リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

229. ベルリンの新たな魅力 『鴎外の恋』のご紹介

2020年08月28日 | 日記

▶次回ベルリンに行ったら是非歩いてみたい…

 


六草いちかさんのご著書2冊

 

▶ひょんな出会いから「舞姫」へ

 何とか16回目のドイツへの旅をブログで書き終えようとしていた頃、わが家では鴎外の恋人とベルリンに関わる会話が頻繁に交わされました。それは、連れ合いの三津夫が「舞姫」フィーバーで大盛り上がりだったからです。彼のブログにも2回にわたって関係記事が書かれているほどです。
(三津夫のブログ 293, 295  https://blog.goo.ne.jp/engekikyoikuron


 私の方は旅のブログと併行して写真集Ⅳ『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと中世ドイツの作家たち』(10月末に丸善プラネットから刊行予定)の再校校正紙を確認するという大事な仕事があったため、三津夫より一足遅れてやっと『鴎外の恋』を読むことができたのでした。読み始めたら止まらないというのはこういう本のことを言うのですね。なぜこの本を手に取ることになったのかと言いますと、それはひょんな出会いからなのです。

 昨年11月に開催した「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」写真展でのことでした(ブログ194~200参照)。第22回日本自費出版文化賞の特別賞受賞のおかげで、12月になって日経新聞に私の記事が掲載され、写真展についても紹介されました。このあと日に日に訪ねてきてくださる方が増え、次第に何枚かパネルを買いたいという方も出てきました。その中のお一人がUさんでした。彼女はピアノの上に置いたアムステルダムの「受胎告知」を求められたのでした。これはリーメンシュナイダーが25歳頃の作品で、恐らく一番初期の作品といっていいでしょう。とても清楚なマリアと少年のような天使の表情には多くの方が目を留めてくださいました。このパネルをUさんにお送りしてからメールでのやりとりが始まり、彼女が支援している若いチェンバロ奏者、中川岳さんのコンサートをご紹介いただいてまたお目にかかるようになりました。私も中世の音楽の響きには憧れがあり、チェンバロの演奏を生で聴いてみたいと思って1月にコンサートに行ってみたのです。それは想像以上に素晴らしい音色で、このような音楽を写真展のバックミュージックに使いたいものだと感動しました。そして、東大在学中にヴュルツブルク大学にチェンバロを学ぶために留学したという中川さんの経歴にも興味を持ちました。Uさんのご紹介でこの日、コンサートが終わってから中川さんともお話を交わし、私の写真展動画にも中川さんが音楽を提供してくださるという幸運に恵まれました。ただ、残念なことに私のパソコンではボリュームを相当大きくしないとよく聞こえません。入れ方が悪かったのでしょうか。中川さん、ごめんなさい。

福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」日本語版

リーメンシュナイダーの追いかけ人(びと)福田 緑です。 2019年11月23日から12月7日まで、おそらく日本で初めての“リーメンシュナイダ...

youtube#video

 


 そのUさんは私の写真展をお住まいの国分寺でも開きたいとあれこれ調べてくださって、3月には国分寺駅ビル内にある便利な会場で10月末~11月には開催する予定まで立てたのでした。ところが皆さまご存じのように日ごとにコロナの感染者が増えてきて、とうとうそうした催し物をすること自体が難しくなってしまいました。そのため、今は延期という状態です。Uさんと会う機会が増えて一緒にあれこれお話しするうちにお
友だちの六草いちかさんのことも折に触れて出てきていたのでした。そんな経過で、この『鴎外の恋』はいつか読んでみようと思っていた本だったわけです。Uさんとの出会いも、中川さんとの出会いも、また六草いちかさんとの出会い(まだ本の上でだけですが)も、リーメンシュナイダーが紡いでくれたご縁ですね。

 

 トップに載せた写真は、ベルリン在住の六草いちかさんが鴎外の恋人を追って2011年と2013年に書かれたご著書です。右の文庫本『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』は今年文庫本になったそうで、こちらをまず購入しました。でも、あまりにも感動してその続きがどうしても読みたくなって、左側の単行本『それからのエリス』を図書館から借りたのです。近々返さなければなりませんので記念撮影をしました。

 

▶ベルリンの新たな魅力が見えてきました。

 ベルリンは私と三津夫にとってはまず「ボーデ博物館」なのです。
 ヴュルツブルクのフランケン ヴュルツブルク美術・文化史州立博物館(旧マインフランケン博物館)は世界一のリーメンシュナイダー所蔵館です。ヴュルツブルクはリーメンシュナイダーの工房があった町で、博物館には常時80体ほどのよりすぐりの彫刻が展示されていますが、恐らく世界で2番目(あるいは3番目? 収納庫にあと何体あるのかまではわからないので)の所蔵を誇るのがここボーデ博物館なのです。そのため10回近く訪れている博物館で、館長のジュリアン・シャプイさんには写真集第Ⅲ巻のご挨拶を書いていただきました。また、博物館島には超有名な博物館が目白押しで、毎回どこかに寄っています。同じベルリンにはケーテ・コルヴィッツの美術館もあり、ナチス時代のユダヤ人迫害に関する場所、例えばグリューネヴァルト駅のマーンマル17番線、ヴァンゼー会議記念館、プレッツェンゼー記念館、虐殺されたユダヤ人のための記念碑なども訪ねました。さらにナチスによるユダヤ人への差別プレートがあるBayerischer Platzにも行ってみました。80枚全部は見ることができませんでしたが、こうした加害の歴史をきちんと残すドイツの姿勢に敬服しています。

