リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

18. 新たな旅へ

2015年06月22日 | 旅行

新・旅日記 No.1 2009年冬の旅

  2009年2月、私は出来上がった『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』をドイツの友に届けに行きました。でも、ただ届けるだけではありません。本の第Ⅱ部として載せたリーメンシュナイダー作品一覧を自分の足で確かめる旅の始まりでもあったのです。なぜなら、私はまだこれらの作品を全部自分の足で歩いていたわけではなかったからです。ドイツの主立った観光都市にある作品は留学時代も含めて相当歩き回って見てきましたが、ヴュルツブルク市1300周年記念の大展覧会で発行されたリーメンシュナイダー作品のカタログには、まだまだ見たことのない作品が目白押しでした。それまでの旅は、まだドイツ語力もあまり十分でなくてリーメンシュナイダーとお弟子さんたちとの関連性もよくわからなかったため、リーメンシュナイダー本人と工房の手になる作品を中心に追いかけていました。取りあえず数えてみた限りでは、ドイツ内に215点、ドイツ外に33点(うちアメリカに20点)、計248点あるようです。(断言できないのは、まだどうやって数えたらよいのか方針が固まらなかったためです。)そのうち既に見ているのは146点でした。そうなると本当にこの場所に行けばこの作品が見られるのかどうか、確信が持てない作品がまだ100点ぐらいはあるということなのです。一覧を掲載した以上はきちんと訪ねておかなければという責任をひしひしと感じるようになりました。

 この旅の目的をまとめると次の3つになります。

 (1)1月にできあがった本を、お世話になったドイツ、スイスの友人・知人に届ける。

 (2)まだ見ていない作品を少しでも多く訪ねる。

 (3)できる範囲で負の遺産を見学し、戦争について学ぶ。

 三津夫は大学の非常勤講師をしているため2月始めまで旅行には出られません。冬場のヨーロッパは大変寒いので、2月末までに帰国の飛行機に乗ると支払うマイレージは10000マイル分割引となります。けれども三津夫を待っていると結局正味3週間しかとれなくなるのでもったいなくて、私は2週間先行して旅立ちました。その間に一人で小さな教会や美術館にできるだけ行って作品を見ておきたかったのです。また、三津夫が既に訪ねたことのある友だちの家にもある程度先に回っておくことにしました。こうして回るルートをあれこれ考えた結果、旅の日程は以下のようになりました。

  フランクフルト(ルース・トーマス夫妻)→チューリッヒ(イルマ・ロルフ夫妻+作品1点)→シュヴェービッシュ・ハル(マリアンヌ・ホールスト夫妻+作品8点)→シュトゥットガルト(シルビアとヴィリー)→ニュルンベルク(作品7点)→バンベルク(近隣の町を含めて作品16点)→ヴュルツブルク(三津夫と合流、イングリッド・ペーター夫妻+作品6点)→ ローテンブルク(フリーデル・ヨハネス夫妻+作品3点)→ドレスデン→ライプツィヒ→ベルリン(作品15点)→ワルシャワ→クラクフ→ブラチスラヴァ→ウィーン→プラハ(留学時代の友人ラデック)→レーゲンスブルク→ヴュルツブルク(作品27点)→ハイデルベルク(作品1点)→フランクフルト(ルース・トーマス夫妻)

 「あれ? 最後のヴュルツブルクはどうしてまた?」と思われるでしょうね。最初はハイデルベルクで終わる予定だったのですが、三津夫があまりゆっくりヴュルツブルクを見ていないので、最後の予定を変更して行かないかと申し出たものです。急遽ヴュルツブルクのホテルを取り、ハイデルベルクの前半をキャンセルして向かったのでした。電話での宿の予約は滅多にしないのでハラハラしましたが、おかげでリーメンシュナイダーを追いかける旅としては大きな収穫がありました。今回の旅で拝観したリーメンシュナイダー作品数は合計すると84点となりますが、初めて見た作品はそのうちの49点でした。

 また、戦争の負の遺産として、ベルリンではあちらこちらの収容所に何月何日に何人を送り出したか記録されているマーンマル17番線<写真左下>に行き、ヴァンゼー会議記念館、プレッツェンゼー記念館、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑と見て回りました。旅の後半には初めてクラクフからアウシュヴィッツを訪れました。雪の降る寒い日でした。殺されたユダヤの人々の大量の髪の毛、サンダル、眼鏡、靴、鞄などが語りかけてくる重いことばを胸に辛い観光となりました。このビルケナウ(アウシュヴィッツから少し離れた場所にあります)のずらっと並んだトイレ<写真右下>を見て、どんなに厳しい日々だったかと胸が凍る思いがしました。 


             

       「1945年3月27日にベルリンからテレジエンシュタットまでユダヤ人を18人送った。」               ビルケナウの収容所内(トイレ)


 私はアウシュヴィッツで記念撮影をする気持ちにはなれませんでした。ポーランド人の若く、美しいガイドさんが、「想像してみてください」と何度も語りかけていた様子を心に焼き付けています。

 次回は(2)のこの旅で初めて見た作品についてご紹介しようと思います。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Mitsuo FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

17. 出版社が見つからない

2015年06月20日 | 日記

2.出版社に断られ続けて…

 ようやく出来上がった試作本をどのように行商するのか。私のイメージでは自分で本と資料をしょって出版社に訪ねて行くという行商スタイルでした。しかしいきなり飛び込んでも門前払いではつまらないので、まずここで出してもらえたら嬉しいと思う出版社に電話をかけてみることにしました。けれどもこのイメージは時代錯誤だったようです。どこも「持ち込みはお断りしています」と言うのです。唯一会ってくれたのは、植田重雄氏が『リーメンシュナイダーの世界』を出版した恒文社でした。植田重雄氏との関係もあるので取りあえず見るだけは見てみようかという考えだったのでしょう。結果は以下のとおりでした。

  ● こうしたビジュアル本を出版社が出版するためには1000万円はかかるので、回収可能と判断されないとできない。しかしリーメンシュナイダーはマイナー な存在。一体誰が手に取ると思うか。そこからして出版社での出版は無理と考えた方が良い。

  ● ホームページも読んだが、余計な話が多すぎる。仮にリーメンシュナイダーに興味がある人は本を開いたとしても、福田がどうしたとか、誰と友だちになったとかは一切関係が無い。リーメンシュナイダーだけのことに絞って書かないと本としての価値はないと思った方が良いだろう。

  ● しかし、作品一覧に載っている全部の写真を撮ってリーメンシュナイダーの仕事をまとめることができれば、それはそれで価値あるものと考える。

  ● あるいは南ドイツのリーメンシュナイダーを巡る旅を紹介するガイドブックに徹したら、我が社でも検討の余地はある。

言われてみればそうだろうなぁと納得できるお答えでした。

 

 その他、もっとあちらこちらに電話しても、「取りあえず見本を送ってみてください」と言ってくれたのは3社だけでした。けれども試作本を送ると、やはり3社とも出版は難しいという返事。時すでに6月、あと半年で本当に本が出来上がるのだろうかと焦りを感じ始めました。やむを得ず自費出版社にも働きかけてみることにしましたが、ここならというところはなかなか見つけられず、最終的に、丸善プラネット株式会社に決めました。対応が誠実だったこと、写真がきれいに印刷できることからお願いすることにしたのです。ただし、やはりA4版では大きくて書店の棚には入れにくいということもあり、制作費用も高くなるので、B5版に直すことにした結果でしたが。そして、友人・知人・今までの出版社からのアドバイスを元に、リーメンシュナイダーのことにしぼり込んでページを減らし、最後に作品一覧を付けることだけは譲れずに2部構成で作ることにしました。こうして契約が成立したのが8月でした。

 最後まで苦労したのが本のタイトルでした。私が付けた仮題は自分でもどうしようもなく「ださい」感じがしていたのですが、あれこれ娘と夫と話し合ううちに『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』ということになったのでした。また、ドイツ大使館に試作本を持っていき、文化部長のハラルド・ゲーリック氏に巻頭のご挨拶をいただくことができたのは幸いでした。

 印刷が出来上がったのが12月末でした。三津夫との約束には何とか間に合いました。ただ、残念なことに、ヨハネスの写真の色合いが赤っぽくなっていたので校正中何度もお願いしたにもかかわらず、色合いは直されていませんでした。恐らく他の人の目で見ればそれほどには感じないでしょうけれど、せっかく写真を贈呈してくれたヨハネスがどう思うかと気が重くなりました。また、すでに会社の方でも印刷ミスを見つけていました。しかし、本として出来上がってしまったものを直してくださいと言うこともできずに受けとりました。自費出版もなかなか思うようにはいかないものです。最も初版からノーミスの本は大変少ないものとは思いますけれど…。

 このようにして出来上がったのがこの本です。


                   


 『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』が出版できたら私の仕事は取りあえず一段落すると思っていたのですが、それは大きな間違いでした。          ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA                                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

16. 本を書き始める

2015年06月19日 | 日記

1.手痛いスタート

 2007年の旅を終え、私はいよいよ初めての本を作ることになりました。

 何しろ、私は2006年の留学の際に、三津夫と約束していたのです。日本でもドイツ語を勉強できるはずだという彼に、もっとドイツ語を身につけたいので日常的にドイツ語を使う生活をしたいし、半年ぐらい居ないとドイツ語の資料を読み込む力は到底身に付くはずがないと訴えました。「それなら帰ってきてから本を出版しなさいよ。できなかったら留学費用は自分のお小遣いで出してね」「わかった。」ということで2008年の終わりまでには本を出版すると決意してドイツに向かったのでした。

 2007年の旅で娘に一眼レフでモノクロ写真を写してもらい、ヨハネスにいただいくことができたカラー写真と併せて30作品を紹介しようと決めていました。およそのイメージはできあがっていたのでしたが、本当にそのまま載せられるのかどうかは写真を見てから決めるしかありません。そして決めてから、その30作品に関する文章を必死でまとめなければ間に合いません。2007年の8月に帰国してすぐにモノクロフィルムを現像してもらい、焼き付けを頼んで、写してきた中でどの作品なら載せられるかを平野泉さん、奈々子、三津夫と相談しました。私は翌年2008年の3月には原案を作って編集会議に提出すると約束しました。

