人は、ある年齢になったら、いろいろなものを断念しなければならなくなるのかもしれない。たまたま取り出してひろげた本に次のような詩が載っていた。手塚富雄訳『ゲオルゲ詩集』(1972年刊)より。
きみはいまもなお荒蕪の地に
かつてのゆたかな色彩を求めるのか、
色あせた野に実りを持つのか、
過ぎ去った年々の穂を刈り入れようとするのか?
影のヴェールにつつまれてかつての充溢が
柔和に仄めいているのを見たら それで満足するがいい、
そしてまた倦みつかれた空気をやぶって
遠くからの風がねんごろにわれらを吹きめぐったら――。
見るがいい、過ぎ去ったわれらの生の前史のなかで
傷のように燃えた日々は足早に消えてゆく……
だが われらが花と呼んだすべてのものは
涸れた泉のほとりの塵塚に集まっている。
P132、133より
このほかに、こんな詩もある。
避けがたい移ろいを前に最後の一瞬まで
享受するのは思慮あるわざではない。
鳥たちは海をめざして飛び去った、
花はしぼんで雪を待っている。
あなたの指はひっそりと疲れた花々を編んでいる。
ことしはもうほかの花は望めない、
いくら懇望してもそれをよびよせることはできないのだ、
ほかの花をもたらすのはおそらくいつか来る春だろう。
わたしの腕から離れてしっかりと立ってください。
日が落ちて霧が山から襲ってくるまえに
私といっしょに園を去られるがいい、
冬に追われぬうちにほかへ去るべきわたしたちです。
P89、99より
この詩を読んでいると、毅然として頭を上げて生の盛りの時から歩み去ってゆく人の姿が浮かんでくる。未練がましくなくて、良い。
* *
今日は石田比呂志の遺歌集『冬湖』をめくった。読み始めるといつもの石田節、とは言いながら二〇一一年までで早々にその愉しみは途絶えてしまう。絶詠というのが、「牙」四月号掲載予定として作成してあった「冬湖」三十首である。水鳥の姿に託して自らの死生観を述べた、堂々たる一連である。
一羽発ち一羽また発ち一羽発つ恵方にあらぬ方と知りつつ
※「発ち」に「た(ち)」、「恵方」に「えほう」、「方」に「かた」と振り仮名。
漂泊と流浪と微妙に違うこと身に引替えて鷗は知れり
暮れ残る湖面の鴨の一団に擾乱起り残照乱る
※「擾乱」に「じようらん」と振り仮名。
天翔くるあれはかりがね水茎の無沙汰の詫びの文を銜えて
※「天翔くる」に「あまか(くる)」、「銜え」に「くわ(え)」と振り仮名。
殿の一羽縋らせ棹となる羇旅の行手に恙あらすな
※「殿」に「しんがり」と振り仮名。
飛ぶ鳥は必ず墜ちる浮く鳥は必ず沈む人間は死ぬ
もうこういう文芸の伝統に立脚した歌を作れる日本人は、今後なかなか出て来ないだろう。教養の基盤も違うし、言葉についての感覚の勘所のようなものも変化して来ている。この年代の人たちが今まで維持して来てくれたものを、われわれはどのように継承していったらいいのか。
* *
さて文科省が今進めようとしている新学習指導要領の高校の国語科の科目についての情報である。
新設される予定の一年生向けの「現代の国語」(週二時間)と、二・三年生向けの「論理国語」(週四時間まで)では、「データなどのエビデンスを駆使した、説得力ある論理的議論を学ぶ」ことが目標なので、文学作品は基本的に排除される、ということが明らかになった。
古典や文学作品は、併行して設置される「言語文化」と「文学国語」の方に移動せよ、というものである。
だいたい「国語」で確保できる時間数は、多くの普通科の学校では一年生で多くて週に四~五時間、二年生では二~三時間がいいところなので、そこに文学的な要素の一切入らない実用的な国語を二時間も入れてしまうと、文学や古典に触れる余地が大幅に狭まってしまう。
文芸の未来に関心を持つ者としては、これは危機的な状況であるということを諸氏に訴えざるを得ない。
これから日本の高校生に昔の保険会社の社員研修みたいなことを全国的にやらせようと企画している文科省の役人は、アメリカの先端的なIТ企業では文学や芸術を重視しながら新たな取り組みを開始しているということを知らないのだろう。
「だが われらが花と呼んだすべてのものは
涸れた泉のほとりの塵塚に集まっている」
ということに、ならなければいいが……。
きみはいまもなお荒蕪の地に
かつてのゆたかな色彩を求めるのか、
色あせた野に実りを持つのか、
過ぎ去った年々の穂を刈り入れようとするのか?