 でも、なぜか今までは森鴎外の記念館があることは知っていても行ってみようという気持ちにならなかったのです。興味の対象外だったということですね。それがUさんの引き合わせのおかげで、六草いちかさんのご本を読み、森鴎外も恋人エリーゼも私たちにとって一気に身近な人物となりました。六草さんがこのベルリンの町を駆け回って様々な資料を調査したエネルギーと時間は膨大なものだったはず。私などには想像できないほど偉大なお仕事です。ご自身のお仕事もありながら、そしてご家族もいながらのこのご研究はただただ「すごい!!」と言うしかありません。

 さらに驚いたのは、窮地に立たされたときに不思議と出会うという「墓地の彼女」の存在、またどん詰まりになったときの自分に問うことばの鋭さ、その結果得られたインスピレーションのすごさ、インスピレーションに突き動かされての行動力…。もう、ため息をつきながら頁をめくる手が止められませんでした。これはまさに映画になっても良い探求の記録だと思います。

 私も「リーメンシュナイダーの追いかけ人」は天から与えられた仕事という感じがしたことが何度かありますが、六草さんの偉業はまさにそれです。ここで詳細は述べません。関心を持たれた方は是非この本を実際に手に取ってみてください。ベルリンの地理にも詳しくなり、明治の時代の一端がわかり、それでも純愛を保ち続けた鴎外とエリーゼに拍手を送りたくなるのではないでしょうか。私たちも次の17回目ドイツの旅では必ずや二人の面影を追いかけながらベルリンの町歩きをしてみたいと思ってわくわくしています。

 そのためにも今のコロナ感染が落ちつき、遠距離への移動も許されるようになり、安心して旅に出掛けられる世界を一日も早く取り戻したいものですね。



友人宅の庭先の花 追記:名前を調べたところ、アストランチア「スノースター」とわかりました。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

 

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228. 16回目のドイツ旅行(31)帰国の日に「天使の谷」を訪れました。

2020年08月15日 | 旅行

▶ルースとトーマスが連れて行ってくれた天使の谷修道院

 



天使の谷修道院の入口に咲いていた薔薇

◆2019年8月13日(火)今日は帰国の日です。

 7月に旅立ってから今日で28日目。夜の便で帰国します。大体最終日には夕方までルース、トーマス夫妻と過ごし、空港まで送っていただくのが流れになっています。重たいトランクを持っての列車の移動がなく、大変ありがたいことです。

 朝食もいつもよりゆっくりと味わうことができました。Roggenというライ麦パンにカボチャの種がついていてとても美味しく、これからはカボチャの種をとっておいて乾燥させたらこうやってパンに載せて食べられるのではないかしらと思ったことでした。今朝もゆで卵と美味しいハムをいただきました。彼らはベジタリアンなので私や三津夫のためにこうしたものを用意してくれているのです。できるだけ残さず、美味しくいただくよう努めました。今朝はアプリコットジャムもいただきました。いつもいつも本当にありがとう。

 朝食後にトーマスが1998年8月3日(初めて会った日)に写した写真を見せてくれたのでびっくりしました。私が送った手紙も一緒に。この手紙で私たちの交流は始まったのです。当時は元気だった犬のミリーと若かりし奈々子と私も写っています。懐かしい…。おつきあいは22年目にはいったところなのですね。2009年にはトーマスが右膝の手術をし、松葉杖で空港まで迎えに来てくれていたこと、2010年の夏にはやはりトーマスが多発神経障害を患い、痛みで辛い日々を送ったことも思いだしました。

 食後、二人が「近くの修道院に連れて行くよ」と言い、荷物を大体トランクに納めてから10:45に出発しました。こうした最終日の予定は大体お二人にお任せなのです。



◆天使が一杯の「天使の谷」へ

 今日はルースも一緒に行くと言って、4人で車に乗りました。ルースが一緒の時はなぜかルースが運転し、トーマスは助手席でゆっくり新聞を読んだり手紙を見たり、秘書付きの社長さんのようにくつろいでいます。
 最初に連れて行ってくれたのは、ボニファティウスのルートにある天使の谷修道院でした。昨日訪ねた聖ボニファティウス教会も同じボニファティウスの名前がついています。今まで多くの教会を訪ねてきましたが、こうした名前は見たことがありませんでした。それで、ボニファティウスという聖人はどんな人だったのかと興味を持ち、ウェブで検索してみました。するとウィキペディアにも日本語でも詳しく彼の経歴が載っていました。簡単に紹介された部分だけコピーしてみます。

