代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

【近刊書紹介】日本を開国した男・松平忠固

2020年04月13日 | 自分の研究のことなど
 この間、引きこもってひたすら本を書いています。ようやく出版が決まり、宣伝してもよい状況になりましたのでお知らせします。たぶん6月ころに刊行できると思います。
 ほとんど誰も知らないといってよい江戸末期の政治家・松平忠固についてです。
 添付したチラシ(案)では、本のタイトルは『松平忠固と日本開国の真相』(作品社)となっています。ただ編集者さんからは、もっと攻めたタイトルで良いのではないかと言われ、『日本を開国した男・松平忠固』という案も提示されています。「ちょっと攻めすぎだろう」と言われるかも知れませんが、事実としてその通りですので、このタイトルでも誇張には当たらないと思います。そんなこんなで、まだタイトルは流動的ですが、「松平忠固」が必ずタイトルに入ることは確定的です。
 
 コロナ禍と世界大恐慌のまっただ中に、本なんか出している余裕はあるのか、といった後ろめたさもあります。しかし一過性の内容ではなく、長期的に歴史観に影響を与えられれば・・・と考えております。今年読まれるかどうかとは別に、とりあえず出しておきます。
 長期的に何を目指しているのかというと、「歴史教科書の書き換え」です。チラシにあるように、無勅許での日米修好通商条約調印を断行したのは井伊直弼ではなく松平忠固であるということ、開国の決断は外国から無理強いされたようなものでなく、長期的な構想の下に自ら選び取ったものであること、そして日米修好通商条約は教科書で言われているような不平等条約ではなく、日本には関税自主権もあった、という事実です。

 この本の出版後も、実際の教科書の書き換えには何年、いや下手をすれば何十年もかかるでしょう。しかし、いずれ必ず書き換えさせねばならないという決意で出版します。
  
 また出版が近くなりましたら、お知らせします。


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2 コメント

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御著に期待 (ワタン)
2020-04-14 06:52:32

 頑迷固陋・水戸の斉昭と対立した上田の忠固ですね、興味ありますね。幕末・明治初期の人物像は大幅な再検討が必要ではないかと思つてゐます(明治以来の忖度歴史家・作家の作品は無益では、とくに薩摩の西郷や長州の松陰の伝記はと)ので、御著におほいに期待できます。
 コロナ騒ぎのなか、溜つてゐ書類を整理してゐたら、「明治維新はスキャンダル」といふ一篇がでてきました(出典がメモしてないのですが、筆者は、たぶん『民族とは何か』の関曠野さんかなと)。再読し、実にインパクトがありますので、僭越ながら添付します。

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明治維新はスキャンダル

 今年の夏は、教科書問題に明け靖国参拝に暮れた。メタンガスが発生しそうなほど知的に澱んだ今の日本の状況では、こうした騒ぎによる社会の空気の撹乱もそれなりに意義はあったと思う。しかし教科書や靖国に賛否両論はあっても、根本的な問題がぜんぜん論議されていない。それは、明治維新なるものをどう解釈し評価するかという問題である。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観は、明治維新とそれ以後の近代日本の歴史を全面的に肯定するものといえよう。その点で、この会の史観は、言葉遣いに違いはあるものの、皇国史観の焼き直し版だといえる。と言うのも、いわゆる皇国史観はあくまで明治維新を正当化するために作られた史観で、日本の古代神話の評価などもそれに付随して出てくるにすぎないからである。そして靖国神社は、維新における官軍の戦死者を祭った招魂社として始まった特殊な施設であることは今さら言うまでもない。

 ところで歴史の神話化といえば、明治維新こそ現代日本における最大の神話だろう。NHKの大河ドラマなどでも大抵、維新は近代日本国家を建設した偉大な出来事として描かれている。そして「つくる会」が目のカタキにする”反日自虐”教科書においても維新は近代日本の出発点として高く評価されていることが多い。おかげで明治維新=近代化という図式は、日本人の頭に自明のこととして刷り込まれてしまっている。

 しかしこれはとんでもない勘違いである。日本の近代化は、開国後にすでに徳川幕府の下で開始されていた。幕臣として欧米諸国を視察し「西洋事情」を著した福沢諭吉などは、むしろ勤王攘夷派の田舎侍などは近代化の障害になるとみなしていた。しかも幕府が始めた近代化は、西洋からの文物の導入にとどまるものではなかった。 日本史上、開国前後の徳川幕府ほど力による政治は不条理であることを身に染みて悟った政権はない。この時期に「公議興論」という言葉を広めたのは幕府である。その後の王政復古に際して公けにされた五箇条の御誓文は「万機公論に決すべし」などみな幕府の方針のパクリである。そしてこの御誓文を書いた由利公正が、明治六年の政変をきっかけに板垣退助らと民選議院設立の建白書を提出して自由民権運動の火の手をあげ、明治政府と対立するに至ったことは忘れるべきでない。

