NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」のオープニングの渡辺謙のナレーションを聞いていたら、その歴史認識のあまりの杜撰さ、歴然とした誤謬の数々に唖然とした。以下の動画は、司馬遼太郎の原作の一節をそのまま、NHKがオープニングとして採用したものだ。
これを聴くと、司馬遼太郎こそが「自虐史観」の持ち主であることがよく分かる。こんなウソをそのまま信じてナルシズムに浸っているネトウヨ諸氏や日本会議の皆さんも、同様に自虐史観で洗脳されているといえるだろう。司馬の自虐史観から、いまこそ日本人は脱却しなければならない
【FULL】坂の上の雲 オープニング
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている
小さなといえば、明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば、三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。
誰もが、「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家をつくろうというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国のひとつロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。
(1)誤謬1: 江戸時代の日本は小国ではない
「小さなといえば、明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。」
江戸時代の日本は小さな国ではない。アンガス・マディソンによる過去のGDPのの推計値によれば、江戸時代の文政年間の1820年の一人当たりGDPで、日本は669ドル(現在の貨幣価値)程度で、これは東欧・ロシアの686ドルとほとんど変わらない。西ヨーロッパが1200ドル程度だったから、それには及ばないものの、東欧・ロシアの水準にはあったわけで、人口の大きさも考えれば、ヨーロッパの中堅国家なみの国力があったのだ。
http://www.ggdc.net/maddison/maddison.htm
(2)誤謬2: 江戸時代から日本は庶民にまで人材が育っていた
「人材といえば、三百年の間、読書階級であった、旧士族しかなかった」
江戸時代の末の当時の日本は識字率で世界最高水準だった。藩校で教育された武士のみならず、多くの百姓も町人も寺子屋で学んでおり、読み書きソロバンはできたのだ。19世紀初頭の段階ではイギリスやフランスなどでも農村にいけば識字率は非常に低かったが、日本は農村でも識字率はそれなりに高かった。江戸末期に生きた赤松小三郎などは、武士よりもむしろ庶民の方に有意な人材が多いと述べている。
拙著の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)でも紹介したが、19世紀前半に日本の農村で百姓たちによって書かれた養蚕技術書が、日本が開国してからフランス語などに訳されて学ばれたくらいであった。江戸時代の日本の百姓は本を書き、それは養蚕のような分野ではヨーロッパよりも高い技術水準ですらあったのだ。
(3)誤謬3: 日本人は「国民」になったのではなく「臣民」になった
誰もが、「国民」になった。
日本人は明治維新によって「国民」になったのではなく、天皇の「臣民」になった。天孫降臨神話を真理とし、天皇を神の子孫とする虚構の物語を信じこむことを強制され、それを認めなければ不敬罪に問われた。一人ひとりの国民が国家をつくっていく国民国家になったのではなく、君主が支配する全体主義国家の中の歯車とされたのだ。大日本帝国は、王権神授説にもとづく前近代的な国家であり、近代的な立憲主義国家とは違う。ある種の宗教原理主義国家である。
(4)誤謬4: 絹の輸出で財政は余裕をもって成り立つはずであった。長薩が政権を取ったせいで、逆に財政は成り立たなくなった
「米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政の成り立つはずもない」
これも拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳述した。日本の絹は世界最高水準であり、ヨーロッパで飛ぶように売れた。その技術にフランスやイタリアなど絹生産国は瞠目した。