聖ボニファティウスドイツ語: Bonifatius672年ウェセックス王国クレディントン英語版 - 754年6月5日フリースラント)は、8世紀フランク王国キリスト教を伝えた宣教師殉教者である。カトリック教会正教会ルーテル教会聖公会で崇敬される聖人であり、「ドイツ人の使徒」 (ドイツ語: Apostel der Deutschen) とも呼ばれるドイツ守護聖人である。マインツ大司教(在位:745年 - 754年)。ラテン語ではボニファチウスまたはボニファキウス (Bonifacius) 、フランス語英語ではボニファス (Boniface、英語ではボニフェイスとも発音) と呼ばれる。

 このシトー派修道院「天使の谷」は1268年に設立されたと書かれています。その名のとおり、たくさんの天使が彫刻されていて、躍動的な彫刻も多くみられましたが、三脚を持っていかなかったのでしっかり写せていませんでした。庭には大きな木があり、草花も静かに咲いていました。雰囲気を感じていただくために、その一部をここに載せておきます。

 






「天使の谷」修道院内の彫刻 最後の1枚は三津夫撮影 
 一体ここだけで何人の天使がいるのでしょう?



「天使の谷」の庭にて ルースとトーマス

 

◆いつものお買い物

 天使の谷修道院からもう一つ近くの修道院を回ったのですが、名前をメモし忘れました。

 その後BIO農場のレストランへ。結構混んでいたのですが、この日は日本食のメニューがあるというのでルースが予約をしてくれたのです。行ってみると、メニューは「日本風パンケーキ」(写真・下)となっていたのですが、言わばお好み焼きでしょうか。トーマスはちょっと難しい顔で食べていました。私たちから見るとまぁまぁの感じでしたけれど。大盛りのサラダとビートと林檎の混じった真っ赤なジュースもいただき、お腹いっぱいになりました。ここだけはと粘って支払をさせてもらい、ようやく少し気持ちがおさまりました。彼らが日本に来ることがあれば喜んであちこち案内してご馳走するのですけれど、なかなかそういった機会もなく、いつも泊まらせていただいて、ご馳走になってばかりでしたから。

 このあとはお決まりのREWEでのショッピング。日本の友だちや家族にお土産を買い、びっちりトランクに詰め込んで機上の人となりました。

 ルースとトーマス、元気でね! またコロナ感染が鎮まって日本からの旅行ができるようになったら会いに行きます。
 次回はドイツ17回目の旅となる予定ですが、いつ行けるのでしょうか…。

 

 ここまで根気よくお読みいただいた方に感謝申しあげます。
    ちょうど旅から戻ってきて1年と1日。何とか去年の旅の記録を綴り終えてホッとしています。この間、4冊目の写真集『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』に取り組んできて、現在は再校校正ゲラのチェックをしているところです。何とか10月には出版できる予定ですので、落ち着いたらまた日記として出版までの様子をブログで書いていきたいと思います。

 なお、残念ながら、今年の開催を考えていた「第二回 祈りの彫刻 リーメンシュナイダー写真展」は、現在の状況では無理だと考え、来年以降に延期いたします。次回、またお目にかかれる日を楽しみにしています。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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227. 16回目のドイツ旅行(30)ペーター・デル(父)探索の旅、最終日

2020年08月11日 | 旅行

▶ペーター・デル(父)を訪ねてグロースヴェルツハイムとラートハイムへ

 


ゼーリゲンシュタットのバジリカ


◆2019年8月12日(月)この日はペーター・デルの探索の旅、最終日。まずはグロースヴェルツハイムへ。

 私はよくこむら返りを起こします。この日の朝は6時半頃に3回目のこむら返りで仕方なく起床。三津夫も同じ頃に目が覚めて起き出しました。私たちは起床時間がほぼ同じ頃だということ、同じ時代の作家作品に興味があること、グルメを追いかけることは必要なく、質素な食事で満足できることが共通しています。だから旅を共にできるのでしょう。ただ、今回の旅での歩きが足の負担になっているようで、こむら返りはしつこくなってきました。これは三津夫にはないことです。普段バドミントンで鍛えている彼の方が基礎体力があるということですね。私は目を覚ましてゆとりがあると日記をつけます。そうでないと日々の記憶はぐんぐん薄れていき、いつどこに行ったのかがわからなくなってくるからです。写真を見ただけでは教会名もなかなか思い出せないので、極力書き込むようにしています。

 この日はトーマスが乗り換えの多い小さな町への案内を車でしてくれるということで大船に乗った気分でいました。1階に上がるといつものようにルースが生姜湯を飲ませてくれて、新聞を眺めながら声がかかるのを待ちます。トーマスの家では数社から新聞を取っています。でもなかなか読める記事は少なく、写真を眺めるのみです。今日は10時半に出発と聞いていたのでゆっくりと食事を済ませました。

 トーマスの車にはナビももちろんついているのですが、タブレットとスマホも同時進行で駆使します。ただ、ちょっと怖いのは、彼が運転しながらナビを平気で入れていくこと。日本ではしてはいけないことなので、それを見るとどうしてもドキドキしてしまいます。もちろんアオトバーン(ドイツの高速道路)は平気で100キロ超えで走りますから。
 トーマスはまずグロースヴェルツハイムに向かいました。高速道路ですから途中アシャッフェンブルクとかハーナウとか、聞き慣れた地名が次から次へと出てきますが道路に関する土地勘がないので今どの辺まで来ているのかよくわかりません。グーグルアース・プロで測ってみると、トーマスの家から直線距離で24~25キロぐらいのようです。ようやくグロースヴェルツハイムに着きました。町に着いてから教会までが結構わからなくてぐるぐる回ることも多いのですが、今日は聖ボニファティウス教会に一発で到着。ありがたいことです。

