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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

そうか、そんな生き方もあったのか?    2

2020-12-10 07:22:59 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか?』第2弾です。

 我が家には小西先生が本を送って下さいましたので、
 少しだけですが、読んでみました。

 こんな10人の偉人たちの人生が描かれているのだが、
 私もお名前だけはよく知っている偉人たちの人生は、
 結構な波があって大変だったようである。
 そんな人生の大波・小波を乗り切ったからこそ、
 世に名を遺す偉人となられたのだろうかなと思ったりしている。

 




★ 先日、この本のご紹介をしたのだが、
 Facebook で毎日のように出会っている『青木隆』さんからメッセージを頂いた。

   


Amazonで、注文しました。 はい、糧にしたいと思います。
古谷さんの人生も、十分楽しそうで、本の題目と似てると思っています。
 寒くなりました、公園の散策もいいですが、お身体ご自愛ください。』

 早速このような反響があることは嬉しい。


★ 小西一彦先生はFacebook に
  早速、こんな『仲俊二郎読書友の会』を立ち上げられている。

  その仕組みがよく解ってはいないのだが、
  私のFacebook のトモダチを招待したら、 
  早速、20人ぐらいの方が参加されている。
 


 今週の新メンバーとあるのは、既に参加された方だし、
 招待済みの方が84人もいらっしゃる。



 ただ、つい先ほどまではこんな表示が出て、
 『現在友達を招待することが出来ません』などと言う表示が出てたのだが、
 もう今は解除されたのだろうか?

 ネットのシステムは、どうもこの辺りがよく解らないのである。



★ 『松田真弥』さんなどはこんな表示が現れるし、



  
  

こんな画面が現れる方もおられる。



 
   


  


 これらの方は、間違いなく私がご招待したのだが、
 この『仲俊二郎読書友の会』には招待なしに独自で加入は出来ないのだろうか?

 スタートしたばかりで、その辺のところがよく解ってはいないのだが、
 よく解ってはいないのだが、

 著者の『仲俊二郎』さんは
 かって川崎重工業にお勤めだったようだし、
 最初の勤務は私の一番下の妹と同じ職場だったようなので、

 そんなご縁もあって、私も応援したいなと思っている。
 70歳になってから『若い頃からの夢だ った作家へ転身された』のは
 これは大変なことである。
 それ以降、既に10冊を世に出しておられるのである。

 このプロジェクトは、そんなに急いでみても仕方がないので、
 じっくりと腰を据えて、そのご紹介を続けていきたいなと思っている。

 『青木隆』さんのように実際に本をご購入された方は、
 その読書の感想なども頂けたら幸いだなと思っている。

 本のテーマは
 『そうか、そんな生き方もあったのか?』という
 どなたにも関係のある『人の生き方』がテーマなので、
 是非、皆様も関心を持って頂きたいなと思っている。

  

 

そうか、そんな生き方もあったのか!     1

2020-12-07 05:51:32 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか!
 仲 俊二郎著 の本の題名である。

 同じ題名で、多分このブログも何回か続くと思われるので
 『そうか、そんな生き方もあったのか 1』とした。

 久しぶりに私が取り組む『プロジェクト』になるのかも知れない。

  
   


 本の帯には、
 兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生
 『人生には迷いもあり、悩みもある。
  しかし10人の偉人たちは、運命に敢然と立ち向かい生き抜いた。
  若者から年配の方まで、明日を生きるためにお薦めしたい一冊。
 と書かれている。


★ その小西一彦先生から、長いメールを頂いたのである。
 大要は次のようなものだった。

『さて、久しぶりにメールを送らせて頂きましたのは、 実は、大学時代からの親友の仲元俊二君からの依頼で、 古谷様へたってのお願いです。
仲元君は、大阪市立大学を卒業した後、 川崎重工業に就職し、その最初の配属先が、 健康保険組合でした。
その彼が、その後、フランスに出張して、 世紀の大事業と言われるドーバー海峡のトンネル 掘削工事を受注し見事に成功させました。その実績が 買われてか、外資系のケミカル会社の取締役にヘッド ハンティングされ、そこを退職後、若い頃からの夢だ った作家へ転身することに成功しました。
これまで、10冊の本を書いていますが、いずれも素晴 らしい作品です。最近刊は『そうか!そんな生き方も あったのか!』(栄光出版社)という本ですが、今年 の夏前に、いつものように、まず、私に原稿を送って きて読みました。一読して、今回も素晴らしいと直感 し、早々の発売を心待ちにしていました。
ところが、その後、いくつかの出版社にあたったが、 どこも引き受けてくれない、電子書籍の影響で、昨今 の出版業界の経営悪化に加えて、今回のコロナの影響 が加わり、大衆受けするかしないかわからないような 本の出版はどの企業も手を出したくなくなったのでし ょう。
せっかく苦労して書いた作品もそんなことで日の目が 見られないのはまことに残念なことであるので、私も 販売に協力するから、もう一度、出版社と交渉して、 出してもらうようにしてはどうかと、肩を押したとこ ろ、彼と私の販売協力を条件に、一社(栄光出版社) が引き受けてくれることになりました。
コロナ禍の中でではありましたが、さる11月12日に、 添付のような「仲俊二郎出版記念祝賀会」を開催し、 参加者及び参加できないが販売には協力するという人 たちから、100冊近くを買って頂くことが出来ました。
しかし、もうひと頑張りしなければなりません。そこで、 最近の研究会で知りえた情報を参考に、この後は、 インターネット経路もフル活用して宣伝して売って いく必要があるのではないかと考え、その方向での 販売協力を彼に提案しました。
古谷様は、既に、何十万というフォロアーを持つ、 ブロガーなので、、何か情報を お持ちのはずで、良いアドバイスは頂戴できるので はないかと考え、メールを出させて頂いた次第です。』

 
仲元俊二さんが川崎重工で最初に務められた健康保険組合では、
私の一番下の妹と同じ係で一緒に仕事をしていたというのである。
それも何かのご縁である。

要は『電子書籍』などの影響で本の販売がムツカシクなっている昨今、
ネットでの販売促進』をやりたいので手伝って欲しいということなのである。


★その依頼主が兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生というのである。
 兵庫県立大学はかっての神戸商大で私の母校ではあるのだが、
 大学時代は野球一筋で殆ど授業にも出ずに、
 は体育実技・体育理論という運動部員は優、中国語の1,2というこれも試験を受ければ優、それに野球部の部長だったゼミの先生のたった5つだけで、当然優が取れる科目のみなのである。
 
 そんなことで 大学の先生など殆ど無縁の存在だったのだが、
 その大学の先生からのご依頼なのである。
 『人生いろいろと変わるものである

 私は現役時代もずっと、人から頼まれた仕事をやってきたことが多かった。
 『他人からの頼まれごと』は『私への期待』なのだから、
 頼まれた方が満足するような成果が出ないと失敗なのである。
 幸いにして殆どの『頼まれごと』は120%の成果を得たと自負している。

そうか、そんな生き方もあったのか!』を
 出来る限り沢山売ることが目である。
 
 これはなかなかムツカシそうだが、目標としてはオモシロい。
 どんな結果になるのかはよく解らぬが、
 私なりに、独自のやり方で『その広報展開』を進めてみたい


★ こんなメンバーが応援されているようである。

  

