goo blog サービス終了のお知らせ 

雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生90歳代をどう生きるか?  2

2024-01-26 06:40:56 | 私の生き方、考え方&意見

★同じような日課が続く毎日なのだが、
 朝食後、毎朝の公園での散歩が1日のスタートになっている。
 70歳の後半位から続いているからもう10年以上になる。
 
 これが大晦日から今朝までの記録だが、
 28日間の平均が8741歩となっている。
 このところ10日間ほどは毎日『1万歩』は歩けている。
 兎に角、1万歩になるまで歩いているという方が当たっている。
 大体、1時間半、距離にすると7,5kmほどになる。
 歩くと言ってるが、普通に歩くのではなくてスロージョッギングしている。
 ゆっくり走っているのだが、そのスピードは歩くよりは遅いぐらいである。
 歩くよりは消費カロリーは多いのだろう、この寒さでも汗をかく。
 普通のランニングと違って『息が上がらない』のがいい。


 
 

  
 
 『人生90歳代をどう生きるか?
 この朝のスロージョッギングが果たして何歳まで出来るのだろう?
 いまの自分の感じでは『あと5年』は生きてる限り大丈夫だと思う。
 10年前の80歳の頃と比べて全然変わらないので、
 今後5年ぐらいなら大丈夫のような気がするのである。


★ 1万歩を続けて歩いているのではなくて、10回ぐらい休んでいる。
 時間はほんの1分程度だが、ちょっとベンチに腰を下ろすと安心する。
 大体、1000歩ごとに休んでいる感じである。
 毎朝のように行っている三木総防災公園は広大だから同じコースを歩かなくても、1万歩は大丈夫である。
 普通の公園だったら何回かの周回は避けられない。

 こんな神戸の丹生山が望める中央の駐車場に今朝は車を止めたのだが、
 あちこち歩いて戻ってきたら、6800歩ほどだった。
 
 
 
 
 あと3000歩を写真を撮りながら、歩いてきた。
 3000歩とはこんな感じになるから、結構な距離ではある。

 ここからスタートした。

 
 
  
 
この写真の右側が陸上競技場なのだが、その方向に向かってスタート。

この先を突き当たって左に曲がる。
この先までで1000歩には少し足りない。

 


  突き当りを左に曲がるとこんな景観になる。
  下って行ったそのずっと先に休憩所があるので、
  そこまで行くと1500歩ほど。
  3000歩の半分になるのでそこから戻ってくる感じになる。





 その休憩所はこんな陸上競技場の端で、
 そこから撮った写真なのだが、
 この競技場の右側を周って戻って行く。






 そして、車が止まっている手前の登り道まで来た。
 この登りだけで約500歩ほどである。





 3000歩とは結構な距離だというのが、お判りいただけたと思うが、
 1万歩はこの3倍ちょっと歩かないと届かないのである。

★ こんな毎朝の散歩だが、公園には散歩やジョッギングをされている人も多く、
 高齢者のご夫婦などもおられるが、90歳は間違いなく最高齢だと思っている。
 見かけは私よりお歳を召しているヨチヨチ歩きの高齢者の方もおられるが、
 私は多分『ヨチヨチ歩き』になったら散歩は止めるだろう。
 
 私の散歩の目的は足の筋肉を保つというか、つけることである。
 そのために50メートルほどのダッシュを遣ったりするが、
 結構スムースに走れる。
 こんな「毎朝の散歩でスタートする90歳代」を続けたいなと思っている。

  

人生90歳代をどう生きるか?  1

2024-01-23 06:47:58 | 私の生き方、考え方&意見

人生100年の時代だという。
 昨年3月に90歳になったのだが、
 この1年振り返ってみて、あまり以前と変わりのない生き方をしてきたのか?
 或いは、90代になると流石に変わったのか?
 70歳代や80歳代とあまり変わっていないのでは?
 と思ったりする。

 大村崑ちゃんが『90歳、今が一番健康です』という本を出してるが、
 何となくそれに近いのである。



  


 
★ 石原慎太郎・石原裕次郎兄は、私の1年上と1年下で、大学時代に彼らは世に出たので、何となく身近な存在だったのだが、
  裕次郎は突然亡くなってしまったし、
  慎太郎さんも89歳で亡くなられたとは、実は知らなかったのである。


  


 何となく身近な存在と書いたのは
 大学の野球部の先輩の住所が当時まだ有名にはなっていなかった石原慎太郎宅だったので、
 それが突然有名になったので、そんなに感じたのである。
 その野球部の先輩は、私の明石高校の先輩でもあったので特にそう思ったのかも知れない。
 兎に角、私はあの有名な『石原兄弟と同じ年代』なのである。


★ 大村崑さんは、若いころ肺結核で死にかけている。
私も若いころ肺結核をやって、長くは生きられないと思ったのだが、
彼は神戸市の出身だし、筋トレなどもするようで、何となく身近に感じたりしている。

今が一番健康だ』と言われているから、100歳までは生きられるのでは?
 人生、誰でもいつかは亡くなってしまうのだが、
 『長生きする』かどうかは、その人が持っている運命のような気もする。
 私も、実は今のところ悪いところは全くないし、
 90歳だが80歳の頃と殆ど変わっていないような気もする。
  
 だが、90歳代であることは間違いないので、
 『人生90歳代をどう生きるか』と考えてみてもいいのかな?
 と思ったりして、こんなテーマ自分自身に与えてみた
  
 これが今年の正月、孫・門野真也とのツーショットである。

   



