この『重吉』の詩的な完成度の高さは、近年まれにみるものである。だから、祈りをもって言葉と意識の底を掘りさげている江田さんのこころのすがた、そこから生まれる詩のことばのうつくしさに、ただただ驚嘆の念を抱く。
わたしの追ふもの
すなほなる思ひににがく
野をゆく詩のこころのまま ※「詩」に「うた」と振り仮名
よくはれた日に
もんもんとことばを生み
夏のかなしみをめぐる
すぎし日のあをぞらまぶしいたづらに夏の野をゆくこころのままに
うすら陽をあびたる傷はひかりたりわか草もゆるこみちをゆけば
ゆふぐれにけむりあがりしかの原にわらつてゐたよ傘をかたむけ
いたづらにあるいてあればあしもとを飛蝗はとびぬゆふぞらのもと ※「飛蝗」に「ばつた」と振り仮名
その詩はやさしい窓でありましたあぢさゐのさきに見えるゆふなぎ ※「詩」に「うた」と振り仮名
おほきな木あかるい月にふれさうでこころのそこはやすらかにあれ
もうそろそろわたしを透きとほらせてくれをんなの顔があかるくうかぶ
ほんたうのうつくしさとはみにくさのさきにあるとふ言のしたしき ※「言」に「げん」と振り仮名
おもむろにあめをあびたることの葉ののろひは苦くあれにこだます ※「苦」に「にが」と振り仮名
まつの木のねもとに露のひかりありしんしんとながれくるきりすと
以上、Ⅴ章全篇を引用。
八木重吉の詩というのは、読んだ瞬間に虚を衝かれるようなところがある。つまり、まったく自分がふだん考えてもいないような思念や祈念、意識の動き方がある。その断片的な記述のなかにみえる語法や、発語の順序が、異様に新鮮な詩句がある。しかもそれは、作者のふだんからの、常住坐臥の意識のありように根差していると感じられるから、とてもかなわない、というか、別格の存在として感じられる。そこには聖性と同時に、真宗の妙好人のような、ひなむきな愚者性がある。八木重吉の世間は、とても狭い、自分の周囲の限られた人間関係に限定されている。そういう狭い社会のなかで、純一に神を見上げて、神をめがけて感官を研ぎ澄まそうとしている。一瞬のなかの永遠性の顕現を、常にもとめている。そういう詩人の詩から生きる力をもらったお礼として、オマージュとして一冊の詩歌集を編んだのが、江田さんである。
私は八木重吉の詩の愛読者ではないので、江田さんの歌のどの部分が重吉の詩を踏まえているのか、すぐに思い当たらない。それで確かめようと思いながら、本がみつからないので、つい時間がたってしまった。そのうちに「現代短歌新聞」一面の著者インタヴューに江田さんの談話が出て、それを読んだら近年の江田さんの心境がよくわかった。両親がなくなって、自分もいつ死んでも不思議ではないのだなと思うようになった、という談話のおしまいにある感慨は、私にも同様の感じ方がある。だから、この本のおしまいの方にみえる死を題材にした一連などは、本当によくわかった。そうすると、八木重吉の詩の何を踏まえているかという詮索はどうでもよいように思えてきたので、別に書評をたのまれて書いているわけではないし、八木重吉の詩を知らなくても、作者の想世界の調べはこの本の歌からよく伝わって来るので、重吉が好きな人は、このフランス装のきれいな本を手に取ってみたらいいでしょう。ということで、詩が信じられること、言葉が信じられる想世界というものはいいものだ。
と書いておいて、一度アップしたのだが、考え直した。書いてみる。
「罅のあることばが
窓の外から聲をかける
やさしいだけではだめなんですよ……」(12ページ)
だから、江田さんはよくわかっているのだ。「やさしいだけではだめなんですよ」と言う人たちの強固な秩序に抗することの難しさが。
「文藝」の夏号では、東浩紀が「平成という病」という文章で自分のこれまでの仕事をふり返っている。私は、これからの日本の文化のためには、この『重吉』と、東浩紀の文章を掛け算するというような演算が必要なのではないかと考えている。それは、加減できない世界観を要請する。
話はかわるが、いま日本では、赤ちゃんの足し算しかできない大滝一登とか新井紀子とかいった愚か者が、今後の日本の知的な高校生たちに迷惑をかけようとしている。しかし、江田さんの詩の世界は、およそそういうところからは遠い。いま思い出したが、三木清に、構想力の論理という言葉があった。実に示唆的である。構想力のない者は、教育に手を出してはいけない。財界と中教審は、本当に自分たちに構想力があると思っているのか。私にはそれが信じられない。世界観の闘いを始めなければいけない時に、八木重吉は、どう読まれるべきだろうか。少しだけ親縁性があるのが、ウィリアム・ブレイクやガンジーの名前かもしれない。しかし、八木重吉は、小さい。小さいので、悲しい。悲しくて、素敵だ。
それはそれとして、私はパレスチナの若者と、香港の若者たちをこれ以上死なせたくない。ばかを承知で言ってみるが、江田さんは、もう一度、安定した詩に対する反逆の路線に戻って来た方がいいのではないだろうか。