    著者の名前は『仲俊二郎』となっているが、
 本名は『仲元俊二』さんのようである。


 まずは、その一報なのである。
 ご興味のある方は、是非ご一読下さい。

 『そうか、そんな生き方もあったのか! 
 人の生き方はいろいろあるのでしょうが、
 『頼まれごと』はちゃんとやるのは『私の生き方』なのである。

 そんなことで『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで纏めてみたいと思っている。

 
 
 
 



三木山森林公園をスロー・ジョッギングしてきた

2020-11-10 19:06:27 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は三木総合公園にある三木市総合体育館のジムでにトレーニングに行ってきた。
 1時間ほど筋力トレーニンをしたあと、
 直ぐ隣の『三木山森林公園』でスロー・ジョッギングを楽しんできた。

 『三木山森林公園』と『三木総合公園』はこんな位置関係にあり、
 隣というか、道を挟んで東西なのである。

 
 
 
 森林ばかりで何もないように見えるが、そんな自然いっぱいの公園なのである。
 孫たちが小さい頃はよく来てたし、犬がいたころは散歩もしょっちゅうだった。
 
 三木には大きな公園が幾つもあるが、その中でも『一番好きな公園』である。


 写真をいっぱいとってきたので、通った順にご紹介してみよう。

 向うの建物が三木総合体育館なのだが、
 その前の駐車場に車を止めたまま、三木山森林公園に向かったのである。
 




 森林公園に向かう道から、三木総合公園を見下ろしたところ。
 この公園もスポーツ施設がいっぱいで結構広い。




 これは三木山森林公園の上の方にある広場、
 芝生も広いし、今は紅葉も綺麗である。





 この奥には子どもたちの遊び道具や木工教室などもある
 『ウッディ広場』などもあるのだが、





 さらに進むとこんな林の中の道になって、
 こんな道が縦横に走っている公園なのである。





 こんな展望台もあるのだが、
 開場以来25年も経って、木が大きくなって
 下の芝生広場が見えないし、





 こちらの展望台からは柱の横の上の写真のように三木市街が見えていたのに、
 今はほんの少しが見えるだけになっている。



 これは東の方、右の山波が神戸の『六甲山脈』
 左の少し大きく見えてる山は『丹生山』これも神戸なのである。




 
こんな森の中のメイン道路には



 茶室などもあったりするのだが、

 


 
 その先の道で、『古谷さんじゃないですか?』
 と声を掛けてくれたのは、川崎航空機ー川崎重工業と同じ道を歩いた『岡崎くん』 
 殆ど毎日散歩に来ているのだとか。

  

 
 いま76歳だそうだが、元気そうである。
 私も色濃く関係した、開発途上国市場のインドネシアに10年もいたという。
 そんな昔話などにも花が咲いて、ちょっと懐かしいひと時だった。

★  『また、お会いしましょう』と別れてきたのだが、
 
 私は人生、特に現役時代は『八方美人』で過ごしてきたので、
 どなたとお会いしても、『昔のままに』お話しできるのは特技と言えるのかも知れない。

 結構、年の開いた方でも大丈夫なのである。

 今日は、長くお会いしていないジェットスキーで関係のあった
 『福井昇くん』が家にやってくる。
 先日、懇意にしてくれた仲間たちに配ったのだが、
 特に、日本で初めてカワサキのジェットスキー展開にスタート時点に
 『力を貸してくれた福井昇・藤田孝昭・潤井利明くんの3人のために残している、
 大槻幸雄さんの殿堂入り記念品をお渡ししようと思っているのである。

 因みに言うと
 ジェットスキーのスタート時に手伝ってくれた人は、このほかにも
 渡部達也・吉田純一くんなどもいるのだが、
 このお二人はゴルフ・コンペZ1会の方で配布されるのである。

 もう定年になって20年にもなるのに、
 『いろんな方たちとのお付き合い』が続いているのは幸せなことである。
 
 
 


継続は力なり  その2 運動

2020-11-08 06:26:39 | 私の生き方、考え方&意見

★子供の頃から『体を動かす』のは好きだった。
 
好きこそものの上手なれ』と言うが『体を動かすこと』は得意だった。

小学校時代は走りも早かったし、相撲も強かった。
戦後日本に戻ってからは、日本国中野球が盛んで中学校から大学まで『野球に熱中』した。

ただ確かに続いてはいたが『継続』という意識はなかったのである。
社会人になってからは、『草野球』などはやっていたが、そのうちにさっぱり運動はしなってしまった。

体を動かす』のは40代に始めたゴルフぐらいで、50代以降は『会社の仕事』が忙しくてというより自分で勝手に忙しくして、

60代後半は『身体の状態は最悪』の状況だったのである。



★定年を迎えた『68歳の頃』は膝や腰が痛くて、ずっとマッサージや整形外科に通い詰めていたのである。

そんなある日、整形外科の先生に『こんな電気治療などして治りますか?』と聞いたら、

治らないね。時間が出来たのだから、ストレッチでもしたら
筋肉は何歳になっても付くから』と仰るのである。

 この一言で、私の『毎日の生活』が一変したのである。
 その『ストレッチ』は『もう17年』も続いている。

 

★ 昨日は『継続するもの』として『日記』のことを書いたが、それに続くものが『ストレッチ』なのかなと思う。

ストレッチ』をやり始めて感じたのは『結構な時間』が掛かるのである。
整形外科の先生が『時間が出来たのだから』と言われた意味がよく解った。
 
 私の『ストレッチ』は朝目覚めた布団の上でやってるのだが、
 最初は確か30分ぐらいだったのだと思うが、それが『40分』になり今は『50分から1時間近く』にもなっている。


ストレッチと言えば『イチロー』が試合前に2時間近くもやるのが有名だが、
ホントに、結構時間が掛かるのである。


 

 

1日に1ミリ伸ばせば、1年には36cm伸びる』と
整形外科の先生は言われたのだが、とてもそんなには伸びないが、

17年も続けたら36㎝ぐらいは伸びて、イチローと同じぐらいの体勢はとれるのである。

まさに『継続は力なり』なのである。


 





★ これが79歳の時、三木市の『体力測定』の記録である。
  ストレッチのお陰で『柔軟性=20歳』と出て
  『体力年齢=42.8歳』と出たのである。



   


 これに気を良くして、
 この頃から『50メートルダッシュ』を始めたりしている。
 はじめは上手く走れなかったが、この年になっても年々上手く走れるようになって
 『ホントか?』と思われるかも知れぬが今が一番上手く速く走れている


 これが85歳の時の『体力測定』だが
 『体力年齢=53歳』と出て柔軟性に加えて敏捷性5点満点なのである。


  


 
 この頃から『ジム・トレーニング』を新たに加えたし、
 『スロー・ジョッギング』もやり出した。
 最初は15分ほどしか続けて走れなかったが、
 それが30分になり、今は1時間は走れるようになっている。

継続期間は短い』がやりかけたものは、みんな続いている。

 今年は、コロナで『体力測定』はなかったのだが
 もしやってたら、『50歳台前半』は自信があったのだが、残念である。

  


こんな『環境』と『有り余る時間』が私の『運動の継続』支えてくれている。

もう一つは『継続の意志』なのだろうが、
これは『やりかけたら続く』そんな性格なので大丈夫だと思っている。



 

継続は力なり  その1  日記

2020-11-07 07:07:11 | 私の生き方、考え方&意見

★『継続は力なり』とは言うがホントにそうかも知れない。

 87年生きてきて、『私の周囲』には継続出来てるものが結構ある。
 そんなにムツカシイことの継続は出来ないが、
 簡単なことを努力で継続出来ているものばかりではある。