徳川政権は、絹糸の輸出によって得られた外貨収入と、輸入関税20%、輸出関税5%という条件で、潤沢な財政資金を得ることができ、順調に近代化しようとしていた。
小栗忠順の横浜造船所・製鉄所の建設に見られるように、まさに江戸の技術である絹の力によって、重工業も建設し、海軍力も獲得しようとしていた。
ところが長州藩が行った下関戦争のせいで、関税率は5%に引き下げられ、関税収入を失った結果、貿易赤字と財源不足に苦しむようになり、重工業の建設は遅れ、海軍建設は大幅に遅れたのである。薩長が政権をとったせいで、軍艦の国産化も大幅に遅れ、日露戦争時もイギリス製の軍艦に依存し続けるという、従属状態に追いやられたのだ。
つまり徳川政権の当初の条約であったら、財政は十分に成り立ち、海軍も手にしていたはずであるが、長州藩の行った国際テロとその後の下関戦争のせいで、財政は成り立たなくなったのだ。
(5)誤謬5: ロシアはヨーロッパにおけるもっとも古い大国などではない
「ヨーロッパにおけるもっとも古い大国のひとつロシアと対決」
ロシアはヨーロッパの古い大国などではない。もともとロシアは、アジア人に240年間支配され、ようやく独立して建国された新興国家である。そもそもロシアはモンゴル帝国によって1240年から1480年まで支配された、アジアの植民地だったのだ。もともとアジアの方が、ヨーロッパよりも軍事的にも経済的にも圧倒していたのだ。
日露戦争で日本が勝ったことが、アジア初の栄光であるかのように語る右派の歴史認識は、歴史に対する根本的な無知に根ざしている。
総じて司馬遼太郎は、江戸時代の日本はヒサンであり、明治維新という奇跡によって、栄光の道が始まったのだということを強調したいがために、史実からかけ離れた架空の物語を展開しているのである。
実際には、明治維新は、英国の東アジア戦略によって周到に仕組まれ、日本とロシアを対決させたいという外交方針をもつ英国に扇動されたクーデターである。それによって日本は、国家神道の原理主義者が政権を奪取し、しかも列強には従属的な、いびつな近代化を強いられ、1945年の亡国への道が敷かれたのである。
負け犬は歴史から退散してもらわなければならない。
これを聴くと、司馬遼太郎こそが「自虐史観」の持ち主であることがよく分かる。こんなウソをそのまま信じてナルシズムに浸っているネトウヨ諸氏や日本会議の皆さんも、同様に自虐史観で洗脳されているといえるだろう。司馬の自虐史観から、いまこそ日本人は脱却しなければならない
【FULL】坂の上の雲 オープニング
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている
小さなといえば、明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば、三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。
誰もが、「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家をつくろうというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国のひとつロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。
(1)誤謬1: 江戸時代の日本は小国ではない
「小さなといえば、明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。」
江戸時代の日本は小さな国ではない。アンガス・マディソンによる過去のGDPのの推計値によれば、江戸時代の文政年間の1820年の一人当たりGDPで、日本は669ドル(現在の貨幣価値)程度で、これは東欧・ロシアの686ドルとほとんど変わらない。西ヨーロッパが1200ドル程度だったから、それには及ばないものの、東欧・ロシアの水準にはあったわけで、人口の大きさも考えれば、ヨーロッパの中堅国家なみの国力があったのだ。
http://www.ggdc.net/maddison/maddison.htm
(2)誤謬2: 江戸時代から日本は庶民にまで人材が育っていた
「人材といえば、三百年の間、読書階級であった、旧士族しかなかった」
