雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時期     最終回

2019-11-01 05:04:45 | 自分史
★ 『人生で一番頑張った時期』について、
現役時代の仕事のことを書いてきたのだが、私自身37歳から42歳というこの時期は、私自身も、家族もそれぞれ頑張ってた時期だと思うので、
今回はちょっとそのあたりのことに触れて最終回としたい。

 
昭和45年(1970)は大阪万博があった年で、
私は37歳、結婚8年目、長男が小学校、娘はまだ幼稚園だった。
東北仙台にいたのだが、11月に異動で大阪となったので居を高槻に構えることになり、それまでは明石でひとりでいた母も一緒に暮らすことになったそんな生活環境にも変化があった年だった。


★この年の6月、まだ仙台時代に、出張で明石に行った時に、
たまたまダイワハウスのセールスが会社に土地の売り込みに来ていて、
廣野にいい土地を造成中だから買いませんか』というのである。
 
当時は土地を買い自分の家を建てるのがトレンドの時期で、総務部長に相談したら『会社でも資金を支援するから』というので、その気になって、まだ造成中で茶色の広大な造成地があるだけの状況だったのだが、『ホントか?』と思われるかも知れぬが、出張中に予約書にサインし買うことにしたのである。

私は何事でも、『決断』は速くてぐずぐずしているのは大嫌いなのである。
物事の決定など時間を掛けても、『いい判断』が出来るとは限らない。
世の中の状況などの客観情勢、問題提起した人物などを考慮しての『第一勘』が一番大事だと思っていて、いろんなことをほぼ即決することが多いのだが、そんなに間違ったことはないと思っている。

売りに来てたセールスが、かって私が広告宣伝課時代には、印刷屋にいて知らぬ仲でもなかったので、信用したのである。
家の場所もどこかも解らなかったのだが、すべて相手に任したのである。
それがいま住んでいる三木の家なのだが、当時は75坪が280万ぐらいで、2年後に家を建てることにするのだが、『600万ぐらいで家が建つ』そんな時代だったのである。

 この時期所謂『オイルショック』の時代で物価は毎年上がるし、『狂乱物価』などと言われたのだが、同じように給料もどんどん上がって
給料は4年で倍』になったそんな時代だったのである。
そういう意味では、非常に『いい時期』に買っていたとも言えるのである。


★前述したように、この土地は明石に出張中に総務部長にも相談して買うことにしたのだが、この話は社長の耳にも入っていたはずなのである。
この土地を買うことにした6月には、社長からは『10月には明石に戻す』という内示もあったので、『買う』という判断の中には、そんな要素もあったのだが、いつの間にか明石が大阪に代わって、『途中下車』のような感じにはなっていたのだが、そんなことで文句など一切言っていないのである。

 その後の私の人事は、大阪母店長・中日本営業部長・直営部長とどんどん担当地域が東京から兵庫までと拡がったこともあるのだが、社長から『直営部の本拠を明石にせよ』という指示が出たのは、どうも私が『家を建てる』ということを配慮して頂いた節がある。
 さらには管理部長と全国の特約店制度推進のための異動もあって、家が建つ頃には新居から会社へ通勤ができるようになったのである。


★そんないろいろなこともあって、家庭のほうでも『人生の中で一番頑張った時期』とも言えるのだが、本当にそう言えるのは『専業主婦』をしていた家内のほうだと思う。
 
給料は倍増したと言っても毎月の返済もあるし、余裕などなかったと思うし、明治生まれの確りした母が同居することになった時期だし、なかなか大変だったが、よく頑張ったものである。

子どもたちも小学校だったが、『勉強はそこそこ、運動は一番』という感じで一番活躍するのは運動会というような状況だったのだが、

息子のほうは小学校5年生ぐらいからサッカーを始めて、
小学校5年生の時には緑が丘小学校兵庫県大会で優勝したし、
6年生の時には、『オール三木』でキャプテンをしていてこれも兵庫県で優勝し、
オール清水なども出場したよみうりランドであった全国大会にも出場し、
参加32チームのの中から20人ほど選ばれた優秀選手にも入ったりした頑張りようだったのである。
 この時期の数年が息子の一生の進路を決めたそんな期間であった。

