リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

66. エルケさんの笑顔

2017年04月30日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅 No.30


    

   ヴァルトブルク城のオーヴ 左は図書館 右は何の部屋のドアだったか忘れてしまいましたが、家に帰ってパソコンで写真を見たらたくさんのオーヴが映り込んでいたので驚きました。


◆10月30日(日) エルケさんの笑顔 12490歩

  今日からドイツは冬時間。間違えないように昨日エルケさんに腕時計を直しておいてもらったので安心です。朝食用に買い物に出たのですが、日曜日の朝で、どこも閉まっていました。仕方がないのであちらこちらでいただいたお菓子や残っていたパンで軽い朝食。
 9時にホテル前に出るとちょうどエルケさんの車が停まっていました。ヴァルトブルク城に向かう道はまだ早いので混んでいませんでした。(帰るときには道路が混んで、ヴァルトブルク城への入り口は閉鎖されていました。)空いているところを探して駐車、細い階段を上がります。エルケさんも体調が整わず、今まで見たことが無い苦しそうな様子に胸が痛みました。

 それでも元同僚と会うと以前の笑顔がパーッと戻ってきて、お城にいる間は以前のエルケさんのようにエネルギーに満ち溢れていました。彼女がこの地から離れられない気持ちが心の底から理解できました。マルティン・ルターの部屋、歌合戦の間、リーメンシュナイダーの彫刻などをもう一度見て回り、一緒にコンサートを聴いたこと、庭でワインパーティーを開いてもらったことなど、たくさんの思い出を語りながら歩きました。2017年には宗教改革500年を迎えるということで、ますますヴァルトブルク城の訪問者も増えるようです。私が写したルターの部屋近くの図書室の写真(頁のトップ・左)には、たくさんのオーヴ(写真などに映り込む、小さな水滴の様な光球)が映り込んでいて、何かルターが残した精神も高揚しているのかもしれないと思えるほどでした。


       

                ルターの書いた手紙                                ヴァルトブルク城

 ヴァルトブルク城に別れを告げ、夜また迎えに来てくれるというエルケさんがホテルまで送ってくれました。ここからは私の目的の一つ、ゴータという街にある城美術館までリーメンシュナイダーの弟子に当たるペーター・デル(父)のレリーフを見に行くのです。
  アイゼナハからゴータまでは列車で30分。駅は小さくて質素でしたが町はなかなか大きく、歴史のある町のようでした。しかし、残念ながら美術館では探しても尋ねても結局ペーター・デル(父)の作品を見付けることができず、どっと疲れが出ました。


  夜はエルケさんが思いがけず丘の上のホテルに夕食を予約してくれていました。ウヴェさんが疲れているようだからと。でも、いつ引っ越しがあるかわからない中で散財させるのは内心とても辛く思いました。喜んでお食事に呼ばれるのが彼女にとっては一番嬉しいことのはずですが、私は量をあまりたくさん食べられないのです。その分、三津夫があまり口に合わないものを頼んでしまったようでしたが頑張って食べてくれて、少し気持ちが治まりました。
 ホテルの前で彼女の今後の幸運を祈って、握った手に私のエネルギーを込めてお別れしました。
 ※2017年2月末、大家さんから今後も住んでいいというお話があったそうです。息子さんは別のところに住むことになったとのことでした。本当に嬉しいニュースでした。

  ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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65. ドイツのおへそに向かって

2017年04月29日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.29

  

         

     ヴァルトブルク城遠景と夕暮れの町 アイゼナハ


▼アイゼナハ 10月29~10月31日(2泊)
  ◆10月29日(土) ここにも歪みが… 5007歩  

  今日は二人旅で一番長距離の移動です。ザルツブルクからドイツのおへそに位置するアイゼナハまで行くのですから。そのため座席予約を取りたかったのですが、フライブルクで唯一予約が取れなかったので心配でした。何とか早めに出て乗り継いでいくしかありません。
 6時20分に準備ができたので階段を下りていたらパジャマ姿の宿の主人が出てきて鍵を開けてくれました。6時頃になったらもう宿の人も起きているだろうと思っていたのですけれど、申し訳ないことをしました。
 駅には7時前でも開いている店があり、待合室に席を確保してサンドイッチと珈琲を買ってきて朝食。前の席に座っていた女性が立ち上がった拍子に、彼女のトランクの柄が私たちの珈琲にぶつかってほとんどこぼれてしまいました。一生懸命謝る彼女に「大丈夫ですよ」と言いながらも、心の中では「もったいなかったなぁ…」と思ってしまいました。

 7時頃5番線に上がるとメリディアンというローカル列車が始発で入ってきました。ここからミュンヘンまではまず快適に行けそうです。空いていたのでトランクもちゃんと置くことができ、ゆっくり座れました。
 9時過ぎに順調にミュンヘンに着きましたが、問題はここからです。ライゼ・ツェントルムに行き、ローカル列車でアイゼナハまで行くのにどう行ったら良いかと尋ねました。(インターネットでは長距離移動でのローカル列車までは検索できないのです。)快くインフォメーションをプリントアウトしてくれたので三津夫とゆっくり眺めてみました。しかしこれでは途中の乗り換えが数分しかなく、ドイツ鉄道では危険だと判断して超特急に乗ってみることにしました。予約しようとしても空席はないといわれていた列車です。ホームに行くと清掃中でしたが、すぐにドアが開いたので念のため三津夫と2カ所に分かれてボックス席に座りながら様子を見てみました。どこも予約先が書かれず「空席」となったままで判断のしようがないのです。普通は「この席はどこまで予約が入っている」という表示が出るので、この席なら○○駅までは座っていけるという判断ができるのですが、空席のはずがないのに全席が空席と表示されているのですから。案の定、三津夫が座った席は「ここは私たちの席です」という人が来て座り、三津夫は私の方に移ってきました。「こちらも予約していますという人が来たらしょうがないね」と言いながら座っていると、結局ここは無事でした。列車はミュンヘン→インゴールシュタット→ニュルンベルク→ヴュルツブルク→フルダと回って走って行きます。その都度誰か予約者が来るかと落ち着きません。ヴュルツブルクでは多くの若者が乗ってきてうるさいほどでした。立っている人が何人もいて列車は徐々に遅れ始めましたが、フルダまでとうとう「予約しています」という人は現れずに座っていくことができました。やれやれ。
 フルダ駅で1時間ほど待ち時間があったのでその間に駅でケバブを食べました。でも店員がぎすぎすした表情で、やはり美味しさもいま一つ。「ブライザッハのケバブは美味しかったね」と思い出話が弾みます。14時14分の列車も10分ほど遅れて来て満席だったので、ここは1時間ほど立って外の景色を眺めて過ごしました。ドイツの景色はどこか潤っていて美しく、大好きなのですが、アイゼナハの近くになるにつれて森も景色もどことなく荒れてくるのです。旧東ドイツと未だにこうした差があるのは悲しいことです。

  アイゼナハ駅の前は工事中で通りにくくなっていましたが、新しいトランクはよく働いてくれました。エルケさんにはシュタインベルガーホテルに着いてから連絡すると約束してあったので、チェックインしてから早速電話を入れました。彼女の電話の声が何だかかすれていたのが気になりましたが、会ったときの笑顔でホッとしました。マリアンヌとホルストと同じように、エルケさんのお連れ合いのウヴェさんもこの年の初め頃に脳梗塞で倒れ、エルケさんも看病疲れで一時入院という厳しい日々を送ってきていたのです。ウヴェさんの病状がようやく落ちついた頃に大家さんから「息子一家が戻ってくるので新しい住居に移ってください」と言い渡され、それはしんどい思いをしていたのでした。本当は10月30日までに引っ越さなければならなかったのに新しい住まいはまだ見つからず、一番苦しい時期に会うことになったのでした。それでも「緑たちが来たら必ず訪ねて欲しい」と言われていたのでアイゼナハに2泊することにしたのです。
 車に乗って開口一番、「まだ新しい住まいは見つからないの。」と彼女は言いました。「これならと思うような手頃な値段の住まいは全部避難民用住居に回されてしまって、私たちの手の届くようなところはないのよ。ウヴェの病気があって高い階には住めないし、できればヴァルトブルクが見えるところでと願って探し回っているんだけど…。」と。いつもにこやかだったエルケさんのこんなに悲しそうな顔を見るのは初めてです。お宅に着いたとき、ウヴェさんは以前と同じようにお話されていましたが、一時は言葉も出にくかったと聞きました。ただ、疲れやすいようで、しばらくお話しした後、私たちは散歩に出かけました。エルケさんの配慮だったのでしょう。車で小高い丘の上に行き、谷向こうのヴァルトブルク城を眺めながらおしゃべりをしました。彼女が44年間働いた職場でもあり、人生でもある場所です。ここから離れたくないという思いはわかる気がしました。彼女はここによく散歩に来るそうです。以前はウヴェさんと、今は一人で…。ウヴェさんは滅多に外に出なくなったそうです。