 自分で言うのもおかしいが、90歳には見えないと思う。
 サッカーのボールもそんなにおかしくないレベルで蹴れたりする。

 そんなことなので、『90歳代をどう生きるか?
 今年から時々、このテーマで考えてみたいと思っている。
 

私のゴルフ    雑感

2024-01-14 06:49:04 | 私の生き方、考え方&意見

★私がゴルフを始めたのは、昭和49年(1974)41歳の時で、
 その年の1月19日の日記に『ゴルフを始めた』とある。
 当時はまだゴルフなどする人は少なくて、金持ちの年寄のスポーツのような感じだった時代である。
 
 野球をやってたし『止まっているボールを打つなど簡単』と始めたゴルフだったが、最初のラウンドはその年の10月だが、64-65-54散々なスコアだった。
 そのあとちょうど東南アジアのCKDの担当でタイやインドネシアの出張が多かったので、海外で遊びのゴルフなどちょこちょこやってた時代が続いた。

★ゴルフがオモシロく思い出したのは80台で廻れるようになった48歳の頃で、当時日米対抗など行われていた播磨カントリーの会員になってからである。

  


会員になったのが1981年8月、48歳の時なのだが、
11月に行われた初めて出た月例で47-43・90のスコアが出た。
この播磨カントリーコースレートが高いので、そのスコアはそのままハンデイとなり、最初に貰ったハンデイが18だったのである。
その年の12月には、45-40・85が出て、ハンデイ13となり、
その後はハーフ30台もしばしば出て、私のベストグロスはアメリカ出張時の遊びのゴルフで出たグロス75なのだが、
オフィシャル・ハンデイ―は51歳の時に月例で3アンダーが出てハンデイ1となったのである。
その頃はこんな感じで振れていた。


 


★ その後、シングルには成れたかも知れないのだが、
  月例に出るのは止めてしまったので、私の最高のハンデーは10なのである。
  私はどうも職位とかハンデーなどには拘らない生き方で、
  囲碁初段がとれると言われて止めてしまったし、
  ゴルフハンデイ10で十分だと思ったのである。

  それ以上を目指すと、苦しさばかりが目立ってなかなか進歩はないと思うし、
 『ハンデイ10ぐらいが一番楽しい生き方』だと勝手にそう思い込んでいるのである。
  それ以上は専門家の世界だから、専門家に任せばいいと思っている。

★ところで現在のゴルフだが、
 カワサキのZ1会のメンバーとして年に4回のゴルフ会があるので、
 今年は出来れば4回とも参加しようかなと思っている。

  
 

 今年は91歳になるので、目標はエイジシュートとしたいなと思っている。
 アタマの中では、91のスコアは簡単なのだが、
 それがなかなかムツカシイのである。
 果たして、どんな結果になるのだろう?
 昨今は庭で毎日素振りだけはやっているのだが・・・


  

  

 庭   雑感

2024-01-10 06:27:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私はなぜか庭には関心がある。
  家庭とは、家と庭とあるので庭は大きな要素だと勝手にそう思っている。
  
  庭いじりなども好きで樹木の選定など『切る』ことも好きなのだが、
  高齢になって梯子に上るのが危ないとなると、
  登らなくてもいいように、庭木のほうを低く切ってしまったりする。
  庭の景観を保つというよりも、自分のやりたい行動のほうを優先する。

  そんなことで今の我が家の庭の景観はこんな感じで

 


 手入れはそれなりにするのだが、

 


  いまはみんな樹は低くなるように天を切ってしまっている。
  そう言う意味では、あまり他では見られない庭になっている。

   


  この2年ほど『』に興味を持って、
 『』を植えたので、今では土が全然見えなくなった。
  苔庭にしてからは、小さな草も念入りに抜くので
 「庭には草が生えていない」と言えるかも知れないレベルになっている。


★この正月には、孫の古谷仁が来てたのだが、
 彼は『』には興味があって、いろんな庭を観に行ったり、
 庭の専門家ともお付き合いがあるようなのだが、
 その辺は、私とは全く異なる。

 私は『私独自のもの』を大事にしたいと思っている。
 その最たるものが私の駐車場である。

 この写真は、昨日孫が写して、庭の専門家に見せた写真だが、

  


お解り難いかも知れぬが『T字型の池』になっていて
奥にはカランや菖蒲を植えてるし、水連もあるから、駐車場と言うより
庭の感じなのである。
 T字型の池を造ってもクルマを止めるには何の支障もないし、
 周囲は石積みにしてるので車がない時は全くの庭になる。

 これは庭も池も好きだった私独特の発想で、多分日本にこんな駐車場があるのは、我が家だけに違いないのである。


★庭には興味のある孫・古谷仁がツイッターにこんなのを載せてたが、
 有名な園芸家先生に褒めて頂いたりした。


   


  人と『ちょっとだけ変わった生き方』がしたいと思って生きてきた。
  私の人生での一つの目標は『差別化』なのである。

差別化』に出会たのは、現役時代広告宣伝を担当した時なのである。
  『差別化』とは、『ちょっとだけ優れていればいい』のである。


  

差別化された人生   (私の生き方、考え方)

2023-11-11 05:31:05 | 私の生き方、考え方&意見
★ 昨日のブログの最後のほうにこんなことを書いている。
「私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。 」
 私がこんな『差別化』という言葉に出会ったのは、
 ずっと旧い昔のことで昭和の年次で言うと、昭和40年頃(1965)のことなので、
 よく言われるマイケル・ポーターの差別化論がまだ出ていない頃だったような気がする。