 まず、一番長く続いているのが『日記』なのである。
    毎日書いていたら、こんなに沢山になってしまった。


 



書き出したのが大学2回生の昭和28年(1953)11月9日だから、
もう67年続いている

 突然書き出したのは、11月8日の朝日新聞に
 『蒋介石が30年間日記を付けてい』のが立派だとあったので、
 『日記を書くぐらいなら自分にも出来る』と翌日から書き出しているのであ
る。

 11月だったので、日記帳など買わずにこんな大学ノートで始めている。


  



 その第1日目にこのように書いている。


  


 そのまま転記してみると

『平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えてないのだが、ただ単なる青春の想い出として後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろう些細な日々の出来事を、大袈裟に言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
 日記というものを自分で記そうと思ったのはこれが初めてである。
 そして生まれて初めての日記の書き出しが肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうとする意志表示である。健康な時には日記など見向きもしなかった代物である。
 十日ほど寝たというだけで、日記を記そうという気持ちになるのはどういう意味を持つのだろう?
 人生五十年という短いとされている期間をさらに短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出ているのだろうか?
一日の手持無沙汰からかも知れない。まあとにもかくにも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし。
 いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。
 2,3日で止まってしまっても、またそれもよいだろう。
 身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその1頁を始めることとする。
 いついつまでも続くことを祈るや切である。』

 大学2年の秋のリーグ戦の途中から、何となく体が『けだるく』て、
 自分から医者に診てもらいに行ったら『肺浸潤』と診断されたのである。

 『10日間ほど寝てた』と書いてるが、一番落ち込んでた時期だと思う。
 『肺浸潤』にはなったが、その後は寝込んだりはせずに、ずっと野球を続けていたら、段々ひどくなって『肺結核』から更に『空洞』が出来たりしたのだが、会社に入社して3年目に入院したら1年で完治して、今まで生きている。

 そんなことで日記もそのまま続いているのである。


★大学ノートでスタートした日記だが。
 今では『5年連』の高価で立派なもので書いている。




 
定年後になってネットをやり出してから特に現役時代の昔のことを書く際には
本当に重宝しているのである。
人間の記憶力』が如何に『いい加減』なものであることを思い知らされる
ことが何度もあった。 
どうも自分の『都合のいいように』覚えているので、事実と違うことが多いのである。

 
★ ちょうど20歳の時から書き始めて

 これは29歳の時、この年の12月21日に結婚しているのだが、
 この年の日記を先日読み返してみた。
 会社の仕事も『めちゃ忙しかった』年なのだが、
 『家内との付き合い』にも相当の時間を割いている。
 
なぜ12月21日などと言う年末の押し詰まった日に結婚式を挙げたのかというと、会社の仕事が忙しくて、とても10日間も休むことなど『考えられなかった』のだが、ほぼ1年も終わってやっとこの日には何とかなったのである。

  これがその年の日記帳である。


  

 

 若し、日記がなかったら、この年のことなどこんなに詳細には思い出せないだろう。 そういう意味でも日記はなかなかいい。
 書いてるときは、単に書いているだけなのだが、後になって役立つこともある。


★ 今からも『生きてる限り』日記は続くかも知れない。
  今の日記帳は来年まで、米寿の年(88歳)までは大丈夫だが、
  来年の秋には、また『5年連続の当用日記』を買うことになるのだろう。

  それから5年と言えば、『93歳まで
  自分の感じとしてはこれくらいまでは大丈夫だろうと思う。

  『蒋介石』は『30年日記を書いて』褒めて貰っていたが、
  私は誰も『褒めてくれる』人がいないので、
  自分でこんなブログにアップして悦に入っているのである。

  日記に限らず『継続しているもの』は幾つもある。
  これは『私の趣味』なのかも知れない。

 
  

私とお金  雑感

2020-10-25 06:21:09 | 私の生き方、考え方&意見

★ 振り返ってみると、結構長い人生なのだが、
 自分自身の生活では『お金』とは、
 無縁というかあまり関係なく生きてきた。
 家内は専業主婦だったのだが・・『お金の管理』など家内に任せきりで、
 孫たちも『お金を持ってるのはおばあちゃんだ』と思っているようだ。
 
 
 月々に決まった『小遣い』など子供の頃から貰ったこともないし、
 『お年玉』も貰った記憶がないように思う。
 

 なぜ? と言われてもよく解らないが、
 多分、父がそのように躾けたのだと思う。
 『こどもは金など持つな』と言われていて、その延長が続いている。

 子どもの頃は、自分で金を払って『何かを買った』という経験もない。
 
 子供時代というか小学生時代までは、
 結構、裕福な暮らしだったと思うが、
 今でも不思議に思うのは、父は『勤めたり』はしていなくて
 家で絵を画いたり、旅行に行ったり好きなようにしていたように思う。
 生活費をどのようにしていたのか?

 
  服装などは、いつもちゃんとしていて
 背広は神戸元町の『柴田』で仕立てたというのが自慢だった。

  
    


  
  小学生の頃、自転車を買ってもらったが、
  自転車は100円ほどだったし、
  当時の勤め人の給料が70円ぐらいの頃だから、
  自転車も贅沢品だったのだと思う。


  父は伯父との二人兄弟で、
  伯父は朝鮮の南鮮合同電力のオーナー副社長で年に数回京城(今のソウル)に来ていたし
  当時の内地では明石で『錦江ホテル』という結構立派なホテル経営など
  定職があったのだが・・・

   




  
  伯父と父は仲が良くて、財産分けなどもしていなかったようだから
  伯父から金が出ていたのか? 株の配当でもあったのか?
  その辺りがよく解っていない。


  伯父と父の写真も戦災で焼けてしまって、この2枚しかないのだが、
  これは錦江ホテルの庭で写したもので、
  私など、こんなちゃんとした格好で写真など写したことはない。
  

     




★ ただ、こんな生活も小学生時代までで、
  終戦で内地に1人1000円だけ持って引き揚げてきたのだが、
  『1人1000円』は少ないようにも思うが、
  戦時中の給与が『70円』だとすると、結構な額だったのかも知れない。

  ところが戦後はインフレがどんどん進んで、
  引き揚げて戻ってきたころの『闇米』が『一升100円』ぐらいした。

  戦後は、伯父も父も多分収入はなくて、どのようにしてたのか?
  
