代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

西郷どんの謀略とテロ

2018年09月17日 | 歴史
 大河ドラマ「西郷どん」。あまりにも史実とかけ離れた脚色(というか、完全に創作)が多すぎて、真剣に論評する気になれずにいた。

 しかし、大政奉還から王政復古クーデターに至る先週と今週の筋書きにかんして、はじめてポジティブにコメントする気になった。
 先週(第34回「将軍慶喜」)から今週(第35回「戦の鬼」)にかけての西郷どんは、倒幕の密勅を偽造するは、偽勅でもって自分の主君を騙すは、江戸市中かく乱のための無差別テロ工作を命じるは、御所を薩摩兵で囲んでクーデターを起こすは、薩摩の謀略を批判し、御所で堂々と正論を述べる山内容堂を「短刀で刺し殺せ」と脅すは・・・まさに謀略でもテロでも何でもありの彼の真骨頂が描かれた。
 先週から突然に西郷どんのキャラが変わったので、とまどっている視聴者も多いようだ。

花燃ゆとのデジャブー

 第35回「戦の鬼」は、目線が変わっていた。戦争を起こすために謀略でもテロでも何でもありと邁進する兄に対し、疑問を抱いて、それを不安気に見守る、弟の信吾の目線で描かれていたのだ。視聴者が主人公目線ではなく、信吾目線で見るように誘導されていたといってよい。

 何かデジャブーを感じた。そう、思い出した。長州舞台の大河ドラマ「花燃ゆ」だ。
 「花燃ゆ」でも、吉田松陰が弟子を扇動して老中暗殺のテロ計画に突っ走る回になったら、なぜか松陰の目線から離れて、松陰の計画に批判的だった門人の吉田稔麿目線に移ったのだ。

 どうしてこういう描き方になるのだろう?
 思うに、テロも含めて絶対正義は我にありと信じて突っ走る主人公に感情移入するようにドラマを作ってしまうと、変に影響された視聴者の中から実際にテロを・・・と考える人々が出てしまうのを危惧しているのではないだろうか。番組制作サイドとしては、それを危惧して、こういう描き方をせざるを得なくなるのだろう。

 第35回では、後ろ姿だけであったが、江戸市中で無差別テロを行った伊牟田尚平と益満休之助と相楽総三の三名と思われる人物たちの姿が描かれた。伊牟田・益満・相楽だと、番組の中で特定はされていなかったが、おそらくそのつもりだったのだろう。

 あまりにも西郷のダークサイドに触れてしまうことになるので、伊牟田尚平と相楽総三は絶対にドラマには登場しないだろうと思っていた。ドラマの中での西郷のキャラを守るためには、伊牟田も相楽もなかったことにせざるを得ないだろう、そう思っていた。
 赤松小三郎暗殺事件も、やはり当然のごとく、なかったことにされるだろうと思っており、当然のごとくそうなった。しかし伊牟田や相楽を、たとえ後ろ姿だけでも出演させたことは、評価したい気持ちを抱いた。
 しかしながら、狡兎死して走狗煮らるとばかりに、良いように使われるだけ使われて処刑された、彼らの無残な死までは、ドラマでは決して描けないだろう。


西郷を謀略・テロ路線に転換させたのはアーネスト・サトウ

 さて、何でドラマの中の西郷は突然ダークサイドに堕ちてしまったのだろうか?

 第34回「将軍慶喜」を思い出そう。ドラマの中の西郷が、テロを行っても、なお自分の行為の絶対正義を確信しているのは、「慶喜が日本を異国に売り渡そうとしている」という情報を信じているからである。その情報を西郷に伝えたのは誰か?

 第34回のドラマ上の西郷は、イギリスの外交官のアーネスト・サトウと会談している。そこでサトウは、「フランス公使のロッシュが薩摩の割譲を慶喜に要求している。フランスと幕府が組んで薩摩を滅ぼすつもりだ。そうなる前に、薩摩は武力で幕府を倒すべきだ。イギリスも軍事支援をすることができる」と西郷に訴えていた。

 史実の西郷も、実際、慶応3年の7月28日にイギリスの外交官であるアーネスト・サトウと大坂で会談している。しかしながら、ドラマに出てきた、「フランスが慶喜に薩摩割譲を要求している」という話は、ドラマの創作、すなわち史実にはないデマである。制作サイドも、西郷の行為をギリギリで正当化するために、このような虚構を盛り込まざるを得なかったのである。この虚構がなければ、視聴者は、ますます「????!!!」という感想を抱くことになったであろうから。

 サトウが西郷に語った、他の部分は本当の話だ。つまり、イギリス外交官のサトウは、フランスの「脅威」を誇張して西郷に伝え、フランスにやられる前に、長州と組んで武力で討幕し、薩長で権力を掌握してしまえ、イギリスは軍事的に支援するから、そう西郷にけしかけたのだ。
 付言すれば西郷は、この会談以前には土佐と組んで大政奉還から国民議会の設立を目指していた。サトウは、それを「狂気じみた考えだ」と言下に否定し、国民議会などではなく、長州と組んで武力でもって薩長で政権を奪取せよと、西郷を説得したのだ。
 サトウは、「国民議会」などという英国が操作不能な厄介なシロモノをつくられるよりも、自分たちの言いなりの薩長の専制権力を生み出したほうが、日本をコントロールしやすいと考えたのだろう。
 