 維新は、政治的にも何の名分も思想もない事件だった。開国後の日本では公武合体論が主流になり、しかも徳川慶喜が大政を朝廷に奉還したので勤王派が幕府を倒さなければならない口実はなくなっていた。そして幕府は外様大名を含む列侯との合議による一種の議会政治に踏み切り、連邦制や群県制など新しい体制を模索しつつあった。

 それでも維新をやったのだから、無理が通れば道理が引っ込むとはこのことである。 すでに大政を奉還している徳川家が、天皇から権力を奪った賊とされ徳川と東北諸藩などその同盟者は討伐の対象になった。 それまでは京都文化の象徴にすぎなかった天皇は、この大義名分なき政変を正当化するために神秘的存在に変身させられた。このクーデターを実行するために大久保利通と岩倉具視が「討幕の密勅」なるものをでっち上げたことはよく知られている、そして公武合体策を推進してきた坂本龍馬は暗殺され、親幕派の孝明天皇は不審な死に方をし、お稚児さんのような少年が天皇になった。

 明治維新には思想もなかった。その動機は、幕府に対する薩長両藩と京都の公家の積年の恨みと下級の武士や公家の権力欲だった。こうして日本人が黒船を契機に日本が開国したことの歴史的な意味を改めて省察すべき大事な時に、たんなる権力闘争がそうした問いかけを棚上げにしてしまったのである。 そのせいで今日なお、日本人は日本が開国したことの意味が理解できない精神的鎖国の状態にある。そして、明治維新の無思想性を覆いかくすために使われたのが、徳川時代に水戸学がレベルの低い史学として作り上げた国体論である。この国体論なるものは、もともとは徳川幕府の正当化を意図して創作されたものである。満州人に征服された明などより日本こそ東アジアの華夷秩序における真の「中国」、「神国」とするその主張は、ナショナリズムではなく「大日本主義」とでもいうべきものであり、後に大日本帝国を支える思想になった。

 明治維新は、無思想であるだけではなく、一種の政治的犯罪だった。そうしたスキャンダルが根本にあるから、維新を建国の偉業として正当化しようとする人々は、結局は自滅に終わった大日本帝国の歴史をなりふり構わず何から何まで正当化することになるのだ。つまり「毒をくらわば皿まで」である。 この点においてだけは、近代日本の歴史は旧ソ連の歴史に似たところがある。旧ソ連においても、レーニン一派の無法なクーデターが「十月革命」などと称されていた。そしてロシア革命なるものの思想的根拠や政治的正当性が薄弱であればあるほど、なおさらレーニンやスターリンは神秘的なカリスマに祭りあげられた。犯罪的クーデターが生んだ政権はその後の血で血を洗う粛清によって生きながらえたが、この点でも、西郷隆盛、江藤新平、前原一誠といった維新政権内のまともな人間を粛清し自由民権運動を弾圧した明治政府はボルシェビキ政権に似ていた。とにかく維新のこうした実体に迫らないかぎり、皇国史観と大日本帝国の亡霊はいつまでたっても消え去らない。そして日本の精神的な真の開国は、いつまでたってもやってこない。 それにしても新撰組の仕事の手抜かりが私には残念でならない。長州の人間をみな殺しにしておけば大日本帝国などというものはなかったかもしれないのだ。それから今思い出したことをもう一つ。維新に際して自称官軍に最後まで抵抗したのは幕府の海軍を率いた榎本武揚だが、彼が江戸を逃れて函館に作った国は日本史上最初の共和国であり、日本史上最初の公職の選挙はこのいわゆる蝦夷共和国で行われたのである。
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ワタンさま ()
2020-04-14 11:02:38
 貴重な論考の紹介ありがとうございました。いちぶ賛同できないところもありますが、おおむね賛成です。たしかに関曠野さんなら言いそうなことですね。しかし、それにしても過激な内容なので、活字にはできなかった講演会でのオフレコ発言などが記録されていたのでしょうか。
 出版されたらぜひ読んでくださるとうれしく存じます。「松平忠固+大奥vs徳川斉昭」の闘いを軸に描いて、どこに日本の誤りの根源があったのか明らかにしようとしています。男権主義者の斉昭と闘った忠固を支えていたのは、江戸城の女権、すなわち大奥であったことも明らかにしています。
 何卒よろしくお願いします。
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