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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

最近の日課     雑感

2022-05-08 06:19:04 | 私の生き方、考え方&意見

コロナの時代も3年目に入っている。
 高齢者は罹ると危ないというので、極力人に会わぬように努めて、
 静かに独りで暮らすようになってもう3年目だということである。

 慣れてしまえばそれで特に問題もないようにも思うし、別に退屈するではなく自然に暮らしているのだが、
 毎日の大体のスケジュールは夜中にトイレには立つが、6時起床、10時就寝だから結構睡眠はとれている。

 ●起きるとパソコンの電源を入れ、ブログやFBに投稿する。
 ●7時ごろには朝食をとり7時半ごろには家を出て公園に走りに行く
 ●1万歩、約7kmを走ると、約1時間40分
 ●9時半ごろには家に戻って、10過ぎから庭仕事
 ●昼飯を食う前に、家内の買物に付き合うのが週2回ほど
 ●昼寝をすることもあるが、午後も庭仕事、ブログの原稿アップなど
 ●夕食は結構早くて6時には済ませている。
 ●夕食後から10時まではテレビを観たり、碁を打ったり、ストレッチをしたり、そんなに退屈をするわけではない。
 ●こうして1日が過ぎるのだが、時間があったらパソコンに向かっているので退屈しないのだろうと思う。

★家の中のことは一切と言っていいほどやらない。
 「家内」とはよく言ったもので、家のうちを仕切るのは家内に任せているというか「やらせて貰えない
 この辺は最近の若いご夫婦とは全然違うと思うが、それはそれで「よくできている」と自分では思っている。
 お陰様で家内も、体調が万全であるとは言えないのだが、
 家の中のことは一切任せても出来るので助かっている。


 今日は風呂のこんな簀の子が旧くなったので買いに行ったが、
 そんな判断もすべて家内で、私はただ車の運転をするだけである。

  
 
 
 以前の簀の子は5年ほど前に、アメリカの一番下の孫が日本に遊びに来てた時に買ったのだという。
 その時は「孫が持ってくれた」などと覚えているのである。

 私は家事もやらしてくれたら「結構手際よく上手くやれる」と思うのだが、
 今のところは「やらして貰えない」ので「やらないだけ」だと思っている。

★そんな他愛のないことを言っているが、
 もう人生もお互い間違いなく「末期」に入っているので、
 今後、どのような生活が待っているのだろう?
 
 何はともあれ「健康第一」と思って、トレーニングに結構な時間を割いてはいるのだが、
 人間はいつ何時どうなるかは解らないのである。
 私は今まで2度、突然意識を失ったことがあるのだが、2度とも運よく助かっているのである。
 ちょうどアメリカの孫が遊びに来てた5年ほど前、
 風呂の中で「意識を失って」いたのだが、その時は孫がいたので引き揚げてくれたようである。
 
 救急車が来たときは、意識は正常に戻っていて特に何事も起こらなかったのだが、
 人間何があるか解らないものである。

★最近の日課は前述の通りだが、これから先、どうなるかは全く解らない。
 大体「太平楽」な性格だから、「何とかなる」と思っているのだが、
 「心配してみても、なるようにしかならない」のだろう。
 
 兎に角、「最近の日課」を続けて行こうかなと思っている。



仮説を立てる

2022-03-04 06:50:04 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は『差別化』にちょっとだけ触れたが、
 私の生き方の中で『仮説を立てる』ということも大きな部分を占めていた。

 世の中で新しいシステムを創造・構築するための前提は『仮説』がMUSTなのである、

 『仮説を立てる』と検索すると、
 いろんな文章が並ぶのだが、ちょっとご紹介すると

●自社の方向性などをもとに仮説を立てると、集めるべき情報は絞られ、情報収集のための無駄な時間をどんどん減らせるのです。

●短時間で質の高いアウトプットを出す人をうらやましいと感じたことはありませんか?
実は、いわゆる仕事のできる人の多くは、往々にして普通の人とは違う頭の使い方をしています。

仮説思考とは、簡単に言うと「おそらくこうなるかな」と先を見通していく思考方法です。仮説とは、自分なりの「仮の答え」です。

仮説思考は、この先最も大切なスキルと言えるかもしれません。
まずは今何が起こっているのかに好奇心と興味を持って、常に問題意識を持つことから心掛けてみてください。

 などと書かれている。

★なぜ突然、『仮説』などを持ち出したのか?
 現役時代いろんな新しいことにチャレンジしたが、
 そんな中で最も成功して、今も続いているのが, カワサキのユーザー組織・KAZEである。

 そのKAZEの機関誌が送られてきて、


  



 そんな中にKAZEの会員カードを単なるカードから
 クレジット機能のある『JCBとの連携カード』にすれば、
 1年間年会費を無料にするというのである。
 


  
  


 私が30年前KAZEを創設した時は、すべてが『JCBとの提携カード』で
 単なる会員カードはなかったのである。
 その後なぜか単なる会員カードを創られたのだが、
 この仮説は多分その方が会員の数が増えると思われたに違いないのである。
 ただ、その仮説多分間違っていたと思うので、
 今回『JCBカードへの切り替え』に動いておられるのだと思うが、
 それが正解だと思うのである。


★ 30年前を振り返ってみると、ホンダはHART ,ヤマハはYESSなどユーザークラブ全盛期で、
カワサキのKAZEは後発で、まだ2000人ぐらいの会員数だったのである。
 
その時私が立案実行したのが『会員カードをJCBと連携する』ということだったのである。
その時の私の仮説は『JCBカードにすれば止めにくい筈だ』という1点だけで、
KAZE会員を安定して増やす方向を目指したのである。

この「仮説」は最高に機能して、各社のユーザークラブは消滅してしまったが、
30年経った今も独りカワサキだけが残って、今も活動を続けている。

単純な仮説だが、普通の会員カードにして3000円もの年会費を取ると、
1年後には止めてしまう人が殆どだろうと思ったのである。
JCBカード』にすれば、止めようと思うと手続きが要るので、
止める人は少ないだろう』という仮説で、
その仮説通りKAZE会員55000人までになったのである。

 JCBのKAZE会員カードはこんな形で、
 私は今も現役のKAZE会員なのである。 
 

   

 
★私自身は新しいことをやるのが、性格的に好きなのだが、
 そのコンセプトの基本は『差別化』と『仮説を立てる』ことである。

 現役を卒業してもう20年にもなるのだが、
 ブログもツイッターもFacebookも私なりの差別化や仮説から成り立っていて、
 普通一般の方とは間違いなく『差別化』されて、
 『私の仮説』の方向で動いている。
 その結果、結構な数の読者や、トモダチと繋がっていて、
 89歳のおじんとしては『差別化された素晴らしい世界』の中で、
 楽しく毎日を過ごせていると思っている。

  
 
 
 
 

89歳を迎えて

2022-03-03 06:15:43 | 私の生き方、考え方&意見

3月2日は誕生日だった。
 Facebookでは本当に沢山の方からお祝いのメッセージを頂いたのだが、
 ちゃんとお礼のコメントをお返しできたかどうか。
 若し失礼があったら歳に免じてお許し下さい。