  私が高校の頃、父は『脊髄カリエス』に罹って、
  マイシンの注射が『1本 1000円』もしたのだが、
  その金は、伯父が土地を売って都合してくれたのである。

 『1坪100万円』近くにも高騰したことのある明石上ノ丸の土地だが、
 当時は1坪2000円ぐらいだったのである。
 
 父は3年近く寝てたので、
 伯父は、結構多くの土地を売って、その金を都合してくれていたのである。

 今思うと、日本で土地に値打ちが出だしたのは、
 一般の人たちが自分の家を建てだした昭和40年(1965)ぐらいからで、
 それまでは土地など大して値打ちのあるものではなかったのかも知れない。



★ 本当に、変化にとんだ『オモシロい時代』を生きてきたと思う。

  1円が大金だった『自転車が100円』の時代、
  戦前、伯父が乗ってたアメ車『パッカード』が1万円だった。
  
  私が大学を卒業し入社した時の『初任給は12000円』だったのだが、
       『日本の高度成長期』に給料はどんどん上がって、
  退職する前は、『初任給の100倍』にもなっていたのだが、
  そんなに『余裕のある生活』でもなかったように思う。

  子どもたち二人が大学を卒業して、自分で給料をもらうようになるまで、
  『貯金』などするにもできない時代が続いた。
  
  その間の一番高い買い物は『土地と家』なのだが(1970年頃)
  いま住んでいる三木の土地は70坪で280万だったし
  家も400万円ぐらいで建ったから、  
  周囲や庭を入れても1000万円は掛からなかった時代なのである。

  ただ、給料が15万円ぐらいの頃だから苦しかったのだが、
  給料が最高に上がった時期で、毎年20%も上がったりしたのである。
  お蔭様で、ちょうど家を建てだした時期から
  4年後には給料は2倍の30万円ぐらいになっていた。
  今では考えられない『ウソみたいなホントの話』である。


★こんな時代を生きてきたのだが、
 不思議なほど『金には頓着しなかった』し、
 『金を貯めよう』などと思ったこともない。

 子どもの頃に、いろいろ可愛がってくれた伯父の派手な生活ぶりを見て、
 何となく『お金はないほうがいい』とそんなことを思ったりしたのが
 影響しているのかも知れない。

 川﨑航空機にはその伯父のコネで入れて貰ったのだが、
 現役時代、『給料が安い』などと文句を言う人は周囲にはいたが、
 私は、そんなこと思ったこともないのである。


★ただ、現役時代『会社の利益確保』には至極関心があって、
 『会社のお金の額』については、二輪事業全体の管理をしていた企画室時代には
 売上高ではなく『利益のレベル』で、『百億円』の『単位での貢献』が出来たと思っている。
  
 これは初めて営業第1線に出て、当時の自前の代理店が、
 実力以上に販売し『資金繰りが悪化し倒産する』様を見て
 『赤字は罪悪』だと身に染みて思ったからである。

 このような『事業経営でのお金』については、
 間違いなく『人並以上の関心』があって、
 結構『ダイナミックな金の使い方』もしたのだが、
 事業経営は結果が毎年明確に出るので、それに興味があったのだと思う。


 現役最後の10年間に国内販社を担当したが、

 年間400億円の売上高だったが、無借金経営で、
 総資産100億円だったから、4回転していて、
 資本金1億円の会社の純資産が35億にもなったから、
 間違いなく『超優良会社』だったのである。
 
 でも、個人の給与はちょっとボーナスがいいぐらいで、
 同期の人たちと変わらなかったのだが、何の不満もなかったのである。
 

★ 退職後の今は全くの『年金生活』だが、
 80歳代にもなると、殆ど金も使わない。
 今更、欲しいものもあまりない。
 1万円札を使うことが『まずない』ような生活で、
 全然不満もないから不思議である。

 振り返ってみて、
 『裕福だった時代
 『貧しかった時代
 『会社経営で潤沢なお金があった時代
 『普通の生活をしている老後の時代
  を経験できて大満足なのである。
 
 多分これからも『お金が増えたり』することはないし、
お金が欲しい』と思うようなこともなく、私の一生は終わるのだと思う。
 
 
  

   
   
        
 
 

 

 

 
 
 

物忘れを防ぎ記憶力を高める

2020-10-12 06:02:26 | 私の生き方、考え方&意見

★最近に始まったことではないが、どうも『物忘れがひどい
 
 私は毎日日記を書いているのだが、簡単な字が思い出せないこともある。
 そんなことで手元に『ど忘れあいまい漢字がすぐ引ける!漢字新辞典
 を手元に置いているのだが、最近はしょっちゅうお世話になるのである。


 なぜ、こんなにひどいのか、と思って
 『記憶力改善』と検索したら
 『記憶力改善のサプリの広告』がずらーと並ぶのだが、


 そんな中に
 『物忘れを防ぎ記憶力を高める10の習慣』というのがあって読んでみた。




 




こんな本もお書きになっている早稲田大学教授の枝川義邦さんの提言だが、
世の中何でも『専門家』がおられるのだといつも感心している。





     





★毎日の生活の中で『習慣化』すればいいと言われている提言は10個だが、  本の中では45もあるらしい。



→【習慣1】6時間半~7時間半、睡眠を取る
→【習慣2】昼間に10分、目をつむって深呼吸
→【習慣3】単語や数字は「グループ」にして覚える
→【習慣4】夜に納豆+卵かけご飯を食べる
→【習慣5】25分集中したら、5分休む
→【習慣6】テスト形式で知識をアウトプット
→【習慣7】行ったことのないカフェで勉強する
→【習慣8】友達や家族に分かりやすく話す
→【習慣9】「感想日記」をつける
→【習慣10】会話をしながら、相手の名前を何度も呼ぶ



そして、総論的には次のような生活態度がいいと言われている。


まずは睡眠と運動を見直し、日々の生活を整えることが不可欠だ。
運動には記憶力アップだけではなく、脳の老化を防ぐ効果も期待できる
脳の働きを活発にするには、向上心や興味を持って新しいことにチャレンジするのも効果的。
いくつになっても学ぶ姿勢を持ち続けて、若々しい脳をキープしましょう。
ブログやツイッターなどに感想を投稿するのもおすすめ。
感想を読んだ人からのコメントや質問に回答をするなどのやり取りが生まれると、読んだ本にまつわるエピソードが増え、より記憶に残りやすくなります。』 


 
大まかにはこのような生活態度になっていると思ってはいるのだが、
それでも『物忘れがひどい』のは、やはり『歳かな』と思ったりする。



★ ここで具体的に挙げられている『10の習慣』の内、以下の4つは大丈夫のように思う。

習慣1の睡眠』は間違いなくとれている。
習慣2の昼寝も深呼吸』も大丈夫だし、
習慣4の納豆と卵かけご飯』は我が家の定番である。
習慣9の「感想日記」をつける』はまさしくこのブログだし、

 総論の『運動』も『好奇心』も『チャレンジ精神』もあるのだが、
 ホントにそれでも『物忘れはひどくなる』一方なのである。


 まあそれでも『物忘れの専門家先生』がご指摘の『改善対策』の方向には大筋で合致してるので『まあいいとしておこう

というのが私の結論みたいなものである。
大体、こんな本が出たり、専門家の先生が研究なさるということは
世の中の一般傾向』であって『特に問題ではない』のだろう。

そんな『いい加減な発想』と『ネアカな生活態度』がいいのだと思った。
いつものように、ここでも『反省しない私の性格』が生きているのである。


 
 


緑の管理  雑感

2020-10-02 05:34:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私自身の性格は『おおざっぱ』で別に綺麗好きでもない。
 個人の周辺は『乱れ放し』なのだが、
 社会というか『公の世界』ではちゃんとしなければいけないと思っている。

 そんな風に思ったのは、もうずっと以前30代になったころ
 1965年に仙台事務所を創りその長となったのだが、
 その時一緒にいた宇田川勇さんが滅茶滅茶綺麗好きだったのである。
 事務所の掃除も整理整頓も見事であった。

 その時に『世の中にはいろんな人がいる
 そんな色々の人の『最高のレベル』に合わせるべきだと思ったのである。

    メーカーの大きな事務所で沢山の人と一緒にいた時には感じなかったのに、
 初めて小さな事務所で少人数の世帯という環境の中で初めて気付いたことなのである。

 以来、私の会社での管理レベルはずっとそんなレベルを目指したのである。
 1990年代の国内販社を纏めるリーダとなった時には
 その事務所も営業所も、ショールームも『世の最高レベル』を目指したし
 間違いなく『その当時の社会のトップレベル』になっていたと思う。