 ちょうどその頃、広告宣伝を担当するようになって、
 電通・博報堂・大広などの広告宣伝会社の本社スタッフと付き合うようになった頃に、この『差別化』という言葉に出会ったのである。
 広告宣伝戦略は他社との『差別化』がなどとよく言われて、
 『区別ではダメ』ちょっとだけでも他社より優位性が無くてはと言われていたのである。

 図示するとこんなことになるのだろうが、

  

  
 この『差別化』という言葉を気に入ってよく使っていたのだが、
 当時は同和問題で『差別』が言われていた時代でもあったので、
 事業本部長から『区別ではダメなのか?』という指摘も頂いたりしたのだが、区別ではダメなのである。


★ あなたのキャリアを「他者と差別化」する人生戦略という
 こんな論文も出ていて、読んでみると



 


 他者との差別化を図る際に強く意識しなければならぬのは、
 営業、マーケティング、経理などすでに存在する単発のキャリアで一番を目指さないことで、
 「キャリアを組み合わせること」だとある。

 確かにその通りで、私自身は一つ一つはそんなに上手くは出来ていないのだが、
 その組み合わせは結構上手く出来たと思っている。
 現役時代の会社の仕事でも、
 退職後のネットの使い方でも、
 その組み合わせは私なりにユニークでまさに『差別化』されているのである。


★ Google で『古谷錬太郎』と検索すると、
 別に有名人でもないのにこんなページがいっぱい現れるし、

  
 
 これはツイッターだと思うが、私のフォロワーの全国各県分布図などが現れたりする。
 そして一番フォロワーが多いのは京都府で2番目が山梨県だというのである。

 


  これは私のブログやFacebook ,ツイッターなどの使い方が独特で、
  その組み合わせが『差別化』されているからだと思う。

  そうい意味では、ネットの世界は非常に公平に出来ていて、
  私のことをこのように取り扱ってくれるのは
  その発信量が多いから、単純にそれを評価して頂いているのだと思う。

★ そんなこんなで私の人生は、ちょっと差別化された、
  ちょっとだけ一般の方よりは多彩な人生だったかなと思っている。
  そして、それに大い満足しているのである。




私の経歴書

2023-09-28 05:13:11 | 私の生き方、考え方&意見

★今回、三木の地域ラジオ放送のFMみっきいに出演することになっているのだが、
 その司会者の方から本題に入る前に、古谷さんの略歴を紹介したいのですが、
まとめられているものがあれば、お願いします。 
また、当日は、どういう肩書で紹介させていただいたらいいでしょうか? と

 『私の経歴書』を送って欲しいとのご依頼なのである。
 自分の経歴など公に発表したこともないが、
 私の生後、今までの90年間は、実は私は自分で整理して持っている。
 20歳の時からの日記もあるし、 結構、その記録は正確なのである。

 これが1歳から39歳まで
 振り返ってみると激変の人生である。
 然し、めちゃオモシロかった。
 カワサキ入社以来、他人の仕事を引き継いだことは一切ない。
 すべてが新しい創造的な仕事で、上司からの指示なども殆どなくて、
 自分の思い通りに進めることが出来たのは、
 すべてが新しい仕事で前例がなかったからだと思う。

  


  それは40歳以降も、67歳で現役引退するまで続いた。
  いい現役生活だったと言っていい。

  退職後は69歳にパソコンに出会ってから
  生活パターンが一変した。
  現役時代はパソコンも触ったことがなかったし、
  携帯も持っていなかった。
  いまもスマホは持ってるが、電話機能は一切使ったことがない。
  世の中には、そんなに急ぐ仕事や出来事はないと思っている。
  

  


 ブログ・ツイッター・Facebookとネットの世界に入って、
 新しい人達にいっぱい会えたし、全く新しい世界だった。
 





★ そんな中から概略を言えばいいのだろうが、
  ほんとに粗っぽく言えば、
  1933年 明石市で生れて、直ぐ朝鮮に渡り小学校時代は京城今のソウルで育った。 
  1945年 終戦で明石に引き揚げた時が中学1年生、
        神戸一中・明石高校・神戸商大を卒業
  1957年 川崎航空機工業に入社
  1961年 カワサキが二輪事業をスタートさせた当初から従事、
  1999年 現役引退するまでその殆どを二輪事業を担当した。
        広告宣伝・レース・東南アジアCKD事業など、
        カワサキの初めての事業を担当し、
        カワサキの二輪事業の経営中枢を担当
  2000年~ 退職後は2001年からパソコンを扱いだし
  2006年~ 毎日ブログ雑感日記をアップ
  2009年  NPO 法人 The Good Times を設立
  2010年  ツイッター
  2011年  Facebookに参入
 
  
   68歳からストレッチを始めて、柔軟性は20歳レベルを維持、
  90歳だが至って健康、最近も毎日6000歩は動いている。


★ ざっとこんなことだが、
  FMみっきいの司会をされる方には
  私の経歴で「纏められたものがあれば』ということなので、
  このままお送りしようと思っている。
  肩書など敢えて言うなら
 『NPO法人 The Good Times 相談役』である。 
  

 

★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。


 

