リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

44. やっと追いつきました

2016年09月21日 | 自己紹介

帰国してから No.2

 主立った旅の記録を終えて

 以前のホームページから新しいブログへと引っ越してからもう1年4カ月が経ちました。画像の位置指定が難しいこのブログで、それでも欲張ってあれこれ写真を詰め込んで、何とか親切にしてくれた友だちの紹介も入れながら『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』、『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を手渡す旅について書いてきました。主立った記録にとどめたので、アメリカへの2回の旅、2014年に再び残りの作品を見に行ったドイツの旅にも触れていませんが、距離にしたらどのくらい追いかけて旅したのでしょう。アメリカでは特に東海岸から西海岸へ飛んだり、中央部のシカゴを中心に歩いたりと大がかりな旅となりました。いずれの地でも親切な町の人々、バスの運転手さんに助けられ、危険な目にあうこともなく日本にもどってくることができました。

 作品の数え方については悩み、ベルリンにあるボーデ博物館のユリエン・シャピエさんに相談したところ、「あなたなりの数え方をすればいいのですよ」と言われて目から鱗の落ちる思いがしました。それで、『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』では自分なりの数え方のルールを決めてカウントしたところ、リーメンシュナイダー、工房、弟子や周辺の作家の作品はドイツ国内に345点、アメリカ国内に22点、それ以外の国に22点を数え、合計389点となりました。

 その後、更に新しく発見された作品や新しい情報を得てわかった作品を入れた私の手元資料では、ドイツ国内が384点となり、合計は428点となっています(もっとも数え方一つで、この数は大きく動きますので、その点はお断りしておきます)。恐らく今年の12月に帰国した後でまた作品数は変わることでしょう。結局全ての作品を訪ねることは不可能ですし、私の旅は終わりそうもありません。でも親しい友だちのうち、すでにスイスのロルフ、アマチュア写真家のヨハネスが亡くなりましたし、連絡の取れなくなった方も何人かいます。残念ながら大好きなドイツ国内でも今年テロが起きました。日本もいつテロリストに狙われるかわかりません。まだ平和な旅ができる間に、こうした友だちやお世話になった方々に心の中でさようならと言ってくるために、もう一度だけドイツで2カ月ほど生活してきます。


 やっと「今」に追いつきました

 今年の旅では、Wi-Fiが利用できる宿を取りました。まだ使い慣れていませんが、タブレットを持っていきます。もしゆとりがあれば、今度の旅についてはできるだけ日々の日記をつけていきたいと思っています。もしそれが難しいようなら、帰国してから少しずつまとめたいと思いますが、ようやく何年も前の話ではなく、「今」に追いつくことができてホッとしています。タブレットからの画像の取り込みがどれだけできるのかわからず、もしかしたらあまり写真も載せられないかもしれませんが、お時間がありましたら覗いてみてください。

 最後に、アイゼナハにあるヴァルトブルク城の鳩の写真を載せておきます。世界の平和を心から祈りつつ。


                          

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA                  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

43. 朝日新聞に載る

2016年09月21日 | 旅行

帰国してから No.1

 本当に朝日新聞の書評に載った!

  実は帰国する直前のアシャッフェンブルクで、ある朝メールを受け取りました。丸善プラネットで私の本の校正を担当してくれた公文理子さんからです。「朝日新聞から『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を書評に取りあげたいと言ってきているのですが、画像を送っても良いでしょうか」という問い合わせでした。びっくりしてスマホを持つ手が震えました。夫にも早速見せ、「もちろんです! 私のスマホからでは画像が送れないので公文さんにお任せします。どの画像を何枚送っても構いません」とか何とか書いたのをおぼろげながら覚えています。そのとき、朝日新聞から求められた画像がこの磔刑像の足もとの写真でした。これは、「27.ゲロルツホーフェン」で書いたヨハネ礼拝堂美術館にあったものです。私一人のために開館してくれた小さな礼拝堂美術館の1階にありました。赤い壁が何とも印象的で、リーメンシュナイダーの祈りを感じながら写した作品でした。


<作品写真43> Kruzifixus  磔刑像部分

Lindenholz 菩提樹       1505~1510  TRW リーメンシュナイダー工房作


 そして、その全体像がこの写真です。

<作品写真44> Kruzifixus  磔刑像全体

  

 帰国してすぐの3月3日(日)、朝日新聞書評欄の最後にある「視線」というコーナーで美術評論家の北澤憲昭さんという方が書かれた文章を読みました。きっとたまたま書店で目にして手にとってくださったのでしょう。とても温かい文章でした。よくぞこの本を見てくださったと心から感謝しています。ここにコピーすることはできませんので、記事を読みたい方はご連絡ください。

 また、出かける前にドイツ大使館にも前編に引き続き続編を贈呈しておいたところ、以下のようなお手紙までいただくことができました。(書かれていた私の住所には葉っぱの模様を載せてあります。)

                                    

<元ドイツ大使 フォルカー・シュタンツェル氏からのお手紙>

                        

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

42. 誕生日を祝う

2016年09月21日 | 旅行

続編お礼の旅No.6  2013年冬の旅

 旅の最後の誕生日

 今回も旅の最後はフランクフルト近郊のルース・トーマス夫妻のお宅で迎えました。『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を手渡すとトーマスは難しい顔。でもたまたまこの写真がそういう顔になっただけで、普段はリーメンシュナイダー彫刻の追いかけを楽しんで協力してくれる夫妻です。このあとルースの運転で近くの温泉(地名は忘れましたが)に連れて行ってくれて、小高い丘の上からの景色を楽しみました。

                       <お礼に続編の本を手渡す>                   <ルースと。バートなんとかという町の丘の上で>

                        

       

 翌日はトーマスが世界遺産のローマの遺跡リーメスまで連れて行ってくれました。ここには1世紀頃にゲルマン民族の侵攻を防ぐためにローマ皇帝が築いたお城があり、北はコブレンツ付近から南はレーゲンスブルク付近までの600kmほどにおよぶ長大なものだったそうです。今はバート・ホンブルクにあるザールブルク城が復原されているのです。その時代の品物も展示されていて、ほのかな笑みを湛えたポットにとても魅力を感じました。                                               

         

              <リーメスの入り口で>                        <その時代のポット>                           <当時のデザインのサンダル>


 この旅の最後に、珍しくトーマスの家で誕生日を迎えました。するとルースからプレゼントが手渡されました。何かと思ったら手作りのスリッパ! とても温かそうでしたが残念ながらちょっと小さめで、帰国してから娘の元へ。

 ドイツでは誕生日を迎える側が周りの人に感謝の気持ちを伝えるためケーキや甘いものを作ってふるまうという習慣があるそうです。留学時代に何度かクラスメートのお相伴にあずかりましたが、今回は私がレーマー広場近くにある日本人のケーキ屋さんでケーキを買ってみなさんに食べていただきました。考えてみたらルース・トーマス夫妻とは誕生日近辺で会っていることが多いのに、ちょうど誕生日に一緒に過ごすということは初めてで、心に残る誕生日となりました。

 

                

                   <町で買ってきたケーキ>                                 <ルースからのプレゼント Danke!>        

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA, Mitsuo FUKUDA 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