 89歳とはよく生きたものである。
 本当にこんなに長く生きることが出来るとは思わなかった。
 『人生運かな』と思っている。

 それなりの努力もしたが、兎に角『運がよかったな』とは思っている。
 ものは考えようで、何事も『運がよかった』と思って
 『満足して生きる』ことが次の運を呼び込んでくれるような気がする。

 89年生きた人生に『不満はない』というか、
 逆に言うと『欲がなかった』のかも知れない。
 自分のことについては、あまり高望みをしなかったのがよかったのだと思っている。

 現役時代の仕事の目標は結構高い目標にチャレンジしたのだが、
 不思議なほど周囲の方が協働してくれて、目標はすべて実現できたのはよかったと思っている。
 
★ 人生で個人的にも会社の仕事も、その基本コンセプトは『差別化』だった。
 何事も一般のレベルからはちょっと『差別化』されて、
 ちょっとだけ『普通とは違うレベル』を目指したのだが、
 それが実現できたのは、努力もあったが『運がよかった』と思っている。

 今の毎日も、ちょっと『差別化』された毎日になっている。
 毎日、朝は2時間ほど動いている。
 『1万歩・7km・アクテイブタイム1時間』という目標を掲げて
 体を動かしているのだが、それがスムースに出来る環境になっている。

 極端な言い方をすると『コロナ』がそれを後押ししてくれている。
 『コロナ』のお陰で、1日のスケジュールは100%自分の思い通りに立てられるのがいい。
 
 午前中はそんなことで終わって、
 午後は『庭仕事』など精を出している。
 20年続けた薔薇にもちょっと飽きが来ていたのだが、
 今年はひょんなことで『苔に出会った
 『』は89歳のおじんの相手としては似合っていると思う。

 枯れないというのが気が楽でいい
 水を撒くぐらいで、肥料も要らぬし、草抜きぐらいのことでいいらしい。
 小さな庭だが『土が見えないように』が今年の目標で、
 いまのところ80%ぐらいは実現できている。
 この春に多分胞子から増えて、今年中に100%になるだろうと思っている。

 
★ 3月は春の始まりである。

 三木総合防災公園の梅は今が盛りで、今朝は写真を撮って来た。
 こんないい環境の中を走っている。
 人が少ないので『ノーマスク』なのである。
 その辺が都会とは違って恵まれている。

  
 

 

 
 
 家のしだれ梅も花開きだした、そんな季節である。

 
 


 

★こんな梅たちとともに89歳を歩き始めた。
 89歳の目標は、順不同に

 ● 苔庭への挑戦
 ● 毎朝の運動&ストレッチ
 ● このブログをちゃんと書くこと
 ● パソコンでの『パンダ碁』 これは頭の体操
 ● 庭仕事は薔薇の世話や草抜きごみ拾い挿し木
 ● 体重を70キロ台

 こんなことかなと思っている。


 
 

米寿・88歳の1年と今後の目標

2022-03-02 06:56:57 | 私の生き方、考え方&意見

★ 3月1日である。
 米寿の年、88歳の1年の最後の1日である。

 ちょうど1年前にこんな目標を立てている。
 これは孫に貰ったFitbit があるから、こんな目標が立てられるのである。

 歩数1万歩・動く距離7km これくらいは出来るかも知れぬが、
 アクテイブタイム1時間はただ歩いただけでは記録されないので、
 これはスロージョッギングでカバーしている。

 『米寿の目標』としてはかなりハードだとは思うが、
 ほぼクリアできたので、
 『卒寿までの目標』としてそのまま継続することにした。

   
 

 どんな実績かというと
 これは極く近々の実績だが、こんな感じで大体1年が通せたのだが、
 ただ、11月に膝がおかしくなって1か月ほど休んだが今は回復している。

 
 ご覧の通り殆ど1万歩だが、雨の日など全然ダメな日もたまにはある。


  


 
  その結果のアクテイブタイムは以上ようなことで
  スロージョッギングできなかった日は「0分」なのである。
 

 
  

  
  目標の7kmも殆どクリアできている。
  これくらい動くと消費カロリーは2000cal はオーバーするし、
  睡眠時間は10時就寝、6時起床が殆どだから大丈夫なのである。


 

  

★ 卒寿=90歳 までこの目標のままにしたのだが、
  昨年の今頃と比較して全く変わっていないと思っているからで、
  
  ただ耳が聞こえ難くなったり、歯が痛んだりしているから、
  それなりに『歳相応』なのだとは思うが、
  まあ『元気』だと言っていい。

 
  さらに『白寿』だとか 『百寿』などあるようだが、
  

 そんな高齢者になっても『ちゃんと歩ける』ことがMUSTで、
とぼとぼ歩き』は歓迎できないと思っている。
 スロージョッギングが出来てる間は、ランニングもOK
 50メートルなら『ダッシュ』も大丈夫なのだが、
 果たして、あと何年続くだろうか?

 
 でも、これだけ運動しているのに、体重は一向に減らない。
 今は82キロだが、目標の70キロ台はなかなか遠いのである。
 食い過ぎかなといつも思うのだが、
 戦後の食糧難の時代に育ったので仕方がないのかなと思っている。

 3月2日89歳の誕生日で、
 Facebook には沢山のおめでとうを頂けるのだが、
 89歳の1年の目標は『米寿の年の目標』をそのまま継続することにした。


 
 


生涯お付き合いのあった方々   雑感

2022-02-02 07:03:41 | 私の生き方、考え方&意見

★ 人間、一生のうちでどれくらいの方々とお付き合いがあるのだろうか?
 振り返ってみると、
   高校や大学の野球部の連中とは、親しく付き合ていたのだが、
 今ではみんな亡くなってしまったし、
 そんな年配の人たちはネットなどやる方は殆どいないので、
 今では全く誰もいないと言ってもいい。

 そんなネットを私自身がやりかけたのは70歳を過ぎてからだから、
 いま繋がっている方々の殆どは、70歳以降に出会った方々が殆どなのである。
 現役時代から親しかった方でネットをおやりの方とは現在も密接に繋がっていて、
 これは私にとってホントに貴重な存在なのである。

 
★ 私も3月には89歳になるので、今年は80歳代最後の1年なのだが、
 2006年9月からスタートしたブログ『雑感日記』を毎日アップして
 Facebook にも転記しているので Facebook で繋がっている方が殆どだと言っていい。
 
 実は昨日、Facebookのメッセージで Kumiki Shimizu さんから、

 こんにちは。ご無沙汰しております。いつもFBをみていますが、お元気そうでなによりです。 
本日、久しぶりに北見さんに電話してみました。一年前に電話した時は元気そうでしたが、奥様が電話に出て今は毎日寝て休んでいるとのことです。 ・・・
 
 というメッセージを頂いたのである。
 
北見紀生君、バイクの雑誌などにも登場したりして、この世界では結構有名人だが、かってのブログにはこんな風にアップしているのである。

「私の交友関係というか人脈は、ちょっと普通の方とは変わっていて、
どちらかと言えば、社会的な地位と言うよりもその世界での実力者や有名人が意外に多いのである。
こう言えば失礼だが、そんな方たちも、お付き合いを始めたときはそんなに有名人でもなかったし、成功者でもなかった方も多いのである。
共通して言えることは、『奇人、変人』の類であることだけは間違いなくて、『奇人、変人』は成功する率は至って高いと言っていい。
北見紀生君は東京営業所のサービス主任で、腕は確かで、職人気質の実力で最右翼の人だった。」

