▶今、飛んでいきたいバイエルン国立博物館
❤バイエルン国立博物館の展覧会カタログ
▶ご無沙汰していました。
すぐにでも前回のブログ 253 の新聞記事について書くつもりでいたのですが、気が付けばもう1ヶ月半がすぎていました。その間に三津夫はいろいろと発信していましたので、もう既にご存じの方も多いかと思いますが、巻頭の写真はバイエルン国立博物館で8月1日まで開催されている「KUNST & KAPITALVERBRECHEN(芸術と大罪)」のカタログです。本当なら今、飛行機でミュンヘンに飛んで行き、ゆっくりと訪ねたい展覧会なのですが、コロナ禍ではそうもいきません。仕方なくインターネットでこのカタログを買い求めました。それでもまだ私はこの内容をほとんど読んでいないのです。ファイト・シュトースが描いた絵の内容をきちんとお伝えできるまでには、まだ時間がかかりそうです。
▶さて、前回載せたフランクフルト・アルゲマイン社の新聞記事についてです。
トップにはおよそ以下のようなことが書かれています。
「Schuld ohne Sühne?
贖罪(あがない)は無いのか? (註1)
一人は頬に穴をあけられ、もう一人はひどい拷問で手をおかしくされた。なぜティルマン・リーメンシュナイダーとファイト・シュトースはこのように激しい罰を与えられなければならなかったのか。彼らはともにミュンナーシュタットの祭壇を作った名工であるのに。今、ミュンヘンで彼らの足跡を辿ることができる。」
その後の記事の概略をまとめるとこのような感じです。
「ファイト・シュトースと彼の工房はポーランドのクラクフ大聖堂でマリア祭壇を作り、一生暮らせるほどの収入を得た。しかし、シュトースは、かんしゃく持ちで争いの多い男だったため税金を払えない状態になった(註2)。そこで彼はある証書の書き換えをして捕まってしまう。書類偽造は当時のニュルンベルクでは死罪に値するほどの大罪だったが、それまでの功績によって両頬を熱した鉄で突き刺されるという拷問を受け、一生焼き跡が残る状態となって放免となった。
しかし当然ニュルンベルクでは仕事ができず、ウンターフランケン(バイエルン州の北)に位置するミュンナーシュタットに逃げ出した。そこでは罪人ではあってもシュトースの力量に免じて、1490~1492年に制作されたリーメンシュナイダー祭壇の彩色(註3)と、両翼の裏側に絵を描く仕事を依頼する。今まで彫刻家として名をあげてきたシュトースが鑿を筆に持ち替えて制作した祭壇と祭壇画が今でもミュンナーシュタットのマグダレーナ教会に残っている。
一方、近代の感覚ではすばらしい芸術作品とされるリーメンシュナイダー祭壇は、当時は裸体表現は恥ずべきこととされていたため、マグダレーナのあらわな乳頭はカンナで削り取られ、色を塗られ、さらに250年後には祭壇そのものが片づけられたのだった。そして再び開かれた祭壇は部分部分が散逸し、様々な変遷を辿ってベルリンとミュンヘンに買われていった。
このような素晴らしい祭壇彫刻を残したリーメンシュナイダーもまた、1525年の農民戦争では農民の側に立ったために、鎮圧後に囚われの身となった。ちまたで言われたような腕を切られたということはなさそうだが拷問を受けた可能性はあり、釈放後の作品は見られない。
しかし、一体ファイト・シュトースの付加価値とは何なのか? 彼の描いた祭壇画のどこが特別だったのだろうか。それは司教区の聖キリアンの伝説描写が尋常ではない構想力を示していることだ。聖キリアンの拷問と斬首を画策した公爵夫人ガイラナや下手人の描写は現代でも尋常ならぬ残酷さを放っている。
シュトースは1506年に皇帝マキシミリアンの恩赦の手紙を受け取り、再び仕事ができるようになった。彼はリーメンシュナイダーよりよい最期を生きた。
現在ミュンナーシュタットの祭壇は修復中のため、部分部分の彫刻やシュトースの祭壇画がバイエルン国立博物館で展示されている。」
福田 註1:この部分はあまりよく理解できていないのですが、このようだという予想です。良い訳がありましたら教えてください。
註2:上と同じ。
註3:リーメンシュナイダーは当時の常識である彩色を拒み、木地のまま何かしらの虫除けの塗装を施して仕上がりとしていました。
また、教会の冊子ではこの祭壇を「リーメンシュナイダー祭壇」と表記しているのでそちらに合わて書きます。実際はマリア・マグダレーナ祭壇だと思われますが。
相当すっとばした概略で申し訳ありません。