★ 突然、何事かと思われるかも知れぬが、
 いま住んでいる三木は緑いっぱいの町である。
 大きな道が多いので街路樹もいっぱいだし、
 大きな公園もあるしゴルフ場も25もあってどこに行っても緑が目に入る。

 だが建造物と違って、緑は成長するし周囲に草も生える。
 それが公の社会の中にあるので雑然としていると気になる人もいるだろう。
 少なくとも私は気になるのである。

 
 現役時代、ずっと車で通っていたのだが、
 あの廣野ゴルフ倶楽部のこんな横を毎日通って通っていたのである。

 
 



名門廣野ゴルフ倶楽部の中は見事というほど綺麗なのだが、この道路際は草が生え放題で『見苦しいな』とずっと思っていたのだが、
70歳になった時に、廣野の理事長宛に『道路に面した部分は社会と接しています。』と思い切って手紙を書いたのだが、丁寧なご返事を頂いて、それ以来20年近くになるのだが、ずっと綺麗に管理されているのである。
 
現役時代には言い出せなかったが『70歳になったので』と思ったのだが、
こんなに対応して頂けるのならもっと早く言っておけばと思ったりしたのである。



★最近は毎朝三木総合防災公園に走りに行っている。
ゴルフ場が2つ以上も入るような広さで、周辺を含めて緑いっぱいなので、
兵庫県担当なのだが、その管理が大変なのはよく解る。

毎日何人もの人たちが、緑の管理をおやりになってはいるのだが、なかなか追いつかないようだ。

これは三木市の管理だと思うが、周辺の道路の整備を今やってる最中である。

左側は綺麗に刈られたが、真ん中の部分は今朝から始まっている。

 


 
道はとても長いのでこの道筋だけやるのにも1週間以上掛かっている。





公園の中のメインの部分や建物周辺は綺麗に管理されているが、




 
裏手はこんなに荒れ放題なのである。




 公園もメイン道路は綺麗だし、





 サッカー場の芝生は手入れが行き届いて最高に綺麗である。




 
 その隣のコートは、昨日まで『目土』を入れてたのでこんな状況だが、
 2週間もすれば青々とするだろう。
 毎朝見てるから解るのだが『手入れ』は大変なのである。





 
 このように『緑の管理』は大変なのは解るが、
 それは計画段階で解っている筈なのである。

 なぜ、8割方出来てるのに残りが出来ないのだろう。
 もうちょっとのことなのである。
 『予算がない』と言わそうだが、それは弁解だなと思う。



★ 以下の写真はいずれもアメリカカリフォルニア州である。
 緑いっぱいだが、その管理は見事である。
 Irvine市などは、家の前の緑の部分もすべて市が綺麗に管理してくれる。

 社会に対する感覚が日本と違って徹底していて、
 その労働力は『メキシカン』なのだが、雑然としたところは全くない。







 
家の周りも社会に接する部門は、市の管理で定期的に整備してくれるのでいつもきれいに保たれている。
 この辺りのアメリカの発想はいいなと思う。




公園も常に綺麗である。










★兵庫県は永年『美しい』をモットーに掲げている。
 10年ほど前に、三木市にもその『美しい』を提言した。
 『日本一美しいまち三木をめざそう』と提言は取り上げられているのだが、

 『裏通りも美しく整備する態度』こそ『美しい』のだと思う。

 ふと思った感想である。
 
 流石に 日本一のゴルフ場と言われる『廣野ゴルフ倶楽部』は
 あれ以来、外回りも定期的に『綺麗にする体質』が身に付いているのは
 私にとって『非常に嬉しいこと』なのである。


 
 


『敬老の日に想う』 私の雑感

2020-09-22 06:30:21 | 私の生き方、考え方&意見

★9月21日が『敬老の日』だとは、自治会からお祝いを頂いて、
 そうか『今日は敬老の日』だと思ったりした。


 『敬老の日』と写真検索してみたら
 『最近の60歳は若い』というこんな写真が出てきたが、
  確かに最近の60歳は若いように思う。
  もう息子がそろそろ60歳に近づくそんな時代なのだが、

  

 

 私自身振り返ってみて、還暦を迎えた60歳台が人生で一番『歳をとったな』と思った時代だったような気もする。
還暦のお祝いなども頂いて『そうか年寄りの仲間入り』をしたと実感したし
実際に60歳台が一番体力の衰えを実感した年代だった。
まだ、現役時代ではあったのだが、殆ど運動などしなかったし、階段を上るのに息を切らしたりしてたのを思い出す。


★もう20年も前の話なのだが、
この年代にはしょっちゅう整形外科に行ったり『マッサージ』のお世話になったりしていたのだが、
私の人生は、『70歳代からもう一度元気になった』と言っていい。

 『原因は何かな?』と思うのだが、
 『一番の原因は有り余る自由な時間が出来た』と言うことだと思う。

逆に言うと、60歳台は未だ現役だったが、
全く自分の自由な時間がないほど『忙しかった』ということだろう。
当時やってたことも、当時思っていたほ大したことではなかったのに、
これは大きな仕事だ』と思っていたのは錯覚だったのかも知れない。

 自分の人生の中で、一番大事なことは『自分自身の時間』を持つことで、
自分自身の時間が持てている人生は豊か』だと思う。


★そういう意味で私の70歳以降の人生は『豊かで満足できる』ものである。

 有り余る『自分自身の時間』を何に使っているかというと
 ひとつは70歳台になって初めて出会った『ネットの世界
 そのベースは『パソコンが使えるように成った』ことがひとつ。

   

 若しパソコンと出会わなかったら、全然違った人生になったと思う。
 ネットのお陰で、毎日自分の感想なども世に発信出来てるし、
 検索ということから『得られる知識』は学生時代より多いかも知れない。

 もう一つは『運動』である。
 子どもの頃から『運動神経はよかった』ほうだし、
 体を動かして『遊ぶ』のは好きだったのだが、
 そんな『運動の世界』が戻ってきて、
 今もストレッチとスロージョッギングとダッシュを楽しんでいる。
 こんな基礎的な毎日の運動の方が『ゴルフ』などより楽しく思うから不思議である。

 それともう一つは、自分の好きなことを好きなようにやっている。
 それを趣味と言うのかも知れない。

  

 
 
子どもの頃から魚が好きで、定年後一時は錦鯉に凝ったりしたが、
 今は、金魚とメダカを1日何時間も眺めている。


    



 植木の剪定などに興味を持ちだしたり、薔薇を育てたり、
 実のなる木を植えてみたり、
 要は『成長する』ものに興味があるように思う。

    
    
  



★『成長する』という意味では
 毎朝やってるストレッチは、ホントに少しづつだが柔らかくなる。
 『柔軟性』は今が人生で最高なのである。
 スロー・ジョッギングなどに興味を持っているのも
 連続して走れる時間がどんどん伸びて2年ほど前は20分ぐらいだったのに、
 今は、1時間近く走れるようになっている。

筋肉は何歳になっても鍛えたら増える』と言った先生の言葉は正しかった。
 せめてあと3年今のような状況を保って、
私の老後は充実してる』と胸張って言えるように頑張りたい。

敬老の日に想う』私の雑感である。



 


 