 実際の西郷も、フランスの脅威を誇張して伝えたサトウのホラ半分の話を鵜呑みにしてしまい、イギリス製の武器を手に、戊辰戦争の悲劇に邁進してしまうことになったのだ -- 歴史学者は、あまりそう主張しないが、私はそう考えている。
 
 ドラマの中で、ふきという架空の人物(慶喜の愛妾)が、ロッシュと慶喜の会話を西郷にチクるという創作、ロッシュの薩摩割譲要求という「創作」を除けば、西郷がなんで突然テロリストに変わったのかという理由を説明する「史実」は、アーネスト・サトウにそそのかされたという事実しか残らない。

 苦心の創作が散りばめられてはいるが、サトウが西郷を誘導したという史実を、無視せずにドラマの中に挿入した制作陣には敬意を表したいと思うのだ。

日本を外国に売り渡したのは誰か?

 日本を外国に売り渡そうとしたのは、ロッシュと組んだ慶喜ではなく、イギリスと組んだ西郷であったのだ。
 実際、少なくともフランスは横須賀製鉄所(横須賀造船所)の建設などを援助し、日本が自力で製鉄をし、造船もできるようになるよう支援していた。

 イギリスはどうか。日本が自力で製鉄をし、軍艦を国産できるように促すのではなく、むしろそれを奪い、戦艦や武器などイギリス製のものを売りつけていく戦略であった。日本を、イギリスの軍事産業の従属国に変えていったのだ。
 
 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
英国自由貿易帝国主義とアーネスト・サトウ ( 睡り葦 )
2018-09-24 13:49:40

 関さん、時宜を得た一連の論述記事とコメントをありがとうございます。永国淳哉編『ジョン万次郎』(新人物往来社、2010年)所収の田中瀧治氏論文によれば、ペリー第一回来航直後に老中阿部伊勢守から召喚されて江戸土佐藩邸に移された中浜万次郎は、代官江川担庵、勘定奉行川路聖護(川路聖謨のことであろうと思われます)、松平河内守(勘定奉行松平近直ではないかと思われます)それぞれの自宅に呼ばれての懇談会ののち、秋に公儀に対して米国事情の陳述をおこなったとのことです。
 田中氏はその際の答弁書を現代語にして要約されていますが、その中に「国王は無く国の大政を掌る大統領をフラジデンといい、国中の人民が入札で登職し、在職四年で交替する規定である、・・・」とあります(前掲書p184)。入札という言葉を万次郎が使ったのか、答弁書をまとめる際にこの言葉になったのか知るすべがなく、ここで途切れてしまっておりました。申しわけありません。

 今般の「西郷どん」についての示唆ゆたかな論考記事、まことに興味深いものをありがとうございました。
 ハーバード大学図書館の蔵書をフォトコピーしたものらしい、サトウの「A Diplomat in Japan」を読みあぐねており、NHKの謎または闇についての想像が及びませんが、御考を繰り返し拝見しておりまして、あの明敏なサトウが忖度したパークスの考え方には、インド → 中国 → 日本と条件の変化に即応した自由貿易帝国主義戦略があったと、ふと考えましたことを報告します。

 16世紀前半に始まるインドのムガール帝国はイスラムの征服王朝であり、ヒンドゥー教徒の土侯たちとの間に深刻な対立を長期にわたって抱えて18世紀には支配力の末期的衰退に直面していました。
 それを背景にして英仏東インド会社が現地勢力を直接支配しつつ利権と覇権を争ったわけです。英仏の東インド会社間の戦闘、プラッシーの戦いにおいてイギリス側がフランス傘下のベンガル現地軍を買収したことが勝敗を決しました。買収利益供与を切り札とする敵方分断というやり方は現代に至るまでアングロサクソン得意の芸風であるように思います。
 アヘン戦争においてインド人兵士が中国内陸侵攻に使われたように、インドはイギリスのアジア戦略の最大の拠点となります。
 プラッシーからちょうど100年後、イギリス東インド会社に対する現地人傭兵の抵抗に発するインド大反乱が無惨に鎮圧されたあとインドは英国帝国の一部となり、東インド会社という個別商業資本支配からイギリス本土の産業金融資本による直轄支配に移行します。1858年、日本の維新王政復古の10年前のことです。

 ムガール帝国同様に中国は当時北方民族征服王朝の200年にわたる支配が末期的症状を呈しており、英ジャーディン・マセソン商会が中心となって持ち込むアヘンの取締りを逆手に取った英軍の直接侵攻を招きました。インド人傭兵を含む英軍に南京に迫られ、1842年上海以下五港の開港を含む不平等交易条約を呑み香港をイギリスに割譲します。
 この南京条約体制は完全な自由貿易ではないというイギリス側の不満に応じた、当時広東領事であった能吏パークスは謀略的言いがかりによって第二次アヘン戦争、すなわちアロー戦争を開始します。「滅満興漢」を掲げ征服王朝の弁髪強制を拒否する太平天国の乱に足もとが揺らぐ清朝に対して自由貿易帝国主義パーマストン政権は、議会の反対に解散総選挙で応えて開戦、ルイ・ナポレオン第二帝政のフランスに共同出兵を求め、ともに北京に侵攻して激しい略奪をおこないました。そして、九龍半島南部のイギリスへの割譲、中国人の奴隷労働者としての輸出を含む「自由貿易」を実現する北京条約を押しつけました。ムガール帝国滅亡の2年後1860年、日本の維新王政復古の8年前です。

