リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

13. 聖血の祭壇

2015年06月07日 | 旅行

旅日記 No.11

 アマチュアカメラマンのヨハネス

 2006年の留学中に、この教会の近くに住むヨハネス・ペッチュ(Johannes Pötzsch)さんというアマチュアカメラマンと知り合いになりました。ヨハネスは残念ながら今年2015年1月に88歳で亡くなられましたが、彼は、エネルギッシュで大変な情熱家でした。

 ヨハネスとのつながりを説明するのは大変ややこしいのですが、以下のようになります。

  ①2006年の1月にエジプト旅行でヨーラ(ポーランド人で、ドイツ人と結婚してロストックに住んでいる女性)と知り合いになる。

  ②2006年の4月末にドイツ留学に行くことに決まっていた私はヨーラの家に招待され、5月にロストックを訪ねた。

  ③ヨーラの友だちがたまたまヨハネスのお連れ合い、フリーデルの友だちだった。

  ④その人が、ヨハネスが撮影したリーメンシュナイダー作品の載っている本 „Im Dunkel ist Licht (闇の中に光あり)“ をヨーラに見せた。

  ④ヨーラとヨハネスが連絡を取り合い、私に留学中に一度泊まりに来るようにと招待してくれた。

  ⑤2006年の5月27日に初めてヨハネスを訪ねて出会った。


            <ヨハネスを紹介してくれたヨーラ 2009年に来日してお寿司屋さんで>               <アマチュア写真家のヨハネスとフリーデル>

                   


 ヨハネスの主張は「自然の光で写す」写真。500年ほど昔の電気もフラッシュもなかった時代、リーメンシュナイダーが自分の目で見た、そのままの光で彼の作品を写したいという考えです。そのヨハネスは、太陽光が充つのを待って写した素晴らしい写真を私にコピーさせてくださいました。そして、「この写真をMidoriのホームページに使いなさい」と許可をくださったのです。これもまた、リーメンシュナイダーの導きではないかと感無量でした。
 しかし、私が滞在したシュベービッシュ・ハルの写真屋さんは、思ったような美しいコピーを作ってくれませんでした。ヨハネスさんがご自分の手で焼き付けられた写真のシャープで透明な美しさにはとても及ばないコピーだったのです。一度苦情を言って焼き直してもらったにも拘わらずです。

 2007年の夏、私は夫と娘と再びドイツを訪れました。ヨハネスとフリーデルとも再会し、ヨハネス自身が納得できるコピーをシュトゥットガルトの写真屋さんで作っておいてくださったのです。以下、彼の写真の説明とともにローテンブルクの「聖血の祭壇」をご覧に入れます。


♠ 写真の説明 ヨハネス・ペッチュ (訳:平野 泉)

 ローテンブルクのリーメンシュナイダー祭壇の写真は、私(1926年生まれ)がこの20年間、繰り返し撮影してきたものである。私はもともと、シュトゥットガルトのバーデン・ヴュルテンブルク州不動産・建築物管理部門の官吏であったが(シュトゥットガルト写真クラブの名誉会員でもある)、退職後1983年からローテンブルクに住んでいる。

 私が以下の4つの祭壇を撮影した写真は、『闇の中に光あり-ティルマン・リーメンシュナイダーのメッセージ』(初版1995年、ISBN3-87625-047-1)でもご覧いただくことができる。同書はこの間に売り切れとなったが、現在再版が予定されている。また聖血祭壇の写真については(大部分が前掲書と同じもの)ブックレット『ティルマン・リーメンシュナイダーの聖血祭壇-ローテンブルクの宗教芸術 No.5』(ISBN3-927374-27-X)にも使用されている。

1. 聖ヤコブ教会の聖血祭壇
2. 聖ヤコブ教会のルードヴィヒ・フォン・トゥールーズ祭壇
3. フランシスコ会教会の聖フランシスコ祭壇
4. 聖ペテロ・パウル教会(デトヴァング) の十字架祭壇