 中に入るとペーター・デルの聖母子像(写真・下)がありました。この聖母はひょうたんのような頭の形をしていて、ヘルシュタインにある聖アンナ三体像(ゼルプドリット象)と趣が大分違います。こちらは初期の作品だったのかなと思っていたのですが、よく調べてみると同じ頃に彫られているのです。そしてマリアの服の裾から顔をのぞかせているような(はたまた遊んでいるような?)天使を彫っています。これはハンス・ラインベルガーの聖母子像にわりと多く見られるようです。ペーター・デルはリーメンシュナイダーの工房にいた記録がありますが、その後ハンス・ラインベルガーの工房にもいたと書かれています。そして私たちがこの旅の資料で持ち歩いたカタログに、バイエルン国立博物館のマティアス・ヴェニガーさんが、彼の作品にはハンス・ラインベルガーの影響が大きく、リーメンシュナイダーの影は薄いと書いています。ウィキペディアにもそう書かれていました。



聖母子像 ペーター・デル(父)
 1525頃 グロースヴェルツハイム 聖ボニファティウス教会

◆歴史ある町 ゼーリゲンシュタット

 第2の目的地ラートハイムに向かう前に、トーマスがこのすぐ近くに大きなバジリカ(古代ギリシャ・ローマの公会堂風の教会、ここでは修道院)があるから見ていこうと言ってマイン川の川縁に車を停めました。なるほど対岸にそびえ立つバジリカ(写真トップ)は堂々として素晴らしい景色です。しかし川向こうにどうやってわたるのかなと思っていると小規模なフェリー(いかだ?)が往復していました。渡る時間は正味5~6分でしょうか。着いたゼーリゲンシュタットはなかなか歴史ある町で、紀元100年頃にはローマ軍の歩兵大隊が駐屯する城塞が建てられたそうです。

 ゼーリゲンシュタットは、815年1月11日付けの贈与証明書に、オーバーミュールハイムとして初めて記録されている。この街は、カール大帝の伝記記者であったアインハルトによって創設された。彼は、815年にフランク人入植地 Obermulinheim をルートヴィヒ敬虔王から贈与されると、ここにベネディクト会修道院を創建した。」

と、ウィキペディアには出ています。詳細を知りたい方は「ゼーリゲンシュタット」で検索できますのでご覧ください。

 私たちはここで一休み。入口に向かう間にもニワトリが走り回り、羊まで歩いているというのどかな風景でした。ただ、修道院の中に入るときらびやかな彫刻ばかりで、せっかく連れてきてくれたトーマスに申し訳ないなと思いながら、せめて数枚記念に撮影しておこうとカメラを構えました。

 



バジリカのバルコニーでコーヒータイム

 

◆ちょっと苦労したラートハイム

 帰りのフェリーが昼休みというのはちょっと参りましたが、しばらく待って運航再開。車に戻り、最終目的地ラートハイムへ。ここは町には順調に着いたものの聖ラウレンティウス教会が見当たらず、トーマスがiPhoneでチェックしてもう一つ奥の村だと言ってさらに進みました。ここでようやく聖ラウレンティウス教会があってホッとしたのもつかの間、表示を見るとこの教会で間違いなさそうなのに中には鉄柵があり、それらしい彫刻が見当たりません。「おかしいね」と言っている間にもトーマスは外に出て探索、教会だと思っていた建物の一つ上にある建物が本当の教会だったことがわかりました。やっと拝観できた3体の彫刻を以下に載せておきます。これも同時代の作で、瓢箪型の頭の聖母マリアはグロースヴェルツハイムの聖母マリアとよく似ています。ただ、裾からのぞく天使は彫られていませんでした。なぜなのでしょうね。

 それにしてもトーマスがいなかったら私たちはあきらめていたかもしれません。おかげさまで今回の旅で見たかったペーター・デルの作品拝観率は100%となりました。トーマスに心から感謝! 





上から聖ラウレンティウス、聖母子像、洗礼者ヨハネ
 ペーター・デル(父)1525頃 聖ラウレンティウス教会 ラートハイム

 

◆午後はゆっくりルースと語り合いました。

 機嫌良く帰宅。ルースが野菜スープを出してくれました。今日の成果をルースに語りながらいただくと、トーマスは疲れて休みに行くと言い、2階へ。三津夫も眠いからちょっと下で休んでくると階下に下りていきました。その結果ルースと二人、タブレットで写真を見せながらゆっくりと子どもたち、孫たち、政治や戦争の話など交わし、心の交流を図ることができました。普段なかなかこうしてゆっくり会話するゆとりがないので貴重な時間となりました。知らない間にトーマスはどこかへ外出し、雷雨もあったりして6時頃。ルースが花の水やりをしなくてはと立ち上がって、雨だけでは枯れてしまう花があるとのこと。これだけ広い庭の維持も大変な仕事なのだろうなと思いました。

