時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

保元の乱戦力分析

2009-06-20 21:49:22 | 戦力分析
保元元年(1156年)7月11日 保元の乱が勃発します。

この乱は
崇徳上皇と後白河天皇の皇統をかけた争いに摂関家内部の争いも加味されて沸き起こったものです。

図式化すると
後白河天皇・現摂政藤原忠通 vs 崇徳上皇・前摂政藤原忠実・左大臣藤原頼長
ということになります。

そしてこの争いは遂に武力衝突にまで発展してしまうのです。

その武力として動員された武士たちの内訳は

後白河天皇方
平清盛、源義朝*1、源義康*2、源頼政、平信兼*3、源重成、源季実、平維繁、源頼盛*4
など

崇徳上皇方
平忠正親子、源為義親子(義朝は含まず)、源頼憲、平家弘親子
などです。

源為義と義朝は親子、源頼憲と頼盛は兄弟、平忠正と清盛は叔父甥となり
骨肉が争う面もありました。
これには色々と複雑な背景がありますがこの記事ではその詳細は割愛します。

*1 鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の父
*2 後の室町幕府将軍家 足利氏の祖 妻は義朝の正室の妹または姪
*3 頼朝の挙兵で倒された山木兼隆の父
*4 鹿ケ谷事件で有名で治承寿永期に活躍する多田行綱の父、摂津国多田荘に勢力を有する

武士達が骨肉の争いを繰り広げたということで武力もさぞ拮抗していたと思われる方も多いと思いますが実際に動員された兵力は次の通りです。



なお、崇徳方は平忠正ら、とか源為義らと書いていますがそれぞれの武士がどのくらいの軍勢を率いていたのか分からないのでとりあえず「(半井本)保元物語」に示されている軍勢数で代表的な名前がでているところを出してみました。

なお、「愚管抄」によると崇徳側は戦闘開始時後白河方に比べて物凄く少人数の軍勢しか集めることができなかったようです。

また、上記でずらずらと武士達の名前が出てきて
それぞれ 平、源と出てくるので それ源平の武士が平清盛や源義朝(←頼朝の父)に従って出てきたかと思われる方も多いかと思われますが
上記に出てきた方々は、小規模ながらも独立した武士団であり、清盛や義朝に従っていたわけではありません。
それぞれの意思で後白河天皇に従っていたのです。
清盛はあくまでも伊勢などを中心とした郎党、義朝は東国武士団を中心とする郎党を引き連れていただけで、上記に名前を挙げている人々を従えていたわけではないのです。(しかも清盛、義朝らの徴兵は国衙権力の命令があって、彼等の武家棟梁としての権威だけで動員したわけではない、という元木泰雄氏の説があります。)

さて、「兵範記」(平信範の日記)によると
「清盛300騎、義朝200騎、義康100騎」が崇徳方の立てこもる白河北殿へ第一陣として出撃したようです。



しかし、この第一陣だけでは戦闘に決着がつかず、後白河方は戦地に第二陣を投入します。



その後、後白河方は敵地に火をかけ戦闘に決着をつけ勝利を手にします。

さて、「保元物語」では源為朝が夜討ちを提案したところ、藤原頼長が拒否をしてしまいそれが崇徳側の敗北に繋がったとしています。
ところが、「愚管抄」によると、いくつかの為義の献策に対して
現在崇徳側の戦力があまりにも少ないので吉野からの援軍が到着するのを待とう
といって為義の献策を退けたとあります。

元木泰雄「保元平治の乱を読み直す」(NHKブックス)によりますと
頼長には興福寺や摂関家荘園にある武力をこの戦いの主戦力に利用する構想があったのではないかとしておられます。

「(半井本)保元物語」によると
吉野、十津川、興福寺の兵1000騎程が7月12日(実際に戦闘が行なわれた翌日)に崇徳側に参じる予定であったとしています。
崇徳方は7月11日時点ではどう考えても戦力的に不利、
1000騎の援軍が来なければどうしようもない状況だったのではないかと推測されます。

いっぽう崇徳方に摂関家軍事力の援軍がくる、
その情報を源義朝らもつかんでいたようです。

だからこそ、その援軍が到着する前に後白河方はその時点で少人数の崇徳方を叩いておく必要があったのではないか、という論理も成り立ちます。

ちなみに、摂関家の援軍が到着した場合
戦力差は次のようになります。



戦力はかなり拮抗します。

そうなると勝敗はどうなるかわからなかったのではないかと思われます。

長々と保元の乱について書かせていただきました。

なお、各勢力の兵数については
平清盛、源義朝、源義康 - 「兵範記」
源頼盛ー元木泰雄「保元・平治の乱をよみなおす」(NHKブックス)
その他 - 「(半井本)保元物語」(岩波書店新日本古典大系「保元物語・平治物語・承久記」に所収)等
に記載されている数字を使わせていただきました。