 次第に日が暮れて家々に灯りが点る頃、家に戻って食事の支度。暖房費も節約しているようで「お客さまを通すのは初めてで恥ずかしいけれど」と言いながらキッチンの方が暖かいからと案内されました。ここで「卵焼きをしたいけど日本ではどうするのか教えて欲しい」と言われて、三津夫が中心となって卵焼きを作りました。といっても具の少なめのオムレツになりましたが。ウヴェさんは毎日1本ビールを飲むようにお医者様から言われているとのことで以前はワインだったのをビールにしているようです。顔色はとてもいいのですが、夕方来たときよりもずっとお疲れの様子で心苦しく思いました。ウヴェさんは、「テレビでイタリア地震の様子が報道され、今日も9人が亡くなった。貧しい人はもっと貧しい人に分け与えるが、金持ちはそうしない。私は5歳の時に母親の腕に抱かれてポーランドから逃げてきたんですよ」などと、しきりに話していました。避難民と自分の人生とを重ね合わせていたようです。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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64. ケーファーマルクト

2017年04月28日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.28


                  

            ケーファーマルクト 聖ヴォルフガング教会の祭壇


  ◆10月28日(金) 私鉄だったの?     9790歩

  今日はオーストリアでの日帰り遠足。朝7時20分にホテルを出ました。オーストリア鉄道のサイトで調べておいたWB961という7時52分発の列車に乗ります。切符は往復2人分で64,2ユーロと、結構な値段でした。列車は昨日と打って変わってモダンできれいでした。気分良く乗っていると検札。切符を出したら「これはこの列車には乗れない切符です。次の停車駅でザルツブルクに戻るか、ウェストバーンの切符を買ってください」と言われてしまいました。要するに池袋で西武線に乗るのにJRの切符を買っていたようなものなのですね。今更戻ったら今日の日程が全部狂ってしまうので、渋々買いなおしました。ただ、リンツで乗り換えた後はこの切符で通用するのだそうです。それにしても悔しいなぁ…。ヴェストバーンが私鉄だなんて前もってわかるには、相当な知識が必要だと思うのですが。でも今度からは気を付けないと。
 リンツで乗り換えた時に念のため窓口に行って間違えて買ったのだけれども返金は無理かとお願いしてみたら「前の日までだったらできるけど、当日、しかも乗ってしまってからではだめ」とけんもほろろでした。でも観光客でこんな風に間違える人って他にもいるのではないのかなぁと悔しい思いが残っています。
 リンツからはローカル列車で1時間弱乗ってケーファーマルクトに到着しました。三津夫が見たいのはケーファーマルクト聖ヴォルフガング教会の祭壇です。駅から町へと次第に登っていく道が教会に導いてくれて、迷うことはありませんでした。ここでも教会のドアは開いていて、祭壇をゆっくり眺めることができました。祭壇の作者はケーファーマルクトのマイスターと言われているようです。祭壇中央部の聖ヴォルフガングの像は、すぐ近くに住んでいた男性の顔のようにも思えます。「こういう人、いるよね」と。私には中央祭壇より両翼の浮き彫りがとても見事なのと、祭壇右横にいる愁いを含んで渋々立っているような顔の兵士(写真・上・右)が印象に残りました。まだ若い少年兵のように見えます。

  
  ヴェストバーンの列車  私鉄とは気が付かずに乗りました


  ケーファーマルクト駅で列車を待っていると杖をついたアジア系の男性が話しかけてきました。聞けばアフガニスタンから来たとのこと。ドイツ語がお上手ですねと言ったら、6カ月一生懸命勉強したそうです。もしかしたらアフガニスタンで足を悪くするような状況があって避難しているのかなと思ったのですが、表情は明るく、元気そうだったのでこの人ならちゃんと生きて行けそうだと変な安心をしました。
 リンツで下車して時間があったので何か温かい物を食べられるお店を探したのですが見つからず、結局サンドイッチと珈琲で済ませました。帰りはオーストリア鉄道とヴェストバーンの料金を比較してみてヴェストバーンの方が安いことがわかり、本を読みながら待ちました。列車はほぼ満席に近く、なんとか空いている席に三津夫と私と少し離れて座ることができました。日記を書いていたら少し気分が悪くなりました。列車内で酔うのは珍しいのですが多少昨夜の影響が残っているのかもしれません。

 宿に戻ってからインターネットの繋がりが良かったので、たまっていたメールのやりとりをしました。マリアンヌからインタビューを掲載した記事のコピーが送られてきたり、明日訪ねるエルケさんに携帯の電話番号の確認をしたり、クレークリンゲンのブルク牧師さんから「見付けた帽子をどこに送ったらいいですか」と聞かれたので、「またヘルゴット教会に行くからそちらに置いておいてください」とお願いしたり。慣れないタブレットでのやりとりもなんとかできるようになってきましたが、本当なら軽くて持ち運びのできるパソコンがあればと心から思います。指先でタップして文章を書くのはなかなかなじみません。
  夕方5時半頃、宿の主人に聞き、美味しい中華料理店を教えてもらいました。アジアキッチンというそうです。入ってみるとまだ早いので空いていて、ゆっくり座ることができました。ちょうど担当してくれた若い男性は何となくお隣の龍君に似ていました。そのうちお店も混んできて満席に。支払う段取りまで彼が準備してくれたので最後にチップを渡そうと待っていたのですが、ちょうど龍君に似た彼は新しいお客さんを接待し始めたので、その場だけ来た女の子がサッとポケットにチップをしまってしまいました。何だかガッカリ。こちらも目的の相手にチップをさりげなく渡せるように上達すればいいのですけれども。チップ文化にはなかなか慣れることができません。

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63. ザルツブルクまで来ました

2017年04月27日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.19

   

                    

                     ザルツブルク ドーム前            


▼ザルツブルク 10月27日~29日(2泊)
  ◆10月27日(木) 遅れてラッキー!  14951歩

  5時45分に目覚めて起床。昨夜の酔いは残っていなかったのでホッとしました。フライブルク7時55分発の列車に乗るため早め早めの支度をして駅へ。
  ホームがとても混んでいたのでどうしたのかと思ったら前の列車が遅れて乗客が溜まっていたのです。それが私たちも乗り換えるカールスルーエまで行くことがわかったので、私たちもその列車に乗りました。混んでいたので入り口近くにトランクを置き、その上に座ってほぼ予定した時間にカールスルーエに到着。ここからシュトゥットガルトまで行くのに予定していた9時10分発の超特急(ICE:イーツェーエー)が見当たらないのです。あちらこちらで列車の遅れが発生している模様。隣に来た特急(IC:イーツェー)が発車しそうだったので咄嗟の判断で乗ってしまいました。特急は超特急より20分近く時間がかかるのですが、この混乱の中で次の超特級がすぐに来るとは思えなかったからです。私たちがシュトゥットガルトから坐席の予約をしてある列車は9時58分ですが、既に10時3分。「どうかそっちの列車も遅れて着いて!」と祈りながら必死に16番線まで走りました。ホームに着くと、本当にこの列車も遅れていてラッキー!  思わず三津夫と顔を合わせて笑ってしまいました。綱渡りのような朝でした。
  シュトゥットガルトからザルツブルクまで4時間ほどかかるため、座席予約をしておいたのです。10分遅れで着いた列車はオーストリア鉄道で一昔前の列車でした。レトロだけどひどく汚れているわけではなかったのでホッとして座席に落ちつき、昼食は宿で作ってきたサンドイッチに買ってきたコーヒーで済ませました。予定より30分遅れで午後2時20分にザルツブルク駅に到着。この駅はオーストリアなのですがドイツとの境なのでジャーマンレイルパスが使えるのです。


 列車の窓からかすかに見えた虹、わかりますか? 


