★ 手元に残っている写真で、一番私の想いがこもっているものと言えばコレだろう。
★1988年10月15日 今からちょうど30年前 私も未だ55歳の頃である。
この年の10月1日付で、私は国内の販売担当のカワサキオートバイ販売に専務取締役として出向することになったのである。
当時のCP事業本部長でカワサキオートバイ販売の社長を兼務しておられた髙橋鐵郎さんから『国内市場で7万台の販売達成』と言う高い目標を与えられての出向だった。
それまでの単車事業は80年代初頭に膨大な赤字を抱えてその事業再建が第一命題であったことから、世界の各販社も堅実経営が一番の目標であり、ロードレース関係も一時中断していたそんな時期が続いたのだが、ようやく事業再建もなって、髙橋本部長が自ら社長を兼務されていた国内販社での販売台数倍増の目標を掲げられたのである。
健全経営なら兎も角、販売倍増を狙うなら、二輪車はスポーツ・遊びの道具だから、一番必要なのは『遊び心』と『末端ユーザーへの働きかけ』そしてその結果としての『カワサキの新しいイメージ創造』なしに台数倍増など望んでもとても達成はできないと思ったのである。
そんなことで、10月1日に赴任して真っ先にやったのがこの『ファクトリーOB会』で、かって創成期のレースを担当されたOBの方々にその決意を披露し、現役チームのメンバーたちにも『積極的なレース展開』を宣言したのである。と同時に新たに ユーザークラブ KAZEをスタートさせたので、KAZEも今年が『30周年記念』を迎えるはずなのである。
結果的には90年代初頭に『7万台の販売目標』も達成できたし、この席に出席している『多田・宗和』と塚本の3人で世界耐久ルマンでの3位入賞も果たしたし、ラッセル・ㇲライトコンビでの鈴鹿8耐での優勝も達成して『国内市場の輝ける90年代実現』となったのである。
この会合は当時から巨人や中日の定宿であった芦屋の竹園旅館で一泊どまりで盛大に開催したのである。
この写真を撮って頂いたのは、二輪事業スタートの時期からカワサキを担当し、今も尚現役の記者である『二輪車新聞社の衛藤誠』さんで、当然二輪車新聞の記事にもなったし、『新しいカワサキの基本方針』発表の場として、それに『相応しいメンバー』を集めたのである。
★今回は、この写真に載っている方々について、私が今までこのブログなどであまり記述していない方々を中心に、ご紹介をしてみたい。
まずは最前列『胡坐をかいて座っている方々』がカワサキのレース創生期の中心メンバーで、カワサキの二輪事業の中枢におられた先輩方である。
前列右から
● 大槻幸雄 カワサキの初代ローレース監督を務めた。Z1開発責任者で川重常務を務められた。今でもZ1会などでお付き合いがある。
● 中村治道
カワサキのレースはこの方が生産部門で旗を振られて始まったのである。あの『青野ヶ原モトクロス』の総監督で、カワサキの当時のレース委員会の中心人物である。中村さんがいなかったら『青野ヶ原』もなかったし、あの勝利がなかったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。情熱の塊のような方だった。
● 苧野豊秋
私がカワサキの二輪事業に異動して以来、ずっと私の上司としてカワ販専務を務められ、山田さんとともにレース運営委員会をリードされた。ジェットスキー関連では、JJSBAを創設しその初代理事長として国内のジェットスキーレース分野で大いに貢献された。
髙橋鐵郎・中村治道・田崎雅元さんなどにとっても、ジェットエンジン部門時代の上司でもあった方である。
川重退職後も国内部品業務やJJSBA関連で大いに援けて頂いて、ソウルオリンピックでのジェットスキー・デモンストレーションにもご一緒して頂いたのである。
● 髙橋鐵郎 長く直接の上司として関係があった。川崎重工業副社長を務められた。
● 西海義治
真ん中に座っておられるのが兵庫メグロの西海社長である。カワサキのレース活動は西海さんの主導で進められたと言っていい。当時カワサキには二輪事業も解っている人は少なかったし、ましてやレースの世界など誰もよく解ってはいなかったのである。西海さんは元プロのオートレーサーでレースに詳しく、カワサキでレースをするために『子飼いの松尾勇』さんを当時のカワサキの生産部門に送り込んで、昭和37年11月鈴鹿サーキットで開催された日本で初めてのロードレースにバスを仕立ててその見学観戦を行ったのである。その観戦に行ったのが中村治道・髙橋鐵郎さんなど当時の製造部門の人たちで、そのレースを見て、カワサキのレース熱は一気に燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に繋がり、その後のカワサキの二輪事業の方向が定まったのである。兵庫県のMFJ支部長なども務められた。