江戸時代の末の当時の日本は識字率で世界最高水準だった。藩校で教育された武士のみならず、多くの百姓も町人も寺子屋で学んでおり、読み書きソロバンはできたのだ。19世紀初頭の段階ではイギリスやフランスなどでも農村にいけば識字率は非常に低かったが、日本は農村でも識字率はそれなりに高かった。江戸末期に生きた赤松小三郎などは、武士よりもむしろ庶民の方に有意な人材が多いと述べている。
拙著の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)でも紹介したが、19世紀前半に日本の農村で百姓たちによって書かれた養蚕技術書が、日本が開国してからフランス語などに訳されて学ばれたくらいであった。江戸時代の日本の百姓は本を書き、それは養蚕のような分野ではヨーロッパよりも高い技術水準ですらあったのだ。
(3)誤謬3: 日本人は「国民」になったのではなく「臣民」になった
誰もが、「国民」になった。
日本人は明治維新によって「国民」になったのではなく、天皇の「臣民」になった。天孫降臨神話を真理とし、天皇を神の子孫とする虚構の物語を信じこむことを強制され、それを認めなければ不敬罪に問われた。一人ひとりの国民が国家をつくっていく国民国家になったのではなく、君主が支配する全体主義国家の中の歯車とされたのだ。大日本帝国は、王権神授説にもとづく前近代的な国家であり、近代的な立憲主義国家とは違う。ある種の宗教原理主義国家である。
(4)誤謬4: 絹の輸出で財政は余裕をもって成り立つはずであった。長薩が政権を取ったせいで、逆に財政は成り立たなくなった
「米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政の成り立つはずもない」
これも拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳述した。日本の絹は世界最高水準であり、ヨーロッパで飛ぶように売れた。その技術にフランスやイタリアなど絹生産国は瞠目した。
徳川政権は、絹糸の輸出によって得られた外貨収入と、輸入関税20%、輸出関税5%という条件で、潤沢な財政資金を得ることができ、順調に近代化しようとしていた。
小栗忠順の横浜造船所・製鉄所の建設に見られるように、まさに江戸の技術である絹の力によって、重工業も建設し、海軍力も獲得しようとしていた。
ところが長州藩が行った下関戦争のせいで、関税率は5%に引き下げられ、関税収入を失った結果、貿易赤字と財源不足に苦しむようになり、重工業の建設は遅れ、海軍建設は大幅に遅れたのである。薩長が政権をとったせいで、軍艦の国産化も大幅に遅れ、日露戦争時もイギリス製の軍艦に依存し続けるという、従属状態に追いやられたのだ。
つまり徳川政権の当初の条約であったら、財政は十分に成り立ち、海軍も手にしていたはずであるが、長州藩の行った国際テロとその後の下関戦争のせいで、財政は成り立たなくなったのだ。
(5)誤謬5: ロシアはヨーロッパにおけるもっとも古い大国などではない
「ヨーロッパにおけるもっとも古い大国のひとつロシアと対決」
ロシアはヨーロッパの古い大国などではない。もともとロシアは、アジア人に240年間支配され、ようやく独立して建国された新興国家である。そもそもロシアはモンゴル帝国によって1240年から1480年まで支配された、アジアの植民地だったのだ。もともとアジアの方が、ヨーロッパよりも軍事的にも経済的にも圧倒していたのだ。
日露戦争で日本が勝ったことが、アジア初の栄光であるかのように語る右派の歴史認識は、歴史に対する根本的な無知に根ざしている。
総じて司馬遼太郎は、江戸時代の日本はヒサンであり、明治維新という奇跡によって、栄光の道が始まったのだということを強調したいがために、史実からかけ離れた架空の物語を展開しているのである。
実際には、明治維新は、英国の東アジア戦略によって周到に仕組まれ、日本とロシアを対決させたいという外交方針をもつ英国に扇動されたクーデターである。それによって日本は、国家神道の原理主義者が政権を奪取し、しかも列強には従属的な、いびつな近代化を強いられ、1945年の亡国への道が敷かれたのである。
負け犬は歴史から退散してもらわなければならない。
数々の鋭いご指摘、まことにありがとうございました。なるほど! と膝を打ちました。
コメント欄に留めておくのがもったいなかったので、多くの人の目に触れるよう、新しい記事として独立させました。
