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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 18

2020-07-21 06:30:25 | 私の生き方、考え方&意見

★ この時代はいろんなオモシロいことも多いのだが、
 当時は私はカメラを持っていなくて、写真が殆どないのである。
 
 将来、こんな時代が来ることが解っていたら、間違いなくカメラは使ったのだが、
 当時は、『カメラなどで写さなくても、この目で確り見ればいい』などと、
 エラそうなことを思っていて、海外などもいろんなところに行っているのだが、
 そんな写真が全くないのは残念なのである。

 この時代のことを想い出すのは、日記を見ると記録は残っているので、
 その当時、どんな風に思っていたのか、日記を切り取って紹介してみたい。


★これは当時のヤマハオートセンターの杉浦斎さんが、89年1月に
 明石に来られた時のことを書いている。

 今は『レッドバロン』になっているのだが、杉浦さんお元気なのだろうか?
 歳は私の方が上である。
 業界では『うるさ型』で知られていて、杉浦さんと『さしで』長時間話された方など、
 そんなに多いとは思わないが、私は結構何度もお話をさして頂いている。


  


 この時も、朝から晩まで二人きりで話しているのである。
 それも殆ど『仕事の話』から脱線しないところが素晴らしい。
 一言で言うと『猛烈に熱心』なのである。

 議論はかみ合わないことの方が多くて、激しい応酬になることが多いのだが、
 厳しく文句を言われるのは常に、杉浦さんの方で、
 私が『ヤマハオートセンター』に文句を言うことは少ないのである。


  今は『レッドバロン』 このようなホームページに、
 このように紹介されている。
 


  

  




★一番最初に杉浦さんにお会いしたのは、
 ヤマハを辞めて『ヤマハオートセンター』を岡崎でスタートされた未だ1店の頃で、
 カワサキの特約店制度に特約店として加入されたころである。

 そんな頃からのお付き合いだったが、当時1店だけの頃も、
 横に安全運転コースを持ち、認証工場の資格も取っておられて、
 『カワサキの特約店』などと言っても認証工場の資格のないところも多い。
 と厳しく指摘されて、『確かに』その時分はそうだったのである。
 大阪に戻って堺の伊藤モータースに『認証を』と言ったのは、
 杉浦さんにそのように言われたからなのである。

 確かに、言われることは正論が多くて、それが厳しいので、
 普通の人は話をするのを『嫌がる』方が多いのだが、
 私は『杉浦さんとの話』は、やられることも多いのだが、結構楽しんでいた。

 杉浦さんも、流石に『言い過ぎた』と思われるのか、
 最初にお会いした時は、すぐウイスキーか何かお酒が家に届いたし、

 我が家には『杉浦さんからの贈り物』それも結構立派なものが並んでいる。


 これも杉浦さんからの贈り物である。

 
 
 

 こちらも確か、そうである。
 まだ、このほかにもいろいろある。

 結構、何度も話しているということなのである。







★『7万台、450億円の売上高』を目標にしてたこの時代も、
 カワサキモータースジャパンとヤマハオートセンターは
 その売上高を競っていたりして、
 杉浦さんは『カワサキに負けないように』と言われていて、

 当時も、ちょっとだけだが、ヤマハオートセンターの方が売上高で多かったように
 記憶している。

 なかなか、スケールの大きい『世界一のオートバイ屋』さんになったと思う。

 私自身は、杉浦さんだけでなく、
 業界で『うるさい』と言われてた方とは、何故か親密なのである。
 船場の岡田博さんとは、ホントに身近な存在だったし、
 船場さんのお弟子さんのような『伊藤彰』さんとも昵懇なのである。

 現役時代には、こんな方たちと
 いろいろと意見を戦わしたのが懐かしい。

 杉浦さんとは、この日記を見ると
 昼は菊水の鮨、夜は金龍閣と『明石では最高の接待をする』と記録があるが、
 多分間違いなく二人だけである。
 そして、その後岡崎まで帰られたはずである。

 ホントに杉浦さん、今もご健在で頑張っておられるのだろうか?
 大きくされているので、『後を引き受ける方』が大変だと思ったりする。
 私にとっては『いい想い出』なのである。

 
 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 17

2020-07-12 05:27:30 | 私の生き方、考え方&意見

★ このシリーズも17回になった。
 今回は『新宿ショールーム』 について
 『私の生き方、考え方&意見』というシリーズの中で纏めてみたい。


   


 
   こんなビルの1階がショールームで、屋上には、こんな看板が掛かっていた。
 上下を占拠していたので、
 『カワサキの自社ビル』だと思っていた人も多いようだった。


 時代はカワサキが国内市場で史上最高の時代、
 『7万台の販売目標を達成した』平成の初期のことなのである。
 ただ、このショールームを創るのには、それなりの葛藤もあったのである。

 確かに場所も立地もいいのだが、
 費用は『看板と共に1億円』も掛ったのである。




 当時の冊子にも髙橋鐵郎さんと共にこのように登場していて、
 確かに『グッドタイム』をお届けしていたのだが、


 



 この時代の『カワサキの象徴』が新宿ショールームであったと言ってもいい。
 何よりもその立地が素晴らしかったのである。

 
★25年も経つと場所もはっきりとは分からなかったのだが、
 当時ここを本拠にしてた植村武くんが
 Facebookでいろいろ教えてくれてやっと解ったのである。
 
 地図ではもう一つ解らないが、ちょっと道路がカーブしているので、

 
 

 

 真っ正面にビルも看板も見えて、
 JRの車窓からも真正面に見えるという『最高の立地』だったのである。

 

 


 
これは植村くんが送ってくれた『Googleマップ』から
いろいろやってみた写真なのだが、こんな感じに見えるのである。



★1989年からの10年間の私の最後の国内販売担当時代のことをこのように纏めている。

  
    



そんな中に、平成4年5月『ショールーム・新宿看板設置』という項目がある。
このシリーズ、100回ほど続くかな』と言ってるのはこんな項目を拾っていけばいいので、ホントに幾らでも材料はあるのである。


   



★この年の8月には東京営業所はこのビルの3階に事務所を移していて、
まさに『カワサキのビル』のような感じだったのである。

当時の二輪の販売店はまだまだ『綺麗』とは言えない時代だったから、
このショールームは立地と共にひと際抜きんでていて、
自工会の二輪部会の方からも
カワサキさんだけでなく二輪業界の地位向上になっている
との評価も頂いたりしたのである。

二輪車は名実ともに世界一』の商品なのだから、
世界一の商品』は、それに相応しい場所で販売されて然るべきと思っていた。


この冊子にも書かれているように、
常に『末端ユーザー』にその視点は向けられていて、
当時の『plaza』はいろんな形での全国展開だったのである。
いろんなスタイルがあったが、
そのいずれもが『業界のトップ』と言って間違いないそんなレベルでの展開だった。


 




★さらに、このショールームで特筆できるのは、
アフター・ファイブ』と称して、5時以降はユーザーに対する販売も行ったのである。
当時のARK からカワサキOBの五島・関くんらが手伝ってくれての展開だった。

二輪のユーザーの想いをマーケッテングする『マーケッテング』主体の発想で、『サービス機能もない店でもユーザーは買うのか?』と思ったのだが、
当時の二輪販売店には行きたくない』というユーザーも結構いたのである。
 
ユーザーにはいろんな人がいて、そんな多彩なユーザーに対応することこそが、
『二輪全体のパイを広げる』と思っていたのである。


★それは兎も角、このショールームはどんな形で実現したのか?
 当時、東京には神田に既にショールームは設けていたのだが、
 『新宿にいい場所がある』というので私は一人で現地を見たのである。

 平成4年1月15日、ちょうど国松君の結婚披露宴が午後からあった
 そんな日の朝だった。
 
 現場を見て『いい』とは思ったが、看板を入れて1億掛かるという。
 髙橋鐵郎さんにも現地を見て貰って、
 3月5日にGOサインがでて、
 平成4年6月7日に『プラザ新宿』はオープンしたのである。



★ 販売台数も7万台、450億円の売り上げもあったが、
 カワサキの国内グループの一番元気だった時代と言ってもいい。
 カワサキの東京の営業はこのビルの3階が本拠地だったのである。

 先述の植村くんも『懐かしい時代』だったと言っていた。
 Facebook にこんなコメントを頂いていて、
 今もFacebook でも繋がっている柏原久さんが
 『アークアシスト課』を仕切っていた時代なのである。


  



 活気のあった『いい時代』だったなと思っている。

 もう25年も前のことだが、『想い出』はいいものである。



 


7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 16

2020-07-05 05:44:57 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『レース』は私の人生で、大きな分野を占めるのかも知れない。

 特に 『レースでの人の繋がり』 はその密度では一番かも。
 カワサキの二輪関係だけではなくて、結構な広がりなのである。

 そんなレースの世界に対する『私の生き方、考え方&意見』の一端を。


   
    


私が直接、カワサキでレースに関係したのは、
初期のスタートの時代の昭和37年(1962)からの4年間と、
1990年代の『7万台への挑戦』の時代の2回なのだが、
それ以外の時期も、いろんな形でレースとは関わりがあったのである。




★世の中は競争の世界なのだが、一番厳しいのが『レースの世界』ではなかろうか?
レースで一番になるのは『ライダ一1人』 なのだが、
マシンがなくてはライダーは走れないし、そのマシンは一人では造れない。
そこに自ずと『チーム』が必然になるし、『チームワーク』がベースにあって、
密接な『人の繋がり』が出来るのである。

だから『優勝はチーム』に与えられるものなのだろう。


野球などのスポーツの世界にも色濃く携わった時期もあるのだが、
その『チームワーク』の質とその広がりの大きさなど、
レースの世界』のそれはちょっと特別なように思うのである。