真夏の甲子園はいらない

2023-08-02 05:32:03 | 私の生き方、考え方&意見

★「真夏の甲子園はいらない玉木正之・小林信也編の本の名前だが、
 Amazonに注文したらすぐ来たので読んでみた。

 全編に「夏の甲子園大会はいらない」と言う本の題名通りの論説で終始しているが、共感するところが多かった。

 私自身は兵庫県の高校大学で野球をしたこともあって、
 当時は高校野球の夏の予選は甲子園だったし、
 大学のリーグ戦が甲子園球場だったので、
 人生で一番多く野球をやったのは「甲子園球場」と言うウソのような経験なのだが、ホントなのである。
 そんなこともあって、甲子園球場にそんなに特別な想いもないというか、
 私にとっては普通の野球場の一つなののだが、
 野球学校の大会となってしまった今の夏の甲子園大会は、別の意味でもう要らないのではと思うのである。
 少なくとも我々の時代は甲子園に出してたのは特に兵庫県は公立校が殆どで、
 神戸一中、神戸二中、明石高校、芦屋高校などだったのである。

 
★ この本の主張は痛列だった。


 



 何故か、息子も孫たちもスポーツはサッカーをやったので、
 日本のサッカー界の生い立ちも何となく解っているのだが、
 Jリーグが出来て、サッカーは同じスポーツながら、野球とは異なった歩み方をしたと思う。

 その結果は約30年経って今ではサッカー人口のほうが野球より多いようなことになったのも、
 何となく野球界の旧態依然とした旧い思考と体制にあるような気がしてならない。
 
 その一つが夏の甲子園大会で暑さの中では運動は止めましょうというこのコロナ時代に、
 何故かマスコミの朝日新聞やNHKが後押ししてるのは、不思議と言えば不思議である。

★私自身は自分もやってたスポーツで、野球そのものに愛着もあるのだが、
 この本を読んでみて、改めて「夏の甲子園大会は要らない」と思ったのである。

 多分、反対される方も多いだろうと思うが、夏の甲子園が始まるこの時期に
 「夏の甲子園大会は要らない」と思うかっての野球人がいることを知って欲しい。
 この本の著者の小林信也さんも高校時代は相当のレベルの野球人だった方で、野球の素人ではないのである。
 680円とそんなに高くもないのでこの本をお読みになるのもいいかなと思う。


★ 決して昔の甲子園の夏の大会に不満があるわけではなく
 むしろ懐かしい想い出なのだが、
 今の夏の甲子園大会は野球学校の大会化してしまっている。
 そんな野球学校の多くの部員はアルプスで応援する「応援団員化」してしまっているのが、現実なのである。

 旧制中学の神戸一中時代も春の大会に甲子園に出たのだが、
 高校2年の夏は明石高校で甲子園の土を踏んでいる。
 今は20人になったが、当時は14人と少なかった。



  


 昭和25年(1950)の夏である。
 

生命力&成長力   雑感

2023-06-04 06:30:15 | 私の生き方、考え方&意見

★「生命力&成長力」何となく似たような言葉だが、
 90歳になった私などは「生命力」はあるが、「成長力」はないのかも知れない。

 なぜ突然そんなことをと思われるかも知れぬが、
 庭の片隅に、種からこんな2枚の葉を出した植物があって、
 葉の形を見る限り、結構大きな樹のようなのである。
 芽を出した場所がちょっと悪いので、


 


  少々大きくなっても問題のない場所に植え替えた。
 種から芽を出した双葉の状態だから、問題なく植え替えられたのである。

 写真ではお解り難いと思うが、ここなら大きくなっても問題のない場所である。
 果たして10年後にはどうなっているのだろうか?
 
 


 10年後、若し生きていたら私は100歳である。
 100歳まで生きる「生命力」はあったとしても衰えるばかりで、
 「成長力」はないのかも知れない。

 この「木の芽」は間違いなく10年は成長するから、
 どんなに育っていくのか、見守っていきたいと思っている。


★ ところで「成長力」を検索するとこんな文章が現れた。
人が成長すると言われるとき、その成長は3つに分類することができると言われています。その種類とは「心技体」という言葉でも知られているように、「ココロの成長」「ワザの成長」「カラダの成長」の3種類で、
「ココロの成長」「ワザの成長」は歳を取っても成長するのかも知れないが、
まあ、90歳ともなればムツカシイと思った方が無難だろう。

 ただ、こんな「木の芽」の成長などは、
 仕事がいっぱいの現役時代は。そんなことには構っておられないだろうし、
 年寄りが追っかける題材としてはいいのかも知れない。
 
 ただ、何も考えずに生きていくよりは、
 こんなことに関心があるほうがいい。


★実はこのもみじは、昨年は「双葉」だったのである。
 2年目になると、もうこんなに大きくなる。
 玄関先なので、どのような大きさにするか、今思案どきなのである。
 
 


 その横に半分移っている鉢には、
 今年、薔薇の挿し木をした。
 いま、こんな状況である。

 


 実は、この薔薇は最初に買って来た薔薇で、
 その薔薇は枯れてしまったのだが、
 その挿し木をして育った薔薇が、もう5年目だがこんなに育っていて、
 その薔薇から採った挿し穂なのである。


 


この薔薇に拘るのは昨年5月に枯れてしまったのだが、
20年前に我が家で最初に植えたパパメイアン」なのである。
花もいいが香りも素晴らしい最高の薔薇である。




 そんなことで「生命力&成長力」を追っかけている昨今なのである。



日記を付けだした20歳のころから・・・

2023-04-22 06:00:12 | 私の生き方、考え方&意見

★今でも毎日日記を付けている。
 永年の習慣だから何ということはないのだが、最近になって昔のことを想いだすのによく旧い日記を読み返したりしている。
昔のことは覚えていることも多いのだが、やはりそれ以上に忘れてしまっていることも多くて、日記は貴重な存在なのである。