 夕食はチーズのキッシュにサラダ。三津夫はビールとワインを、私も少しワインを美味しくいただきました。食後はまだ雨が降っていましたが、それでも散歩には行くというのでカーディガンと合羽を羽織って一緒に行きました。これが今年最後の夜の散歩になります。ぐるっと一回りして戻ってくると万歩計は約5000歩となっていました。夜10時頃、お休みなさいと挨拶をして階下に下りました。明日はいよいよ帰国です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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226. 16回目のドイツ旅行(29)ようやく見られたカルメル会修道院の壁画

2020年08月05日 | 旅行

▶今日も暑いのにホームで無為の時間を過ごすことになりました…。

 

 


カルメル会修道院の中庭

 

◆2019年8月11日(日)フランクフルト市内へ行こうと思っていたのに…

 夜中のトイレも一度しか目覚めず、ゆっくりたっぷり寝た感じがして7時頃目が覚めました。やはり泊まり慣れている静かな部屋なので安心感があったのだと思います。ゆっくり支度をして8時過ぎに1階に上がると二人は朝食の準備をしてくれていました。トーマスはいつもルースを手伝っています。大体飲み物の担当がトーマスのようです。いつものようにたくさんの種類のジャムやチーズ、そしてドイツパンにコーヒー。三津夫は「あれを聞いて」「これを聞いて」と次から次に質問を繰り出すので私はいつもルースやトーマスに質問をして答えを聞いて日本語に訳してと、食事がちっとも進みません。もう少しゆっくり食べさせてもらいたいといつも思います。結局、私たちのためにわざわざ茹でてくれたゆで卵一つ、サラミ2枚、ジャムをつけながら黒パンを一切れいただいただけでした。もっといろいろなジャムも試してみたかったのですが。

 9時40分に車で出発してバート・ヴィルベルまで送っていただき、ここでお別れ。お二人は教会へ向かいました。私たちは日帰りのチケットを買いたいのに、以前は外の売店で買ったことがありますが、ここでは見当たりません。結局ホームで買えることがわかり、Altenstadt(旧市街と勘違い)という文字に惑わされて反対行きのホームに上がってしまったのが運の尽き…。乗った列車は Stockheim 行きだと乗ってからわかり、これだと昨日の続きの駅まで行くことになるとショックでした。次の駅ですぐに下車したのですが、ここは無人駅で近くに何もありません。少し散歩してみようかと歩いてみましたが、ただただ普通の住宅地なのでした。座って休める公園も見当たりません。私の勘違いで無為な時間をすごすことになってしまって三津夫にも申し訳ないことでした。結局もう一度切符を買い直して小一時間このホームで待つことにしました。日差しが強くてとてもベンチに座っていられず、ホームのかすかな日影を探して隅っこで座り込み、日記を書いて過ごしました。朝から大失敗の巻でした。

 今日の目的は一つだけ。市内中央部のレーマー広場にほど近いカルメル会修道院(写真トップ)に行くことです。この修道院は長いこと修復をしていたのでなかなか中に入れず、2018年にようやく修復が終わって内部を見ることができました。Jörg Ratgeb (イェルク・ラートゲープ)のフレスコ画も見たのですが、大きな広間(ウェブサイトを見ると、この広間は食堂だったと書いている人がいます)にあるフレスコ画だけは日曜日しか開いていないと聞いて、今年ようやくその広間にあるラートゲープの絵を見に来たのです。そこには大きな壁面にところどころ剥がれてしまっているフレスコ画がありました。あまり大きくてなかなか全体構成を理解することも難しく、取りあえず写してきた写真を以下に載せてみます。宗教改革での場面なのか、多くの修道僧が虐殺されている様子が描かれていました。回廊にあるフレスコ画は優しい表情のものが多くてホッとするのですが、こんな残虐な場面も本当に細かく描き込んでいます。特に修道僧たちをいたぶる人々の動きがしなやかで驚きます。ラートゲープはなかなか描写力のある画家なのだと痛感しました。下の2枚は回廊にあった、心がホッとするフレスコ画です(あまり詳しい資料が手許になく、それぞれのタイトルも制作年もわかりません)。

 ラートゲープは1480年頃 Gmünd で生まれ、シュトゥットガルト、フランクフルト、ハイルブロンやマインツなど、あちらこちらで仕事をしていたようですが、この修道院での壁画は1514~1518に描かれたとウィキペディアでは書かれていました。ラートゲープ自身が農民戦争ではリーメンシュナイダー同様に農民の側についたため、最後は捉えられて1525または26年に Pforzheim で4頭の馬に手足を縛られて四つ割き(裂き?)にされたとのこと。でもその前に、ラートゲープはきっとこうした残虐な場面を見聞きしていたのでしょうね。


 


 

 

 

 