レースには厳しいルールがあり、そのルールは厳守されねばならない。
時間に厳しいスポーツ』でホントに『1秒』を争うのである。

そんなレースの世界が好きだったし、
何よりも、レース界にいる人たちが、なかなかオモシロいのである。

先日、現役時代は『東大出の連中といろいろ関係があった』と書いたりしたが、
レースの世界は、そんな学歴などとは全く無縁なところがいい。
そんな学歴など関係ない人たちとも『親しくなれる』のは私の特技かも知れない。



   



カワサキのレースがスタートしたころから、いろんな人たちと出会ったが、
出会った頃はほんとに若い無名の青年だったのに、
世界の』とか『日本の』と言われる選手になって素晴らしい活躍をしたのである。


  

        


カワサキからも安良岡健・金谷秀夫・星野一義・山本隆・北川 圭一 など、
私とは密接に関係があったし、

他メーカーのライダーたち、
久保和夫・小島松久・吉村太一さんなどとも、親しくさせて頂いたのである。


         




ライダーと言われる人』と初めて喋った相手は、片山義美さんだった。
その時の印象は強烈で、厳しいことをいろいろ言われたが、納得できた。
そんなことから、私は『レースの世界』に直接関係するようになったのである。

片山義美さんと話をするきっかけになったのは、
山本隆・歳森康師の『BSとの仮契約事件』だったのだが、
その時点では私はレースには殆ど関係はなかったし、
二人と話をしたこともなかったのである。


    




★1990年代には、直接レースの世界にはいなかったのだが、
 Team Green の重本・野村コンビを応援して、それなりの成果を挙げたし、
 
 その当時のライダーたち
 多田・杉本・宗和・塚本・鶴田・北川くんなどは、今もFacebook で繋がっているし、
 
 従野孝司くんも、増田耕くんも、カワサキにいたこと、ご存じだろうか?
 

    

 
 

★カワサキの有名人『平井稔男さん』が、そのブログにこんなことを書いている。 

1984年にKHI(川崎重工業)がレース活動を凍結した時、私はコリャイカン、オートバイメーカがレースを忘れたらアカン、せめてJAPANだけでもと当時のカワ販古谷常務とKHI実験研究部武本部長(ル・マン24時間の総監督故武本 晃)に食い下がったのである。・・・・・・・・
前記のお二人に縋りメーカーの凍結との重なりもあり、TEAM GREENとTEAM38のコラボがロードレースに立ち上がったのである。
時まさに1985年ロードレースを加えNEW TEAM GREENが誕生したのである。


ちょっとだけ訂正させて頂いて、
もう少しこの時の経緯をお話しすることにする。

1984年は私はカワ販から川重企画部長に既に異動していた頃で、
カワ販常務ではなかったが、平井さんとお話ししたのは間違いない。
むしろ私の方からのお願いだったかも知れないのである。

この時期は『川重単車事業本部』の存続がムツカシイなどとも言われた危機的状況の時代で、カワ販から私は企画に呼び戻された翌年なのである。
レースはヨーロッパGPなどでKRが華々しい時代だったのだが、
とてもレースを続けられる状態ではなかったので、
GPレースの凍結』を提言したのは私で、髙橋鐵郎さんが決断されたのである。

ただ、すべてを消してしまうのは? ということで
それまでは『神戸スーパースポーツ』として活動していた平井稔男さんに
Team Green の創設』をお願いし、
それなりの運営費もお渡しして、
この時初めて日本にもTeam Green が生まれたのである。



★さて1990年代に話を戻すと、
 この時代の国内販売活動の状況や考え方を、 
 事業本部の部課長の人たちに話した講演会の記録の中から


     

    
    1990年の夏の鈴鹿8時間耐久なのだが、
 
 カワサキのイメージキャラクター風太』が登場していて、
 NHKの衛星放送が非常に多くの時間を『風太』を映し出してくれました。

 とあるがKAZEギャルと一緒に歩いているのが『風太』なのである。

  写真が小さくて解り難いと思うが、


       


  
 ひょっとしたら日本で初めて
 『大舞台に登場したイメージキャラクター』のはずである。
 
 そうでなければNHKが長時間一メーカーのキャラクターなど、
 追っかけまわしたりはしないのだが、
 確かにこの時のNHK衛星放送は『カワサキのイメージキャラクター 風太』を 
 執拗に追っかけまわしたのは、まさに珍しかったに違いない。

 くまモンが登場したのは2010年だから、それよりも20年も前の話なのである。


   


 カワサキのレース活動も広報活動も 
 『時代の先端』を走っていたと言えるだろう。



★1990年代のその時代、
 新しいソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』      南昌吾
 TEEM GREEN を中心のレース活動         重本修次郎
 それを纏める 広報活動               小林 茂

 このメンバーが担当していて、この3人と私が講演者だったのである。

 
 『7万台の販売目標を達成』するために、
 直接的な販売活動そのものよりも、その周辺分野での
 『新しいカワサキのイメージ創造』を目指した展開があったから
 現実に『7万台の販売』が達成できたのだと思っている。

 このあたりの発想は、私独特なのかも知れない。
 部下たちは結構自由に動いているし、特にKSSは派手な動きで金も使うが、
 独立会社としてその金は自らがアタマを使って産み出してきていたのである。
 
 『プロのレベル』で動かない限り、金など産み出せないのだが、
 『サラリーマンからプロへ』の脱皮は、部下を信じて『自由を与えない限り
 ムツカシイのではと思ったりもする。


 『レースの世界』で優勝するのは一番だが、
 たとえ優勝は出来なくとも、それなりの価値がある運営が出来ればいい。
 それは総合的な仕組みの構築から生まれるもので、
 この時代は、『遊んでいたら自然に売れる』そんな仕組みの創造を目指していた。

 そんな『総合的な仕組み』の中に
 末端を巻き込んだ『ネットの世界』を加えて、末端のユーザーと直接繋いだら、
 『二輪の販売量の倍増』などそんなにムツカシクはないと思うのだが・・・


 世の中全てが『ネット時代』なのに
 幾ら上手に大量に使っても『無料』のネットを使わぬ手はないと思うのだが、
 
 いつまで50年も前の販売網をベースの展開に執着しているのだろうか?
 四輪などでも世界の趨勢は『ネット販売』になりつつあるようだ。
  
 
   

  
 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 15

2020-06-27 05:48:52 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『ARK』という名前を覚えておられるだろうか?
 カワサキの正規販売店を

    『ARK=Authorized and Reliable shop of Kawasaki
 と呼んで新しい販売ネットワークを創ったのは、1989年10月のことである。

 88年10月に国内販売を担当して『7万台を目指した』のだが
 ちょうど1年掛かって、新構想で創り上げたのである。
 

     



 懐かしいその看板なのだが、
 この6月で店舗を閉める三木のGood Times Plaza
 登山道夫さんがお持ちなので写真を撮ってきたのである。

 もっと古い時代の『GREEN SHOP』の看板もあった。

  



★ カワサキの販売網に関しては、昭和48年(1973)の特約店制度に始まって、
 色濃く私自身も関係してきたのだが、
 常に日本の二輪業界の一歩先を歩いていて、
 ずっと『日本初』が続いていたのは、
 他メーカーは50ccのモペットが主体の時代が長く続いて、
 中大型車が主力なのはカワサキ1社だけだったからである。

 昭和30年代から、ホンダがトップを走ったのだが、
 二輪業界の取引は全国に何万店もある『自転車屋さん』を主体にした
 『委託制度』の取引形態がずっと続いていて、
 カワサキも『中大型車主体』の『二輪車専門店制度』にはしたのだが、

 この『委託制度』だけは80年代までずっと続いていたのである。



★ そんな二輪業界の『取引形態改革』にチャレンジしたのが、
  1989年度からで、それは『ARK制度』と共にスタートしたのである。

  当時の記録を見ると以下のようになっていて、
  新しく担当した国内販売の1年目に実施に移す決心をしているのである。



 



★ 20年以上も続いていた『二輪業界独特の委託制度からの脱却』は、
 世の中の注目も浴びて、
 日経ロジステックスが、
 3ページにも亘った特集記事で紹介してくれているので、 
 3ページ全部をご紹介することにしたい。

   このシリーズは 『私の生き方、考え方&意見』 ということで纏めているのだが、
 この日経の記事の中には、そんな『私のやり方』が集約されている。

 じっくり読んでみてください。
 今も現役にいる若手の名前なども登場するのである。


     


 
 


★この記事の中にもいろんな若手が登場するのだが、
 当時は、入社早々の若手が結構頑張っていたのである。

 ZEPHYRというヒット商品名を付けたのも新人諸君だったし、
 この 『ARK』 というネーミングも若手の諸君のが名付け親なのである。

 そんな解ったようなムツカシイ名前が『通るか?』と正直私も思ったのだが、
 それは『杞憂』に終わったのである。
 『ARK』 という名前を二輪業界で通用させてくれたのは、
 カワサキのメンバーではなくて、『他社のセールス』の話題になり、
 二輪業界の中にスムースに浸透していったのである。


★この時代いろんなことを次々にやってはいるのだが、
 これは、当時の特約店も面食らったと思ったが、
 1年目に80%近い店が契約してくれて一挙に流れとなったのである。

 常に『すべてを実施しない』納得したところで進めて行くのは『私流のやり方』で、
 『全国一律実施』などはしたことがないのだが、
 周りの状況は『常に読んでいる』ので、そんなに長くは掛からないのである。


 この記事の出る92年8月には、先進3社も、追随してくれて、
 『受注制度』は委託に代わる新しい制度として定着したのである。

 


コロナウイルス対策  雑感

2020-06-25 05:55:32 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日は東京で55人もの感染者が発生した。

 
 コロナ問題の数値の内容等は、いろいろあってめちゃ詳しいのだが、
 『見る方』から見たら『解り難い数値が多すぎる』ように思えてならない。

 

    『コロナ対策』など考える立場にないことは100も承知しているのだが、
 この『コロナ対策』は少なくともあと半年、1年は続きそうだから、
 もう少し『見る人たちに解り易い集計の仕方』にすればいいのにと思ってしまう。

 


★私が毎日見ているのは、NHKが纏めているこのサイトだが、


  こんな表示になっている。
  基本は勿論、これでもいいのだが、


 



 
 18746人というような累計数値は正しいのだが、
 半年後はこの数値が大きくなるだけで、
 見ても、その意味がよく解らなくなってしまうはずである。

 累計数値など、一般大衆にはあまり意味がない。
 
 
 現在の全国の『感染者数』は一時は1万人を超えていたが
 今は898人で、もうそんなに少なくなってしまったのである。
 この人たちは病院にいるか、少なくともその所在は把握されている。

 感染確認累計死亡累計退院累計 = 現在の感染者数

 18746-978-16870 = 898人 
 
 今の感染者数は全国で約900人のレベルなのである。
 そしてその殆どの人は3週間後には社会に復帰するのである。
 ここまでは、自分でノートに記録して その推移を毎日眺めている。




 今後今のような毎日50人ちょっとの新規感染者が出るとして、
 入院期間は約3週間ぐらいだとすると、
 大体同じ人数前後の退院者数が出るので、
 大体700~900人ぐらいで推移するのではなかろうか?