41. ロストックの高速でパンクする

2016年09月21日 | 旅行

続編お礼の旅No.5  2013年冬の旅

 ヨーラとヘルヴィック

 ヨーラは2009年にわが家に来たので、『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』お礼の旅もロストックには行っていませんでした。ヘルヴィックとは2007年以来ですから6年間会っていなかったということです。ヨーラがアマチュア写真家のヨハネスを紹介してくれて、おかげで写真集を作ることができました(13. 聖血の祭壇 参照)。従って、今回はロストックを抜かすわけにはいきません。

 ヨーラはいつもの通りお寿司を作って待ってくれていました。三津夫にはご飯の炊き方が違うと不満があるのですが、それでも私は彼女の愛情で補ってあまりあると思っていただいています。

 

                     <三津夫とヘルヴィック>                                <ヨーラと私 & ヨーラ手作りのお寿司>

                            

 

 ドイツ北部にはほとんどリーメンシュナイダーの作品はありませんので、行くとなると観光を兼ねてとなります。今回はシュトラールズンドという世界遺産に連れて行ってもらいました。そのときに、ドイツでは出会ったことのない大事件が起こりました。ヘルヴィックが何だかおかしいと言って路肩に車を停め、外に出てみたら左後輪がパンクしていたのです。日本のJAFのような会社ADACに連絡しようにもヨーラは携帯を忘れてきたのでした。私の携帯で何とかメルセデス・ベンツに連絡をし、しばらくしてから大きな牽引車が来てくれました。少し戻って会社のオフィスでお茶を飲みながら待っていると、タイヤのストックがないから代車になるというのです。問題は代車がオートマ車だということでした。ドイツの友だちのほとんどがマニュアル車を運転します。だからヘルヴィックは生まれて初めてオートマ車に乗ったわけで、急発進、急ブレーキでガックン、ガックン。運転に慣れるまでは大変でした。それでも何とか目的地に着いたときはホッとしました。まぁ、こんなことがあると、何を見たかということよりも、パンクしたという記憶の方が強く残ります。

 この夫婦、いろいろと自然を生活に取り入れ、食べ物についても砂糖抜きの食事をしています。甘味がないかといえばそうではなく、現在は蜜蜂を飼って蜂蜜を採取し、その蜜で年間の甘味を賄うといった生活をしているのです。彼女が作ったティラミスは絶品でした。巣箱を見せてくれましたが、この絵もヨーラが描いたものです。現在は漆塗りに凝って、自分たちの手で漆を塗った食器を作るのだと意欲を燃やしています。独特な生活スタイルの夫婦に興味が尽きません。

 最後に、パンクしたときの写真と、蜜蜂の巣箱の写真を載せておきます。

 

                      

            <パンクした車と引き取りに来た牽引車>                                        <庭先の巣箱>

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

40. 満月のヴァルトブルク城

2016年09月19日 | 旅行

続編お礼の旅No.4  2013年冬の旅

 エルケさんとの出会い

 2010年の6月、まだ続編への旅を必死でしていた頃、アイゼナハのヴァルトブルク城を訪ねました。エルケさんという方が担当者として写真を三脚で撮ってもいいですよという返事をくださって、駅前から出るバスで小高い山の上のお城まで行ったときのことです。受付に見えた同年代のエルケさんはとても温かく迎えてくださって、手にはヴュルツブルク発行の重たい2冊のカタログをお持ちでした。「これはご存じですか?」というので、「そのカタログを元に今までドイツや近隣の国を回ってこの写真集を作ったのです」と、『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』をお見せすると驚いていました。その後、「ミカエルが来ますのでちょっとお待ちください」と言い、彼が来るとガラスケースの鍵を開け、中に入っていた天使像2体を好きな向きに回転させてあげますよと見せてくださったのでした。

 私が必死で撮影していると、何やら回りが賑やかになってきました。日本人の団体が来たのです。するとエルケさんが私が持っていった『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を皆に見せて、「この人が今、撮影しているんですよ」と一生懸命宣伝してくれているのです。このときから私は彼女が大好きになりました。天使像の撮影が終わってミカエルさんが鍵を閉めると、「もう1体、悲しむ聖母像もありますがご覧になりますか?」と教えてくれたのも彼女でした。私は、今まで持っていたどの本でもカタログでも、またインターネットでも、ヴァルトブルク城にリーメンシュナイダーの「悲しむ聖母像」があるという情報を見たことがありませんでしたので大変驚きました。


<作品写真41> 横向きに置いてもらった天使像
Leuchterengel  1505(1510)頃 Tilman Riemenschneider Werkstatt  


       

<作品写真42> 隣に佇んでいた悲しむ聖
Trauernde Madonna  1505-1510 Tilman Riemenschneider Werkstatt                                                                                                                                  (Umkreis Tilman Riemenschneider)

 

 エルケさんとは帰国後も親しくメールを交わすようになり、彼女も「ミドリとは前世で姉妹だったのではないかと思うわ。とても感じ方にも共通点があって、見知らぬ国の人とは思えない」と書いてくれるほどでした。彼女が旧東ドイツ時代から働いて見守ってきたヴァルトブルク城は彼女の人生でもありました。その素敵な古城でこのような気持ちのフィットするお友だちと出会えたのもまた、リーメンシュナイダーが繋いでくれたご縁ですね。

 

 真夜中のワインパーティー                                         

 翌年2011年9月にも夫と共に再びドイツを訪ねたのですが、そのときは賑やかなヴァルトブルク城を案内していただき、その後お宅に招かれてゆっくりお茶をいただきながらおしゃべりを交わしました。お二人の話では、ツアーを案内していて一番手のかかるのが中国とイタリアだとのこと。その反対に一番よくマナーを守り、しかも話をよく聞き取ってくれるのが韓国と日本だと言います。それぞれの国民性や暮らしの様子など楽しく話し合ったあと、エルケさん・ウヴェさんご夫妻とヴァルトブルク城のコンサートに向かいました。あの歴史ある「歌合戦の大広間」で「水車小屋の娘」が歌われるということは日本にいるときにお知らせいただいていたので、ドイツ語の歌詞をプリントアウトしてきておよその意味を掴めると良いなと思いながらの参加でした。私は一生懸命歌詞を追いかけましたが、会話よりもさらに理解するのが難しく、こんなコンサートに参加できたら歌好きの友だちはもっともっと喜んだだろうなと、ちょっと申し訳ないぐらいでした。

 コンサートが終わってからエルケさんはどこへやら姿を消し、ウヴェさんは「ちょっと待っていてくださいね」と平然としています。空には満月。コンサート客はほぼ姿を消し、残っているのは私たちだけでした。9月ともなるとドイツの夜は冷え込んできます。段々寒さを感じ始めた頃、エルケさんが大きな紙袋を手に戻ってきました。こちらへと招かれたのは庭先の東屋です。この日の昼間にも鍵を開け閉めしないと入れない東屋に入れていただき、涼しさを感じてしばしお休みしたのでした。多少の雨が降っても読書ができると言っていたぐらい、しっかり太い枝が絡まって屋根を形作っています。でも、「満月の夜にここへ? 何のために??」と思っていると、やおらエルケさんは袋からワイングラスとワイン、そしておつまみを取り出したのです。何というサプライズ!! 蝋燭まで持って来てともそうとするのですが、風が強くて火をつけることはできませんでした。でも、夕方まで一緒に楽しくお茶を飲んで話して、私たちをホテルまで送り届け、何十分か後にはパリッとしたスーツに着換えてまた迎えに来てくれたお二人。「いつ、こんな準備をする時間があったの?」と聞いたら、出かけるちょっと前に突然思いついたのよと笑っていました。満月の煌々と輝く夜、滅多には入れない場所でのワインパーティーは心に深く残っています。