 ローテンブルクの聖ヤコブ教会は私が結婚式を挙げた教会だ。そしてその聖ヤコブ教会にある「聖血祭壇」は、私がアマチュア写真家として何十年もの間繰り返し撮影してきた芸術作品である。そしてこうした撮影の試みから次第に私なりの、人とは違う見方が生まれてきた。それは木彫りの宗教彫刻を見るときの見方なのだが、もちろん石像にも相通ずるものである。私の写真は、次のような考えに基づいている。

a) 何のための写真か
 これらの私の写真は、記録・保存目的ではなく、ティルマン・リーメンシュナイダーのメッセージとの出会いを可能とするために撮影されたものである。ティルマン・リーメンシュナイダーは「世界の暗黒の中にある、永遠の中心点のメッセージを伝える者であり、その世界では神の未来がすでに始まっていた」(ヨハネス・ラウ教区監督)。だからこそ、こうした写真は信者の要求のみならず芸術を愛する人びと、つまりオリジナルを見ることで受けた印象を、ティルマン・リーメンシュナイダーの偉大な彫刻芸術を、その置かれた場所で見たその経験そのままに、絵はがきやパンフレットや本の形で持ち帰りたいと願う、そんな人びとの要求にも応えるものでなければならないだろう。

b) フラッシュやライトは使わない
 そのため私は、a)で述べたような撮影に際しては、ライトやフラッシュは使わないことにしている。これらを使うと、写真は画一的な光と色の再現にとどまってしまうからである。それでは、ある祭壇のもつ雰囲気や個々の像の性格は再現できなくなってしまう。聖歌隊席の窓から、あるいはランセット窓(註2)から教会の中に差し込む太陽の光、つまり本来的に多様な光が混じり合い、時間の経過とともに色彩もうつろう自然の光を使った撮影のみが、印刷媒体を通して芸術作品に触れる人にふさわしいものになるだろう。しかも信者にとって、あるいは芸術愛好家にとっても、実際の印象と写真を見たときの印象とが一致するものとなるだろう。さらにリーメンシュナイダーその人も、こうしたことを念頭に置いていたと思われる節がある。というのも彼は祭壇の完成後、ローテンブルク市に対して彼自身がつねづね要求していたことをきちんと実現させているからである。祭壇の後ろの壁に、望んだとおりのランセット窓を作らせたのだ。この聖血祭壇における光の状態について、私は80年代から繰り返し考え、その考えに基づいて写真に撮ってきたのだが、同じことをクリストフ・トレペッチュ氏も地方紙『フレンキッシェン・アンツァイガー(Fränkischen Anzeiger)』の月刊付録『リンデ(Linde)』(No.3, 1994年)に書いていたことは記しておきたい。祭壇の光の状態に注意しつつそれをそのまま写真にうつしかえること、そして写真芸術としての創造性を自らに禁ずることによって、私はティルマン・リーメンシュナイダーの偉大な芸術作品にふさわしい仕事をしたと思う。写真を見る人は、そこに芸術家の意図をくみとることができるだろう。
 註2:ゴシック建築によく見られる、細長 い槍型の窓。

c) どこから撮影するか
 祭壇は高い位置にあり、専用のカメラと広角レンズを必要とする。祭壇の前、彫刻に近い位置に専用カメラを設置すれば、高いところにある対象を下から見上げる形で撮影したときに対象が先細りに写ってしまう、いわゆるパースの問題は回避できる。しかし、多くの場合彫刻は非常に高い位置にあるわけで、「下からのカメラ・アングル」の問題は解決しないのである。この「下からのカメラ・アングル」から生じる「彫刻の顔を真下から見上げるような目線」は、芸術家が本来求めていたものではない。絵画の中の人物や彫像のまなざしや顔の向きは、ほとんど例外なく祭壇の立ち位置から下前方、つまり教会本陣、信者たちの座る本陣へ向かっている。なぜなら、当時の画家や彫刻家は、顔を「真正面向きに」描いたり、彫ったりはしなかったからだ。そんなことをすれば、作品のまなざしは本陣にすわる信者たちの上を通り過ぎてしまうからである。だから私は彫刻、つまり祭壇の正面に足場を組み、彫像のまなざしから本陣の中心へ落ちる想像上の線と足場とが交差する点にカメラを設置した。そうすることで、芸術家が望んだまなざし、顔の向きを写真上に再現しようと試みたのである。