 直近の記事において関さんが指摘されたイギリスの日本侵攻計画検討は、アロー第二次アヘン戦争で中心的に活躍した、日本派遣の経験を持つ英陸海軍将官によって検討立案され1864年に提出されたとのことですが、その軍事覚書によれば元寇において南宗と高麗の兵が動員されたように英領インド現地人を含む、というよりおそらくインド兵を主体とする地上軍が大坂、京都、あるいは江戸に向かうという想定になっていたとのことです。

 陸上戦闘計画を立案した英陸軍少将は火器と戦闘法を含めて戦術的にはイギリス側が圧倒的優位と判断していたと思われますが、インドを拠点とする対日侵攻はアロー第二次アヘン戦争を上まわる規模の人員と物資兵站を要し、英本国での議会対策を含めて、戦略的にはきわめておおきな困難をともなうと考えられたと推測します。
 イギリスの自由貿易帝国主義にとって産業革命後英国国内の戦略物資となった紅茶の供給源である大陸中国は非常に重要であったわけですが、大陸東端の列島の小国の経済的重要性は直接侵攻のコストに見あわないと考えられたであろうと推測します。

 ユーラシア大陸中央で海洋に面するインドを押さえてそこから東に向かったイギリスとは逆に、太平洋の向こうから海を越えて大陸に向かうアメリカにとって日本は重要な地理的ポジションにあります。アヘン戦争とアロー戦争という事実によってイギリスの脅威を謳って対日通商条約に一番乗りをしたハリスのアメリカは、1861年から1865年の間には本土内戦、南北戦争によってアジアでのプレゼンスを失います。イギリスと敵対することはできない、普仏戦争直前のフランス本国のポジションを考慮すると、イギリスが日本を料理するのに牛刀をふるう必要はない時期であったと思われます。
 南北戦争は、じつは南部の独立を目的とした戦争であったわけで、イギリスの南部との経済関係と戦時中のイギリスの外交姿勢から憶測しますと、開戦の背後には米国を南北に二分するというイギリスのお家芸的思惑があったように思えてなりません。

 インドと中国とは異なり、当時の日本は異民族征服王朝による支配下にはありませんでした。しかし長州毛利家と薩摩島津家は例外的に徳川家による支配をそのように受けとめており、密貿易によって経済力と武力を蓄え、偃武パクストクガワーナにおいて異様に際立った好戦性を持っていました。彼らにミカドという正統性と世界最新の武器をあたえて徳川を武力打倒し、アメリカ独立戦争やフランス革命にあらわれる人民主権につながりかねない公議政体論を蹂躙して日本列島を征服させようという間接侵略戦略を、欧州王族間のクーデターであった名誉革命を政治的理想とするスノビッシュな英ブルジョアジーが考えるのは自然なことであったろうと思います。慶喜が鳥羽伏見で見たのは、にわかづくりの錦の御旗ではなくユニオンジャックだったのではないでしょうか。

 以降、欧米軍事産業による見本市となった日清戦争で山県 → 伊藤と長州政権が開始した軍事大国路線の以降の顛末に繋げるのは手に余ります。いま、陋劣な重臣たちが放恣に耽り阿諛に生きるさまざまの官民臣僚たちが群れるアベ長州王朝の支配の無惨さがNHKの謎に深い影を落としているのではないでしょうか。しかし分断された朝鮮半島における南北同盟のスタートに見られるように、歴史の変転を知るトランプ勢力がもたらすであろう軍産パクスアメリカーナの凋落が150年目を迎えるかの征服王朝の足もとに忍び寄っています。
返信する
御説に賛同します ()
2018-10-03 22:51:40
睡り葦様

 すっかりブログが滞っております。返信遅れて申し訳ございませんでした。
 イギリスの自由貿易帝国主義についてのご意見、まったく同感です。

>軍産パクスアメリカーナの凋落が150年目を迎えるかの征服王朝の足もとに忍び寄っています。

 イギリスの自由貿易帝国主義が凋落したとき、松岡洋右長州閥外相はナチスドイツと手を組む途に踏み出しました。
 米帝の凋落に際して、長州政権が何をしでかすか、悪夢の再来を危惧させます。
 自動車関税など勝手にかけさせておけばよいものを、ポチがシッポを振って向こうの術中にはまってしまったために、イジメぬかれて最後にキレた時、どのようなハードランディング路線を選択するのか、不安で仕方ないですね。
 米国で民主党左派政権の誕生、それに対応して日本で枝野政権が誕生し、うまくソフトランディングしてくれると良いのですが・・・・。 
 
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。