 全国でこれくらいの数値で推移すると、そんなに問題でもないように思う。
 これくらいのレベルに落ち着いてきたので、あまり一喜一憂することなく、

 上記の感染者などの数値を『3週間の移動値』で表わすようにすればいいと思う。

 
 コロナ対策だけでなく、経済対策も大事なので、
 今後『上手にコロナと付き合っていく』 心構えが必要で、
 数値もそれに対応した『趨勢が解る』表示がいいと思う。
 


★ 3週間の移動値で表示すると、
 全国で20県ほどは『感染者数=0人』と出るのである。
 
 これなども全県調べてみたのだが、累計では岩手だけが0人なのだが、
 3週間にすると0人の県が20県もあるのはびっくりだった。
 

 私の住んでいる三木市がいまどうなっているのかが関心事なのだが、
 兵庫県はこんな詳細なデーターを出していて、
 いま累計で700人ちょっとだが、700人のデーターが全て解るのである。



 だが、三木市はこのような『加東健康福祉事務所管内』に入っているので、
 三木市で感染者がいるのかいないのかよく解らないのである。

  

 『加東健康福祉事務所管内』では3月に1人、4月に4人出ているが、
 それ以来は0人なので、『3週間移動値』にすると『0人』になるので。
 いま三木には感染者はいないはずである。


★東京・大阪などの大都会でも『3週間移動値』にして、
 各県ごとにその『安全域・危険域』を設定して表示したら、
 見る方は解りやすいのにと思ったりしている。


  



 世界が『ミステリーと評価』している日本のコロナ対応なのだが、
 その表示方式でも独自のモノを創ればいい。

 これからずっと続いていくであろう『コロナとのお付き合い』
 どのようなスタンスで、一般国民に示していくべきか?

 もうそろそろ、国やら都道府県の対応だけではなくて、
 末端の人たちに目を向けた、
 『末端の人たちが解りやすい分析数値』を 出せばいいのにと思っている。

 コロナの死亡率は5%で、95%の人たちは約3週間で回復するのだから、
 過去の旧い累計などよりは
 実情に合わせた『3週間移動値』は、解り易くていいのにと思ったりしている。


★ 私の現役時代の『データー』というか判断のベースになっていたのは、
 すべて『年間移動値』だったのである。
 
 お付き合いで『事業計画』は作ったが、
 実際の経営判断には、あんまり役に立たないのである。
 
 季節変動なども、包含される『年間移動値の趨勢』を見る方が
 より実戦的なのである。

 そんな現役時代を思い出しての『コロナ対策3週間移動値』なのである。

 もうスタートからは、十分なデーターがあるので、すぐ実行できる。
 別に『1ヶ月移動値』でもいいのだが、
 『3週間』の方がより実態に合うのかな思ったりしている。

 
 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 14

2020-06-21 06:08:17 | 私の生き方、考え方&意見

★ この『7万台への挑戦』の時代だけではないのだが、
 総じて40年間の会社生活は『オモシロかった』と言っていい。

 単車事業という今まで会社の歴史の中で
    『やったことがない量産事業』で、
 それも『最終消費者に販売』する
    『世界展開の事業』など初体験だったのである。

 
    従って、上司というか先輩たちも経験がなくて、
 その販売の仕事に従事したのは、『私が初めて』と言ってもいいのである。
 『見よう見真似』での展開だったが、『オモシロかった』ことは間違いない。

 20代後半だったのだが、それ以来退職するまで、
 『上の人』は勿論おられたのだが、
 『上の人』から具体的な指示を受けて『仕事をした』ことは全くなくて、
 すべて『自分の思う通り』のことが出来たのである。
 
    30代からずっと『リーダー』という形での仕事がやれたと言っていい。



★私の最後の仕事となった90年代の国内市場担当の時代も、
 カワサキモータースグループ全体のリーダーで、
 こんな組織展開だったのである。



  


 全体で400人の規模のグループで、
 総売上高が400億円だったから、
 『一人当たり売上高=1億円』という
 結構な優良企業だったのである。


 このグループを運営するに当たって、
 従業員にとっても、『会社はオモシロく楽しくないといけない』と常に思っていた。
 
 1日の内の3分の1の時間を会社で過ごしているのだから、
 『そこが楽しくなかったら、その人の人生は楽しくない』筈なのである。
 これはもっと若い頃から、ずっと『そう思っていて
 一緒に仕事をした人たちと『楽しい運営』をやってきた積りなのである。
 そういう意味では、部下というよりは『仲間』と思っていたのである。

 
 少なくとも、私と直接接する方たちに『具体的な指示』など与えたことは殆どない。
 ホントに自由に動けたはずなのである。

 そのためには『グループ運営の基本コンセプト』だけは明確に提示し、
 それを『全体の仕組みでの運営』とし、
 その『基本の仕組み創り』だけは『私自身』が担当して、
 創り上げたものなのである。

 それが上の図なのである。

     

  ★   幾つものグループがあって、そこにはそれぞれ『リーダー』がいる。
 その人たちに『100%の権限』を与えていたと言えるし、
 『100%の権限を与え得るような人』を選ぶのは『私の仕事』なのである。
 そこから先は、『選ばれたリーダーたちの仕事』なのである。

 そして『権限とは、その人に与えられた誤りの量である』 
 と私は常に思っていて、
 仮に、少々違っていたと思っても、文句など言ったりはしなかったのである。
 心配などしなくても『任したら人は誰でもちゃんとやる』ものなのである。

 私自身が『上から指示』など貰わなくても、ちゃんとやれたように、
 誰でも『自由に任したら』それなりに『ちゃんとやってくれる』のである。 


    
     

★ 私自身、若い頃からお付き合いのあった人たち、
 部下でも、販売店でも、みんな信じてのお付き合いだったのである。
 
 そういう意味では、バカみたいな『性善説者』なのだが、
 『信じる者はもうかる』 などと言ったりしたのだが、
 『儲かる』 という字は 『信者』と書かれているのである。
 少なくとも、信じないよりは『信じる』ほうが上手くいくことは間違いない。


 そんなこと言って『騙されないか』と思われる方がおられると思うのだが、
 87年生きてきて、幸いなことに『騙された』ことは今のところなくて済んでいる。

 そんな発想と態度だから、定年後もネットの世界で沢山の方とお会いしたが、
 みんな『いい方』ばかりなのである。
 人間関係は『双方向』だから、まずこちらが相手を信じることが第1なのである。
 

 今シリーズは『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで書いている。
 
 今回は、
 『私の生き方、考え方』のベースのようなところのお話しなのである。
 




7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 13

2020-06-15 07:37:22 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日ジェットスキーのスタートの時期のことをアップしたら、
 吉田純一さんから、Facebookにこのようなコメントを頂いたのである。


古谷さんおはようございます。
懐かしいですね、藤田さんと日本橋に大南さんに会いに行った事、神戸の東灘区の店を借りて頂きジェットスキー🎿のショールーム、専売店を作って頂きオープニングに家主で招待して頂きました。
古谷さん藤田さんはじめ川重からも沢山の人が出席して賑やかなオープニングだったのを思い出しました。』



 当時、吉田さんには本当にお世話になったのである。
 国内のジェットスキーの販売網を立ち上げるのは、それなりにいろいろとあって、
 大変だったのだが、
 どのように進めていったのか?
 そのあたりのことについて、纏めてみたいと思う。


★この時期のことを時系列に並べてみると
 
84年度には明石の単車企画室内で武本一郎部長が、『ジェットスキーの単車事業本部の正規製品化構想』を打ち上げ、私もフォローしたので、単車技術部内では単車事業部としてのジェットスキー開発がスタートし、国内販売関係でもレース関連のJJSBA設立のため11月に苧野KAT社長と私が渡米し、IJSBAの了承を得るのだが、その仲介をしてくれたのが田崎雅元さんなのである。
 
85年度8月にはオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんが企画室内で独りジェットスキー・プロジェクトをスタ―トさせるのだが、その時期が単車事業本部の中に正規にジェットスキープロジェクトが立ち上がった時期だと言っていい。

86年度1月には、ヤマハの小宮常務が訪問されて、ヤマハもこの分野に進出するというご挨拶があった。カワサキとしてはプロジェクトチームが立ち上ったばかりだったのだが、ヤマハさんもアメリカの市場が一挙に24000台になったことが、この業界への進出を決心されたのだろう。

もしこの時期カワサキが正規事業にすると言うことを決めていなかったら、
川崎重工業として、どのような対応をとったのだろう?
ヤマハさんも、まさかカワサキの内部でこんな事情があったことなど多分ご存じなかったはずなのである。

こんな状況の中で、国内市場では、カワ販の孫会社のKATが西武自動車が輸入するJSを年間200台ほど販売していたのだが、川崎重工業は直接には何の関係もなかったのである。


★私自身は川崎重工業の単車事業部企画室長時代だったのだが、国内市場については直接担当をすることにしたのである。
企画室長という激務の中での余分の仕事みたいなものだったが、国内市場という結構ややこしい流通網が解っていないと、この対策は出来ないと思ったのである。

台数は少なかったが、事業展開の主流は西武自動車で、ボート屋さんをベースにした販売網が既にあって、その辺の調整は現実には、なかなかムツカシかったのである。

少なくともカワサキが直接販売するためには、『カワサキ独自の販売網』を創るべきで、レースが中心というJSのその商品性から、独自の専門店がMUSTとは思ったが、それをどのような形で具体的にスタートさせるかが課題だったのである。

現実には国内での販売規模が200台という市場で、
そんな専門店など最初からできるのか? と思うほうが普通なのである。


これは87年1月20日の日記である。
西武自動車など関係者を集めて、初めて国内販売網形成のスタートとしたのである。


 


人をどのように使って作り上げるか面白い仕事である。国内JSは第一歩を踏み出した。』 と書いている。

まさにいろんな方たちの協力で進行したのである。

それともう一つ、
半年で形が出来ないものは10年掛かってもその実現はムツカシイ』のである。
世の中の進歩は早く3年も経つと『世の中が変わっている』のが常である。
そんな時代の展開に対応できる『半年単位のやり方』が私自身の発想なのである。

 
2月にはボートショーもあり、これはそれなりの規模でやろうと考えていて、現実にのボートショーを見て、西武の方たちも『カワサキのやる気』を感じられたようである。
そしてJSの専門販売店の『プラザ』をまず東西に創ることにして、
東京には当時の二輪販売日本一を誇っていた『北多摩モータースの根本さん』に、『プラザ都』を設立して貰ったのである。

そして関西には、神戸の東灘区に吉田純一さんのお店を借りて、
プラザ神戸』を立ち上げたのが3月3日のことなのある。

これは、カワサキに色濃く関係のあった佐々木八太夫さんにお願いしたのである。
根本さんにしても、佐々木さんにしても、そんなちょっと『無理かも』と言えるお願いが出来るような、『平素のお付き合い』がそのベースで、
吉田純一さんもカワサキにおられた時以来の親しいお付き合いだったのである。

ショールームのような規模の大きい『JSプラザ神戸』が出来て業界の話題にもなり、
これがその後の進展を容易にしたと言っていい。

6月には福井昇くんが川崎重工業を退社して『プラザ明石』を立ち上げたのである。
これが実質『カワサキJSプラザ1号店』だと思う。
このお店については藤田孝昭さんがホントによく面倒を見たのである。
そして大阪の大南勝也さんも続いたし、その後は流れになって、スムースに全国販売網が出来上がっていくのである。


★この年の5月には単車と発動機の合併があり、私も鶴谷さんも企画から営業に異動して、ジェットスキーを正規に扱う組織が営業総括本部に出来て鶴谷将俊さんが担当し、
同時に国内に関してはカワ販の孫会社KAT の社長は苧野豊秋さんが従来通り兼務され、カワ販の内部から藤田孝昭・宇田川勇さんなど販売網や技術関連の実力者が担当することになったのである。
ヨーロッパについても6月にJS販売会社構想をまとめ9月には藤元社長でスタートを切ることになった。
 
翌88年9月には前回ご紹介した『ソウルオリンピック』への協力参加などもあり、
10月には私自身が国内市場担当となり、KATというカワ販の孫会社をKJS(カワサキジェットスキー販売)という子会社に昇格させ、私自身が社長を兼務し、自ら旗を振る体制としたのである。

鶴谷将俊さんはこののちもこくないJS市場には深く関わってくれて、JJSBAの育成強化などに当たってくれたのである。


★ この時期、『7万台への挑戦』がスタートした88年10月には、年間200台の販売がその10倍の3000台の規模となり、さらに1万台を目標にするところまで、急激に成長していくのだが、
このジェットスキーの国内販売網は、営業所などは一切作らずに本社だけで少人数で対応したので、『200台でもペイしていた販社』が、3000台になりさらに8000台になっていった時には、『凄まじい儲かり方』だったのである。
これは『ジェットスキー・プラザ』も同様で、この数年で国内の『水上バイク市場』は確固たるものになったのである。


★ そんなきっかけを作ってくれた吉田純一さんは、カワ販の昭和42年度定期入社で、この42年度入社の人たちが、その後のカワサキの国内販売網を創ったと言ってもいい。
この年次の人たちは、柏原久・関初太郎くんなど今でもFacebook で繋がっているし、いろいろと具体的なお付き合いがあるのだが、その核となってるのが吉田純一さんである。

 二輪業界で広く活動されていて、
 
 

 
 その活動が評価されて、こんな授賞も受けられたのである。


    
 
 
何となくいろんなご縁で繋がって、昔の想い出話も一緒に出来る間柄なのである。

カワサキの国内ジェットスキーについては、私自身密接に関係したのだが、
その嚆矢(こうし)となったのが、『プラザ神戸』であったことは間違いないのである。






7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 12

2020-06-14 06:21:42 | 私の生き方、考え方&意見

★  この7万台の目標の中には、二輪車だけではなくて、
 当時、日本では『新しい商品』であった『ジェットスキー』が1万台入っていた。

 『ジェットスキー』というのはカワサキの商品名なのだが、
 日本にアメリカから輸入されて、すぐに人身事故などあった時には、
 国会では『エンジン付き海洋浮遊物』などと言う不思議な名前で呼ばれたりした。

 そんな『ジェットスキー』に関連した当時の想い出話を幾つか。


 『ヤマハ・メイト』が続いて上市されたが、これも商品名だから、
 2社で『パーソナル・ウオーター・クラフト、PWC』と名付けて、
 そのPWCの安全協会を設立して『PWSA』としたのだが、
 一般の方は、どれくらいお解りになっているのだろう。
 ヤマハさんとは、競合関係ではなくて、
 新しい業界を発展させようと、ホントに仲良く活動をしたのである。
 PWSA会長を務めたりしたのだが、
 ヤマハの方から『社内会議のようだ』という評価を頂いたりした。
 それが1990年の頃のことなのである。


★ この『ジェットスキー』は、非常に不思議な生まれ方で、
 単車ではなく、エンジンを生産している『発動機事業部』が、
 アメリカ人の持っていた『特許』を購入して、

 発動機事業部がエンジンをアメリカのKMM(リンカーン工場)に送って生産し、
 アメリカの販売会社KMCだけで販売をしていたので、
 川崎重工業の製品ではなかったし、
 明石の単車事業部は全く関係がなくて、
 単車事業部には1人の担当者もいなかったのである。

 
 私の企画室長時代に、企画課長だった武本一郎さんが、
 『川重の正規の製品にすべし』と言い出して、
 新しいことは何でも好きな私が、『その話に乗り』動き出しことになるのだが、
 
 当時国内では、西武自動車が輸入してKATというカワ販の孫会社
 細々と年200台ほど販売はしていたのである。
 
 西武自動車関連の方々で、レースなどもやられていて、
 当時KATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんに頼まれて、
 アメリカのKMCにレース協会JJSBAを立ち上げる承諾を取りに、
 アメリカ出張もしたのだが、KMC社長が田崎さんでその時の写真である。



  



 ★ そんなちょっと変わった展開からのスタートだったが、
 アメリカ以外のヨーロッパ、並びに日本市場などへの販売を試み、

 私・武本一郎・鶴谷将俊・福井昇さんなどでプロジェクトを立ち上げ、
 その時の国内市場を担当してくれたのが藤田孝昭さんなのである。
 
 あの時あのメンバーが動かなかったら、
 『ジェットスキー』のその後の展開は果たしてどうなっていたのだろう?

 ちょうどその頃、オーストラリアの社長から戻ってきたのが鶴谷将俊さんで、
 無理やり『ジェットスキー担当』を押し付けて、
 企画室の中でスタートを切ったのである      

 発動機事業部にジェットスキーに乗れて、
 レースもやってるという福井昇さんがいることが解って、
 発動機に貰いに行って、メンバーに加わって貰ったのである。

    特筆すべきはこんなカワサキのメンバーだけではなくて、
 ジェットスキーに関係していた外の人たちがホントに援けてくれたのである。

 今でもこの業界で活動されている大南勝也さん、
 マウンテンライダースの50周年記念の時にお会いした写真である。

  

 当時の日本の女子トップライダー、松口久美子さん。
 今でもFacebook で繋がっている。

 そして世界の頂点登りつめた金森稔さんは、今はアメリカKMCにいる。
 何年か前にアメリカでお会いした。
 
  

 
★このプロジェクトのメンバーは、一言でいえば『ちょっと変わっていて』 
 よく言えば『個性派』ばかりなのである。
 
 鶴谷将俊さんは、私も色濃く関係した開発途上国プロジェクトでは、
 岩崎茂樹さんと二人で、イランを担当していたのだが、
 その後係長の時代にオーストラリア社長担当などした実力派なのである。

 国内市場については、
 ジェットスキー販売を担当されていたのが元上司の苧野豊秋さんだったので、
 私自身が担当し、藤田孝昭さんたった一人を指名して、
 ジェットスキー独自の販売網設立を企画したのである。

 福井昇くんは、初期のヨーロッパ市場開拓などにも携わっていたのだが、
 その後国内でジェットスキー販売網を独自に展開する時には
 川重を辞めて国内のジェットスキー販売1号店となったのである。


 その後このプロジェクトは、企画から営業に移り、
 鶴谷将俊さんが担当をしての世界展開となるのだが、
 1988年にはソウルオリンピックに、オリンピック委員会からの正式な依頼で、
 開会式当日に漢江で『デモンストレーション』を行ったりしたのだが、

 このライダーはアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本から
 Topライダーを選んで対応し。
 スタート以来のジェットスキー関係メンバーの
 苧野JJSBA会長・鶴谷・藤田・福井さんや、上述の3人の方は勿論、
 当時の日本のTOPライダーたちも集まって
 私はその団長を務めたのである。


    



★ この『ソウルオリンピック』から帰国したのが、
 1988年10月1日だったので、
 国内市場担当という新職務は、その翌日の10月2日からスタートしたのである。

 
    この表は、『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』の講演会で
 私が喋った内容ですが、
 当時、かっては200台であったジェットスキーが3000台となり、
 さらにそれを1万台目標として対応したのだが、
 それがもう少しで実現する、そんな時期だったのである。

 この時期、国内のジェットスキー販売会社の社長は私が兼務していたし、
 常務として旗を振ってくれたのが藤田孝昭さんである。
 さらに言うと、その初期の実務を仕切っていたのが渡部達也さんだったのである。
 
     



 
 この時期に中心になって旗を振ってくれたのが鶴谷将俊さんで、
 企画から営業に移りジェットスキー販売部門を担当し、
 同時に、国内市場に関しても色濃く関与してくれたのである。

 ジェットスキーという商品は、単なる遊びだけではなくて、
 『レース関連』も非常に大きな分野を占めるのだが、
 当時はその中心であったJJSBAの会長は初代苧野豊秋会長以下
 2代目以降も、すべてカワサキ関係者が会長を務めたし、
 そのレース規模も『琵琶湖』でアメリカからライダーを招いて、
 『ワールドカップ』開催を図るなど、大規模に展開をしたのだが、

 その中心になってくれたのが鶴谷将俊さんだったし、
 福井昇くんなども、大いに手伝ってくれたのである。


 今回、特に言いたかったのは、
 『ものごとを実現する』一番のキーは、『何と言っても人』である。
 それも単にメーカーや販社というこちらサイドだけではなくて、
 業界・ライダー・ユーザーなどを巻き込んだ『大きなうねり』みたいなものが、
 一番大事なのかなと思っているのである。

 この当時のメンバーたちからも、このようなブログをアップすると、
 Facebook で『いいね』を頂けたりするのが、最高に嬉しいのである。


 
 


7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 11

2020-06-09 06:19:55 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦』11回目を迎えたが、
今回も『私の生き方、考え方&意見』を中心に纏めてみたい。

この時代のカワサキがやってたことは、『二輪業界の常識』からは、ちょっと逸脱した
変わったこと』ばかりをやっていたと言っていい。

国内の二輪業界が伸長している時なら兎も角、
むしろ『縮小の時代』に、
7万台を売れ』などと言う指示自体が『普通ではない』のだから、
それを実現するためには、
全く新しい発想』で臨まない限り、『実現』などしないのである。



       




★そんな『新しい発想』を従業員をはじめ販売店の人たちに理解してもらうのは、
7万台の販売達成と同様に、そんなに簡単ではないのである。

従業員は兎も角、販売店の理解を得るために、
全国販売店の新年会では、
当時の総合営業活動をこのように図示して1時間以上に亘って説明し、
その考え方の徹底を図ったのである。


 その目標は『新しいカワサキイメージの創造』であり、
 その対象とするところはカワサキマニアや販売店だけでなく、
 むしろそれ以外の広く社会の人たちまでを対象としたのである。

 『企業イメージ』とは、仲間内の発想ではなく『他人がどう思うか』なのである。
 
 商品開発・販売網・ユーザークラブKAZE対策などにより、
   『総合的な新しい仕組み』、
 遊んでいても自然に売れる『新しい営業活動』を目指したのである。
 



 


★ ちょっと『堅苦しい説明』になっているが、
 『営業活動』なのにそのTOPに『商品開発』が来ているのは、
 当時の販社と技術部とは密接に繋がっていて、
 営業第1線と開発部門との意見交換会を2ヶ月に一度定期的に開催していて、
 『フレッシュマンレポート』と称し、それを担当していたのは若手諸君だったのである。

 このことはすっかり忘れていたのだが、
 前回のこのシリーズに、当時の植村武さんからこんなコメントを頂いたのである。

ゼファーといえば古谷さんが立ち上げたフレッシュマンレポートを思い出します。
ふた月に1回位のペースで川重の開発メンバーとカワ販のメンバーが新商品の意見交換をするシステムで、第1回目の時に、ZZRシリーズ、KDX、ゼファーのモックがあってその前で細かく話し合ったのを思い出します。』

そう言えば ZEPHYRのネーミングの提案者は確か営業の若手だったし、
当時のグループメンバーたちは全員がよく頑張っていたのだと思うのである。


 
★話しはちょっと旧くなるが、ずっとずっと前の入社3年目の頃、
 『いろいろ言う私の理屈』を聞いて、
 『図示して見ろ』と言った人がいる。

 ちゃんと解っていたら『図示できる』はず。
 『図示できない』のは、『まだ、ちゃんと自分のモノになっていないからだ
 と厳しく私に言われたのは、小野田滋郎さんである。

 人生で出会った人の中で『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
 小野田滋郎さんが最初だった。

    

     
   

 陸軍士官学校出で、あの小野田寛郎さんの弟さんである。
 自衛隊におられたのだが、
 その後カワサキ自動車販売の総務課長・広告宣伝課長をされていて、
 その広告宣伝業務を私が引き継ぐことになったのである。

 陸士仕込みの本格的な『戦略・戦術・戦闘論』などいろいろ教えて貰ったのだが、
 『めちゃめちゃ上手に図示』されるのである。

 そんなこともあって、私はいろんな私のやり方・方針などは、
 小野田さんの教え通り、『図示する』ことにしていたのである。



★1990年代に『7万台を目指した』その発想や仕組みは、
 それまでの『二輪業界のやり方』とは全く異なった『新しい発想』だったので。
 
 それを一緒にやる仲間たちに、説明し納得してもらうには、
 その仕組みを『図示説明する』必要があったので、
 当時はいろいろなものが残っているのである。


 これは国内市場を担当して4年目に漸く創り上げた
 『カワサキグループの組織活動図』である。


 



● 一般に言う『販売会社』なのだが、販売はこの会社がやるのではなく、ARK と称した販売店が『やってくれる』ので、ARK が大きく描かれている。
(ARKに関してはまたの機会に・・)
  バイクを本当に売りたいのは、販社のセールスよりは、むしろ販売店なのである。
売れない』のは『売らない』のではなくて、何か原因があるはずだから、
それを除去するか、販売店では『出来ないレベル』のことを販社がやるべきだと思ったのである。

● 販売店はお客ではなく『我々の仲間』だという位置づけとした。
 他メーカーさんは、販売店を様付けなどして『お客様』の位置づけだったが、
これは日本の業界など取引先満足優先Customer Satisfaction の発想で、Consumer Satisfaction(消費者)となっていないのである。

カワサキは販売店に対しては、仲間として結構厳しく接したのだが、
厳しく接しないとなかなかホントは『育たない』と思ったからである。


★ただ、こんなややこしい堅苦しい説明が、何とか販売店にも理解して貰えたのは、
当時のカワサキの販売網は独特で、まさにお客様ではなく『かっての仲間たち』がその中心となっていたからだと思う。

その販売網を最初に一緒になって創ったのは私以下当時の藤田孝昭・南昌吾・岩崎茂樹・谷沢高明くんなどホントに販売店の仲間だった人たちだったから、それなりに『信用して貰えた』のだと思う。

カワサキの特約店制度の中心になったのが、のれん分け制度で独立した元カワサキの仲間だったし、10年以上も経ってホントに業界でも一流店に成長していたのである。


★そいう言う意味では、『カワサキの販売網』は独特のもので、当時それぞれの会社や重要セクションで旗を振ってくれた人たちとの『信頼関係』がもしなかったら、こんなシステムは完成していないと思っている。

 そのベースにあるのは、
 川崎航空機工業の社是・執務態度なのである。
 
 それはそんなに特別なモノではないのだが

    社是        正直・誠実・勤勉
       執務態度      信頼・互譲・協力

 私は現役当時から、ずっと守り抜いてきて、
 今も、同じように動いている。

 そういう意味では『Good Times Concept 』も
 川崎航空機工業の『社是・執務態度』も、ずっと私を支えてくれているのである。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






   


 






自分の仮説の正当性は?

2020-06-08 05:59:19 | 私の生き方、考え方&意見
 
★現役時代からずっと『二輪事業の流通業』の分野に長く携わってきた。

流通業とは、自らの仮説の正当性を問うビジネスである

と言われていて、いろんな事柄に対して、
ずっと『自分の仮説』を持って対応しながら生きてきた。

特に『新しいことへの対応』は、『仮説』がない限りその『対策』は打てないのである。


今回の『新型コロナウイルス』も間違いなく、世の中の『新しい出来事』なのである。
その専門家の方々や評論家や、国や地方の方たちなど、
それぞれいろんなことを想定しての対策がなされてきた。

そんな中で一番『自らの仮説』を持っていたのは
大阪』であったような気がする。



★私自身は別に対策などする必要はないのだが、
果たしてどうなるのか?』は非常に関心があって、
2月以降このブログでも何回か取り上げてきたりした。

日本での対策のスタートは、武漢からの帰国者が始まった2月初めからだと思うが、
兵庫県で感染者が出たのは3月初めからで、
4月からは「緊急事態宣言」が出されたりした。









いろんな統計やグラフなどが毎日発信されたのだが、
一番顕著に言われたのは、
感染累計者数』で現在は17876人になっている。
 
いろんな数値がどうも解りにくいので、
私独自で4月からはこんな数値を毎日ノートに記録してきた。
それはいま現在解っている『実質コロナ感染者数』で、
その増減を把握するのが、一番解りやすいと思ったからである。

 
 『感染者累計ー死者数累計ー退院者数累計=実質コロナ感染者数』 となる。

 
 昨日現在の日本の解っている『実質感染者数』は1321人で、
 6月10日に1000人になるだろうというのが『私の仮説』なのである。

 そしてその人たちは入院しているか、把握されている。
 因みに、日本で一番実感染者が多かったのは10545人で、
 それは4月30日でそれ以降、減少が続いているのである。



  

 


各県毎にこのような『実質感染者数』を発表すれば、
もっと解りやすいし、対策も立てやすいと思うのだが、
なぜそういう統計を出さないのだろうと思っている。
 
兵庫県は5月18日以降、新感染者は出ていないので、
2週間で退院するとしたら、
今既に『実質感染者=0』になっているのではないかと思っている。


私自身の『コロナ対策』は、
このこの3ヶ月『人には会わない、話をしない』で通してきたのだが、
金曜日にゴルフにも行ったのは、
もう兵庫県には感染者はいないはず』という自らの仮説を信じたからである。

 

★来週あたりからは全国で『実感染者数』は1000人を割り、
多分500人ぐらいにまで下がっていくのだろうが、
さてそれから先はどうなるのだろう。


今までのところ日本の対策は大成功である。
国や地方が採った政策もよかったのだろうし、
何よりもちゃんと『自らの行動を律した国民の努力』なのだと思う。

 今頃になって世界も日本を見直しているようだが、
麻生太郎さん』が言うように『それは民力度』なのかも知れない。




 
 



★ただ、これから先の仮説の立て方がムツカシイ。
日本だけの対策なら、
新型コロナ対策』はほぼ『抑え切った』と言っていいのだろう。

第2波』が来たとしても、その対策はより明確に出せるだろう。

ただこれは『世界と繋がっている』ので、
世界がどうなるか?
『ワクチンの開発』がいつになるのだろうか?
ブラジルや開発途上国が大丈夫なのかな?
と思っている。


★なんでも『仮説を立てる習性』が身に付いてしまっている
 『戦前派の「日本大好きな」おじんの発想』なのである。
 どんな事態に直面しても 
 『前向きに、ネアカに行動すべき』だと思っている。

 自らが立てた『実感染者論』は結構解り易かった
 ということに自ら納得なのである。

 


7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 10

2020-06-05 05:18:11 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦』の時代、
それは1988年10月からのスタートなのだが、
その実質的な1年目の1989年は、どんな年だったのか?

 『私の生き方、考え方&意見』として纏める10回目は、
 この時代の始まりである1989年の活動をご紹介してみよう。

これまで何回かの人事異動があって新しい仕事をやった経験があるのだが、
振り返って考えてみると
1年目が一番成果を上げている』と言えるのではないかと思う。

こ時代のスタートの1年目は、幸運もあったのだろうが素晴らしい成果だし、
何よりもスピード感を持って次々にどんどんやっているのである。


★ この時代までカワサキの二輪事業が経営的に危機的状況を迎えていたこともあって、
世界の各販売会社も『黒字経営』を第一目標にしていて、
国内販社も非常に地味な活動を続けてきたのだが、
漸くその危機的な経営状態から脱出して、
国内市場も『7万台を目標』にする積極経営を目指したのである。

 88年10月1日に就任してからの1年3ヶ月の活動が、
 このように纏められているのだが

   


より具体的に細部のご紹介をすると、
 
● 88年10月1日に就任して、
まず最初にやったのが国内市場での『レースの積極的な復活』を
かってのレースOBや現役レース関係者を集めて、
10月15日に宣言しているのである。

● 1月からの新規職制で、
『スポーツ推進部』を立ち上げ、
ユーザークラブKAZEが実質的にスタートを切ったのである。

●検討を続けてきた『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム』は
2月22日に川崎重工業の経営会議で承認され、動き出すことになるのである。

● 非常にラッキーだったのは
3月4日にあった『鈴鹿2&4』のTTF1、750ccクラスで宗和が3位入賞を果たし、
チームグリーンも250・400のクラスに出場したのである。 

私や岩崎茂樹が来ているということで、
4輪の星野一義金子豊がカワサキのパドックに挨拶に来たりして、
周囲がびっくりしたりするのだが、なかなかいいスタートが切れたのである。
 
当時のMFJの常務理事は杉沼浩さんで特別に親しい間柄だったので、
鈴鹿の三原さんにも紹介してくれて、
三原さんとはそれ以降いろんな形で接触も出来たのである。


● 4月1日にはKSSが正式スタートを切り、
14日にはSPA直入の起工式、
4月24日には『ルマン24時間』で『宗和・多田・塚本』が見事3位入賞を果たすのである。

● 5月にはZEPHYRの発表があり、全頁のイメージ広告も掲載し、これ以降ZEPYYR が文字通りの『バックオーダー』が延々と続いて、グループ全体の経緯に大きな効果をもたらすのである。

不思議なご縁で今も密接に繋がっているRPMの村島ご兄弟とは5月11日に初めてお会いしたりしているのである。


● さらに7月23日の鈴鹿6時間耐久では、
北川・鶴田組が優勝、藤坂・林組が2位とワンツーフィニッシュで、
漸くチームグリーンの重本・野村体制が機能し始めるのである。
 
7月29日の4時間耐久ではビートの髙橋・和泉チーム優勝
8時間耐久では、宗和・多田、ロブ・マーロン組はダメだったが、
塚本・前田組が4位に入って、
この年の鈴鹿耐久シリーズは、カワサキが大活躍だったのである。

      
     
     


● こんな様変わりな、国内販売会社の状況であったので、
当時の川崎重工業の大庭浩社長は,
この年の初めの経営会議で認可した『ケイ・スポーツ・システム』や『ユーザークラブKAZE』・『SPA直入』などは、
古谷がやるならいいか』ぐらいでの許可だったのだと思うが、

この国内市場の状況を見て、
8月1日に川崎重工業の全役員、並びに関係会社社長会の70名を集めた席で、
国内状況の説明』をするように依頼があり、
遊び会社』『レース』『ユーザークラブKAZE』などなどおおよそ川崎重工業とは全く無縁のような話を1時間以上したのだが、
それが非常に好評だったのである。

       

 
当時通産省から天下りで来られた常務からは『川重に来て初めて感激した』などと言われたし、
ちょうどその頃、本社に異動してたた田崎雅元さんからは
何を喋ったのか?どこに行ってもカワ販の話で持ち切り』と
私に言ったりされていたのである。

話も兎も角、
内容・実績が伴っていたから、ホントにこの年は充実していたのである。


         



★この年の話題としてはジェットスキー新会社の話も、
12月末に発足した販売店の『新ARK契約』いずれもが、
日本では初めての出来事なのだが、またの機会に詳しくご紹介したいと思うが、

簡単に言うと、
ジェットスキーという遊びとレースをやる商品を販売するために、
従来の『ボート屋』さんではなく全く新しい販売網をゼロから立ち上げた話だし、

ARK とは Authorized & Reliable shop of Kawasaki なのだが、
 
その取引形態を日本の二輪業界の常識であった『委託制度』から
すべて『買い取り制度』とした、
これも日本で初めての制度だったのである。

そういう意味では、日本の流通業界で、カワサキは先頭を走っていたのである。

この1989年から1990年後半まで、
まさに日本の先頭を走り続けたカワサキだったのである。

30代の若い頃から、『世の中ではじめて』 ということばかりを
やり続けてきたので、この最後の期間も、
ずっと『新しい仕組み構築』が続いていくのである。

これが出来たのは、私もその旗は振ったが、
自由に動いてくれる、実力いっぱいの『好い仲間がいた』から
それが、実現していったのだと思う。





 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 9

2020-06-03 05:28:25 | 私の生き方、考え方&意見

★ 7万台への挑戦に関する『私の生き方、考え方&意見』も 第9話になった。
 
  今回はユーザークラブKAZEについて。


    


1989年当時、ホンダさんのHARTをはじめユーザークラブが盛んであった。
 
私がカワサキオートバイ販売に異動した88年10月には,
カワサキにもKAZEというネーミングもユーザークラブも既にあって、
KGRC(カワサキ・グッド・ライダース・クラブ)を中心に
熱烈なカワサキファン約1000人ほどの規模だったのである。

11月には『KAZE ジムカーナ全国大会』などが開催されたりしていて、
全国のカワサキ親派の販売店が中心になって運営されていたのである。


★そんな状況の中で、
7万台という販売目標』を背負っての国内市場担当となったのだが、
7万台を実現するためには放っておいてもカワサキを買う『熱烈なファン』ではなく、
一般のより多くの人たちに働きかけることがMUSTで、

 KAZEのネーミング
 Kawasaki Amuzing Zone for Evrybody の頭文字をとったもので、
 
 この『Everybody』は私はなかなかいいと思って、
 ホントにそのようなファンクラブにすべきだと思ったのである。



★就任と同時に、『ソフト会社の設立』は私のアタマの中にあって、
このような『ユーザークラブ』はその核になるものだとは思っていたが、
その規模は1000人などと言うようなちっぽけなものではなくて、
少なくとも万単位のモノを狙うべしと思っていた。

そんなこともあったものだから、
まず最初にやったのは、
熱烈なカワサキ販売店の組織『KGRCを潰す』ことからスタートしたのである。

私自身は全国の理事を務める販売店各位とは従来から面識はあったのだが、
組織を潰す』のは意外に難しいので、いろいろ考えて、
その会議を有馬温泉の最高旅館と言われた『中の坊瑞苑』で開催したのである。
 
当時で一泊10万円近い値段だったが、それはめちゃくちゃ豪華だったのである。
そんな豪華なところに理事さんたちをご招待したのが効いたのか、
実質『解散会』ではあったのだが、
特に大きな問題もなく、『私に一任』を取り付けたのである。


★ 当時の各メーカーのユーザークラブは、
すべて年3000円の年会費を徴収していて、
最大と言われていたホンダのHART は『10万人の会員』と豪語していたのだが、
HART の10万人の会員は実存してはいない』というのが『私の仮』であった。

若し『10万人いたら』、 毎月1万人の満期退会があって、
毎月1万人を補充しない限り、『10万人を維持』することは出来ないので、
これは無理だと思ったのである。

そんなことから、ホンダを抜いて『トップのクラブ』にする可能性はあると思って、

カワサキとしては、
● 単なる担当者ではなくて、本格的に事業として対応する『ソフト会社の担当』とし
● 会員カードは単なる『カード』ではなく、JCBと組んだ本格的なものとする
こととして対応することとし

89年2月には『ソフト会社設立』が川重経営会議で承認され、
3月にはJCBの常務が来られて、正式に契約し、
4月1日にケイ・スポーツ・システムが正規にスタートして、
新しいコンセプト』の下に『ユーザークラブKAZE』がスタートしたのである。



特に『JCBと組んだ本格的なカード』としたのは、
JCBカード』にしておけば、1年の期限が来ても『止めにくいはず』だから
ホンダさんと太刀打ちできるという想いがあったのだが、
このコンセプトが想定以上に当たったのである。

初めてのカード』という人が殆どで、
JCBにとっては『まさに貴重』だったようなのである。
さらに本格的な『JCBカード』にしておけば『止めにくい』という仮説は、
実に『自動更新率95%』を誇ったので、
最初1000人からのスタートだったのだが、
最高55000人の実質会員を形成して、KSS経営を財務的にも支えたのである。

後日談だが、
鈴鹿のレース場などではカワサキのユーザーが圧倒的に多いものだから、
ホンダさんから『KAZE会員は何人いるのですか?』と聞かれて
55000人です』とお答えしたのだが
『ホンダさんは10万人』と言われてますが、とお聞きしたら、
あれはHARTに入会した『延べ人数』で現実にはそんなにおられなかったのである。

そういう意味では、私の『最初の仮説』は正しかったのである。


  



★その当時から約30年が経って、
いま二輪業界で現存するユーザークラブはKAZEだけである。
 
Kawasaki Amuzing Zone for Evrybody 

 for Everybody  だから、別にカワサキを持っていなくても大丈夫で、
 私は未だに『KAZEの現役会員』なのである。


いい仕組み』を創れば、いつまでも機能する。
30周年を迎えたKAZEなのだが、そのシステムは殆どが昔のままである。

コロナ新時代』を迎えて、世の中のシステムは、大きく変わろうといている。


 当時は、JJSBAのレースが最高に機能したのだが。
 そんな話もまたの機会に・・
 
 
 



★ もう一度、本当の意味での末端ユーザーや社会を見つめた
 新しい時代の新しい仕組みで対応したら、今の二輪業界の倍増など
 そんなにムツカシクはないのでは、などと思ったりする。

 世の中は『販売網』などではなくて、末端の社会と直結した『ネット社会』では?
 といつもそう思っている。

 KAZEの末端ユーザーこそ、本当に大事にすればいいと思っている。
 少なくとも、今そんな組織があるのは、カワサキだけなのだから・・・・・

 

  昨日だったか、こんなニュースが、
  無観客だがネットで繋いだ『競馬が人気』だそうである。


 


  新しい時代に、二輪の新しい売り方など出来ないものかな?
  私の周りには、店も、従業員もいなくても、
  オモシロい商売をされている方もいる。

  4輪と違って、二輪はなかなかいいユーザーがいっぱいだから、
  直接、繋ぐ発想が出来れば・・・ それは充分可能のように思うのだが。




7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 8

2020-05-30 05:44:41 | 私の生き方、考え方&意見

★今回は昨日の続き、私独特のバランスシート論である。

 私は神戸商大の卒業なのだが実は大学では簿記の単位を取っていない。
 簿記で単位を取るには教室に入らないと試験を受けるだけではダメなのである。
 野球ばかりしていた大学生活だったから簿記はとっていないのである。

 そういう意味では、会社に入ってからの独学なのである。
 
カワサキの二輪事業の販売第1線にいたので、
代理店や営業所や販売会社の『経営』を30代の頃からずっとやらざるを得なかったのである。
そんな私独特の体験の中から生まれた『私独特』のものなのである。

一般によく言われる売上高・総利益・経費・営業利益・営業外・経常利益よりは、
どちらかというと『バランスシートや資金繰り』の方が大事だなと思ったし、
営業外を中心に、バランス・シートの検討などを独自で勉強したのである。

 
 



★これが私のバランスシートだが、
このバランスシートを川崎重工業の部長研修会の時に発表したら、
当時の財務担当副社長に『非常にオモシロい』とお褒め頂いたのである。
 

バランスシートの話など聞かれることは少ないと思うが、

この『私のバランスシート論』は、
私の直接の上司であった技術屋さんの髙橋鐵郎さんに、
お前の説明はよく解った』と言って頂いたので、
そんなにムツカシクはないので、ちょっとお付き合い下さい。


ざっと私の『バランスシート論』をご紹介すると、こんなことなのである。

● バランスシートとは
左側に『流動資産と固定資産』 右側に借入金などの『負債や資本や剰余金
その二つがバランスしてるので『バランスシート』と言われている。
 
● 『流動資産』とは1年以内に現金化される売掛金在庫など、
 現金から、現金化されやすい順番に並んでいる。

● 土地・建物など1年以内には現金化されないものが『固定資産』

● 右側の負債の中でも1年以内に支払わねばならない買掛金とか短期借入金などを『流動負債』。 

● 1年以内に支払わねばならぬ額より、1年以内に現金化される額が多い
こんな形 『流動資産』>『流動負債』でないと資金繰りが成り立たないのだが、
欧米などでは 2:1ぐらいの比率でないと健全財政とは言えないなどと言われているのだが、日本はそんな企業は非常に少ないのである。



★『私独特のバランスシート』はそれ以下に、
その企業の持つ『企業イメージ』ほか 『ソフトの数々』など、
その資産こそが『その企業の成長力』だと思っていて、
それらの『ソフト資産』はその企業の『高質人材』によってもたらされるのである。
それは間違いなく『人の質・能力・経験』などだと思っていた。
 

 当時の総合営業活動はこのような展開だったのである。
 これらの詳細はまたの機会に。

 



★ 『7万台への挑戦』 『カワサキの新しいイメージ創造の時代
 これは髙橋社長・古谷専務のコンビで実現したのだが、
 
 

 
この髙橋社長の言葉の隅々に、技術屋さんとはとても思えない、
マーケッテングマインド』と そのソフト思考が満ち溢れていて、
自由に私に任して頂いた』ので、私自身も成長したし、

傘下7社の社長を兼務した私も、
その実務一切を、『その社の常務に100%任していた』ので、
どんどん前向きな展開となったのである。



 



7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 7

2020-05-29 05:43:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ戦略の時代』は、
二輪やジェットスキーは遊び道具なので、 
遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びのソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を中心に、
レースをはじめいろいろと本格的な遊びに取り組んで、
新しいカワサキのイメージ創造』のために派手に遊んでいたのは事実である。

結構派手に遊んでいたのだが、その資金はクルマを売っての利益からではなく、
KSSのソフト会社が末端のユーザーや社会の方から頂いた金の中からだったのである。 
少人数で『アタマを使う』会社だから、結構儲かったのである。
 
例えば『KAZE会員』は最高55000人の規模になるのだが、年会費3000円なのでこの会費だけでも1億5000万円ほどあったし、
いろんな形でKSSの売上高は7億円にもなったのである。
バイクを売ってもその利益率は大したことはないのだが、
ソフト会社の利益率は、『アタマで考えて産み出すソフト』からなので、
その利益率は100%に近く高いのである。

そんな利益の中から末端ユーザーに派手に還元していたのだが、
周囲はどうしても『バイクを売った利益』から使っていると見てしまうのである。
ソフト会社を持たない一般企業は、商品を売った利益からの支出なのだが、
独立した『遊び会社』は自らが稼いだ金からの出費なのである。
どんどん自由に使えるように『独立会社』にしていたのである。

遊び会社』であってみても間違いなく独立経営体なので、
その経営が赤字ではその存立も保証されないのは勿論なのである。


★ちょっと固い話になるが、当時の国内販売はこのような形で運営展開されていた。

左側のメーカ川崎重工業から右端の末端ユーザーまで、
このような組織で、このような基本コンセプトの下に、
その発想が具体的に展開できるような
それぞれの専門会社を立ち上げての総合展開だったのである。


 


● 一番左が川重CP事業本部、CPとはConsumer Product(末端消費者向け製品)
を開発生産する事業本部で
本部長が髙橋鐵郎さんだった。


● 国内の総販売元がカワサキモータースジャパンで二輪とジェットスキーの販売を担当し
髙橋鐵郎さんが社長を兼務、私が専務で担当した。


● その具体的な販売活動は、
  カワサキジェットスキー販売
  ケイ・アーク・システム東日本(二輪)
  ケイ・アーク・システム中日本(二輪)
  ケイ・アーク・システム西日本(二輪)
  ケイ・ロジステックス(物流)
  ケイ・コンシューマー・サービス(用品開発など)
  ケイ・スポーツ・システム(スポーツ&ソフト)
 という機能会社7社でその社長は全て私が兼務し、具体的には各常務が担当 

