さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

北方謙三『冬こそ獣は走る』

2018年09月30日 | 現代小説
 台風が近づいている。気圧の変化のせいか、人生不如意の感覚が強くなってしまって、久しぶりに北方謙三の小説を引っ張り出した。作者はしばしば、破滅的な傾向のある登場人物の、おさえきれない衝動のようなものを描いてきた。その淵源は、あの学園紛争期に身体の中に飼ってしまったものにある。初期の小説には、エッセイにもそういうようなことを書いていたが、確かにそういう気分の投影があった。それを自慰でなく書き続けるのには、理由が要った。「暴力」が徹底的に締め出されようとしている今の日本社会では、北方の描いてきたことのほとんどは、まじめに受け取られなくなっているのかもしれない。殴り合いの場面を書くことを通して、「暴力」の意味を考え、そこに倫理のようなものを見出だそうとしているところがあった。それは主人公が勝手に作り出す「きまり」のようなものなのだが、そういう「きまり」や「くせ」のようなものがないと、「暴力」には意味がないのだ。それは、やくざものに「義理人情」が必要なのと同じで、北方の現代もののハードボイルドは、そういうセオリーを踏まえているのだということに、いま気がついた。

 話は変わるが、私の父方は、新潟の蒲原の農民で、父は右手が長かった。背広を着た写真を見ると、ワイシャツの袖が片方だけ白く袖口から出ている。それは、中学生の頃から夜学で働きながら成長してきたせいで長いのだろうと私は思っていたが、先日自分の娘が、腕立て伏せをしながら「なんか右手が長いんだよねえ。やりにくい。」と嘆いているのを聞いて、はっとしたのだった。先祖代々、何百年も労働で鍬や鎌を使って仕事をしてきたために、それで腕が長いのではないだろうか。

先週は、三門博の浪曲「沓掛時次郎」のCDがダイソーで買ってあったのを聞いた。常民と流れ者。「暴力」は、人間を常民の生活の圏域から空中に少しだけ浮き上がらせる。だから、たいてい「暴力」は流れ者の専有するものだった。なぜ浮いてしまうのか、そこについた浮力をなだめるには、何が必要なのか。または、なだめる必要があるのか。かつて貧しい庶民の生活は、しばしば報われない悲しいものなのだった。それを切々と嘆き、うたいあげていたのが浪曲というものである。義理のある女のお産の支度金を用意するために、十両で命を張る主人公の純情と真剣さに聞き手は涙をしぼった。

自分が生きている動機が見つからない者に「暴力」やスリルは救いになる、ということも北方は描いていた。そこでは、生きる理由を再発見することが課題となる。それが自由や自己解放と似ている、ということが「暴力」の落とし穴で、「暴力」は大義や、自己倫理としての「きまり」や「くせ」がないと空しいものなのである。そうして、その「大義」がたいてい誰かから与えられたもので、「自分」のものではないというところに、近代のたいていの人間の不幸があった。北方の小説では、それはあくまでも主人公が自己倫理として持つものに依拠しているために、状況の変化の中では滑稽なものに転化してしまいそうなところがある。北方の場合は、そこから来る破綻を主人公の過剰な身体性や肉体性の部分でカバーするというところがあった。営々と労働の日々を重ねている常民に対して、担保として自己の命と肉体を持って来るというところが、義理人情のために体を張る博徒の美学の伝統につながっている。アメリカのつまらない映画は、たいてい己の欲望だけを犯罪なり暴力なりの唯一の動機にしているから、つまらないのである。行動しているかぎり、倫理の再建は常に途上である。また、途中で挫折してしまってもかまわない。死んだとしても、少なくとも醜くはない。



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