 地図を見ながらペンション・ヤーンに向かいます。駅前の通りには信号がなく横断歩道だけ。人が通るときには車がちゃんと停まってくれるので機能しているのですね。日本だったらなかなか渡れず困っていたでしょう。
 ペンションはちょっと古めの小さな建物でしたが、中はこぎれいにしてありました。経営者夫妻はアジア人。どちらの国の方かと思ったら受付の女性は中国から、お連れ合いは台湾の方だそうです。二人とも大変親切でした。ただ、昨日までのアパートが広々していたのでこの部屋が余計小さく思えました。椅子や机をなんとか移動して大きなトランク二つを広げるスペースを創りました。駅前ホテルはどこもとても高かったので、朝食付きで一人一泊4千円は破格の値段です。がまん、がまん。

 夕方まではまだ時間があるので市内観光です。以前家族で来たときに主立った歓光スポットは見ているので今回は祭壇中心。まずは川向こうの旧市街にあるフランツィスカーナ教会に行きました。中に入ると中央に大きな祭壇があり、金色に輝いていました。これがミヒャエル・パッハーの祭壇だと思ったのですが、三津夫は違うと言います。私は入り口で見付けた小さな栞を持って来ていたので三津夫に見せると、ようやく納得したようでした。比較的近くまで行けたので、一眼レフで撮影できたのがこの写真です。なかなか美しい聖母子像です。三津夫は家で本を見たときに回りの光(光背?)がなかったのでこれは違うと思ったのだそうです。確かに本に出ている写真と現場での作品は大分違うということは時々あります。ですから手元に写真をしっかり持っていないと見ているのに気が付かないということを私も体験しましたので、今はこれを見るのだという資料は持って歩くようにしています。それが結構重たい荷物になるのですけれども。


                     

                   フランツィスカーナ教会の祭壇


 三津夫が見たかったあと二つの作品は教会のすぐ隣に見えるドームにあるはずの聖母子像と祭壇。でもドーム内には見当たらず、隣接のドーム美術館にあるのではないかと入館しました。入り口で何も言われずに階段を上がると、チケット切りの男性がリュックは前に抱えるか元に戻ってロッカーにしまってくださいというのです。疲れているのにまた下りるのは嫌だと思って前に抱えたのですが、ここは撮影禁止だったため、リュックには一眼レフも入っているのでとても重たいのです。これはこれで疲れました。館内をぐるっと回って出口へでてしまいました。「あれ? 聖母子像はなかったよね」と三津夫と顔を見合わせ、館員に聞いたら、テラスを通り抜けて向こう側にあるはずだと言われました。そういえば日本では必ずあるはずの館内の案内図ももらえていなかったのです。テラスを通り抜けるとドームにある祭壇の後ろ側を通る不思議な構造。反対側の建物に入ったらようやく彫刻が出てきて、その中にガラスケースに入った小さな聖母子像が見つかりました。でもずっと先を歩いていた三津夫は見逃したようでした。フランツィスカーナ教会のつややかなマリア像に較べると「同じ人の手になるものかしら」と思うような目立たない優しげな聖母子像でしたので、三津夫も気が付かずに通り過ぎてしまったのでしょう。もう一つの祭壇には私も気が付きませんでしたが、宿に戻って三津夫の資料を見てみたら、やはり見た記憶がありました。三津夫にとって、今日の目標は3分の1の達成率でした。 
  ホテルに戻るまでの途中に中華レストランがあったような気がしたので探しながら歩きましたが見つかりません。迷い込んだ道で、中国人らしいツアーの一団が免税店に入っていくのを見ました。すごい勢いです。きっとたくさんお土産を買うのでしょう。結局レストランは見つからず、サンドイッチと果物を買って部屋に戻りました。夕食後、インターネットの繋がりが悪い中、なんとか明後日会う予定のエルケさんにメールを送り、疲れて9時半頃ベッドに入りました。三津夫はテレビのない部屋は初めてだなぁと言いながらもミュンヘンで買ってきた本をゆっくり眺めていたようです。

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62. 見知らぬ村へ

2017年04月26日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.18 


           

    思いがけず見ることができたニーダーロートヴァイラーという村にあるミヒャエル教会   村の様子 私の大好きなムラサキシキブもありました

 

◆10月26日(水) 隣村までレッツ・ゴー 13082歩
 

 備え付けのコーヒーメーカーで美味しい珈琲を入れ、昨夜買っておいたパンにハム、サラダで朝食。きれいな部屋での朝食はちょっとおしゃれな感じがします。
 フライブルク駅からブライザッハ駅までは列車で、そこからは1076番のバスでコルマールに着きました。途中ののどかな風景はドイツとはひと味違い、とても素朴な感じがしました。


 ウンターリンデン美術館はバス停のすぐ近く。あと数分で開館という頃で、既に何人か並んでいました。2015年に改装し、外観はとてもモダンになっていました。以前来たときに一眼レフでしっかり写真を写してきたのと、このところの疲れで重たいカメラを持って歩きたくなかったのとで、この日は小さいデジタルカメラだけの身軽な旅です。周りをぐるっと回ってから戻ると、既に長い列になっていました。ところが入ってみると、まず突き当たりのカウンターでチケットを買い、右側にあるロッカーに荷物を預けなければなりません。そして受付の長い列の間を「ごめんなさい」と謝りながら横切って、左側から入場するのです。「この動線は一体誰が考えたの?」と文句を言いたくなりました。このため、入り口近くはひどい混雑になっていました。上衣を脱いで預けたのでしたが、外の通路を通らないと先に進めず、冷えるのです。でも上衣を取りに戻るのはさっきの混雑を思うと気が重い。こうした修道院を改築したような美術館は、秋以降、上衣を着たままで回るべきだと改めて思いました。
  マルティン・ショーンガウアーの像(写真・下 August Frédéric Bartholdi 1857年作)を見たのは収穫でしたが、建物が新しくなってから却って不便になったという印象でした。それでもグリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇」を見に、パリ以外ではフランス第二の入館者数を誇っているそうです。でも、私たちは以前の少々古くてもゆったりした美術館の方が好きです。三津夫は前回の訪問時にここで見付けたショーンガウアーの厚い本を買いたいと楽しみにしていたのですが、残念ながら今回は見つかりませんでした。ショーンガウアーの生家も見たいというので町のあちこちで聞いてみましたが、知らないとか、もっとあっちだと方向を鼻の先で教えるばかりで詳しく教えてもらえず、ドイツの人たちの親切さとは違うなぁという印象ばかりが残りました。ドイツ語で聞いたからでしょうか。


       ショーンガウアーはなかなかの美青年だったようです


  帰りのバスに乗ってブライザッハで下車。お昼時だったので三津夫が見付けた裏通りのケバブ屋さんに入りました。若者でとても混んでいたから美味しいだろうと判断したのです。不思議なことにこのお店、後から後から若い男女がグループでやってきます。いつまでたっても列が空きません。なんとか若者の間に入って注文しましたけれど、食べてみてその理由がわかりました。ここのケバブは今まで食べた中で一番美味しい! しかも大盛りなのです。お薦めです。
  町から更に丘を登った先にブライザッハの聖シュテファン教会があります。ここにH・Lという作家の祭壇があることは知っていたのですが、写真撮影禁止のため印象がいま一つはっきりしませんでした。この教会に残されているショーンガウアーの壁画は以前も一生懸命見ていたのですけれど。今回、祭壇をよくよく眺めてマリアの爽やかな美しさに興味を持ちました。ちょうど堂内にいたおばさまが絵はがきなどを売っていたので見せてもらいながらすこし話をしていたら、このH・Lという作家はハンス・ロイだということ、すぐ近くのニーダーロートヴァイラーという村にあるミヒャエル教会にも同じ作家の祭壇があるということを教えてくれたのです。それならいっそ行ってみようかということになり、町のインフォメーションセンターに行ってバス便を確かめることになったのでした。すこし迷いましたけれども、この街では親切な人がインフォメーションセンターまで案内してくれました。担当の方に聞くと3時9分に隣村を通る102番のバスが駅から出ると言うのです。もちろん帰りのバスも4時50分にあるとのこと。こうなったらレッツ・ゴー! 念のために追記しますと、ブライザッハはドイツです。親切な人が多いと思うのはひいき目?

  ニーダーロートヴァイラーは本当に小さな静かな村でした。バス停のちょっと奥に聖ミヒャエル教会の塔が見えるので間違えることもありません。開いているかどうかが心配でしたが、ちゃんとドアが開いていました! しかも撮影もできるとのこと。ハンス・ロイの作風をご覧ください。聖母マリアの衣服はとても印象的な造作になっています。


        アップでお見せします  


  今日は、コルマールでは捜していたのに見つからなかったのが本とショーンガウアーの生家でしたが、そのかわりにブライザッハでは思ってもみなかったハンス・ロイの資料や隣村の祭壇をみることができて大変ラッキーでした。
 それでもちょっと心が重いのは、果たして切符のキャンセルが無事にできるかどうかということ。駅で説明すると、「隅にあるカウンターに行ってください」と回されてしまいました。そこで少しいかめしい顔つきの男性に一生懸命説明したところ、「でもあなたはこの金額で支払ってしまったのでしょう?」と言いながらも私の予約票をみて仕方がないと判断したのでしょう、コピーを取ってから渋々キャンセルに応じてくれました。ホッ!
  夜はお祝いにワインで乾杯。いつもはグラス半分しか飲まないのに、キャンセルできたことや思いがけない祭壇を見ることができたことで気分が良くなり、グラス一杯飲んだのです。その直後、すごく気分が悪くなり心拍数が上がってベッドへ。さすがの三津夫も心配だったようです。疲れているときは、お酒に弱い私は飲んではだめだと悟りました。一眠りしてから入浴し、アイロンをかけ、会計をまとめ、それでもむかむかが治まりません。思いついて梅干しを一つ食べ、お茶を飲んだらようやく気分も落ちついて、1時頃眠りにつくことができました。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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61. フライブルク

2017年04月25日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.17

  

     

   フライブルク路上のタイル模様

 

▼フライブルク 10月25日~27日(2泊)
 ◆10月25日(火) 高すぎる!!   9286歩
 

 今朝は一昨日と同じようにホルストが運転してきました。昨日の話で「僕は左手が2本あるんだ」と言いながら右手では紙がうまくつまめない様子を見せてくれたのでしたが、運転は差しさわりがないのだと改めてわかりました。一時、言葉も失ったのによくここまで普通に話せるようになったと感謝。ヨハネスは言葉が戻らないまま逝ってしまったのですから。
  旅が始まったときには皆と最後のお別れをするつもりでしたが、列車が走り出したときには、「またもう一度会いに来られますように」と心から祈りました。


        お元気で! 