 <ヴァルトブルク 歌合戦の大広間>                      

         

※毎回お断りしていませんでしたが、日付入りの写真は夫、福田三津夫の撮影です。

 

  3度目のヴァルトブルク城

 ようやくできあがった本をアイゼナハにも届けに行きました。まずはエルケさんにホテルの前で出会い、車でヴァルトブルク城まで乗せていただきました。このとき、冬場にはお城まで行くバスがないことがわかりました。リストの内容に加筆しなくてはと、早速メモ。

 冬の寒い時期でもお城には結構な観光客がいて、ツアーを組んで回っています。私たちは恵まれたことに、エルケさんが鍵を開けてはまだ他のツアー客がいない部屋を静かな環境の中で案内してくださるので、ゆっくりお話をうかがうことができました。途中でミカエルさんも駆けつけてくれて、お二人に続編を手渡すと嬉しそうに天使像や悲しむ聖母の写真を見ていました。ようやく親切にしていただいたお礼ができたかなとホッとしました。以前案内されたときにはただ見てまわった「マルティン・ルターが新約聖書を書いた部屋」も、今では当時の厳しい社会状況の中でここに逃げ込めたルターの幸運を感じながら見るようになりました。

 このあと、お宅にお邪魔して夜までゆっくりウヴェさんともおしゃべり。ウヴェさんも夫もよく料理をするということもわかって、今度来たときには一緒に男同士お料理でもしましょうと話してお別れしました。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA, Mitsuo FUKUDA

              

 昨年、2015年のこと、ウヴェさんが倒れて入院し、退院したもののときどき検査入院を繰りかえしました。エルケさんも疲れで入院したことがあり、その間に大家さんから息子さん一家が戻ってくるのでと退去を求められました。こうしたことが重なる時には重なるものです。でもエルケさんは、「ヴァルトブルク城からできるだけ離れたくない」と、アイゼナハの近くに家を探していますが、まだこれといった住まいが見つからないそうです。今も気の休まる暇がないときを過ごしているのではないかと思います。それでも、今年はどこに住んでいようとも私たちが近くに行くときには必ず再会しましょうと約束しています。お二人の健康が落ち着き、新しい住まいが見つかりますようにと祈る毎日です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

39. インフルエンザで会えず

2016年09月15日 | 旅行

続編お礼の旅No.3  2013年冬の旅

 シルヴィアとヴィリーとの旅 続き

 シルヴィアとヴィリーが翌日に回ってくれたのがリーメンシュナイダー周辺作家による聖母子像があるというピュルフリンゲン聖キリアン教会と、工房作のゲッセマネの群像があるケーニッヒハイムの聖マルティン教会でした。これはどちらもヴュルツブルクの2004年版カタログには掲載されていない作品ですが、別の写真集やウェブサイトに取りあげられていたものを自分の目で見てみたいと思ってチェックしていたのでした。でも日本で検索しても教会がどこにあるのかわからず、地理に詳しいヴィリーが調べてくれたものです。行ってみると近くにバス停があり、交通便のヒントが得られます。今年の秋、自分で列車とバスを乗り継いで確かめてみたいと思っている教会です。

                        <ピュルフリンゲンの聖キリアン教会>                    <ケーニッヒハイムの聖マルティン教会>

                    


 この日の夜、バート・メルゲントハイムのレストランで二人と最後の食事をしました。ヴィリーは私たちに「またドイツに来ることがあったらぼくも友だちなんだから連絡して」といいました。この旅の間中、「もうこうしてシルヴィアと一緒に三津夫と緑を案内することはないのかな…」と、心の中でさみしさをがまんしているようなヴィリーでしたが、これからもシルヴィアと共にお世話になった大切な友人として連絡していくと約束しました。

 ホテルに戻ると私に電話がかかってきたといいます。聞けばシュヴェービッシュ・ハルのマリアンヌからでした。明日は彼女の家に泊まらせてもらうことになっていましたが、かけ直してみると彼女はすごいガラガラ声。どうやら少し前にスキーに出かけ、インフルエンザが移ってしまったようで二人とも寝込んでいるというのです。「家に泊めてあげると約束していたのにごめんな さいね。友だちのエリカのペンションを予約しておいたからそちらに泊まってくれないかしら」と。こういうハプニングもあるのですね。ありがたくそのペンションに泊まらせてもらうことにしました。


 シュヴェービッシュ・ハルも寂しかった

 シュヴェービッシュ・ハルでは留学時代にお世話になったマリアンヌ・ホールスト夫妻にも会えず、シルヴィアとヴィリーがペンションエリカまで送ってくれてお別れしました。ヴィリーの寂しい気持ちと雪景色で私たちも何だか心の重さを感じる一日でした。何度も足を運んだミヒャエル教会も、この日はうっすらと雪を被って立っていました。その姿が今日のみんなの気持ちを表してくれているような気がしました。


                                          <ミヒャエル教会の雪景色>

                                     

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

38. ヘルゴット教会へ

2016年09月15日 | 旅行

続編お礼の旅No.2  2013年冬の旅

 シルヴィア、ヴィリー、ありがとう

 ヨハネスを訪ねた後、今回もまた、シルヴィア、ヴィリーに私一人では訪ねきれなかった教会まで案内してもらいました。教会のやねうら部屋で発見されたというシリングスフュルストの教会、そしてクレークリンゲンのヘルゴット教会もその一つです。何といっても交通の便が悪く、バスも1日1~2便ぐらいしか走っていない場所にあるのです。クレークリンゲンの教会は冬場は午後にしか開かないのですが、ヴィリーが手配してくれて午前中に開けてくれることになっていました。そして私に「自由に使って良いですよ」とマリア祭壇をご自分のカメラで写した画像を送ってくださったトーマス・ブルク牧師さんも来てくださることになっていました。寒い朝でしたが、本当に嬉しそうに『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を手にしたブルクさん、一緒にお茶を飲みませんかと誘ってくださったのが教会のすぐ近くにあるレストランでした。そのレストランのオーナーは目が見えないけれど料理を工夫して出しているのだと聞きました。

                     <ブルクさんの笑顔>                                                         <教会前のレストラン Kohlesmühle>

                         


  冬景色に、シルヴィアとの旅は最後だなという心さみしさも抱えたヴィリーは今ひとつ元気が出ないようでしたが、ヴィリーが私たちと同年代だからこそ年金生活者として2011年にはアパートに7泊8日も同宿して、合計1200kmも車を走らせてくれたのでした。シルヴィアとヴィリーもまた私にとって偉大な恩人の一人です。本当にありがとう。


               <初めて訪ねたシリングスフュルスト教会>                              <大恩人シルヴィアとヴィリー>                       

             

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA, Mitsuo FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

37. ヨハネスの笑顔

2016年09月12日 | 旅行

続編お礼の旅No.1  2013年冬の旅

 ヨハネスの反応はどうでしょうか…

 『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット株式会社発行)が発行されてすぐにできる範囲でお世話になった教会・美術館、個人の方々に急ぎ本を発送し、冬場の安いチケットで夫と二人、寒いドイツに飛びたちました。ヨハネスが「いつ印刷し直すんだい? 早くしないとぼくはいつ死ぬかわからないからね」と以前言っていたので、今回はまずシュトゥットガルトから回ることにしました。一番若くて一番付き合いの長いシルヴィアの家からヴィリーの運転でヨハネスの家に回ってもらえることになったのです。