 平野泉さんについて◆ 当時のことを書いた留学日記より

  平野泉さんという方から初めてメールをいただいたのは2006年2月22日でした。私たち夫 婦で発行しているミニコミを読み、リーメンシュナイダーの名前を見てびっくりしてお便りくださったとのこと。彼女もリーメンシュナイダーファンだというの です。そこからトントンと話が進んで、27日の月曜日、彼女が我が家にリーメンシュナイダーの本を見に訪ねてきてくれました。この早い展開に二人して驚い ていたのですが、まさに「神様が引き合わせてくださったのだ!」と思うしかない出会いでした。
 私が聖人についてもっと勉強しなければ…と思い始めたちょうどそのころ、泉さんがメールをくださった。その泉さんはミッショ ンスクールの出で、しかも大学ではドイツ語専攻。聖人の英語名、日本名、内容もササッと教えてくれるのです。私のファイルの空欄はどんどん埋まり、わから ないときには何という本で調べられるかを教えてくれる。ご自分もわからないところはメモして帰られたのですが、夜にはその回答がメールで送られてきまし た!
 泉さんって、自称「トリビアは私のような人のことを指すのでは?」というようなひろ~い知識をお持ちの方だったのです。しかも、「ドイツ語はすっかり忘 れています」とおっしゃりながら、なんのなんの、私の本を見て「マリアのお母さんの聖アンナは3回も結婚しているんですねぇ。知らなかった…。」と…。 え~~~、私だったら辞書を引き引き1時間ぐらいかかるところを2~3分で理解してしまうこのドイツ語力! すっごい助っ人が来たぞと内心ワクワクしてし まいました。


 と・こ・ろ・が… 2008年1月5日のことでした。夕方、近くの西友で買い物をしていたときです。レジに向かう私の前で、棚の商品を見ていた人がふっと一歩下がったのです。私は彼女にぶつからないようにひょいっとよけたつもりなのですが、何の因果かツーッとその足が滑って転び、そのまま左腕を棚の下に滑り込ませてガツンとようやく止まりました。その痛いのなんのって…。相手の方も驚き、私も驚き、なんでこんなに滑っちゃったんだろうというような事故でしたが、西友の職員もかけつけて救急車を呼ぶ始末。時間的にも時期的にも普通の病院は入れない情況だったのです。左肩が痛くて動かせないので病院でレントゲンを撮ってもらったところ、肩を骨折していることがわかりました。何ということ!!  1月末からはインド旅行の予定が入っていますし、これから文章を書くには重たいドイツ語の本と格闘しなければなりません。でも真っ先に先生に「インド旅行の予定があるのですが行けますか?」と尋ねてしまいました。先生は「まぁ、その頃にはくっつくでしょう。痛むでしょうが、行けないことはないと思いますよ」と苦笑しながらおっしゃいました。キャンセル料が取られずに済んでホッとしたのもつかの間、その後、毎日の生活の中での痛みは何の罰だったのかと涙が出るほどでした。着替えをするにも動くにも、歯磨きをチューブから出す動作一つにも痛いし、不便で仕方がありません。教員時代でなくてよかったというのがせめてもの救いでしょうか。その後、旅行当日まではただひたすらおとなしく家にこもり、重たい本を右手で取り出しては広げ、眠くなるのを我慢しながら何回も読んでは辞書を引き、右手だけでポツポツと原稿を打ち込みました。そのおかげで、少しずつ本の形ができたのだと思います。今となっては罰というより、「あなたは今何に集中しなくてはいけないのかよく考えなさい」という天の声だったのかもしれないと思うようになりました。

 それでも私のドイツ語はまだ中級のレベルですからどうしても理解し切れない文章が溜まっていきます。読み込んでいるのは、2004年にヴュルツブルクにあるマインフランケン博物館でリーメンシュナイダー大展覧会の際に出版された2冊のカタログです。私は2004年にこの展覧会を訪ねたときに購入し、それ以降は最新の情報がたっぷり詰め込まれたこのカタログをバイブルのように思いながら辞書と首っ引きで読んできました。2007年の旅の際にこのカタログをもうワンセット買って泉さんにはお送りしておきました。そして泉さんに「カタログ1巻に書いてある△頁の2段落目の文章はこういう意味で良いのでしょうか」とメールで質問すると、翌日までには返信が返ってくるのです。日中はお仕事をしている泉さんのこの絶大な助けがあって、何とか必要な情報を得ることができたのでした。

 こうして皆に助けられてようやくできあがったのがA4版269頁立ての試作本でした。下の写真はカタログと、できあがった試作本です。この冴えないタイトルは仮のものです。

             

                        


 ちなみに、1月末からのインド旅行は荷物を全部三津夫に任せ、悪路を走るバスでは飛び上がるほど痛かったのですが、何とか行ってきました。まぁ、執念でしょうか。インドの生活や文化を見て、大きなカルチャーショックを受けました。様々な刺激を受け、思い出深い旅となりました。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15. クレークリンゲン

2015年06月13日 | 旅行

旅日記 No.13

 クレークリンゲンのマリア祭壇

 2000年に初めてクレークリンゲンを訪ねたときには、祭壇が暗くてマリアの表情もよく見えなかったということを旅日記 No.8に書きました。そして2006年の留学中にアマチュアカメラマンのヨハネスと知り合い、ある新聞記事のコピーをいただいたのです。それは、クレークリンゲンにある「マリア祭壇」についての記事でした。タイトルは、「マリア像に射す日の光」といったような意味のものですが、ヨハネスはいつの何という新聞記事なのかわからないとのことですので、記事を書いた方には大変申し訳ないのですが、ごくかいつまんで紹介しておきたいと思います。失礼をお許しください。


***********************************************************************************************************************
記事の概略

 ローテンブルク地方にはティルマン・リーメンシュナイダーの手になる有名な祭壇が3つあるが、その最も有名なものがクレークリンゲンの「マリア祭壇」である。
 かねてから8月15日には「マリアの昇天」祭が執り行われていた。この日の夕方、沈みゆく夕陽が(祭壇の反対側の壁にあるゴシック様式の)薔薇窓から入ってくるのだ。そしてまさに天に向かって昇ろうとするマリアの上に日の光が輝くのである。今日でも私たちはその光景を見ることができる。
************************************************************************************************************************
   

 このあと、記事は詳細な昇天祭の歴史をたどって書かれているのですが、ここでは省略して先に進ませていただきます。

 祈りを捧げるマリアの手と顔に、この薔薇窓を通って日の光が当たり、荘厳な昇天の瞬間に居合わせるようなシーン。2006年8月17日にその瞬間をヨハネスが写しとったスライド<作品写真29 『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』の表紙の元となった写真です>と、1枚の絵はがきを私にくれたのです。「スライドはMidoriへのプレゼントだよ。ホームページにも本にも使っていいよ。でもこの絵はがきを使ってはダメだよ。ぼくが写した写真ではないからね。」と、注意書きを添えて。今まで3回ここを訪ね、写真を撮りたくてもなかなか写せなかったマリア像。確かに肉眼でも見えるのですが、私は視力も悪いせいか、暗い奥まったところにあるマリア像の表情はあまりよく見ることができず、あきらめていたのです。次回、もしローテンブルクに来る機会があったら、それは絶対に8月15日。この決心を胸に、2007年の旅は始まったのでした。

 念願の8月15日がやってきました。気になるのはお天気です。午前中、良く晴れて雲もなく、ホッとしました。ヨハネスとは11時に聖ヤコブ教会で待ち合わせ。ここで説明を聞いてから出かける予定でした。少しこの可愛らしい街でショッピングをしたいので、朝のうちに街を回る時間を取らせてもらったのです。夫は市庁舎の上から街を見下ろし、写真にとって満足。娘は目的の人形が見つからないのが少々残念だったようでした。私は疲れて広場で二人を待ちました。
 11時少し前に教会に入ると、ヨハネスがすぐに現れました。祭壇のある部屋に上がると、ちょうどツァーの団体が入ってきて解説者が来たので、私たちはがまんして説明が終わるのを待ちました。ヨハネスもいろいろ説明したいことがあったようですが、私は去年聞いているし、夫も娘も3回目だったので最後は雰囲気を察してはしょってくれたようです。ただ、私が知りたかったのは、1年に一度、鍵でユダを取り除き、キリストの膝に寄りかかる福音史家ヨハネを見ることのできる日はいつなのかということでした。しかし、この滔々と説明をした解説者もヨハネスも、そのことはわからないそうです。最近は一切鍵を使わず、ユダを取り除くことはないという話でした。それならいつ頃までやっていたのかと聞いても二人とも首をかしげるだけ。しつこく聞いてみたのですが、「何でそんなことにこだわるのかなぁ」という感触でした。残念。どこかに文献があるといいのですが。以前やっていて、今はやらなくなった理由が知りたいのです。                                

 肝心のクレークリンゲンは夕方が見所だとのこと。「それまでは時間があるので、まずシュバインツドルフに行くよ」と言われてびっくりしました。日本語に訳せば「ブタの村」という面白い名前の村なのですが、以前ブダペストで見た聖母子像(旅日記No.7 参照)がこの村の所有だということが7月になってわかったのです。娘が写した写真で、足元に見えている解説札を精一杯大きく引き延ばし、かすれた文字から推測したところ、Schweinsdorfという地名が何とか読み取れたのでした。ところがこの村がどこに位置するのかわからないのです。Googleでも調べてみましたが最後までたどり着けず、ヨハネスにこの村について何か知っていることはないかとメールで聞いてみたのでした。
 車の中で、彼は、
「Midoriからシュバインツドルフを知らないかと聞かれたとき、ぼくは笑ってしまったんだよ。だって家のすぐ近くなんだ。ここの教会にあった聖母子像をブダペストがどうしても買いたいといったので、そのかわりにレプリカを作ってもらったんだそうだ。」
と、説明をしてくれました。知っていたのならそうと知らせてくれればいいのに、ヨハネスは私をびっくりさせたかったのでしょう。今となってはあの聖母子像をドイツで見ることができないとわかり、惜しいことだと思いました。でも気になっていた謎が7年ぶりに解けてホッとしたのも事実です。このレプリカは、残念ながらオリジナルの美しさには十分迫っていないように思いました。

