひとりへのためにのみ
燃えつきる蠟燭
灯のほとりに
ひとを映し
落雷を沖にみていた
運命に
手を貸すことは
できないように
灯の前でおもう
ここにいないひとや
雲のかたちの
つくられ方を
投げ返さなければ
ならなかったのに
達しえないと
分かっていても
画のなかで汝が
ほほえむ
汝からはなれることが
できたかのように
かなたへ
運ばれる問い
遥かな時のむこうで
応えられるために
画のなかで
汝は吾の証人になる
画きまちがいで
あったとしても
覚書の紙片がでてくる
まだ知ることのない
感情を纏い
出会ったことで
存在させてしまう 声を
すがたを見うしなっても
とぎれた季を
現在に溶け合わせられたら
午後のルツーセを塗る
不遇にさえ
うるおされたのを想う
つながって往く二艘の舟に
うつくしい書簡を前に
試される ひとへ
愛を返すということ
稲妻も雨も
夜空のこれまでの
実験の成果をみせて降る
…引用終了。なんてすばらしい! みなさん、立って拍手を。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます