「本当に今残っておったら世界遺産だったはずです。悔やまれてならんと、ほんとうに。あれは二十世紀の十字架です。人間の愚かさを教えてくれるものだった。キリスト教を信じとる国が、同じカトリックの信者のおる浦上の真上に原爆を落とした。まるで作り話のような物語性をもった世界遺産になったとではないですか」
(高瀬毅著『ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」』より)
今日、8月9日、被爆地・長崎は、65回目の「原爆の日」を迎えた。
爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約6000人が参列。原爆投下時刻の午前11時2分、1分間黙祷し、原爆死没者の冥福を祈った。米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席した。
旧・浦上天主堂は、明治28年、フランス人、テオドール・フレノ( Fr. Pierre-Thèodore Fraineau)神父(1847-1911)が天主堂を計画し、着工した。
鉄川与助は、天主堂のシンボルとなる「双塔(南北2つの鐘楼)」を手掛け、大正14年5月に完成した。
完成した浦上天主堂は、当時「東洋一」の規模を誇った。
しかしながら、旧浦上村の260年間の弾圧に耐え、実に31年という歳月をかけて完成したにもかかわらず、完成からわずか20年あまりで、原爆によって一瞬のうちに天主堂は崩壊した。
天主堂の北ドーム(鐘楼)は爆風で40mほど吹き飛ばされたが、無傷のまま川に落下しその流れをせき止めた。
「おれの造ったドームがそう簡単に壊れるものか」与作は苦笑いを浮かべて言ったという。
被爆から13年間、天主堂は廃墟の姿で放置されたが、1958(昭和33)年に解体、撤去される。そして翌年9月27日に鉄川工務店(鉄川与助創立)により、鉄骨鉄筋コンクリート構造の現・教会が完成し、同年11月に献堂された。
ところで、なぜ「広島・原爆ドーム」は保存され、一方、長崎・浦上天主堂の遺構は取り壊されてしまったのか。
戦後、この教会を保存して被爆体験を次代に伝えるか、それとも新しい教会として改修するか論議された。当初は天主堂保存の意向を示していた市長が、合衆国視察旅行後突然撤去へ方針転換する。残っていれば原爆ドームと並んで被爆のシンボルになりえた浦上天主堂の廃墟はなぜ残らなかったのか。
高瀬毅著『ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」』は、この謎をたいへん興味深く描いている。
話がだいぶそれてしまった・・・。