  シュトゥットガルトとカールスルーエで乗り換え、フライブルクまで向かいます。フライブルクでは休暇用アパートを借りたのですが、駅から少し歩くようなので、ホームにあるコインロッカーがちょうど二つ空いていたのを見てトランクをしまいました。
  アウグスティナー美術館でもう一度グリューネヴァルトの絵を見てからミュンスターに回りました。ウルムでは寂しい感じがしましたが、ここはまだ宗教的な人々の拠り所となっていると感じました。何故かなと思ったら、多分たくさんの蝋燭が点っていて、それだけ多くの人の祈りが伝わってきたからではないかという気がします。多くの祭壇があり、今まであまりゆっくり見ていなかったと改めて思いました。三津夫に促されて少しずつリーメンシュナイダーだけではなく、同時代の作家の作品にも思いを馳せるようになったのでしょうか。

   

                      

            ミュンスター入り口の彫刻。流れるようなラインが美しい。



   町に出ると、歩道にはトップ写真のような素敵なタイル模様がありました。以前は気が付かなかったのです。きっとこの小道は初めて通ったのでしょうね。


  フライブルク駅で今後の切符と座席の予約をまとめて行いました。また、明日のコルマールまでの往復はフランスに入るためにジャーマンレイルパスも州ごとの格安チケットも使えませんから、往復切符を買っておきました。金額が表示されたときにとても高い気がしたのですが、どこがどう高いのか全くわからず、列も混んでいるので支払ってしまいました。
 トランクをロッカーから出してあれこれ道に迷いながら歩きましたが、家で打ち出してきた地図では最後の道がわからず、聞く人ごとに示す方向も違っていたので、アパートの担当者に電話をかけてようやくアパートに着きました。そこは大変きれいで広々した部屋でした。すぐ近くのスーパーに出向き、買い物をして夕食。
 夕食後に、気になっていた切符の見直しをしてみました。すると、ロストックまでの往復について切符そのものも一緒に注文したことになっていたのです。私はその区間ごとに「ここはジャーマンレイルパスを持っています」とメモを入れ、そのメモの通りに予約してもらったのですから、これはあちらのミスです。一度払ってしまっているのが気にはなりますが、明日キャンセルにトライすることにしてゆっくりお風呂に入り、床に就きました。

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60. シュヴェービッシュ・ハルでインタビューを受ける

2017年04月24日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.16


        - リーメンシュナイダー彫刻に感銘を受ける日本人女性 -   シュヴェービッシュ・ハルにおいてもまた。

    


 ◆10月24日(月)  電話でインタビューを受ける 23~24日で8000歩

 夜中に鼻づまりで目が覚めました。昨日も鼻がグスグスしていてホルストがシュヴェービッシュ・ハルで売られているドロップをくれたのでしたが、それがよく効くのです。そのドロップをもう一粒口に入れたら次第に鼻が通って、そのまま再び眠ってしまいました。まだ疲れが取れないのかもしれません。
 朝食は昨日いただいた様々な食材で済ませ、目の前のミヒャエル教会を見て回りました。10時に待ち合わせでホテルの前へ。今日はヴュルツ財団の美術館を見に行かないかとの提案。三津夫はまだ見たことがなかったので賛成し、町の中を歩いて行きました。もうマリアンヌとのおつきあいも10年になるのだなと思いながら。それでも、館内の移動は結構階段が多く、やはりマリアンヌの足取りは重くて疲れが見えました。

  お昼はまたお宅まで車で移動。パンをけずってベーコン、タマネギ、パセリを混ぜて作ったというお団子、レバーソーセージにザウアークラウトなどが出てきて、これまた大ご馳走でした。合間には昔のビデオを見せてもらいましたが、マリアンヌは女優さんのようにきれいで、ホルストもマッチョな実業家といった雰囲気。お金持ちの美男・美女夫婦がビジネスクラスで旅行し、五つ星ホテルに泊まっているのです。だからこそ私たちが二つ星、三つ星ホテルに泊まり、朝食も断って倹約に努めているのが可哀想に思えるのだろうなぁと改めて感じました。


   ザウアークラウトを盛り付けるマリアンヌ  


  昼食後、電話でのインタビューが始まりました。まずはマリアンヌが簡単に私の経歴を話し、私と電話を替わりました。質問はそれほど難しくなかったので誠意を持ってお答えすることができました。
  その結果、28日に記事になったのが頁トップにコピーしたものです。日本語に訳すと、およそ次のようになります。

 ヨハニターハレでリーメンシュナイダーの聖母子像に熱心な目を向けている人々。東京から来たミドリ・フクダ(右)はこのドイツの彫刻家について2冊の本を出版している。彼女はアメリカ、イギリス、フランス、ハンガリーなどリーメンシュナイダーの彫刻を撮影するために旅してきた。夫ミツオ(左)と共にマリアンヌ・シュピーゲル(中央)とホルストを訪ねてきたところだ。この日本女性とシュヴェービッシュ・ハルの住人はドイツ語交流家族として知りあった。現在66歳のミドリ・フクダは10年前にゲーテ・インスティテュートでドイツ語を勉強したのだ。その後、彼女は年金生活者となった。二人の友情は現在も続いている。 写真 Ufuk Arslan

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59. 2人旅の始まり

2017年04月23日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.15

  [パート2] 三津夫との2人旅
    ・ドイツの友人を再訪する
  ・三津夫の見たい祭壇を訪ねる
  ・主にリーメンシュナイダーの弟子、周辺作家の作品を訪ねる


                              

                    シュヴェービッシュ・ハル 聖ミヒャエル教会の聖ミヒャエル


▼シュヴェービッシュ・ハル 10月23日~25日(2泊)
  ◆10月23日(日) 元気そうでも心配な二人空港から 

   昨夜電話を入れておいたマリアンヌ。元気そうな声で安心しましたが、ホルストが昨年脳梗塞で倒れ、彼女は病院通いで大変だったのです。万が一ホルストの具合がまだ万全ではなかったら病院までお見舞に行かなければならないと思い、ルートとしては逆戻りになるけれども、けい子さんを送り出してからシュヴェービッシュ・ハルを訪ねることにしていたのでした。それでもホルストはもう家で過ごしているというのでホッとしました。
  シュトゥットガルト中央駅に10時20分頃に到着。シルヴィア、クラウス、アンゲリカ、ヴィリーが揃って見送ってくれました。この駅は数年前から大工事が行われていてあちこち不便で落ち着かない状態です。ヴィリーは「日本の京都駅は2年で作っちゃったんだからここの工事をする人間は日本に研修に行かないとダメだ。15年もかかるっていうんだから」と怒っていました。帰国して調べると京都駅ビルは3年7か月で竣工していましたが、確かにドイツの工事の進み具合は2年前とあまり変化が見られないような気がします。4人の笑顔の見送りを受け、準急列車でシュヴェービッシュ・ハルに向かいました。


              


  シュヴェービッシュ・ハル・ヘッセンタール駅では手動式ドアが開かず、あせりました。隣にいた若い男性が頑張って開けてくれたので助かりましたが、未だ古い車両はこんな事が起きるので恐怖です。
  ホームに下りるとホルストの白髪頭が見えました。少しほっそりしたかなと思いましたが「いやいや、体重は増えているよ」とのこと。マリアンヌも何となく足取りが不安定な気がして胸が痛みました。それでもお二人が元気で今まで通り家に居て漫才のような掛け合いを見せてくれることに安堵しました。シュヴェービッシュ・ハルでの目的はこれで充分だったのですが、マリアンヌはなんと私たちが滞在する間の食事を全部用意してくれていたのでした。この日の昼食は南瓜スープにマウルタッシェンという水餃子のようなお料理、ポテトサラダ。夕食は写真の通りの美しいサラダ。デザートは手作りケーキと盛りだくさん。三津夫は普段以上に頑張って食ベてはおかわりしたので、マリアンヌもご機嫌でした。食事の時間になると足取りもシャキッとして以前のマリアンヌに戻った気がして嬉しくなりました。
  一方、ホルストは一時マリアンヌの名前も覚えていない状態になって毎日彼女に名前を何度も聞き直し、少しずつ記憶を取り戻したと話してくれました。途中で歩き出そうとすると足下がまだふらつきます。座って話している限りは声も大きく、笑い声も相変わらずですが、目が離せない状態であることが伝わってきました。このような状況下で、忙しくてとても疲れているような様子のマリアンヌ。彼女がどんなに愛情をこめて、時間をかけてお料理してくれたのかと思うと心の中で手をあわせながらいただきました。下の写真は食べるのが専門のホルストのコレクションから。

 

                


  昼食後、マリアンヌが話があるというのです。何の話かと緊張したのですが、"Haller Tagblatt"という地方紙に私を紹介し、インタビューの段取りを付けてくれていたのです。記事として大きく載るかどうかはわかりませんでしたが、とりあえず写真は今日でないと写せず、ヨハニターハレ(美術館)にカメラマンが来てくれるというのです。その取材を受ける気はあるかというので、もちろんお願いしました。
 夕方3人でヨハニターハレに行きました。普段は堂内での撮影は禁止なのですが、この日は若い男性カメラマンに私の好きな彫刻の前で写していただくことができました。インタビューは明日です。
 夕食にはまたマリアンヌの家でご馳走になった上に明日の朝の分までパンやらおかず、ケーキをいただいてしまいました。下の写真は彼女の手料理です。まさにレストラン・マリアンヌ!