 午後はヴェトリンゲンという村の聖ペーター・パウル教会にリーメンシュナイダー派の作品があるというので連れて行ってくださいました。教会にはすぐに着いたものの、鍵を持っている人がわからないのです。杖をつきながらあちらこちら尋ねて回るヨハネスの姿に胸が痛んでなりませんでした。私が一緒に回っても、何も手助けできないのです。やはりドイツ語をしっかり話せなければ、こういうときに役に立てないんだと痛感しました。小一時間かけて、ようやく鍵の持ち主を見つけ、教会を開けてもらえました。中にあったのは、なかなかよくまとまった磔刑像でした。どこかの本でこの祭壇の写真を見たことがあるように思うのですが…。探してみたらありました。『リーメンシュナイダーの世界』の93頁に写真が出ていました。ユストス・ビーアという著名なリーメンシュナイダー研究者が、この祭壇はハンス・ボイシャーというリーメンシュナイダーの高弟が彫ったものだと結論を出しているそうです。シュヴェービッシュ・ハルの出身です。

 このあと、車は美しい景色の中を一路クレークリンゲンに向かいました。ヘルゴット教会は小さい教会で、普段は静かなのですが、さすがにこの日はほぼ座席が一杯になるぐらい人が集まっていました。幸い、私たち4人は最前列に座って日の光が徐々に祭壇にかかるところからマリアの顔がくっきりと浮き上がってくるまでをたどることができました。午後は雲が多くなり、ときどき日が射すという状態でしたから、パーッと祭壇が明るくなると余計に深い感動を覚えました。何枚も写した中から、私自身が一番よく撮れたと思う写真<写真29>をここに載せておきます。ヨハネスの素晴らしい芸術作品と並べるのは気が引けますが、祭壇の全体像をご覧に入れるために。
 翌16日、私はヨハネスからDVDを受け取り、彼の素晴らしい写真をコピーすることができたのでした。ヨハネスとの出会いがなければ、私には写真集を出版する力量はありませんでした。天国のヨハネスに改めて感謝のことばを送ります。ヨハネスのおかげです。本当にありがとうございました。 


  
<作品写真29> 2006年8月17日午後6時頃のマリア像 Tilman Riemenschneider
  マリア祭壇(1505~1510年):ヘルゴット教会、クレークリンゲン
  写真:Johannes Pötzsch    

  Copyright ©Johannes Pötzsch All rights reserved.

                         

 
<作品写真30> 2007年8月15日午後6時頃のマリア像 Tilman Riemenschneider
 
 マリア祭壇(1505~1510年):ヘルゴット教会、クレークリンゲン
 
   写真:Midori FUKUDA

     
 転写・複写は固くお断りします。 

 

  ヘルゴット教会は8月15日から30日までは、特別に夕方6時半までオープンしているようです。皆さんがこの荘厳なひとときに参加できますことを祈っています。

 ※4月から10月までは6時で閉館します。それ以外の期間は午後4時までですのでご注意ください。また、2010年に赴任されたトーマス・ブルク牧師は「心の目で見て欲しい」と、撮影を禁止されていますが、写真が欲しい方にはホームページからダウンロードできるようになっています。
 http://www.herrgottskirche.de/   

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA,  Johannes Pötzsch     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

14. 三大傑作祭壇

2015年06月09日 | 旅行

旅日記 No.12

 2007年の旅でヨハネスが譲ってくれた写真をもう2枚、ご紹介しておきます。


           


            Bild 27: Franziskusaltar (1490) in der Franziskanerkirche in Rothenburg o.d.T.            Bild 28; Kreuzaltar (1510) in der St. Peter und Paul-Kirche in Detwang
 
          作品写真27 聖フランシスコ祭壇(1490年作):旧フランシスコ会教会、ローテンブルク                                             作品写真28: 十字架祭壇(1510年作):聖ペーター・パウル教会、デトヴァング

      

           
 Sämt. Fotos: Johannes Pötzsch / Ev. - Lutherische Kirchengemeinde St. Jakob Rothenburg o.d.T.

                         <写真24~28>の5枚の写真の権利は、ローテンブルク、福音ルーテル派の聖ヤコブ教会信者、ヨハネス・ペッチュに帰属します。  


                     
                      Copyright ©Johannes Pötzsch All rights reserved.  転写・複写は固くお断りします。
                  

                             

 ローテンブルクの町には多くの日本人観光客が歩いていますが、恐らくこの旧スランシスコ会教会まで出向く人は少ないでしょう。ましてや、このローテンブルクから小道を下って20分ほど歩いたところにあるデトヴァングまで行く人はもっと少ないことでしょう。でも、もしあなたが少しでもリーメンシュナイダーの作品に感銘を受けているのでしたら、是非足を伸ばしてみてください。リーメンシュナイダーの三大祭壇はこのローテンブルク、デトヴァングと、車で30分ほどのクレークリンゲンにまとまっているのです。見逃すのは何とももったいない話です。

 次回はクレークリンゲンについて書くことにします。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015  Johannes Pötzsch

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13. 聖血の祭壇

2015年06月07日 | 旅行

旅日記 No.11

 アマチュアカメラマンのヨハネス

 2006年の留学中に、この教会の近くに住むヨハネス・ペッチュ(Johannes Pötzsch)さんというアマチュアカメラマンと知り合いになりました。ヨハネスは残念ながら今年2015年1月に88歳で亡くなられましたが、彼は、エネルギッシュで大変な情熱家でした。

 ヨハネスとのつながりを説明するのは大変ややこしいのですが、以下のようになります。

  ①2006年の1月にエジプト旅行でヨーラ(ポーランド人で、ドイツ人と結婚してロストックに住んでいる女性)と知り合いになる。

  ②2006年の4月末にドイツ留学に行くことに決まっていた私はヨーラの家に招待され、5月にロストックを訪ねた。

  ③ヨーラの友だちがたまたまヨハネスのお連れ合い、フリーデルの友だちだった。

  ④その人が、ヨハネスが撮影したリーメンシュナイダー作品の載っている本 „Im Dunkel ist Licht (闇の中に光あり)“ をヨーラに見せた。

  ④ヨーラとヨハネスが連絡を取り合い、私に留学中に一度泊まりに来るようにと招待してくれた。

  ⑤2006年の5月27日に初めてヨハネスを訪ねて出会った。


            <ヨハネスを紹介してくれたヨーラ 2009年に来日してお寿司屋さんで>               <アマチュア写真家のヨハネスとフリーデル>

                   


 ヨハネスの主張は「自然の光で写す」写真。500年ほど昔の電気もフラッシュもなかった時代、リーメンシュナイダーが自分の目で見た、そのままの光で彼の作品を写したいという考えです。そのヨハネスは、太陽光が充つのを待って写した素晴らしい写真を私にコピーさせてくださいました。そして、「この写真をMidoriのホームページに使いなさい」と許可をくださったのです。これもまた、リーメンシュナイダーの導きではないかと感無量でした。
 しかし、私が滞在したシュベービッシュ・ハルの写真屋さんは、思ったような美しいコピーを作ってくれませんでした。ヨハネスさんがご自分の手で焼き付けられた写真のシャープで透明な美しさにはとても及ばないコピーだったのです。一度苦情を言って焼き直してもらったにも拘わらずです。

 2007年の夏、私は夫と娘と再びドイツを訪れました。ヨハネスとフリーデルとも再会し、ヨハネス自身が納得できるコピーをシュトゥットガルトの写真屋さんで作っておいてくださったのです。以下、彼の写真の説明とともにローテンブルクの「聖血の祭壇」をご覧に入れます。


♠ 写真の説明 ヨハネス・ペッチュ (訳:平野 泉)

 ローテンブルクのリーメンシュナイダー祭壇の写真は、私(1926年生まれ)がこの20年間、繰り返し撮影してきたものである。私はもともと、シュトゥットガルトのバーデン・ヴュルテンブルク州不動産・建築物管理部門の官吏であったが(シュトゥットガルト写真クラブの名誉会員でもある)、退職後1983年からローテンブルクに住んでいる。

 私が以下の4つの祭壇を撮影した写真は、『闇の中に光あり-ティルマン・リーメンシュナイダーのメッセージ』(初版1995年、ISBN3-87625-047-1)でもご覧いただくことができる。同書はこの間に売り切れとなったが、現在再版が予定されている。また聖血祭壇の写真については(大部分が前掲書と同じもの)ブックレット『ティルマン・リーメンシュナイダーの聖血祭壇-ローテンブルクの宗教芸術 No.5』(ISBN3-927374-27-X)にも使用されている。

1. 聖ヤコブ教会の聖血祭壇
2. 聖ヤコブ教会のルードヴィヒ・フォン・トゥールーズ祭壇
3. フランシスコ会教会の聖フランシスコ祭壇
4. 聖ペテロ・パウル教会(デトヴァング) の十字架祭壇