 ヨハネスのお家に向かう車中、私は胃が重くて痛みまでも感じ始めていました。でも家に近づくにつれて太陽が顔を出し、うっすらと雪をかぶった野原がキラキラかがやき始めました。これは大丈夫かもしれないと少しずつ希望が湧いてきました。その日のヨハネスの様子です。本を差し出すとスッと難しい顔になりました。まだことばが出ないので母音で何とか伝えようとする苦しさもあったのかもしれません。でも、夫が写してくれた連続写真を見てください。    

        

                                                <ヨハネスもフリーデルも笑顔になりました!>

 フリーデルも心を痛めていたのでしょう。側でヨハネスの笑顔を見て彼女も笑顔になりました。このあとでいただいたケーキは殊の外美味しく感じました。

 シルヴィアとヴィリーはこのあとも2日間私たちにつきあってくれて、前回訪ねきれなかった小さな村の教会に今回も連れて行ってくれました。本当にありがたい友だちです。一つだけ残念なのは、ヴィリーの計らいでシルヴィアに若い男性を紹介し、今は二人はカップルではなく、仲の良い友だちという関係になったということでした。わが家に二人でやってきたのは2010年。その後3年間の大きな変化で驚きました。私たちにとって二人ともとても大切な友だちなので何だか複雑な思いの旅となりました。

                                             

 そして残念なことに、ヨハネスは今は会うことのできない遠くに旅立ってしまいました。私と夫は2014年10月、ヨハネスの誕生日前に何とか日程を組み、花束を持ってもう一度訪ねています。フリーデルはヨハネスが転んで頭を打ったり、会話が続かないために機嫌が悪くなったりするので、それが本当に辛いと話してくれましたが、段差を少なくしたりして少しでもヨハネスが元気に過ごせるようにと心を砕いていました。私が持っていった花束がヨハネスの着ていたシャツと同じ色合いだと喜んで、最後に素晴らしい笑顔を見せてくれたのがこの写真です。彼は2015年1月30日に亡くなりました。89歳4カ月の人生でした。


                                           <最後に会った日のヨハネスの笑顔>

                      

  今年、2016年12月、ヨハネスへの心からの感謝をこめて、そしてフリーデルの健康を祈りつつ、お墓参りをしてきます。私は、フリーデルとヨハネスに出会えて本当に幸せでした。

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Mitsuo FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

36. 続編完成

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.6 2010年初夏の旅

 ヨハネスと父のその後

  その後、日本からやってきた文子さんとローテンブルクへやってきました。文子さんにはこの可愛らしい町を一人で散策してもらって急ぎヨハネスの入院しているクリニックを訪ねました。ローテンブルク駅前の大きなショッピングセンターにはお花屋さんがあったので、お見舞用の花束を作ってもらいました。クリニックに着くと、ヨハネスはリハビリに出ているとのことで病室には鍵がかかっていました。私が花束を近くの洗面所で借りた花瓶に入れ、廊下にしゃがみこんでメッセージカードを書いていたちょうどそのとき、すたすたと足音がしてヨハネスが歩いてきたのです。びっくりしました。以前は杖をつきながら痛そうにゆっくりと歩いていた彼が、何だか足さばきが別人のように元気になっていたのです。私は思わず「歩けるんだ!」といいながら泣き出してヨハネスに抱きつきました。脳梗塞で倒れたと聞いていたので、リハビリに出ているとしても、てっきり車椅子で戻ってくるのだろうと思っていたからです。

 ただ、鍵を開けてイスに座ったヨハネスは疲れているように見えました。とても厳しい表情で、ゆっくりと声を絞り出しました。ジェスチャー混じりで何とか私に伝えようとする彼の様子に胸が痛みましたが、なかなかことばが理解できません。すると彼は震える文字で紙に何か書き付けるのです。とりあえず聞いてわからないことも何とか単語は書いて伝えられるようでした。フリーデルにいまから来られないか聞いてくれと言っているのでした。フリーデルに電話すると今日は無理だから明日には行くと伝えてとのこと。いつも元気いっぱいにしゃべって笑って怒っていたヨハネスのことを思えば、いかに彼が今の情況に苦しんでいるのかわかります。いつも朗らかにほほえんでいたフリーデルも、電話する度に電話口で泣いているのが思い出されました。それでもこれだけ話そうとしている彼の姿に、きっと少しずつではあってもコミュニケーションはとれるようになってくるのではないかと感じました。私にできることはフリーデルを慰めるために、ごく普通のはがきを旅先からできるだけ何度も出すことだと思い、ローテンブルクに帰りました。

 その後、ヨハネスは退院し、より気難しくなったようですがリハビリをしながら過ごしているとのことでした。そして時には彼からのメールが届くこともありました。多分話すよりは気持ちを伝えやすいのだなと感じました。


 一方、父は検査の結果悪性腫瘍だとわかり、数ヶ月の余命とのこと。姉もきっと精神的に参っているのでしょうに、私が旅を途中にして戻ってきてもすることはないから文子さんのためにも最後まで回ってきなさいと書いてきてくれました。心にいつもトゲが刺さったような状態ではありましたが、帰ったらその分できるだけのことをしようと思いながらポーランドまで回り、7月に帰国。その後8月にはドイツのシルヴィアがヴィリーとわが家に遊びに来ることになっていたので1週間自宅に戻ってお迎えし、彼らを成田まで見送ってからまた実家に舞い戻りました。父はその後3週間で息を引き取りました。最後は毎日、母と姉と3人で病院の終末ケア病棟の父を見舞い、入院するまでは握手なんて交わしたことがないのに毎日父と握手して別れていました。バタバタと慌ただしい日々ではありましたが、父に毎日「ありがとうね。みんなのお見舞が一番嬉しいよ」と言われ続けて見送ることができたおかげで、悔いは残らずに済んでいます。

                                            

 続編の完成

 2010年の旅ではできるだけ自分の足でバスや列車を乗り継いで歩き回ったのですが、どうしてもバスで往復できない場所や、行ってはみたもののちがう教会だったりして、見られなかった作品がまだ結構残りました。

 2011年にはアメリカにあるリーメンシュナイダー作品を訪ね、帰ってきた直後に東日本大震災が起きました。父の納骨を済ませても、原発事故の余波で気落ちした日々を過ごしている中で、やはり気になるのはまだ見ぬリーメンシュナイダー作品です。自力で行ききれなかった場所への落ち穂拾いの旅をしたくてムズムズし始めた私の心を鎮めるために、思い切って秋にも夫とドイツを中心に回る旅を企画しました。このときはキッツィンゲンに再び宿を取り、シルヴィアにヴィリーも加わって合計8泊。ヴィリーが今まで行きたくても行けなかった小さな村や町の教会を車で回ってくれるということになったのです。本来は大人3人までのこのアパートですが、どうしても4人でとお願いした私にシュラー夫妻は「ミドリが言うのなら仕方がないわ」と特別に許してくれたのです。私が日本でいくら検索しても土地勘がないためにたどりつけなかったいくつもの教会リストのすべてに電話連絡をし、普段鍵がかかっている教会には拝観日時を予約し、道路地図をプリントアウトして準備万端整えてくれたのがヴィリーでした。そしてナビはシルヴィア。二人のコンビがどんなに私のリーメンシュナイダーを歩く旅を助けてくれたことか。一人では訪ねきれなかったほとんどの場所に彼らは私を導いてくれたのでした。