      

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58. 私の帽子はいつも旅をする

2017年04月22日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.14

 

         

         柔術の先生、ヴィリーらしいインテリア               ヴィリーの家で 窓辺のかぼちゃたち       


  ◆10月22日(土) 啓子さん、帰国   3051歩

   今日の第一目的は啓子さんのお土産を買いにスーパーマーケットに行くことでした。シルヴィアが日本人用にと調理してくれた温かい卵焼きをいただき、庭で採れたミニトマトやらパプリカなどの野菜もあって啓子さんも嬉しそう。
 10時頃出発して大きなカウフランドに行き、けい子さんはたくさんのサラミやチョコレートなど、本当にこれだけトランクに入るのかしらと心配になるほど買い込みました。一方、私は切実にあるものを探していました。それは毛糸の帽子。旅行に持って来たのは二つとも娘の奈々子が編んでくれたもので、一つは秋口に使える薄手のベージュの帽子、もう一つは厚手で真冬に頭を寒さから守ってくれる白い帽子なのですが、こちらをクレークリンゲンでなくしてしまいました。ブルク牧師さんに問い合わせてカフェで落としてきたことがわかり、保管していただいていますが、またクレークリンゲンに行くのは12月です。その間、寒くなったらかぶれる帽子が必要でした。バックナングの小さな町で3軒ほどお店を回ってようやく見付けたのが茶色くて温かい帽子でボンボンが乗っているのです。9ユーロでした。これで北風も大丈夫。そして、白い帽子が車ではと被っていたベージュの帽子も昨夜から見当たらなくなってしまったのです。クラウスが電話で確かめてくれたところ、昨夜のレストランに私の薄手の帽子が残っていたことがわかり、夕方取りに行くことになりました。「お手数をかけます」と心の中で手をあわせました。私の帽子はこうしてしょっちゅうあちらこちらに持ち主の手を離れて旅をしています。これも持ち主がおっちょこちょいだからに他なりません。

 

  バックナングの市場   昼食のテーブルとクラウス 

  一度家に戻り、買ってきた果物やチーズケーキの残り、朝のパンなどをお昼にいただきました。ゆっくりおしゃべりしながら食べたときの話題はやはり「トランク三題噺」でした。「空飛ぶトランク」「壊れたトランク」「はまったトランク」のうち2つは啓子さんのトランク。それでも中身は壊れなかったというのです。通販生活で買ったトランクの丈夫さが確かめられましたね。もう一つ「窃盗団のシートベルト」の話をして大笑いしたと日記には書いてあるのですが、内容が思い出せません。きっと啓子さんなら覚えているでしょう。また、彼女は音楽が好きでクラウスと話が弾んでいました。
 啓子さんは買い込んだお土産を無事にトランクに詰め終わりました。シルヴィアからも瓶ビールをもらったと嬉しそう。でもきっと重くなったことでしょう。来るときには私たち用に梅干しやお茶や果物まで用意してきてくれた人ですから案外来たときも帰りも同じぐらいの重さだったのかもしれませんが。
 列車は15時25分発。シルヴィアの家を14時頃出発してシュトゥットガルト中央駅まで見送りに行きました。ヴィリーもホームで待っていてくれました。列車は満席のようで座れたかどうか気になりながらも、外からだと中が見えないのです。方向違いに手を振っていたかもしれません。啓子さんが無事帰国するようにと祈りながら駅を後にしました。

 ここから向かったのはヴィリーの家でした。彼の家はシュトゥットガルト中央駅からもトラムで行ける範囲の街中です。ここでアンゲリカ(ヴィリーの彼女)が大事な会議が終わって訪ねてくるまで待つということでした。シャンパンで乾杯したりおつまみが出たりする中で、アンゲリカも合流。ヴィリーが一生懸命レストランに電話を入れ、GINZAという中華料理店を予約してくれました。
 6時過ぎにヴィリーの家を出てレストランへ。奥の部屋で丸テーブルを囲み、中華兼和食を楽しみました。その際、私は日本から持って来た「核兵器廃絶」「自衛隊のスーダン駆けつけ警護・派兵反対」の署名をお願いしてみました。だめならだめでしょうがないと思いつつ。でもみんな「よくわかる」と言って署名してくれたのでホッとしました。特に元教員だったアンゲリカは現在もシリア難民の子どもの面倒を見ている人で、戦争には絶対反対と深く共感してくれたのでした。
  このあとシルヴィアが、「緑と私はオーストラリアで出会ってから20年になるのよ」と乾杯してくれたのに驚きました。1996年、シルヴィアが19歳で、フライブルク大学の学生だったときでした。私もあの頃は海外に行くと「30歳?」と聞かれたものでした。20周年。この長い友情に感謝です。下の写真はアンゲリカとヴィリー(レストランにて)。


            

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57. ウルム経由でシュトゥットガルトへ

2017年04月21日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.13


                   

                    ブラウボイレンの修道院                         近くには鶏が自由に歩き回っていました


  ▼シュトゥットガルト 10月21日~23日(2泊)
  ◆10月21日(金) はまったトランク 15249歩


 携帯の目覚ましがまったく鳴らず(?)、三津夫が先に起きてつけた電気で目が覚めたのが6時40分。
 昨夜持ち帰って啓子さんと分けたパンとソーセージで朝食を摂り、ヨーグルトを食べたら、もう柿を食べる余地がなくてお昼に持って行くことにしました。去年ヨーラとヘルヴィックが日本に来たときに柿を食べたことが無いと言っていたのですが、今回の旅先では結構大きな柿をあちらこちらで見かけたのです。留学したときには無かったので、柿を見かけると買いました。三津夫は小さい頃から木になっている柿を食べてきた人なので、「柿は買うものじゃない」と言いながらも啓子さんの前では黙っています。このあとの二人旅では一度も買いませんでした。三津夫が帰国した後は買いましたけれど。

 いよいよ新しい真紅のトランクとの旅が始まります。
 朝降っていた雨も小降りになり、駅までの道は軽々歩くことができました。列車は空席も多いのですが予約がほとんど入っていたので三津夫とは別々に座りました。今日はシュトゥットガルトまで行くのですが、1時間ちょっとのウルム中央駅で途中下車。三津夫の楽しみにしていたブラウボイレンの祭壇を見に行くのです。トランクをコインロッカーに入れたのですが、けい子さんの少し小さめのトランクと私のトランクを一つのロッカーに入れられると思った三津夫、いろいろ試しましたが無理でした。結局5ユーロずつコインを入れて一人一つずつ入れました。これが後の大騒動になるとも知らず、身軽になってブラウボイレン行きの列車へ。

 ブラウボイレンでは空も晴れ、寒いけれども気持の良い小さな町並みを楽しみながら歩きました。修道院では残念ながら撮影禁止。ミッヒェル・エアハルト作の主祭壇は優しげなマリアが美しく、マリアに抱かれたキリストのほっぺも赤く染まって可愛らしい。厳かというよりは親しみを感じるような彫刻でした。撮影禁止でも写真を写している人がいて残念でした。でもできれば私もせっかく持って来た一眼レフで写したかった…。

 ウルムに戻る列車までまだ時間があるので、隣にある小さなバート博物館にも入ってみました。1階はお風呂の博物館だったと思うのですが、3階まで上がると大きなソリやベッドがありました。でも窓も階段も狭くて、到底この大きさのものが外からでは入りません。「一体どうやってここまでこれを運び上げたのだろう」と3人とも興味津々。ところが時計を見たら大急ぎで戻らないと列車に遅れることがわかり、残念ながら謎を解明するには至りませんでした。
  ブラウボイレンからウルムまでの乗車時間はたったの18分。その間に昼食をと思い、どこかで買っていこうかと思ったのですが、あまりお店がありません。啓子さんが「ここへ来る途中にパン屋さんがありましたよ」と教えてくれたので大急ぎでお昼を買いました。列車にはギリギリセーフ! さすがは「食べ物には目がない」と自称する啓子さんです。よくチェックしてくれていました。それでも列車の中だけでは食べきれず、ウルム駅のベンチで冷たい風に吹かれながら残りを食べました。