 ローテンブルクの聖ヤコブ教会は私が結婚式を挙げた教会だ。そしてその聖ヤコブ教会にある「聖血祭壇」は、私がアマチュア写真家として何十年もの間繰り返し撮影してきた芸術作品である。そしてこうした撮影の試みから次第に私なりの、人とは違う見方が生まれてきた。それは木彫りの宗教彫刻を見るときの見方なのだが、もちろん石像にも相通ずるものである。私の写真は、次のような考えに基づいている。

a) 何のための写真か
 これらの私の写真は、記録・保存目的ではなく、ティルマン・リーメンシュナイダーのメッセージとの出会いを可能とするために撮影されたものである。ティルマン・リーメンシュナイダーは「世界の暗黒の中にある、永遠の中心点のメッセージを伝える者であり、その世界では神の未来がすでに始まっていた」(ヨハネス・ラウ教区監督)。だからこそ、こうした写真は信者の要求のみならず芸術を愛する人びと、つまりオリジナルを見ることで受けた印象を、ティルマン・リーメンシュナイダーの偉大な彫刻芸術を、その置かれた場所で見たその経験そのままに、絵はがきやパンフレットや本の形で持ち帰りたいと願う、そんな人びとの要求にも応えるものでなければならないだろう。

b) フラッシュやライトは使わない
 そのため私は、a)で述べたような撮影に際しては、ライトやフラッシュは使わないことにしている。これらを使うと、写真は画一的な光と色の再現にとどまってしまうからである。それでは、ある祭壇のもつ雰囲気や個々の像の性格は再現できなくなってしまう。聖歌隊席の窓から、あるいはランセット窓(註2)から教会の中に差し込む太陽の光、つまり本来的に多様な光が混じり合い、時間の経過とともに色彩もうつろう自然の光を使った撮影のみが、印刷媒体を通して芸術作品に触れる人にふさわしいものになるだろう。しかも信者にとって、あるいは芸術愛好家にとっても、実際の印象と写真を見たときの印象とが一致するものとなるだろう。さらにリーメンシュナイダーその人も、こうしたことを念頭に置いていたと思われる節がある。というのも彼は祭壇の完成後、ローテンブルク市に対して彼自身がつねづね要求していたことをきちんと実現させているからである。祭壇の後ろの壁に、望んだとおりのランセット窓を作らせたのだ。この聖血祭壇における光の状態について、私は80年代から繰り返し考え、その考えに基づいて写真に撮ってきたのだが、同じことをクリストフ・トレペッチュ氏も地方紙『フレンキッシェン・アンツァイガー(Fränkischen Anzeiger)』の月刊付録『リンデ(Linde)』(No.3, 1994年)に書いていたことは記しておきたい。祭壇の光の状態に注意しつつそれをそのまま写真にうつしかえること、そして写真芸術としての創造性を自らに禁ずることによって、私はティルマン・リーメンシュナイダーの偉大な芸術作品にふさわしい仕事をしたと思う。写真を見る人は、そこに芸術家の意図をくみとることができるだろう。
 註2:ゴシック建築によく見られる、細長 い槍型の窓。

c) どこから撮影するか
 祭壇は高い位置にあり、専用のカメラと広角レンズを必要とする。祭壇の前、彫刻に近い位置に専用カメラを設置すれば、高いところにある対象を下から見上げる形で撮影したときに対象が先細りに写ってしまう、いわゆるパースの問題は回避できる。しかし、多くの場合彫刻は非常に高い位置にあるわけで、「下からのカメラ・アングル」の問題は解決しないのである。この「下からのカメラ・アングル」から生じる「彫刻の顔を真下から見上げるような目線」は、芸術家が本来求めていたものではない。絵画の中の人物や彫像のまなざしや顔の向きは、ほとんど例外なく祭壇の立ち位置から下前方、つまり教会本陣、信者たちの座る本陣へ向かっている。なぜなら、当時の画家や彫刻家は、顔を「真正面向きに」描いたり、彫ったりはしなかったからだ。そんなことをすれば、作品のまなざしは本陣にすわる信者たちの上を通り過ぎてしまうからである。だから私は彫刻、つまり祭壇の正面に足場を組み、彫像のまなざしから本陣の中心へ落ちる想像上の線と足場とが交差する点にカメラを設置した。そうすることで、芸術家が望んだまなざし、顔の向きを写真上に再現しようと試みたのである。

 私の写真作品に対するある批評(以下に引用する文中の書籍に私の写真が掲載されたのだが、それについての批評である)で、ローテンブルクの書店主で作家でもあるエヴァ-マリア・アルテメラーはこう書いている。
「ぜいたくな装丁による、200ページを超える大著『永遠なるものを記念して‐ローテンブルク・フランシスコ会教会の700年-』(1993)の魅力は何より、ヨハネス・ペッチュの情感豊かで技術的にもすぐれた写真にある。「技術的にすぐれた」と書いたのは、ヨハネス・ペッチュが費用のかかる芸術的なライティングなどを用いずに、撮影対象を自然光の中で捉えているからこそである。彼の見方は、言葉の真の意味における客観的芸術解釈を基礎にしており、それは作品と作者の意図とを正確に描き出すことにおいて、今日の、撮影対象を容赦ない光にさらすような他の写真芸術とは全く異なるものである。ヨハネス・ペッチュが撮影したリーメンシュナイダー祭壇の写真を一度でも目にすれば、彼の見方と、今日私たちが「プロ」と呼びなれている人たちの見方との違いは明らかであろう。聖ヤコブ教会の西側2階に設けられた聖歌隊席のため、西から差し込む光に照らされ、光に満たされた「最後の晩餐」の祭壇をつくったとき、リーメンシュナイダーが「スポットライト」のことなど考えてもいなかったことは確かだ。ヨハネス・ペッチュは理解している。芸術作品は、それを見る人が実際に見るように、そしてその作品が置かれる場所・光・視点といった全ての要素を作品に織り込んだであろう作者の意図どおりに、写真上に再現すべきであるということを。そしてこれらのみごとな写真を撮った。それが可能だったのは、彼には他の写真家に全く欠けているか、あるいは他の写真家がそのためにお金をかけようとはしない2つの資質があるからだ。忍耐と、感性である。」

                              

聖血の祭壇と十字架祭壇
 さて、このあとに載せる3枚の写真は、彼の考えている写真への姿勢を表しています。ヨハネスの説明によれば、ヨハネス自身の写真の芸術性・創造性を捨て、リーメンシュナイダーの芸術性を写し取ることに徹したとのことです。
(この難しい文章の意味がくみ取れなくて、意訳しました。ここでも泉さんに助けていただきました。ありがとうございます。)
 

             

   Bild 24: Heiligblutaltar (1505) im Chor der Jakobs-Kirche       Bild 25: Heiligblutaltar (1505) -Christus (Mitte) mit Judas, dem Verräter (rechts)   Bild 26: Heiligblutaltar (1505)-Johannes, mit dem Kopf auf
                 Rothenburg o.d.T.                                                                       dem Schoß Christi liegend     

   
<作品
写真24> 聖血の祭壇(1505年作):聖ヤコブ教会、ローテンブルク   作品写真25> 聖血の祭壇(1505年作):キリスト(中央)と裏切り者のユダ(右)  <作品写真26> 聖血の祭壇(1505年作):キリストのひざに伏せるヨハネ
                                                             


 次回は、やはりヨハネスが譲ってくれたローテンブルクの旧フランシスコ会教会とデドヴァンクの写真を載せます。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA,  Johannes Pötzsch

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12. マイトブロンの静かな教会

2015年06月07日 | 旅行

旅日記 No.10

 マイトブロンへのバスには間に合わない

  このあと果たしてマイトブロンまで行けるものなのかどうか、私は不安になってきました。バス停で調べてみると夕方5時過ぎまでバスはありません。それでは教会が閉まってしまいます。マイトブロンはフォルカッハよりは近い場所(直線距離で約7km)なのでいっそタクシーで行ってしまおうかということになりました。タクシー乗り場に行くと、先頭で待っているタクシーのドアから出ている小さな足が目にとまりました。珍しく女性の運転手さんです。マイトブロンまで行けるかどうかと尋ねるとOKの返事。私が助手席へ、夫と娘は後部座席に乗り込んで出発しました。夫が後ろから「ミュンナーシュタットまでどのくらいかかるか聞いてみて」と言うのですが、タクシーだと45分ぐらいとのこと。前の日にクレークリンゲンまで30分ほど走ってもらっているのでこの際行ってしまおうかということになりました。いくらかかるか会社に問い合わせてもらって結局200マルク(当時の日本円で約12,000円)かかるとわかり、現金が足りなくて途中、カードでキャッシングしなければなりませんでしたが。
 小柄な可愛らしい運転手さんはイタリア人だそうです。どこかヴュルツブルクに美味しいイタリアンレストランはないかと尋ねると、困ったような顔で「家で食べるのが一番美味しいから…」と言っていました。

 マイトブロンの聖アフラ教会は無人でした。中は薄暗く、中央正面に「嘆きの群像」<写真23>がありました。砂岩で彫られているのにも拘わらず、何というきめ細かな肌合いの彫刻でしょう。十字架から下ろされたキリストの手をマリアが取り、周りの人々はそれぞれの思いでキリストの死を悼んでいるのですが、静かな深い嘆きが惻々と伝わってくるようなレリーフでした。
 リーメンシュナイダーは長い間ヴュルツブルク市の要職に就き、市長まで務めた人ですが、1524年に起きた農民戦争で農民の側に立ち、とらわれの身となりました。マリエンベルク要塞に投獄された2ヶ月の間に拷問が行われ、彫刻ができなくなったのではないかという話も伝わっています。1523年までかかって仕上げたこのマイトブロンの「嘆きの群像」は、彼の手になる最後の作品とも言われています。本によっては拷問については単なる噂だと書かれているのですが、自分の敵に回ったリーメンシュナイダーを、時の権力者がそう簡単に許すはずはないと私は思っています。このあと名誉も財産も奪われたまま、リーメンシュナイダーは6年後の7月7日に亡くなったそうです。
                       

 

                                                                                    
                                                   
              

                                                            <作品写真23> マイトブロンの歎きの群像  Beweinung in Maidbronn
                                                        Tilman Riemenschneider, 1519-1523   Katholischekirche St. Afra, Maidbronn
      



 この後リンパーもすぐ近くにあるとのことでリンパーの聖ペトロ・パウロ教会に寄り、騎士エーベルハルトの石棺彫刻を見ました。ひっそりとした人気(ひとけ)のない教会も、大体は開いていて中に入ることができます。
 最後はミュンナーシュタットまでのドライブ。ミュンナーシュタットの聖マリア・マグダレーナ教会はさすがに大きいせいか、人波が絶えませんでした。コインを入れると灯りがつくのですが、あいにく1マルクの持ち合わせがなく、暗すぎて写真が撮れませんでした。聖マグダレーナ祭壇の中央はすでにミュンヘンで見てきたマグダラのマリア像<作品写真4>(旅日記No.1)です。周りの小さな彫刻はハンガリーの聖エリザベートと聖キリアンでした。この祭壇の下に置かれていたのがベルリンの4使徒像です。有名どころは大きな博物館にみんな持って行かれてしまったという風情でちょっと寂しそうな祭壇でした。それにしてもここの彫刻は一つも写真が撮れなかったのが残念でなりません。