◆帰り道は順調でした。

 帰りはつい2週間前に乗ったばかりのトラムで順調にフランクフルト中央駅に戻りました。そこで地下に潜り、Sバーンでトーマスに電話するも繋がらず、ルースにメールを入れてみましたが以前にも繋がらなかったことがあったので念のためトーマスにもメールを入れました。バート・ヴィルベルでトーマスを待ち、車に乗ってから今朝の失敗談を語り(語らないわけにはいかず)、同情され、笑われ、なんで電話をしなかったんだといさめられ、いやはや…。

 午後は居心地の良い居間でシルヴィアとクラウスの結婚式の写真を見せながら解説。このとき、なぜかSDカードから読み取るということをせずに何とか大きなテレビに映せる方法があるはずだとあれこれ試していたのですが、結局わからず、次回はカメラ附属の(ついていたかしら?)USBケーブルで繋いでみようということになりました。探して見ようと思います。大きなテレビでみんなが一緒に見られたらその方が迫力もあり、旅路を共に楽しめるのは確かですから。 

 夕食はレストランを予約してくれているとかで6時頃車で出発。以前Eバイク(電動機付きの自転車)できて見付け、入って食べたら美味しかったのだと言います。その写真がこちら。帰りがけに町を散歩しようと歩き始めたら雨がザーッと降ってきました。散歩をあきらめて車に乗り、帰宅。でも着いた頃には雨も止んでいたのでやはり散歩に出掛けました。夜の散歩では他の人にあまり出会わないので、あまり多くの人はしていないようですが、私たちはトーマスの家にいるときはいつも喜んで一緒に歩いています。

 明日の予定を確認して地下に戻り、ゆっくりシャワーを浴びて床に就きました。旅の失敗や大変だったことの大半は後で楽しい笑い話になるものだと思いながら。



夕食のご馳走。奥は牛肉のソーセージ(三津夫)、手前はポテトとゆで卵の香草ソース和え。
 よく考えてみれば私は
朝もゆで卵を食べたのでしたが。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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225. 16回目のドイツ旅行(28)ダルムシュタット経由でフランクフルトへ。

2020年08月04日 | 旅行

▶今日も忙しくダルムシュタットからフランクフルトへ

 


ダルムシュタットにあるヘッセン州立博物館

 

◆2019年8月10日(土)

 前の晩はしょっちゅうトイレに起きました。それというのも前の通りが土曜日ともなると夜中ずっと電気もついてお店も開いているようで、人の話し声が上ってくるのです。かといって窓を閉め切れば静かにはなるのですけれど、ドイツにしては暑い夏で、窓を閉めていると寝苦しく、結局窓を開けたままで寝ていました。そのせいか、何だか落ち着かない夜でした。6時少し前から目が覚めて起き出し、朝食をとりました。冷蔵庫の中がちょうどからっぽになり、万事OK。3日間のゴミをまとめて1階の物置まで運び、紙ゴミ、プラゴミ、その他のゴミと分けて大きなゴミ箱に入れます。その後、2階からゆっくりと静かに(何と言っても週末の朝、まだ7時過ぎですからね)トランクを下ろしました。最後に大家さんのポストに鍵を入れて全て終了です。

 道路は人通りも少なく、歩きやすくて助かりました。涼しいのでコートを羽織っていましたが、駅に着く頃にはうっすらと汗をかいていました。7時45分頃、ヴュルツブルク中央駅に到着。電子掲示板では Kiel 行きのはずの ICE2226 は Dortmund Hbf 行きに変わり、「5号車には乗車できません」と書かれていました。私たちの予約席は8号車なので胸をなで下ろしました。今回は列車構成図の通り、私たちの目の前に8号車が止まりました。幸先良し。というのも、車両構成の通りに待っていても位置が変わり、トランクを転がしながら予約車両まで走らなければならないことも結構あるのです。若い中国人のグループが出発するのを仲間が見送りに来ていましたが、私たちのトランクも持ち上げてくれました。ありがとう! 予約席には中国人らしき女性がいたので、ここは予約してありますと言って移ってもらいました。

 フランクフルト・アム・マイン中央駅(以下アム・マインは省略)に9時36分に着くと早速中央駅構内のコインロッカーにトランクを入れ、身軽になってダルムシュタット中央駅に向けて出発。列車で40分ほどのダルムシュタットにはヘッセン州立博物館があり、ペーター・デル(父)の作品を見るのが今日の第一目的ですが、以前一度だけ三津夫と娘の奈々子とここを一緒に訪れたのが2007年。そのときに博物館の写真を撮り忘れたのがずっと心に引っかかっていて、機会があればもう一度撮影に行こうと思っていた場所です。これが今日の第二の目的。13年ぶりにやっと来ることができました。
 中央駅から博物館まで距離は少々あるのですが、以前来たときにバスに乗ったら反対方向に乗っていってしまったことがあり、今日は歩いていこうと話しあっていました。中央駅からヴィスマルクシュトラーセを真っ直ぐ歩き、まだかなぁと思う頃、ようやく公園が見えてきました。公園の先にあるはずですがよくわからず、地元の方に聞いてワンブロック歩き、やっと博物館にたどり着きました。かれこれ40分近く歩いたことになります。ここの入口前で忘れないうちにと撮影したのがトップの写真です。