わたしの追ふもの
すなほなる思ひににがく
野をゆく詩のこころのまま ※「詩」に「うた」と振り仮名
よくはれた日に
もんもんとことばを生み
夏のかなしみをめぐる
すぎし日のあをぞらまぶしいたづらに夏の野をゆくこころのままに
うすら陽をあびたる傷はひかりたりわか草もゆるこみちをゆけば
ゆふぐれにけむりあがりしかの原にわらつてゐたよ傘をかたむけ
いたづらにあるいてあればあしもとを飛蝗はとびぬゆふぞらのもと ※「飛蝗」に「ばつた」と振り仮名
その詩はやさしい窓でありましたあぢさゐのさきに見えるゆふなぎ ※「詩」に「うた」と振り仮名
おほきな木あかるい月にふれさうでこころのそこはやすらかにあれ
もうそろそろわたしを透きとほらせてくれをんなの顔があかるくうかぶ
ほんたうのうつくしさとはみにくさのさきにあるとふ言のしたしき ※「言」に「げん」と振り仮名
おもむろにあめをあびたることの葉ののろひは苦くあれにこだます ※「苦」に「にが」と振り仮名
まつの木のねもとに露のひかりありしんしんとながれくるきりすと
以上、Ⅴ章全篇を引用。
八木重吉の詩というのは、読んだ瞬間に虚を衝かれるようなところがある。つまり、まったく自分がふだん考えてもいないような思念や祈念、意識の動き方がある。その断片的な記述のなかにみえる語法や、発語の順序が、異様に新鮮な詩句がある。しかもそれは、作者のふだんからの、常住坐臥の意識のありように根差していると感じられるから、とてもかなわない、というか、別格の存在として感じられる。そこには聖性と同時に、真宗の妙好人のような、ひなむきな愚者性がある。八木重吉の世間は、とても狭い、自分の周囲の限られた人間関係に限定されている。そういう狭い社会のなかで、純一に神を見上げて、神をめがけて感官を研ぎ澄まそうとしている。一瞬のなかの永遠性の顕現を、常にもとめている。そういう詩人の詩から生きる力をもらったお礼として、オマージュとして一冊の詩歌集を編んだのが、江田さんである。
私は八木重吉の詩の愛読者ではないので、江田さんの歌のどの部分が重吉の詩を踏まえているのか、すぐに思い当たらない。それで確かめようと思いながら、本がみつからないので、つい時間がたってしまった。そのうちに「現代短歌新聞」一面の著者インタヴューに江田さんの談話が出て、それを読んだら近年の江田さんの心境がよくわかった。両親がなくなって、自分もいつ死んでも不思議ではないのだなと思うようになった、という談話のおしまいにある感慨は、私にも同様の感じ方がある。だから、この本のおしまいの方にみえる死を題材にした一連などは、本当によくわかった。そうすると、八木重吉の詩の何を踏まえているかという詮索はどうでもよいように思えてきたので、別に書評をたのまれて書いているわけではないし、八木重吉の詩を知らなくても、作者の想世界の調べはこの本の歌からよく伝わって来るので、重吉が好きな人は、このフランス装のきれいな本を手に取ってみたらいいでしょう。ということで、詩が信じられること、言葉が信じられる想世界というものはいいものだ。
と書いておいて、一度アップしたのだが、考え直した。書いてみる。
「罅のあることばが
窓の外から聲をかける
やさしいだけではだめなんですよ……」(12ページ)
だから、江田さんはよくわかっているのだ。「やさしいだけではだめなんですよ」と言う人たちの強固な秩序に抗することの難しさが。
「文藝」の夏号では、東浩紀が「平成という病」という文章で自分のこれまでの仕事をふり返っている。私は、これからの日本の文化のためには、この『重吉』と、東浩紀の文章を掛け算するというような演算が必要なのではないかと考えている。それは、加減できない世界観を要請する。
話はかわるが、いま日本では、赤ちゃんの足し算しかできない大滝一登とか新井紀子とかいった愚か者が、今後の日本の知的な高校生たちに迷惑をかけようとしている。しかし、江田さんの詩の世界は、およそそういうところからは遠い。いま思い出したが、三木清に、構想力の論理という言葉があった。実に示唆的である。構想力のない者は、教育に手を出してはいけない。財界と中教審は、本当に自分たちに構想力があると思っているのか。私にはそれが信じられない。世界観の闘いを始めなければいけない時に、八木重吉は、どう読まれるべきだろうか。少しだけ親縁性があるのが、ウィリアム・ブレイクやガンジーの名前かもしれない。しかし、八木重吉は、小さい。小さいので、悲しい。悲しくて、素敵だ。
それはそれとして、私はパレスチナの若者と、香港の若者たちをこれ以上死なせたくない。ばかを承知で言ってみるが、江田さんは、もう一度、安定した詩に対する反逆の路線に戻って来た方がいいのではないだろうか。
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