 ヴュルツブルクまでの帰り道。彼女は運転が大好きでちっとも苦にならないそうです。後部座席の二人は熟睡中。彼女といろいろな雑談をしながら、途中で小さいけれども甘いリンゴをもいだりして本当に46分で帰ってきました。予定以上の距離だったと230マルク要求されてしまいましたが気持ちよく行けたということでよしとしました。

 

 これで、無事予定していた目的は全部果たしました。次回は、留学を機に親しくなった方々を中心に旅日記を進めます。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11. フォルカッハを歩く

2015年06月07日 | 旅行

旅日記 No. 9

 葡萄畑の聖マリア巡礼教会

  残る目的はあと2つ。
 フォルカッハは、ヴュルツブルクの北北西、直線距離で測ると約21kmに位置します。このフォルカッハで、巡礼教会にある「ローゼンクランツのマリア」を見たいのです。この時は作品が天上からぶら下がっているため写真はよく写せませんでしたが、雰囲気だけは少しわかるので旅日記No.1に一応載せておきました。<作品写真3>楕円形の花輪に囲まれたマリア像で、ローゼンクランツのマリアと呼ばれ、花輪にはびっしりとバラの花が彫られているのでした。私をリーメンシュナイダーの世界に誘い込んだ作品の一つです。

 フォルカッハまではヴュルツブルク駅前から13番のバスで8:50出発(※註1)。ユーレイルパスを見せたら運転手さんはしげしげと眺めてから半額にしてくれました。結局1時間ぐらいでフォルカッハに着きました。
 問題はこれから先でした。小さな村で、きっとバスを降りたらすぐに教会がわかるのだろうと思っていたら、ここでは教会の尖塔が2つ見えて、どちらが目指す教会なのかわかりません。近くのベンチにゆったりと座っているおじいさんに話しかけてみたら、
「ローゼンクランツのマリアは、ここをまっすぐ行けば10分ぐらいで着くよ。」
と教えてくれました。言われたとおりにまっすぐ歩いたのですが、10分経っても15分経ってもそれらしき教会が見あたらないのです。街並みが切れた辺りに、
„Maria in Weingarten“(葡萄畑のマリア)
という表示が出てきましたが、何と9kmという矢印がついているではありませんか。歩けば2時間はかかってしまう距離です。胸がドキドキしてきました。ちょうど近くを通った若い二人連れに声をかけてみたところ、
「ここから歩いたら30分はかかるね。タクシーで行った方が良いと思うよ。」
とのことです。え~~~! まるで言うことが違う!! でも9kmを30分というのも考えてみればおかしな話。でもこうはっきり言われてしまったら、表示でも遠そうだし、街に戻ってタクシーを探すしかない。そう決心して3人で戻りました。ところがタクシー乗り場が見つからないのです。娘が、
「ホテルでタクシーを頼めばいいんじゃない? チップをあげればきっと電話してくれるんじゃないのかな。」
と名案を出してくれました。
 何とか近くの小さなホテルを探してフロントで声をかけると、ようやく若い女性が出てきました。彼女は快くタクシー会社に電話をしてくれたのですが、
「10時半まではタクシーはないそうですよ。でも、ここから2kmだから歩いても行けますけれど…。」
とのこと。歩いて20分ぐらいで着くというのです。彼女に電話代を渡して、仕方なくもう一度歩いてみることにしました。

 再度街中を通り抜けてさっき惑わされた矢印の場所へ。その先もう少し行ったら何と見えました<写真下>。美しい葡萄畑の上に可愛らしい教会が建っていたのです。 さっき、もう少しだけ先まで歩いてみたら、この景色が目に入ってほっとしたことでしょう。              


                                     

                                                           葡萄畑のマリア巡礼教会 Wallfahrtskirche St. Maria im Weingarten

 故植田氏の本(172頁)には、雪景色のこの巡礼教会の写真が載っています。夏と冬では、きっと中に入った感じはずいぶん違うことでしょう。この時は道ばたのりんごの木が実をつけ、プルーンが美味しそうになっていました。道に落ちているきれいなプルーンの実を拾って食べてみたら美味しいこと! でも何だか悪いことをしているようで一つだけ食べてすぐにやめたのでしたが。

 憧れのローゼンクランツのマリア像は、以前は壁に掛かっていたそうです。しかし盗難にあったため、見つかってからは簡単には盗られないように空中高くつり下げられたのでした。雰囲気はわかるにしても、その精巧な彫りは近くで見ることができません。また明るいステンドグラスからの光でどうしても逆光になります。せっかくの作品がこんなに遠くて見えにくいというのは大変残念でした。

 このフォルカッハへの小さな旅で、私は地図が必要だとつくづく思いました。もちろん近くの本屋さんで一生懸命探したのですが、これといった地図が見つからなかったのです。バスを降りて見えた尖塔はまったく目的の教会とは違っていたわけですし、3人の人に聞いてみんな言うことが違うのですから。最後の娘さんが一番正しい答えだったとわかりましたけれど、地図が手元にあって、およその距離がわかっていたらこれほどは混乱しなかっただろうと思うのです。

 帰りには予定より遅めのバスに乗ったのですが、行き先にヴュルツブルクと書いていなかったので乗っても良いのかどうか迷っていると、娘が「お母さん、呼ばれているよ」と言います。見てみるとたまたま朝と同じ運転手さんでした。そしてこれに乗れと合図しているのでした。乗り込むと次のSelingenで乗り換えなさいと言うのです。23分ほどして着くと、みんな鉄道の駅に向かって歩いていくので「電車なんですか?」と聞くとそうだとのこと。約30分ほどで次の列車が来るからそれに乗りなさいということだったのです。今ならインターネットで予め把握できていたでしょうけれど、当時はいきあたりばったりでしたから、バスがいきなり列車と接続したりしていると本当にドキドキでした。列車に乗って、フォルカッハから約1時間後にヴュルツブルクに到着。すでに午後2時37分!

 ※註1 現在ネット検索をすると、ヴュルツブルク中央駅からSeligenstadt(b Würzburg)までRBで11分。Seligenstadt, Prosselsheim 駅からフォルカ

      ッハ駅(鉄道は通っていない)まで8105番のバスで19分。駅からHauptstraße、Kirchbergwegを通って北上し、丘の上の教会まで約1.7km歩く。

     と出てきます。また2014年にフォルカッハを訪ねた島宏子さんによると、乗換駅(Seligenstadt駅)のバス停が建物の裏でわかりにくかったそうですが、黄色い建物の裏で、バスはベンツの

      小型乗り合いバスだったとのことです。私たちは真夏に行ったので大きな通常のバスでしたが、季節が違うと乗り物も時刻表も変わってくるのですね。


 次回は、ヴュルツブルクから訪ねる最後の目的地、マイトブロンへの旅について書きます。 

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10. 二度目のヴュルツブルクへ

2015年06月04日 | 旅行

旅日記 No. 8

 ちょっと時間を先送りして…ドイツ語留学をしてきました

  私は2006年4月26日に日本を発って、5月から6ヶ月間のドイツ語留学をしてきました。その間、少しはリーメンシュナイダーの作品に関係する文献を読んだり、ホームページの更新をしたりする時間があるかと思っていたのですが、それは大変な間違いでした。ドイツ語学校、ゲーテ・インスティテュートは厳しい授業で知られています。毎日自分がいかにできない生徒であるかを自覚させられ、苦しい宿題に追われ、輝くドイツの景色をゆっくり楽しむ余裕もなく過ぎていきました。その間の苦労話、それでも楽しかったできごとなどは「Midoriの留学日記」として元のHPに記録してあります。興味のある方はご覧になってみてください。(申し訳ありません。この後、Yahoo!のサービスが終了したため見られなくなっています。)

   ✤Midoriの留学日記へ

 留学した町はシュヴェービッシュ・ハルといって、まだ中世の雰囲気を残した美しい町です。交通は少々不便でしたが、たくさんの方と知り合いになり、助けていただいて何とか厚いドイツ語の本もリーメンシュナイダーに関することなら読むことができるようになりました。でも理解できるのは6~7割でしたが。旅行中、何とか地元の方とのやりとりもできる程度まで聞いたり話したりできるようになり、新たに友だちも増えました。

  下の写真、左はシュヴェービッシュ・ハルのミヒャエル教会です。斜めにみえますが、階段の上に立っている人の姿を見てください。これでまっすぐなのです。写す角度が斜めになってしまったのでした。<作品写真21>は、教会内のミヒャエル祭壇の中央部分です。ドラゴンを倒した聖ミヒャエル(一般的には聖ミカエルと言われますが、現地の人はミヒャエル教会と言っているように聞こえましたので、そう書きました。)をリーメンシュナイダーの弟子と言われているハンス・ボイシャーが彫ったものです。彼は、教会前のマルクト広場にある「魚の泉」<作品写真22>も作っています。そのどれも、私がシュヴェービッシュ・ハルに留学していた頃は知りませんでした。情けないことです。

  

 

           

            ミヒャエル教会                                             <作品写真21>  ミヒャエル祭壇(部分)               <作品写真22> 魚の泉

                     St. Michael                                               Michaelsaltar                                                         Fischbrunnen 

                                                                                       Tilman Reimenschneider Schule (Hans Beuscher), 1520頃      HansBeuscher, 1509 

                                                                                                   いずれも Schwäbisch Hall

               

 ドイツ留学中に、大切な方が亡くなられました。このHPに度々登場していただいた植田重雄氏です。故植田氏の書かれた著書『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社)に巡り会わなければ、私のサードライフは全く違っていたことでしょう。ここに、改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。

   ✤私は世に言うセカンドライフということばではなく、サードライフということばを使っています。最初は親に育ててもらった時代、セカンドライフは社会人として生き、子育てをしてきた責任のある時代、そしてサードライフこそが余生として自分の好き    なことを追求していける時代だと思っているからです。

 それでは、ここで2000年8月、親子3人の旅の続きに戻りましょう。


 ブダペストからオーストリア経由でヴュルツブルクへ

 ブダペストで思いがけずにリーメンシュナイダー作の聖母子像を見てからは、ウィーンに回りました。あいにく当時は美術史博物館にリーメンシュナイダー作品があることも知らなかったので観光旅行を堪能しました。その後、この旅で一番行きたかったヴュルツブルクに回りました。 