 さらに2012年春、今度はヨーロッパの落ち穂拾いの旅に出ました。ドイツの新しい情報に基づいてまだ見ぬ作品数点と、アムステルダムやイギリス、パリにあるリーメンシュナイダー作品を見て回りました。夫も美術全般が趣味のような人なので、フェルメールの作品やらフランドル絵画を見ることも視野に入れて旅程を組みました。

 これらの成果を得て、ようやく続編をまとめる時期が来たと思えるようになりました。2012年はヨーロッパから戻ってすぐに続編の執筆と編集に取りかかり、再度自費出版で同じ丸善プラネットから写真集の第二巻を出すことにしたのです。今回こそは色へのこだわりを通したいと願って調整に手間取りましたが、ようやく2013年1月に『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(著者 福田 緑 丸善プラネット株式会社発行)は完成しました。


                                <『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』>                                   

                            

                          <表紙 歎きの群像>                                            <裏表紙 聖母子像> 

                      1510頃, Tilman Riemenschneider und Werkstatt                      1490頃 Tilman Riemenschneider      
                                                       St. Peter und Paul, Großostheim                                                                          Sammlung Würth
※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA              
                         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

35. ハッセンバッハの空と雲

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.5 2010年初夏の旅

 ヨハネスと父の入院

 ブッフ・アム・ヴァルトに住むアマチュア写真家のヨハネスが入院したという知らせを受け取ったのは数日前のことでした。彼の家を訪ねる替わりにヨハネスの入院先を聞いて数日後にお見舞に行くことにしたのでしたが、何と前夜、姉からのメールで父の具合が悪いという知らせが届いたのです。でもとりあえず検査入院をして結果が出るまでにしばらくかかるし、今すぐに危篤という状態ではないので私の旅を切り上げて帰ってくる心配は要らないとのことでした。でも大事な人が二人も入院したと聞いてとてもショックで胸塞がる思いでした。

 それでも、いざアパートを出るとリーメンシュナイダーのことに集中してしまいます。

 この日はハッセンバッハまで行くつもりで出発しました。ただ、数日前に娘がまだドイツにいて私と一緒に回っていた頃、ドイツには同じような町の名前や教会の名前が多く、ネット検索して行き方を調べてきたつもりでも、彫刻があるのはその教会ではなくて隣町だったという体験が2回ありました。その結果、ネット検索で出てくる住所や電話番号は地域の取りまとめの教会で、数館の教会を所轄しているらしいということがわかってきました。特に洗礼者ヨハネ教会が2つあるハッセンバッハ所轄地域ではどちらの教会にリーメンシュナイダーがあるのかわかりにくかったので、わざわざ電話をして「嘆きの聖母像を見たいのですがそちらの教会でしょうか」と前もって聞いたのでした。若い女性が「それならここですよ」と答え、オーバートゥールバの教会への行き方を教えてくれたので安心して出向いたのです。

 キッツィンゲンからいつものようにヴュルツブルクで乗り換え、シュヴァインフルトまで行き、更に乗り換えてバート・キッシンゲン駅に到着。ここからバスでオーバートゥールバの教会に向かいました。途中の道路は工事中で相当長いこと停車したあげく、下車したいマルクトプラッツには工事中だから停まらないというので少し先で下りて歩いて戻るようなハプニング続き。ようやく着いたときにはホッとしました。

 でもずいぶん新しくてきれいな教会です。中に入って拝観しましたが、どこにもリーメンシュナイダー作品が見つかりません。外に出てもう一度司教館に電話を入れました。「いえ、ここでいいのですよ。ちょっと待っていてください、すぐ行きますから」と言って、近くのドアが開き、若い女性が出てきました。手に持っているパンフレットを「嘆きの聖母子像はこれですけど」と見せてくれたのです。そこで私のことばが足りなかったことを理解しました。私は「リーメンシュナイダー」と言わないままで作品名だけ伝えていたのです。嘆きの聖母子像、いわゆるピエタはそんなに多くの教会にあるわけではないので油断していたのですね。隣り合う村の同じ名前の教会に、同じピエタ像がたまたまあったために起こった混乱でした。彼女が言うには隣村がハッセンバッハで、リーメンシュナイダー彫刻がある教会だから歩いても行けますよとのこと。「電話を入れておかないと開けてもらえないでしょうから連絡しましょうか」と言ってくれたのでお願いし、ついでにトイレをお借りしました。この方と出会わなかったら、例えまっすぐ正しい教会についたとしても作品を見ることはできなかったのですね。天の采配だったのでしょう。司祭さんが午後1時に来てくれることになりました。

 まだ少し早めだけども遅れるよりは良いと思ってすぐに隣村へと出発しました。とても暑い日でした。村の外れの標識にはハッセンバッハまで3kmとありました。さきほどの女性は確か2kmと言っていたのです。早めに出てきて良かったと思いながら草原の中を歩き続けました。ふと見上げると真っ青な空には白い雲。その雲がどうしても男性がベッドに横たわっている姿に見えるのです。その人はヨハネスかもしれない。あるいは父かもしれないと思うと胸が詰まりました。

 教会に着くと、古い教会もあったのですが、「嘆きの聖母像は新しい教会にあります」という看板が立っていました。坂を登るとすぐ新しい教会が見つかりました。待ち合わせの午後1時に車が停まって司祭さんが降りてきました。鍵を開け、中の灯りを付けて「どうぞ」と、撮影させてくださいました。教会の歴史など数枚のコピーをくださって、私が写した写真を見ると、「教会の尖塔が先細りしているけど、デジタルだから直せますよね」とおっしゃいました。私は多分と答えながらぎくっとしました。この旅に持って来たニコン一眼レフの扱いも辛うじてできる程度の初心者ですから。写真家のヨハネスには、「そういう傾斜を直すツールもあるけれどとても高いんだよ」と聞いていましたし。坂の下から高い尖塔の教会全体を入れて写すにはこんな角度でしか写せなかったのです。