ちなみに、鈴鹿ロードレースでの250㏄優勝が三橋実(後カワサキコンバット主宰)350㏄が片山義美(神戸木の実クラブ)と言うカワサキのレースに密接に関係のあったお二人だったことも何かのご縁だと思っている。
● 山田熙明
かっての技術部長で、レースに関しても熱心で『レース運営委員会』の長を務められた。大槻幸雄さんなどの直接の上司である。神戸一中・一高・東大(航空機)の英才ではあったが、西海さんとも親交があったし、私は中学の後輩でもあったことから特別に目を掛けて頂いた。Z1開発にも最初のカワサキのGPレース出場も直接関係されて後、航空機事業本部長などを務められて、川崎重工業副社長となられたのだが、80年初頭の『カワサキ二輪事業の最大の危機』には本社での『単車事業対策委員会』の長を務められ、私を国内から、髙橋鐵郎さんをアメリカの会長から企画に呼び戻した人事をやられたのは山田さんなのである。私も未だ40代後半の頃で、その時KMCを私よりも若い田崎さんに任されたのだが、最初は『田崎で出来るか?』と言われたのは、有名な山田さんの言葉なのである。当時のムツカシイ状況を私や田崎さんなどの若手に思い切って任されたのは、『ファクトリーレース時代の信頼関係』みたいなのがあったのだと思う。
この写真当時は既に川重を引退されてはいたのだが、『国内市場倍増の目標に挑戦する決意』みたいなものを山田さんにはぜひ聞いて欲しかったのである。
● 松尾勇
前述の兵庫メグロからカワサキの製造部に来られた松尾勇さんである。カワサキの初期のレーサーは全てエンジン以外は『松尾勇さん作』と言っていい。当時は製造部の中にレース職場があってそこでレーサーを創り上げていた。その中心が松尾勇さんで、最初に鈴鹿を走った90㏄の『ロードレーサー』もF21Mもみんな松尾勇さんが仕上げたもので、技術部はエンジンのチューニングまでが担当だったのである。その極め付けはF21Mのパイプフレームのモトクロッサーで、ヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、ベニヤ板に釘を打ってフレームの形を創り、海岸で砂をとってきてパイプに詰めて曲げ、ダブルクレードルのフレームを創りあげたのである。
● 糠谷
昭和41年度で大槻幸雄・安藤佶郎・私の3人がレースから離れ、そのあとのレース監督を引き継がれたのは糠谷さんである。メグロから来られた方で、技術も勿論詳しかったのだろうと思うが、私がびっくりしたのは二輪車もサイドカーもホントに上手に乗りこなされるのである。やはり二輪が好きで会社に入られた方は違うなと思ったのである。創生期の二輪関係者は特に二輪が好きでそこにいたのではなくて、何らかのご縁で二輪事業に異動して来られた方が殆どだったのである。
★2列目からはライダーなどが並んでいるが、有名ライダーも多いし、そんな方たちの紹介は簡単にさせて頂くことにする。
● 大西健治
私の下でレース現場を纏めてくれていた大西健治さんである。当時の広告宣伝課はヘリコプターなども持っていて、レース場にヘリコプターなど帯同させていたのだが、そんなフライト計画などもやっていた。ちなみにヘリと言っても当時新品で1000万円ぐらいでこれは下取りのヘリだから200万円ぐらいだったのである。それを飛ばす時だけ、当時は明石にいた『ヘリコプター部門』のお世話になっていたのである。
● 清原明彦 ご存じ『カワサキの清さん』である。 ちなみにOBでは、清さんと、星野一義が末席を務めたのである。
● 山本隆 モトクロス3年連続日本チャンピオン。 ロードレースで最初に鈴鹿を走り3位入賞を果たしたのは山本隆である。
● 和田将宏 カワサキで正規にロードライダーとして契約したのは和田なのかも知れない。当時既に名を成していた。
● 安良岡健
ロードライダーとして知られているが、カワサキで初めて契約したのはモトクロスライダーとしての契約でGP125の開発時代は、専ら安良岡がモトクロスライダー契約で鈴鹿を走っていた。当時はカワサキコンバットというクラブチーム所属で、星野一義はその安良岡を慕ってカワサキコンバットに入ってきたのである。
● 私・古谷錬太郎
● 田崎雅元
後川崎重工業社長・会長を務めた田崎さんである。若い頃からのレース仲間で、前述の製造部レース職場を管理していて、山本隆が初めて鈴鹿を走った90㏄のロードレーサーの元は田崎さんが製造部から都合してくれたものである。最近はまた昔に戻って、若い時代のままのお付き合いが続いている。
● 平井稔男