 ヴュルツブルクに再びやってきた最大の目的は、マインフランケン博物館にある作品をデジタルカメラで記録することでした。1999年8月に来たときにはフラッシュがたけなかったため、普通のカメラではぼやけてしまってあまりいい写真がとれなかったのです。それで、今回はまだ出始めた頃の340万画素デジカメを買って、リーメンシュナイダーのすべての作品を写したいと思ったのでした。
  その他にも4つの目的がありました。それは、前述の『リーメンシュナイダーの世界』に出ていた作品の中で、ヴュルツブルクを起点として行ける近くの街に、次のような作品があることがわかっていたからです。 

  1)ローテンブルクにある「聖血の祭壇」
  2)クレークリンゲンにある「マリアの昇天祭壇」

  3)フォルカッハという村にある「ローゼンクランツのマリア」
  4)マイトブロンにある「嘆きの群像」

この全てを見て回るというのが私の願いでした。そのために、ここヴュルツブルクには3泊しました。

 ヴュルツブルクに着いた日に、私たちはマリア礼拝堂、大聖堂などの市内のリーメンシュナイダー作品を訪ね、翌日の早朝からローテンブルクに日帰りの小旅行をしました。この中世の姿をそのまま残した美しい街の中央に聖ヤコブ教会があります。この教会に、リーメンシュナイダーの傑作の一つといわれる「聖血の祭壇」があるのです。この祭壇は、『リーメンシュナイダーの世界』では「晩餐祭壇」と紹介されています。最後の晩餐の場面をリーメンシュナイダー独特の解釈で彫ってある祭壇です。ドイツ語では「聖血の祭壇」となっているので、ここではこのことばを使わせていただきます。

 この聖ヤコブ教会には、昔から多くの信者が巡礼に参ったそうです。それはドイツ騎士団による「主の血の聖櫃」が祀られているからだとのこと。教会が建てられたのは13世紀、リーメンシュナイダーの祭壇ができあがったのは1505年だそうです。1501年に取りかかって5年間かかっていると、『リーメンシュナイダーの世界』には述べられています。しかし、『Heiligblutalter von Tilman Riemenschneider (ティルマン・リーメンシュナイダーの聖血の祭壇)』という小さな冊子には1504年にできたと書かれていました。
 みなさんも、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をご存じでしょう。あの横長のテーブルと、ずらりと並んだ弟子たちの図と思い比べると、この祭壇のこじんまりしたテーブルを取り囲んだ動きのある弟子たちの様子は実生活に近い感じがします。しかも興味を惹かれたのは、手前にお金の入った革袋を持って立っているユダを取り外すことができる鍵があるということです。その鍵でユダの像を取り外すと、テーブルの向こう側でキリストの膝に伏せって、「主を裏切る者はだれですか」と問うているヨハネが見えるのです。以前は1年に1回(と聞いたような気がします)、ユダを取り外して人々にヨハネの姿を見せてくれたようですが、今では壁に貼られた写真で見ることしかできません。この構図は、ヨハネとキリストの親しさを感じさせます。
 故植田氏が述べているように、この12人の使徒とキリストとのやりとりは、まるでドラマの一瞬を切り取ったようです。彼らの逼迫した会話が聞こえてくるような気さえします。リーメンシュナイダーは一人一人の弟子の気持ちを深く読み込み、人間洞察をし、そして彫り上げています。一般的にリーメンシュナイダーの彫刻は、心のうちに深く沈む悲しみ、敬虔さ、信仰心などを静かに訴えかけてくるものが多いのですが、この祭壇は故植田氏の書かれたような動きを感じるのです。

 この聖血の祭壇とクレークリンゲンのマリア祭壇の写真は、2007年の旅で写真家のヨハネス・ペッチュ氏が私に譲ってくださいました。そのときの旅日記で写真を紹介することにします。

 ローテンブルク駅からタクシーでクレークリンゲンに乗り付け、そこでマリア祭壇を見たのですが、あいにく堂内は暗く、高いところにあるマリアの表情はよく見えませんでした。敬虔な雰囲気だけは伝わってきましたが、絵はがきで見る限り素晴らしい像なのですけれど。もっと明るいところで見たいというフラストレーションを抱えながらヴュルツブルクに戻りました。そこから私たちはマインフランケン博物館に急ぎ、デジタルカメラでリーメンシュナイダー作品を写しまくりました。そして「作品名を必死でメモしたのです。
 博物館の出口で前年お会いした館員の方を見かけたので、少しは上達したはずのドイツ語で話しかけたら、「あぁ、去年リーメンシュナイダーの部屋にいた…」と思い出してくださいました。写真を2年分送るのでお名前と住所を書いてくださいとお願いし、ペーターさんと知り合いになりました。
 このあと、私がヴュルツブルクを訪ねるときには必ずペーターさんとお会いしています。昨年の留学中には合計4回マインフランケン博物館とペーターさんを訪ねました。ペーターさんは、一昨年既に博物館の仕事を定年退職されたのですが、週末には忙しくなるため、博物館に呼ばれて仕事をしています。私がヴュルツブルクに行くと必ず車でいろいろなところを案内してくださったり、美味しいレストランに連れて行ってくださったりするのです。これもリーメンシュナイダーに導かれたご縁ですね。

 この日のうちに旅の第一番の目的であるマインフランケン博物館の作品の写真を撮ること、および1)、2)の目的を達成しました。次回は残る3)、4)について書くことにします。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9. 今から警察に行く!

2015年06月03日 | 旅行

旅行記 No.7

 個人旅行の怖さ その1 スリに狙われた夫

 この2000年の旅行は、1999年に引き続き、自分たちで回りたいところを組んで回った2度目の個人旅行でした。いろいろなツァーのコースはほぼ似たような所を回ります。まぁそれがポピュラーなのでしょう。私たちも行きたい都市をピックアップして順番に並べてみたら、ほとんどツァーと同じようになりました。ただ多少ゆっくり計画できるところが個人旅行の良さ。一般的には10日前後でまわるツァーが多いのですが、ユーレイルパスを使って好きな都市にはちょっと長く滞在して…と組んでみました。またせっかくお金をかけ、長時間のフライトを辛抱してやってきた国に、できる限り長く滞在していたいのは当然の願いです。そういう思いから、ここ数年は3週間ぐらいの旅をするようになっていました。この年も3週間の予定でベルリン→ドレスデン→プラハ→ブタペスト→ウィーン→ヴュルツブルク→ローテンブルク→デンハーグ→デルフト→アムステルダムと回ることにしました。

 さて、予定を組んでみてから気がついたのです。私は中学生の頃にはウィーン少年合唱団の大ファンでしたから、彼らの歌声を生で聞けるものなら聞きたいと思っていました。彼らも夏休みかなと思っていたのですが、「夏休みでも残ったグループが日曜日のミサでは天使の歌声を聞かせてくれる」というような記事を何かで読んだのです。(実際は聞けませんでしたけれど。)ところがウィーンに着くのは土曜日、ブダペストが日曜日になってしまいました。ウィーンとその後回ろうと思っていたブタペストを入れ替えるとちょうどうまくいきます。いずれもチェコのプラハからは三角形のような場所に位置します。私としては単純に入れ替えただけだったのですが、これがとんでもない大騒動を引き起こしてしまったのです。

 ドレスデン、プラハと、美しい町を堪能し、プラハから8:37の列車に乗るときのことでした。まだEUに入っていないスロヴァキアの列車にはユーレイルパスが使えないと思い、切符売り場に並びました。刻々と発車時間が迫るのに列はなかなか進みません。仕方なく夫と私は隣同士の列に別れて並びました。こういうときに3人いると一人荷物番ができるので動きが楽です。娘がホームで荷物を見てくれています。何とか時間に間に合うように切符を買い、娘の待つホームに向かったときに、どうも夫の様子がおかしいのです。青ざめた顔でポケットやらデイパックを探し回ってから言いました。
「やっぱりやられた!」
ジーンズの後ろポッケに財布を入れておいてすられたようです。そんなところに入れておくと危ないと何回言っても「平気、平気」と受け付けなかった我が夫。おまけに「せめて誕生日の暗証番号は変えて」といっても「平気、平気」とあしらっていた彼は、いまやようやくその重大さに気づいたのです。盗まれた財布には現金、私と夫のカードが1枚ずつ、夫の免許証と身分証明書もちゃんと一緒に入れてあったのですから。しかし朝のこの時間に警察に行っていたら今日の予定は流れてしまいます。とにかく日本のカード会社に電話をしてストップをかけてもらうしかありません。でも悪いことは重なるものですね。1年前までは几帳面に持って歩いていた盗難にあったときの電話番号を、2000年はメモしてきていないことに気づきました。カードが使われてしまったらどうしよう…。大きな心配で胃に穴が開きそうでした。幸い息子が日本に残っているので、とにかく少しでも早く息子に連絡をして被害を食い止めるしかないという結論に達したのでした。


個人旅行の怖さ その2 今から警察に行く!