 帰りのバスは予定外だったので資料もなく、とにかくバート・キッシンゲン行きと書いてあるバスに乗るしかありません。13:37分の予定のバスが10分遅れてようやく到着。運転手さんにバート・キッシンゲン駅まで行きたいのですがと言うと、このバスは行かないから乗り換えを教えるよと言われて「バート・キッシンゲンと書いてあるのになんで駅まで行かないのだろう」と不思議でした。バート・キッシンゲンの終点につくと、確かに駅が見当たりません。運転手さんは車内の常連さんとのおしゃべりで名前がミカエルさんだとわかっていましたが、「あそこのバス停で待ってなさい」と指さして教えてくれます。私が歩いていくと、そこだよと目で合図してくれましたが、なかなかバスが来ません。他のバスはどんどん来るし、バート・キッシンゲンと表示にあるのですが、駅まで行くのではないだろうかと不安になってキョロキョロすると、ミカエルさんが「まだまだ、そこでいいんだよ」というジェスチャーをするのです。ミカエルさんは終点に着いて乗客もいなくなったにもかかわらず、運転席でゆっくり何やら食べ、ゆっくりたばこを吸い、なかなか発車しません。20分ほどたってようやく目の前にバスが近づいてきたので彼を見ると「そう、そう、そのバス」と頷き、ようやくエンジンをかけて発車させ、私に手を振って去って行きました。ミカエルさんは私がちゃんと乗り継ぐまで見守ってくださっていたのだとわかり、本当に嬉しく思いました。この日は予定外のコースで帰らなければならず、とても不安だったのですが、守り神はついているのですね。バスに乗ってから「バート・キッシンゲン」と言うと、周りの人が口を揃えて「それならここだよ!」と言います。あわてて「駅まで」というと、みなホッとしたように「このバスだ」という感じで頷いていました。見慣れない日本人がどこに向かっているのか関心を持って心配してくれていたようです。そして地元の人にはバート・キッシンゲンといえばこの旧市街であり、駅はちょっと離れた場所にある別物なのだとわかりました。今後は地名も正確に旧市街、新市街、駅という区別を頭に入れなければいけないと痛感しました。このミカエルさんには今でも心から感謝しています。

   

        

          <作品写真40> ハッセンバッハの嘆きの聖母像                                <新しい洗礼者ヨハネ教会 (尖塔?は斜めのまま)>  

            Vesperbild  1490-1500 Tilman Riemenwchneider zugeschrieben, Kratiekirche St. Johannes der Täufer, Hassenbach

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

34. ゲロルツホーフェン再訪

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.4 2010年初夏の旅

 思いがけずインタビューを受ける

 「27. ゲロルツホーフェン」で書いたように、2009年冬の旅では、親切なインフォメーションの対応で閉館中のヨハネ礼拝堂美術館を見せていただくことができました。けれども帰宅して資料とつきあわせたところ、やはり「王冠を与える天使」が見られていなかったのです。教会内も見たのにどこにあるのだろうと気になって、今回、もう一度ゲロルツホーフェンに行ってみることにしました。

 インフォメーションセンターで、教会内の彫刻についてお話を聞きたいのですがと質問すると、「専門家がいるので」と言って時間が空いているかどうか聞いてくれました。10分ほどでエヴァマリア・ブロイアーさんが来てくださり、教会内のローゼンクランツの上の方にある天使がリーメンシュナイダー作品だと教えてくださったのです。あきらかに作風がちがうので、教会内の別の場所ばかりを探していたのですが、灯台もと暗し。恥ずかしく思いましたが、撮影する間、彼女は私の『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を興味深そうに見ていました。その後、隣のヨハネ礼拝堂もわざわざ開けて案内してくださってから、帰り際に「すぐ近くに地方新聞のマインポスト社があるので紹介しましょうか?」と言うのです。ドキッとしましたが、良いチャンスかもしれないと思い、案内していただくことにしました。すると体格の良い記者さんが「今はいそがしいので3:40分に市役所前でインタビューをしたいと思います。いかがですか?」と言います。私はタクシーでオーバーシュヴァルツアッハまで往復するつもりでいたのでちょっと時間が気になりましたが、了承しました。

 さて、その後が大変です。すでに3時近くになっているので急いでタクシーを呼ばなければならないのにちっとも電話が繋がりません。3回目にようやく繋がって大急ぎでオーバーシュヴァルツアッハまで往復したいのだけれどとお願いすると大丈夫とのこと。3時5分にやってきたタクシーに飛び乗りました。のんびりした雰囲気のおばさま運転手が私の事情を察してくれて、教会で慌てて撮影する間、メーターを切って待っていてくれました。感謝です。何とか撮影を終えて再び市庁舎前へ。往復35分の旅でギリギリセーフでした。インタビューの時にはブロイアーさんも立ち会ってくださり、私のリーメンシュナイダー追いかけの旅に興味を持ってくれて記事にしますとのこと。思いがけない展開でした。その記事がこちらです。  マインポスト記事

*2024年現在、ここからはアクセスしにくいようです。画像で保存しておかなかったことを反省しています。
             

              
<作品写真38> ローゼンクランツのマリア全体像                 
<作品写真39> リーメンシュナイダー作の天使
Krönungsengel     1522-1525  Tilman Riemenschneider Werkstatt, Maria vom Rosenkranz, Gerolzhofen


<ローゼンクランツのマリア教会>

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

33. 日本人は来たことがありません

2016年09月11日 | 旅行

続編への旅 No.3 2010年初夏の旅

 まばゆい日差しの中のセバスチアン像

 ガボルツハウゼンという小さな村にその木彫はありました。けれどもここまでどのように列車やバスで行けるのか皆目見当がつかず、メールで尋ねてみると、アンドレアス・ブラッハルツさんという主任司祭さんがご親切にメールをくださいました。

 「バスで終点まで来てもその先まだ5kmあるので、タクシーかルーフバス(あらかじめ電話で頼んでおくと来てくれる小型バス)でないと来られないのですよ。ですから私が迎えに行きます。」

と。私は感激して、

「それでは赤い帽子を被って黒いリュックサックをしょってバス停でお待ちしています。」

と返信したところ、再度こんなメールが届きました。

「いえいえ、ご心配なく。この村に日本人はまだ来たことがありませんから見たらすぐあなただとわかりますよ。」

そうなのか、私は日本人として初めてこの村の教会を訪ねることになるんだなと深い感慨を覚えたものです。


 当日、キッツィンゲンから列車に乗ってバート・ノイシュタットまで行き、バスで終点のKönigshofen i.G.で降りると、恰幅の良い司祭さんが私に手を挙げて近づいてきました。この方がブラッハルツさんだとすぐにわかり、優しそうなお顔にホッとしました。やはり「文は体を表す」ですね。メールが優しい方はやはりお人柄も優しいと、リーメンシュナイダーの追いかけの旅を通じて思うようになりました。車で出向いた先は聖ローレンティウス教会なのですが、そこにはアーノルド・ヴェルナーさんという方が待っていてくださって、ようやくブラッハルツさんが地域の取りまとめ役なのだとわかりました。教会の責任者はこのヴェルナーさんだったのです。

 どうぞどうぞと中に導かれて入っていくと、ガラス戸をあけて目的の聖セバスチアン像を持ち上げます。写真を撮りやすいように出してくださったのだなとありがたく思っていると、「こっちの方が明るくて良く写せるでしょう」と、さっさと外に向かっていくではありませんか。教会の脇にある出口を出たところにセバスチアン像を置き、さあ、どこからでもどうぞ、回転させて欲しかったら言ってくださいねと言うのです。まぁ、絵画ではないので多少日光に当たっても傷むものではないからなのかなと思ったのですが、あとから聞いたところによれば、以前は年に一度大きな行事があって、聖セバスチアン像を外に出し、街中を引いて歩いたとのこと。それで、外に持ち出すことに抵抗がないようでした。お二人がなにやらおしゃべりしている間に撮影させていただいた写真を載せておきます。


                     <作品写真36 聖セバスチアン像 正面>               <作品写真37 聖セバスチアン像 背面>     

                       

                                     Heiliger Sebastian    1515-1520  Tilman Riemenschneider Werkstatt

                                                                                                Katholische Filialkirchenstiftung St. Laurentius, Gabolshausen


                                    <ガボルツハウゼンの聖ローレンティウス教会> 

                          