            

                         
 ウルムではまず大聖堂(写真・上)に向かいました。ここではハンス・ムルチャーの作品が有名です。中の座席にもミッヒェル・エアハルトが彫った半身像があり、写真を撮ろうと試みましたが、あまりにも暗くてうまく写せませんでした。ここには三脚が必携です。この大聖堂は世界一高い塔を持つ教会だそうですが、教会の周りが人間の立ちション(他になんという言葉を使ったら良いのやら)で傷んできているという新聞記事を読みました。悲しいことです。観光客も少なく、寂しい感じがしました。 
  次に大聖堂からすぐのところにあるウルム美術館に入りました。ここにも三津夫のお目当て、ミッヒェル・エアハルト作の聖マリア・マグダレーナ像があるのです。あまりゆっくりできないため、「この像を見たいのですがどこにありますか」と受付で尋ねたところ、なんと日曜日でないと見られないと言われてしまいました。展示が日曜日から始まるので、そこにあるのに入れない。これは辛いことです。啓子さんは明日東京に帰らなければならず、出直すこともできないので、なんとか見せてもらえないかと少し粘りました。すると、最初は無理だという感触でしたが、受付嬢が少し気持ちを和らげて係の人に話してくれました。背の高い女性が来て、やはり見せられないと言います。もう一度彼女に啓子さんが明日東京に帰るのでなんとか見せてくださいとお願いしてみました。すると「たたけよ、さらば開かれん」の通り、彼女の心のドアも開いてくれたのです。では入場券を買ってから来てくださいと言ってくれました。見られるのならと急いで切符を買い、ロッカーに荷物を入れ、大急ぎで受付嬢の教えてくれた方に向かいました。中は真っ暗で入り口には鍵がかかっていましたが、その女性が鍵を開けて、電気を付けてくれました。ようやく見られたのが聖マリア・マグダレーナの胸像です。髪の毛を覆う布、洋服の襞や模様も大変素晴らしく、皆大満足でした。

 他の作品も見て回っているうちに段々列車の時間が迫ってきました。ところが何故か気の良いイタリア系のおじ様につかまってあれこれ日本に関する質問攻めにあい、なかなか放してくれません。最後は列車の時間だからと急いで逃げ出し、ウルム中央駅へ。

  ここからがまた大変でした。そう、ロッカーに入れたトランクです。啓子さんのトランクがすっぽりはまり込んでしまって三津夫の力ではどうしても引っ張り出せないのです。シュトゥットガルト駅ではシルヴィアやクラウスが待ってくれているはずなので遅れるわけにはいきません。「お母さん、誰か探してきて!」と三津夫が叫び、急いで職員を探しに行くと、ちょうどホームで立ち話をしている若くて背の高い赤い帽子のお兄さんがいました。「すみません、力を貸してください!」と頼んでロッカーへ。怪訝そうについてきてくれた彼は、事情を察するとしゃがみ込んで力一杯トランクをまず床から引っ剥がして縦に向きを変え、引っ張り出してくれたのです。3人で大喜びして何度もお礼を言いました。そして無事、車中の人となった次第。

 教訓:あまりぴったりの場所に重たい物を無理に入れないこと。

  すぐ横に停まっている1本前の特急列車に飛び乗ることができましたが、既に満席でした。乗車時間は53分なので、荷物を納めてから食堂車に行ってみました。ちょうど一つだけテーブルが空いたので、そこに帽子やマフラーを置いて席を取り、二人を呼びにいってしばし休憩。なんと慌ただしい日だったことでしょう。それでも目的の作品は首尾よく見られて本当に良かったと話しながら二人はビールを、私は珈琲を飲んで過ごしました。早めに着くかと思いきや、シュトゥットガルト中央駅の近くでしばらくストップ。結局ほとんど予定していた時間にホームに入りました。下車するとヴィリーとクラウスがホームの端で待っていてくれました。3人のトランクを載せるには車1台では無理だと思ってのことでしょう。シルヴィアは中学校の先生をしているので、勤務先から自分の車でレストランに来るということでした。ヴィリーは啓子さんを、クラウスは三津夫と私を乗せてフェルバッハにあるレストランに向かいました。このレストランには何度も連れてきてもらっていますが、シュヴァーベン地方の食事を出してくれる美味しい店です。シルヴィアも合流して6人で楽しくおしゃべりしながらいただきました。
 レストランを出ると、シルヴィアの車とクラウスの車に分乗し、ヴィリーとはお別れ。明日また会う予定でお休みなさいと挨拶を交わしました。

  シルヴィアとクラウスの家には私も初めて入りました。手紙で写真を見せてもらってはいたけれど、庭付きで個室が3つあり、さらに居間とダイニングキッチンと
バスルーム。なかなか広いのですが、キッチンだけは細長くて出入りがきつかったのがちょっと残念でした。シルヴィアがおばあちゃんのレシピで焼いたチーズケーキを振る舞ってくれました。啓子さんにとっては初めてのドイツ人家庭での宿泊。明日、彼女は帰国します。


      おばあちゃんのレシピで焼いてくれたチーズケーキ、美味しかった。 シルヴィア、忙しい中、ありがとう!

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56. ニンフェンブルク城から市内へ

2017年04月20日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.12

               

                         ニンフェンブルク城


  ◆10月20日(木) 意外な出合い    16249歩

 
 9時にロビーで集合し、トラム17番に乗ってニンフェンブルク城に出発。結構肌寒い朝でした。どんより曇っているのでなお一層寒く感じるほど。ミュンヘン中央駅前のトラム乗り場は初めてで勝手がわからず困りました。3人ほどに尋ねて回ったけれど、人によってタクシーの方が良いとか、地下鉄の方が良いとか言うので余計迷いました。最後は何とか予定していた17番に乗ることができ、10時頃お城に着きました。
 三津夫と啓子さんは初めてで美人画の間を楽しみに見て回ったようです。私は昨夜買ったトランクをあちらこちらで見かけるので、他の人と紛れないように何か良いシールを貼りたいと思って探しましたが見つからず。お城を出てから美味しそうなパン屋さんを見付けて昼食を摂り、駅までは順調に戻りました。ここからバイエルン国立博物館にバス100番かトラム18番に乗るのですが、またまた乗り場探しに苦労しました。18番があったと思って乗り込んだら逆方向だとわかり、下車。いつもは歩いていたからこんな苦労は初めてです。でも足が痛むのでしょうがない。やっと反対側のバス停を見付けて正しい方向のトラムに乗り換えました。
 博物館前で下車すると同時にザーッと雨が降り出し、あわてて中に飛び込みました。ほとんど人影もなく、職員さんが立っているだけ。リーメンシュナイダーの部屋に行っても中ががらんどうでびっくりしました。ここだけはうっかりホームページをチェックしないで来てしまったなと反省しながらも、三津夫の目的のハンス・ラインベルガーやミヒャエル・パッハーの作品はしっかり見ることができました。最後にリーメンシュナイダーの部屋はどうなっているのかと尋ねたところ、「今模様替え中で、多少の作品が隣の建物に展示されていて、同じ切符で入ることができます」と言われました。そちらに行ってみると、なんと今までずっと見たかったのに見られずにいた作品が2点、展示されていたのです。この意外な出合いは今日の大収穫でした。


  国立博物館を後にして、三津夫がちょうど渡独前にテレビで見たというシュトゥック美術館が近くにあるというので歩いて行くことになりました。足の疲れはピークでしたが、ちょっとお洒落な個人美術館を楽しみました。その後はバス100番で街中を通り抜けて中央駅まで戻りました。ホテルに戻ってしばし休憩。


                    

                バイエルン国立博物館                          シュトゥック美術館に向かう途中にあったモニュメントの壁画



 夜6時にギャレリアというデパート前で啓子さんと合流し、ミュンヘンのビールを飲みに行きました。なかなかこれといった店が見つからず、最後にここはどうかなと入ったのが市庁舎の地下にあるレストランという意味の「ラーツ・ケラー」でした。陽気なおばさまが担当となり、機嫌よく注文を取っては運んでくれました。おつまみは盛り皿を一つ取ったのですが、写真のように山盛りで食べきれず、最後は持ち帰りバッグに入れてもらいました。とても美味しく、気持ちよく食べられた場所でした。三津夫の願いはビアホールの大きなジョッキでビールを飲むことだったのですが、中ぐらいのジョッキしかありませんでした。でも良い思い出になりました。

        たっぷりで食べきれませんでした  

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55. ミュンヘンからモースブルクへ

2017年04月19日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.11

                              