 私の写真作品に対するある批評(以下に引用する文中の書籍に私の写真が掲載されたのだが、それについての批評である)で、ローテンブルクの書店主で作家でもあるエヴァ-マリア・アルテメラーはこう書いている。
「ぜいたくな装丁による、200ページを超える大著『永遠なるものを記念して‐ローテンブルク・フランシスコ会教会の700年-』(1993)の魅力は何より、ヨハネス・ペッチュの情感豊かで技術的にもすぐれた写真にある。「技術的にすぐれた」と書いたのは、ヨハネス・ペッチュが費用のかかる芸術的なライティングなどを用いずに、撮影対象を自然光の中で捉えているからこそである。彼の見方は、言葉の真の意味における客観的芸術解釈を基礎にしており、それは作品と作者の意図とを正確に描き出すことにおいて、今日の、撮影対象を容赦ない光にさらすような他の写真芸術とは全く異なるものである。ヨハネス・ペッチュが撮影したリーメンシュナイダー祭壇の写真を一度でも目にすれば、彼の見方と、今日私たちが「プロ」と呼びなれている人たちの見方との違いは明らかであろう。聖ヤコブ教会の西側2階に設けられた聖歌隊席のため、西から差し込む光に照らされ、光に満たされた「最後の晩餐」の祭壇をつくったとき、リーメンシュナイダーが「スポットライト」のことなど考えてもいなかったことは確かだ。ヨハネス・ペッチュは理解している。芸術作品は、それを見る人が実際に見るように、そしてその作品が置かれる場所・光・視点といった全ての要素を作品に織り込んだであろう作者の意図どおりに、写真上に再現すべきであるということを。そしてこれらのみごとな写真を撮った。それが可能だったのは、彼には他の写真家に全く欠けているか、あるいは他の写真家がそのためにお金をかけようとはしない2つの資質があるからだ。忍耐と、感性である。」

                              

聖血の祭壇と十字架祭壇
 さて、このあとに載せる3枚の写真は、彼の考えている写真への姿勢を表しています。ヨハネスの説明によれば、ヨハネス自身の写真の芸術性・創造性を捨て、リーメンシュナイダーの芸術性を写し取ることに徹したとのことです。
(この難しい文章の意味がくみ取れなくて、意訳しました。ここでも泉さんに助けていただきました。ありがとうございます。)
 

             

   Bild 24: Heiligblutaltar (1505) im Chor der Jakobs-Kirche       Bild 25: Heiligblutaltar (1505) -Christus (Mitte) mit Judas, dem Verräter (rechts)   Bild 26: Heiligblutaltar (1505)-Johannes, mit dem Kopf auf
                 Rothenburg o.d.T.                                                                       dem Schoß Christi liegend     

   
<作品
写真24> 聖血の祭壇(1505年作):聖ヤコブ教会、ローテンブルク   作品写真25> 聖血の祭壇(1505年作):キリスト(中央)と裏切り者のユダ(右)  <作品写真26> 聖血の祭壇(1505年作):キリストのひざに伏せるヨハネ
                                                             


 次回は、やはりヨハネスが譲ってくれたローテンブルクの旧フランシスコ会教会とデドヴァンクの写真を載せます。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA,  Johannes Pötzsch


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 12. マイトブロンの静かな教会 | トップ | 14. 三大傑作祭壇 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

旅行」カテゴリの最新記事