 Kumiki Shimizu さんにはこの時のブログにアップしたこんな写真を、
 メッセージでお送りしたら、

 


 Kumiki Shimizu さんからは、こんなメッセージが戻って来たのだが、
 そんなことは全く忘れてしまっているのである。
  
一緒ご一緒しましたね。その時に北見さんを紹介していただいたんですよ。それが縁でお付き合いさせて頂いてます。 




 そんなことは全く忘れていた。
 

 確かに、この時のメンバーは北見さんを入れて5人ほどは
 現役時代からお付き合いのあるメンバーだが、
 そのほかはみんな、ネットをやりかけてから繋がった方たちで、
 今でも毎日のように私のfacebook に『いいね』を頂く方たちなのである。

 調べてみたらこの日は2012年7月2日だから もう10年も前のことなので、
 つい先日のことのように思うが、もうあれから10年経っているのである。
 
★ 私が生涯お付き合いのあった方たちは、結構その幅は広くて、
 どんな方とも気軽に『お付き合いが出来る』のは私の特技と言ってもいい。

 現役時代は会社関係の方たちよりも、
 むしろ業界関係やレース関係の方たちとのおつき合いが多かったし、
 現役を卒業してからも、三木の方たちや
 ネットなどで新しく繋がった方も多いのである。

 最近はFacebook で毎日のようにお会いしている「仲俊二郎さん」などは、
 ネットではひょんなことで一昨年の12月に繋がっているのだが、
 川崎重工にお勤めだった方で、作家で、川重時代は私の妹と同じ職場におられたというのだが、実際にはお会いしたことはないのである。



  


 ふとしたご縁で、こんな一冊の本から繋がったのだが、
    仲俊二郎さんに限らず、お会いしたことはなくても毎日Facebooでお会いするトモダチはいっぱいなのである。
 
 そんな実際には「お会いできていない」方とのお付き合いを含めて、
 『生涯お付き合いできる方とのご縁』はほんとに不思議なのだが、
 その一つ一つを大事にしたいと思っている。

 あと何人ぐらいの方との新しい出会いがあるのだろうか?


 
 

 
 
  

悩みごとのなかった人生だが・・・

2022-01-30 06:30:16 | 私の生き方、考え方&意見

★人間生きていく上でいろんな悩みがあるものだという。
 然し、自分の人生を振り返ってみて
悩みごと」など全くなかったような気がする。

 自分自身のことについては、子供のころから、
 「何になりたい」というような欲が全くなかったように思う。
 進学についても、就職についても、
 何となく周囲の人が決めてくれた道を歩んできたし、
 社会に出てからも、自分の進む道は周囲の人が決めてくれたようなところがあった。
 
 別に高い給料を貰っていたわけでもないが、
 「給料が安い」などと思ったこともないし、「金を貯めよう」と思ったこともない。
 逆に「金で苦労した」こともない。
 
 20歳代後半からずっとリーダー役だったが「出世欲」などは皆無で、
 お金に対しても地位に対しても何故か「欲がなかった」のである。

 振り返ってみると、「自分のために」というよりも、
 「周囲の人」や「二輪の末端ユーザー」を視野に、動いてきたようなところがあって、
 現役時代は二輪の販売関係が主だったのだが、
 販売台数利益の追求なども勿論やったのだが、
 むしろ、販売店自体の強化販売網のあり方などの「仕組み構築」などに専念していて、
 それらは「自分自身のこと」ではなかったので「自分の悩みごと」にはならなかったのだと思う。

 何事も現状よりは「よくなる方向」を目指したので、
 常に何事に対しても楽観的に「大丈夫」と思ってしまう性格と、
 仮にできなくても、それは「現状維持」なのだから、
 困ることは全くないと割り切っていたのだと思う。

 
   
 

家庭的にも子供の教育など家事を含めて、家内が殆どやってくれたし
 子供の進学就職結婚問題もすべて
 私は横から見ていただけで、相談などには乗っていないのである。

 一言でいえば「恵まれていた」というか「運がよかった」のだと思っている。
 ただ、考えようでは「運が悪かった」とも言えるのである。
 子供の頃は、結構な資産があったし、朝鮮での電力事業などに関わっていたのだが、あの敗戦ですべてを失ってしまっているのである。
 若し、戦争がなかったら全然違った人生になったことは間違いないが、
 どちらがよかったかは、よく解らない。





★いろいろと変化のあった時代を生きてきたので、それなりの多くの経験が出来たし、
 一生懸命生きてきて「悩む暇」などなかったのである。
 現役時代は結構ムツカシイ難題に直面することが多かったのだが、
 なんでも「大丈夫」という「太平楽な性格」なので悩みに繋がったりしなかったのだと思う。


 あと1か月で89歳になる。
 いまはお陰様で家内も元気でいて「悩みごと」など全くないのだが、
 ひょっとすると今からの人生で「悩みごと」が生じる可能性はあるような気もする。
 「年金生活」だが、金銭的には多分問題はないだろうが、
 いまから「悩みが出来る」としたら、健康問題かなと思っている。
 
 なんでも「大丈夫」というのが口癖だが、
 家内とどちらかに「健康問題」が出たら「大丈夫」とは言っておれないだろうから、
 それは「悩み」に繋がりそうである。

 勿論健康には留意していろいろやってはいるが、
 いつかは限界も来るのかなと
 最近は何となくそんなことを思うようにもなった。

 いつまで『大丈夫』と言い続けられるのだろう?
 
 
 
 
 
 


人を点数で評価する方式    雑感

2022-01-23 06:54:41 | 私の生き方、考え方&意見


大学入学共通テストの問題をちょっと見たが
 どれも難しくて、とてもできるとは思えない。

 


ただ、難しくなりすぎて「6科目で平均点過去最低」だという報道も流れた。
そんなに試験のレベルを上げてどのような効果があるというのだろうか?
入学試験とは今から育てる人材を選ぶだけのもので、
入学してからの大学の在り方のほうがより大きな課題だと思うのだが。

 私たちの時代にも「進学適正検査」というのがあったのだが、
 これも「問題がある」ということで無くなってしまった。
 大体「人を点数で評価する」ところに問題があるのではと思ったりする。

★ 私自身のことを振り返ってみると、
 小学校時代は、卒業時に知事賞にあたる府伊賞を頂いたりした。
 中学校も秀才が集まると言われた誉れ高い神戸一中だったが、
 2年生までは10番以内にいたが、成績が良かったのはそこまでである。
 それから先の数学でもほかの科目でも専門的知識のレベルになると、
 全く興味を失って、全然勉強をしなくなってしまった。
 そんな現実とはかけ離れた専門家の世界などには何の魅力も感じなかったのである。
 
 従って私は「専門的知識」は皆無だが
 現役時代は専門家と思われる方々にはいろいろお世話にはなったが、
 結構、大きな課題に取り組むことが出来て、
 89年になろうとする『自分の人生』に悔いなど全くなく満足している。

 一応は大学まで卒業したが、大学の成績は「」ばかりで、
 川崎航空機の入社試験の面接では「君は成績悪いね」で始まった。

 ただ、私は運転免許試験なども含めて、「試験に落ちたことはない
 そういう意味では「」だけはよかったのだと思うし、
 逆に言うと「運を呼び込む」人生の歩き方をしたようにも思う。


★社会に出てからの会社での評価は、
 自分でも不思議に思うほど「最高のトップ評価」を頂いたが、
 二輪業界というオートバイ屋さんがお客の業界だったから、
 「学校での知識」など全く要らなかったのが幸いしたとも思う。
 一体社会での「評価」と「学業成績」とはどんな関係があるのだろう?