                               モースブルク 聖カストゥールス教会


  ▼ミュンヘン 10月19日~21日(2泊)
 ◆10月19日(水) 壊れたトランク  20337歩


  駆け足のニュルンベルクでしたが、今日はミュンヘンへ向かいます。朝7時に起きて、駅の地下へ。早朝にもかかわらずサブウェイが開店していたので、野菜たっぷりのサンドイッチを2種頼み、ホテルの部屋で珈琲とともに朝食。二人分で7ユーロ弱でもお腹いっぱいになりました。列車は9時2分発。まだ空いていてゆっくり座れたのがラッキーでした。啓子さんの話では昨日の町歩きで麦の守護聖人の教会があったとのこと。麦のリースが面白かったというので、次回チャンスがあれば見てみようと思いました。

 ミュンヘン中央駅について重たいトランクを列車から下ろし、歩き出したとたんにトランクがバタンと倒れてしまいました。起こして歩こうとしてもまったくタイヤが転がらないのです。よく見ると一つのタイヤがグラグラしていて壊れてしまっているのでした。このトランクは私には大きくて扱いにくいものでしたが、2006年に留学したときに、半年分のあれこれを詰めるのに必要で買ったものでした。その後、普段の旅では三津夫がこれを使い、長めの旅、冬の旅など荷物の多いときには私はこのトランクを使っていたのですが、どうしても背丈が不足していて階段を下ろすときに角の足が階段にぶつかるのです。もう最近はそれでも動いてくれることを良いことにがつんがつんぶつけながら下ろしていました。さすがのトランクもその衝撃に耐えきれず、寿命が尽きてしまったということのようです。三津夫には「だから乱暴すぎると言ったのに」と睨まれましたが、ごめんなさいするしかありません。この街で新しいトランクを買うというミッションが付け加わってしまいました。
  とりあえず、ホテルまでは三津夫がなんとか運んでくれて、私が三津夫のトランクを運んだのですが、私のものより軽いし、車がよく動くので、トランクを運ぶってこんなに楽なものだったのだと改めて思いました。
  ホテルクリスタルは今回の旅で一番高級な部類のホテル。チェックイン時にトランクルームに荷物を預けて、「このトランクは壊れてしまったのですが、引き取ってもらえますか?」と聞き、大丈夫と言われてホッとしました。今日は三津夫が楽しみにしていたモースブルクまで電車で出かけます。

 ミュンヘン中央駅まで戻り、25番線を探しますが見当たらず、赤い帽子の職員に聞いたらずっと向こうだと教えてくれました。本当に端っこまで行くと既に準急列車が停車していたので乗り込み、テーブル席を確保。11時24分の出発時にはほぼ満席になりました。2つ目のモースブルクまで33分で着き、下車してすぐに若いお兄さんが近寄ってきました。三津夫が手に持っていたカストゥールス教会の写真を見て、「ここに行くならあちらの道ですよ」と教えに来てくれたのです。皆で「親切なお兄さん!」と感激しました。途中の曲がり角で迷うところがあり、ちょうど歩いてきた若い女性に声をかけると、こちらですよと先に立って歩き出します。角まで来て「ほら、あそこです」と指さした方向に教会の尖塔が見えました。みんな本当に親切です。中に入るとハンス・ラインベルガー祭壇が堂々とそびえていました。堂内には珍しい黒いマリア像もありました。


           

 

 ミュンヘンに戻り、三津夫の先導でアルテ・ピナコテークまで歩き始めましたがどこかで方向を間違えたようでなかなか着かず、2回道を尋ねてようやく到着しました。私は足が疲れてしまってカフェで休憩。啓子さんは初めてなのでエネルギッシュに回り、三津夫は全体をサッと見に行き、ポイントを押さえて回っていました。2年前に発見したミヒャエル・パッハーの祭壇画を含め、工事中で見られない部屋が多かったそうです。カフェのテーブルには3人のうちの誰かがかわりばんこに休んでキープ、私も著名な作品だけもう一度拝みに行きました。ここのミュージアムショップで三津夫はさんざん悩んだ末に、とても分厚い『Michael Pacher』(Lukas Madorsbacher著 DKV出版)という本を買いました。重いから持って歩くのは嫌だけど、ここで買わなければ日本では手に入らない貴重な資料です。この後、三津夫は宿で時間があると、この本を眺めていました。
  夕食前、もう一度町に出てトランク探しをしました。近くの店で見て、一番品物の多いところはどこなのか聞いて回り、カールス門近くのトランク専門店に入りました。大きさと赤い色合いから選んだトランクはサムソナイトで2万円強。高い買い物でした。でも品物がちゃんと入るかどうか不安で夜、荷物の引っ越し。思っていたより可塑性があってまだ少し余裕があるぐらいでホッとしました。古いトランクは捨ててくださいとメモを付けておきました。

         この写真は、道に並べてあった木の実の顔。疲れた足がほんのちょっと楽になりました。

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54. ニュルンベルク

2017年04月18日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.10


                

    ニュルンベルクの町のスナップ(三津夫撮影)


  ▼ニュルンベルク 10月18日~19日(1泊)
  ◆10月18日(火) 疲れもピーク    8621歩


  今日は朝8時半にチェックアウトをしてニュルンベルクに向かいました。シュタイナハとアンスバッハで乗り換えでした。時間が4分しかなくちょっと気がかりでしたが、トランクは若い男性が持ってくれてスムーズに移動、ダンケ! またそれぞれの列車が少しずつ遅れて来たのでゆとりができ、無事に乗り換えられました。

  ニュルンベルク中央駅に着くと、物陰にラリっているような妖しい雰囲気の男性を多く見かけました。そこに何人かの警察官もいて、これも移民受け入れの結果なのだろうかと気が重くなりました。ホテルに着くと午前中にもかかわらず一部屋だけ確保してくれたので、トランク3つを運び込んでから再び町へ。まだ早いけれど三津夫の要望で先にお昼ご飯を食べようということになり、デパートで学食スタイルの食堂に入りました。自分が食べたいものを選んで取り、その重さで支払うというものです。これはお腹にあった分量で食べられるので助かります。三津夫と二人分で14ユーロでした。

 食後、近くのロレンツ教会でファイトシュトスの「受胎告知」(写真・左下)、アダムクラフトの「秘蹟室」(写真・右下とその下)を見ました。後者は現在修復中で幕が掛かっていて、啓子さんには全容を見てもらえず残念でしたが、この二人の彫刻家はリーメンシュナイダーと同時代に活躍した、いわばライバルでもあります。以前修復前の写真を写してあったので、三津夫はこれらの作家を一緒にまとめて日本で紹介するのが良いのではないかと、しきりに私に誘いをかけるようになりました。旅の最初にはまだまだ3冊目の本を出版する気力が湧かずに聞き流していたのですが、こうしてみてみると、何回も足を運んでリーメンシュナイダーだけではなく他の作家の作品も大分撮影してきたのだなということに思いが至るようになってきたのは事実です。でも、のるかそるかはまだ半々でした。

    

    


                         



  このあとゲルマン国立博物館でリーメンシュナイダーの弟子、ペーター・デル(父)の作品を一つ探しながら回りましたが、結局見付けることはできませんでした。私は足首の痛みが限界に達していたのでホテルに戻ることにしました。啓子さんと三津夫はそれぞれマルクト広場やデューラーハウスまで行ってから別行動となり、啓子さんはお孫さんの列車を探してあちらこちら歩き回って、おもちゃ博物館がとても楽しかったそうです。
 私たちの部屋の鍵は開きにくく、何度も受付まで往復しなければなりませんでしたが、その都度若い女性のスタッフに嫌な顔をされ、最後に彼女自身がやってみても本当にうまく開けられないことがわかるまでとてもつんけんされました。駅から近い割に安くて便利なのですけれども、こんなに嫌な顔をされたのは初めてで残念でした。鍵は力づくで開けられるものではなく、少し引き加減、押し加減、上に持ち上げたり下げたりすると開きやすくなるらしいと勉強にはなりましたけれど。
  夕食は町に出て中華レストランに入り、焼きそば、チャーハン、キュウリのニンニクドレッシング、焼きリンゴなど食べてお腹いっぱいになりました。でも、ここの焼きリンゴは普段のイメージとはまったく違って、リンゴに衣を付けてあげた天ぷらのようでした。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA, Mitsuo FUKUDA

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53. クレークリンゲン

2017年04月17日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.9


             

         ローテンブルクのユースホステル                      気さくなブルク牧師さん:クレークリンゲン、ヘルゴット教会前にて


   ◆10月17日(月)  クレークリンゲンではいつも何かが起こる   18797歩    

  夜中に3度もお腹が痛くなってトイレへ。セイヨウスモモはあまりたくさん食べない方が良さそうです。
 5時40分には目が覚めてしまったので2時間かけて昨日の分までの日記を書き留めてホッとしました。今日は11時20分のバスまで自由行動。簡単に朝食を済ませてから呼び出しバスの予約電話を入れました。クレークリンゲンからローテンブルクまで戻るバスに乗りたいと伝え、14時45分の予約を取ってホッとしました。通常のバスは18時25分までないからです。

