さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山木礼子『太陽の横』

2022年03月12日 | 現代短歌
この歌集は前に読もうと思った時に自分のコンディションがわるくて内容が頭にはいってこなかったので、そのままにしていた。ずっと気になっていたのだが、今日はいい感じに読めたので、書いてみることにする。
最初に読んだのは、後半の第Ⅱ部である。ずっとなじんて来た現代短歌の文体で書いてあるので、私にとっては読みやすい。たとえば、

 帰るたびまづジャケットを掛けられる椅子の背のやうに求められたい

これは大人の男女の愛の歌なのだけれども、少しだけ奇抜な比喩が、読み終えてみると、それはいかにも落ち着いた言葉の選択であるように受けとめられて、なるほどそういうものが、安定した男女の関係の理想なのだなと思わせる。

 春の雨 尿するとき抱きあぐるスカートは花束となるまで
   ※「尿」に「ゆまり」と振り仮名。

初句の「春の雨」が効いていて、なんともうつくしく、はなやかである。体操ならE難度という作品で、「春の雨」はしずかなものだから、やはり子供のこととして読むべきか。

 婚や子に埋もれるまへの草はらでどんな話をしていたんだつけ

 縫ひ目のない世界に暮らす 濃紺のただ一枚の布きれのやうな

人間がある関係のなかにいるということは、その関係のなかでほとんど埋没しきって、いくつかの役割を引き受けながら力を尽くすということだから、そこでは自意識というものが多分に滅却されやすい。毎日が夢中であるというような、そうした日々のうちにあって、自分の居場所がよく見えない、という閉塞感を「濃紺のただ一枚の布きれ」と表現する感覚は、さすがにするどい。

第Ⅰ部は、「あとがき」の文章によると雑誌連載の作品である。子育ての局面における作者の自意識がもみくちゃになった所で格闘する言葉のはたらきに気をつけて読めばいいのだが、前に読もうとした時はどうもそれができなかった。

  ツイッターに書かれることを恐れつつ怒りやまざり昼の車内に

今の時代は、考えて見れば多くの人がツイッターのような「だんびら」(ふりまわすと危ない凶器)を持っているとも言えるので、私もこのブログに書くにあたってはつねづね注意しているところで、この歌の気分はよくわかる。一首の内容は、恐る恐る批判的なコメントをだしてみたものの、あとでそれに対する反撃が来るのがこわい、というところだろうか。同じ一連から引く。

 ベビーカーをずり落ちてゐる片足にひそかに触れる老いた手のある

 届きたる長い手紙はうつすらと仕事やめよと読みうるやうな

 三年をともに過ごして子はいまだ母の名前を知らずにゐたり

一首めは、電車の中などで、気付いてみたら無断で子供の足に触れている人がいたという歌なのだけれども、下句の四・三、三・四の語句の調子の持っている低声のくぐもるような響きのうちに呼び込んでいる気分というものが、ここにはある。二首目は、産休中の会社からの手紙だろうか。作者は歌の言葉を発しつつ泥沼のような葛藤の多い育児の日々をたたかっている。
三首目、思わず笑ってしまう。体でつかみ取ったユーモアという感じ。

 おしまいに何げないけれどもセンスの感じられる歌を第Ⅱ部から一首引く。

 冷房にあたればそよとそよぐ髪 屋根のしたにも風上がある

※ 一度投稿したのち、同日夕方に一部の文章を手直ししました。

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