★ところで、日記を付けだしたのは、もうずっと旧くて70年も前の20歳の頃のことで、まだ大学の2回生の頃のことなのである。
秋のリーグ戦の頃から何となく体調がおかしくて、
 リーグ戦が終ってから医者に診て貰ったら「肺浸潤」と言う診断で、
 当時はまだ「結核」に掛かる人は多く「肺浸潤」はその一歩手前なのである。
 明治以来、日本は結核に悩まされ続け、特に若い人がたくさん死に「国民」と呼ばれるほどだったので、ひょっとしたら長くは生きられないかなと本当にそう思っていたのだが、
 ちょうどそんな時期、朝日新聞に「蒋介石は30年間も日記をつけていて偉い」などと言う記事が出たものだから、
 日記ぐらいなら「俺でも書ける」とその日から日記を付けだしたのである。
 「肺浸潤でひょっとしたら長くは生きられない」と思ってたのと重なって、
 何かこの世に残しておこうかと思ったのだと思う。

★ 突然の日記だったのでこんな大学ノートに書きだしたのである。
 1953年(昭和28)11月8日から年末まで、大学2回生の20歳のころの事で、
 よく続いているなと我ながら想うが、習慣になってしまうとそれほど大変でもないのである。


 


 これはその第1日目の11月8日の日記だが、
 
  

 このように記述している。

 「昭和28年も早いものでもう霜月8日、この1年もこの月と師走を余すのみである。今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記を付けているとかの記事を読んだので、自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかという気になったのである。
 先月の28日胸が悪いと医者に宣告されてからはや10日間の養生生活が続いている。・・・・大体生まれてこの方医者の手を借りることなしに20歳のこの年まで育ってきただけに自分の健康に自信を持ち過ぎたのが悪かったのである。好きな野球でこうなったのではどこに文句のもって行き処もない。まあ運命とでも諦めるほかはあるまい。・・・・」などと書いている。

 実はこの年の夏の合宿の1日目に夏風邪をひいたのだが、
ちょっと熱もあったが練習を続けたし、そのまま秋のリーグ戦に入ったので、何となく体調が悪かったのである。
 自分から医者に行ったのは初めてのことだったし、その結果が「肺浸潤」と言われて結構なショックだったのだと思う。

★「肺浸潤のまま」その後も野球は続けていたのだが、
 運よく川崎航空機工業にも就職出来たが、その頃には「空洞」が出来ていて、診療所の先生には野球は禁じられていたのに、
先生にユニホーム姿を見つかって「結核療養所」に入院させられてしまうのである。
 これが昭和35年10月のことなのだが、それから1年の療養生活で空洞も消えてすっかり完治して社会復帰したのである。
 その昭和36年11月にはカワサキが二輪事業をスタートさせた時で、
 私は初めて出来た「単車営業課」への復帰が実現したのである。
 そんなことからの「二輪事業とのご縁」で、若し入院していなかったら、新事業の単車に行けたかどうかは解らないのである。
 
 早死するかなと思ったら、90歳までも生きられて、
 その間の日記があるお陰で、自分の人生を正確に振り返ってみることが出来るので、まさに「運のいい人生」だったと思っているのである。

 これらが70年間の日記帳だが

  

  
 最近は5年連用のものを使っているので、
 
 
 

 
 あと1冊新しいものが買えたら大満足なのである。
  



血液検査の結果

2023-04-12 07:21:27 | 私の生き方、考え方&意見

★ 年に何回かやる血液検査の結果を聞きに掛りつけのお医者さんに行ってきた。

 こんな結果だが、先生は特に問題なく非常にいいと仰る。
 殆どの検査項目がフェアウエイの真ん中を通っていて、
 問題ないようである。

 
  


 
 たまたま2年前の88歳の時の血液検査の表があったので、
 比べてみたら、殆ど同じと言うか全く同じと言ってもいいほど変わっていないのである。




 
★ 私自身は、何事もあまり神経質に「気にする」ようなことは全くないのだが、
 そんな性格がこの歳になってもいい方向に出ているのだと思う。

 毎日運動をしているのも、健康のためと言えばそうだが、
 自分では「ちゃんと歩ける」ようにしておきたいと思っている。
 高齢者の「とぼとぼ歩き」になったら、たぶん「歩くのを止める」だろうと思う。

 いまのところ「歩く」のは勿論だが、
 野球のベース間ぐらいの距離だが、結構ちゃんと走れている。
 80歳のころどのくらいだったかはよく覚えていないが。
 「そんなに変わっていない」ようにも思う。

 これだけ運動していても、なぜか体重は全然減らずに82kgもあるし、
 腹も出ているのだが、
 「やせ細っている」よりはいいかなと勝手にそう思っている。

 この調子なら100歳は大丈夫のような気がするが、
 人生で2度ほど突然「死にそう」になったので、
 ひょっとしたら「突然死」するかも知れない。

 そんな呑気なことを言っているのだが、
 何事もあまり気にせず自然のままに生きるのがいいと思う。
 結構「運のいい人生」だったから、「今後もいいだろう」と思っている。
 血液検査もいうことがないような結果で「よかったな」と思っている。

 

 

 

人間90歳になりましたが・・・・

2023-03-21 04:33:27 | 私の生き方、考え方&意見

 この3月に誕生日を迎えて90歳になりました。
 「人間90歳になると」どんなことになるとお思いですか?
 
