代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

対話(dialogue)と弁証法(dialectic)について

2009年10月01日 | 教育
 しばらく管理者が不在にしており(中国の内モンゴルの沙漠で調査していたので、インターネットへのアクセス不可でした)。その間、コメント欄とトラックバック欄を閉鎖させていただいておりました。本日から再開します。

 これまで管理者不在の折も、常時コメントもトラックバックも自由に開放していたのですが、この間、まことに残念なことに、このブログのコメント欄に、他人の個人情報を書き連ねて、汚らしく個人攻撃をされる書き込みが続きました。いろいろと考えましたが、ちょっと見るに堪えられない内容でしたので、削除させていただきました。留守中にもそうした個人攻撃の書き込みが繰り返される可能性があったので、やむを得ない処置でした。本日からまたコメントもTBも開放します。
 
 コメントの議論の内容とは無関係なところで、ネット上の匿名ブロガーの個人情報をあげつらねて、個人攻撃をされるような書き込みでした。管理者本人への攻撃は私が対応できますが、このブログのコメント欄の一般参加者に対する誹謗中傷の類は、ブログ管理者の責任で削除させていただきます。もちろん、コメントの内容に対する批判などはどんどんしてください。
 ネットにおけるバーチャル上の人格は、あくまでバーチャルなものです。そのブロガー個人がどうであろうとどうでも良いことです。ネットの魅力の一つは、バーチャル上で、普段とは違う人格を設定し、違う自分として活動できることでしょう。(私の場合、実名ブログなので、本来の自分とネット上の自分の人格は同じですが・・・・)

 このブログのコメント欄の書き込みは、特定個人を傷つけない範囲と限定させていただきます。もちろん、政治家や官僚や御用学者やマスコミなど、公的な権力を行使して、私たちの生活に悪影響を及ぼす社会的アクターに関しては、この限りではありません。

 対話・討論(dialogue)は、弁証法的(dialectical)でないと面白くありません。スペルを見て分かる通り、弁証法とは、対話の派生概念です。対話の醍醐味は、それを通して生じる認識のアウフヘーベンにあります。
 開かれた心で対話を繰り返していると、自然と、テーゼ(自分の初期認識)→アンチテーゼ(相手の発する異なる認識の対峙)→アウフヘーベン(止揚)→ジンテーゼ(両者の矛盾点を統合した新しい認識)という、認識の非線形な生成が起こります。私がコメント欄を常時開放し、議論を楽しんでいるのも、こうした認識のアウフヘーベンのプロセスが大好きだからなのです。
 
 対話とは、弁証法的な認識の発展、発明・発見といった知的生産、ひいては社会の発展を促すためにこそ、必要不可欠な人間的営みだといえるでしょう。

 私が常々、「日本人はこの本を読むべきだ」と思っている本があります。量子力学を創設し、不確定性原理の発見者として知られるウェルナー・ハイゼンベルクの著作である『部分と全体 -私の生涯の偉大な出会いと対話-』(山崎和夫訳、みすず書房)です。表題のとおり、この本はハイゼンベルクの知的生産と世界観の構築の背後にある、生涯に行ってきた数々の対話を記録したものです。

 ドイツ人のハイゼンベルクは若い頃、ニールス・ボーアの作ったコペンハーゲン理論物理学研究所に留学し、そこで量子力学を構築していきます。そこでハイゼンベルクは、ボーア、パウリ、ディラックなどとともに、朝から晩まで討論三昧の生活を送るのです。そうした対話を経て、古典物理学の従来の常識をラディカルに打ち破ることになる、量子力学の世界観が構築されていきました。
 『部分と全体』の序文で、ハイゼンベルクはこう書いています。

 「自然科学は実験に基づくもので、それにたずさわってきた人々は、実験の意味することについて熟慮を重ね、互いに討論しあうことによって成果に到達していくのです。この本を通じて、科学は討論の中から生まれるものであるということを、はっきりさせたいと望んでいます」

 
 「科学は討論の中から生まれる」。弁証法的な討論空間があれば、科学的発見・知的生産活動は自ずから進みます。日本の文科省はこの点がまったく分かっていません。

 私は大学教養課程の頃に『部分と全体』を読んで、深い感動を覚える同時に、「ああ、羨ましいなあ。何で日本はこうじゃないのだろう」と深く嘆息したものでした。だって、悲しむべきことに、日本で「討論」と呼ばれているものは、実際のところは弁証法的でないものが圧倒的多数だからです。

 日本における発明・発見、新理論の構築が、その潜在能力の割に少ないように見えるのは、ひとえに日本における弁証法的空間の少なさに起因するように思えます。日本に、もう少し弁証法的空間があればブレークスルーも発生しやすく、ここまで閉塞状況の中で苦しむこともなかったのではないかと思います。

 日本では、大学や研究機関なんかでも、人と自由闊達に議論するのを楽しむことよりも、一人机に向ってもくもくと勤勉に課題に取り組むことが求められます。それではデータや情報はいくら積み重なっても、問題の解決のためのブレークスルーにはつながらないのです。

 重箱の隅をつつくように瑣末な部分で揚げ足とったり、論理的に回答するのではなく頭ごなしに罵倒したり、そもそも相手の意見を十分に聞かないまま自分の主張だけを押しつたり恫喝したりといった態度は、弁証法的な認識の発展がのぞめないので、対話とは言えません。たとえば、朝ナマなどで田原総一朗氏がやっているのが、まさにこれ。あの態度を見て不快に思う方々は多いでしょう。あの姿を反面教師といたしましょう。

 驚くべきことに、大学や研究機関など、知的生産活動が行われなければならない場所において、こうした非弁証法的な、揚げ足とりや罵倒や押し付けが公然と行われています。これじゃ、アウフヘーベンなんて起こらないのです。

 日本では学会においても、「その表の計算が間違っているぞ」などという些細なミスが問題とされ、それでその研究価値を否定しようとするような議論が平気で行われます。まさに「重箱の隅」です。
 欧米の学会では、そんな瑣末な点は、議論の対象にはなりません。そんなの気づいた人が後でこっそりと教えればよいことであって、学会の質疑応答という貴重な時間は、その研究者の提示した主要な命題の是非について、本質的な議論が展開されるのです。

 ネットの中だって、なかなか弁証法的な対話といえるものが行われている掲示板やブログは少ないように思えます。揚げ足をとったり、罵倒や恫喝で自分の意見を押しつけるだけの、対話の意志ナシのコメントが大多数です。あるいはその逆で礼賛するだけとか。日本の討論空間の非弁証法的な性格を如実に反映しています。

 有名ブロガーの中には、信者が礼賛するだけのコメントを残して、批判的なコメントなどすべて排除しちゃう人もいます。 たとえば池田信夫さんという憐れな市場原理主義オジサンとか・・・・。ああいう、他人を罵倒するだけで、まともな討論ができない人が、知識人面して威張っているところに、日本の知的貧困が象徴されているように思えます。

 このブログはあくまで、議論を通して、アウフヘーベンを引き起こし、未来のための積極的な代替案を提示する場として機能させたいと思います。そういう志向性をもった皆様のコメントを期待しております。対話は楽しくいたしましょう。

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