リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

120. 「追いかけ人(びと)」18年間を振り返る No.9

2017年10月21日 | 彫刻

美しい彫刻たち その4


        


 この作品は、やはりボーデ博物館にある美しい彫刻の一つです。「悲しむ聖母」というタイトルで、ボヘミアの作家(名前はわかりません)による1380~1390年の作品だそうです。モデルがいたのかどうかわかりませんが、私のフランス人の友だちとよく似ています。この聖母は、まだどこかあどけなく、ふっくらしたあごの辺りに若さと可愛らしさを感じさせます。そして、どこか悲しみを超越した深さを感じます。リーメンシュナイダーの聖母が持つ雰囲気に少し似ています。けれどももっと柔らかく、暖かい雰囲気を持っています。石彫ですが、頭にかぶっているヴェールと衣服の襞はとても丁寧に彫られていて、このボヘミアの作家の力量も大変なものです。彼女の様々な角度から見た写真を載せておきます。


          


        

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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119. 「追いかけ人(びと)」18年間を振り返る No.8

2017年10月14日 | 彫刻

美しい彫刻たち その3


         


 このモニュメントは「平和の天使のモニュメント」と言うそうです。ミュンヘンのバイエルン国立博物館からシュトゥック美術館に向かう途中、プリンツレゲンテン通りにある公園で見かけたものです。このモニュメントの下に8体の女性像が四方を見ながら中のモザイク画を守るように立っています。モザイク画とこの女神像と思われる彫刻の対比が美しく、とても印象に残ったので急いで写しました。表示を写すゆとりもなかったのでこの8体の像やモザイク画のタイトルも作者もわからないのですが、この像の太い足にたくましさを感じます。今度ここを通る機会があったら、解説も読み解きたいと思います。以下にこの台座の四方向からの写真を載せておきます。


    


    

  ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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118. 「追いかけ人(びと)」18年間を振り返る No.7

2017年10月07日 | 彫刻

美しい彫刻たち その2

 

      

 

 この彫刻は、ウィーンの美術史美術館に展示されている「婦人の胸像」です。絵葉書によると15世紀の後半四半世紀に作られたようです。作者はFrancesco Laurana (1430年-1502年3月12日より前に死亡)、リーメンシュナイダーより少し若い作家で、クロアチア出身と書かれています。主にナポリ、フランスで作品を残した作家のようです。この日はなぜか解説カードを写し忘れてしまったので、女性の名前など、詳細がわかりません。

 この女性は、高貴な地位にある人のようです。こうした気品を作品で表現するのはとてもむずかしいだろうと思うので、何度もこの彫刻の回りを巡ってしまいました。特にちょっと下を向いているまなざしは、周りの人を寄せ付けない雰囲気を持っています。背中にも意志の強さを感じます。


   

 


    

  正面の写真は、もう少し上から写すともっと素敵に撮れたと思います。 

       

   

 彼女と対峙すると、自ずと背筋をしゃんと伸ばしたくなる作品です。

 この女性は誰なのか気になったので画像検索してみたところ、ルーブル美術館やイタリア、パレルモのシチリア州立美術館にも似た表情の胸像があり、この像の女性はレオノール・デ・アラゴンだとわかりました。Wikipediaでは以下のように書かれていました。

 

********************

レオノール・デ・アラゴンは、ポルトガル王ドゥアルテ1世の王妃。 アラゴン王フェルナンド1世と妃レオノール・デ・アルブルケルケの娘として生まれた。 1428年9月、ドゥアルテと結婚した。9子をもうけたが、成人したのは5人である。

生年月日:1402年5月2日
生まれ:スペイン メディナ・デル・カンポ
死亡:1445年2月19日、スペイン トレド
配偶者:ドゥアルテ1世(1428年から)
子供:・アフォンソ(1432年 ー1481年)
    ・フェルナンド(1433年ー1470年) ヴィゼウ公。マヌエル1世の父
    ・レオノール(1434年ー1467年) 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇后
    ・カタリーナ(1436年ー1463年) 尼僧
    ・ジョアナ(1439年ー1475年) カスティーリャ王エンリケ4世の2度目の妃

 1438年にドゥアルテが黒死病で急逝する。生前に夫から摂政就任を依頼されていたレオノールは、幼王アフォンソ5世の摂政就任を宣言する。しかし、彼女が外国人であるためポルトガル国内で人気がなく、王弟コインブラ公ペドロが人望を集めていた。バルセロス伯とリスボン大司教の干渉、長女フィリッパが9歳で夭折、遺児ジョアナの出産など、出来事が相次ぎ、数ヶ月たっても摂政が決まらなかった。

 コルテスが招集され、すぐにコインブラ公単独の摂政就任が決定された。これに不服なレオノールはなおもコインブラ公追い落としを画策するが、1440年年にカスティーリャへの亡命を強いられた。彼女はでトレドで亡くなり、バターリャ修道院に葬られた。

***********************

 

 記録に残るような家に生まれた人たちは、ずいぶん大変な歴史を担って生きていたのですね。ルーブル美術館の解説では、

 Bust of a princess, usually identified as a posthumous portrait of Infant Leonor of Aragon, on the basis of the funerary portrait now housed by the Galleria Nazionale della Sicilia at Palermo. Marble, ca. 1471.

となっていました。  ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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