さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

村上和子『しろがね』

2018年04月11日 | 現代短歌
ずい分前に小さな歌の勉強会で作者に会ったとき、いったいどういう仕事をしている人なのだろう、と思いながら、最後まで聞きだすことができなかった。歌集をみると、書物の編集や校正のような仕事にあたっているらしいと見当がつくが、私にとっては和装の似合う謎めいた人であり続けた。折り目正しく隙の見えないところは、歌もそうである。その人がバイクにも乗るらしいとわかったりするところが、短歌のおもしろいところだ。同じ一連から引いてみると、

おもひきり躰を傾け急カーブ抜ければかすかにオイルが香る

信号は三つ先まで青となりけふ初めての逃げ水見ゆる

鎌倉へ抜くる舗道にゆふぐれの風立ちぬ単騎過ぎゆくほどの

隧道のいづこに超えし村境ひ百年前の土の道に出づ

 作品そのものはいたってノーマルな写実をベースにした叙事を基本とする。しかし、この人は岡野弘彦の「人」にいたひとだ。引用の三首目、調べを分析するために分かち書きにしてみようか。

鎌倉へ 抜くる舗道に
ゆふぐれの 風立ちぬ。単騎
過ぎゆくほどの

 三句めのあとに小休止、そうして四句目の半ばで句切れ。四句目と五句目は句またがりという、玄妙な調べの歌をツーリングのバイクが受ける風の歌として置いている。「風立ちぬ。」とふわっと立ち止まってから、「単騎過ぎゆくほどの」というゆるゆるとした、やさしい響きの言葉をそっと付加する。こういう調べについての感覚は、長年の修練を経たものなのであって、短歌のおもしろさのひとつはここにある。

バイオリンの弓一斉に立つごとし蘆叢がふいの風に起きたり

バイオリンの 弓一斉に 立つごとし。
蘆叢がふいの 風に起きたり

 初句が字余り気味のところを二句目で一語音減らして、三句目で五音定型に収めて句切れ。そのあと「あしむらがふいの」という一語音の字余りで、この字余りは少し早口で読むから加速化するのだが、それが「ふいの」という意味内容と合っており、「風に起きたり」という能動的な内容の結句にうまく収束させられる。何気ないけれども神経の行き届いた歌なのだ。香川景樹の言った「調べをなす」、というのはこういうことをいう。和歌のDNAは、この人はいま「塔」にいるが、こういうかたちで受け継がれていっているのであって、こうした静謐な歌境をしずかに守っている歌人もいるのである。

欄干にわづかの雪の嵩ありて短き鉄の橋やはらかし

あふむけに流るる水は橋の下をゆくとき橋の裏を映しぬ

 こういう典型的と言っていいような静かなスケッチがある一方で、次のような歌もある。

掃きても掃きても硝子の破片が増えてゆく明けまで掃きて疲れて目覚む

つじつまは合はぬがよしとわれに言ふ木のポーズする人はゆれつつ

 たぶん作者は自身の生き方や性格から来る無理な部分を自覚しているのだ。だから、ヨガ教室かスポーツクラブで言われた言葉が身にしみたのだろう。しかし、そう簡単に人間はかわれない。この清潔で硬質な抒情質を保ちつつ、いかにして歌のなかに変化を作り出してゆくか、ということが、歌集の後半では問われているようである。


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