★ カワサキの二輪事業はアメリカ市場中心でその規模を拡大してきたことは間違いないのだが、
その中心市場のアメリカの販売会社KMCの経営が極端に悪化して
カワサキの二輪事業が危機に瀕した時代があったのである。
KMCの経営悪化は1980年代から始まって、
81年にはその経営再建に髙橋鐵郎・田崎雅元コンビで臨んだのだが、
その81年度も100億円を超す赤字になってしまったのである。
KMCが100億円以上の赤字を計上すると連結決算されるので、
本体の川崎重工業も赤字になって、
川重が無配になってしまった、そんな危機的状況になったのである。
そのKMCの経営対策に川重本社は2年間で500億円もの資金を投入したのだが、
そのうち1年目に投じた200億円はその効果も現れないままに
100億円の赤字となってしまったのである。
なぜそんなことになったのか?
いろいろな結果が重なってはいるのだが、
ひとつの要因は、HY戦争がアメリカ市場にまで飛び火して、
その『安売り競争』に巻き込まれたこと、これが経営の悪化の『原因の一つ』だが、
当時はアメリカの金利が18%もした高金利時代で、
たまたまこの時にはちょっと販売も落ちて在庫過剰になり
その在庫資金に借りた銀行の借入金が300億円もあって、
その金利負担だけでも60億円もの膨大な額になっていたのである。
『HY戦争の安売り』『在庫負担』『金利負担』『高金利』などが
重なってしまって『100億円もの赤字』になったのだが、
その具体的な対策ががなかなか解らなかったのである。
★1982年4月には川重本社にKMC再建委員会が作られて、
単車出身の山田専務がその委員長になられたのである。
山田さんとは若いころレース委員会でご一緒だったし、
神戸一中の先輩でもあって非常に可愛がって貰っていたのだが、
その山田専務に7月1日に本社に呼ばれて、
『KMCの赤字は止まると思うか?』と言われるので、
『それはすぐ止まると思います』と答えたのである。
販売会社は規模の大小はあるが、普通に経営すると赤字などにはならないので、赤字になっている原因を除去したら黒字になるのは普通で、一言で言えば『実力以上に売り過ぎている』のである。
山田さんは『それならお前が企画に戻ってやれ』と言われたのだが
私がその時山田さんに言った条件は一つ、
『髙橋鐵郎さんをKMCから企画室長で戻して欲しい』とお願いしたのである。
どのような方向での事業展開をすべきかは策定できても、
それを事業本部並びに全世界に指示するのは新人部長の私では荷が重すぎるのである。
★そんなことでその年の10月1日には、
市場開発室以来の髙橋企画室長・古谷企画部長のコンビでスタートするのである。
この危機的状況の対策は事業本部というより川重本社財務本部が主体だったこともあって、
私が企画部長として対応する先は事業本部内よりはむしろ本社のほうで
KMC再建委員長の山田専務や、
本社財務担当の大西専務、財務本部長の堀川常務など、
私が今までの業務の中で密接に繋がっていた方々で、大いに信頼されていたので、
いろんな対応がスムースだったのである。
私に与えられた課題は『海外販社の黒字化』で、
本社にとって手の届かない海外販社の経営の健全化が第一課題だったのである。
企画室内にに関連事業課を新設し、そこで一元的に世界の販社の統括を仕組んで、
その結果半年後にはKMCをはじめ世界の全販売会社が黒字転換をしたのである。
★ KMCが こんなに簡単に黒字転換が出来たのは、
本社が対策費として投入してくれた300億円の資金があったからで、
その資金でKMCの増減資を行い、
さらに在庫車の評価減を行い『中古車価格』に再評価したのである。
300億円という財務対策はそれは強力で、経営における『資金の力』を思い知ったのである。
たまたま83年度には Ninja900が投入されてよく売れたので、
これで再建出来たと思っている方が多いのだが、
確かに経営にいい影響は与えたが、300億円という資金の効果とは比較できないレベルだったのである。
ただ、この川重本社の財務対策の話は表には出ないので、
事業本部の殆どの方がご存じないのである。
★ 83年7月には大庭浩本部長となるのだが、
その時期までには、海外販社の基本的な対策はほぼ完了していたのである。
大庭さんはそれまでにも川重内の幾つもの事業本部の再建をされていて、
社内では再建屋と言われていたのだが、
それは事業本部の期間損益の黒字化である意味単純だったのだが、
単車事業本部は世界に展開する販売会社を含めての
結構複雑な対応が必要で、財務対策など事務屋の範疇も多かったものだから
それらの対策は殆ど任して頂いて、
そういう意味では『一番私の意見を聞いて頂いた上司』は大庭さんなのである。
KMCの大赤字対策は経費削減など勿論やったのだが、
当時4か所に事務所が分散していて非効率だったので、
本社社屋を売却して、開拓中だった隣町のIrvineに土地を購入し
新社屋を立てようという案を田崎さんと私で立案するのだが、
大庭さんはこんな大きな話は大好きで賛成して頂いたのだが、
本社内では『大赤字のKMCが新社屋か?』と反対意見もあったのだが、
大西副社長が賛成して頂いてこの話は実現するのである。
これはごく最近田崎さんに頂いた写真だが
その土地を見に、アメリカまで出張された大西副社長との写真である。
★ 『自分の思う通りに動けて、目論んだことが全て実現した』という
本当に運のいい現役生活だったし、
この当時を含めて、川重本社の副社長・専務・常務など文字通り
TOP の方と直接仕事を進めることが多かった不思議なサラリーマン生活だった。
いろんなことで関係のあった方がそんな地位におられたということもあるし、
この時期、密接に関係のあった大庭さん・髙橋さん・田崎さんは
この単車の最大の危機を乗り切ったということもあって、
川崎重工業・社長・副社長への道を歩かれるのである。
高橋さん、田崎さんはカワサキ単車創生期からの『生え抜き』だが、
大庭さんは途中からだが、単車事業をこよなく愛されたお一人である。
カワサキ単車事業最大の危機と言われたこの時期を
この3人の方と一緒に仕事が出来て本当によかったと思っているのである。
1983年から86年までの4年間、私は未だ50歳になったばかりの4年間だったのである。
この時期を乗り切って、カワサキの単車事業は安定期に入るのだが、
それにはこんな裏話があるので・・・
★ 前述したように、この時期私に課せられた本社からの課題は
『世界の販売会社の健全化』だったのである。
これは間違いなく達成できたのだが、
川重内の各事業部ごとに『内部管理方式』があって、
この事業部損益では350億円もの累損があって、
それに約10%もの金利が掛かってくるのである。
この累損が何とかならないかと思って本社財務に交渉してみたのである。
『あなた方は今回、販売会社の黒字化を言われて、
私は全販売会社の黒字化を達成した。
然し従来からの累損が350億円もある。
これは管理損益上の話だから、この際消してくれませんか。』
とダメもとで言ってみたのである。
ところが、この話を本社は聞いてくれたのである。
これは内部管理の話だから当時は造船がよくて、
造船には600億円もの黒字があったのである。
単車の累損が消えたということは、造船の黒字も消えたはずである。
この赤字が消えたので、その後の『単車の事業本部経営』は文字通り安定したものになったのである。
この話もご存じの方は極く僅かだが、
ひょっとしたら、コレが私の一番の単車事業への貢献かも知れないのである。
単車事業の350億円の累損が一瞬で消えてしまったのだから・・・
そんな意味も含めて、当時の財務本部には本当に感謝なのである。
単車事業再建は、川重本社財務本部でおやりになったとも言えるのである。