 ところで、日本とアメリカでは大学入試の形態が全く違っていて、 

 日本 にお け る入学 試験の 形式は学力 テス ト中心だが、
 アメリカで は適性 テス トが大 学 入試 に取 り入れ られ てい て、
 高 校 の課 外活動 な ども加味 して、 大学 ご との基準 に よって選抜 して いる。
 アメリカの大学入試 は正 に 多様性 を志 向 して いる と言 え るのである。

 娘のほうの孫の門野真也は、
 世界的な大学のレベルでは東大よりはずっと格上のアメリカのバークレー大学卒業だが、
 日本にいたら東大には多分入れなかっただろう。
 勉強もしなかったわけではないだろうが、サッカー中心の高校生活だった。
 バークレー大学にはサッカーでの推薦入学だが、
 入学後はサッカーだけだはなく厳しい授業にも通って、無事卒業している。

★私などは間違いなく、アメリカ方式がいいと思うが、
 日本がこのように変わるのはなかなかムツカシイような気がするのだが、
 学生にこんな訓示をしている大学の学長さんもおられるのである。

大学で学ぶ意義とは、結論から言えば、将来、自分の夢を実現するための力を養うことだと言えます。
ただ、夢を実現するには、単に学問を修めて知識や技術だけではなく、
人間的な成長、社会で生きていくための社会人としての基礎力を養うことが欠かせないのです。
1.国際的な教養を身につけること。
2.批判的思考ができるようになること。
3.創造力を身につけることです。
 また、人間的な成長の中には、柔軟な思考を持つことも含まれています。
グローバル化が進む現代では、多くの企業が国際的に通用する人材の育成を、大学に強く求めています。』

  
   


 そういう意味も含めて
 「人を点数で評価する方式」もいい加減にやめないのかなと思ったりしているのである。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


大変だと思ったことがない

2021-12-07 07:25:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日「歩けなくなってしまったが・・・」というブログをアップしたら、
 ほんとに沢山の方から、お見舞いや励ましのコメントを頂いた。
 
 いろいろと本当に有難うございます。
 改めて、お礼を申し上げたいと思います。

 88歳の人生の中で、一般には「大変だ」と思うことを何回も経験してはいるのだが、
 当の本人はそれを「大変だ」と思ったことはホントに一度もないのである。
 今回も、ひょっとして「足の手術」ぐらいはあるかな?と思っていたのだが
 「骨に異常なし」ということでラッキーだったと思うし、
 あまり経験できない「松葉杖」が経験出来て、
 「よかったな」というのは変だが、それに近い受け止め方なのである。

 「松葉杖」の歩き方がこの月末にはどのくらい「スムース」になるかが、
 楽しみなのである。

 



★ これは私の「いい加減な・太平楽な」性格から来ていて、
 ほんとに悩んだりはしないし
 何事も「ラッキーな面」はあるので、
 それを真っ向からそのように「いいほうに考える」ので
 悩んだリすることは全くないのである。

 以前にも書いたが、会社でやった性格テストで、
 「飛び抜けて異常」だったのは、
 「反省しない」ということだったのである。

 今回もこのようになった原因は解っていて、
 「毎日1万歩」を目指した11月初めごろの実績が、
 ちょっと「やりすぎ」だったのは間違いないのだが、


  
 
  足が痛くなったのは、11月23日からなのである。
  然し少なくとも「2週間」は「1万歩スロー・ジョッギングできたという
  実績のほうが「気に入っている」ようなところがある。
  そのあたりが「反省しない性格」なのである。

  多分、こんな性格は死ぬまで治らないのだと思っている。


 
 

  


かっては「給料は上がるもの」だったのに   雑感

2021-11-28 06:22:34 | 私の生き方、考え方&意見

★ 「日本の給与水準はなぜ上がらないのか?
 
 「韓国にも抜かれた」とこんなグラフが載っていた。

 
  


 岸田総理も新資本主義とかで「成長と分配」問題に取り組んでいるようだが、
 何故こんな状態になってしまったのか?
 

 
 
 何が問題なのか?
 ムツカシイことはよく解らないが、
 私自身は「給料がどんどん上がった時代」を生きてきたので不思議に思うのである。
 
 
★ 私が社会に出て初めて貰った給料は12000円で、それも月2回払いだった、そんな時代だったのである。
 当時の川崎航空機工業の経営の実態はそんなに良くはなかったが、
 世の中の水準もそんな状態だったのである。
 昭和32年(1957)年、64年も前のことだが、
 それ以降退職するまでの40年間「給料は兎に角上がり続けた」のである。

 入社して10年後には10万円の台に乗りざっと10倍になった。
 1970年代後半から4年間は、毎年20%も上がった年が4年ほど続いて、
 その4年間では15万円ほどだった給料が30万円に倍増したのである。
 ちょうど土地を買って家を建てた時で、借入金の返済が始まったのだが、
 その返済に大いに助かったことを思い出す。
 ただ、物価も同じように上がったから、生活が楽になった訳ではないが、気分的には悪くはなかったのである。

 そのあと50万円になるのにもそんなに長くは掛からなかったし、
 40年間勤めた退職時には「初任給の100倍」にもなっていた。
 今の時代からみると「ウソのような時代」だったのである。


★ そんなにどんどん上がった給料だが、
 二人の子供たちが大学を卒業するまでは貯金など出来る状況ではなかった。
 サラリーマン生活の最後の10年間だけが、何とか余裕が出来たのである。
 1990年代の10年間である。
 
 こんなグラフが載っていた。
 その1990年代の所得水準よりも現在は下がっているというから、
 ほんとに考えられないのである。
 



 
★ それにしても「かっては給料は上がるものだったのに
  なぜこんなことになっているのだろう?

  いろんな解説が載っているが、その一つにこんなのがあった。
  こんな5つの理由を挙げていた。
  1.労働組合の弱体化
  2.非正規雇用者の増加
  3.少子高齢化の影響
  4.内部留保を貯めこんで賃金を上げない経営者
  5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
  

   


 確かに私たちの時代とは違った環境であることは解る。
 詳しい解説を簡単に纏めてみると以下のようになる。

1労働組合の弱体化
日本はバブル崩壊によっての景気後退を人員カットで対応するのではなく、
クビにされるよりも給料を下げることに同意した日本特有の労使関係があり、
「企業内組合」が一般的な労働組合の構造的な問題がある。

2.非正規雇用者の増加
「労働者派遣法の改正」によって、企業は非正規雇用者を雇いやすくなったことは、
実質賃金低迷の原因の1つとして、見逃すことはできない。
これには人件費を削減して、業績悪化から企業を守った面はある。

3.日本の少子高齢化
人口減少に対応するために非正規雇用や女性のパートタイマーや、外国人労働者など、
かってはリタイアしていた高齢者が格安の賃金でいまだに働き続けているという現実や、
自営業や中小企業の従業員は、実質賃金の伸びが抑えられている。