Marx と Weber の日本的受容: 本に溺れたい
です。近代日本へのMarxとWeberの受容の推移を年表にしてあります。ご参考になれば、幸甚。
>司馬も丸山も、その「教団」を生み出す原点であった明治維新への幻想を、二人とも精算できずに、それを肯定する立場を堅持したのか
二つ要因があると思います。一つは、彼らの個人史の中で、大正時代とどのくらい被っているか、という点。もう一つはマルクス主義の影響です。
尾佐竹猛 1880 32歳-50歳 1946
大久保利謙 1900 12歳-30歳 1995
丸山真男 1914 2歳-16歳 1996
司馬遼太郎 1923 0歳-7歳 1996
上は、それぞれの生没年と1912年-1930年が何歳頃だったか、を計算したものです。
大正期(から昭和5年ロンドン軍縮会議まで)は、21世紀の現代日本人からみれば、Meiji Constitutionと一体のものと見做せますが、其の中に生きた人々にとっては、後年の満州事変以降の昭和時代より、かなりマシだった(良かった/自由だった)という思いが強かったようです。社会の雰囲気が軍縮(反軍)一色で、高級軍人が家族で外出する際、軍服で出ることが憚られ、私服で出かける雰囲気が濃厚だった。これも「空気」支配ではありますが。
この四人を比べますと、尾佐竹と大久保は、肌身で「明治」を知っていて、「大正」を客観視できましたが、丸山と司馬はともに、その知的揺籃期が「大正」そのものでした。そして彼らの青年期は昭和の暗黒時代です。その断絶、失望はかなり大きかったと推測できます。
またマルクス主義が大正期から昭和初年にかけて日本の知的世界を席巻したことも重要です。河上肇「貧乏物語」大正5年、高畠素之訳「資本論」第一巻大正9年です。丸山も指摘するように、「社会科学」という知的分析道具がマルクス主義に代表されていた時代です。ここから派生するのは「革命」幻想でしょう。尾佐竹かも大久保も知的保守主義者で「革命」幻想など微塵もないでしょうが、丸山は当然としても、司馬にしても実はちっとも保守主義ではなく、歴史的リセット主義者なのです。彼らにとっては、「革命」は「進歩」を可能にし、国家(と彼ら自身)を救済するもので、「大正少年」であった彼らにとり「維新革命」は「大正」というリアリティの起源であらざるを得なかった。これが、戦後「市民社会派/進歩派」の第一世代が悉く、「大正少年」であり、「保守」「革新」関係なく、「進歩」or 「革命」幻想だった知性史的な背景であると思います。
その点で、かえすがえすも疑問に思うことですが、司馬も丸山も、その「教団」を生み出す原点であった明治維新への幻想を、二人とも精算できずに、それを肯定する立場を堅持したのか、という点です。
あの二人が、明治維新を批判できていれば、今日のように日本会議が興隆をきわめることはなかったように思えます。
ちゃんと批判できていたのは尾佐竹猛や、意外にも大久保利通の孫の大久保利謙だったように思えます。大久保利謙は残念ながら、司馬や丸山ほどの影響力を持ち得なかった・・・・。
>この記事の引用箇所については、司馬本人が大真面目に「事実」と判断して書いていて、それが大間違いとなっている
>司馬の過ちというより、日本の明治維新研究の全体的な過りが、この一文に凝集されている
御意。
ただ、司馬の個人史をみますと、学徒出陣と帝国陸軍戦車隊の経験が、「司馬史観」の確信的モチベーションになっているようです。これは丸山真男の陸軍内務班体験と同じ個人史です。陸軍用語で、一般社会のことを「地方(=俗世間)」と呼称することとも通底するでしょう。旧帝国陸海軍は、軍事合理性原理で構築されておらず、いわば「教団 sekte」です。その洗脳 (mind control) 過程が、内務班初年兵体験です。
この悪夢を払拭することが、司馬の「維新/明治礼讃史観」、丸山の「自虐史観」の根底にあります。丸山にはそれに加えて、広島での被爆体験も重なるのでしょう。司馬は「福田定一」として砕け散った青春と誇りを取り戻すために、丸山は日本政治思想史研究者として、人間としての「尊厳」を回復するために。
戦後、丸山は学会出張などの海外渡航の際、航空機の車輪が羽田の滑走路を離れる度に「ざまあみろ」と心で快哉を叫んだ、と漏らしています。丸山にとってのフィジカルな軍隊経験の凄まじさが伝わってきますし、自分が生れた時に、あの「教団=狂団」が殲滅していて良かったと心から思います。