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

32. ゲーテ校がつないでくれたご縁

2016年09月11日 | 自己紹介

続編への旅 No.2 2010年初夏の旅

 人脈を使わせていただきました

 私は早期退職をして、2006年の5月から10月までシュヴェービッシュ・ハルにあるゲーテ・インスティテュートでドイツ語を学びました。そのときにも様々な人と人との繋がりから先生のお宅に住まわせていただくことになったり、上の階に住む認知症の女性に宿題を見ていただけたりというラッキーな展開がありました。その中の一つのお話しです。当時書いていた留学日記からコピーします。情況をわかりやすいように多少加筆してあります。


    ***   ***   ***   ***   ***   ***   ***      

  2006年9月22日(金)

  
突然の仕事

 水曜日の中休みにゲーテ・インスティテュート受付のレギーナさんがやってきて、「今夜通訳をやって欲しいという依頼が来ているのだけれどできませんか。日本人のお客さんが来て食事を一緒にとるのだけれど、ドイツ語も英語も話せないということで日本語とドイツ語の通訳ができる人を探している」というのです。「あまり専門的なことは無理ですが、もし日常会話の程度なら何とか手助けできると思います」といって引き受けました。夕食はごちそうになれるということでしたし。
 夕方6時半に家のブザーが鳴り、ヴァンケさんという方が迎えに来てくださいました。この辺では大きなヴュルツという会社のアシスタントです。車の中で色々伺ったところでは、この辺一帯の通訳紹介所をあたったけれど、たまたま日本語ができる人が出張していて見つからず、ゲーテに頼んだということでした。 報酬も用意したというので「まだ学生だし、どの程度お手伝いできるかわからないのでお金は受け取れません。」と断りました。すると、ヴュルツが持っている美術館に入場していいこと、自分の好きな本をもらって行っていいということ、何か気に入ったおみやげがあったらくださるということでした。名詞を持って行って見せれば大丈夫なようにしておくからというのでありがたくこの特典はお受けすることにしました。
 こじんまりした古城ホテルに若い日本人男性が二人いて、ヴァンケさんと名詞を交換。どうも企業の関係者のようです。もう一人ヴュルツから人が来るというのでしばらく古城の中を見学させてもらいました。その間にヴァンケさんも私がどの程度のドイツ語ならわかるのかつかんだようです。
 食事が始まるとヴュルツの副社長というバウアーさんが見え、難しい顔でいきなり質問が始まりました。若い日本人に今日1日何をしたか、同行したドイツ人の仕事ぶりはどうだったか、何に感銘を受けたか、日本での業績はどうか、トレーニングはどのようにしているのか、毎月の売上高はいくらか…。何のことやらわけがわからず途中で少しずつ聞いてみたところ、ビュルツは自動車の部品(ネジなど)を扱っていて、日本でも売り出しているそうなのです。その販売員が彼らで、日本の業績が思わしくない、もっと意識を高め、売り上げを上げなさいという指導だったようでした。こんなはずではなかったのに。若者たちは「え? 売り上げ? こんなことまで言っちゃって大丈夫なの?」と目を白黒。でも嘘をついてもいずればれるから正直に言った方がいいわよ…なんて。私、何をしに来たんだろう? 

 まぁ、この年だから何とか間を取り持ちながら彼らの伝えたいメッセージも伝えられたし、若者たちにも意見を言わせられたかなと思います。美味しいステーキをごちそうになり、帰りの車の中でヴァンケさんから「あなたの通訳はとってもよかった。雰囲気をほぐしてもらえたので満足している。」というようなほめかたをされました。まぁ、お役に立てたようなのでいいことにしましょう。 

    ***   ***   ***   ***   ***   ***   ***                   

 このときのヴァンケさんの名刺が役立ちました。ヴュルツというのは当時ドイツでもトップ10に入るお金持ちの会社だそうです。そして帰国してからわかってきたのですが、シュヴェービッシュ・ハルにあるヨハニターハレという教会跡を美術館にしたのはこのヴュルツでした。その中にリーメンシュナイダーの素晴らしい作品が3点あることはすでに見て知っていたのですが、撮影禁止となっています。このとき私はヴァンケさんのことを思いだしたのでした。それまでにも『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を贈っていますし、季節の挨拶を交わす程度の繋がりを保っていたので、旅を計画した折に、このヨハニターハレでの撮影を許可していただけないだろうかというお願いをしてみました。すると幸運なことにヴァンケさんを通じて美術館の方に連絡が回り、撮影許可が下りたのです。あの通訳の話があったとき、私には荷が重いなんて遠慮して断っていたらこんな展開にはなり得ませんでした。図々しいことも大事なんだなぁと痛感しました。

 さらに、撮影した写真が素晴らしいできで(自分でいうのもなんですが)、是非この写真を続編に載せたいと思うようになりました。再度ヴァンケさんへのお願いで、ドイツではだめだけれど日本での出版なら認めるとのこと、リストには地名は載せないことという条件で許可をいただきました。従って続編のリストのシュヴェービッシュ・ハルの頁にはその作品は入れずに個人蔵の項目にヴュルツ財団という名前で入れました。この本はヴュルツ財団にもヴァンケさんにもお送りしてあります。


 <ヨハニターハレの前で 私の鞄を持ってくれているのはマリアンヌ>

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

31. 続編出版のために

2016年09月09日 | 旅行

続編への旅 No.1 2010年初夏の旅

 続編出版を決意して

 2009年から更に多くのリーメンシュナイダー作品を見ること、資料を集めることを決意して旅は始まっていたのでしたが、ヨハネスの名誉挽回を必ずしなければという決意を胸に、再度2010年にもまだ見ていない場所、作品を訪ねる旅を計画しました。寒いとトイレに行きたくなる頻度も上がりますし、気が滅入り易いため、今回は明るい季節、5月~7月にドイツを中心に回ることにしたのです。この時期、夫は大学の授業があるので一人で行かせてもらいました。とはいっても途中で娘がやってきて一緒にウィーンまで行きましたし、1カ月後には長年英語のレッスンを一緒に受けてきた友だち、藤森文子さんが退職後にドイツを見て回りたいというので合流しましたから、完全な一人旅ではありませんでした。また、後半は観光旅行が主となりました。

 フランケン地方を回るためにはヴュルツブルク近辺に泊まる必要があります。でも、ヴュルツブルクは交通の要所でもあるので宿泊料金も高いのです。ドイツ語の先生にも相談して、Ferienwohnung(休暇用アパート)のサイトを見付け、キッツィンゲンに比較的安いアパートがあることがわかりました。駅からは20分近く歩かなければなりませんが、大家さんの隣の建物で、1階はガレージ、2階にリビングルーム、キッチン、ベッドルームと3室あります。お風呂にはバスタブがあり、トイレも別室という恵まれたアパートで、1泊確か€ 20,00と格安でした。ここに泊まりながらフランケン地方を回ると決めて2週間分の予約をしました。

 

 実際、6月にやってきたこのアパートは、花一杯に飾られて美しく、清潔で居心地が良く、大家さんもとても親切でした。ただ一つだけネックになるのは、キッツィンゲンからヴュルツブルクまで歩きと列車を入れて最低40分はかかることです。フランケン地方の大半はバイエルン州に属するため、バイエルンチケットを買うと特急以外の列車もバスも午前9時~夜中の3時まで乗り放題になるのですが、9時過ぎの列車でないと乗れないためにヴュルツブルクから乗り換えていく目的地に着くのはどうしてもお昼近くになってしまいます。朝の時間がもったいないと私には思えるのでした。また、ようやく夜キッツィンゲンまで戻ってくると、くたくたの体にむち打って更にカメラと三脚と本などが入った重い鞄を持ってアパートまで歩くのがとても辛かったのが忘れられません。