内部留保を貯め込んで賃金を上げない経営者
バブル崩壊以前は、社員こそ最大の資源として、会社も賃上げに積極的だったが、
崩壊以後は労働組合が弱体化したこともあって、企業は内部留保を貯め込んだ。
いまや日本の企業が持つ利益剰余金は金融、保険業を含めれば507兆円となり1年分のGDPに匹敵する余剰金がある。

5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
通信や交通などの公共料金分野は、規制緩和の遅れで新規参入を阻害した結果、適正な価格競争が起こらなかった。
スーパーやコンビニ、スマホ、宅配便、外食産業といった業種では、価格が低く抑えられてきたために、賃金がいつまでたっても上昇しない。

 
確かにこのようなことがあるのは確かである。
ただ、一般国民の賃金の「低位安定」の状況を問題視しなかった政府や経営者に問題があるのだろうが、
この筆者は最後にこのように纏めている。

日本国民は極めて素直で、従順な民族だから、
政府が一定の方向性を示すと素直に従う習慣がある。
賃金より雇用という大きな流れの中で、我慢し続けている国民がいるわけだ。」

 
★ 私自身は極めて優遇された時代環境の中で、自らの給与は上がり続けたのだが、
 サラリーマンの最後の時期には経営者の端くれみたいなこともやったが、
 2度「従業員の給与水準の引き上げ」をやっている。
 
●その1回目は90年代半ばカワサキの国内販社担当の時期、
 7万台の販売目標を達成して、会社の業績は売上高400億円総資産100億円自己資本35億円という絶頂期ではあったが、
 当時のカワサキモータースジャパンの従業員の給与水準を上げている。
 川重籍の従業員との給与水準の格差があったので、それを幾らかでも縮めようとした。
 
●2回目は、最後に担当した北海道川重建機でも一般従業員の給与水準を上げている。

どちらの会社も労働組合などないので、TOPが判断して実行しない限り、
賃上げ」などは実現しないのである。
従業員の賃上げ」などおやりになった方は珍しいとは思うが、
 そんなことが出来る機会に巡り合えて「よかったな」と思っている。


 
 
 




コロナ新感染者全国で50人・もう終わった?

2021-11-23 06:32:27 | 私の生き方、考え方&意見

★「私の生き方・考え方&意見」というカテゴリーで書いている。

 昨日の全国コロナの新感染者は50人。
 こんなレベルになると、「もうコロナは終わった」と言ってもいいような気がする。
 

 全国で33県がゼロ人なのである。


 

 

 誰もあんまり言わないが、
 私は「菅総理のワクチン接種方針」が正解だったと思っている。
 徹底的な「ワクチン接種」が機能して、こんな数値になったのだと思う。


  

 
 所謂、専門家先生方は兎に角「ムツカシイこと」ばかりを仰るが、
 全国で50人という数値は、ゼロに等しいのではなかろうか?
 マスコミも煽ることばかりだが、
 ずっと、ずっと以前から、
 世界の先進国の中で、日本のコロナ感染者数は桁が全然違っていて、
 「コロナ対策の失敗」などなかったのでは?と思ったりしたのだが、
 マスコミの論調は「コロナ対策の失敗」と煽ったようなところがある。

 確かに、世界全体ではまだまだ終わっていないのだとは思うが、
 日本の場合はよほど間違いを起こさない限り「大丈夫」なのではないかと思うのだが、
 専門家先生などは危ない危ないと仰るのである。
 「よほどテレビの出演料」が欲しいのかなと思ったりする。

 コロナに限らず、世の中の「カシコイ」とかエリートと言われる人達は
 「危ない」「問題だ」などと悲観的なことばかり仰るのである。
 そんなことを言うばかりで、具体的な対策は示さない。
 そんな「エリート」と言われる人たちはどうも好きになれない。

 私自身はまさに「太平楽」で「超楽観的な性格」で
 世の中に「大変なこと」はあまりというか、殆どないと思って生きてきた。
 別に「大した事」もしなかったが、対処した事柄は殆どいい結果に終わったのである。

★ 私の88年の人生で「大変だ」と思ったのは「昭和20年の終戦の時」だけである。
 確かに、あの8月15日を境に世の中は一変したのである。
 それに比べたら「コロナ」などそんなに大したことではないのではなかろうか?

大変だ」と悲観的に言ったら賢く見えて、
大丈夫」と楽観的に言ったらバカにする。
 そんな発想は、もういい加減にやめて欲しいのだが、ダメかな?


 
 
 
 
 

八方美人な生き方   雑感

2021-11-04 06:41:12 | 私の生き方、考え方&意見

★ 長年「八方美人」で生きてきた。
 人間だから「好き嫌い」はあるのだが、それをあまり表に出したことはなくて、意識的にそのように生きてきた。

 若いころ熱中した野球もチーム一丸で頑張ったし、
 社会に出てからも、結構「会社人間」だったから「仕事を上手くやる」ためには敵を作らないほうがやり易い思っていた。
 途中からは仕事をやる仲間たちを、自分で選べる立場にもなって、
 特に二輪車を売る販売網は、それを選ぶ権利はメーカー側にあったものだから、
 「同じ方向を目指す」仲間たちを選べたことも幸運だったと思っている。

 逆に「反対意見」を持った人たちも結構尊重したところもある。
 「反対の立場の人」の意見を聞くことで考える幅が大きくなると思ったのである。
 そんな「八方美人」の生き方を現役時代は意識的に続けていたのだが、
 50年近くをそんな生き方をしてくると、
 それが「人生の生き方」になってしまったように思う。

★ 定年後も自然にそんな生き方が続いている。
 ネットの世界に出会って、いろんな方たちとFacebook などではお会いしたこともない方と、
 会話をしたり、毎日ネット上で繋がった生き方をしているのだが、
 「八方美人的な生き方」はここでは特に機能している。
 「友達申請」があると、断る理由がない方はみんな承認している。

 世の中には悪い人もいるが、基本的なスタンスは、人間の性は善という「性善説」に立っている。
 有名人ではない一般社会の方に対しては、まさに八方美人で通していて、
 少なくとも「男の世界」では「片想い」はないのだと思っている。
嫌いだ」と思えば相手の人も「嫌いだ」と思うようになるのだろう。
だから「八方美人」は人生を生きる上では結構「いい生き方」だと思って88年生きてきた。
 
★ そんな私だが、お会いしたこともない有名人の方々とは直接話もしたこともないので、よく解っている訳でもないのだが、「好き、嫌い」があるのは不思議である。

政治の世界では、「好き」だという方々も多いのだが、何故というはっきりとした理由はない、感覚の世界である。
麻生さんなど、嫌いな方が多いのかも知れぬが、あの独特のものの言い方が逆にいいと思っている。

 
 


スポーツの世界では、好きな人はいっぱいいるのだが、
こんな有名人には特に好感を覚えるし




 タレントではこんな人たちはいいなと思う。





 逆に政治の世界では、嫌いというか好感が持てない方たちもいない訳ではなくて、
 理由はと言われても困るが、理屈をこねすぎるからかも知れない。




 
 政治家以外のスポーツの世界でも、テレビに出てくるタレントでも
好きにはなれない」方はいるのだが、
 その理由はと言われると「何となく」という感覚の世界なのである。