 こんな重たい気持ちをかかえながらも旅は続きます。列車はスロヴァキアとの国境の手前に止まりました。(念のため、この旅は2000年の話です。スロヴァキアはまだEUに入っていませんでした。)チェコの警官が入ってきてパスポートをチェック。すんなりOKでした。一駅走ってスロヴァキアに入り、再びパスポートの提示を求められました。浅はかなことに私は通り過ぎるだけならビザは必要ないと思いこんでいましたから、若くてハンサムなその警官が怪訝な顔をして3人分のパスポートを集め、
「今から警察に行く! 荷物を持ってすぐに下りなさい。」
と言ったときには、似せ警官かもしれないと思って大声で、
「パスポートを返してください!」
と叫んでしまいました。
すると彼は、
「あなた方はビザを持っていないから、今から警察に行く。」
と言うばかり。頭にあるったけの英語で「助けてください!」「彼がパスポートを返してくれないんです!!」とまわりにも応援を求めると、警官は気分を害したのでしょう、パスポートを持ったままさっさと出て行ってしまうのです。娘に「トランクを見ていてね」と言い置いて警官を追いかけると、夫と数人の助っ人がすぐにかけつけてくれました。一人の女性は英語の本を私に見せ、
「ほら、スロヴァキアは通り抜けるだけでもビザが必要だと書いてあるでしょう?」
と教えてくれるし、別の若者が怒る警官をまぁ、まぁとなだめてくれています。私がミスをしていたのだとわかるまでそんなに時間はかかりませんでした。これは謝るしかありません。私は慌ててその警官に頭を下げながら「ごめんなさい」と心を込めて謝りました。
すると、さすがにその警官もわかってくれたようで、
「一駅前に戻ってブタペストにいけば見逃してあげよう。」
と言ったかどうかわかりませんが、態度と顔つきがそんな感じで柔らかくなりました。夫と私はほっとして座席に戻り、荷物を持って列車を降りました。列車内にいた人々にも謝りました。そのあと我ながら図々しいとあきれることろなのですが、線路に下りてから、その警官に、
「ではどこまで行ってどう回ったらいいのか教えて頂けませんか。」
と、メモを書いてもらったのです。娘と夫もトランクを持って下りて待っていたのですが、あまりの出来事に目がウルウルしていた娘は、何とその警官とのやりとりをこっそり写真に写していました。恐ろしさからか、興奮からか、ピントはずれていましたが…。これにはびっくり。母娘ともたいしたものです。

 ※このときの写真を探してみましたが、あいにくアルバムには入れてありませんでした。

 こうして1日のうちに2回も大変な目に遭い、もうぐったり。ウィーンへの迂回の列車はなかなか来ないし、宿に連絡したくても電話もないし、疲れたってレストランもなければ、喉が渇いても日本のように自動販売機があるわけでもないのですから…。
 夜10時半頃、ようやくブタペストのホテルに着くまでに小さな苦労をどれだけくぐりぬけなくてはならなかったことか…。全部書いているととんでもなく長くなるので、この辺で止めておくことにします。
 なにはともあれ、ホテルの電話で息子にカード2枚の件を頼んだら快く「わかった」と返事をもらい、肩の荷が下りた気がしました。
 翌日、息子に確認の電話を入れたら、まだどちらのカードも不正使用はされていないことがわかりました。これでようやく旅の続きを楽しむことができるようになったのでした。

でも、個人旅行の楽しさ 思いがけないプレゼント!                                           

  このブダペストには、ホーソー駅の近くに大きな博物館が二つ、隣り合わせに立っていました。まずは開館直後の西洋美術館です。エジプトのミイラやクラナッハの作品が多く展示されていました。ちょっと疲れてカフェに入り、次の美術館に行こうかと立ち上がったとき、ふと隣の部屋が気になりました。そこに彫刻が見えたのです。私が、
「あれ? あの部屋見たっけ?」
と言うと、夫も娘もまだだったというので、ちょっと寄っていくことにしました。
「リーメンシュナイダーの作品があったりしてね。」
と軽口を叩きながら入ると、何と本当に聖母子像があったのです! 着色されてはいましたが、リーメンシュナイダーの作品です!! ここのところの嫌な体験がすっとびました。あわてて娘が持っていたカメラで写してもらいました。(ここにはオリジナルは載せられないのでコピーとして元の教会に戻された聖母子像の写真を載せておきます。)

                                                                 

                                                                   <作品写真20> シュバインツドルフの聖母子像

                                               Schweinsdorfer Madonna, Evang.-Luth. Kirche, Schweinsdorf

                                                                                                                  Kopie von der Madonna auf der Mondsichel in Budapest

                                                                                                                          Tilman Riemenschneider   1510-1520

                                            

     帰国してから『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社)を書かれた植田重雄氏にもこの写真をお送りしてみました。すると、
「この聖母子像のことは全く知りませんでした。小生も一度見てみたいものです。」
というお返事が届きました。

 ツアーではない個人旅行だからこその喜びと怖さをたっぷり味わった2000年の旅でした。

 次回は、この間の留学について、また、2000年の旅の続きで、ブダペストから回ったヴュルツブルクの旅の様子を載せます。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8. ベルリンの4使徒像

2015年06月03日 | 旅行

 

             

                         <作品写真15>                          <作品写真16>                       <作品写真17>                         <作品写真18>

作品写真15> 福音史家マタイ
        Evangelista Matthäus aus dem Predella des Münnerstädter Retabels
<作品写真16> 福音史家マルコ
        Evangelista Markus aus dem Predella des Münnerstädter Retabels 
<作品写真17> 福音史家ルカ
        Evangelista Lukas aus dem Predella des Münnerstädter Retabels
<作品写真18> 福音史家ヨハネ
        Johannes Evangelista aus dem Predella des Münnerstädter Retabels  

       Tilman Riemenschneider, 1490~1492 Skulpturensammelung und Museum für Byzantinische Kunst; Berlin (現在はボーデ博物館で展示されている) 

 

旅日記 No.6

ベルリンの4使徒像

 翌2000年、私はまたもや家族と共にドイツに行きました。夫は2回目。お金を出してもらえるというので喜んでついてきた娘も2回目。私は3回目のドイツです。今回は特別な思いがありました。
 というのも1999年11月末に私はバイクに乗っていて、トラックとぶつかってしまったのです。その後は足腰が痛んでしばらく歩けなくなりました。もう外国に行くのは無理かもしれない…と暗澹とした気持ちで年末を過ごしたのですが、いい鍼の先生と出会い、少しずつ歩けるようになりました。交通事故の保険で鍼に70回ぐらい通わせてもらい、何とか運動も旅行もできるようになりました。ほっとして再び出かけてきたヨーロッパだったのです。

 今回はアムステルダムから入り、ベルリンに飛びました。前の年にエアーフランスでタバコの煙に悩まされたため、今回はベルリンからまわるのならKLMで行ってみようということになったのです。この頃もっとマイレージのことを知っていたら、こんなにあれこれいろいろな航空会社を渡り歩かずに、マイルをしっかり貯めることができたでしょうに…。
 ベルリンは皆さんもご存知のように、大きな美術館、博物館がいくつもあります。その中でも私は特に文化フォーラムに期待をかけていました。そこにはリーメンシュナイダーの彫刻があるはずだからです。ここでも探して探して、ようやく最後に彼の作品を見ることができました。(何でいつもこうして探し回らないとたどり着けないのか不思議です。)それが4人の福音史家<写真15~18>と、ミュンナーシュタットのマグダラのマリア祭壇から一部運ばれた浮き彫り<写真19>でした。幸い2001年にフランクフルトのリービークハウスでこの4使徒像を間近に見ることができたので、そのときの写真を上に載せておきました。下は、浮き彫りの写真です。横から眺めると表情が全然ちがってきますので、ベルリンに行かれたときにはいろいろな角度からじっくり眺めてみてください。

         

                                                        <作品写真19> マグダレーナの前に姿を現した復活のキリスト

                                                 Erscheinung des auferstandenen Christus vor Maria Magdalena 

                                                 Tilman Riemenschneider, 1490~1492  Bode-Museum, Berlin


                                                                        


 ベルリンのボーデ博物館には、他にも素晴らしい彫刻がたくさんあります。リーメンシュナイダーの手になる作品と言われているものだけで14点、工房や弟子、周辺作家によるものも11点はあります。こうした大きな美術館や博物館には収納庫に入っていたり修理中だったりする作品があるので、なかなか確かな数はわかりませんが、ボーデ博物館はミュンヘンのバイエルン国立博物館と同じぐらいのリーメンシュナイダー作品数を誇っています。もちろん世界的に有名な作家の作品も多く展示されており、博物館島という世界遺産の一角にあるということもありますので、近くにいったら是非訪ねていただきたい場所です。

 次回は、この旅で起きた大ピンチのお話です。

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7. 大聖堂の彫刻

2015年06月03日 | 旅行

旅日記 No.5                                                                                                                

 威厳ある老司教の彫刻

 ヴュルツブルク市内の中心に大聖堂があります。この大聖堂の中には老司教ルドルフ・フォン・シェーレンベルクの碑銘彫刻<作品写真13>があります。聖堂内に立つ柱にはめこまれたこの像からは、生前の威厳ある生き方が感じられます。特に手袋をはめた手<作品写真14>が、素手と違う彫りで表現されているのに私は感銘を受けました。

 

                                   

                         <作品写真13> 老司教ルドルフ・フォン・シェーレンベルクの碑銘彫刻    <作品写真14> その細部(手)
                                       Grabdenkmal für Bischof von Scherenberg
                                        Tilman Riemenschneider und Werkstatt, 1496-1499  Dom, Würzburg


 


 『リーメンシュナイダーの世界』211頁で、植田重雄氏は次のようにこの彫刻について書いています。

 「この老司教は26年も司教領主の地位にあって、聖俗界で数々の功業を成し遂げた人物である。老齢とはいえ鋭い眼光、大きく張った眉、高い鼻、ひきむすんだ口、最後まで明晰な頭脳、的確な判断を下す能力を示し、名司教といわれるにふさわしい偉容である。しかしリーメンシュナイダーは、目もと、口もと、頬、頸の皺を克明にえがき、統治する者の精神に刻み込まれている孤独感や疲労の影をけっして見逃していない。」
   


 それにしても、リーメンシュナイダーの彫るライオンは、どこか愛嬌があって、いつもちょっとほほえみがわいてきます。何を参考にして彫ったのかなぁと考えてしまいます。老司教のしわの刻まれた顔と、このライオンの対比も興味深いところです。

 この大聖堂には、他にもリーメンシュナイダーおよび工房作品が(私の知っている限りでは)14点あります。入ってすぐ右奥の小部屋にも、また廊下にも、地下にもありますので、せっかく大聖堂に入ったら、是非宝探しをしてみてください。

 また、大聖堂の少し奥に当たる場所にもドーム美術館があり、リーメンシュナイダー作品が展示されているときがあります。展示内容によってはせかっく入っても見られない場合がありますので、入り口で確かめてみることをお薦めします。大聖堂とマルクト広場の間にあるノイ・ミュンスターにも、マルクト広場にあるマリア礼拝堂の中にも、素晴らしい彫刻が佇んでいます。ヴュルツブルクは世界遺産としてレジデンツが有名ですが、リーメンシュナイダーの作品を見たい方には一度では回りきれないほどの作品があります。是非ゆっくりと日程をとって訪ねてみてください。