ちょっとだけ新しいことも入れた1日

2020-09-19 06:46:51 | 私の生き方、考え方&意見

★ 毎日、毎日同じことをしているのももう一つなのだが、
 この3月コロナ対策が始まってからは、殆どが同じことの繰り返しである。

  
  
9月に入って、新しく『菅内閣もスタート』した。
安倍政治』を引き継ぎながらも、新しいことにも挑戦しているので、
 従来の生活を引き継ぎながら、少しだけ進歩の方向に舵を切ることにした。
    
 『菅さんに』あやかりたいと思ったまでである。

  

 私の毎朝は、こんな三木総合防災公園の綺麗な道を
 スロー・ジョッギングした後、
 ちょっと休んで、50メートルダッシュをしていたのだが、


    


9月からは、スロー・ジョッギングの合間に40歩のダッシュを取り入れ、
その後またスロー・ジョッギングを続けて、
息が収まったら、またダッシュする、
そんなやり方に変えたのである。

 
約50分ほど走ったら、大体『10本のダッシュ』が出来る。
従来よりは、ちょっときついが、大丈夫できるから不思議である。


これが今朝の実績で、50分、8000歩、約6キロ、1300cal
を記録した。

   




★そのあと、生協に墓参の花を買いに行った。
 お彼岸で花を買う方がいっぱいで整理券を出している。

  

 

 9時半のスタートだが、15分前に行ったのに、
 『124番目』だったのだが、
 待ってたら、親切な方がいて『67番』の整理券を頂いたのである。
 周囲に沢山の方がおられたのに『なぜ私に?』 それはよく解らない。


  
  


私の隣で待ってた方はもっと後の番号だったので、『124番』を差し上げてきた。



★ そして明石の長寿院まで、約40分、

  前回はお盆で『草抜き』をしてたら『熱中症』になってしまったので、
  今回は水も持っていったのだが、1ヶ月経つと暑さも全然違う。
  1ヶ月前に草を抜いたのに、また生えていた。

    


 
 今回は、『除草剤』の液体を持って行っていっぱい撒いてきた。
 次回は来年の正月だが、果たしてどうなっているのだろう?




★ 明石は『生まれ故郷』だし、今でも本籍は明石なのだが、
  最近は、特に駅前辺りは開発されて、さらにまた開発中である。
 『昔の城下町の風情』は全く無くなってしまった。

  何となく『寂しい』気もする。


  


 
 同じ『城下町』だが、まだ三木の方が少しマシかなと思う。

 そういう意味では、長寿院のお墓も、新しい墓が増えて、
 こんな感じになっている。

 だんだんと世の中は変わって行くのである。
 

  

 


★ 午後、夏から『挿し木』していた薔薇の根が出ているので、

 そのうちの2本を庭に植えたのだが、
 『菅内閣スタート』の記念植樹と言うことにしたい。

 立派に育って花咲くことを期待したい。
 来年の春には花が咲くはずなのである。
 『菅内閣』その頃、どんな感じになっているのだろうか?

  
    



   
 

私の不思議な性格、不思議な生き方

2020-09-11 06:00:43 | 私の生き方、考え方&意見

★長く人生を生きてきたが『自分の思う通りに生きれたな』とは思っている。
 考えてみると『不思議な性格』で『不思議な人生』かも知れない。

 『自分の思う通りに生きれた』とは言ったが、
 自分の人生で『何になりたい』などとは、子供の頃から思ったことはない。
 周りにいた人が、決めてくれたことをそのまま受け入れて生きてきた。

 中学校を神戸一中に行ったことが、自分の人生の自信になっている
 学歴は神戸一中の中学だと思っているし、
 それ以降、高校でも大学でも一切と言っていいほど勉強などしていない。
 そんな自信が持てるほど、旧制の神戸一中はいい学校だった。
 
   その神戸一中にも伯父や伯父の友人の砂野仁さんのすすめで入学した。
 なぜか入学試験など受けない『裏口入学』だった。
 父が『お前は無試験で入れたのだから勉強はちゃんとやれ』言うので
 『中学2年』まではよく勉強して結構いい位置にいた。
    それが『自分はバカではない』という自信に繋がってる。
 
    中学3年からは、男女共学、高校は学区制などあって、
 神戸1中の2年生の学力で高校2年ぐらいまでは勉強せずに大丈夫だった。
 そんなことで高校・大学など野球一筋の学生生活だった。

   
    
 

 
大学も川崎航空機にも伯父の薦めで、半分コネで入ったようなものである。
 入社してからも、周囲の上司の言うままに、その部署部署で頑張っただけで
 自分で希望など言ったことは一度もないのだが、
 会社の中枢を歩けたし、
 後半の20年間は川崎重工業のまさにTOPの方たちとの関係の仕事だった。

 別に専門知識などあったわけではなかったが、
 与えられた仕事は結構大きかったが、誰よりもうまくこなせたと思うし、
 それなりの金額的な貢献も出来たかなと思ったりするのだが、
 それは実力などと言うよりは『私の性格』かなと思ったりする。



★私の人生は『不思議なほど』周囲にいた人たちにいろいろ援けて頂いた。
 
 これは上の方は勿論だが、会社で言えば部下たちに恵まれたというか、
 下の人たちがホントによく動いてくれたように思う。
 細かな指示など与えずに、好きなようにやらせたからかなと思ったりする。
 そういう意味ではバカみたいな『性善説』なのである。
 最後の10年は、部下に予算など与えずに自由にした。
 予算など組まなくても、無暗矢鱈に金など使ったりはしないものである。

 私自身の性格は兎も角『専門的な知識』は殆ど持っていないので、
 周囲のそんな才能をお持ちの方が、援けてやろうと思われるのだろう。
 
 
★ なぜ突然こんなことを書いてるかというと、
  昨日『家の固定電話が繋がらなくなった』というブログをアップし、
 Facebook にも転載したのだが、
 そのFacebook にはびっくりするほど沢山のコメントが寄せられた。

    携帯の掛け方も解らない87歳のおじんを援けてあげようと
 いろいろ技術的に詳しいコメントも頂いたのだが、
 残念ながら『技術オンチ』の私は言われてることがよく解らないのである。

 青木隆さんなどはメッセージで詳しく、
 こんな写真付きで送って下さった。
  
 
  




 NTTドコモの訪問手数料7000円も払わなくても
 『新しい電話機が買える』と仰るのだが、
 それを自分で設置するなど、全く私にとっては『想定外』なのである。



★『不思議な生き方』と題したのは、
 自分の人生なのに、ホントに『人任せ』なのである。

 いま住んでいる三木市緑が丘の土地を買ったのはもう50年も前で、
 当時のダイワハウスのセールスの人を知ってはいたのだが、
 仙台から明石に出張時に『三木にいい土地があるから買ってくれ
 と言われるので、一応は現場を見たのだが、
 造成中で丘の上から壮大な造成中の土地を見ただけなのである。

 家内にも相談もせずに、出張中に決めてしまったのである。
 今思っても、『ちょっと無茶だったかな』とは思うが、
 『信じる者は儲かる』などと勝手にそう思ってそんな生き方をしている。

 そんなことで、何とか人生ここまで生きてきた。
 やはり『不思議な性格』で『不思議な人生』である。
 もう残り少ないが、今更『変わったり』はしないだろう。

 不思議なほどお金には無頓着で『お金が欲しい』と思ったことがない。
 子どもの頃から、小遣いをもらったこともないし、
 結婚してからも今でも『小遣い』など無縁なのである。
 お金はなかったら困るが『あり過ぎるとよくない』と思っている。
 だから、宝くじなど買ったこともない。

 『7000円の電話修理の出張費』ぐらいなら
 どちらに転んでも大したことではないし、
 『何とかなる』と思ってしまうのである。
 金が要るときは家内に『幾らと言えばすぐ出してくれる』のだが、
 基本的には『ケチ』だから、大きなカネなど要求したことはない。

 やはり『不思議な性格』で『不思議な人生』かなと思って書いている。
 世の中にはこんな変わった生き方をしている人もいる。
 それで、結構自分ではよかったと満足である。
 あまり欲がないのかも?
 