 私は結構元気で、毎日2時間は外で動いていて、
 これが昨日の記録ですが、15000歩ほど歩いていますし、
 この1か月の「平均消費カロリー」は2477カロリー
 多分、一般の働き盛りの方と変わらないような値を示しています。


  



ことほど左様に、体のほうは至って元気なのですが、
アタマのほうは「物忘れ」などひどすぎて自分でも嫌になることも多いのですが、これは仕方がないと思います。

具体的に言うと庭にはいっぱい植物が植わっているのですが、
その名前が出てこないのです。

 


 かっては殆どの植物の名前が解ったのですが、
 昨今は覚えている時も、思い出さない時もあって様々ですが、
 もう「気にしない」ことにしています。

 70歳代にも当然「物忘れ」はあったのですが、
 現在はそんな時期とはそのレベルが違うのですが、
 「まあ、90歳だからいいか」と気にしないことにしています。

★私自身の性格は至って太平楽で、何でも「大丈夫」と言うのが口癖になっています。
 今週末には神戸ベンチャー研究会NPO The Good  Times の事業継承」というテーマで発表をするのですが、
 別に原稿を創るでもなく、その場の雰囲気に合わせての話になると思います。
話と言うのは相手がいるわけですから、その場になって、その場の雰囲気に合わせての話が一番いいのだと思っていて、
これは現役時代からそうなのですが、話の原稿などを創ったりはしないのです。
 
★4月24日には、大阪で藤本喜子さん主催の「ゴキゲンカーニバル 」という催しに出席することになっていて、
 それがどんな催しかもよく解っていないのですが、
 そんなことは全然気にせず出席することにしていたら、
 その会の司会をなさる方から昨日連絡があって、

古谷さんがゴキゲンカーニバルで どのような発表をされるのか、
 電話でお話を 聞きたいのですがいかがでしょうか?
 と心配されたのかメールを頂いて、
 今日11時に30分ほど電話で聞きたいと仰っているのです。
 
 私自身としては、その場に行ってみて、その場のメンバーや雰囲気を感じたら、「ぶっつけ本番でも大丈夫」と思っていたのですが、
 司会をされる方は「90歳のおじんが大丈夫かな」とお思いなのかも知れません。

 そんなことで、藤本さんの「しもじも日記」を見てみたら、
 「藤本喜子イノベーション研究所」これにする
 とあったので、彼女こんな会社でも作る気なのでしょうか?


  
 

いずれにしても、この件は今日の11時に電話を頂くことになってるので、何とかなるのでしょう。
 
★ 藤本喜子さんは NPO法人The Good Times を引き継いでくれることになっていて、
今週末の神戸ベンチャー研究会では、二人でその事業継承について話をすることになっているのです。

こんなことで、90歳になりましたが結構忙しく過ごしていて、
物忘れはひどく」なりましたが、
 なんとか若い方に伍して、同じような動きが出来てるのは「イイか」と思っています。
 
 こんな感じの「90歳の私の人生」は、世の中の90歳の方とは一寸違った感じで、
 私の生き方の目標「差別化」そのものが、今もなお続いていることに満足している昨今なのです。

 


 
 

私の人生と日記   雑感

2023-03-18 06:23:32 | 私の生き方、考え方&意見

20歳の時、ふとしたことから日記を付けだした。
 90歳になった今までずっと続いているので70年間にもなるから、
 ひょっとしたら、日本でも一番長いのではとネットで調べてみたら、
 「上がいるものである」曰く
 
 遠藤三郎・元陸軍中将、戦後は開拓農民へ転じ、そのかたわら日中国交回復に尽力した異色の人物とある。
日記は、11歳から91歳まで80年余、日露戦争勃発の明治37(1904)年から始まり、延々と昭和59(1984)年10月、91歳の天寿をまっとうする1カ月前まで続いたという。
 これを抜くには100歳を越えねばならぬが、生きてる限り頑張ってみたい。


    

     

★ 私は努力さえすればできる「そんなに難しくないこと」を続けることは得意と言っていい。
 日記なども誰でも書けるし、そんなにムツカシイものではない。
 日記は兎も角、2006年の9月にこれもふとしたことからネットでブログなるものをスタートし「雑感日記」と題して毎日休むことなくアップし続けている。
 その第1日目は「美しい」と題してのスタートだが、
 たった4行の短い文章でスタートしている。
 何となく初々しいが、今はもうこれも17年になろうとしている。

  


 今はこの雑感日記Facebookツイッターに転写してるので、
 結構な人数の方にお読み頂いている。

 そのカテゴリーも幾つもあってそれぞれ結構多いのだが、
 3月に入って90歳になったのを機に「私の運転歴」なるカテゴリーを新しく増やしたところである。
 
 その数は結構多いが、こんなカテゴリーとなっている。
 そこに載っている数字は、みんな結構な数だが「私の運転歴」はまだ2回だけである。


    
 

 このカテゴリーは「私の人生そのもの」を表していて、
 「自分史」もあるし、現役時代の「カワサキの二輪関係」も結構多い。

★ このブログ「雑感日記」は76歳からアップしだしているので、
 それ以前のことについては、自分の記憶に頼ったものも多いのだが、
 外部に発表しているので、間違いがないかチェックするには
 70年続いている「日記」は貴重な存在なのである。

 今回、スタートした「私の運転歴」もこの日記があるので、
 結構正確にアップすることが出来るし、
 それは即「私の人生そのもの」であると同時に「カワサキの二輪事業の歴史」にも繋がっている。
 そんな「二輪の歴史」には非常に興味をお持ちの方々と、特にFacebookでは繋がっている。

