都が混迷を迎えているその頃、
東国の武蔵国の男衾郡の館において一人の若者が父親に怒られていた。
「お前は今まで何をしておった。」
父に怒られて若者ー畠山重忠は首をうなだれている。
「そなたが、自分は鎌倉殿に仕えているから安心して武蔵に戻ってくださいというから都からここに戻ってみれば、なんじゃ、このていらくは」
父重能の言葉を重忠はもう言い返すことなく聞くだけである。
「戻ってみれば、鎌倉は上総介に牛耳られているは、武蔵の国衙は河越と足立に牛耳られているではないか。
お前はまったく・・・」
重能の怒りの背景には次のような事実があった。
重能らが属する秩父一族は武蔵きっての大豪族である。が、その内部には同族同士の諍いを常に抱えている。
即ち重能らが属する畠山氏と重頼を代表とする河越氏である。
この両者は武蔵国において大きな権限を有する武蔵国総検校職などを巡っていつも争っていた。
これより二十年以上前にその諍いなどが原因で、武蔵国大蔵館に住んでいた河越重隆(重頼の祖父)をその婿源義賢共々重能らが討ち取ったという事件もあった。
同族ながらなにかのきっかけがあれば直ぐに血の闘争に繋がるという諍いを常に含んでいるのが河越と畠山の関係である。
その河越の方が現在鎌倉においても武蔵国においても畠山よりはるかに大きな権限を持っている。
重能はそのことが気に入らない。
が、そうなったにはそうなったなりの理由がある。
それは河越重頼が頼朝の挙兵の頃に武蔵国総検校職の座にあって一族や武蔵国に強い影響力をもっていたと言う事実
そして、重頼の妻が頼朝の乳母子であったといういかんともしがたい事実もある。
上総介広常は頼朝が安房に上陸したときから頼朝への与力を表明し、そのことが周囲の豪族たちの動向に強い影響を与えたこと、何よりも小山氏や畠山氏といった有力豪族たちがその頃大番役で兵の殆どを引き連れて不在だったことにより当時坂東において、直ぐに軍事力を動員できる頼朝方唯一の大豪族であったという事実も大きい。
その一方で、畠山はと言えば
当主重能が兵の多くを引き連れて都に上ってしまい、武蔵に残された息子重忠が動員できる兵は半減していた。
そして間の悪いことに石橋山の戦いの直後に重忠が頼朝方についた三浦一族の本拠地衣笠城を攻め
一族を敗走させ、重忠の外祖父でもある三浦義明を死に追いやった。
このことは現在は不問に付されているが、一時頼朝の不快の念を買ったのも事実である。
そのようなわけで現在秩父一族の内部においては河越重頼が主導権を握り
畠山が完全に圧されているという状態になっている。
しかも、その河越の有利は未来にも続きかねない状況なのである。
というのは、頼朝の現在の嫡男万寿の乳母には河越重頼の妻が召され
頼朝の異母弟であり義理の子でもある義経の正室に重頼の娘がその座に収まるという話が現在進んでいる。
つまり、頼朝の有力な後継者候補二人が河越氏の手中にあるようなものなのである。
長年にわたって河越一族と家督を巡って争っている重能にとっては決して面白い状況ではない。
かつて大番役を家運復活の好機とみて平家に近づいた重能であったが、その平家が頼りにならず遂に都落ち
そうなったら息子が鎌倉殿に仕えているのにすがるしか所領の保全が望めない状況にあるのだから
今のところは黙ってこの状況を受け入れるしかない。
「このまま、この河越の優位が永久に続くわけではない。
何かがあればで河越をつまづかせることが出来るかも知れぬ・・・」
畠山重能は不敵な面を息子に見せた。清廉潔白で知られる息子は父のその表情に寒気を覚えた。
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東国の武蔵国の男衾郡の館において一人の若者が父親に怒られていた。
「お前は今まで何をしておった。」
父に怒られて若者ー畠山重忠は首をうなだれている。
「そなたが、自分は鎌倉殿に仕えているから安心して武蔵に戻ってくださいというから都からここに戻ってみれば、なんじゃ、このていらくは」
父重能の言葉を重忠はもう言い返すことなく聞くだけである。
「戻ってみれば、鎌倉は上総介に牛耳られているは、武蔵の国衙は河越と足立に牛耳られているではないか。
お前はまったく・・・」
重能の怒りの背景には次のような事実があった。
重能らが属する秩父一族は武蔵きっての大豪族である。が、その内部には同族同士の諍いを常に抱えている。
即ち重能らが属する畠山氏と重頼を代表とする河越氏である。
この両者は武蔵国において大きな権限を有する武蔵国総検校職などを巡っていつも争っていた。
これより二十年以上前にその諍いなどが原因で、武蔵国大蔵館に住んでいた河越重隆(重頼の祖父)をその婿源義賢共々重能らが討ち取ったという事件もあった。
同族ながらなにかのきっかけがあれば直ぐに血の闘争に繋がるという諍いを常に含んでいるのが河越と畠山の関係である。
その河越の方が現在鎌倉においても武蔵国においても畠山よりはるかに大きな権限を持っている。
重能はそのことが気に入らない。
が、そうなったにはそうなったなりの理由がある。
それは河越重頼が頼朝の挙兵の頃に武蔵国総検校職の座にあって一族や武蔵国に強い影響力をもっていたと言う事実
そして、重頼の妻が頼朝の乳母子であったといういかんともしがたい事実もある。
上総介広常は頼朝が安房に上陸したときから頼朝への与力を表明し、そのことが周囲の豪族たちの動向に強い影響を与えたこと、何よりも小山氏や畠山氏といった有力豪族たちがその頃大番役で兵の殆どを引き連れて不在だったことにより当時坂東において、直ぐに軍事力を動員できる頼朝方唯一の大豪族であったという事実も大きい。
その一方で、畠山はと言えば
当主重能が兵の多くを引き連れて都に上ってしまい、武蔵に残された息子重忠が動員できる兵は半減していた。
そして間の悪いことに石橋山の戦いの直後に重忠が頼朝方についた三浦一族の本拠地衣笠城を攻め
一族を敗走させ、重忠の外祖父でもある三浦義明を死に追いやった。
このことは現在は不問に付されているが、一時頼朝の不快の念を買ったのも事実である。
そのようなわけで現在秩父一族の内部においては河越重頼が主導権を握り
畠山が完全に圧されているという状態になっている。
しかも、その河越の有利は未来にも続きかねない状況なのである。
というのは、頼朝の現在の嫡男万寿の乳母には河越重頼の妻が召され
頼朝の異母弟であり義理の子でもある義経の正室に重頼の娘がその座に収まるという話が現在進んでいる。
つまり、頼朝の有力な後継者候補二人が河越氏の手中にあるようなものなのである。
長年にわたって河越一族と家督を巡って争っている重能にとっては決して面白い状況ではない。
かつて大番役を家運復活の好機とみて平家に近づいた重能であったが、その平家が頼りにならず遂に都落ち
そうなったら息子が鎌倉殿に仕えているのにすがるしか所領の保全が望めない状況にあるのだから
今のところは黙ってこの状況を受け入れるしかない。
「このまま、この河越の優位が永久に続くわけではない。
何かがあればで河越をつまづかせることが出来るかも知れぬ・・・」
畠山重能は不敵な面を息子に見せた。清廉潔白で知られる息子は父のその表情に寒気を覚えた。
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