 もう一度生まれ変わっても『同じ人生でいい』とホントにそう思っている。

 


安倍さんご苦労様でした

2020-08-30 06:14:10 | 私の生き方、考え方&意見

★私は政治などあまり関心はなかったのだが、
 安倍晋三さんは唯一と言ってもいい『私の好きな国会議員』さんだった。

 兎も角どうも国会議員の先生がたは『偉ぶる方が多くて
 好きになれなかったが、
 安倍さんだけは何となく『好きだった
 
 『好き・嫌い』はそんなに理由などなくて、
 『何となく』というのが理由なのだろうが、

  敢えて言えば、その出発点は『美しい国』と言われたからだと思う。



                    




★ 2007年ころの話だが、
 実は兵庫県は永年『美しい兵庫』を目標に掲げていて、
 そんな兵庫県の職員から三木市の市長になられた薮本吉秀さんに

 『日本一美しいまち三木をめざそう』と言うフレーズを提言したら、
  すぐに採用して頂いたのである。
 
     それは2006年の頃で、今も尚三木はそれを目指している。


  


 
  『美しい』という言葉は、日本独特のもので、
  単に『綺麗だ』というよりは『心の持ち方』など
  人が『生きていく態度』も表現していて、

  日本の政治も『美しくあって欲しい』と願っていたからなのである。


  安倍さんの『美しい国』はちょうど同じころに言われていて、
  ホント同じころにこのブログ『雑感日記』もスタートしているのだが、

  その一番最初はこんなブログでスタートしているのである。

 

 
  美しい
  2006-09-09 14:10:27 | 政治
  
  美しい国,安倍さんの書いた本の題名に使われている。
  美しいという言葉の意味は深く、外面的な美しさのほかに、
  調和のとれた、こころの優しさなど内面的な美しさもあらわしている。

  本来、日本に至極似合う言葉だと思う。
  せかせかとしたことばかりが目立つこの頃だが、
  もう少しゆったりとした美しい生き方をしたいものである。
  どなたが総理になっても、
  真に美しい国日本を目指してほしいものである。


 
 これは私自身の政治に対する想いみたいなもので、
 安倍さんの政治が『美しかった』かどうか?

 いろんな日本の政治家たちに比べて、
 安倍さんの政治姿勢は『美しかった』と私は思っている。
 
 日本国民はいろいろ言う人もいるが、
 国際的にはアメリカからもドイツからも、イギリスからも評価されて、
 『世界的な政治家』になられたのである。

 病から今回総理を辞退されたのだが、
 念願の『憲法改正』が実現できずにさぞ無念だっただろう。


    然し、本当に長く総理という激務を務められての辞任表明なのである。

 『倍ファン』として心から『ご苦労様でした』と申し上げたい。

 次の総理も、是非『美しい国』を目指して欲しいものである。



  
 


家内のこと   雑感

2020-08-17 06:38:33 | 私の生き方、考え方&意見

★私自身は、ネットに出ることなど全く気にしないのだが、
 身内の中で『家内と息子と娘の長男』は、
 なぜかFacebook は登録はしているが、全く自らは発信しないのである。
 
 その辺の性格は家内に似ているのだと思う。
 だから私もこの3人のことは滅多に書いたりはしない。
 特に家内は派手なのか地味なのか、明るいのか暗いのか
 よく解らない不思議な性格で、
 私と正反対に『心配症』で、『世間体などを気にする』のである。
 そういう意味では一見『新しそうで旧い』のだと思う。

 結婚するまでは私は家内の『明るい・活発な面』しか知らなかったのだが、
 結婚して思うのは意外に『旧い』し家事料理も大丈夫で
 途中からだが同居した明治生まれのちょっとムツカシイ母とも
 何とか合わせて、103歳まで面倒を見てくれたのである。
 世の中、いろいろと『嫁・舅』の問題などあるのにこれは感謝なのである。



  
 

 そんなことなので『家内との写真』もあまりないのだが、
 これはアメリカに行った時に娘が写してくれたものである。
 ご覧になればお解りのように80代なのにピンクのシャツ着て元気である。
 これは結婚する前に戻っている家内なのである。
 でも、日本に戻ればピンクのシャツなど絶対に着ないのである。
 

★なぜ突然『家内のこと』など書いているのかというと、
 今回、熱中症だったのかどうか、
 発熱して1日『おかしくなっ』ことはネットにもアップした。

 私は熱に弱いところがあって37度にもなるといつもおかしくなる。 
 それはそれで、仕方がないと割り切ってしまうのだが、
 家内は『滅茶苦茶』心配するのである。
 私は、今朝も熱も下がったのでスロージョッギングにも行ったのだが、 
 朝、めちゃめちゃ怒ってたので今日は半分ほどで引き揚げてきた。

 昼になって、大丈夫だと言うのに『熱を計れ』というので
 計ったら『5度2分』だったので、いつもの家内に戻ったようである。

 家内の性格は、非常に不思議である。
 もう60年以上のお付き合いなのだが、もう一つよく解っていない。
 一言でいえば真面目で、几帳面なのだが、
 社交的ではないのだが、気の合った仲間の人はいつも訪ねてきて、
 そんな友達とは何時間も喋っていたりする。

 そんな家内が結婚するまでの家内だったのだが、
 当時は私もそんな『気の合った仲間』で、今はちょっと違うのかも。
 そんな気の合わないところを合わせていくのが『家庭』なのかも知れない。
 それには『我慢・辛抱』がいる。

 私自身はあまり『我慢・辛抱』などせずに生きてきてるのだが、
 家内には、幾つもの『我慢・辛抱』を背負わせてきたのかなと思う。
 いろいろ言ってるが基本的に感謝なのである。

 家内へのお礼状のようなものだが、家内は読んだりはしないのである。
 まあそれでもいいかと、アップしているのである。


 
 

お盆の墓参り  雑感

2020-08-14 07:17:38 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日は明石まで『お盆の墓参り』に行ってきた。
 正月・春秋の彼岸・そしてお盆の年4回、墓参りには行っているのだが、
 私の代までは兎も角、息子の時代になったら、
 果たして『墓参りなど出来るのだろうか?』

 ネットで『お盆の墓参り』を検索していたら、こんな文面に出会った。

ある墓石会社が2015年に実施した調査によると、現代人の43%がお盆にお墓参りをしないようです。
その理由として最も大きいのが「面倒くさいから」。確かにお墓参りのために帰省したり、親戚周りをすしたりるのは非常に疲れますよね。』

 世の中の半分の方は、墓参りをしないとか。
 その理由が『面倒くさいから』となってるが、
 現実に『出来ない』ような状態の方の方が多いのではないだろうか?