 中に入ると、目的のペーター・デル「マリアとヨハネと十字架のキリスト」はなかなか見つかりません。中世作家の作品コーナーではグレゴール・エーアハルト周辺作家の「キリストの埋葬」や、ミヒェル・エーアハルト周辺作家の「幼きキリスト」、そしてティルマン・リーメンシュナイダーの「磔刑群像」もあるのです。何枚も写真を写すことができてリーメンシュナイダー以外は今まで情報も知らず、ここでの発見だったので嬉しかったのですが、館員に聞き回ってもペーター・デルの作品は見付けることができませんでした。ただ、ベンチのカタログにはこの写真が掲載されていたので、あるはずだとしつこく食い下がったのですが、ダメでした。少なくとも2周はしましたが目で見る限り展示されていなかったのは確かです。
 でも、家に帰ってきてから写真に写したカタログの作品の解説を読んでみたところ、どこにも「ペーター・デル」とは書いていなかったのです。もしかしたら、ここに書かれている「モースバッハの磔刑群像のマイスター」という名前で聞いてみたら「今修復中ですよ」とか「〇〇に貸し出し中ですよ」と言う返事が戻ってきたかもしれません。あせらずにあの場できちんと確認するべきでした。反省!

 歩き疲れたのでバスで駅まで戻ることにして、二人で4.4ユーロのチケットを買い、バスに乗りました。駅の中で連日となる焼きそばを食べ、コーヒーで列車の待ち時間を過ごし、フランクフルトに戻りました。朝、ここに着いたときには、ホームの端に花や蝋燭が捧げられていたのでしたが、戻ってきたとき(午後3時近く)には追悼の品々はすっかり片づけられていました。恐らくテロか事故で亡くなった方がいたようです。 

 トーマスの家には今日から3泊させてもらいます。そのため、フランクフルト市内の教会や美術館へは後日ゆっくり回ることにして、今日はこのままトーマスの家へと向かいました。彼には電話で予定通りバート・ヴィルベル・グローナウに16:07着の列車で行くと伝えました。到着まで2分ぐらい遅れましたが、無事に駅で再会。元気そうでホッとしました。家に着くと、大きなトランクをあげたり下ろしたりは大変だからと地下室経由で地下の部屋に案内してくれました。ここ2~3回は同じように通らせてくれますが、以前は大変でも1階まで上がり、地下まで下ろしていたのです。お互いに年と共に合理的になってきたことの表れかもしれません。
 いつもの部屋に着いて懐かしい気分。「ここに私は何回泊まらせてもらっているのだろう?」と思います。でも床の白い絨毯は取り払われ、ベッドの寝具は新しいものに入れ替えてくれていました。ちょっとだけよそ行きの顔をしています。お土産を取り出して1階へ。あぁ、ルースが飾った花の美しいこと! この部屋に来るといつも何かしら撮影したくなる雰囲気があります。三津夫も私も宿泊中には必ず写真に撮らせてもらっています。そのうちの何枚かを下に載せておきます。下の3枚は三津夫撮影、一番上の写真展ビラと一緒に写したものだけ私の写真です。


 

 

 


夕食はズッキーニとネギのトルテ。ゴマがたっぷりかかっていてルースの愛情たっぷり、手の込んだお料理です。

 

◆明日からの予定について相談

 私が明日からの予定を確認したいと話したときに、トーマスはちゃんと私が送っておいた日程表をプリントアウトして、準備万端整っているとウィンクしてくれました。明日は日曜日。お二人は敬虔なクリスチャンですから、普段は教会のミサに行きます。ですから、私たちはフランクフルトの市内巡りをしたいと思っていたのです。朝、教会に行く前にバート・ヴィルベル駅まで車で送ってくれるとのこと。そして月曜日には車で2カ所の教会を回ってくれる予定だとわかりました。お二人にご用があるようだったら私たちは月曜日にバスと電車を乗り継いで回るつもりだったのです。でも正直、バスの乗り継ぎ、列車の乗り換えが大変多くて一つ何かうまく乗り換えができなかったら夕方までに帰ってこられるかどうかわからないという心配がありました。でも、これで明日からの心配はなくなりました。ルースの手の込んだお料理(写真・上)をゆっくりいただき、いつもの夜の散歩に出掛けました。ここは本当に大都市に近いのに自然がたっぷりあって良いところです。お二人はこの家を売って娘さんのナディーンが住んでいるバート・ヴィルベルの町の近くにマンションを探したいと言っていたのですが、なかなか良い物件は見つからないままです。でもこの自然がトーマスの体にも良いのだろうと私は感じています。夜は私たちもぐっすりと寝ることができました。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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224. 16回目のドイツ旅行(27)グリュンスフェルトを9年ぶりに訪ねました。

2020年08月03日 | 旅行

▶9年ぶりのグリュンスフェルト

 


グリュンスフェルトの町 奥に見えるのが聖ペテロ聖パウロ教会

 

◆2019年8月9日(金)

