リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

18. 新たな旅へ

2015年06月22日 | 旅行

新・旅日記 No.1 2009年冬の旅

  2009年2月、私は出来上がった『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』をドイツの友に届けに行きました。でも、ただ届けるだけではありません。本の第Ⅱ部として載せたリーメンシュナイダー作品一覧を自分の足で確かめる旅の始まりでもあったのです。なぜなら、私はまだこれらの作品を全部自分の足で歩いていたわけではなかったからです。ドイツの主立った観光都市にある作品は留学時代も含めて相当歩き回って見てきましたが、ヴュルツブルク市1300周年記念の大展覧会で発行されたリーメンシュナイダー作品のカタログには、まだまだ見たことのない作品が目白押しでした。それまでの旅は、まだドイツ語力もあまり十分でなくてリーメンシュナイダーとお弟子さんたちとの関連性もよくわからなかったため、リーメンシュナイダー本人と工房の手になる作品を中心に追いかけていました。取りあえず数えてみた限りでは、ドイツ内に215点、ドイツ外に33点(うちアメリカに20点)、計248点あるようです。(断言できないのは、まだどうやって数えたらよいのか方針が固まらなかったためです。)そのうち既に見ているのは146点でした。そうなると本当にこの場所に行けばこの作品が見られるのかどうか、確信が持てない作品がまだ100点ぐらいはあるということなのです。一覧を掲載した以上はきちんと訪ねておかなければという責任をひしひしと感じるようになりました。

 この旅の目的をまとめると次の3つになります。

 (1)1月にできあがった本を、お世話になったドイツ、スイスの友人・知人に届ける。

 (2)まだ見ていない作品を少しでも多く訪ねる。

 (3)できる範囲で負の遺産を見学し、戦争について学ぶ。

 三津夫は大学の非常勤講師をしているため2月始めまで旅行には出られません。冬場のヨーロッパは大変寒いので、2月末までに帰国の飛行機に乗ると支払うマイレージは10000マイル分割引となります。けれども三津夫を待っていると結局正味3週間しかとれなくなるのでもったいなくて、私は2週間先行して旅立ちました。その間に一人で小さな教会や美術館にできるだけ行って作品を見ておきたかったのです。また、三津夫が既に訪ねたことのある友だちの家にもある程度先に回っておくことにしました。こうして回るルートをあれこれ考えた結果、旅の日程は以下のようになりました。

  フランクフルト(ルース・トーマス夫妻)→チューリッヒ(イルマ・ロルフ夫妻+作品1点)→シュヴェービッシュ・ハル(マリアンヌ・ホールスト夫妻+作品8点)→シュトゥットガルト(シルビアとヴィリー)→ニュルンベルク(作品7点)→バンベルク(近隣の町を含めて作品16点)→ヴュルツブルク(三津夫と合流、イングリッド・ペーター夫妻+作品6点)→ ローテンブルク(フリーデル・ヨハネス夫妻+作品3点)→ドレスデン→ライプツィヒ→ベルリン(作品15点)→ワルシャワ→クラクフ→ブラチスラヴァ→ウィーン→プラハ(留学時代の友人ラデック)→レーゲンスブルク→ヴュルツブルク(作品27点)→ハイデルベルク(作品1点)→フランクフルト(ルース・トーマス夫妻)

 「あれ? 最後のヴュルツブルクはどうしてまた?」と思われるでしょうね。最初はハイデルベルクで終わる予定だったのですが、三津夫があまりゆっくりヴュルツブルクを見ていないので、最後の予定を変更して行かないかと申し出たものです。急遽ヴュルツブルクのホテルを取り、ハイデルベルクの前半をキャンセルして向かったのでした。電話での宿の予約は滅多にしないのでハラハラしましたが、おかげでリーメンシュナイダーを追いかける旅としては大きな収穫がありました。今回の旅で拝観したリーメンシュナイダー作品数は合計すると84点となりますが、初めて見た作品はそのうちの49点でした。

 また、戦争の負の遺産として、ベルリンではあちらこちらの収容所に何月何日に何人を送り出したか記録されているマーンマル17番線<写真左下>に行き、ヴァンゼー会議記念館、プレッツェンゼー記念館、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑と見て回りました。旅の後半には初めてクラクフからアウシュヴィッツを訪れました。雪の降る寒い日でした。殺されたユダヤの人々の大量の髪の毛、サンダル、眼鏡、靴、鞄などが語りかけてくる重いことばを胸に辛い観光となりました。このビルケナウ(アウシュヴィッツから少し離れた場所にあります)のずらっと並んだトイレ<写真右下>を見て、どんなに厳しい日々だったかと胸が凍る思いがしました。 


             

       「1945年3月27日にベルリンからテレジエンシュタットまでユダヤ人を18人送った。」               ビルケナウの収容所内(トイレ)


 私はアウシュヴィッツで記念撮影をする気持ちにはなれませんでした。ポーランド人の若く、美しいガイドさんが、「想像してみてください」と何度も語りかけていた様子を心に焼き付けています。

 次回は(2)のこの旅で初めて見た作品についてご紹介しようと思います。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Mitsuo FUKUDA


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