「福田定一」と丸山真男の個人的な絶望と怒りには同情を禁じえない部分はあります。そのうえに、二人の歪んだ影響力が大きすぎたことは二重の不幸でした。
旧帝国陸海軍大好きな現代の叔父さん叔母さんには、一度タイムマシンに乗って、入営してもらいたいものです。
>fictionと意見と事実を、意図的に区別せず自作の歴史小説に忍び込ませていることです。
この記事の引用箇所については、司馬本人が大真面目に「事実」と判断して書いていて、それが大間違いとなっていると思われます。
もっとも日本の戦後の明治維新研究そのものが、江戸をディスって、明治維新が「偉大」であると虚偽を交えて伝え、日本人を誤ったナルシズムに浸らせてきたので、司馬の過ちというより、日本の明治維新研究の全体的な過りが、この一文に凝集されているようにも思えます。
私は「京大」系知識人の文人気質は嫌いではないですが、そういう品性お下劣な司馬遼太郎を、京大人文研系の桑原武夫らが知的サークルに加えて、持ち上げているのが非常に鬱陶しいことこの上ありません。
上記、URLは、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』に書かれている、勝の渡米中の「船酔い」事件と、太平洋のど真ん中での「日本にかえるぅ」事件の顛末、福澤の業務上横領の記述、です。こちらのコメント欄には二度目かも知れませんが、より広く世間に知られて欲しいので、また書いてしまいました。お目汚しで恐縮です。
ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。もちろん、お説に同意です。今後ともご指導のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
marsさま
コメントありがとうございます。
>「歴史認識」って言葉自体が「主人公サイドから見た歴史観」なので自虐とか関係ない
「自虐史観」という言葉、司馬を擁護する「新しい歴史教科書をつくる会」の人びとが、それまでの歴史教科書に対して投げかけた言葉です。彼らが使った言葉を、そのまま彼らに返したのがこの投稿の趣旨です。
もちろん普通の方々は、そういう言葉の使い方を嫌うでしょう。普通の感性を持った方々に対しては、すいません。
>司馬さんのは「三国志演義」と同様「歴史ファンタジー」として読むべき
この文章は、そう心得て読んで下さっている賢明な読者の方々に向けて書いたものではありません。ファンタジーを読んで史実と勘違いしてナルシズムに浸っている方々に向けて書いております。
>複数主人公からの別視点で同じ事件をなぞる必要が有ります。
いままで日本史が長州・薩摩側の視点に偏りすぎていました。逆サイドの視点の作品で、偏りを中和する必要がありますね。近年は、その逆サイドの視点が噴出するようになった歴史的変化の時代を迎えていると思います。
今後ともよろしくお願いします。
司馬さんのは「三国志演義」と同様「歴史ファンタジー」として読むべきでその他の「ノンフィクション作家」の作品群もアラマタ程度に見るべきです。
一時期から「ルポルタージュ」作家から「ノンフィクション」作家に転向する人が増えたのは「派手に尾鰭を付けた」方が読者ウケがいいからだと思います。
沖田総司が美少女剣士とか岩倉具視が宇宙人とか坂本龍馬が未来遡行者とかそんなレベル。
日本会議とかの人ってブヒるつもりで買った薄い本でオシの扱いが悪いかったらキレる人と同じだと思います。
「史観」とか「歴史認識」を排除するなら複数主人公からの別視点で同じ事件をなぞる必要が有ります。ゲームの脚本ならともかく歴史小説なら読者が面食らいませんかね。
ありがとうございます。みごとなご指摘の連続に快哉をあげました。ひょっとしたら、文政年間の一人当たりGDPの方がアベ治世の結果としての現在日本の一人当たりGDPより世界順位が上に来るのではないかと驚きました。
英国の対ユーラシア囲い込み戦略の前線拠点とするための日本の間接植民地化クーデターとしての明治維新の本質を最後に剔抉なさったことに息を呑みます。なるほど、英国がアヘン戦争・アロー戦争で植民地とすることができなかった中国本土に対して、走狗明治政府に日清戦争をやらせ、さらに戦前昭和政府に中国本土侵略三光作戦と、アヘン戦争・アロー戦争を代理継続させたわけですね。ロシアのアジア進出を食い止めるための日露戦争を挟んで。