 そんな有名人に対しては兎も角、
 現実に生きてる日常生活の中では「八方美人的な生き方」は、
 今でもそれはあまり間違ってはいなかったと思っている。


 
 



カワサキバイクマガジンの取材だった。

2021-10-27 07:20:38 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日はカワサキバイクマガジンの取材だった。

 朝10時に三木の神戸電鉄緑が丘駅でお会いして、
 夕方5時にお帰りになるまで、ずっとカワサキのバイクのことを話していた。
 よくも話題があるなと思われるかも知れぬが、
 それは幾らでも続くのである。

 取材に来られたのはフリーライターの山下博央さんだが、
 バイクの世界に20年近くおられたようだし、
 私のブログも事前に確りとお読みのようだったので、
 何か『雑談をしている』ような感じのうちに終わってしまった。

 具体的な質問からは、ひどく脱線したことも多かったのだが、
 二輪の話から脱線することは全くない7時間だったのである。


   


  カワサキバイクマガジンの12月号カラー4ページの特集記事になるそうだが、
  それがどんな記事になるのかは全く予想もつかないのである。

  ほんとに久しぶりの記者の『インタビュウー』だったが、
  多分、満足された取材になったのだとは思っている。
  
  カワサキ二輪事業をスタートから約40年間担当したのだが、
  その中からどれが記事になるのか解らないが、11月半ばまでには纏められるそうである。



  写真も、これでもかというほど、いっぱい撮って行かれたが、
  これはプロの記者さんの常である。
  使う写真は1枚なのにといつも思うのだが・・・
  
    


  記録もいっぱいお見せしたし、
  ネットで私のブログから、記事も写真も幾らでも拾えるので、
  ホントにどんな記事になるのだろう。


 
  

 山下さん、名古屋から車でお越しになったのである。
 カワサキバイクマガジンの方は社長さん以下
 何人か面識はあるのだが、山下さんは初対面だった。
 でも、7時間も一緒にいるといろんな話が出来てお互い、ホントによかったと思っている。

 基本的なデーターは、私なりに纏めてあったので山下さんのメールアドレスにお送りしたし、
 今後、質問があればお答えできるし、
 『〇〇〇〇〇 雑感日記』と検索したら、幾らでも写真も、私の発想も出てくるので、
 『それは自由にお使い下さい』ということにした。

 多分『こんな取材』は山下さんも『初めて』だったのかも知れない。
 充分満足して『お帰りになった』と私自身は思っている。


★ 今回、新会社『カワサキモータース』がスタートして
  今後、どんな展開になるのか?
  新会社の新しいカワサキイメージの創造に取り組まれる新時代のスタートだが、
  これを契機に『カワサキバイクマガジン』もカワサキ新会社と手を組んで、
  『カワサキだけ』でなく『二輪の世界が広がる』ような活動を、などと

  私なりの意見も申し上げたのだが・・・・
  取材の一つのテーマであったKAZE
  Kawasaki Amusing Zone for Everybody  の頭文字をとったもので、
  
  Everybody がキーなのである。
  カワサキの熱烈なファンも、二輪の一般ユーザーも
  バイクには乗らないが関心はある人も(例えば私のような)
  みんなKAZE会員になる資格ありなのである。

  各メーカーも自らのブランドだけに拘らず
  より広い世界を見つめることが『二輪業界の発展』に繋がるのである。

  こんなことが私の基本的な発想で
  30年前KAZEをスタートさせたときは、
  熱烈なカワサキファンだけのKAZEの組織を解散することから始めたのである。

  そんなコンセプトでJCBと組んで社会の中のKAZEの位置づけにしたことが、
  30年経った今、カワサキのKAZEだけが残っているのだと思っている。
  質問以外のこんな話をいっぱいした7時間だったのである。

  私にとっても『山下さん』にとっても、
  間違いなく『Good Time な7時間』だったと思っている。
  
 
  
 
 
 

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 10

2021-10-25 06:41:24 | 私の生き方、考え方&意見

★『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』も、 
 この10回目で最後となる。

     昭和32年(1957)川崎航空機に入社以来の約40年間の現役生活は、
 その殆どをカワサキの単車事業と一緒に歩んだのだが、
 自分でも結構満足できるものだったと思っている。


      

    

 その最後の質問は『後輩に送る言葉と座右の銘は?』だったのだが、







後輩に送る言葉』は、躊躇なく即座に
 Kawasaki Let the Good Times roll !  と答えたのである。

 初めて出会った1974年当時はまだ42歳だった。

       

 
 アメリカのKMCで創られたこのコンセプトに甚く感銘したのだが、
 KMCでもその後、いつの間にか消えてしまっていたのである。
 
 然し、私の人生の中ではその後もずっと一緒に歩いてくれたコンセプトで、
 いつの日にかどこかで、と思っていたのだが、
 20年も経った1990年代の国内市場担当時代に、
 KMJで復活したのである。 


     

 
 明石のショールームに飾っていたのだが、
 今もどこかに残っているのだろうか?

  が国内で復活し、
  高橋鐵郎さんが事業本部での世界展開にして、
  田崎雅元さんが川崎重工業のコンセプトにもしたのだが、
  その後、一時消えかかった時期もあったのである。
  
  その頃、カワサキで消えても世間で残そうと
  NPO 法人 The Good Times を立ち上げて、
  髙橋鐵郎さんにもその相談役になって頂いたのである。
         
 

  アメリカで創られたコンセプトなので正規の日本訳はないのだが
  高橋鐵郎さんが常に言われてたのは

  『カワサキに出会う人たちが、みんなハッピーになるような活動を
   カワサキは転がし続けます』 だったのである。

  そんなことから、カワサキの後輩たちには『この言葉を送りたい』と思ったのである。
  

★ このアーカイブスが作られたのは2019年のことだったのだが、
  それから2年が経過して、
  今年10月1日付で新しく『カワサキモータース』がスタートしたのだが
  その新会社の新しいミッションに
  Kawasaki Let the Good Times roll ! が採用され、
  
  その新ブランドロゴは、このように一新されたのである。


     

   
  これで、もうこのコンセプトは永久に消えることはないのだろう。
  川重の橋本社長はじめ、新会社の首脳陣の方々に感謝である。
 

   



★ 『座右の銘は?』と言われて

  『人の不幸を喜ぶ者は自らの無力を恥じよ』という言葉だと答えた。

   これは吉田茂内閣の副総理であった緒方竹虎の言葉である。
   若いころ新聞で、緒方さんが語っておられるのを見て、
   このように生きたいと思ったのである。

  

   
   『人の不幸を喜んだりはしない』と思うのだが
   よく考えてみるとそうでもないのである。

   レースでも相手がこけたら喜ぶし
   会社でも、競争相手が失敗したら内心喜んだりするのである。
   『自分にそれだけの実力がない』ということなので、
   私は自分に厳しく生きたいと思っているのである。
   
   Let the Good Times roll. もある意味『座右の銘』とも言えるかも。
   それくらい私は一緒に歩いてきた。
   Furuya. Let the Good Times roll !