 昔のように一族が同じ場所に住むという形態がなくなってしまっている。
 我が家の墓は明石市なのだが、私は明石で生まれ本籍も明石で、
 『明石は故郷』と思っているのだが、
 息子にとっては明石は特に関係はないし、
 ましてや鎌倉で育った孫にとっては、明石など全く関係がないのである。

 
★『長寿院』は明石のこんなところにある。
 『天文台』のすぐ隣に位置して、
 柿の丸人丸神社もすぐ近くで、なかなかいい場所なのである。

  



 明石藩主松平家の菩提寺という
 由緒ある立派なお寺ではある。

 


 
 歴代のお殿様のお墓は、上の写真の左の方にあって
 このよう立派なお墓なのである。

 



 私が子供の頃は、伯父が長寿院の檀家総代をしていて、
 当時は伯父に子供がいなくて『お前が継げ』と言われていて、
 小学生の頃から、よく長寿院には連れて行かれていたので、
 もう亡くなられた先代の和尚さんなどはよく存じ上げていて、
 今のお上人がご養子さんなので、
 『昔の長寿院のこと』など、私の方が詳しかったりすることもある。

 戦前は松平家のお殿様の子孫の方がお盆には墓参に来られていて
 伯父宅にお泊りになったりしていたのである。

 伯父はそんなことで至って熱心だったのだが、
 次男の父はそうでもなかったし、私が高校3年の頃に亡くなってしまって、
 父と一緒に墓参りした記憶もないような気もするのである。
 
 端的に言うと、私自身は墓についてもそんなに拘りはなくて、
 私はこの墓に入るのだろうが、
 私の代で最後になるであろうが、それは何とも思っていないし、
 あまり『ムツカシイ話』は苦手なのである。
 

 

 

★ お墓などいろんな事情で無くなってしまうものである。
 
 阪神大震災までは、『古谷家先祖代々』の墓は20近くもあり、
 曾祖父の松平家剣道指南番であったという『古谷満平』の墓などは、
 よく覚えているのだが、すべて地震で倒れてしまって、
 お寺さんが何百というお墓を全部整理されたのである。

 墓の場所を覚えるだけでも大変だったし、
 今は本家と父と母の墓二つだけだが、
 少なくなって何となくホッとしているようなところもある。


 確かに、格式の高い立派なお寺で、
 母の7回忌法要なども、ここでやらせて頂いたり、


 


 
 かっての伯父の関係で、お寺さんも気を遣われるのか、
 彼岸やお盆には、三木の自宅までわざわざお詣りに来られたりするのだが、
 こんなことも私の代で終わりになることは間違いないのである。
 

★ 明石といま住んでいる三木とは約20キロ離れてはいるのだが、
 車で行くと30分ちょっとで長寿院までは行けるのだが、
 電車やバスを乗り継いでいくとなると、これは片道が半日仕事だろう。
 むしろ『行くのは無理』と思ったほうがいい。

 もし家内独りになったら、車の免許など持っていないので、
 『墓参り』など『出来ない』ということになるのだろう。
 
 日本の昔ながらの風習も昭和・平成までで、令和の新しい時代になると、
 どんどん変わって行くのだろう。


 ただ私は、伯父には本当に世話になったので
 少なくとも車の運転ができる間は年4回の墓詣りは続けようと思っている。
 父はあまり、こんなことには拘らなかったので、
 私が墓参りに行かなくても『許してくれる』ような気がするのである。

 お盆の墓参りに行って『何となくホッとして』こんなブログを書いている。


 

新しことに物怖じしないのは・・・・

2020-07-29 06:27:55 | 私の生き方、考え方&意見

★ 今年の春以来『新しい生活のスタイル』が始まった。
 『新型コロナウイルス』の対策からである。

 できる限り人と会わない、話もしない。
 人の大勢いるところには出3密対策来るだけ行かない。
 こんな所謂『3密対策』の生活だが、
 全然問題なくスムースには入れたし、
 何の問題もなく対応できている。


 端的に言えば『新しいことへの対応』には全然問題がないというか
 『得意分野』だと言っていい。
 人生87年生きてきて、振り返ってみると、
 なぜか『新しいことばかり』をやってきて、全然『違和感』がないのである。



★ なぜかな? と思うが、
 これは少年時代、終戦直後の経験が
 『新しいこと』に物怖じさせなくなったのだと思う。


 戦前、というか終戦までは、結構豊かな『坊ちゃま生活』だったのだが、
 終戦で朝鮮京城(今のソウル)から明石に引き揚げてきて環境は一変した。
 食料難だったし、何よりも『トモダチ』が一人もいない生活だった。
 昭和20年12月8日(1945)に引き揚げてきて、
 翌年の4月1日に旧制神戸一中に入学するまで、
 ひとりの友達もいなくて、話し相手は伯父や大人の人ばかりだった。



   



 神戸一中に入学しても誰一人知ってる人がいない中に入っていったのだが、
 特に、それが気になったりせずに、すぐにトモダチも出来たし、
 野球部にも入ったりした。
 そういう意味では『神戸一中』は懐かしい。

 たまたま昭和21年から26年までの、私の中学・高校時代の
 野球部のことが纏められているのだが、
 当時の公立校は野球部も結構強かったのである。
 
 昭和25年、明石が優勝した時は、私は明石高校にいたのである。
 名前の出てる谷村さんや三輪さんなどよく存じ上げている。
 県一女と合併して男女共学になったのはちょうど3年になるときなのである。
 
   



 やっと3年間普通の学生になっていたのに、
 高校は学区制が出来て、また明石高校に変わらざるを得なかった。
 ここでも、またトモダチゼロからの再スタートだったが、
 それも結構スムースに、入っていけたのである。


 この時期の目まぐるしい『新しい経験』というか
 『環境の変化』が私の性格を変えたような気がする。
 
 どんな『新しいことでも大したことはない
 と思えるようになったのだと思う。
 
 

★ カワサキでの二輪事業も、会社にとって全くの新事業だったし、
 上司というか先輩たちも全く経験のないことばかりだったので、
 思い返すと『人生ずっと新しいことばかりをやってきた』ような気がする。

 定年になってから、初めてパソコンに出会ったし、 
 ネットの世界も、ブログもツイッターもFacebook 
 初めてのことばかりだったが、全然『物怖じ』することなく、
 それもすべて独学でやってきた。


 今年『コロナに出会って』 また新しい生活になった。
 時間が完全に自由になったので、朝は公園で運動し、
 午後は、パソコンか庭仕事。
 それも時間がいっぱいだから、調べ物をしたり、
 旧い日記を読み返したり、楽しんでいる。


 昨日は、アフリカのナイジェリアに初めて独りで行った時のことを懐かしんだ。
 Google マップがあるから、
 当時の写真はないのだが、今のラゴスが見えたりする。

  

 
 
 これは1977年8月に約1ヶ月、 
 バンコック・ロンドン・マンチェスター・ナイジェリアのラゴス
 初めてのヨーロッパ・アフリカの一人旅なのだが、
 なかなか、オモシロかったので、またの機会に纏めてみたい。

 大体海外出張など、それも初めて独りで行く人は少ないのだが、
 そんなのは一向気にならないのである。
 
 勿論、失敗もあるのだが、
 そんなのは『大したことではない』と思ってしまう。

 『コロナ』も大変だと言えば大変なのだが、
 まあ、何とかなるだろうし、
 それで『いいこと』もまたあるのだと、思っている。

 兎に角『反省などしない』性格なのである。