自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない平井稔男さんである。そう言われても仕方がない経歴の持ち主で、未だカワサキが二輪事業をやっていない頃から、カワサキ明発で二輪車を売っている。レース関連では『神戸スーパ₋スポーツ』などで多数のライダーたちを育てているし、鈴鹿のロードレースの現場での平井さんも有名である。
今も私とは直接いろいろと繋がっている。
● 金谷秀夫
金谷が初めて乗ったメーカーのマシンはカワサキなのである。カワサキが公式に初めて出場したアマチュア耐久6時間レースに歳森康師のコンビライダーとして、契約もないまま出場したのが最初だが、流石ロードレースライダーでモトクロスライダーとはちょっと違う抜群のタイムだったのが印象に強く残っている。
金谷と言えば神戸木の実と師匠片山義美さんとの関係だが、私もかってのレース仲間として金谷が呼んでくれるのである。
有名ライダーばかりの中に独り異質な私がいるのである。(神戸木の実クラブ解散会)
● 岡部能夫
二列目一番左で正座しているのが岡部能夫、あまり名を知られてはいないが、早かったしいい奴だった。4年ほど前『二輪文化を伝える会』の『第1回、山本隆と私のトークショー』に岡部と星野と金子豊がわざわざやってきて。 岡部と金子これが最後になった。
★3列目からはOBの他に、88年当時の現役諸君も入ってくる。
● 岩崎茂樹
私の後のレースマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎茂樹くんである。私と違って二輪にもレースにも詳しいし自分でも二輪に乗るマニアである。彼と一緒に創ったのが『SPA直入』その名付け親でもある。SPAは長湯温泉のSPAでもあるのだが、『スパ・フランコルシャン』と言うベルギーの有名サーキットともかけての『SPA』なのである。
● 歳森康師
神戸木の実のライダーで天才的とライダー仲間が言っていた。カワサキで一番最初に契約したのが歳森で、山本隆は片山義美さんと歳森がわざわざ加古川まで足を運んでの『神戸木の実』入りだったとか、2番目に契約したのが山本隆なのである。二輪から4輪に転向したのも早かったし、星野を4輪に誘ったのも歳森のようだが、目を悪くしてこの頃はすでに引退していた。
● 白瀬 技術部におられて昔からよく知っているが、この席におられるのは現役チームなのかも知れない。
● 武本晃
武本さんがレース関係あったのは知らなかった。 これは間違いなく現役チームからの出席である。後アメリカリンカーン工場の社長なども、務められた。
● 北村敏
北村さんは、私の後の広告宣伝課長でレース関係も管轄されていたのでレースOBとしての出席だと思うが、仕事の面では後田崎さんの後の部品業務や80年代には営業部門の担当もされた。
● 吉田義正 彼は多分現役チームとしての出席だと思うが、旧いカワサキファクトリー時代もメカニックとして所属していた。
● ???
技術部のレース担当長だと思う。 よく存じ上げているのだが、名前が出てこないのである。確か三木におられて、ゴルフのZ1会にも関係されていた。全然思い出さないのが不思議なほどである。
● 宗和孝宏 現役ライダーとしての出席である。この当時よりも最近の方が色濃いお付き合いがある。
● 安井隆史 ごく最近までレース関係を担当していた。当然現役チームとしての出席である。
★ 最後尾の一番右が 星野一義である。 OB会の中では星野と清原が一番若手なのである。
● 星野一義
この時期既に、彼は4輪ライダーとして、超有名人であったのだが、最後尾に並ぶようなところが、星野のよさだと思う。この時もエレベーターの中で中日の現役選手たちと一緒になったのだが、中日の選手曰く『星野さんだ!!』と言って 『うちの星野よりは上だな』などと言っていたのである。17歳でカワサキに入ってきてモトクロスでは山本隆を師と仰ぎ、20歳になったころにわざわざ私の家まで訪ねてきて『クルマ買ってもよろしいか?』と聞きにきたりする一面を持っているのである。
今会っても全く昔の儘の星野がいる、上の写真山本と私が上京した折は、運転手を務めてくれて高級焼き肉をご馳走してくれたのである。
● 梅津次郎 カワサキコンバットのトップライダーで全盛期は本当に速かった。
● 福本敏夫 現役ライダーとしての参加である
● 多田喜代一 現役ライダーとしての参加だが、現在でもいろいろと繋がっている。
● 野村純一 現役チームとしての参加だが、野村君とはこの後、チームグリーンの監督として長くお付き合いすることとなった。
● ???? 残念ながら一番左の方はお名前が解らない。
当日のライダー関係者だけでの写真である。
こちらはカワサキ現役時代の山本・歳森・岡部・星野
最後に、田崎さんから頂いた写真を。
カワサキの二輪事業を引っ張った山田さん、高橋さん、田崎さん。
みんな創生期のカワサキファクトリーチームのメンバーなのである