影のヴェールにつつまれてかつての充溢が
柔和に仄めいているのを見たら それで満足するがいい、
そしてまた倦みつかれた空気をやぶって
遠くからの風がねんごろにわれらを吹きめぐったら――。
見るがいい、過ぎ去ったわれらの生の前史のなかで
傷のように燃えた日々は足早に消えてゆく……
だが われらが花と呼んだすべてのものは
涸れた泉のほとりの塵塚に集まっている。
P132、133より
このほかに、こんな詩もある。
避けがたい移ろいを前に最後の一瞬まで
享受するのは思慮あるわざではない。
鳥たちは海をめざして飛び去った、
花はしぼんで雪を待っている。
あなたの指はひっそりと疲れた花々を編んでいる。
ことしはもうほかの花は望めない、
いくら懇望してもそれをよびよせることはできないのだ、
ほかの花をもたらすのはおそらくいつか来る春だろう。
わたしの腕から離れてしっかりと立ってください。
日が落ちて霧が山から襲ってくるまえに
私といっしょに園を去られるがいい、
冬に追われぬうちにほかへ去るべきわたしたちです。
P89、99より
この詩を読んでいると、毅然として頭を上げて生の盛りの時から歩み去ってゆく人の姿が浮かんでくる。未練がましくなくて、良い。
* *
今日は石田比呂志の遺歌集『冬湖』をめくった。読み始めるといつもの石田節、とは言いながら二〇一一年までで早々にその愉しみは途絶えてしまう。絶詠というのが、「牙」四月号掲載予定として作成してあった「冬湖」三十首である。水鳥の姿に託して自らの死生観を述べた、堂々たる一連である。
一羽発ち一羽また発ち一羽発つ恵方にあらぬ方と知りつつ
※「発ち」に「た(ち)」、「恵方」に「えほう」、「方」に「かた」と振り仮名。
漂泊と流浪と微妙に違うこと身に引替えて鷗は知れり
暮れ残る湖面の鴨の一団に擾乱起り残照乱る
※「擾乱」に「じようらん」と振り仮名。
天翔くるあれはかりがね水茎の無沙汰の詫びの文を銜えて
※「天翔くる」に「あまか(くる)」、「銜え」に「くわ(え)」と振り仮名。
殿の一羽縋らせ棹となる羇旅の行手に恙あらすな
※「殿」に「しんがり」と振り仮名。
飛ぶ鳥は必ず墜ちる浮く鳥は必ず沈む人間は死ぬ
もうこういう文芸の伝統に立脚した歌を作れる日本人は、今後なかなか出て来ないだろう。教養の基盤も違うし、言葉についての感覚の勘所のようなものも変化して来ている。この年代の人たちが今まで維持して来てくれたものを、われわれはどのように継承していったらいいのか。
* *
さて文科省が今進めようとしている新学習指導要領の高校の国語科の科目についての情報である。
新設される予定の一年生向けの「現代の国語」(週二時間)と、二・三年生向けの「論理国語」(週四時間まで)では、「データなどのエビデンスを駆使した、説得力ある論理的議論を学ぶ」ことが目標なので、文学作品は基本的に排除される、ということが明らかになった。
古典や文学作品は、併行して設置される「言語文化」と「文学国語」の方に移動せよ、というものである。
だいたい「国語」で確保できる時間数は、多くの普通科の学校では一年生で多くて週に四~五時間、二年生では二~三時間がいいところなので、そこに文学的な要素の一切入らない実用的な国語を二時間も入れてしまうと、文学や古典に触れる余地が大幅に狭まってしまう。
文芸の未来に関心を持つ者としては、これは危機的な状況であるということを諸氏に訴えざるを得ない。
これから日本の高校生に昔の保険会社の社員研修みたいなことを全国的にやらせようと企画している文科省の役人は、アメリカの先端的なIТ企業では文学や芸術を重視しながら新たな取り組みを開始しているということを知らないのだろう。
「だが われらが花と呼んだすべてのものは
涸れた泉のほとりの塵塚に集まっている」
ということに、ならなければいいが……。
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