数年前に私はこの人の作品を「未来」の「月旦」(これは毎月の作品批評の欄の名称)でしばしば取り上げたことがあった。だから、この人が作品集を出すなら、それはすぐれたものになるであろうことは、まちがいなかった。いや、私のその期待をはるかに上回る今度の作品集の仕上がり方、言葉を全体としてはゆっくり動かしながら、一首の中で微細な修辞的な差異を確かめるようにして詩語を反照させてゆくところが実に読んでいて心地よい。ページを繰るにつれて清冽で純度の高い歌がゆっくりと飛翔し始める姿が申し分ない。
くちびるに触れるはかないものたちをあまく殺めて これは雪虫
北海道に住む作者である。雪の歌がどれも新鮮ですがすがしくて、リリカルで汚れていなくてま新しい。同じ位相に置かれた純度を保って、相聞歌も冬の寒気にひたされていることがある。
嘘ひとつおいてきただろうひとを待つ冬眠中の噴水の前
いや、この歌集の世界を冬を柱にして比喩的に語りすぎるのは、まちがいのもとだけれども。でも、そういう歌を引いてみよう。
浴びたならこごえるような水をなぜひとは飲めるのでしょうね、蛇口
あたたかくあまいものが頬をながれて部屋は焚いても焚いてもさむい
私はいまスティーブ・ライヒの音楽を聞いているのだが、こうした世界の芸術の同時性に互することが、日本の小さな詩型である短歌にも可能なのではないかと、ここで何となく思ったりするのである。本当は私には自分のいま言いたいことがよくはわからないのだが、探り当てられるところまで書き続けてみると、抒情質の根っ子に伏在する透明な空気感のたとえばスティーブ・ライヒの静かな悲痛さを湛えた音楽との等質性のようなものを、私が感ずるからだと言っては言いすぎだろうか。ためしに書いてみるならこれまで作者が生きているなかで大切に保持してきたものとしての無垢な感じのする何物かに対して、スティーブ・ライヒが祈っているのと同じように、石畑さんも祈りながら歌を作っているのではないだろうか。また短歌に限って言えば、石畑さんの作品には同時代の類似した作品の持っている意匠を少しだけ(でもその「ほんの少し」が大事なのだ)、抜け出た真実性の核がある。そういう表現としての必然性があるように思うということだけは、強調してみたい気がする。
暗室を知らぬ写真のなかで笑む友たちの肌ざらついている
だいじょうぶ何も探していないから惜しげなくただ広がっていて
冬は少女、何度でも少女あまた見たのちの雪原かがやいている
こういう歌についてなら私はいくらでも何か書いてみたい気がするのだが、いや、もうこれ以上のことは言うまい。さっきから「Different Trains」が足元のスピーカーから響き続けている。石畑さん第一歌集おめでとう。
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