 1999年の旅の話はこれで終わります。他にもバンベルクやケルンに回り、いくつかの作品を見ましたが、著作権の関係で作品の写真をお見せできないのでとばします。次回から2000年の旅の話を載せていきます。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6. リーメンシュナイダー彫刻の特徴

2015年06月03日 | 旅行

リーメンシュナイダー彫刻の特徴
 
 
前頁の最後にリーメンシュナイダーの彫刻には特徴があると書きました。これは彼の彫刻を一度でもごらんになった方には「うん、うん」とおわかりになると思うのですが、まだの方もいらっしゃると思うので、文章に書いてまとめてみたいと思います。

(1) 軽くひねった姿勢
  聖バルバラ<作品写真9 旅日記No. 4>のように、どこかふと身体をひねっていて、それでいながら重心が安定しているという不思議な姿勢を
  とっている彫刻が多いのです。細長いS字型といったらいいのでしょうか。顔も右か左に心持ち傾いています。
 
(2) 繊細な彫りの手
  聖セバスチァンの手<作品写真1 旅日記No. 1>に代表されるように、非常に繊細な彫りが施されています。手はまるで生きているような表情で、
  男性の手はゴツゴツと静脈が浮き出ており、女性の手はややふっくらとしていて静脈がほとんど見えません。男性と女性の手を彫り分けているよ
  うに思われます。

(3) 表情の深さ
  これはことばで表現するのはとても難しいことですが、聖セバスチァン<作品写真1>や悲しむマリア像<作品写真10> のように、まなざしが遠く
  に向けられている像は何を考えているのだろうと、しばしたたずみたくなる奥深さがあります。また磔刑像のキリストのように、どこも見てはいないの
  だけれど、内なる神を見ているような深さを感じさせられる像が多くあります。 
    
    
  
     
                      
    

          <作品写真10> 悲しむマリア像 別名アホルスハウゼンのマリア                 <作品写真11> <作品写真12> 三日月の上の聖母子像
                         Trauende Maria                                           Mutter Gottes auf der Montsichel
                                    Tilman Riemenschneider, 1505                                                                    Tilman Riemenschneider, 1516-1522
     
                                                  Mainfränkisches Museum, Würzburg                                                               Liebieghaus, Frankfurt am Main
     
                  
 

(4) 髪の毛のカール
  <作品写真5 旅日記No. 3>のアダムのように、髪の毛のカールはよくこれだけくるくると彫り上げたものだと思うほど盛大にカールしており、手抜き
  が感じられません。当時の方々は本当にこんなにカールしていたのでしょうか? それともリーメンシュナイダーの好みなのでしょうか?

(5) 洋服の襞
  服の襞は、どの彫刻でも布の質感が感じられるぐらいに丁寧に彫られています。    

(6) 目
  概して「たれ目」です。

(7) 顔の形
  特に女性の像では、顔が卵形で、あごにえくぼのようなくぼみ<作品写真12>が見られることが間々あります。姿形はほっそりしているのに、あごに
  線が入っていて(二重あご?)ふっくらした感じを与えていることもあります。




 これは私が今まで実際に見たり、本で写真をみたりした上での印象なので、異議をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。ただ、“Tilman Riemenschneider und Werkstatt ”とか“Umkreis” と表示された作品では、上に挙げた7点のどこかに違和感を感じることがあるのです。特に、女性の顔が四角だったり、襞が雑だったり、表情の奥行きが物足りなかったり、あまりにもスマートだったりすると、これはお弟子さんに彫らせたものか、あるいは誰かがリーメンシュナイダーの作風を真似て彫ったものかと考えてしまうのです。この印象を実証するということは大変難しいことですが、これからも考え続けていかなければならないテーマです。

 次回はヴュルツブルクの中心にある大聖堂のリーメンシュナイダー彫刻についてです。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5. マインフランケン博物館

2015年06月02日 | 旅行

 旅日記 No.4

 マインフランケン博物館の続きです

 この部屋の突き当たりには砂岩でできた聖母子像<写真7>があります。1520年の作で、熟練した腕を感じさせるものでした。部屋の中にはこの他にも木彫りの聖母子像が何体かありましたが、その内の一つ<写真8>を警備の方は誇らしげに説明してくれました。こちらの聖母子像は1500年の作で、まだちょっと表情が出来上がっていないように感じましたが、後ろ姿までていねいに彫られていて、長い髪がきれいにカーブしながら腰の辺りまで届いているのです。
 近くの聖母子像の中には、リーメンシュナイダーの彫刻とはちょっと雰囲気が違うものもあります。これはリーメンシュナイダー派の作品や工房の作品で、特に前者の作品は一見似ていますが、細かな彫りはちがう人の手によるものではないかと感じられる作品が目に付きました。

 

                                 

                     <作品写真7> 聖母子像                                       <作品写真8> 聖母子像
                              Maria mit Kind                                                  Maria mit Kind

                                Tilman Riemenschneider,1520頃                                                                    Tilman Riemenschneider, 1500頃
                                                               Mainfränkisches Museum                                                                      Mainfränkisches Museum                          

 

 

 もう一つ、特に印象に残った作品があります。それが聖バルバラ像<写真9>です。ミュンヘンでも清楚なバルバラ像を見てきましたが、彼女は、ハウベというかぶり物をかぶっていました。植田重雄氏の著書によれば、これはオリエンタル風の丸くふくらんだかぶりもので、こうした衣装は中世後期のものだそうです。しかし、マインフランケン博物館のバルバラ像は頭に何もかぶっていません。そして何だかとても清純な少女のような面差しです。ミュンヘンのバルバラ像は清楚ながらももう少し成熟した女性のように感じられました。顔の輪郭からくる印象の違いかもしれません。
 
 聖バルバラについて植田重雄氏はこう書いています。

聖バルバラはヨーロッパでは人気のある聖女で、さまざまな伝説があり、女性の聖者としてはマリア、アンナについで崇拝されている。12月4日、クリスマスにさきがけてバルバラが祀られるのは、処女のままキリストへの愛に殉じ、殉教をとげたためである。一般の人々が死に臨んでおそれることのないようにという誓いを立てたので、死の不安を取り除く聖女として崇められた。とくに危険の多い山林の作業、鉱山で働く人々から熱狂的な崇拝を受けている。(『リーメンシュナイダーの世界』57頁より抜粋)
 
  
                                                                                                     <作品写真9> 聖バルバラ
                                                                                    Heilige Barbara; Tilman Riemenschneider, 1510

                                                                                                  Mainfränkisches Museum
                                                      
                                                                                                   


 この部屋を出て少し行くと、キリストが天の神に祈っている間に眠ってしまう使徒の彫刻があります。砂岩でできたこの彫刻もリーメンシュナイダーの特徴を持つ表情ですが、工房の作品と書かれていました。彼の作品につけられた説明のプレートには「ティルマン・リーメンシュナイダー」「ティルマンリーメンシュナイダーと工房」「ティルマンリーメンシュナイダー派」「その周辺」と約4種類の表示がありました。こうした説明文の違いがどこから来ているものなのか、恐らく手元にあるドイツ語や英語の本には詳しく書かれていると思うので、これから読み解かないといけないと思っています。ただ印象として「ウムクライス(辞書には周辺と出ていますが。)」と書かれた作品は表情がどこか違います。リーメンシュナイダーの作品の特徴については次回書こうと思います。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4. 初めてのヴュルツブルク

2015年06月01日 | 旅行

旅日記 No.3                 

 マインフランケン博物館
 

  リーメンシュナイダーが1483年から住んで仕事をした街、ヴュルツブルク。恐らく彼の彫刻が一番沢山残っているのもこの街でしょう。今回の旅の一番の目的、リーメンシュナイダーの彫刻を見るにはミュンヘンとともに欠かせない場所です。

 ヴュルツブルクに着いた日の翌朝、8時半に駅前のホテルを出て9時前にマリア礼拝堂に到着しました。壁は手入れしたばかりのようで白く輝き、入り口の門の上にアダムとエヴァの像が立っていました。これはレプリカで、オリジナルはマインフランケン博物館に移されているはずです。礼拝堂の中は参拝者もほとんどなく、静けさの中で騎士コンラート像をじっくり見ることができました。騎士と言いながらどこか繊細な哲学者のような顔をしています。
 ここから旧マイン橋を渡って急な坂を上るとマリエンベルク要塞に着きました。入り口かと思ったところはまだ城壁だったようで、奥にようやく入り口がありました。要塞と言うだけあって守りは堅固です。先に領主博物館に入り、その後マインフランケン博物館に入りました。同じ建物なので中でつながっているのかと思いましたが別の入り口から入り直さなければなりませんでした。

 マインフランケン博物館にもたくさんの展示室があり、その中を進んでいくとようやくリーメンシュナイダーの部屋に到着です。広い部屋にゆったりと彼の作品が並んでいました。ミュンヘンよりよほどたくさんの作品がありました。ザッと数えて70体ほどでしょうか。夫と私はゆっくりゆっくり全部の作品を見て回りました。この日はほとんど他に参観者はなく、警備に立っている男性はずっと私たちの動きを見ていたようです。どうやら怪しい人物ではなく、リーメンシュナイダーに興味津々であるとわかったようで、彼の方から話しかけてきたのです。
 私がことのほか感動したのは、聖セバスチアンでした。(旅の始まり参照)その矢の跡を示してくれたのはこの警備の方でした。他にも、アダム<写真5>とエバ<写真6>も印象深いものです。この対になった砂岩の彫刻は、リーメンシュナイダーの出世作とも言われているそうです。このオリジナルをここに移すとき、残念ながら足の下の方で切り離して運んだということでした。確かにオリジナルはふくらはぎの辺りでカットされた跡がありました。これも警備の方(次の年にもお会いしてペーターさんというお名前だとわかりました。)が教えてくれたことです。アダムもエヴァも左腕がなくなってしまっていますが、非常に澄んだまなざしが印象的でした。

 

                                             

                   <作品写真5> アダム Adam                             <作品写真6> エヴァ Eva
 
                                   Tilman Rimenschneider, 1491-1493   Mainfränkisches Museum, Würzburg

 

 

 次回は同じマインフランケン博物館にある聖母子像についてです。

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする