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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

今回の選挙では 日本維新の会に投票する

2021-10-20 07:00:42 | 私の生き方、考え方&意見

★ 衆議院の選挙である。
  政治のことは、よく解らないことも多いが、
  私は『日本維新の会』に投票しようと思っている。

  その理由は大阪の状況を見ていて、 
  日本の大都市の中から、いろんな面で『大阪が消滅』しかけた時期もあったが、
  橋下徹さんが出てきてから
    『維新の会』が大阪に現れてから
  大阪が豹変したから、
  今の日本もそうなって欲しいと思うのである。

  大阪に限らず関西は『維新の会』の影響は大きくなった。
  兵庫県知事さんも自民党系から維新系に変わった。

  このように明確に『目に見える政治』に期待したいのである。


  

『日本維新の会』は、このように主張している。

我々は、身を切る改革を「大きな行政機構」から「小さく効果的・効率的な行政機構」へ変革することによって実現します。
古い政治を壊し、新しい政治を創る。そのために必要な行政改革には、行政の隅から隅まで熟知している役人の協力が不可欠です。政治家が安全な立場から「やれ︕」と命じるだけでは改革は進みません。
 だから改革を主導する政治家がまず、自ら身を切って模範を示して、役人を納得させる。そして、意識改革に目覚めた役人が政治家とともに一丸となって行政改革を進める。この一連の流れが身を切る改革です。

 維新の国会議員団は毎月の歳費の内18万円を党に寄付し、党から被災地に寄付をしています。既にその額は1億2,000万円にのぼります。範を示して国の行政改革に切り込んでいきます。議員定数削減や報酬削減ばかりが注目されますが、本当はそこから先に目指すべき改革があります。参議院の定数が6議席も増えました。維新はこの法案に反対しましたが、人口が減る中、政治家が自らの利益のために議席数を増やしたことは、行政機構に悪影響を与えます。政治のゆるみは、行政のゆるみに繋がります。
 日本では少子高齢化が進みます。「大きな行政機構」のままで良いのでしょうか。中央政府が手取り足取り指導する中央集権型から、地方が創意工夫で切磋琢磨する地方分権型に変える、統治機構を大転換させる改革が豊かな日本の未来を築くために必要です。
 大きな改革の第一歩として政治家が恵まれた身分を自ら切ることは、明治維新を実現した武士が、自ら恵まれた地位を捨てて四民平等の社会を作ったことと同じ理念です。
 大きな改革は、身を切る改革から始まります。 』

 このような主張に私は納得なのである。


★兵庫県4区からは維新の候補者も出ているが、
 ほんとのところ『どんな方』かも解らないのだが、
 投票は『この維新の候補者』に投票することを決めている。
 中央に兎に角『維新の議員』を送りこむことが第一だと思っている。

 

 関西では維新の候補者も多いのだが、全国的にはまだまだである。
 野党だが『反自民』ではないところがいい。

 既にそのようにされた方が現実におられるが、
 自民党の方で『維新の政策に近い方』が維新に移って
 これで『2大政党』になるのが一番現実的に理想の形だと思う。

 今の『何でも反対の野党』『共産党とも連携』にはあまり興味が湧かないのだが・・・

 私はそのように決めているのだが、
  どんな結果になるのだろうか?
  
  
  
 
 

 




カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 7

2021-10-19 06:36:19 | 私の生き方、考え方&意見

★ 1975年10月10年間の国内出向から川重企画室に異動たのだが、 
  1976年11月には、市場開発プロジェクト室に移り、
  東南アジアのCKDを担当、タイ市場など担当していたのだが、
  
  1977年頃にアメリカ市場ハーレーが日本4社に対して『ダンピング』を起こしたのである。
  
 この『ハーレーのダンピング訴訟』は、
 後川崎重工の社長になる私より一期下の田崎雅元さんが担当していた。

 アメリカ市場で日本車は安売りなどはしていないのだが、
 アメリカのダンピングはアメリカは世界一の経済大国だということで、
 『アメリカの経費率以上は認めない』という規則なのである。





当時国内市場で『販売会社』があったのはカワサキだけだったものだから、
その『販社の経費率』のためにカワサキだけがダンピングに引っかかるのである。
 そのために『カワサキオートバイ販売の経費率』を小さくしなければならないのだが、
 当時は川崎重工の3社合併の後だったこともあり、
 『カワ販の社長』はかっての『川崎航空機の取締役』だった方がされていて、
 そんな関係もあってその本社機構も役員陣も非常に大きかったのである。

 その経費率を下げるためには、具体的には社長以下の人事を刷新しなければならぬことは解っているのだが、
 それを具体的にどうするのか? というのがその対策だったのである。





 この対策案は『カワ販のTOP人事の刷』なので、
 『カワ販』にいた古谷にやらすのは気の毒だと気を遣って頂いて、
 私は横から見ていたのだが
 具体案がなかなか上手く纏まらないのである。

 『カワ販』を無くして『営業研究部』にするというような案なのだが、




 当時の『カワ販』はメグロ・メイハツの人や、
 カワ販独自の採用者などもいて非常に複雑で『営業研究部』では、
 その人たちの具体的処置などが上手くいかなくて、困り果てていたのである。






★ そんな状況だったのだが、1978年9月に塚本事業本部長から私に、 
 突然『その対策案を創るように指示』があり、
 約1ヶ月ほど掛って、カワ販は残すが『本社を10人ほどにして』
 形の上で『本社機能』だけを残し
 具体的には川重営業部からコントロールするという案を創ったのだが、
 本社財務本部もその案を認めて、
 それで実行されることになったのである。

 この時の本社財務本部長は、私が企画にいた時の堀川企画室長がされていて、
 その案を本社に説明に行った時にも、そんなに詳しく聞くわけでもなく、
古谷くんが1ヶ月も掛って創った案なら、それに乗りましょう』と言って頂いたのである。

 その最終案を髙橋鐵郎さんが当時の大西専務に説明に行かれたのだが、
 その時大西さんから『実際には誰がやるのか?』という質問があり、
 『古谷がやります』と答えたら『それを常務にせよ』と言われて、
 いきなり私は川重課長から『新カワ販の常務』という職位になったのである。
  今まではかっての川航の取締役が担当されていた『国内市場経営』を
 いきなり『常務取締役』として担当するということになって、
 その社長は塚本事業本部長が兼務されたのである。
 

★そんな経緯で、1978年1月からは再び国内市場を担当することになり、
 形の上では川重からの兼務ではあったが、実質は『カワ販への移籍』で
 『新カワ販常務』として『カワ販グループ』を統括することになったのである。
 当時の国内カワ販グループは地方販社を含めて『総勢500名』の陣容で、
 今まで元川崎航空機取締役が担当されていた国内経営を47歳の私が担当することとなったのだが、これは本当に大役だったのである。

 この経緯をみても『私は非常にツイていて
 別に望んだ訳ではないのだが、こんな結果になったのである。

 さらにツキは続いて、
 1年目の1978年春には『400FX』が発売されて、
 これが国内では『空前のヒット商品』となり、売れ続けたのである。

  

 
 前述したような経緯で『私を常務にされた大西専務は、
 内心『そんな若いのに任して、ダイジョブか?』と思われたのだろう。

 私は毎月本社の大西専務に『カワ販の経営状況の報告』に伺っていたのである。
 それが『400FXの大ヒット』で、どんどん業績もよくなり、
 当時10億近くあった累損も『2年間で消去』されてしまうのである。




 
 そんな結果を見て、大西専務も不思議に思われたのだろう。
 『君らは、最初からこんなことになると解っていたのか?』という質問があったのだが、
 勿論、そんなことは全く解っていたわけでもなく、
 直前までは『東南アジアのCKD』を担当していたので、
 400FXが出ることさえ知らなかったのである。

 ひとえに『ツキ』だと思っているのだが、
 当時は、カワサキの事業本部はアメリカ市場が赤字続きで、   
 ヨーロッパももう一つで、単車事業本部全体としては悪い時期でもあったのだが、
 川重本社財務部辺りでは『カワ販や私への信頼』は抜群によかったのである。

 私にとっては『初めてのグループTOPとしての経営経験』だったのだが、
 結果がよかったのでその後の自信に繋がったのは間違いないと思っている。
 と同時に、結果がいいと『どんどん信用は厚くなる』のである。

 企画室への川重復帰以降、東南アジアCKD 事業とこの新カワ販の成功で、
 特に川重本社部門からの信頼がその後の私の仕事をやりやすくしてくれたのは間違いないのである。

 そして、続いて事業本部の経営というか、世界の販社を統括するという
 大きな仕事がその次に転がり込んでくるのである。
 これは次回に。


 
 
 

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 6

2021-10-17 07:08:41 | 私の生き方、考え方&意見

★ 10年間の国内販売会社の出向を終えて、
 1970年10月に、川重発動機事業本部企画室課長に復職した。





企画室の中の企画班的な中枢の部門で、5人ほどの部下がいて、
その部下たちは東大出や優秀大学卒のエリートたちで、
10年の出向期間には、東北代理店や販売店では中学卒の従業員とばかり付き合ってきたので、何となく不思議に思ったりした。
そんな学歴などには関係なく『二輪の仕事は誰でも出来る』のがいいなと思うのである。

中長期計画など担当してたので事業本部長に直接報告する機会も多かったのだが、
当時の塚本本部長は就職の面接で、第一声『君は成績悪いね』と言われた塚本さんだったのだが、
この頃はそのこと覚えておられたのだろうか?
その時私は『成績は悪いかも知れませんが、会社の仕事など絶対にほかの人に負けたりはしません。』と答えているのである。

  

 
 企画室時代以降、塚本さんには結構重用して頂いたのである。
 

★ 当時の事業本部は本社では吉田専務が担当されていて、
 事業本部にお越しになることも多かったのだが、
 一番大きなプロジェクトとして『CMCプロジェクト』なるものが展開されていた。
CMC』とはコンパクト・モーターサイクル・プロジェクの略で
これは製造部が担当して、膨大な最新の製造設備投資をして、
小型車』を大量に安価に生産しようというもので、
 吉田専務が甚くこのプロジェクトにご熱心だったのである。

 ホンダのロードパルが世に出て、50ccの大量販売真っ盛りの時代だったのである。





 私は『コレはダメだと』思った。
 そんなバイクを幾ら安く造っても、それを売る販売網などどこにもないし、
 『成功するはずがない』とは思ったが『ダメだ』とは言えないので、
 『搦め手』からこんな提言をしたのが、
 当時始まったばかりの東南アジアへの『CKDビジネス』だったのである。




★そこで『小型車の考察』というテーマで、東南アジアのCKDビジネスを取り上げ
 まずその『市場調査を行うべし』という提言を行ったのである。
 当時の『CKDビジネス』は未だスタートしたばかりで
 各国は『生産機種』や『担当人員の入国』などに数の規制があって、
 後発のカワサキにとっても『競争条件の緩和』のようないい環境だったのである。

 そんなことですぐ承認されて、
 1971年5月には髙橋鐵郎さんを団長とするこんなメンバーでの『市場調査団』による市場調査
 台湾・タイ・インドネシヤ・イラン・マレーシヤ・フィリッピンというルートで、
 約1ヶ月間に亘って行いその報告を纏めたら、即刻承認され、
 新しい組織を創ることが検討されたのである。




★ その年の11月には、新組織『市場開発プロジェクト室』が出来て
 髙橋鐵郎さんが技術本部長兼務で室長に就任されるのだが、
 私もその統括マネージャーとして異動することになるのである。

 『企画室』という『いい組織』にいたのはたった1年で、
 自ら新組織に異動したようなもので、
 周囲では『惜しいな』と言ってくれる人もいたのだが、
 私自身はそんなことには一切関心はなかったのである。






★ 市場開発プロジェクト室では、
 タイ・インドネシア・イランの3か国を重点市場とし、
 それぞれ担当者を置いたのだが、
 その中でも中枢的な市場であったタイを、私は兼務することとなったのである。

 入社以来初めての海外市場担当で、英語もいるし大変だったのだが、
タイ市場』はマー・ファミリーという華僑のグループで、
 具体的にはオーナーの息子たち二人が担当だったのだが、
 いろいろ細かいことを言ってなかなか纏まらないのである。

 出張の最後の日のミーテングでもいろいろ言うので、
 私は黒板に漢字で『正直・誠実・勤勉・信頼・互譲・協力』と書いたのである。

   
 

これでオーナーのマーさんがカワサキの提案に『YES』と言ってくれたのである。
 息子たちは知らぬが、マーさんは漢字が読めたのである。

 これは最初に入社した川崎航空機工業『社是と執務態度』で、
 私は今も人生の信条としているのである。
 

 
★ そんなことでスタートした『タイ・プロジェクト』なのだが、
 カワサキのクルマは田舎ではよく売れたのだが、首都バンコックでは全然売れないのである、
 『なぜ?』と聞いたら、
 バンコクでは兎に角『メーター上だけでもいいから120キロ走る速いクル』なら売れるというのである。

 私自身は技術には詳しくないので、商品企画などにタッチしたことは全くなかったのだが、
 これくらい単純な話なら解るので、当時の技術本部長の大槻幸雄さんに
 そのままのことでお願いしたのだが『なかなか首を縦に振って』頂けないのである。
 大槻さんとは親しい中なので粘っていたら、
 横にいた松本博之さんが『私がやりましょう』と引き受けてくれたのである。


      
 

 
 その車がこの『カワサキ最高のヒット商品GTO』なのである。

 


 そのメーターは160キロまで表示されていて、
 タイ・インドネシアなどで、『何台売れたか解らない』のだが
 兎に角、カワサキの車種の中で『飛び抜けた台数』が出たのである。




 
 なぜ『台数がわからないのか?
 これはCKD なので、カワサキの明石工場では『部品出荷』となるので、
 その個数の記録しか残らないので、
 調べ上げたら解るのだろうが、台数としては残っていないのである。




★こんな想い出のある『東南アジアCKDプロジェクト』だったのだが、
イランは政治体制の変化でダメになってしまったが、
インドネシアも成功して、カワサキの新しいビジネスCKDは
その後、幾多の変遷があって、
今ではタイからバイクを輸入しているような状況のようである。

 ひょんなことから、始まった東南アジアプロジェクトではあったが、
 本体の『CMCプロジェクト』はその後数年は存在したのだが、
 そのうち消えてなくなってしまったのである。

 たった2年程の短い期間ではあったが、
 私にとっては『想い出多いいい2年間』だったのである。


 


カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 5

2021-10-15 06:38:13 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昭和45年(1970)10月、私は東北仙台から明石の本社には戻らずに、大阪に途中下車することになったのである。
 この時期漸く国内市場も実用車から中大型スポーツ車への需要の移行も見え始めた時期で、
 3社合併があって50ccの生産中止も決まったものだから、
 カワサキは他メーカーに先駆けて、中大型市場の大市場対策に入ったのである。

 それまでのカワサキは『実用車のカワサキ時代』で九州や東北など、
 地方市場がその主力であったため、特に大阪・名古屋市場が弱かったのである。


★当時の販売システムは『委託販売制度』で、
50ccのモペットを大量に売るために、全国の自転車屋さんに車を委託していて、
それを『サブ店』と称していた。  




 今では考えられないほど多くのサブ店を有していて
 ホンダさんはその数4万店とも言われたし、
 カワサキでも1万店ほどのサブ店での販売展開だったのである。
 




 私が異動した大阪市場は、カワサキの中でも最低の弱小市場で、
 異動してすぐ挨拶に伺った『船場モータースの岡田博さん』には

 『東北ではどれくらい売っておられたかは知らぬが・・』と前置きがあって、
 『大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ
 と言われてしまったほど、カワサキの存在感は薄かったのである。

 確かに、大阪でもサブ店だけは500店もあったのだが、
 部品取引だけで完成車は1年に1台も売らない店も多かったのである。

 そんな大阪市場であったが、結構精力的に動いて、
 その年の年末に中心になるであろう販売店20店ほどを勝浦温泉に招待して
 今後の大阪市場対策についてその大綱を語ったのだが、
 大いに賛同を得て、船場モータースの岡田さんを中心に
 『カワサキ共栄会』を創ろうという動きになるのである。

 翌年2月4日の二輪車新聞のトップ記事には、
 カワサキは『2年以内に実績倍増を見込み
 その対策として『販売網再編構想を』と大々的に発表されたのである。


 『

 『明石のカワサキ』と言われたカワサキが突如動き出したので、
  大阪の業界でも大きな話題となったのである。
  ホンダさんの営業会議では
 『カワサキを双葉のうちに潰さねば』などと言われたとか・・・

  その考え方の骨子は、
 ● 今後のカワサキは中・大型スポーツ車を中心に販売する
 ● 当然その台数は50ccに比べて少ないが
 ● 中・大型車を数多くの店に委託することは不可能なので、
 ● 自転車屋ではなく、二輪専門店で販売されるべきで、
 ● そのような『新しいカワサキの販売網構想』に賛同する店に絞る

 という方向を採ったのである。



 

 そして大阪にあった500店の販売店の中から
 カワサキの趣旨に賛同する25店に絞っての
 『カワサキ共栄会活動』をスタートさせたのである。

 そして、8月には『特約店制度』のスタートに向け発進したのである。





 この時の『記事』を書かれた二輪車新聞の衛藤誠さんは
 ご自身の回顧録の中で、この間の事情を大要このように語られている。

● 古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、
この年の5月には「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、
会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
● このあと、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施し、
同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
● 71年1月には、“二輪車事業10周年” を記念して、
全国の優良店100店を業界初の「米国視察旅行」に招待し、
KMCとサンフランシスコなど西海岸の旅で、
この視察旅行団長を古谷氏が務めた。
● このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、
直営部長には古谷錬太郎氏が着任。
● 前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、
8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
● 9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開き、
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、
正式なスタートは72年10月1日からとした。
● さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導することになり、
首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
● 当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、
これも特約店契約促進の追い風になった。
                 二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


★ ここに衛藤さんが纏めて頂いたように、
 私の大阪母店長着任の昭和45年(1970)10月からの4年間で、
 カワサキの新しい販売制度『特約店制度』は全国的に実現したのだが、
 その間私は、大阪母店長・直営部長・本社管理部長として、
 まずは大阪母店から始まって、
 続いて直営部長として東・名・阪、
 さらに全国展開を仕上げて、
 昭和50年(1975)10月には川崎重工業発動機事業本部企画室課長として、
 10年間の販社出向を終わって帰任することになるのである。

 この時期未だ他銘柄の販売網の主力は全国の自転車屋さんだったし、
 二輪専門の販売網を組織したのは『ひとりカワサキ』だけだったのである。

 カワサキアーカイブスでは、
 メーカーのことではなく、販売会社のことなのでそんなに詳しくは取り上げてはいないのだが、

 


 私自身にとっては、初めての全国的な販売網システムで、
 それも業界で初めての『二輪専門店販売網』であったことから
 その実現に漕ぎつけられたのは、非常に大きな成果であったと思っている。

 1975年と言えば、まだ43歳、
 川重では課長任用されたばかりの頃のことなのである。
 今思えば、若いのに『よく頑張ったな』と思っている。

 当時のカワサキオートバイ出向の10年間
 広告宣伝課長   3年間  広告宣伝とレース担当
 仙台事務所長   3年間  東北6県代理店、最後の半年は北海道も担当
 大阪母店長以降  4年間  特約店制度の全国展開だったのである。

 いま思うと全てが前任者のいない『初めての仕事』ばかりだったのである。


★ この時代から、もう50年が過ぎようとしているが、
 二輪業界も各メーカーとも、中大型車が主力となり、
 二輪専門店の販売網が敷かれている。
 逆に言うと『50年間進歩がなかった』とも言えるのである。

 ずっと、『ネットでの販売を』と言い続けてきたが、

  やっと昨今、ホンダの新販売方式 が登場した
 『国内自動車メーカー初 新車オンラインストア「Honda ON」オープン』
 10年遅かったと思っている。
 今の時代、店舗などよりは当然『システム』だと思うのだが・・・

 
 

 










カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 4

2021-10-13 06:14:44 | 私の生き方、考え方&意見

★ 広告宣伝課の後は、東北6県の営業第一線を『仙台事務所長』として4年間担当したのだが、
 私にとってこの東北の4年間は、『誰も経験しなかった』ような貴重な4年間なのである。
 広告宣伝課での3年目の11月に、
 突然『東北仙台に新しい事務所を創れ』という指示を受けたのである。

 当時の事業本部長カワサキオートバイの社長も兼務されていた岩城良三さんが、
 東北の代理店会で代理店から『仙台に事務所を』という要望を受けて、
 その場で即座に『創る』ことを約束されたという話が職場にも広がったが、
 それがまさか『私にお鉢が回るとは』全く予想もしていなかったのである。

  
  

★私の川崎航空機の入社試験の『君は成績悪いね』で始まった面接で、
 『ところで君は野球をやってたな』と話題を変えて頂いた、
 当時は総務部長であった岩城さんである。

 実は1億2000万円の広告宣伝の管理は、とてつもなく膨大な額でもあったので、
 その管理は担当の私が直接岩城本部長に報告するという『異例の形』だったのである。
 細部の指示などは全くなくて、殆ど任して頂いたのだが、
 たまに『厳しい指摘』があって、それは本当に厳しかったのだが、
 親父に怒られるような『愛情に満ちた』ものだったのである。

 『東北への異動』は直接の上司・苧野豊秋さんから言われたのだが、
 しばらくして、岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
 『ご苦労だが、頼むな』と一言言われたのが今も印象に残っている。

★ この異動が私の初めての『明石からの異動』であった。
 当時の東北市場にはまだかっての地元代理店が10店以上も残っていて、
 カワサキの中で最もよく売っていた最高の市場だったのである。

 それまでは東京の営業部から担当者が出張ベースで営業活動を行っていたのだが、
 それを『仙台に事務所を創って統括せよ』というのだが、
 それ以上のことは何の具体的な指示もないのである。
 日本で初めて創る事務所だから誰もその具体的なことは解っていなかったのだと思う。
 
 年が変わって1月初め、私は1台のワスプを会社から餞別に貰って、
 単身、明石から仙台まで、その車の陸送も兼ねての移動であった。
 文字通り独りで、どこに事務所を創るのかという指示も全くなく、
 全て自らが考え実行するというタートだったのである。
 昭和42年(1967)私がまだ34歳のことである。


★1年後には新しく土地を購入し、そこに仙台事務所を創ったのだが、
 それが現在の『カワサキプラザ』なのである。

  

 
   仙台事務所長になって、正直『TOPになった』と思った。
 従来のような大企業の事務所の中ではなくて、
 職制上は部長もいるのだが、現実の事務所にいる中では間違いなくTOPで、
 仕事の内容も誰の指示も受けずに『全て自分で決めれるTOP』なのである。

 普通のサラリーマンとは一寸違った『私のサラリーマン生活』の始まりだった。
 68歳で現役を引退するまで、『自分で決めて自分のやりたいようにやる
 それができる不思議なサラリーマン生活の始まりだったのである。


★ 東北6県すべての県にあった代理店の社長さんは、
 各県に何百店もの販売店を傘下に持ち、
 永年二輪営業を展開された経験豊かな方ばかりで、
 それを全く営業経験もない34歳の私がお相手をする訳だが、
 これはいま思っても大変なことだったのである。
 
 ただ私は当時の川崎航空機の『メーカー社員』ということで、
 従来はカワサキオートバイ販売の販売会社の方の担当だったので、
 この『メーカー社員』ということに若くても『メーカーから来た』ということは格別の重みがあったようである。

 赴任した1月末から、各地で代理店が開く『販売店会議』に招待されて、
 『仙台に来たメーカーの方』という紹介での挨拶をするのだが、
 100人以上の人前で話をすることなど『初めての経験』だったのだが、
 これは『不思議なほどスムース』に結構長い話が『上手く出来た』のは、
 ほんとに自分でもびっくりした。

 何の具体的な指示もないない『仙台事務所の創立』を今から私なりにやっていこうという『意気込み』だけはあったので、
 それがいろんなことを『語らせてくれた』のだと思っている。

 それまでも『他人がやったことがない・初めての仕事』の連続ではあったが、
 この仙台事務所はそれを全く一人から立ち上げていったのである。
 

★ 当時の東北では、岩手カワサキが毎年全国一の実績を上げていたのだが、
  このような抜群の成績を残していたのは、
  久保克夫社長の独特の経営が展開されていたからである。
 
 『私の恩人・久保克夫さん』というこんなブログも残している。
 詳しくお知りになりたい方は、是非ご一読を!
 

岩手の日本一の原動力は
販売網である』
『販売店への対応は』
『戦略的な対応は』
『システムでの対応』
『人間関係の維持』
『厳しさと優しさ


これらのことを私は久保さんに学んだと、そこには書かれている。
そういう意味でもこの『東北での4年間の経験』は私にとって貴重なものだったのである。

★ この時代は日本は大量生産・大量販売真っ盛りの時代で、
 それは二輪業界でもホンダさんを中心に大量販売を各メーカーとも目指していて、カワサキも例外ではなかったのである。
 そんなメーカーの方針通りに大量販売に徹していた、東北の代理店網だったのだが、
 当時の販売方式がホンダの50ccの『カブ』を大量に売るための資金力もない自転車屋さんに委託販売するという独特の日本式販売方式であったこともあって、
 代理店が大量に販売しようとすると膨大な資金がいるのである。

   



 そんなことから『資金繰り』が続かずに、メーカーの言うことを聞いて、
 数を多く売る代理店にはメーカの貸付金などの関係で資本が入り、
 そのまま『メーカー系列店』という形になって行ったのである。
    より極端に言うと
 『カワサキに協力して沢山売った代理店から潰れて行った』とも言えるのである。

   

 
 自らの実力以上には販売をしなかった代理店は、メーカー系列にはなることなく自らの経営は維持できたが、
 代理店資格は自然になくなって一販売店の位置づけとなっていくのである。
 このような二輪業界の推移ではあったが、

 こんな事実を見て、
 二輪の販売経営は『自分の力以上には売ってはならない
 健全な経営を維持するには『営業外損益の健全化が必須』であることが理解できたのである。

     


  これはその後メーカー自体でも同じような現象が産まれて、
 カワサキの二輪事業の経営の危機が何度かあったのだが、
 それは自らの実力以上に販売をしようと頑張った時期なのである。


★東北での仙台事務所長は、昭和42年(1967)からの4年間で
 その間には1969(昭和44)年4月1日 には、
 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併もあって、
 カワサキはそれを機に50ccの小型車生産を中止することになるのである。
 
 ようやく日本の二輪車需要も小型実用車から中間スポーツ車への移行がなされて、
 250A1やマッハⅢなどの中大型車と共に
 120C2SSなどのスポーツ車両も世に出て、
 モトクロスが盛んであった東北では大いに人気があったのである。

     



★ そんな世の中の動きもあって、
 『小型・実用車のカワサキ』から『中大型車のスポーツのカワサキ』への
 イメージチェンジを図り、その市場も東北や九州中心から
 東京・大阪・名古屋など太平洋メガロポリスの大都市中心に変わって、

 私は1970年10月から大阪を中心とする近畿2府4県を担当することに
なるのである。

 
 


カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 3

2021-10-11 06:59:38 | 私の生き方、考え方&意見

★カワサキの単車事業のスタートは大変なことの連続だったのだが、
 『青野ヶ原のモトクロスの完全優勝』で
 日本能率協会は『この事業続けるべし』という決断を下すのである。

 ただ『広告宣伝課を創るべし』という条件が付されていて、
 川崎航空機工業で初めての広告宣伝課が創られることになるのである。

 それまでのカワサキの広告宣伝は当時のカワサキ自動車販売で担当していて
 あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実弟の
 小野田滋郎さんが総務課長兼務でおやりになっていたのだが、


       
 
  
       その実務が川崎航空機に移ることになったのである。

       そして単車営業課で企画・営業実務のすべてを担当していた私が、
  新しく出来る広告宣伝課を担当することになるのである。

  


  
 この時点で、従来の単車営業課のあった発動機事業本部から
 新しく単車事業本部が発足し、岩城良三常務が本部長を担当され、
 本社や明石事業所の各分野から多くの優秀な事務屋が単車に異動し、
 見違えるような立派な組織になるのだが、
 広告宣伝課を担当した私は未だ入社5年目で係長にもなっていない平社員だったのだが、
 課長は苧野部長が兼務されたが、実質100%任されることになるのである。
 2年目からは、全員がカワサキオートバイ販売に出向することになって、 
 私は『広告宣伝課長』となるのである。
 そんなことで私はぺいぺいからいきなり『課長』となったのである。

  
   


 その広告宣伝費予算は1億2000万円という膨大な額で、
 川崎航空機の本社が開発費として3年間支給されることになったのである。

 1億2000万円と言えば今でも大きな額だが、
 当時の私の年収が40万円の時代だから、それは大変な額だったのである。

 1年目は一生懸命使ったが7000万円ぐらいしか使えず
 本社の専務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られるのだが、
 なぜ使えなかったかというと、
 テレビや新聞広告の所謂『マスコミ』が使えないのである。

 それは当時のカワサキの二輪車は全て実用車で、東北や九州などの田舎中心で、
 東京・名古屋・大阪などの大都会では全くと言っていいほど売れていなかったので、
 大都会がメインのマスコミは使えなかったそんな事情があったのである。


   
 


★ 本社の専務に怒られたので、2年目はちょっと無茶苦茶をやったのである。
 朝日・毎日・読売という全国紙ではなく、地方紙50紙に全頁広告を打ったりしたのだが、
 これは『カワサキはとんでもないことをやる』と広告業界で大きな話題になったのである。

 テレビコマーシャルも破れかぶれで
 当時売り出しの『藤田まこと』を使って
 『あちゃん ても んせい めた カワサキ 
 という短いコマーシャルを流したりしたのだが、
 1965年のことだから、ご覧になった方も少ないと思う。
 
 そのほか、レース活動をこの広告宣伝予算を使って
 本格的に私自身が直接担当してスタートしたのである。
 

★特に『レース活動』は広告宣伝費の多くの部分を費やして、結構派手に動いたのである。

     



カワサキのレースのスタート』については
こんなブログもアップしているので詳しくお知りになりたい方は是非ご一読を!





 1962年に行われた第一回全日本選手権ロードレースを製造部のメンバーが観戦して
 大いに感激したという話を披露したが
 その250・350の優勝者が三橋実・片山義美(いずれもヤマハ
 カワサキのレースのスタートはこのお二人と密接に関係があるのである。


 

 
 三橋実は、前述の小野田滋郎さんがヤマハから引っこ抜いて、
 厚木にカワサキコンバットを創ったので、
 カワサキのレースは、『青野ヶ原』以前のB7時代にカワサキ自販で行われていたのが、そのスタートと言っていい。
 
 関西では山本隆・歳森康師・金谷秀夫など
 片山義美さんの『神戸木の実』のメンバーたちがカワサキと契約を結んだのである。

 
 これは当時のMCFAJの朝霧高原での、全日本モトクロスだが、
山本隆・歳森康師と
カワサキコンバット三橋実・安良岡健・岡部能夫・梅津次郎
未だ未契約の星野一義などが並んでいる。


   


★ みんな『世界の』とか『日本の』と語られる有名選手になっていくのだが、
 当時はまだそんなに有名でもなかった選手たちに、
 日本のトップクラスの選手とほぼ同額の契約金を弾んだので、
 全国のモトクロスライダーたちの注目を集めたのは間違いないのである。
 当時はそんなにトップライダーは多くなかったので、
 ライダーの殆どをカワサキにしたら『間違いなく勝てる』と
 私は本気で思っていたのである。
 当時のトップライダーの契約金が100万円ぐらいだったので、
 1億2000万円の予算なら、ホントにどうにでもなったのである。
 

 当時のカワサキは何をやってもホンダ・スズキ・ヤマハに太刀打ちできずに
 『ドンケツ』に位置していたのだが、
 何とか『レースだけ』は『一番になる』といろいろと思い切ったことをやったのである。

 前述の『カワサキ・コンバット』に対しても。
 この広告宣伝費から毎月20万円の運営費三橋実に渡していたのだが、
 20万円は相当な額だったので、厚木には全国からライダーたちが集まったのである。
 その中の一人が星野一義であったり、
 後『星野インパル』を運営した金子豊などもその時秋田から来ていたメンバーなのである。
 

 カワサキの中では『レース運営』はこんなメンバーたちで構成されていて、
 『レース運営委員会』が基本方針を出すことになっていたが、
 その具体的な運営費は、金を持っていた私が担当していたのである。

 これは今思うと錚々たるメンバーだし、
 当時、やってたレース運営は、その後の予算ではとても出来ないような
 豪勢な運営だったのである。
 ヘリコプターも持っていて、レース開催地に持っていったりしてたので、
 他メーカーの選手たちに乗せてくれと頼まれて、
 そんなこともあって、いろんな有名選手と私は親しくなったりしたのである。





このメンバーの中から、後川崎重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が1人、出ているのである。
 当時はみんな若かったから、レースに関しては『気違いじみた熱心さ』だったのである。

 このメンバーは私の単車現役時代本当に密接に関係のあった方々で
 大槻さん・田崎さんとは今でも密接なお付き合いがあるのである。

 お二人は、当然この『カワサキアーカイブス』でも私と同じように、
 カワサキの歴史を語っておられるのである。


★この広告宣伝課時代は3年間、1億2000万円の予算がある間を担当したのだが、
 このような膨大な額の予算を持っていたので
 電通・博報堂・大広などの広告代理店は神戸支店の管轄ではなくて、
 全て本社企画部門の優秀なメンバーたちが担当してくれたので、
 お蔭様で私はマーケッテングなるものの本質を3年間勉強することが出来たのである。
 
 多分、川崎重工業の中でもこのような経験をされた方は少ないのだと思う。
 そういう意味で、私自身ホントに若い時分にこの広告宣伝課を担当できたことは『よかった』と思っているのである。

 
 この3年間、いろんな意味で私の人生の糧を与えて頂いた方々に感謝である。
それは
 ● 広告代理店の優秀なメンバーの方々
 ● カワサキ自販の広告宣伝課長であった陸士出の小野田滋郎さん
  小野田さんからは本格的な戦略・戦術・戦闘論を
 ● その後もカワサキの二輪事業の中心であったレース運営委員会のメンバー
 ● それに当時の単車本部長であった岩城良三常務
   岩城さんについては次回の『その4』で述べることにしたい
  

  
 



カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 2

2021-10-09 07:10:16 | 私の生き方、考え方&意見


★ 昭和32年(1957)4月に川崎航空機に入社して、最初の仕事は財産課だったのだが、
ここでは実質2年ちょっとで肺結核になってしまって三田の療養所に10か月ほど入院することになったのである。

ちょうどその頃、新しく単車事業がスタートすることになり、
昭和35年(1960)から明石工場で単車の一貫生産が始まるのだが、
営業部にも新しく『単車営業課』が新設されて
それが11月にスタートしたちょうどその時期に退院だったこともあって、
その『単車営業課』に異動することになったのである。

そんな好運に恵まれて私の単車事業とのお付き合いが始まるのである。






 最初に造られた車が『125ccB7』なのだが、
 これが大変な車で、フレームに欠陥があって毎日、毎日返却されるのである。
 

  


 その返却台数も半端ではなくて、
 私が営業に異動した翌月の1月には返却が生産を上回って
 『生産台数がマイナス17台』を記録したというウソみたいな話だったのである。


 



 
当時の二輪車は125cc以上は贅沢品ということで、『物品税』が掛けられていたのだが、
この物品税は納入するのは簡単なのだが、
返却があって収めた税額を戻してもらう『戻入手続き』は大変だったのである。

戻ってきた車は工場を出た時と同じ状態でないと『戻入』は認められないのである。
例えばもし『メーターが回っていたらダメ』なのである。
そんなことだから、『メーターの巻き戻し』などと言う中古車屋のようなことをメーカーでやったりしていて、
今思うと信じられないようなことをやっていたのである。

そんなこともあって、私の営業での最初の仕事は『物品税対策』だったのである。




  
★そんな状態だからカワサキの単車事業のスタートは大変で当然大赤字だし、
 この事業を続けるかどうかの大々的な調査を日本能率協会に依頼したりしたのだが、
 思わぬ幸運もあって単車事業の継続が決まるのである。

 


★ 鈴鹿サーキットが出来たのが、昭和37年(1962)で、
 この年の11月に日本で初めての本格的な二輪ロードレースが開催されたのだが、
 このレースをカワサキの製造部の人たちが観戦に行ったのである。
 このレースを見て感動し、カワサキもレースを!と
 翌年の6月に開催された青野ヶ原モトクロスに、出場するのである。

 その結果は1位から6位までを独占する完全優勝で、
 事業部全体の意気は一挙に上がり、
 その時、この事業存続の可否を調査していた日本能率協会は、
 この末端の意気を感じて『この事業続けるべし』という結論を出したのである。



★ これは『青野ヶ原モトクロス』に関係したメンバーの記念写真なのだが、
 このメンバーは全て当時の製造部門と営業部のメンバーなのである。


 


 あまり語られていない『青野ヶ原モトクロス』の裏話を。

 実はこのレースへの出場は、会社の正式な業務としての出場ではなくて
 製造部と営業部の有志による『プライべート』な出場だったのである。

 例えばレーサーを造る時間も、会社の仕事が終わってからだったし、
 兵庫メグロから来た松尾勇さんを中心に残業料などは貰わずに作られたものなのである。
 このチームのマネジャーを私の下にいた川合寿一さんが担当していたのだが、
 上司であった小野助治さんから
 『残業代も出ていないし、残業食も出ないのでパンでも買う金を営業の経費から出してやってくれ』と言われて、
私がやったと言えばなにがしかの金を出したぐらいのことなのである。

 もう一つ初出場のカワサキがなぜ1位から6位まで独占できたのか?
 このレースには他メーカーの有力選手も出場していたのである。
 あの山本隆さんもヤマハで出場していたのだが、
 当日は雨で水溜りがいっぱいできて、みんな車が止まってしまったのだが、
 カワサキだけが『防水対策』が出来ていて、
 止まることなく『走り続けた』結果なのである。

 
 さらに言うと、このレースの仕掛け人兵庫メグロの西海義治さんで、
 西海さんは元オートレーサーのプロ選手で、カワサキでレースをやるべく、
 ● 鈴鹿サーキットの『レース見学のバス』を仕立てたのも、
 ● 松尾勇さんをカワサキに送り込んだのも、
 ● 『青野ヶ原のレースを開催』したのも
 当時MFJの兵庫支部長だった西海さんなのである。


     
     
  
  ここにこんな写真を出したのも、
  若し本田宗一郎さんが、鈴鹿サーキットを創らなかったら、
  多分カワサキが単車事業の存続の決定はしなかったのでは?

  そういう意味で、今この世にカワサキがあるのは
  西海義治さんと本田宗一郎さんのお陰だと
  私は秘かにそう思っているのである。
 
 
 
 
 



カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 1

2021-10-07 07:10:58 | 私の生き方、考え方&意見

★ カワサキアーカイブスはこんな画面からスタートする。
  
  手前のモペットは多分M5でバイクはB7だろう。
  その後ろは、カワサキベルヘリコプターである。

 


  カワサキの二輪事業スタートの昭和35年(1960)
  国内市場だけでその販売先はカワサキ自動車販売だった。
  通称『カワサキ自販』、トヨタも『トヨタ自販』があった時代である。

 

  そしてすぐ私のインタビューに入り、


     

 
 私は、昭和32年(1957)4月、川崎航空機工業に入社するのだが、
 まず入社動機なぜ川崎航空機に入ったのかという言う質問で始まり、
 その答えが結構長く続くのである。


      



  『なぜ、川崎航空機に入ったのか?』と言われると、
  当時の副社長だった砂野仁さんが『入れたるわ』と仰ったので、
  それに従って『入れて頂いた』のである。

  
  


  その経緯はいろいろあって、
  私の祖父の話からスタートするのである。
  私の祖父古谷虎雄は私が産まれた時にはもうこの世にはいなかったが、
  いろんな方が『偉かったよ』と言われる話を聞いて育った。

  ネットにもこのように現れたりする。


  

   そんな話をしているのでこんな画面が現れたりするのである。

  
    

 祖父が亡くなってその後を継いだ伯父古谷修一南鮮電力のオーナー副社長をしていて、
 同時に明石では『錦江ホテル』の経営もしていたのだが、
 このホテルが戦時中に、川崎航空機の明石工場に来ていた軍人の宿舎にと、
 川崎航空機に接収されることになったのである。



 
その時の売買契約伯父と川崎航空機の砂野仁総務部長さんとの間で締結され、
そんな関係でその後も伯父とは親交があったのである。
 
私は戦後朝鮮から引き揚げてきて名門と言われた神戸一中に入るのだが、
それは息子さんの砂野耕一さんが一中に行ってたこともあって、
砂野仁さんの薦めがあったからなのである。

そんな関係だったのだが、伯父が私の大学2年の時に亡くなって、
その葬儀に来られた砂野仁さんが、当時は就職難の時代でもあったので、
もし行くところがなかったら、うちにいらっしゃい』と言って頂いたのである。

そんなことで、私は川崎航空機以外の会社の入社試験など一切受けずに、
川崎航空機に行くことに決めていたのである。
 ところが、私の卒業年度の昭和31年(1956)は全くの不景気で、
砂野さんが『今年は採らぬから、もう1年大学におれ』と仰るので、
私は卒業を伸ばして、大学5回生を野球部の監督をしていたのである。

結構呑気と言えば呑気な性格で、
何でも、何とかなるだろうと思うのは若いころから同じで、
それが結構『いい運に繋がっている』という結果になっているのである。

翌年の昭和32年は様変わりの『神武景気』となって、
川崎航空機に入社することが出来たのである。

 

 

★勿論、入社試験も社長以下重役陣のおられた面接も受けたのだが、
 その面接は『君は成績悪いねえ』から始まったのである。

 


 
  
 当時の総務部長が岩城さん人事課長が塚本さんだったのだが、
 『君は成績悪いねえ』と第一声を放たれたのは、塚本さんである。

 


 私は大学時代は全く勉強などしていなくて、野球一筋だったので、
 優体育実技体育理論・誰にでも優をくれる中国語の1・2 と
 野球部の部長の経済地理の5つだけで、可が二桁もあったのである。

成績が悪い』のは自分でもよく解っていたので、動ずることなく、
会社の仕事など絶対に他人に負けたりはしません』などと言ってたのだが、
岩城さんに『ところで君は野球をやってたな』と話題を振って頂いて、
あとで砂野さんから『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。

岩城さんが『野球』に話を振って頂いたのは『私が砂野さんのコネ』ということをご存知だったので、そんな配慮があったのだろうと感謝している。

ただ砂野さんは、神戸一中時代、学年の10番以内にいた私の成績はよくご存じだから『バカではない』ことはお解りだったとは思っている。
ただこの面接での『人には絶対負けません』と言い切った一言は、
現役時代ずっとアタマに残っていて、頑張り続けたのは間違いないのである。

 
★ そんな入社時代の話がいろいろ続いたあと、
 当時の川崎航空機の社風はどうだったか?という質問があって、
 『やりたいことが自由に何でもやれた』と答えているし、
 事実、新入社員の1年目からホントに自由に動けたのである。



 
 軍事会社ということで戦後の中断があって
 昭和27年(1952)に分散していた幾つかの会社が集って、
 再開されたばかりの若い会社だったから、
 いろんなことがことがまだ整っていなかった面もあったのだと思う。
  
 業務部財産課という地味でオモシロくないという部門に配属されたが、
 すぐに財産物件の管理担当者というシステムを創って、
 夫々の課の財産物件の管理をお願いしたのである。
 この全事業所の管理担当者の統括が新人社員の私なので、
 不思議なことに『沢山の部下?』がいるような形にもなったのである。

 2年目には当時のJETエンジン部門に米軍がいて、IBMがあったので、
 財産物件の償却計算のIBM化などをやっている。
 これは全社でも初めてのことだったし、
 日本にはまだIBMもIBMという会社もない時代のことである。
 因みに、IBMが日本で一般化したのはオリンピックの頃のことだから、
 その10年も前の話なのである。


ただ、当時は私だけではなくて、オモシロい方がいっぱいいた。
後、アメリカ市場を開拓し、KMCの社長をされた浜脇洋二さん

   



 あのZ1を創られた、大槻幸雄さんなど
 当時の若い方々は、ホントにオモシロかったのである。


   


 それにしても、お二人ともお若い。
 
 
★今でも広い明石工場だが、当時はその面積だけは今の2倍もあった。
 ただ、空襲でやられてしまっていたので、こんなに空き地ばかりだったのである。
手前の広場のようなのは飛行機が飛べる滑走路なのである。
会社は苦しくて、土地や機械の『売り食い』の時代でもあったのである。

  
  

★ まずは『アーカイブス第1稿』、入社したころの川崎航空機工業である。

  この頃は、まだオートバイなどは未だ造っていない。
  戦前、明石工場は航空機のエンジン工場だったので、
  技術屋さんの殆どが『エンジン屋』さんだったし、
  そんな関係で、ジェットエンジン工場発動機の小型エンジン
  ミッション歯車などの生産が行われていたのである。


 
 
 



『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』  序章

2021-10-06 06:43:14 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『カワサキアーカイブス 古谷錬太郎インタビュー』という

  こんなデイスクが我が家にある。


  


  


 
 カワサキの二輪事業の60周年記念に川崎重工の単車部門が
 二輪事業の歴史を残そうとOB達にインタビューなどして創り上げたものだと思う。

 アーカイブスとは
 『アーカイブ (archive) とは、重要記録を保存・活用し、未来に伝達することをいい、保存記録などと訳されることが多い』とある。

 そういう意味で
 ● 私の1時間ちょっとのインタビューと
 ● 私が保持していたカワサキ単車の膨大な資料
 がデイスクに収められている。


★ これは2019年2月15日に登山道夫さんのGood Times Plaza 
  こんなメンバーたちでの取材が行われた。

 インタビュアーは川重OBの山田淳一さんだったが
      事前に私のネットの記事を詳細に読んでおられて
 それに基づいた質問でもあったので答えやすかったし、よく纏まっている。
 昨日、久しぶりにそれを聞き直してみたのだが、
 これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、
 私自身が生きてきたカワサキの現役時代の人生そのものでもあると思った。

  



★いままでもカワサキの単車事業についてはいろいろと書いてきたが
 『私自身の人生の回顧録』として、私のその時々の想いを中心に、
 もう一度纏めなおしてみたいと思っている。

 特に私の現役時代の記録資料はこんなファイルが20冊ほどあったのだが、
 それは全部ご提供したので川重には正規の資料として残されたと思うので、
 現在はこの3冊に集約してあとは全て捨ててしまっている。

  

 
 その資料は、川重ではこのように綺麗に整理されてお持ちのようで、
 多分ほかに、こんなに纏まった資料はないのではないかと思うのである。
 これは大項目だが、その詳細はデイスク1枚に収まるほどの量で、
 何十年に亘る、カワサキの単車事業の歴史が収まっている。

  
  
  
★ 私自身はおおざっぱな性格なのだが、それは個人的なことであって、
  公の会社の資料などは全て『私が作成』したものではあるが、
  時系列に非常にきっちりと整理されて残されているので、
  会社としてもこんな『デイスク』に収めて残そうとされたのだと思う。

  それは昭和32年(1957)4月の入社時からスタートしているが、
  当初の18年間は会社の資料はないので自分の日記から拾って月毎に纏めてある。
  昭和50年(1975)の10月からは川重企画部門に転籍したこともあって、
  ここからは会社の資料中心に年次ごと月毎、日毎に纏められていて、
  その最終稿は川崎重工で現実に第一線を担当した平成7年(1995)3月までで終わっている。

  いずれにしても約40年のカワサキ現役時代が纏められたのは、
  20歳の時から続いている日記が手元にあったからである。


★  これは私が別に纏めている20歳からの10年毎の『私の履歴書』である。
  表の真ん中にあるように、殆どの事項が『全く新しいこと』に挑戦してきたと言っていい。
  

 


 

 ● 20代は、大学から川崎航空機入社の時期だが、
   一言で言えば『勉強期間』この時期に二輪事業はスタートしている。

 ● 30代には、広告宣伝・レースなども担当し、
   特約店制度など新しいシステム構築などが始まっている。

 ● 40代に入ると、川重の企画室に復職し、
   東南アジアプロジェクトやアメリカダンピング問題対策として、
   国内販社新体制を構築し自ら常務として経営の旗を振ることになった。

 ● 50代はアメリカKMCの経営危機で、二輪事業撤退の危機でもあった。
   この時期は企画室に戻り事業部の経営再建を直接担当し、
   後半には、ようやく二輪事業も安定し国内事業経営に当たっている。

 ● 60代は現役時代の集大成の時期で最高の時代であった。
   国内市場念願の7万台の販売目標を実現している。

 ● そして退職後の70代も、NPO 法人The Good Times を立ち上げて、
   結構、楽しくやってきた。
  この取材を受けたGood Times Plaza はその事務局でもあった。

 ● そして今80代ももう終わりに近づいている。
  結構、元気なのがいい。
  まだ、纏めてはいないが、どのように書くのだろうか?
 

 こんな『私のアーカイブス』である。
 もう一度、このインタビュー記事を振り返りながら、
 私の生き方・考え方を纏めてみたいと思っている。

 結構、長い『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』になるかも知れぬが、お付き合い頂ければ幸いである。


 
  


技監という職位    雑感

2021-10-02 06:16:05 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私は人生で『何になりたい』と思ったことはホントに一度もない。

  ただ、自分で『やりたいこと』をやって過ごしてきたし、
  幸運にも恵まれて『やりたいことが出来た人生』を過ごせたと思っている。

  社会の中では
  会長・社長・専務・常務・部長・課長などいろいろな職位があるが
  幸いにそのすべてを曲がりなりにも経験できたのである。
  その職位も世の中には大小いろいろな企業があるから、
  同じ社長でもピンキリであることは間違いない。

  私の最終職位川崎重工業の技監なのである。
  技監とは技術屋さんで博士号をとった技術の権威者や
  官公庁から川重に天下りしたお役人などを取締役待遇で遇する役職で、
  そのすべてが技術屋さんだったのだが、
  私は川重で初めての事務屋の技監だったのである。
  

    

  
  これは間違いなく当時の川重社長だった大庭浩さんの人事で、
  大庭さんからは直接私に『お前はマーケッテングの専門家だから』という
  説明付きの人事だったのである。

  大庭さんの最後の事業本部長が単車で、私はその番頭役の企画室長だったのだが、
  技術以外の経営・財務に関することはほぼ100%任されていたのである。
  大庭浩さんは『めちゃこわい』という評判の方だったが、
  その怖い顔をものともせず自論を述べていくと、
  その論理を納得されると『常にOK』が出るのである。
  そんなことで私の現役時代に私の意見を一番多く聞いて頂いた上司は大庭さんなのである。


      

  
★ この技監という職位を私が気に入っているのは、

  ● 川崎重工業で初めての事務屋の技監であったこと
  ● その職位は大庭浩社長直々の決裁であったこと
  ● その職の理由を大庭さん自らがわざわざ私に説明されたこと

 などから、私を取締役にせずに技監にされるまで、
 大庭さんなりにいろい熟慮されたのは間違いないのである。

 そして『技監』という職位は特に中央官庁では大いに役に立ったのである。
 中央官庁に行くと会社の社長や専務の名刺を出しても特別なことはないのだが、
 『技監』の名刺は結構尊重して頂けたのである。
 多分それは官公庁の結構な地位の方が天下りされて『技監』になられているので、 
 多分、その方と同じ『技監』ということなのだ思うのである。


★ 今は川重の役職も形が変わって『技監』という職位があるのかどうか、
 私には解らないのだが、
 当時は私の実際の職務はカワサキの国内販社専務して、
 実質すべてを統括して国内7万台の達成の実績を上げることが出来たし、
 当時の国内カワサキのイメージは最高の時代で、
 大庭さんが言われる『マーケッテングの専門家』としての技監に恥じない実績が残せたのを嬉しく思っているのである。

 社長は当時の川重副社長をされていた髙橋鐵郎さんが兼務されていたのである。

         

 
 これは、国内販社の社長はずっと単車事業部の本部長が兼務されていたのだが、
 当時の単車本部長は田崎雅元さんで、年次では私が1年上なものだから
 それを気にされて川重副社長の髙橋さんの社長兼務だったのだと思うのである。
 長い歴史を誇るカワサキオートバイ販売(現在のKMJ)で川崎重工の副社長が社長を兼務されたのは、唯一私の専務時代だけなのである。

 そんなことで、上の方たちが『私のこと』をいろいろ気を遣って頂いた『技監人事』だったので、
 私は今でも一番気に入っている『私の職位』なのである。
 本当にありがたかったと思っている懐かしい『技監』の職位なのである。

 
 
 
 

 

差別化   雑感

2021-09-26 06:10:11 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私自身の生き方はちょっと変わっていると言っていい。
  少しカッコつけて言うなら『差別化』が出来ていると思っている。

 『差別化』という言葉は若いころ広告宣伝を担当した時に、 
 出会ったマーケッテング用語なのである。
    普通一般の方はあまりご縁のない言葉かも知れない。

 差別化戦略とは、他社との明らかな特異性を作り出すことで、
 差別化戦略における「差別化」は、ただ単に他社と違うだけでは不十分で、
 ブランドイメージ・製品・顧客サービス・流通チャネルなどの分野での差別が必要だと言われている。

 三菱重工業・富士重工業・トーハツ・ブリジストンなどの大企業が次々に業界から去っていく中で
 独りカワサキだけがホンダ・スズキ・ヤマハに伍して生き残ったのは
 徹底した『差別化戦略』があったからだと思っている。
 二輪業界の中でも『カワサキはちょっと変わっていた』ことが生き残れた原因なのである。

 私個人の生き方も、何となく『差別化出来ている』のは、
 そんな環境の中で育ったことと、
 『差別化というコンセプトが気に入っていた』からだと思う。


★ 昨日は『読売中高新聞のアンケート』について書いたのだが、
 大体アンケートは〇ペケ式が多いのだが、
 今回のアンケートは文章で答える形式だったのである。
 それでも、アンケートに答えるには簡単に答えるのが普通なのである。


 

 
 この真ん中の欄がそれぞれのアンケートに答えられた回答なのだが、
 みんなそれなりに簡単に答えている。
 これが普通なのである。

 私自身の回答は『字数制限もありませんので・・』と断ってはいるが、
 結構な長文なのである。

 実は昨日、この読売中高新聞のアンケートを私に紹介して頂いた野本浩一さんから、こんなメッセージを頂いたのである。

『アンケートを企画した編集部の方々は、これほどの長文の回答が寄せられるとは全く想像していなかったと思います。
私も、今回の回答全文を読みまして想像以上で・・・した。
これだけ書いて貰えると、きっと何とかして取り上げてみようと決断したのだと思います。
敬老の日特集記事は9月17日でしたが、
昨日24日に2回目が掲載されたのは、古谷さんパワーの成せる技ですね。』

この特集が9月17日で、24日は特集の2回目だったとは実は知らなかったのである。
沢山の回答が寄せられた中で、私の回答ほど長文だったのはなかったに違いないのである。

  

 
 
★ 私自身はなぜか現役時代も『頼まれた案件』を担当することが多かったのだが、結構それはムツカシイ課題が多かったのである。
アイツに任しておけば何とかするだろう』と思われたようで、
 結果が常に何となく『いい方向』が得られるものだから『ややこしい話』は常にお鉢が回ってきたきらいがある。

 そんな私自身の独自のやり方の基本が『差別化』で、
 常に『ちょっとだけ』だが、普通の人のやり方とは異なった部分があるように心掛けていたのは間違いない。
 この『ちょっとだけ』の部分がKEYなのである。

 そんなに一般の人たちと変わった発想などある訳はないのだが、
ちょっとだけ』なら、気を付けるだけで『差別化は可能』なのである。


★『差別化』などという発想もその言葉も、
 一般の方にはあまりご縁のないことかも知れないが、なかなか役に立つのである。
差別問題』などもあるので一般の方はお使いにならないのかも知れない。
 現役時代もよく差別化などの言葉を使ったので、
 当時の本部長をされていた塚本さんから『区別』ではダメなのかと言われたこともあるのだが、
 それくらい『差別化』は私の生き方の基本になっていたのだと思う。

 『区別』ではダメなのである。
 ちょっとだけでいいから『いい方向に差があること』が必要なのである。
 お蔭様で、『ちょっとだけいい人生』が送れていると思っている。
 
 
 
 




読売中高生新聞の私の記事

2021-09-25 06:19:58 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日の『読売中高生新聞』に「オーバー80」からのエールとして
 こんな記事が掲載されました。

   これは80歳以上の人たちに6つの質問をしてそれにそれぞれ答えたのですが、
 ページの真ん中の欄がそれぞれ質問の答えが具体的に掲載されています。

 私の場合はそれぞれの質問の答えを上手に要約して頂いて、
 大きく写真入りで纏めた掲載となっています。

   
 


ちょっと文字が小さいので、そのまま転記すると、
その記事はこのように書かれているのです。

今、一番の楽しみは「ネットの世界」での発信と交流です。
2006年に始めたブログでは毎日、雑感日記をアップしています。
ツイッターのフォロワーは50万人。フェイスブックでは約100人とコメントをやり取り。充実した時間を過ごしています。
5km以上のスロージョッギングも日課です。体力には自信があって、小学2年生の女の子と同じくらいの速さでダッシュできます。
人生は面白くなきゃ。
そのためには、やりたいことをやること。
私は現役時代からそうしてきました。
立場や周囲の声を気にして「言われたこと」をやるようじゃ面白くない。
振り返れば、私の中学時代は戦後の混乱期。それでも野球に熱中し、甲子園に出場しました。
今は平和で安定した時代ですが、皆さん、熱中できるものはありますか?
中高生の時代は一瞬。人生は結構長いもの。
素晴らしいあなたの人生創造」のために精いっぱい、何かに夢中になって下さい。