案の定、大陸中国で泥沼状態に陥り、ヒトラーの対英勝利をあてこんでアジアの英国利権を獲りに南進したファシスト国家日本を英国のマリオネット米国に叩きのめさせて、間接植民地化どころか直接占領統治に持ち込んだわけです。以降現在まで、在日米軍とCIAが幕裏の統治者である植民地日本が続いています。
関さんに拠って司馬遼太郎の言葉を正確にして、明るい臣民の明治という言い方は、関曠野氏が指摘した明治期支配者の唯一の思想であった出世主義原理の言い換えであること、それが明治維新神話の本質であることをあらためて認識しました。
利権と結びつく出世主義原理はとくに現下のアベ統治によって露骨となった現在にそのまま引き継がれています。かってのコンゴ、モブツ王国をモデルにするかのようなパトロン・クライアント制による国家、自治体を含む公の私物化となって。
SARSーCoVー2ストレスによる甚大な疲弊が経済的社会的腐敗劣化による苦しみに重なる人びとに対して、アベ的統治と一体になったNHKの思惑どおり明治維新神話がアヘン由来のモルヒネとして鎮痛作用を持つのかどうか、判断力が鈍麻しているのではないでしょうか。
関曠野氏は明治政府は民衆を植民地住民のように扱ったと言っていましたが、関さんのご奮闘によって、日本の国民と言われる人たちがやがて、自分たちが体の良い、しかし惨めな、植民地奴隷であることを明確に自覚するであろうと心から期待します。
>司馬をまったく評価できないわけではないのですが……。
いまでも幕末モノというと司馬のものが圧倒的に人気ですので困ったものですね。新たな感性をもった気鋭の作家に、司馬史観を塗り替えてくれす作品を発表していって欲しいものです。大久保さんも、もしよろしければ挑戦してみてください。
演劇の方は、原作が江宮隆之さんの小説だったらたぶん大丈夫と思います。江宮さんの小説は赤松小三郎を主人公にしたはじめての小説です。私もブログに書評書いており、その本に勇気づけられ、私も赤松小三郎の本を書くことができたように思えます。いまその小説は絶版で、古書市場でしか手に入らないです。古書市場では、けっこう高値になっているのではないでしょうか。
書評は以下です。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/57b9472388c8c0855577d4ca6e464042
その意味では歓迎すべきだと私も思いますが、単純に新撰組(も含めた東軍)ファンとしては「また司馬の作り出した新撰組の間違ったイメージが再生産されてしまうのではないか」という不安もあります。
それまで悪役でしかなかった新撰組を主役に据え、知名度の上昇に大きく貢献した、という意味では、司馬をまったく評価できないわけではないのですが……。
演劇のほうはというと、江宮隆之氏の小説、「龍馬の影 悲劇の志士・赤松小三郎」を原作としているようです。
私はこの小説を読んだことはないのですが、やはり明治維新を称賛しつつ、赤松をその貢献者として扱った作品なのでしょうか?
司馬遼太郎のいわゆる幕末長編物は、長州が舞台のものが多く(『花神』『世に棲む日日』『十一番目の志士』)、司馬が長州史観と思われるゆえんです。『坂の上の雲』や『竜馬がゆく』もなんだかんだ長州史観の著作です。
その中で、『燃えよ剣』や『峠』などは反薩長側に焦点をあてているので、司馬の著作の中では異端の側のものと思います。
同じ司馬作品でも、西軍ではなく東軍側を描いた著作が映像化されるのは、少なくとも時代の変化を反映していると思いますので、歓迎すべき現象のようにも思えます。
「維新の彗星赤松小三郎」は、どんな脚本なのか詳細は知りません。タイトルからは、赤松小三郎が維新に貢献したというストーリーのように思え、それだとちょっと違和感があり、赤松本人も浮かばれないように思えます。「維新」の残虐さ、過ちの根源を炙り出すようなストーリーにだとよいのですが・・・。
これでは、司馬史観からの脱却など到底望めそうもありません。
もっとも、「燃えよ剣」の新撰組は最近の研究に基づき、浅葱色のダンダラ羽織ではなく黒い服を着て活躍するようなので、史実の土方歳三や河井継之助を尊重し、原作を大胆に脚色してくる可能性もありますが……。
一方で、関先生は既にご存知かもしれませんが、「維新の彗星 ~信州の偉人 赤松 小三郎~」という赤松小三郎を主人公とした舞台演劇が、信州の三ヶ所で上演されるそうです。
全国ロードショーの映画に比べると、規模では相当劣るものの、赤松がこれまで尽く無視されてきたことを思えば、これは大きな一歩と言えるのではないでしょうか。