 この日はグリュンスフェルトまで往復する予定です。グリュンスフェルトはバイエルン州とバーデン・ヴュルッテンベルクの州境を越えていかねばならず、バイエルンチケットは使えません。私は2010年に一度行ったきりで、今回は2度目の訪問ですが、三津夫は初めてでした。9年前には列車で行った記憶があるのですが、列車を検索してみると途中からバスに乗りかえることになっています。念のためヴュルツブルク中央駅の窓口でも確かめてみましたが、やはりキルヒハイム行きの列車に乗って終点でバスに乗り換えるように言われました。切符は2人分の往復で16.20ユーロでした。それほど高くなくてホッとしました。
 朝9:06の列車に乗り、20分でキルヒハイム。乗り換え時間が5分間しかなかったので心配でしたが、反対行きのバスの運転手さんが「あっちですよ」と指さして教えてくれたので、9:31発のバスに無事乗ることができました。グリュンスフェルト駅には9:53に到着。駅から少し歩いて戻ると聖ペテロ聖パウロ教会です。

 教会に入ると、三津夫はリーメンシュナイダーのドロテアの墓碑(写真・3枚の内の一番上)に注目。これはリーメンシュナイダーの比較的初期の作品ですが、品格のある美しい女性像で、私でも惚れ惚れします。そして今日のもう一つの目的、ペーター・デル(父)の「ヨハン4世フォン・ロイヒテンベ ルク方伯(1531年没 註)と妻マルガレータ・フォン・シュヴァルツブルクの墓碑」(写真・中)もすぐに見つかりました。こちらはドロテアさんと同じロイヒテンベルク姓の夫妻の墓碑ですから、もしかすると両者には何らかの親戚関係があるのかもしれません。
*註:方伯は、公爵と伯爵の間に位置する地位と辞書に出ています。

 さらに、教会の入口とパンフレットに書かれているのですが、ここの磔刑像(写真・下)もリーメンシュナイダーの弟子か、リーメンシュナイダー派の作家、またはリーメンシュナイダー自身の手によるものだそうです。ただ、何回か塗り重ねられたと思われるキリスト像は目の隈が太く塗られていて、残念でした。恐らくお金があって修復工房に依頼できたら気品のある彫刻になって戻ってくるのではないかと思われます。



ドロテア・フォン・ヴェルトハイム墓碑  (旧姓ロイヒテンベ ルク・リーネック)
 リーメンシュナイダーとその工房 1503年頃
 グリュンスフェルト 聖ペテロ聖パウロ教会

 


ヨハン4世フォン・ロイヒテンベ ルク方伯(1531年没)と
 妻マルガレータ・フォン・シュヴァルツブルクの墓碑
 ペーター・デル 1534~1536年


磔刑像 リーメンシュナイダーの弟子作、または本人作か? 中世後期


◆ヴュルツブルクのドーム博物館

 グリュンスフェルト駅まで歩いて戻り、しばらく待つと11:07のバスが来ました。朝の運転手さんでしたので、ホッとして乗り込みました。ラウダから戻ってきたこのバスには朝より多くの乗客が乗っていました。キルヒハイムに着くと、表示にヴュルツブルク中央駅行きは2番線と出ていたので2番線に回りました。多くの人が1番線に向かったのですが、行って見てその理由がわかりました。2番線は柵がしてあってホームには入れないのです。キルヒハイム行きの列車がそのまま折り返すので1番線のままで良かったのですね。あとから自分の検索した予定表を見たら、ちゃんと1番線と書いてありました。
 午後1時頃ヴュルツブルク中央駅まで戻ってきました。駅のアジア食堂で焼きそばを食べ(ここの味はまぁまぁですよ)、ドーム博物館に久しぶりで入ってみることにしました。展示内容はあまり変わりばえしていませんでしたが、「キリストの埋葬」というリーメンシュナイダー工房の作品が1点増えていました。これで、取りあえず見たいところは見て回ったので、最後にペーターの病院にお見舞いに行きました。

 ペーターはびっくりして喜んでくれましたが、明日私たちは旅の最終地点、フランクフルトに向かうので、またしばらく会えなくなります。ペーターは11日の月曜日からリハビリに行く予定です。手術のおかげで痛みがなくなったので、リハビリで楽に歩けるようになりますようにと祈りつつ。京子さんと7月に来たときには少し歩くにも相当痛そうにしていましたから、今の笑顔がことのほか嬉しく思えます。


 宿に戻って、三津夫が高温にならないコンロにイライラしながらうどんを作ってくれている間に日記をつけました。それにしてもこの宿はキッチンの使い方がわかれば別ですが、結構高価なので、次回は普通のホテルに泊まった方が良いかもしれません。あるいは、シェドラーさんのもう一つのアパートを検討してみようかと思います。そちらもバスで駅まで出なければならないそうなのですが、このアパートはバスに乗らなくても駅まで出られるのが便利でした。ヴュルツブルクは大好きな町で、ドイツに来たら必ず行くのですが、料金、駅からの近さ、快適さの全部が揃う宿というのは難しく、どこに泊まるのか悩ましいところです。

 ようやくできたうどんは美味しく食べられました。先日買ってきた食品も明日の朝でピッタリ終了の予定です。明日泊まるフランクフルトのトーマスにメールを書いて床に就きました。いよいよ旅も終盤です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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