 
★ 6つの質問とはこんな具体的なことなのです。
 その質問に多くの80歳以上の高齢者が具体的に答えているのですが、

質問1:今の一番の楽しみは何ですか。
質問2:今の悩みは何ですか。
質問3:人生で最大のできごとは何ですか。
質問4:これまで食べたもので、一番おいしかったものは何ですか。
質問5:「高齢者」という言葉が合うのは、何歳からだと感じますか。
質問6:中学生や高校生の若者に向けて、ひと言お願いします。

  こんな個々の質問をして、どのように紙面に纏めるのかと思いましたが、
 流石、本職のやることは違います。
 見事に1ページに纏めてあります。
 この記事の担当は大石さんという女性の方で、私には質問の電話があり、
 この件に関するいろんな雑談をさせてもらいました。

 私のブログやツイッターやフェイスブックもご覧になっていて、
 記事の写真はフェイスブックからのものです。

 真ん中の欄が個々の質問の答えになっていますが、
 私に記事が右上で一番いいところに持ってきていただいたのは感激です。
 


★一度、この件はブログにもアップしましたので、覚えておられる方がおられるかも知れませんが、
この質問は直接私宛に送られてきたものではなくて、
よみうり生活応援隊の野本浩一さんから私に『アンケートの依頼』があったものなのです。
そんなことで紹介者の野本さんのお顔を潰さぬように、
上記の6つの質問にも私なりに確りと答えたのを認めて頂いたのだと思っています。

 以下が私が読売新聞の大石さんにお送りした原文の大綱です。


字数の制限もありませんし、どのようにお答えしていいのか解りませんが、
私なりに纏めさせていただきます。
88歳の文字通りの高齢者ですが、ブログ・Facebook・ツイッターなどネットの世界では結構なレベルで毎日遊んでいます。
野本さんともFacebook で繋がったものです。
      
https://twitter.com/rfuruya1            ツイッター

この前文は質問1に密接に関係しますので記述させて頂きました。
以下 6項目の質問にお答えいたします。


質問1:今の一番の楽しみは何ですか。

質問2:今の悩みは何ですか。

質問3:人生で最大のできごとは何ですか。

質問4:これまで食べたもので、一番おいしかったものは何ですか。

質問5:「高齢者」という言葉が合うのは、何歳からだと感じますか。

質問6:中学生や高校生の若者に向けて、ひと言お願いします。



質問1; 今の一番の楽しみは何ですか。

 一番の楽しみは『ネットの世界』との関係です。具体的には毎日gooのブログ雑感日記をアップし、それをFacebook とツイッターにも発信しています。
いずれも相当の発信力がありますから、毎日いろんな方との接点があります。
パソコンの前に坐っている時間が少なくとも5時間以上ある生活です。
ブログには毎日700人以上が訪れ、1000ぺージ以上の閲覧がありますし、ツイッターは50万人のフォロワーがいますので相当な発信力だと自負しています。Facebookでは、毎日100人ぐらいの方と繋がりコメントのやり取りも多くなっています。
アメリカには娘の方の孫などいますが、殆ど毎日ネットの世界では繋がっていますので、毎日非常に充実した時間が作れています。
そんなことで一番の楽しみは『ネット関連』としました。

88歳ですが、毎日5km以上のスロー・ジョッギングなど1時間以上やっています。そんなことで体力年齢は50歳代と出ますし、柔軟性は20歳代で生涯で今が一番柔らかいのは毎日のストレッチのお陰です。
そんなことで運動も楽しみですし、庭仕事なども楽しんでいます。


質問2; 今の悩みは何ですか。

この質問には困っています。太平楽な性格で楽天的に生きてきましたから、現役時代も含めて人生で『悩んだ経験』がありません。性格テストで極端に出るのが『反省しない』というところです。
失敗も当然あったとは思いますが、済んだことを反省など全くせずにただひたすら前を向いて歩いています。これは88歳になっても治りません。
本当に探してみても『悩み』は見つかりません。


質問3; 人生で最大の出来事は何ですか。

 これは間違いなく昭和20年8月15日の終戦、戦争に負けたことです。
当時中学1年生・12歳でした。当時の朝鮮京城(今のソウル)で直立不動の姿勢で玉音放送を聞きました。これを境に私の生活環境は一変したと言えるでしょう。非常に豊かな生活から一変、一人1000円だけの現金を持って内地に引き揚げました。その年の12月のことです。
故郷明石の家も戦災で消滅し、戦前とは様変わりの生活となりましたが、その時も一切不幸だとかとは思わず現実を結構楽しんで生き抜けたと思っています。
ただ、若し戦争に負けていなかったら全然違った人生を歩んだと思います。
そういう意味では『終戦』は何物にも代えがたい大きな出来事でした。


質問4; これまで食べたもので一番おいしかったものは何ですか。

この質問にも答えるのがムツカシイように思います。
育ち盛りの中高生時代が戦後の食糧難の時代で、何でも食えたらいい生活が続きましたので、嫌いなものは一切なく、何を食っても『旨い』と思ってしまいます。
現役時代にはカワサキの二輪事業を担当していて、世界各国に行って所謂『旨いもの』はいっぱい頂きましたが、『一番おいしかったもの』と言われると困ってしまいます。
食べ物は何でも美味しくて、高価なものが旨いとは言えないと思います。

質問5; 「高齢者」という言葉が合うのは、何歳からだと感じますか。

一般的な話なのか、自分のことなのか? ちょっと質問の意味が不確かですが、自分のことだとすれば80歳代かなとも思います。
前段にも書きましたように、体力年齢は今も50歳代で、小学2年生の女の子と同じくらいの速さでダッシュが出来ます。
一般的には人生100年時代と言われている現代ですから、後期高齢者の75歳ぐらいではないかと思います。


質問6; 中学生や高校生の若者に向けて、ひと言お願いします。

私自身の中学・高校時代はまさに『戦後の混乱期』でした。中学は旧制中学の最終学年で神戸一中でした。高校時代も未だ食糧難の時代でした。男女共学になる中学2年生までは猛烈に勉強もしましたが、男女共学になり、高校は学区制で明石高に転校し、その度に授業の内容が1年程戻ってしまったので全然勉強をする必要もなく、野球ばかりに熱中していましたが、明石高では甲子園にも出場しています。
そんな私の中高生時代は今思っても100%満足しています。
全く背景の違う平和で安定した今の時代ですが、中高生の時代は自分の信じるもの、やりたいことに熱中すべきで、『大学受験のために勉強する』などが一番馬鹿げていて、自分の豊かな人生を創るために勉強すべきだと思います。
『勉強』も勿論大事ですが、若い時はその時『やりたいこと』に熱中すべきだと思います。
生涯付き合える『いいトモダチ』を創ることが出来るのもこの時期ですし、何事にも『熱中できる』のがこの時期だと思います。
勉強も大事ですが、勉強は一生できるので、この時期にしかできないことに熱中して欲しいと思います。
そうすることが『いい人間形成』に繋がり人生の土台になると思います。
私なりにそれは『出来た』と思っているので、『私の人生に悔いなどありません』そう言い切れることが幸せだと思っています。
中高生の時代は一瞬、人生は結構長いものです。
『素晴らしいあなたの人生創造』のために精一杯頑張って欲しいと思います。


★こんな長い文面とさらに私の雑感日記・ツイッター・フェイスブックも
 リンクを貼りましたので、大石さんはそれもお読みになったようです。
 電話の取材ではいろんなことをお話させて頂いたのですが、
 それらを全て集約しての一言が『人生面白くなきゃ』と
 『フォロワー50万人』『交流楽しむ』に集約されているのです。


     

 
  長くいろいろと書くのはそんなに至難ではありませんが、
  長いものをこれくらいに集約するのは非常にムツカシイと思います。

  いずれにしても2021年9月24日の読売中高生新聞は私にとって
  記念すべき新聞になりました。
  三木緑が丘の読売新聞で、私の記事が載っているからと言ったら、
  そこのおばさん150円の新聞代をタダにして頂きました。
  非常に気分がよかったです。

        読売中高生新聞9月24日号、こんな1面です。
  over80からのエール スぺッシャル特集なのです。

       


 このブログ、大石さんへのお礼状の積りで書いているのですが、
 『大石さん、果たして、お読みになるのでしょうか?