        『私に出会う人たちが、ハッピーになるように』行動しようと常に思ったのである。
   そんな人生を送りたいと思って生きてきたが、
   もう88歳、米寿を迎えてしまっている。
  
  『人の不幸を喜ばない』ほどの実力は付けられぬまま終わりそうだが、
  『私に出会った人たちがハッピーになるような行動』は
   何とか出来たのではないかなと思ったりもしているのである。

  人生の終わり近くに、
  こんな『アーカイブス』を創ってくれて
  『カワサキの歴史』を語らせてくれた『Kawasaki』に感謝なのである。



   最後に、私の川崎航空機入社以来の略歴である。

   
  
   

  
  カワサキが単車事業をスタートした1960年以降退職するまで、
  一貫してカワサキの二輪事業と共に歩めたことは
  ハッピーだったと思っている。
  
   

 
 


  
   
   
   

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 9

2021-10-23 06:10:42 | 私の生き方、考え方&意見

★ カワサキの最大の危機だった時期を乗り切って、
 事業の安定期に入り、1988年10月からは
 『国内市場7万台の目標』を背負って国内市場を専務として担当することとなったのである。

 国内市場を担当する『カワサキオートバイ販売』の前身は
 川崎航空機時代の『カワサキ自動車販売』で、
 その時代のTOPは、川航の専務が担当していて明石の事業本部よりも上位に位置する会社だった。
 そんな経緯から、世界の販社の中で国内販社だけが事業本部長が兼務するということになっていたのである。
 

 私が国内市場を担当した88年以降の10年間
   髙橋鐵郎社長との3回目のコンビで『7万台の目標』に挑戦したのである。

 1回目は1976年の東南アジア市場開発室のCKDの3年間
 2回目は1982年からの企画室時代単車事業再建の4年間
 
 高橋鐵郎さんとのコンビは延べ17年間にも及び私の現役生活の約半分にもなるのである。
   
   
   
 


★ 『7万台への挑戦』これは本当にべらぼうに高い目標なのだが、
 それがほぼ達成が見込まれた3年後の1991年4月に
 事業本部の部課長300人を前に『新しいカワサキのイメージ戦略』と題して、スピーチをしている記録が残されている。

 その中でこのように述べている。  

 
 

  

 88年10月に国内を担当して、真っ先にやったのは『イメージ調査』なのである。
 88年のカワサキのイメージは左側で、
 『デザインは個性的で、海外評価は高く、玄人受けはする』が
 『レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしな

  何よりもその『イメージ総量』が小さくて、こんなイメージでは『7万』などとても売れないのである。
新しいカワサキのイメージ創造』に挑戦したのである。

 それが『テーマ 新しいカワサキの創造』で
 KAWASAKI GOOD TIMES CONCEPT基本コンセプトに展開したのである。

 特に力を入れたのがユーザー対策 KAZEで、
 新しくソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を創って本格的に対応したのである。
 当時はHART・YESSなど各社にもあったユーザークラブだが、
 30年経って今も残って活動しているのはKAZEだけなのである。

 なぜKAZEだけが残ったのか?
 そんな詳しい経緯は実はこの10月26日に
 カワサキバイクマガジンの取材があって、
 その記事は12月号に掲載されるそうだから、敢えてここでは書かないが、
 カワサキ独自の対策がいろいろとあったのである。
 
 上記のイメージ図を見ても、
 たった1年でカワサキのイメージが大きく転換したのをお解り頂けると思う。
 私の『生き方の基本』はマーケッテングの基本でもある『差別化』なのである。
 
★この時期、あのZEPHYR発売があり、コレが7万台に貢献したのも事実である。

  

 
 
期待される機種の発売時期は、春のシーズン前の2月・3月なのだが
ZEPHYRの発売時期は、それが過ぎた5月だったし生産台数は非常に少なかったのである。
 レーサーレプリカ最盛期に何の特徴もないこのような車が売れるとは
 誰も思わなかったのである。

  



 それが生産台数が余りにも少ないものだから、『バックオーダー』が発生したのである。
 バックオーダーがあるということは『いい車の象徴』なのだが、この管理はなかなかムツカシイのである。
 かってFX400も4か月ものバックオーダーがあり、
 生産を上げて補給したら、それは一瞬に消えてしまったのである。

 それは一人の客が何店もの店を訪問するため、実際の数より多く集計されるからだと、その時初めて解かったので
 ZEPHYRの場合はそれが消えないように慎重に出荷を調整したら
 3年間もバックオーダーが継続したので、ある意味創られたヒット商品だったと言えるのかも知れない。

 


 それにしてもよく売れ続いて、
 『7万台の目標達成』に大いに貢献したのである。
 

★この時期特筆できるのは『ソフトの事業化』で
 『ケイ・スポーツ・システム』というカワサキでも業界でも初めての
 『ソフト会社』を創っての対応であった。

 この会社は『遊び会社』なのだが『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と
 ほんとに真剣に遊びの提供をしたのである。

  

 
その具体的な例の一つが日本で初めての一般のユーザーが走れるサーキット
SPA直入』で、
 当時は鈴鹿をはじめ日本のどこのサーキットもレーサー以外は走れなかったのである。



 

   全国に豪華なKAWASAKI PLAZAを展開したし、
 中でも東京新宿のPLAZAはその規模も立地も最高だったのである。 


  


 
二輪販売は基本的に『セールス』などは不要の販売店網で売る『システム販』なのである。
 やっと最近ホンダさんが『ネット販売』を手掛けられたが、
 このネットの時代になぜ『ネット販売』をやらないのかと思っていたのである。

 


 
30年前、私の最後の国内市場担当当時の機能図である。
販売機能自体は上の3行でほんの僅かその主体はユーザーや仲間や社会と直接つなぐ、
ケイ・コンシューマー・サービス』や『ケイ・スポーツ・システム』で
 その中味はショールーム・サーキット運営・KAZE活動・イベント・レースなど
 『二輪の遊び』主体の運営だったのである。
 




 
 この時期のカワサキの私独特のバランスシートをご紹介しておこう。
 経営の根幹は金であることは間違いないのだが、
 それを『いい会社』として運営するのは『システム』であり
 それを『可能にする』のは『高質人材』・『人材育成』が基本だと思っている。

 


 このバランスシートの『お金から下』の
 こんな『総合的なシステム運営』が7万台の販売実現に繋がったと思っているのだが・・

 遊びは?
もっとまじめに販売を』やればもっと売れると思われたのだろうが・・

   折しも『新カワサキモータース』の新会社のスタートである。
 なかなか『遊び心』を持たれていて期待しているのである。


 
 
 


カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 8

2021-10-21 06:47:40 | 私の生き方、考え方&意見

★ カワサキの二輪事業はアメリカ市場中心でその規模を拡大してきたことは間違いないのだが、
 その中心市場のアメリカの販売会社KMCの経営が極端に悪化して
 カワサキの二輪事業が危機に瀕した時代があったのである。
 
 KMCの経営悪化は1980年代から始まって、
 81年にはその経営再建髙橋鐵郎・田崎雅元コンビで臨んだのだが、
 その81年度も100億円を超す赤字になってしまったのである。

 

  
 KMCが100億円以上の赤字を計上すると連結決算されるので、
 本体の川崎重工業も赤字になって、
 川重が無配になってしまった、そんな危機的状況になったのである。