ただ、約500年前、直接会ったこともあるかもしれない二人の巨匠がそれぞれに本領を発揮した祭壇が小さなミュンナーシュタット村(?)の教会にあることを思うと歴史の重さを感じさせられます。その両人共が当時の大罪を犯したことになり、このカタログのタイトル「芸術と大罪」になった訳ですね。バイエルン国立博物館のビデオを見ると、どうやら当時の拷問具なども展示されているようです。私は今、ドイツの友人、シルヴィアとお互いに都合の合う日曜日の朝(ドイツでは土曜日の夜)にスカイプで話を交わしているのですが、彼女にこのシュトースが受けた拷問の様子が文面からだとわからないと話したところ、両方の頬に熱した棒が刺されたのだと説明してくれました。それでも例えば、その棒は刺さったままなのか、刺さった跡が残っているだけなのか、そうだとしたら穴はそのうちに埋まって目立たなくなるものか…。どうなんだろうと考えてしまいます。拷問というのは想像するだけでも胸が痛くなります。シュトースは自分が身に受けた拷問の恐ろしさを思いながら、きっと聖キリアンの祭壇画を考えて描いたのかもしれません。実体験に裏打ちされた迫力があるのでしょうね。
シルヴィアの話では、シュトースはクラクフで得たお金を誰かの詐欺で奪い取られてしまったそうで、ニュルンベルクに戻ってから今度は自分で詐欺をしたのだと言っていました。これがどこに書かれていたものか、今度もう少し詳しく聞きたいと思っていますが、ニュルンベルクは当時のドイツでは大変豊かな大商業都市だったそうで、特にこうした詐欺は許されない大罪だったようです。それに習うと現在の日本の政治家はどうなのでしょうね。
本当にコロナ禍でなければ飛んでいきたい展覧会なのに残念です。なぜなら普段は高いところに置かれていてじっくり見ることができないリーメンシュナイダーの彫刻が見やすい場所でしっかり見られるからです。せめてじっくりとカタログを眺め、ファイトシュトースとリーメンシュナイダーがどのように仕事をしたのか、もう少し勉強させてもらうつもりです。
▶補聴器 × 夏 の大問題
さてさて、補聴器を付けるようになって3か月目に入りました。どんな音量でどのようなときに身につけた方が良いのか、身につけない方が良いのか段々わかってきたのですが、現在、基本的に外して生活しています。それは夏特有の蒸し暑さからくる耳の痒みが原因なのです。
以前はこれほど耳が痒くなることもなく生活していたのですが、次第に蒸し暑くなってくるとどうも耳の奥が蒸れてきはじめました。補聴器を付けていると午後には何だかむずむずと痒くなり、思わず耳かきをしてしまいます。気をつけているつもりでしたが先月、いきなり耳の中がじゅくじゅくしてきました。いわゆる湿潤状態です。耳を押さえると水っぽい音が聞こえます。これは困った。子どもの頃に何回か中耳炎をしたことがあり、この湿潤状態がひどくなるととんでもなく痛くなること、治るまでが大変なことを知っています。そうならないように必至で耳かきをがまんして数日。少し音が乾いてきて、今度はガサガサするようになりました。湿潤がひどくならなかったのにはホッとしましたが、このガサガサが固まってきたのか、耳の聞こえが以前よりも悪くなってしまったのです。あわてました。
補聴器生活の前には、テレビの音量は21~23位にしないとよく聞こえなかったのが、最初の補聴器でピンピン響くようになったときは補聴器を付けて13~14でも十分聞こえるほどでした。そこで一回目の補聴器の調整時には基本の音量を少し下げてもらいました。これで、補聴器を付けた状態で16~18位のテレビ音量となりました。2回目の調整でもう少し基本音量を下げてもらった後で痒み問題が勃発。じゅくじゅくしているところに補聴器を入れるわけにはいかず、裸耳でテレビを見ているとやはり21~23の音量になります。ところが湿潤がおさまったらこれでもよく聞こえない。テレビはできるだけ三津夫が隣の部屋にいないときに音量を24~25ぐらいまで大きくして見る感じでした。
このまま耳が塞がった感じではどうしようもないので、補聴器を付ける前に行った耳鼻科で診てもらいました。するとカメラに写ったのは大きな耳垢でした(失礼)。固まって耳を塞いでいたのできれいにこれを掃除していただき、鼓膜にも傷は付いていないことが確かめられてホッとしました。
夏の教訓
★蒸し暑い時期は必要な時だけ補聴器を付けることにして、普段は裸耳ですごす
★かゆくなったらきちんと耳鼻科で診てもらう
季節が変わればまた違う問題も発生するのかもしれませんが、1年経ったら大分上手に使えるようになるのではないかと期待します。蒸し暑い夏は大敵と悟りました。
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