さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

林和子『ヒヤシンスハウス』

2022年03月26日 | 現代短歌
 午前中に家の雑事を片付けてから、ちょっと寝そべって時計を見ると、もう十二時である。手元にずり落ちて来た本を少しずつ読む。まず粟津則雄の『沈黙に向きあう』を手に取る。この随想集は折々に適当なところを拡げて読んでいる。今日は草野心平についての文章が目にとまった。二〇年あまり「歴程」の同人としてつきあったという。粟津がかかわったという、いわき市の草野心平文学館には私は行ったことがない。別のページをめくると、こんな言葉があった。
「われわれは単なる個性をこえた価値と向かいあうことによってはじめて真に個性的になりうるのだが、人びとはそういう価値のありかを見失っている。」
恥ずかしい話だが、還暦をすぎてそろそろ自分の人生の終末が見えはじめたところで、ようやく私には「単なる個性をこえた価値」のようなものが問題になってきているので、それは文芸にかかわりを持っている者としての、自分の興味や思考の移り行きと深まりということも関係している。また、最近では近代の日本の絵画史の変遷の一部に目を注ぐことによって呼び覚まされた疑問と関心を、実践的には日々実際に絵を描くということを通して実地に検証しているというようなこともあって、私の部屋には、二週間に一回程度のペースで架け替えられる絵のための壁面がある。一枚の絵(複製も含む)を架けて眺めながら種々のことを思うのである。

さて、その次に手に取ったのが『ヒヤシンスハウス』(二〇二〇年3月刊)で、朝のうち庭の日陰に植えられているヒヤシンスの花芽がようやく色づいてきたのを見つけた。ヒヤシンスというと、小学校の頃に水栽培のポットを教室の後に並べていた光景を思い出す。昭和三十年代生まれの子供にとってはおなじみの光景なのだが、いまの小学校ではどうなのだろうか。
浦和の別所沼公園のほとりに立原道造設計の「ヒヤシンスハウス」を実現した人たちがいて、著者はその運営にかかわりがある人だという。昭和二十年代に沼のほとりに神保光太郎が住んでいて、その縁で同地を訪れた道造が構想した図面をもとにして建てられたこぶりの別荘である。これはスマホの検索で見ることができる。

 道造のベットの端に少しだけ掛けてよいかと振り向く少年

巻末にある二年間広島の学校に通った頃の同級生への挽歌と追想の一連がとてもよい。一連のタイトルは「昭和の春 平成の春」である。

 広島の冬は風花舞いやすく制服の肩にふれて消えしよ

 東京タワーのてすりに休むわれ十九歳のぞきこみて笑うきみは夭折
 ※「十九歳」に「じゅうく」と振り仮名。

私自身も大きく世代を問われたら、昭和の戦後の世代の人間と答える。ここでの制服はセーラー服だし、女子高生にミニスカのイメージはない。モノクロの卒業アルバムと、手書きの手紙。肩に手をかけて寄り添う旧友たち。鉛筆削り。砂消しゴム。……。青春の思い出は切ない。その思い出に生きることは、老年の時間を豊かにもするのである。思い出は繰り返し取り出すことのできる宝物のようなものなのかもしれない。その時に生きていた人は、たしかに今もその追憶の中で生きているのである。

 上野駅から動物園まで息切らし走りはな子に会いし春あり

これは上野動物園の象はな子の死を聞いて作った歌である。続く一連の歌。

 上野駅、戦災孤児らの屯してわれのみ庇う父を厭えり

 幼きわれの持つ一切れのパンにさえわらわらと寄りくる裸足の子たち

 「あの子たちは、あの子たちは…」問うわれに父は答えずただに急ぎき

 ボロを着て倒れていた子、母さんと叫ぶ子 泣き泣きその脇通りき

 父母を戦争で亡くせし悲しみはひしひしと伝いき幼き胸にも

上野動物園の象の死を悼む歌に続いて、噴き出すように幼時の追憶が甦る。戦災孤児の姿は、私の年代では実地に見たことのない情景であるが、私自身は幼時に渋谷の駅に降り立った時の一番の思い出が、駅の地面の真っ黒に踏み固められた土の色、その強烈な黒色である。舗装されたり、別の具材で覆われる以前の国鉄(分割民営化される以前のJRの呼称)の駅には、地面の上にじかに駅舎がある感じがあった。今はどこも何となく宙に浮いているし、構造上も立体化されて地面より高いところか地下にあることが普通になった。
作者が目撃した上野にも同様に舗装されていない真っ黒な地下道があって、そこに汚れた戦災孤児たちがいたのだろうと、私なりに想像するのである。

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