● さらにスポーツ活動を以下の組織で具体的に展開していた。
  JJSBA(日本ジェットスキー協会)
  チーム・グリーン

● 二輪・ジェットスキーの販売はARKと称した販売店を通じて
 KSSは、ショールーム・サーキット遊び場所・ユーザークラブKAZEを担当
 チーム・グリーの下部組織として地方のサテライト・チーム

といった総合的な組織というか『仕組み展開』だったのである。



★この組織が初めからあったのではなく
平成元年にスタート以来、4年間掛かって創り上げ
平成5年1月1日に、名称もカワサキオートバイ販売からカワサキ・モータース・ジャパンに称号変更したのである。

この時点までに平成3年5月に念願の販売目標7万台は達成できたし、
従来の地域販売会社なども3社に纏めて、
この時期の国内販売体制がまずは完成したと言っていいのである。

その間の色々な出来事は今後適宜ご紹介するとして、
この時期のカワサキ国内グループが
どのような企業経営体としての実績だったのか、
その責任者であった私は、『何を想いどのようにリードしたのか
今回はその辺のことについてご紹介してみたい。



★事業経営をやる際に『売上高を伸ばして利益を上げる
これは普通の人が普通にそのように考えるのだが、
確かに沢山売ると儲かるが、これはなかなか危険な発想なのである。

 私が販売最先端の代理店経営に関係したのはずっと昔、
1965年ぐらいのことなのだが、
当時メーカーの方針に協力して『沢山売った代理店』から順番に経営破綻してメーカー系列に入っていったのである。
 
沢山売る方が間違いなく多く儲かる計算だが、
実際はなかなかそのようには成らずに、資金繰りが伴わずに破綻してしまうのである。

経営は売上高よりは『資金繰り』なのである。
いまコロナ問題で多くの店が破綻しているが、これは全て『資金のやりくり』が付かないためで、これは大きな企業も、小さな店も同じなのである。

そういう意味では『7万台・400億円』という途方もない大きな目標に挑戦するということは 『非常に大きな経営上のリスク』を孕んでいたのである。
 
こんな大きな目標を従来のような『販売促進策』などでやるとしたら、
大きな経費や値引きなども発生して、
とても資金が付いて行かないのは目に見えているのである。

そんなことだから方向を変えて『遊んでいても自然に売れる』そんな仕組みの創造で対応したのである。

この時期確かにZEPHYRなどと言う思わぬ商品に恵まれたことも好運ではあったが、これが売れたのは売れるように仕組んだのである。 
さらにジェットスキーも空前の人気でめちゃくちゃ売れたのも幸運だったかも知れない。

     


ZEPHYRは、レーサーレプリカ全盛時に、何の特徴もない性能的にも普通のバイクなのだが『何故かホントによく売れたのである
誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
私はその増産など頼まなかったものだから、何ヶ月ものバックオーダーとなったのである。

 『バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、値引きも発生しないし、自然に売れていくのである。 
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。 
それが多分間違いなくZEPHYRをヒット商品にしたのだと『私は思っていて
これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。

バックオーダー』というのが曲者なのである。
ずっと以前のFX400はほんとにヒット商品だったし、よく売れて3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。
その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
 
そんなFX400の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。 
当然、値引きもないし、ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。
若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。


★だが、こんな話は証明できないからムツカシイのである。

 この1990年代は販売会社ではあったが、10年間いろいろの仕組みばかりを創り続けて『販売努力』など一切せずに末端ユーザーと遊んでいたと言っていい。
その結果は、結構よく売れたのだが、メーカーの人たちから見たら遊んで、金を使って販売努力をしない。

もう少し販売努力をしたらもっと売れるはず』と思った人たちもいたようで、2000年になり私も現役引退したら、折角造り上げた『仕組み』を壊してしまって、一生懸命販売努力をされたようだが、以来国内のカワサキの販売台数は7万台など『夢のまた』のような状況になってしまったのだが、
なかなか「販売ソフト」と言うのはムツカシイのだと私は思っている。

★ ところで、この事業部の研修会では、私がこんな損益と私独自のバランスシーとで説明をしているのだが、こんな数字やバランスシートを、みなさんどれくらいご理解があるのかよく解らないのだが、

私流の説明』をしているので、是非ご覧になってみて欲しい。



 数字が並んでいて、『400億円売って利益は12億円か?』
 と思われるかも知れぬが、

 総資産が 100億円、
 自己資本比率 31,5%
 総資産回転が 4回転
 総資本利益率 12%
 
 というのは、日本の企業としてはびっくりするほどの優良企業で、
 売上高は400億円と相当な額なのだが、総資産は100億円で、4回転
 この時期無借金経営で、借入金は0円なのである。
 まずこんな企業は日本では当時は珍しかったのである。

 
 要は幾らの額を売って幾ら儲かったのか? ということばかりに気を遣うのだが、
 幾らの自己資本で幾ら儲かったのか? 
 というのがホントの意味での経営の評価なのだと私は思っていて、
 7万台という目標も、そんなに無理せずに達成しているのである。

 これは私独特の『バランスシート論』で、
 こんな感じなのだが、これはまた次回に。


     

 
 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 6

2020-05-26 06:55:26 | 私の生き方、考え方&意見

★6回目になった。 
話題を何にすべきか迷うほどいっぱいあるのだが、
今回はこの7万台への挑戦の時期は勿論だが、
カワサキの二輪事業のスタートの時期からの『平井稔男』さんについて纏めてみたい。

 平井さんと言えば、Team Green のこんな派手で、


  

 
 
 定年後も、2011年3月に『カワサキの想い出、そして未来
 というこんな大掛かりなイベントを主催したりもしたので、
 このような勇ましい『平井稔男さん』のイメージが強いのだと思うが、
 全然違った、地味なことでもちゃんとこなす実力をお持ちなのである。


 

 
 平井さんは、昭和36年カワサキが二輪事業をスタートした時は勿論、
 もっと以前の『川崎明発』の時代からカワサキの販売に携わっておられて、
 自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない。

 確かに、間違いなく国内のカワサキの歴史と共に歩まれていて、
神戸営業所時代に平井さんの下で育った『平井門下生』が
カワサキの国内の二輪販売網を支えたと言っても過言ではないのである。

前回、ご紹介した『藤田孝昭さん』も、あの『吉田純一さん』も平井門下生で、
吉田純一・旭日小綬章記念祝賀会』にもこんなメンバーが集まった。
藤田孝昭・渡部達也・柏原久に加えて二輪車新聞の衛藤誠さんもいる。
シャッターを切ったのは私である。

   


★ 私とは同い年で、昭和36年カワサキの単車営業のスタートの年からいろいろと関係があったのだが、
直接繋がったのは昭和46年(1971)私が大阪母店長時代の神戸営業所長時代で、
私の後の『大阪母店長』を平井さんがやってくれたりもしたのだが、
前回『世の中の全く新しこと』がやれる人は少なくて、
平井稔男さんもその一人だと言っているのだが、まさにその通りで、
100人近くの部下がいた『大阪母店長』の次に平井さんが引き受けてくれたのは
殆ど部下などはいない新しく出来た『カワサキの安全運転コース管理』と、『カワサキの全国の安全運転活動』だった。

 当時は全国の暴走族対策が課題で、
暴走族=カワサキ』と言っていいほどカワサキの大型バイクを乗る人たちが多く、業界の方たちからも『暴走族対策はカワサキさんですね』などと言われるような状況だったのである。

そんな新しい仕事を見事に纏めてくれて、
その後兵庫県のセントラルサーキットの建設なども担当されたのだが、
この『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ創造』の時期に、
平井さんに私がお願いをしたのは、
レースではなく、新しく創った『お客様相談室』だったのである。


★『カワサキの新しいイメージ創造』を目指して、末端のユーザーたちを視野にいろんなことに挑戦したのだが、その一つが『お客様相談室』だったのである。
 
新設するに当たって各社のお客様相談室に電話をしてみたのだが、
お嬢さんが担当で、スマートにお答えにはなるのだが、ちょっと複雑なことにはなかなかスムースに答えられないのである。
 
そんなことで、他社との差別化を図るべく、
カワサキのことならすべて明確に答えられる『平井稔男さん』を選んだのである。
平井さんの話しぶりは、ご存知の方は納得だと思うが、
まさに明快で、溌剌としていて』誰が聞いても『好印象』なのである。

 4社の中で最後にスタートした『お客様相談室』だったのだが、
その評価は最高で、 これが当時のお客様相談室のユーザーの評価だが、
非常に良い』が45%もあるのを見ても、その満足度は相当のモノなのである。

 

     




 これはその後の調査なのだが、
購入ユーザー』でも『不満がある人』の方が、
その対応次第で『ファンに成る確率』が高いのはお解り頂けると思う。

  



 そんなことで『平井さんのお客様相談室』には苦情を言って来たユーザーから
 『お中元やお歳暮』が届いたりもしたのである。


★この当時、一番力を入れていたのが『CS推進部』でこんな構成になっていた。

  

 この『CS』のCは、日本で一般に使われるCustomerではなくて、
 明確に Consumer(消費者) なのである。

 Customer も勿論顧客という意味もあるのだが、それは『取引先』という意味の方が強く、日本の顧客満足の実態は末端消費者よりも業界の人たちの満足を優先することが多いのだが、
当時のカワサキの場合は、販売店ではなくて常に末端ユーザーの満足を求めていたのである。


 非常に地味な仕事だが、当時の『お客様相談室』が7万台への挑戦で大きな役割というか『カワサキイメージの向上』に大きな役割を果たしてくれたのである。

そんな元気だった平井さんも86歳、ちょっと最近元気がなくて心配である。
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 平井さん、本当に『7万台への挑戦の時代』有難うございました。