 この3月、90歳になったのを契機に、
 Facebookのトモダチも350人から一気に1400人も増やして、
 1750人にもなっているのである。
 その殆どの方は、二輪に愛着をお持ちの方ばかりなので、
 二輪関連の記事を多くしようと思ったのだが、
 「雑感日記のカテゴリー」をご覧になればお解りのように、既にカワサキの二輪のことは多く触れているので、同じことの繰り返しもダメだし、
 「私の運転歴」という別の角度から眺めたら、またいろいろオモシロイことも多いと思うので、そんなカテゴリーを新設したのである。
 「運転歴」だから「いつ、どこに行って、何をした」と言ういういうなことを正確に綴るには「日記」は重宝するのである。

  まだ2編しかアップしていないが、
 「いつ何所を何時に」と言うような表現が出来ているのは、「」のお陰なのである。

  最近は毎日同じことの繰り返しで、この「雑感日記」を毎日アップするのも、その材料が大変なのだが、「私の運転歴」も50年続いているので、
 その素材には事欠かないのである。
 
 まあ、そんなことで、90歳になって今までの日記のお世話になるとは思わなかったが、
 今後は日記を読み返しながら「私の運転歴」をアップしていこうと思っているので、ご愛読願えたら幸いである。


 

マスク   雑感

2023-03-17 06:25:53 | 私の生き方、考え方&意見

★コロナが発生した当初は、世界の人がマスクをしているように思ったのだが、
 だんだんとマスクなどしなくなったのではないだろうか?

 世界でも日本は断トツで、東洋の人たちは多いが、
 欧米は少ない傾向が顕著である。


  

 私自身は今の生活環境もあるのだが、
 この数年間、マスクなど殆どしていない。
 マスクをするのは「医者に行くとき」と「スーパーの中」だけで、
 それ以外は一切しないから、この数年間で使ったマスクは10枚以下だと思う。
 クルマの中にはマスクはいれているのだが、殆ど使わないので、
 何度も同じマスクをしている。

 そう言う意味では「世界水準」の生活と言っていい。


★これまで屋外では、マスク着用は原則不要、屋内では原則着用としていましたが 令和5年3月13日以降、マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本となりました。 本人の意思に反してマスクの着脱を強いることがないよう、ご配慮をお願いします。

 とあるのだが、
 昨日散髪に行って周辺の状況を見てきたが、殆どと言っていいほどの人が外なのにマスクをしているのである。
 勿論私は家を出て、戻るまで一切マスクはしなかったが、
 
 この状況はちょっと不思議である。

 ただ昨今、大相撲の放送があるので、そのテレビの画面で見る限り
 「マスク」をしていない方も結構多い。






★ コロナ菌などこの世から消え失せることはないのだろうから、
 この調子が続くと「日本はマスクをしている国」になってしまうような気がする。
 こんなことをブログにアップしたら、いっぱい反対意見が来るのだろうか?
 まあ、「90のおじんの戯言」と言うことでお許し願いたいが、
 そんなに間違っているとも思わないのである。



実力・体力、それよりも運かな?

2023-02-19 06:38:30 | 私の生き方、考え方&意見

★世の中の大学でも会社でも試験があり、成績により合・不合格がある。
 学生時代は神戸一中の2年生まではよく勉強したが、それ以降は勉強した記憶がなくて、学生時代は野球漬けで卒業した。
 でも人生で受けた試験で落ちたことはないのは「運がよかった」と思うし、
 何を持って「実力」というのかは解らぬが、
 自分では何となく「実力はある」と思っている。

★日本の社会は「学歴社会」と言われていて、
「どこの大学を卒業したかを重要視する」慣習を「学校歴社会」と呼んだりもする。



 
 
アメリカの社会は、Microsoftのビル・ゲイツ、Appleのスティーブ・ジョブズ、Facebookのマーク・ザッカーバーグななどみんな「大学中退起業家」で、
アメリカは実力一本で勝負する世界だ」と思っていたが、
アメリカは日本以上に就職には大学での成績が重要視されたりするらしい。


孫の次男はアメリカのバークレーを出ていて、
バークレーは世界の大学でも常に上位で、東大よりはずっと上位にいる。
そんな大学に推薦されたのだから高校での成績もよかったのだろうか?

ただ彼はそんないい大学を卒業しているのだが、
会社に就職などするのではなく、今はサッカーのプロ選手なのである。


 


サッカーのプロなどは学歴などは要らないと思うのだが、
若いころは兎も角、サッカーが出来なくなったら、どうするのだろう?
とは思う。

 ただ彼はこんな絵も描ける才能もあるし

 
  

 料理もめちゃ得意だというから、
 サッカー選手を止めても何とかなるのだろう。
 人の人生いろいろだが、「学歴や実力」も大事だが、
 「最後はそれよりも運かな」と思ったりもする。


★ 私自身はもう90歳だから、ほぼ人生も終わりだが
    現役時代も「自分のやりたいこと」ばかりが出来て、不満は全くない
 これからの人生は「体力次第かな」と思っているが、
 その「体力」には今のところ相当の自信があって「TOPレベル」にあると言い切れるし、毎朝動いて頑張っている。

 でも、これから先「どんな人生」になるのだろうか?
 家内が元気なうちは大丈夫で「家内次第かな」とも思っている。
 そう言う意味では「家内と巡り会えた」のが人生で一番の幸運だったのかも知れない。

 ホントに今は「自分のやりたいことだけやって」生きている人生なのである。
 若し家内がいなければ、こんなことにはならないのである。
 90年も生きられたのも「運がよかった」のだと思うが、
 やはり「人生、その人にツイている運かな」と思ったりもしている。