  
 
 

神戸・明石・三木 雑感

2021-09-18 06:04:39 | 私の生き方、考え方&意見

★人生でいろいろな土地にお世話になった。
 
 生まれたのは兵庫県明石だが、
 その後、朝鮮京城(今のソウル)・仙台・高槻・札幌・三木などにもお世話になったし、
 学生時代は中学校と大学が神戸だった。

 そういう意味ではやはり兵庫県の『神戸・明石・三木』の三つの町が
 人生の想い出いっぱいの町だと言っていい。


★ 神戸は中学校・大学で通っていた街なのだが、
 大体『遊びに行く』のはもっぱら神戸だったし、
 明石からも、今住んでいる三木から見ても『隣りまち』なのである。

 そんな神戸がこんなポスターを明石駅に貼ったとかで話題になっている。

  

 
 その話題のポスターは、若年・子育て世帯に神戸への住み替えを促すため、
 9月上旬から1週間、兵庫県内の主要21駅に張り出したという。
 駅ごとにフレーズは異なるが、JR明石駅が最も「尖(とが)った」で、
 ネット上でも「喧嘩売りすぎてる」といった反応が瞬く間に広がったとか。 
 
 盛り上がりの背景には、
 近年人口減少に歯止めがかからない神戸と、
 増加が続く明石で、
 昨年は神戸から転出が最も多かったらしい。

 ネット上でも注目された後にポスターが外されたことに
 「ネット炎上で撤去に追い込まれたのでは」との見方も広がったが、
 「掲出期間が終了したためで、誤解です」と神戸市は打ち消したという。

 そんな神戸には住んだことは一度もないのだが、 
 海もあるし六甲山もいいし、なかなかいい街なのである。
 
 私もどちらにお住まいですか?
 と聞かれたら『神戸のほう』とか言うかも知れない。
 『三木』というよりも解り易いだろう。


★明石は生まれ故郷だし、高校は野球では名門と言われた明石。
 現役時代務めたのは川崎重工業の二輪事業の本拠・明石工場だった。

  



 

 明石のイメージとしては、こんな写真が並ぶのだが、
 明石公園のお城のすぐ隣が、私の出生地なのである。
 天文科学館のすぐ下には、長寿院のお墓があるし、
 今は『魚ん棚』で有名にもなった細工町はこどもの頃の本籍だった。
 

  

  

★ 人生88年で一番長く住んだのが『三木』になった。
  三木転入が1973年1月だから、もう48年にもなる。

  いいまちだとは思うが、全国的には知名度は低いと思う。

      三木と言えば金物と山田錦のお酒の町で有名だが、

     


 日本の屈指の名門廣野ゴルフ倶楽部ほか25ものゴルフ場はあるし、

  
 

 『日本一美しいまち三木 
  ~人にやさしいスローライフなまちづくりをめざします~』

 というスローガンなのだが、ご存じない方が殆どだろう。

   


 実はこのスローガンは私の提言を三木市が取り上げてくれたのである。
 
 三木市のホームページにはこのように書かれている。
  
 『私たちが暮らす三木のまち、まちの姿には景観はもとより、歴史や文化、そして伝統など、それぞれに取り組まれてきた先人のまちづくりへの想いが詰まっています。
 私たちの三木を、すべての人や自然にやさしい住みやすいまちにする。
 市民の皆様と行政が知恵と力をあわせ、
 「日本一美しいまち三木」にむけまちづくりを進めます。』

 私がこのスローガンを提言したのは、
 兵庫県は永年『美しい兵庫』をスローガンに活動を進めているのだが、
 兵庫県のどの市も追随するところがないので、
 10年ほど前に兵庫県庁におられた薮本さんが三木市長になられた時、
 『日本一美しいまちをめざそう』と提言したのである。

 『美しい』という言葉の意味は、単に綺麗ということではなくて、
  奥深い意味を持っていて『美しい国』を目指すとも言われている。

  『神戸・明石・三木』というテーマで書いてきたが、
  『美しい兵庫の美しいまち』であって欲しいと願っている。
 

 



オリンピック やってよかったな

2021-09-06 07:22:40 | 私の生き方、考え方&意見

★ 7月23日にオリンピックは開会し、
  9月5日のパラリンピック閉会式で、2020TOKYO も幕を閉じた。

 
  いろいろと言われた今年のオリンピックだったが、
  『やってよかったな』と思っている。

   


 私にとっては日本で観ることが出来た最後のオリンピックになることは
 間違いない。

 その最後の日に『陸上競技の華』と言われるマラソンで、
 道下美里が最後ぶっちぎっての独走での『金メダル』がよかった。
 
 

 
 オリンピックでコロナが危ないと言われたのだが、
 一時25000人を超えていた新規感染者も、峠が過ぎて、今は下り坂である。
 このままの傾向が続けば、
 9月末から10月にかけて落ち着くのではなかろうか?


 


 菅総理が先頭に立って実施した『ワクチン接種対策』が機能しだしたと言っていい。
 その菅さんにとっても最後になる閉会式の晴れ舞台である。
 いろいろ言われてはいるが、
 この件は『菅さんよくやられた』と言っていい。

 
 

 
 『オリンピック中止論』が開会前は言われたのだが、
  今年の夏は、日本中が熱かった のではなかろうか?


 同じ時期のプロ野球はこんなに大勢の観客なのに

  

 
   無観客の観覧席だけが寂しかった。



 でもよかった。

 オリンピック開催を決定された関係者の方々に感謝である。
 『オリンピック開催して頂いてありがとうございました



80歳以上の人に読売新聞からのアンケート

2021-08-28 07:00:03 | 私の生き方、考え方&意見

★80歳以上の人に対して読売新聞がこんなアンケートを実施するようである。

こんな6つの質問なのだが、簡単なようでなかなかムツカシイ。
〇×方式ではないし、文章で答えるのだが、字数の制限もないし、
答え方はいろいろあるように思う。


 

これは、10代向けの「読売中高生新聞」に掲載されるようで、
読売中高生新聞では「敬老の日」に合わせた画記事掲載を計画しており、
80歳以上の方へのアンケートをお願いしているというのである。

私は何でも物事にはすぐ対応するタイプで、『放っておくのは嫌い』な性分なのである。
普通なら今ごろはもう答えを書いて送信していると思うのだが・・・・


実はこのアンケートは、私に直接送られたものではなくて、
よみうり生活応援隊をなさっている『野本浩一さ』からご依頼があったものなのである。
野本さんとはひょんなことから繋がったFacebook の友達なのである。

このアンケートは、読売新聞から野本さんに『80歳以上の方』を紹介して欲しいとの依頼があって
野本さんから私にご依頼』があったものだから、
あまり『いい加減に』応えるのもどうかな? と思って、
ちょっと1日間を置いてみよう』とこんなブログをアップしているのである。

野本さんには既に『今日にでも送っておきます』とメールしたのだが、
この質問の期限は9月6日で、まだまだ時間があるのでちょっと考える時間をと思ってこんなブログをアップすることにしたのである。


★ 読者は中高生のようだから、
若い中高生に少しでも役立つものでありたいと思うのだが、
そんなにちゃんと書けるだろうか?
各質問に対する想いを羅列するとこんなことになるのではと思ったりしている。


● 質問1の『今の一番の楽しみ』は『ネットでこのブログを書くこと』だと思っているので、
ブログやFacebook やツイッターのことを書きたいと思っている。
毎日の生活の中でこの『ネット関連』にかけている時間から言ってもこれは間違いないのである。
ただどの程度の範囲まで広げて書けばいいのか、その辺りがムツカシイのだが、
結構詳しく書いてみたいなと思っている。

● 質問2の『今の悩み』だが、私は結構太平楽な性格で、現役時代も今も『悩み』など『全く経験したことがナ』人生なのである。
質問だから応えねばならないので、今から『悩み』を探してみようと思っているのだが、これは多分幾ら探しても見つからないだろう。

● 質問3の『人生で最大の出来事』は、これは戦争の終結・日本の敗であることは間違いない。
これで私の人生は間違いなく180度変わったと思う。
若し、終戦がなくてそのままの時代が続いたとすると全然違った人生を歩いたことだろう。
この時がちょうど中学1年生・12歳のことだから、このアンケートの読者の年代なのである。
以来76年も平和な時代が続いている。昭和・平成・令和と時代も変わって昭和も遠くなってしまった。今の中高生に終戦の時の話をしてどれくらい理解されるだろうか?などと思っている。


● 質問4の『一番おいしかったもの』は、これは思い浮かばないのである。
育ち盛りの中高生時代が戦後の食糧難の時代で、『何でも食えたらいい』生活が続いたので、何を食っても『旨い』と思ってしまうのである。
結構世界も歩いて、所謂『旨いもの』はいっぱい頂いたと思うが、『一番おいしかったもの』と言われると困ってしまうのである。

● 質問5の『高齢者という言葉が合うのは何歳からか』という質問に対しては、若し自分のことだとすると『80歳代からかな』と思ったりもする。
一般的には『後期高齢者』と言われる75歳ぐらいかなとも思う。
人それぞれだが、人生100年時代で元気な人は75歳ぐらいでも『高齢者』というのが似合わない人もいるので、どう答えるか思案中なのである。

● 最後の質問6の『中高生や高校生にひと言』は確り応えてあげたいと思うが、これはなかなかムツカシイ。
私自身の中学・高校時代はまさに『戦後の混乱期』だったし、中学は旧制中学の最終学年で、高校時代も未だ食糧難の時代だった。教育制度もどんどん変わって、男女共学、学区制など『激しい変化の時代』だったが、今思っても100%満足している。
全く背景の違う平和で安定した今の時代だが、中高生の時代は自分の信じるもの、やりたいことに熱中すべきで、『大学受験のために勉強する』などが一番馬鹿げていて、自分の豊かな人生ために勉強すべきだと思っている。
生涯付き合える『いいトモダチ』を創ることが出来るのもこの時期である。
何事にも熱中して取り組むこと、そして『熱中できる』のがこの時期だから、そんな対象を自分なりに見つけて欲しい。
この時期にしかできないことに熱中すべきで、それがが『いい人間形成』に繋がり人生の土台になるのだろう。
中高生の時代は一瞬、人生は結構長いものだから
『素晴らしい人生創造』のために精一杯頑張って欲しいと思っている。







言いたい』ことはいっぱいあるようにも思うのである。
少なくとも『大学受験のために勉強する』というのではなくて、
この時代は二度とないのだから『自分のやりたいこと』に全力を傾注すべきだし、
人生を通じて付き合える『いいトモダチ』をつくる時代だと思っている。
私自身の中高生時代を振り返ってみて『最高によかった』と思っているのだが、果たして理解頂けるかどうかは自信がない。


★まだ、時間もいっぱいあるので、
この『6つの質問』は88歳の私に与えられた『試験問題』だと思って、
確り纏めたいと思っているのである。

ふと立ち止まって『考える時間』は貴重である。
そう言う意味で、このブログのカテゴリーは『私の生き方、考え方&意見』としたいと思っている。