★前年末に1年間の療養を経て退院、新しい職場は単車営業に決まった。
まだスタートしたばかりの単車事業は、みんなが初めての経験で営業と言っても私を入れて3人だけの陣容で、品質保証部の機能のサービスもたった3人だけであった、そんな時代だったのである。
肝心の車は125ccがB-7の時代でフレームに欠陥があって今で言うならリコール、そんなものはない時代だが毎日全国の代理店から返品が続いたのである。
当時は125cc以上には物品税がかけられていて出荷の時点で掛けたものを返却の時点で当然のことだが戻してもらわねばならない。払うのは至って簡単なのだが戻入手続きはいろいろと条件があって難しいのである。
明石税務署の現物検査立ち会いなどもあって、手間もかかるし出荷時の姿のままであることがMUSTなのである。走行距離が出ていたらダメだし、とにかく理屈上は出荷の時の姿のままでないと認めて貰えないのである。
営業とは言いながら、返却物件処理掛のような営業だった。
★単車事業としても、販売はカワサキ自動車販売がやっていて、全国に自前の代理店が各県ごとにあった時代である。輸出などはゼロで国内100%であった。
4サイクルのメグロはその時点ですでに吸収はしていたが、カワサキの明石工場では2サイクルオンリーの生産であった。
事業としてもまだとても一本立ちは出来ていなくて発動機の中の一部門だったのだが、不安定でこの年の間に3月1日付で単車部になったかと思ったら5月には事業制になって発動機事業部に、10月にはさらにその中身の変更など年中職制変更を繰り返していた。
そんな組織の中で一貫して業務というか管理畑をやらされて、掛長は課長兼務で掛長心得みたいな立場であった。今考えてみると管理事務ではサラリーマン生活で一番忙しかった1年であったかもしれない。
月はじめは、カワ自との営業連絡会議、そのあと生産連絡会議と定例会議の事務局、議事録の作成など定例業務があり、そのほかに広報もサービスも雑務全般いろいろなものをぜんぶ背負っていた。
それらの仕事も、だれも経験がなく形が決まっていなくて、それをぜんぶ勝手に決めねばならなかった。
8月にあった岐阜での展示会には、カワサキとともにメグロも展示されて、その時には目黒はもう存在しなかったので、目黒の車の会場でのネームプレートに『カワサキメグロ』と書いたのだが、『カワサキメグロってなんですか?』と質問されたりして困ってしまった。
この年8月14日は、唯一『カワサキメグロ』なるバイクが存在した記念すべき日である。
10月4日には、やはり広告の看板の関係で、まだ建設中で完成していなかったスズカサーキットを訪ねている。土を盛ったままのメインスタンドの前を130キロのスピードでレーサーが駆け抜けていく姿を観て、そのスピードにも爆音にも驚いたと当時の日記に書いている。130キロは当時では考えられないスピードなのである。
多分間違いなくカワサキの人で鈴鹿サーキットに初めて行ったのは私に違いないと思っている。
★販売を担当していたカワサキ自販は、川航の土崎専務が社長で高野さんが専務をされていた。
総務課長兼広告宣伝課長をされていたのが、小野田滋郎さん、あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の弟さんである。この小野田さんに会ったことで、私のその後の進路、レースや広告宣伝なども決まったのではないかと思う。
人生で出会った人の中で、『この人にはとても敵わない』と思った人はそう何人もいないのだが、小野田滋郎さんの仕事ぶりをみて、とても太刀打ちできないと思った。その小野田さんに出会ったのがこの年である。別に上下の関係ではなかったのだがいろんなことで小野田さんを手伝ったし、小野田さんからは可愛がって貰った。
何事にも出来ないなどと弱音など絶対に吐かなかった。出来るまでは時間などに関係なく仕事を続けた。手伝っていただけだが何度徹夜をさされたか解らない。会社で徹夜で仕事をしたのは小野田さんと組んだこの年だけである。
お兄さんの寛郎さんを探しにフィリッピンに出かけるときにも、『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じていた。
そんな小野田さんの広告宣伝の手伝いで、この年の7月にはモペットのM-5の撮影に三木の175号線の池のあたりにロケに来ている。モデルには会社の女子社員を使っている。
8月25日にB-8の発売準備を始めて、この年の秋の晴海のモータショーにはB-8が出展されている。そんなに人気にはならなかったが、この車が出なかったらカワサキの二輪事業はなかったのだと思っている。
このエンジン設計者が、後マッハや東南アジアでヒットした名車GTOのエンジンを担当した松本博之さんである。
9月には鳥取砂丘にヘリコプターを持って行って、翌年の『カレンダーの撮影なども行っている。一度目は天気が悪くて 撮影できずに1週間置いて2度鳥取に行っている。
そして2度目の時は帰りはヘリで明石まで戻ってきた。山を越えるともののなん十分で明石まで着いてしまう。京都周りで何時間もかけてきた鳥取がウソのようであった。
★そんなこんなで忙しかったこの年の12月21日に、神戸の六甲荘で結婚式を挙げている。
立派なところで、教職員の関者しか使えない場所だったが、野球部の友人の親父が校長先生だったので、そのコネで使えるようになったのである。
めちゃくちゃ忙しい時期だったし仲人を次長の小野さんにお願いしたこともあって、月初は会議などの事務局を担当していたのでダメということで、21日というややこしい年末の時期になった。その代わり正月休みも含めて半月ばかりの連休となった。
野球部の連中は、金はなんとかするから出来るだけ沢山呼べ、その代わり忘年会の一次会代わりだから披露宴は3時からにしてくれなどと勝手なこと言って他人の結婚式の中味を勝手に決めたのだが、私は幾らだったか忘れたが一定額を出したのだが、あとは会場を取ってくれた球友以下がやってくれたのでよく解っていないのである。
朝鮮時代の小学校の恩師やトモダチや、高校、大学時代の球友など大勢集まって誠に賑やかきわまる披露宴で、司会を会社の先輩の坂口さんと小野田滋郎さんが取り合いになるなど、まさに忘年会の一次会のような披露宴であった。わたしも飲まされたし、歌も歌えと言うので神戸一中の校歌などを歌った。
お陰で終わりは2次会にちょうどいい時間にはなったのだが、新婚旅行に出かける時間としては誠に中途半端で、京都に宿をとったのだが、そこまでは三宮から普通電車で、それも大阪までは小野田さんと一緒に出かけたりしたのである。
もうあれから50年近くになる。仲人をしていただいた小野助治さんも坂口さんも小野田さんも、球友の何人もがこの世を去ってしまわれた。
新婚旅行は山やスキーの好きな坂口さんの言うとおりにしたのだが、北陸の湯湧温泉などはよかったが、長野の赤倉のスキー場は本格的すぎて一度もスキーの経験のない二人には『リフトで登ったらリフトでしか降りて来られませんよ』と脅かされて、直ぐヨコのバスの停留所うのようなところでスキーの真似ごとをしただけの赤倉スキー場であった。
考えてみると、披露宴も新婚旅行も忙しかったので、トモダチや先輩が半分手伝ってくれたようなものだった。
いい加減なところもあったが、兼六園も善光寺にも行ったし、特急の1等車にもちゃんと乗って戻ってきた。
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当時は、そんなにお若い方とは思いませんでした。
何しろ当時から話の判る、立派な方でしたから。
仲人を頼まれた時はびっくりしました。