 
そのKMCの経営対策に川重本社は2年間で500億円もの資金を投入したのだが、
 そのうち1年目に投じた200億円はその効果も現れないままに
 100億円の赤字となってしまったのである。

 


 
 なぜそんなことになったのか?
 いろいろな結果が重なってはいるのだが、
 ひとつの要因は、HY戦争がアメリカ市場にまで飛び火して、
 その『安売り競争』に巻き込まれたこと、これが経営の悪化の『原因の一つ』だが、




 当時はアメリカの金利が18%もした高金利時代で、
 たまたまこの時にはちょっと販売も落ちて在庫過剰になり
 その在庫資金に借りた銀行の借入金が300億円もあって、
 その金利負担だけでも60億円もの膨大な額になっていたのである。




 『HY戦争の安売り』『在庫負担』『金利負担』『高金利』などが
 重なってしまって『100億円もの赤字』になったのだが、
 その具体的な対策ががなかなか解らなかったのである。

1982年4月には川重本社にKMC再建委員会が作られて、
 単車出身の山田専務がその委員長になられたのである。
 
 山田さんとは若いころレース委員会でご一緒だったし、
 神戸一中の先輩でもあって非常に可愛がって貰っていたのだが、
 その山田専務に7月1日に本社に呼ばれて、
 『KMCの赤字は止まると思うか?』と言われるので、
 『それはすぐ止まると思います』と答えたのである。

 販売会社は規模の大小はあるが、普通に経営すると赤字などにはならないので、赤字になっている原因を除去したら黒字になるのは普通で、一言で言えば『実力以上に売り過ぎている』のである。 

 山田さんは『それならお前が企画に戻ってやれ』と言われたのだが
 
 私がその時山田さんに言った条件は一つ、
 『髙橋鐵郎さんをKMCから企画室長で戻して欲しい』とお願いしたのである。
 どのような方向での事業展開をすべきかは策定できても、
   それを事業本部並びに全世界に指示するのは新人部長の私では荷が重すぎるのである。
 


★そんなことでその年の10月1日には、
 市場開発室以来の髙橋企画室長・古谷企画部長のコンビでスタートするのである。
 この危機的状況の対策は事業本部というより川重本社財務本部が主体だったこともあって、
 私が企画部長として対応する先は事業本部内よりはむしろ本社のほうで
 KMC再建委員長の山田専務や、
   本社財務担当の大西専務、財務本部長の堀川常務など、
   私が今までの業務の中で密接に繋がっていた方々で、大いに信頼されていたので、 
 いろんな対応がスムースだったのである。

 私に与えられた課題は『海外販社の黒字化』で、
 本社にとって手の届かない海外販社の経営の健全化が第一課題だったのである。
 企画室内にに関連事業課を新設し、そこで一元的に世界の販社の統括を仕組んで、
 その結果半年後にはKMCをはじめ世界の全販売会社が黒字転換をしたのである。

★ KMCが こんなに簡単に黒字転換が出来たのは、
 本社が対策費として投入してくれた300億円の資金があったからで、
 その資金でKMCの増減資を行い、
 さらに在庫車の評価減を行い『中古車価格』に再評価したのである。
 


 
 
 300億円という財務対策はそれは強力で、経営における『資金の力』を思い知ったのである。
 たまたま83年度には Ninja900が投入されてよく売れたので、
 これで再建出来たと思っている方が多いのだが、
 確かに経営にいい影響は与えたが、300億円という資金の効果とは比較できないレベルだったのである。

 

 
 ただ、この川重本社の財務対策の話は表には出ないので、
 事業本部の殆どの方がご存じないのである。


★ 83年7月には大庭浩本部長となるのだが、
 その時期までには、海外販社の基本的な対策はほぼ完了していたのである。

  
     


 大庭さんはそれまでにも川重内の幾つもの事業本部の再建をされていて、
 社内では再建屋と言われていたのだが、
 それは事業本部の期間損益の黒字化である意味単純だったのだが、
 単車事業本部は世界に展開する販売会社を含めての
 結構複雑な対応が必要で、財務対策など事務屋の範疇も多かったものだから
 それらの対策は殆ど任して頂いて、
 そういう意味では『一番私の意見を聞いて頂いた上司』は大庭さんなのである。

 KMCの大赤字対策は経費削減など勿論やったのだが、
 当時4か所に事務所が分散していて非効率だったので、
 本社社屋を売却して、開拓中だった隣町のIrvineに土地を購入し
 新社屋を立てようという案を田崎さんと私で立案するのだが、
 大庭さんはこんな大きな話は大好きで賛成して頂いたのだが、
 本社内では『大赤字のKMCが新社屋か?』と反対意見もあったのだが、

 大西副社長が賛成して頂いてこの話は実現するのである。
 これはごく最近田崎さんに頂いた写真だが
 その土地を見に、アメリカまで出張された大西副社長との写真である。

 
 
★ 『自分の思う通りに動けて、目論んだことが全て実現した』という
  本当に運のいい現役生活だったし、
  この当時を含めて、川重本社の副社長・専務・常務など文字通り
  TOP の方と直接仕事を進めることが多かった不思議なサラリーマン生活だった。
 
 いろんなことで関係のあった方がそんな地位におられたということもあるし、
 この時期、密接に関係のあった大庭さん・髙橋さん・田崎さん
 この単車の最大の危機を乗り切ったということもあって、
 川崎重工業・社長・副社長への道を歩かれるのである。
  

  高橋さん、田崎さんはカワサキ単車創生期からの『生え抜き』だが、
 大庭さんは途中からだが、単車事業をこよなく愛されたお一人である。
   
   

 カワサキ単車事業最大の危機と言われたこの時期を
 この3人の方と一緒に仕事が出来て本当によかったと思っているのである。

 1983年から86年までの4年間、私は未だ50歳になったばかりの4年間だったのである。
 この時期を乗り切って、カワサキの単車事業は安定期に入るのだが、
 それにはこんな裏話があるので・・・

 
★ 前述したように、この時期私に課せられた本社からの課題は
 『世界の販売会社の健全化』だったのである。
 これは間違いなく達成できたのだが、
 川重内の各事業部ごとに『内部管理方式』があって、
 この事業部損益では350億円もの累損があって、
 それに約10%もの金利が掛かってくるのである。

 この累損が何とかならないかと思って本社財務に交渉してみたのである。
 『あなた方は今回、販売会社の黒字化を言われて、
 私は全販売会社の黒字化を達成した。
 然し従来からの累損が350億円もある。
 これは管理損益上の話だから、この際消してくれませんか。
 とダメもとで言ってみたのである。
 ところが、この話を本社は聞いてくれたのである。

 これは内部管理の話だから当時は造船がよくて、
 造船には600億円もの黒字があったのである。
 単車の累損が消えたということは、造船の黒字も消えたはずである。

 この赤字が消えたので、その後の『単車の事業本部経営』は文字通り安定したものになったのである。
 この話もご存じの方は極く僅かだが、
 ひょっとしたら、コレが私の一番の単車事業への貢献かも知れないのである。
 単車事業の350億円の累損が一瞬で消えてしまったのだから・・・

 そんな意味も含めて、当時の財務本部には本当に感謝なのである。
 単車事業再建は、川重本社財務本部でおやりになったとも言えるのである。