娘もサッカーもしていたが、何故かマラソンが速くて、学校のマラソン大会では、小学校も中学校でもずっと一番だったのである。 ただ、『マラソンが好き』ということではなかったようだが、兎に角『頑張り屋』なのである。
高校入学時に陸上部に誘われたが断って、中学から始めていたバスケット部に入って、そんなバスケットのご縁がいまの娘婿にも繋がっているのである。


★私がこの時期始めたものにゴルフがある。
ゴルフが流行りだした時期で、1974年41歳の時にゴルフを始めたのだが、やりかけると熱中する性格で、この当時の日記を読むと、休みの日はずっとゴルフの練習に通っている。
お金に余裕がなかったので、なかなかコースには出れずに練習ばかりやってる感じなのだが、1年後の1975年8月11日に会社のコンペで優勝しているのである。
よく覚えていないのだが、多分ハンデーがいっぱいあったのだと思う。

その後は何回優勝したか解らぬほど優勝はしているのだが、家にある優勝カップの中では、この銀製の立派なカップを大事にしている。
第7回優勝1977年9月17日で、3年目の時だが、この時のスコアもそんなに良かったとは思えないのだが、このカップが家にあるということは14回まで続いた最終戦の優勝カップ取り切り戦で、TOPだったということなので、その頃は多分80前後のいいスコアで上がったのだと思う。

 

 
後ろにあるのはZ1会に入会したころのハンデー10ぐらいの時の優勝楯なのだが、
ゴルフも、間違いなく『人生で一番頑張った』のはゴルフを始めたばかりの40歳代のこの時期だったのだと思う。


 最後にこの時期、私が会社の冊子にこんな寸評を投稿をしている。

 日記のページに張ってあったのでご紹介する。
 



雑 想      直営部部長   古谷錬太郎

多事多難多忙の毎日である。雑務に追われて無為無策のうちに、月日だけが流れてしまうことになりがちである。目標管理の必要性については、前号で北村部長が述べられた。目標管理を「すべきである」ことに反対の人は少なかろう。しかし、「やるべきことを完全にやれる人もまた少ないでは困るのである。
 有言実行を旨としたいものである。
 実行するということは意外にむつかしいものである。実行に対する訓練を日頃から心がけ、繰り返し、自分の体質としてしまうことである。小さな実行をより多く体験し、より大きな実行に挑戦することを身につけること。そのためには強固な意志とねばりと自分自身に対する厳しさが、その条件となるであろう。
 仕事がうまくゆかぬ時は、それなりにいろいろと理由はあるものである。
 「他社も売れていない」「予算がない」「方針がわるい」「人がいない」「雨が降った」等々責任を環境や上司や部下や、或は自然現象に転化して会議を上手く切り抜ける?前に、自分自身に厳しく問いつめてみたいものである。
それが男の仕事のやり方ではなかろうか。 われわれが販売しているオートバイはまさに男の乗り物である。それも二十才前後のはつらつたる若者の乗りものである。それを売る男たちは、燃えたぎる情熱を常にもちたい。それをぶつける対象はすぐに見つかる筈である。見つけようとする態度、それがチャレンジというものだろう。そして、若さであろう。
 「この会社の人はオートバイが好きなのかな?」或る新人の感想である。いろんな意味で痛烈である。商品に対する愛情、愛着が仕事を支える基盤であろう。
 乗れる人は、乗る機会を多く持ちたい。乗れない人は、せめて磨く気持ちを「もちたい。これも簡単な実行目標の一つである。
 多事多難多忙の毎日に、いろいろと想う私自身の反省であり、目標を一にする人達への提言でもある。
 ほかにもいろいろある。前向きに話し合える機会を多く持ちたい。そして人の意見を聞く態度を身につけたいと思う。』

 背伸びしながらも頑張ってた時代だな と改めて思ったりするのである。
 
 
 『人生で一番頑張った時期』は、コレで最終回とします。
 お付き合い頂いた方々、有難うございました。

 
 
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