時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

この言葉の意味は?

2009-08-10 06:17:56 | 源平時代に関するたわごと
寿永二年(1183年)源頼朝は朝廷に三箇条の申し入れを行なっています。
その中にこのような文言があります。
「一、勧賞を寺社に行なはれるべき条
右日本国は神国なり(以下略)」(「玉葉」 寿永二年十月三日条)

また、一の谷の戦いの後も次のような文言の記されたものが朝廷に差し出されています。
「一、諸社の事
我が朝は神国なり、(以下略)」(「吾妻鏡」 元暦元年二月二十五日条)

最初に挙げた寿永三箇条の申し入れの後に「寿永二年十月宣旨」(頼朝の東国支配が認められた宣旨)
が頼朝に下され、元暦二年の方は平家が大きく勢力を後退させた一の谷の戦いの後の政治方針に大きく影響を与える申し入れと言えるでしょう。
つまり、いずれにせよ二つとも頼朝にとって大きな政治的意味をもつ申入れであると言えるでしょう。

この二つの申入れのなかに「神国」という言葉が記されています。
もちろん政治的な文書なので頼朝の本音はどこまでかということは分からないですし、寿永二年のほうは寺社の荘園がらみ、元暦のほうも他の条との兼ね合いもあります。

しかし、頼朝が「日本は神国」であると明言し、その言葉が朝廷のほうでも受け入れられている
という事実はあったと見るべきでしょう。

もちろん戦前散々言われた「神国」という言葉とはニュアンスもつかわれかたも
違うものであると思います
ただ、よく言われているように「神国思想」は「元寇の後から起きた」というわけでもないのかな
という疑問が私の中に湧き上がっているのも事実ですそしてどのような意味で「神国」という言葉が使われていたのかという点も知りたいとも思います。

イデオロギー的な論争を抜に冷静に「神国」という言葉を学術的に議論した場合
頼朝が記した「神国」がどのような評価が下されるのかという点が非常に気になります。

今回の記事はただ単に一つの言葉の平安末期におけるつかわれかたに関する疑問のみで深い意味はありません。
平安末期と現在では言葉一つでも違う意味がある(たとえば「きりぎりす」は現在でいう「コオロギ」をさす)
というのと同じレベルでの疑問です。