 

 この旅のルートは以下のとおりです。

  フランクフルト → ハイデルベルク → シュヴェービッシュ・ハル → シュトゥットガルト → チューリッヒ → ウィーン → ベルヒテスガーデン → ミュンヘン →

  ニュルンベルク → アイゼナハ → キッツィンゲン → ローテンブルク → ハノーファー → ロストック → ベルリン → ワルシャワ → クラクフ → プラハ →

  チェスケ・ブディヨヴィツエ → レーゲンスブルク → フランクフルト

 旅のノートには、訪ねた教会は42館、美術館・博物館は17館、拝観した作品数は、当時の数え方で222点とメモしてあります。その中で何カ所かの特筆すべき旅について書いていこうと思います。

 

 美術史美術館の奥深くへ

 ウィーンの美術史美術館にはリーメンシュナイダーの聖母子像があります。それを見たくてかつて2回訪ねたのですが、修復中ということで展示されていませんでした。ドイツからウィーンまで足を伸ばすのは時間もお金も大変かかります。今回、もし展示されているのだったら旅程に組み込もうと、早い時点で美術史美術館にメールを送ってみることにしました。すると運良く工房の修復士、バルバラ・ゴールドマンさんのメールアドレスが載っていたので、もう聖母子像の修復は終わっているのかどうかと尋ねてみました。彼女は「修復は終わっていて収蔵庫に保管されています。よければ案内しますよ。修復を担当した者ともお話ししますか?」と返信をくれたのです。驚きました。こんなチャンスは滅多にないと嬉しくて是非お願いしますと答え、日程に組み込みました。その話を娘にも伝えたところ、漆の仕事をしている娘もそれなら是非一緒に行きたいというではありませんか。そしてまもなく娘の友だちで仏像修復をしている杉浦奈央美さんも同行したいと連絡してきました。急遽3人で伺いたいとメールをし直し、5月27日に美術史美術館を訪ねることになりました。

 入り口前で3人集合、パスポートを預け、訪問者カードを受け取りました。そのカードを改札のようなところにかざすと中に入れるのです。その後は自分たちで工房まで行って良いというのでちょっと驚きました。こんなにフリーにさせてもらって大丈夫なのかしらと。

 工房に着くとマークさんがにこやかに迎えてくれました。今日はゴールドマンさんは別のお客さまの対応をするのでと、握手を交わしただけで、実際に聖母子像を修復したこのマークさんが案内してくれるのだそうです。若くて素敵な男性で、親切な人でした。鍵束を持ち歩き、内部のエレベーターの鍵を開けて乗り込み、下りると鍵を閉め、いくつもの部屋や廊下を通り抜けていきます。「これではぐれたら迷子になる!」と必死でついていきました。そしてたどりついた収蔵庫。白い紙のカバーをていねいにはずし、出てきた聖母子像はとても気品ある美しさでした。脚立までおかれていて、どうぞお使いくださいとのこと。上から下まで撮影させていただきました。その後、小さなアダム像も別の部屋にあるといって更に奥深くまで案内していただき、全身360℃動かして撮影させてもらいました。マークさんの話では、以前の修復は取れてしまった部分や壊れた部分を作り直して元の形に整えることが大事だったのですが、最近は「これ以上壊れないような修復をする」という方向に改められたのだそうです。本当に幸運な、そして感動的な一日でした。

    

                  <作品写真34>                             <作品写真35>        

                        

                         Madonna auf der Modsichel                                                                                     Adam

                                         1505-1510 Tilman Riemenscheider                                                             1490-1505 Tilman Riemenschneider

                                                                                              Kunsthistrisches Museum, Wien      

 

                                                                                                 <美術史美術館>     

                     

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

30. 大恩人の静かな怒り

2016年09月08日 | 旅行

新・旅日記 No.13 2009年冬の旅

 ここで一区切りつけることにします

  夫と合流してから、最後の大恩人のヨハネスとフリーデル夫妻を訪ねました。お二人はローテンブルクから車で30分ほどのブッフ・アム・ヴァルトという美しい村に住んでいます。アマチュア写真家のヨハネスが撮りためたリーメンシュナイダー作品の写真を私の作る本に使って良いよと譲ってくれなければこの写真集はできませんでした。この大恩人に真っ先に手渡したかったにもかかわらず最後になったのは、夫と二人できちんとお礼に伺いたいと思ったからでした。写真集の出版はデリケートなものですから、色合いや画質には相当こだわりました。印刷会社とのやりとりでもヨハネスに見本を送り、アドヴァイスをもらって意見を伝え、何度もやりとりをしたのですが、2008年12月に刷り上がってきた本の半分は伝えたとおりの色に直されていませんでした。カラー写真の残りは満足できる色合いだったので全部印刷し直してくれとは言えず、受け取ってしまいましたが、内心、あれだけ色にこだわっていたヨハネスが何というかと不安でした。

 ヨハネスとフリーデルはアンスバッハの駅まで迎えに来てくれていました。お二人ともお元気そうでホッとしました。奈々子と一緒に2007年に訪ねてから1年半が経過しています。「今日は奈々子は連れてこなかったの?」とフリーデル。大学を卒業して数年経ったのにまるで中学生のように見える娘のことをとても可愛がってくれていたので、この次に来るときは連れてらっしゃいと言われました。私たちの泊まるホテルまで車で送り届けてくれて、そのロビーでいよいよ本をお渡ししました。ヨハネスの顔の表情がみるみる厳しくなりました。口では「きれいにできたね」と言ってはくれましたが、内心は怒っているのがよくわかりました。この日は奈々子に頼まれた買い物もあり、ゆっくり時間が無いので明日お家に訪ねることにしてこの日はお別れしました。

 翌日、ヨハネスが車で迎えに来てくれて、いくつかの教会に寄ってからお宅を訪ねると、フリーデルはたくさんのご馳走とケーキを用意して待っていてくれました。そのときの写真をここに載せておきます。


                    <フリーデルとヨハネス>                              <フリーデルは、いつもひまわりのような優しい笑顔です>

                       


 

 ヨハネスに率直な意見を聞きたいと伝えて、写真を1枚1枚評価してもらいました。彼は「いつ印刷し直すんだい?」と聞きます。私は、「彼の信頼を裏切らないように続編の写真集を作り、そこにもう一度彼の写真を正しい色合いで印刷しよう」と決心しました。

 食べきれないほどのケーキのお土産と共に雪をうっすらとかぶったブッフ・アム・ヴァルトを走り抜け、ホテルに戻ってから私は疲れが出てダウンしてしまいました。私は、暮れに仕上がった本をどうして「この色ではだめだ」と突き返せなかったのか。彼にとってそれは名誉のかかった大事なことだったのに。ヨハネスの静かな怒りを感じて心が重く、ヒリヒリするような一日でした。

 翌日から夫と二人の旅は18日間続きましたが、ここでお世話になった方々へのお礼としての「2009年冬の旅」の記録は区切りをつけることにします。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする