さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

清水昶「音楽」

2019年10月12日 | 現代詩
 頭の上にここ数十年で最大級という台風がやってこようとしているのを、いまか、いまかと待っているので落ち着かない。古書で買ったまま忘れていた本が足元の暗がりにあるのをいま引っ張り出した。梱包用のビニールが、ざっと見てはがした時のままからんでいるのを外して、表紙の絵にはっとする。女の横顔と顔を覆った少年の横顔と、分銅らしいものや歯車に、衣服や裸体の一部が組み合わさったコラージュは、四色の抑えた色刷りでうつくしい。装丁者は田村文雄。昭和五一(1976)年青土社刊。

音楽             『新しい記憶の果実』所収

きみは知っているか
空は虚無のように晴れわたり
もう誰の頭上にも
小さなハリケーンさえ来なくなって久しいが
きみの背後で
歳月ははるか遠くまで透けていて
たとえば竹馬にのる子供のように
想いもかけぬ新鮮な高さが目撃されていたりする
ふいに皿を落としたり
ゆびを切ったりの
すこしづつ死にゆくくらしのはしっこを
ネギのように切り棄てているきみの背後で

きみは知っているか
人が死ぬとき
ぼくは涙をながさない
それはぼくが
楽器のように鳴ることばかり
考えているせいでもあるのだが
故郷を失った音楽には
赤い月がのぼってゆく
世界中に廃墟をひろげて‥‥
それでも
花を捧げ
接吻を投げ
たましいを投射しようとする者がいる
たとえばその人は
めくらの国家の一隅で
燃える手足を持っている
はげしい情動に堪えて小刻みに
真夜中のピアノを弾いてゆく
生きいきとくるしみはねる千の黒鍵に
やがて大波も来るだろう
ひいてゆく激怒のような波の後には
すみきった悲しみが
塔のように
その人の姿勢を証明するだろう

きみは知っているか
暗然と退路を探が(ママ)して    
頭をふって歩く人でも
ときには
涙を忘れ年齢を忘れ
ボクサーのように後退したり
後退しながらジャブを繰り出し
棄て身の一撃を考えていることを
無差別に
差別されつつ
全身で鳴りはじめるピアニストが
闇で燃える音楽のなかに
一点のひかりを追うかのように

 一連めから読んでみよう。「きみは知っているか」という問いかけは、他者に向かって発せられている以上に、自分自身に向けて発せられている。「空は虚無のように晴れわたり」というのは、ややわかりすぎる詩句だが、要するに何も意味あるものが感じられない生を暗示する。「もう誰の頭上にも/小さなハリケーンさえ来なくなって久しい」というのは、簡単に言うと、作者の世代なら「戦後革命」のようなものが滅び去ったことを含意している。
しかし、続く詩句の「きみの背後で/歳月ははるか遠くまで透けていて/たとえば竹馬にのる子供のように/想いもかけぬ新鮮な高さが目撃されていたりする」というイメージは美しい。「虚無」の空ではなく、「新鮮な高さ」があるのだ。それはすがすがしく、秋の空のような清澄な理念の高さとして見えるものなのだ。

 二連目の「ぼく」は、「人が死ぬとき/ぼくは涙をながさない」と言う。唐突に人の死が出て来るが、この詩集の冒頭の詩は、「村上一郎氏の自死に」と、題に言葉が添えられた詩から始まっている。また、祖父の遺影に、と言葉が添えられた詩もある。「ぼくは涙をながさない」というのは、非情だからではない。ここに、「それはぼくが/楽器のように鳴ることばかり/考えているせいでもあるのだが」と、涙をながさない理由が示される。ぼくが「楽器のように鳴る」とは、どういうことだろう。それは、以下に示される。

簡単に言うと、それは、なにものかへの情熱を保ち続けるということである。夢を捨てない、ということである。今日の香港の抗議デモに参加している人々のように。だから、「全身で鳴りはじめるピアニスト」たらんとしているのだから、「涙をながさない」のである。

たとえばその人は
めくらの国家の一隅で
燃える手足を持っている
はげしい情動に堪えて小刻みに
真夜中のピアノを弾いてゆく
生きいきとくるしみはねる千の黒鍵に
やがて大波も来るだろう
ひいてゆく激怒のような波の後には
すみきった悲しみが
塔のように
その人の姿勢を証明するだろう

 この詩は、戦って目の前で死んだ人たちのために捧げられたものだ。

ここで現実の巨大台風のもとで恐れおののいているわれわれの頭の中には、小さなハリケーンすら吹いていないことを、あらためて思いみるのである。徹底的に消費化して、理念を手探りすることを忘れたスマホ人間の群れにこの私も溶け込んでいる。私にひとの事を言う資格はない。けれども、こういう詩を読んでみようと思うことはある。それだけだ。

念のため、現実のハリケーンに備えてたったいま働いでいる人々に敬意を表します。

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