私の一番の大仕事? SPA直入

2023-02-17 06:56:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 現役時代は「世の中でもはじめて」という種類の大きなことを結構いろいろとやって来たのだが、
 日本で初めて一般のライダーが走れたサーキット「SPA直入」を創ったことが、私の1番の大仕事だったかも知れない。 

 それは1988年時代のことだが、
 当時も日本には鈴鹿FISICOもその他いろいろサーキットは有ったのだが、
 それはどこも「レースライダー」以外は走れなかったのである。
 世はまさに「レーサーレプリカ全盛期」で街にはそんなスポーツ車が溢れていたのだが、
 そのユーザーたちはサーキットは勿論は走れないし、
 走るところがないので、峠にたむろして「峠族」などと呼ばれていた。
 各メーカーとも「レーサーレプリカ」を開発しておきながら走る場所は「ユーザーまかせ」というのは無責任だなと思ったりもしていたのである。
  

★当時カワサキは大分県直入町に広大な土地を持っていて、それはテストコーを創るべく購入したのだが、
 当時のHY戦争などのあおりで、カワサキの二輪事業は危機に瀕していて
 テストコース建設などとてもではなかったのである。
 土地を購入しテストコースを創ることで、地元の直入町には人も雇用するなど約束していたので、
 直入町はいつまで経っても実現しないテストコースがいつできるのかと
 年に何度も明石工場までやって来て督促するので困り果てていたのである。

 そんなことで費用の掛からない「モトクロス場」でも造ってお茶を濁そうかという話になっていたのを私が聞きつけて、
 「小規模なサーキット」を創ってはと提言したのである。
 ちょうど営業にいて「峠族」は問題だと思ったし、
 「小さなサーキット」で一般ユーザーを走らせたらいいと思ったのである。
 

★「一般のライダーを走らせる」のは当時の常識では「危険」ということだったが、 
 二輪車とはそんなに危ない乗り物なのか?
 一方通行で、信号もないし、カーブには転倒時の安全地帯もある。
 「出来る限り安全に徹したサーキットを創ればいい
 ということで、当時の高橋鐵郎本部長の承認を取って踏み切ったのである。

 土地はすでに所有していたので、建設費は4億円弱でできたのだが、
 こんなコースを創るには本社の承認が要るのだが、
 サーキットを造るなど川重では初めてのことだし、
 その是非など判断ができる人は当時の川重にはいなかったのだが、
 当時は大庭浩社長の頃で、大庭社長が単車事業本部長をされてた時の番頭役を私が務めていたので、絶大の信頼があって、
 「古谷がやると言うのならまあいいか」ということで承認が取れて、
 本社の企画・財産あたりも具体的な建設に大いに手伝ってくれたのである。


★若いころからレースを担当していたので、何となくは解っていたのだが、
 さて、ホントに創るとなると会社でも経験者は皆無なのである。
 それに担当してくれた工事会社もサーキットなど初めてなのである。
 
 それを私と、私の後のレースを担当してくれた岩崎茂樹と二人でスタートしたのである。
 そのためには既にあった地方のサーキットを観に行ったりしながら、
 まさにすべてを二人で「起案」したのである。
 これがSPA直入だが、1周2kmほどの小さなサーキットだが、
 安全のためにコース幅は鈴鹿サーキットと同じだし、
 カーブは登り勾配に配置して、グリーンベルトはめっぽう広くとっている。
 サーキットの建設費はコース舗装費などよりも一番多く掛るのは「土を動かす量」なので、
  出来る限り「動かす土の量」が少なくなるようになコース設計をしている。
 
  


 そんなことを想いだしながら、改めて「SPA直入」を観ているが、
 日本で「一番美しいサーキット」と言えるかもしれない。
 こんな自然環境の中に存在している。
 
 
 


★ なぜ、いま突然 SPA直入のことをアップしてるのかというと、
 極く最近の二輪車新聞の記事に
 「愛車でサーキット体験」それも「レーシングスーツ不要」というのである。


  

 
 「時代も変わるものだな」と思ったのである。

 「SPA直入」は1990年4月15日にオープンし、
 当日は直入町に4000人ものユーザーが集まり、
 直入町長は「有史以来、直入に一番多くの人が集まった」と挨拶されたのを想い出す。
 直入町は自然豊かな環境の中にあって、長湯温泉で有名なのだが、
 SPA直入のSPA は温泉だが、もう一つの意味は
 「スパ・フランコルシャン24時間レース」などで有名なベルギーのサーキットの名前と賭けている。
 その名付け親は、物知りの「岩崎茂樹」なのである。

 いまカワサキは九州にオートポリスSPA直入の二つのサーキットを持っているのだが、
 SPA直入は当初の基本コンセプト通り、今でも結構沢山の方々に愛されているサーキットなのである。

  

 
★ 当時、日本のどこのサーッキットも一般ユーザーは走れなかったのだが、
 先ほどの記事にもあるように、
 今では日本中のサーキットで一般ユーザーが走れるようになったのである。

 これはその当時のSPA直入での写真だが
 左から岩崎茂樹、いろいろと応援してくれた田崎雅元さん、
 それにのスリーショットである。
  

 


 新しい時代を切り拓いていったという意味で、
 小さなサーキットだったが「私の一番の大仕事」だったかも知れぬし、
 こんなことは私以外には、なかなかやる人はいないのである。
 ある意味「無茶」なのだが、
 何となくうまくいくのは「ツイている」のだと思う。