 11時頃までは、ローテンブルクのまだ歩いていない場所があるので、三津夫とできるだけ歩いてみようということになりました。啓子さんはお土産を買いに行っているはずです。城壁内の一番西側に突き出した公園には小学校1年生が遠足に来ていました。丸くなってからやおらバーッと走り出し、それぞれ座ってお弁当を広げました。この時間でもうお昼? 近くにいた先生とおぼしき人に聞いてみたら、朝食なのだそうです。そして彼女たち5人は付き添いの母親だとのことでした。

          


 公園の南の端には小さな建物がありました。中を見てみると第二次世界大戦の戦没者の慰霊の碑があり、「我々の犠牲者は全ての人々、全ての民族の平和の種となるだろう」と書かれていました(写真・上の真ん中)。しばし心からの祈りを捧げました。更に南に下って行くと大きな屋根に目玉がたくさんついているような建物があり、裏側の壁を赤い蔦がみごとに覆っていました(この頁のトップ写真)。ここはユースホステルなのだそうです。写真の一番右は街中でみかけたお店のショール。色が素敵と思って写しました。 

 駅前のホテルに戻り、ショッピングセンター(Kaufhof)で焼きそばを食べたところ、とても口に合って美味しかったので、今夜はここで食べても良いねと三津夫と話しながらバス停へ。
  一番駅寄りのバス停にクレークリンゲンまで行くバスが来ます。啓子さんとここで合流してバスに乗車。途中で数人いた乗客は全部いなくなり、私たち3人の貸し切り状態。ドイツ鉄道のホームページで調べたときには途中で乗り換えがあってクレークリンゲンのバス停に12時25分到着となっていたのに、実際は乗り換えも無く、直行で12時に到着してしまったので驚きました。クレークリンゲンではヘルゴット教会の牧師さん、トーマスブルクさんと12時半頃会うことになっていたのですが、30分近く早めに着いてしまってどうしようかと思いました。電話番号はメモしていなかったため、地図を頼りに牧師館まで歩いて行ってみました。ベルを鳴らしてみたところ、お連れ合いが出てきて、「いつも素敵なカレンダーをありがとうございます」と嬉しそうに挨拶してくださいました。「彼はまだちょっと出かけていて…」と言っているところにブルクさんが赤い車で戻っていらっしゃいました。あまり早く私たちが着いたのでビックリされていましたが、すぐに黒い車に乗り換えて、私たちを乗せてヘルゴット教会に出発。歩いて行っても良かったのですけれど、車で一緒に教会まで行くとメールで書いてくださっていたのです。

 ヘルゴット教会では受付の女性、ヴァグナーさんが笑顔で出迎えてくれました。いつも会う方ですが、割と暖かい今日のような日でも厚着です。教会内はひんやりしていて体が冷えるのだそうです。啓子さんもマリア祭壇の素晴らしさをわかってくれたようです。三津夫も私もこの祭壇はリーメンシュナイダーの祭壇の中でも一番の傑作だと感じているので、せっかくローテンブルクまで来たのであれば是非見て欲しかったのです。
 ゆっくり教会内を見終わってから、クレークリンゲンの街まで戻り、ブルクさんがお茶に招いてくださいました。ケーキがとても美味しいというカフェです。珈琲を飲みながら、ブルクさんは教会の受付女性たちの健康を気遣い、できれば外にキオスクのような建物を造りたいのだと話していらっしゃいました。でも数年前に祭壇の周りを明るくし、堂内の修復にお金を使ってしまって今はそのためのお金がないのが悩みだと。マリア祭壇のファンでもあり、多くの人たちに見て欲しいと願う私たちのような人間がなんとか支援できないかと、このあとずっと考えています。牧師さんという立場では決して豊かでないことはわかっているのに心苦しかったのですが、私たちが払うと言ってもダメでした。こちらが先に払ってしまえばよかったのですね。ローテンブルクまで送ってくださると言われたのですが「バスを予約しているので大丈夫ですから」とお断りし、ゆっくり街中を散策しながらバス停に戻りました。

 さて、ここは2年前に呼び出しバスとは知らずにバスを待っていて待ちぼうけをくった場所。今回はちゃんと電話で予約したので大丈夫…なはずだったのに、2時45分を過ぎてもバスが来ないのです。少し遅れているのかなと思っても段々心配になり、電話を入れてみたところ、なんと今朝受け付けた女性は2時45分と言ったのに、それはローテンブルクに到着する時間だと言われてしまいました。そんな~! いくら抗議しても時既に遅し。夕方6時過ぎまで待つ? それもしんどい。苦肉の策でブルクさんにお願いに上がりました。するとビックリしながらも快く車を出してくださったのです。時計を見たら3時25分頃でした。「どこまで送ったらいいですか」と聞かれ、今ならデトヴァングに間に合うかもしれないと思いついて「デトヴァングで」と答えてしまいました。すかさず後ろで三津夫がたしなめます。でもブルクさんは「デトヴァングの教会は今開いているのかな?」と言うので、「実は昨日行ったときに開いていなくて、平日は午後4時まで開いていると書いてありました」と話したのです。「よし、わかった。もし教会が開いてなかったらローテンブルクまで行きますからね」といってブルクさんはバーッとスピードをあげました。その速いこと、速いこと。20分後にはデトヴァングに到着! 中を見たらちゃんと教会のドアは開いていたので報告。本当に助かりましたと頭を下げてブルクさんとお別れ。このご恩はいつかお返しします。

  こうして啓子さんにはリーメンシュナイダー祭壇の最も素晴らしい4点を見てもらうことができたのでした。5時15分頃ホテルに戻り一休み。6時に啓子さんとショッピングセンターに向かいました。ブランチを食べたベトナムレストランで、お寿司の盛り合わせやビールなどをたのみ、美味しくて満足しました。確かHANOIかHanoiという名前だったと思いますが、ここはお薦めです。
 この2日間、ローテンブルクの街中で結構石畳を歩いたり、デトヴァングまでの小道を2往復したりしたせいか、足首を痛めてしまいました。しっかりとかかとまで保護してくれるような運動靴の方がよかったと改めて思いました。今履いている靴は良い靴なのですが、かかとのしまりがちょっとゆるいので、どこかで靴を買い直そうと決心しました。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA, Mitsuo FUKUDA

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52. デトヴァング

2017年04月16日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅  No.8

 

          

         ローター・ハーンで食べたドイツ料理         デトヴァングからローテンブルクに戻る小道で自然の作ったリースを見付けました 


ローテンブルクからデトヴァングへ

   その教会の反対側にあるのが「ローター・ハーン」というレストラン。ここは何回か入りましたがいつも満足する美味しさでした。今回もジャガイモ団子、ニュルンベルクソーセージ、クロイターヴルストの3種類のドイツ料理を取り、皆で分け合って食べましたが、どれも塩辛すぎず良い味でした。でも3人分頼んだら量的に多すぎると思っていたとおり最後はポテト・パンケーキとザウアー・クラウトが残ってしまいましたが、気持ちよくパックに詰めてくれたので持ち帰ることにしました。

  ここからデトヴァングに向かいます。クリンゲン門まで行くとちょうどヴォルフガング教会のドアがが開いていました。ここは他のリーメンシュナイダー友だちが訪ねたときに、中に入れてもらえなくて目の前でドアを閉められたという逸話があるぐらい中に入るのが大変な教会なのですが、今日は気持ちよく見せてもらえました。これで4つの教会のうち3つはクリア。
 デトヴァングでは門こそ開いていたのですが、教会のドアに「10月末までの平日は午後2時~4時、日曜日は午前10時~12時」と張り紙がありました。普段でしたら10月までは午前も午後も空いているはずだったのですが、一時的な変更のようです。残念。帰り道でタウバーシュトゥーベに寄るとほぼ満席。珈琲3つとツヴェッチゲンクーヘン(セイヨウスモモのケーキ)一つを頼むと、一つのケーキにフォークが3本刺さって運ばれてきました。これでも足りるほどの一切れの大きさ。でも啓子さんは一人で一つ食べたかったかしら?

 帰り道、植物に関心の高い啓子さんがスモモの木を見付けたのです。数本の木の下にたくさんのスモモが落ちています。熟しているので美味しい! これはおやつに持って帰ろうと、皆できれいな実を拾い始めました。以前、木になっているものを取ってはダメと教わったことがあるので、落ちているものなら大丈夫だろうと思って結局袋一杯取りました。町に戻ってから入った人形屋さんで、啓子さんもお孫さんに気に入ったクマの人形があったとニコニコ。収穫の多い一日でした。
 ホテルまで歩きで戻ってチェックイン。今回の部屋にはバスタブがありました。大分歩き続きで足が疲れていたので、ゆっくりお湯につかれるのはありがたいことでした。それでも何故か隣の啓子さんの部屋の方が皆で集まるにはスペースがあって、夜の食事は買ってきたケバブと昼の残りとビール1本で済ませるという慎ましさ。もちろん食後のデザートはセイヨウスモモです。夜9時までおしゃべり。


              

          デトヴァングの聖ペテロ・パウロ教会                      タウバーシュトゥーベのケーキ

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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