この乱に関しては未だに私の史料の読み込みが足りないと思っていますので
また内容が変更になる可能性があります。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

保元の乱のタイムラインを作成しました こちらです

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
色分けの戦力図が面白いです! (葉つき みかん)
2009-06-20 23:49:57
はじめまして、葉つきみかんと申します。
百人一首のイラスト展示と平安時代を中心とした歴史人物の紹介をしております「月桜」というサイトを運営しているものです。
こちらのブログには「玉葉」で兼実が後白河×近衛基通について書いている記事を検索で拝見してからリンクをはらせて頂いておりました。

私は崇徳さんと後白河、平清盛、信西が大好きで、必然的にその二人がメインキャストとなる保元の乱が気になっております。
元木先生の著書や『愚管抄』は読んでおりましたが、具体的に兵力数について考えた事はなかったので、今回の色分けの図はとても分かりやすく、目から鱗が落ちた思いです!
興福寺の戦力数を考えると、頼長の判断もあながちピントが外れてはいなかったのですね。

面白い記事、どうもありがとうございました!
返信する
葉つき みかんさまへ (さがみ)
2009-06-21 13:14:05
はじめまして。
ようこそこちらにお越しくださいました。
またリンクありがとうございます。

記事をお読みいただき、また暖かいコメントお寄せくださいましてありがとうございます。

私も百人一首大好きです。
葉つきみかんさまのサイトでは百人一首がとても素敵に取り上げられていて見ていて楽しくなります。
早速こちらにも葉つきみかんさまのサイトリンク貼らせていただきます。

これからもよろしくお願いします。
返信する
Unknown (しょしんしゃ)
2012-06-14 16:15:59
清盛の300騎は300人ですか?
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しょしんしゃさまへ (さがみ)
2012-06-19 06:14:17
おはようございます。はじめまして。
コメントお寄せくださりありがとうございます。

500騎=500人ではありません。

馬に乗った武士1人+その従者数人だとお考えください。
軍隊における「1分隊」=1騎みたいなものとお考えいただけばいいと思います。

お返事遅くなり申し訳ありません。
返信する
ご説明ありがとうございますが (しょしんしゃ)
2012-06-27 22:57:13
ご説明ありがとうございますが、また一つお教えいただきたいことがあるんですが、ご説明によりますと「吾妻鏡」に書かれた平泉軍の17万騎は、「馬に乗った武士1人+その従者数人」ですね?
 しかし、当時の東方地方の人口から計算しますと、その数は、お年寄りと子供を除いた壮年男性全員の数に当たるのではないかと思いますが。
 それとも「奥州17万騎」と「清盛の300百騎」、この両者の「騎」はそもそも違う意味を持っているのでしょうか
  お教えていただければ幸いと思っております
返信する
17万騎 (さがみ)
2012-06-29 06:22:06
しょしんしゃさん。おはようございます。
その17万騎についてなんですが
この騎数は多分水増しが多いと思います。
理由としては
1.単なる誇張
2.直接戦闘に携わるものだけではなく、穴を掘ったり柵を作ったり、食糧・物資を運搬する人や馬も戦闘人員にカウントした

というのもではないかと思います。

保元平治の頃は戦闘も半日以内に終わって戦闘規模の小さいので「純粋な戦闘員+従者」だけで軍が構成されていたと思いますが
治承寿永(源平合戦)以降は
戦乱も大規模長期間になり、遠征や城郭の構築と破壊(城郭といっても地形を生かしたバリケードレベル)という要素が加わり
、純粋な戦闘員だけでは戦えなくなっています。

奥州合戦においても
頼朝方は
戦闘員、輸送部隊、工作部隊(堀、自軍柵作成、敵の堀、柵破壊)
という構成になっています。
(むしろ純粋な戦闘員のほうが少なかったのではないのかと)

ですから、奥州17万騎というのは大げさですが
この時期の戦闘は戦闘員を含まない人々も多数動員される大規模な動員があったものとみていいと思います。
少なくとも保元平治に比べると戦いに動員される人の数は飛躍的に伸びていたものと思われます。
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